第1話 秋日
天窓から秋の日差しが暖かく降り注ぐ。公安警察治安維持局・通称「伏魔殿」の宿舎エリアのラウンジに見と並び座った雪は、砂糖を運ぶ蟻の行列のように連なった学生たちの群れを、ぼんやりと見るともなしに眺めていた。
秋の一日は夏の残り香を止めてまだほのかに柔らかかった。見覚えのない顔の女学生たちがぞろぞろと女子寮へ流れていくので、雪は首を傾げた。
「寄宿舎に住んでる隊員、こんなに多かったですか?」
見は時計型端末の液晶画面から目を上げた。女子寮への渡り廊下からこちらへやってくる後原未の姿が見えた。
「悪童隊、新規メンバーの入寮日じゃなかった? ほら、後原ちゃん、四国の後輩たち連れてくるって」
「ああ、〈Λ(ラムダ)〉の……。……思ったより多いですね。悪童隊もすっかり大所帯だ」
「しかしこう人数が多いと、あのジンクスも破れちゃったかな? ほら、寄宿舎に入寮する学生隊員は訳アリ組っていう」
「面白そうな話してんなぁ」
後原がソファの前に顔を出した。「それならアタシも訳アリってことになるか?」
短く切ったウェーブのかかった髪、根元の黒い金髪は前髪が潔くざっくりと切られ、溌溂とした黒い目がこちらを覗いている。
「やあ後原ちゃん。四国で随分活躍したみたいだね」
「正確には、中国もな。驚いたろ、瀬戸内にいたころあたしが束ねてたグループだ。肉体改造手術も既に済ませてある。即戦力だぜ」
「入寮者だけでも200名は下らないな。大した人数だ、複数のグループの連合だろ。向こうにいたのは半年くらいだって聞いたけど、その期間でこれだけの勢力を集めたのか?」
後原は雪の高校で昨年まで頭を張っていた三年生だ。二年の五頭と馬飼に頭を譲って瀬戸内の学校に転校していたが、休学を挟んで夏前に戻ってきたのだった。悪童隊に加入し、自ら戦力となる傍ら、四国と中国地方で勢力下に収めていた諸グループを引っ張ってきて伏魔殿の戦力増強に貢献していた。
大した指揮力とバイタリティだ、と雪は舌を巻いた。悪童隊は雪と連携した戦闘部隊だが、代表は五頭と馬飼の二人だ。エージェントとして、単騎での戦闘力なら雪の右に出る者はいないが、チームを束ねる組織力となると、後原や牛頭馬頭の方がよっぽど上手だった。
「まーいろいろと支援もあってな。早めに唾つけといたのは正解だった。私がまとめてなかったら、あいつらも多分エデンに吸収されてたろうしな。狂花帯手術は、成人前の若い肉体の方が成功率が高い。遺伝子の可塑性が高いみたいだな。だから『蠅の王』はじめエデンの連中は、意気の良い全国の若い連中を搔き集めてる」
「蠅の王」……。かつての級友、祁答院伊舎那の顔を思い出して、雪は顔を曇らせた。見が肯く。
「局長と葎先生は胃が痛いだろうね。あの二人、子供を戦いに巻き込むのに反対だから」
「そうも言ってらんないんだろ。こういう状況だからな……、手をこまねいてりゃ、エデンが青田刈りを始めちまう。私は正解だったと思うぜ、公安が正式に、18歳未満の積極採用に乗り出したのは」
「幣原公安部長が押し切ったんだろう。局長も組織の人間だ、上からの圧力には逆らえないよ」
雪が呟くと、二人がしんと黙った。雪は顔を上げた。意外そうな目で見たちがこちらを見ていた。
「……何か?」
「いや、雪君が局長の擁護するの、珍しいなって」
見がぱちくりと瞬きする。仲直りした? と目で問いかけてくる。局長の注連野紫は雪の育ての母親だ。
「ちっ……がいますよ。僕はただ組織人としてのですね、客観的な見解を述べたまでです」
「はっ、こりゃ雪と注連野局長の『不仲説』も存外眉唾モンかもなァ」
後原がにやにやと笑って見下ろす。
「あのねぇ……」
