第31話 天使と悪魔
のまえが現在の人格に落ち着く以前……、一々江の肉体には、本来ののまえの人格から分裂した、二つの精神が同居していた。本来の主人格である、弱気な少女のまえ。そして彼女を守るため生じた、のまえの押し殺した欲求や衝動が形を持った姿、ニノマエである。
一号の細胞を取り込んだことから分かれた二つの精神は数年の間均衡を保っていたが、雪の救済によって統合という形で解消したはずだった。
そのニノマエが、今一度戦場に降臨していた。
「期限付きとはいえ……、完全に『ニノマエ』の状態になるのは久しいね。でも雪君と闘うなら、……彼を傷つける覚悟を持つためには、弱さや迷いは払拭しておくべきだ……。そうだろう? 煙草森ちゃん」
「私が言うのもなんだけど……、性格違い過ぎじゃない?」
一々江の人格からニノマエの性質を抽出し、一時的に彼女の人格を再構築した鳰が言う。
「そうかな? いつもの一々江の中にも『ニノマエ』はかなり混じってるんだけど……。まあ、話しぶりは一号に引っ張られてるかな」
のまえは視線を雪の方に戻して続ける。「さて、お喋りもしていられない。7号君、君の能力なら、この状況を解決することも……、できるかな?」
「……多分ね。ただ相手の心理に干渉するためには、触れないまでも相当近づく必要がある。それに干渉できたとして、暴れてる人間の脳を無理やりいじくるわけだから……、絶対成功するとも言えないよ。正直、分の悪い賭け」
「オーケー、じゃあ私が盾になろう。大丈夫、成功する可能性があるのなら……、この賭けには必ず勝てる」
「なんでそんなこと言えるのさ?」
ニノマエの後ろに隠れながら、煙草森が問う。「私の前では」ニノマエが氷の地面に踏み出す。「1%も、100%なんだ」
爆炎のカーテンを雪が放つ。温度差で気流が生じ、ニノマエと煙草森を裂けて炎が流れていく。「彼の次の攻撃が読めるかい?」
「……だめ、思考がぐちゃぐちゃすぎて読み取れない。というよりあいつ、計算して動いてない。本能的に攻撃を放ってる……。深層心理まで潜るには、もう少し近づかないと!」
煙草森が叫び返す。「了解……!」ニノマエがじりじりと歩を進める。
炎が効かないと分かると、すぐさま雪は翼に電流を溜め始めた。跡星の磁力付与を加え、避雷針のようにニノマエに電撃を誘導する。
その刹那、付近の破損した大聖堂のコンピュータたちが強力な電磁波を発した。雪の放った雷撃はより強い電磁波に引き付けられ方向を変えた。
一歩また一歩とニノマエが距離を詰める。雪が退かないのは彼女たちを危険と見なしていないからだ。ニノマエは防御に徹し、戦意を煙草森が巧妙に隠している。雪は二人から危険を感じ取ることができない。機動力のある雪が一度逃げ出せば振り出しに戻ってしまう距離を、二人は連帯して埋めている。そこに圧倒的な戦力差があったからこそ、寿の悪魔は退くという選択肢を選びえないでいた。
雪が野生の咆哮を上げる。空気中を振動が伝わって、頭上にぶら下がっていた瓦礫たちが一斉に落ちてくる。
「⁉」のまえの頬をすれすれに破片が掠めて傷をつける。当たらないはずの攻撃が当たりだした。
「まずい……。雪君も確率に干渉し始めた! もう時間もない、一気に行くぞ!」
ニノマエが一気呵成に走り出す。直線の一本道、雪も避けようのない一撃を手ずから加えようと氷の槍をその手に纏う。振りかざした氷槍を、狙撃のように鉄芯の棒が打ち砕いた。「??」雪が狙撃の方向を見上げる。地下二階奥のフロアから、副局長の木葉下が磁力操作で鉄柱を飛ばしていた。
「ナイスアシスト、副局長さん……。雪君、年貢の納め時だ!」
駆けつけたニノマエが抱き着く。雪の注意が分散する。振りほどく姿勢で雪は後ろ手にニノマエを掴む。
煙草森が雪の額に手をかざした。
「張り切りすぎたね雪……。……あんたも少し休みな」
強い脳波の衝撃が、雪の脳に直撃する。
「……あ……」濁った瞳がぐらりと揺れる。
焦点の定まらない眼に光が宿り、髪の色が金から白に戻っていく。背中に燃える炎の翼は絶え、天輪は砕け氷の尾も水に溶けだした。
「……に、の……まえ?」
力なく身を預けた先の少女の名前を、雪が呟く。
「ふふ、そうやってすぐに気付いてくれるところ、好きだよ」
ニノマエは雪の背中を肩越しに小さく叩きながら、微笑んだ。
雪の疲れた目が煙草森とぶつかる。「煙草森……」ふらつく足でどうにか立ち直りながら、雪は悄然として廃墟と化したあたりを見渡した。
「これ……、僕がやったのか? 僕が全部……」
はっとして雪は振り返る。「雨乞!!」
倒れた雨乞の体の下には既に大きな血だまりができていた。駆け寄ろうとした雪の前に、残間と阿舎利が飛び降りてきて立ち塞がる。残間の背から、負ぶられた邇凝博士が顔を出す。
「残間……」
残間愛は雪に背を向けてしゃがみ込み雨乞の容態を確認した。
「こりゃ酷い、片方の肺が潰れてる……。だが、かろうじてまだ息はあるな。阿舎利、お前の能力で止血しろ。心臓は俺が動かし続ける」
「ふえ、簡単に言ってるようで、けっこう難しいんですけど……」
弱音をこぼしながらも傷口に手を添える。残間はぐったりとした雨乞の体を担ぎ上げて振り返り、雪をじろりと見下ろした。「無様だな、12号」
「なっ……」
「どんな気分だ? 守るための力で、大事なもんを傷つけた後ってのは」
残間が冷たく現実を突きつける。「今のお前にうちの班長は任せられねえよ。こいつはもうしばらくエデンが預かっとくぜ」
残間が踵を返す。
「あ……、それではまた……。真白君……」
阿舎利が遠慮がちに雪と目を合わす。旋風が起こりエデンの三人を包み隠した。旋風が立ち去るころ、既に三人は風に紛れて姿を消していた。




