第26話 一握の砂
餘目止朗は、逃げ惑うオペレーターたちを狩り進めながら第二通信室に辿り着いた。
むっと鼻につく香水のような匂いはまだ残っていたが、入り口の扉が解放されたことで安虎の香力は鎮静化していた。それでも中では相当滅茶苦茶な騒ぎだったようで、暴徒化した仲間に冒涜された者や抵抗にあって怪我をした者たちが、あられもない姿で転がっていた。
まったく、惨い真似をする……。餘目は安虎の所業に顔をしかめた。
「餘目上官、いかがされますか」
部下が指示を仰ぐ。小班の者たちが後に続いている。
「……我々の任務は殲滅です。まだ息のある者は殺してください」
銃声が無慈悲に鳴り響く中を、餘目は進んでいった。
ふと机の下で震えている一人の少女を見つけた。目前には大の大人が血を流し倒れており、少女の手にはハサミが握られていた。おや、と思った。その少女には見覚えがあった。たしか……、真白雪の義理の妹だったはずだ。名前は染袈裟丸といったか。
男は既に絶命していた。餘目は膝を抱え肩を震わす少女を見おろす。可哀相に、襲われてやむなく抵抗したのだろう。己の貞操は守ったようだが、人殺しの罪を犯してしまった……。非戦闘員の少女には、重すぎる業だ。自分も、初めて人を手にかけた日の夜は、眠れなかった。よく分かる。それにそうでなくともこの部屋の阿鼻叫喚、10代の少女には、きっと強いショックを与えたに違いない。
殺してやるのが、せめてもの優しさか。餘目は憐みをかけて銃口を向けた。この経験はきっと深い心的外傷になる。生きていても辛いだけだ。
「これで『人類救済』とはね。入る組織を間違えましたかね。烏合先輩……」
呟き、引きかけた指が、扉を撥ね退ける音に止まった。
仲間たちの怒号と銃声が響く。餘目は振り返った。班員たちが、乱入したスキンヘッドの少年兵に組み伏せられたところだった。「みんな、助けに来たぞ!!」
袈裟丸が顔を上げる。「柤岡さん……」
兎は周囲の惨状を眺め、手遅れの現実を突き付けられたようだった。顔を泣きそうなほど歪める。
餘目は唇を引き結び、銃口を向けなおした。
「悪童隊ですか……。未成年に手を掛けるのは気が退けますが、向かってくるなら君も……、……!!」
兎の体当たりに、餘目は押し倒されていた。脚に装着したバネ仕掛けの装置が、兎の瞬発力を増幅させている。餘目はスチール製の机たちの間に倒れ込んだ。兎は袈裟丸を机の下から助け起こした。
「遅くなってすまねえ……! ……やっぱ五頭さんの言う通りだった。俺は腹括んなきゃいけなかったんだ。甘い考えじゃ、誰も守り切れねえ」
兎は袈裟丸を背中の裏に隠し、餘目に拳を向けた。「もう躊躇はしねえ。エデンの兵隊さん、たとえ殺すことになっても、あんたを止める」
「威勢がいいですね……。戦闘は得意ではありませんが……」
餘目の姿が消える。「!」兎は駆け抜けた餘目の紅い影を目で追った。餘目は一瞬で扉の前に立ちはだかった。「……その辺の雑兵よりは、強いですよ」
「能力者……!」兎は拳を固めた。
見立てどおり餘目は贋作の一人だった。心拍数を操作する程度のささやかな能力だったが、それでもドーピングによる身体能力の向上は、肉弾戦における十分なアドバンテージを与えるものだった。
「染ちゃん、後ろに隠れてろ!」兎は背後の袈裟丸に伝える。「大丈夫だ。敵はまだ俺が能力者だと気づいてねえ。銃や拳で戦うタイプなら、押し切れる」
餘目が油断なく銃を構える。兎はファイティングポーズをとった。「君は俺が守る! これ以上仲間を傷つけさせやしねえ!!」
はい。
……返事らしき音が、聴こえたと思った。
右耳を抉る音が、即座にそれを掻き消した。世界が急転回していた。
「え……?」
左半身に衝撃があって、兎は自分が倒れたことに気付いた。訳も分からないままに、ガラスに反射した自分の姿が見える。……シュールな光景だった。右耳の穴から、茸のようにハサミの握り手が生えている。いや……、深々と突き刺さっていた。
激痛が、押し寄せて視界を暗くしていく。細長い刃は頭蓋を貫通して脳にまで達していた。かすんでいく視界の端で、両手に顔をうずめる袈裟丸の姿が見えた。
兎は状況を飲み込めぬまま、かすれた声で問う。「なん……、で……」
「ごめんね、柤岡さん」袈裟丸は堪えきれないという風に真っ赤な口を開いた。「いけないって分かってたんだけど……、抑えきれなかったの。もう何年も我慢してたのに。これ以上殺しちゃダメだって!!」
袈裟丸は身震いした。その表情は悍ましいほどの恍惚に歪んでいる。空き地の少年院……、袈裟丸と雪の出会った場所……。薄れゆく意識の中で、二つの点が繋がった。雪は……、知らなかったのか。自分が襲撃した場所が、エデンの基地などではなく、未成年殺人者の容れられる更生施設だったことを。
兎が痙攣し、白目を剥く。
少年は成す術なく息絶えた。
「……快楽で味方を殺す、か。安虎の熱気に当てられた、……だけでは、なさそうだね」
餘目が咎めるような視線を袈裟丸に向ける。
「たしか、3年ほど前か……。区内の少年刑務所が一夜にして壊滅する事件を覚えている。表ではエデンの仕業ということになっているけど……、実際は、警察上層部による何らかの不祥事の揉み消し……、先輩はそう見立てていた。君はそこの収監者か……、染袈裟丸」餘目は不測の事態に動揺を誘われつつも、態度では冷静に銃を構えた。「殺人依存症……。十〇(マドカ)だけじゃない、君もその犠牲者か」
熱線銃が火を噴く……、はずが、拳銃は餘目の指ごと寸断されていた。
「⁉⁉」
「ふふっ、そんなスピードじゃあ殺せないよ」
袈裟丸がくすくすと笑う。肩口から噴き出した血から、禍々しい、赤黒の巨大な血刃が凝固し腕を這っている。
「これはっ、狂花帯能力……‼ それも12号の……っ」
「うふふ、お兄ちゃんの血ぃ、美味しかったぁ」袈裟丸が思い出すように頬を赤らめ、舌で唇を舐める。その瞳が、餘目を鋭く見下ろした。
「お姉さんの血は、どんな味だろうね?」