雪は不機嫌そうに口をへの字に曲げた。
ふと見の腕時計が振動する。「あ、葎先生から連絡だ」
〇
「……おかしいわね」
ラボの保冷庫の扉の前に立って、苦竹葎は腕を組んだ。ここ最近、試料用に採集した雪の血液サンプルが不足している。
頭数はあっているのだが、一つ一つの採取量が規定値より微妙に少ないのだ。ひどいものだとパックに引かれている目安線の半分程度しか溜められていない。
雪の採血の担当は見だ。だが、見がこういう雑な仕事をするとは思えない。となると、伝達ミスがあったのか。しかしここ数か月の間に、サンプル回収にあたって変更の指示を出した覚えはない……。
葎は首を捻る。
何はともあれ、雪たち狂花帯持ちの遺伝物質はリスキーなものだ。扱いには細心の注意を払わなければならない。狂花帯因子は伝播する。一般人でも、〈12人〉の細胞を取り込むことで能力が開花するケースがあった。跡星や馬飼をはじめとする『贋作』がその産物だ。一般的には〈12人〉や他の『贋作』の狂花帯細胞を移植するが、のまえのように、能力者の細胞や体液を直接摂取してしまったことで力に目覚めるケースもある。それゆえ、彼らの細胞は厳重に管理されなければならないのだ。実際夏の折、雪を助けるために彼の輸血パックを無断で持ち出した袈裟丸には、厳重注意が下されていたわけで……。
冷気が逃げる前に、保冷庫を閉める。念のためにラボの監視カメラのチェック……、その前に見に心当たりを聞くか。考えながら葎は机の上に三つ折りになった書類が置きっぱなしになっているのに気付いた。見の定期検査記録である。今朝がた渡したものだ。
一応、人に見られるとまずいものである。やはり見の不注意か? 近頃助手として仕事をさせすぎたのかもしれない。葎は書類を手に取ると見にメッセージを送った。
『あなた検査記録置き忘れてない? 部屋だったら届けに行くわよ』
既読が付いてすぐに返信が来る。
『すみません、放置してました! 今ロビーにいるので伺います』
「そこにいてくれて良いわよ、っと……」
伏魔殿は私大のキャンパスくらいの広さがある。わざわざ来てもらうには少し遠い。葎は打ち返して宿舎棟へと向かった。
ロビーについてみると見の姿が無い。引っ越し作業にいそしんでいる〈Λ〉の女子隊員たちがうろついているだけだ。
部屋に居たら届けると連絡したので、自室で待機することにしたのだろうか。逆はともかく、男子寮に女性が入るのは特段禁止されていない。実際袈裟丸などよく遊びに行っているようだし、葎が尋ねても問題ないだろう。葎は見の部屋をノックした。
扉の前で待ってみるが反応はない。もう一度今度はチャイムを押し待機する。やはり応答はなかった。駄目元でノブを捻ってみると、鍵はかかっていなかった。声をかけ少しだけ開けてみる。
「見君……?」
部屋の中はしんとしている。中を覗くと誰もいない。日当たりが良いからか日中にもかかわらずカーテンが引かれていて中は薄暗い。
行き違いだったか。ラボの方に向かわせてしまったようだ。メッセージを確認すると連絡が来ている。
『ごめんなさい、部屋の前まで来ちゃったわ』返信する。
『鍵、開いてるので、放り込んでくれても大丈夫です!』
さすがに放り込んでいいものか? とも思ったが、勝手に中まで入るのは悪い気がしたので、葎は机に向かって封筒をスローした。
「ほっ」
横向きにアーチを描いた長形封筒は綺麗に机上に滑り込んで、机の上に伏せられた写真立てを叩き落した。
「うわぁ、ごめんなさい」葎は靴を脱いで、遠慮がちに部屋に入った。
生活感はあったが、適度に整然と片付けられていた。見た目とは裏腹に……、というべきか、女の子らしいファンシーな装いは特に感じられない。年相応の高校生男子らしい部屋だ。多分フレグランスなど使っていないのだろう、微かにそのままの見の匂いがして、少し落ち着かない。
葎はカーペットの上に落ちた写真立てを拾い上げ、白衣の袖で埃を払った。といっても絨毯の上は綺麗に掃除されていて、特に汚れてはいなかった。
皹など入っていないだろうか、葎はガラスの面を覗く。
朗らかな優しい笑顔を見せる、一人の少女と目が合う。見君? 一瞬女の子の姿をする助手の姿がダブって見えたが、よく見るとそれは別人だった。
それなりに近い距離で撮影された写真。高校生……、いや、中学生くらいだろうか、制服に身を包み、灰色の長髪に見と同じようなラインの赤のメッシュが入っている。長身で見と同じく目を惹く美少女だ。だが見より幾分女性的な体つきで、口元など顔立ちも少しずつ違った。
誰だろう、それは分からないが……、他に写真は無かった。机の上に飾られている写真はこれ一枚だった。そのことが妙に葎の胸をざわつかせた。
「葎先生?」
入口から声がかかり、葎は小さく飛び上がる。「すみません、こんなとこまで足を運ばせてしまって。通知見る前にラボの方に……」
見の目が葎の手元に移る。写真立ての存在を見止めて、見は言葉を途切らせた。
「あの、ごめんなさい見君……。見るつもりはなかったんだけど、その……」
葎もまた言葉を切った。見の切ない顔を見て口を噤んだ。そこには寂しさと、普段温厚な見が見せない、微かな怒気のようなものがあった。見のそんな表情は、4年の付き合いの中で一度も見たことが無かった。触れてはいけない傷に触れてしまったのだ。葎はそう直感した。だから無言で近づいてきた見が伸ばした手に、葎は思わず半歩たじろいだ。と、カーペットが滑りバランスを崩す。
「! 葎先生……」
見の伸ばした袖が反射的に掴まれ、見ごと倒れ込む。ベッドが軋む。気づけば仰向けに倒れた葎の体の上に、見が覆いかぶさる形になっていた。
指通りの良い見の青い髪が葎の額にかかる。ベッドから、そして目の前の見から、少し汗の混じった見の匂いがした。驚いた表情の見と目が合った。
多分、気が動顛したせいだ。
葎はそう考えた。一瞬の間、視線が合う。少しだけ、規則正しい脈のリズムが乱れていた。
「……あの……見、くん」
答えるように見の腕が動く。葎は思わず身を固める……が、見の手はそのまま葎の握った写真立てに向かった。
「……すみません、先生」ベッドを軋ませ、見は沈んだ声で立ち上がった。葎に背を向け、テーブルの上に写真立てを置きなおす。「どこか打ったりしてないですか? ここ、絨毯滑りやすくて」
「あ……、う、うん。大丈夫。私こそ巻き込んじゃってごめん……」
葎は毒気を抜かれた表情で身を起こした。少しほっとした思いがあった。
「良いですよ。僕こそ体幹鍛えなきゃダメですね。雪くんを見習わなきゃ」
見はいつもの調子で笑った。後ろ手にそっと写真立てを伏せる。この場にいてほしくないような空気を感じた。慌てて立ち上がる。「……それじゃ……、用も済んだし、戻るわね」
部屋を抜け、宿舎棟の外に出たところで葎は息を吐き出した。
柄にもなく、少し……、余裕を失った。
手の平で額の端を押さえた。……しっかりしなければいけない。自分はあの子を導く立場なのだ。
葎はぐっと表情に力を入れなおした。……それにしても。ふと疑問が過る。あの写真立て……、最初から伏せられていなかったかしら。
腕時計が振動する。葎は通信が聴こえるよう掌を耳に当てた。
「葎か」紫の声がする。「すぐ局長室まで来てくれ。例の件の確認がとれた。……確定だよ、煙草森鳰(7号)が死んだ」