第23話 才子(サイコ)
白衣を翻す。靴音も高く、苦竹葎が救護室の出口へと駆け出していく。
『葎‼』
紫の制止がインカムから飛び込む。葎はドアノブを握ったままカメラを見上げた。
『行っては駄目だ、敵の狙いは君なんだぞ! その場を離れるな』
「このままだと見くんが殺されるわ!! 私の生徒に手出しはさせない」
葎が決然として言い返す。
『今行けば敵の思うつぼだ、二人とも殺されて終わる。第一、君が行って何ができる? らしくないぞ』
「っ、だからといって……、このまま手をこまねいているだけじゃ……」
葎が唇を噛む。珍しく冷静さを欠いている葎に、紫が諭すように言い聞かせる。
『無線室には処置済みの負傷兵たちを派遣してくれ。今あの部屋に一番近い戦力は彼らだ』
〇
「〇×兄弟が、何かやっているみたいだね」
館内放送の声に耳を傾け、邇凝博士がのんきに言う。
「あまりいい趣味じゃないな」顔をしかめた残間が、異様な気配に顔を上げる。
「……? 十号?」
「爺さん、そこ動くな」
外の心音に意識を集中させた。バンの外にいる警備や負傷者たちの心音が、不整脈のように乱れ始める。残間は神妙な面持ちで立ち上がった。
「阿舎利! こっち戻ってきて手伝え! 外から何か来てる!」
バンの後方扉が開かれる。残間が『告げ口心臓』を発動し、阿舎利が恐る恐る銃を向けた。しかし残間はバンに乗り込んできた少女の顔を見て、一瞬虚を突かれた。「七坐……?」
少女の目は冷たい。少女の正体を思い出す。
「……いや、煙草森か!!」
警戒は間に合わなかった。阿舎利が指を引くより早く、残間が一歩目を踏みしめるよりも先に、二人の意識は強烈なショックイメージに侵食されていた。阿舎利は目を剥いて気絶し、残間は心臓を停止してうつぶせに倒れた。
「オヤ、オヤ、これは嬉しいねえ」
博士が上機嫌で言う。
「『夢魔の標的』……、七号。こうしてきちんと顔を見るのは、初めてだ」
「……あんたが邇凝博士」
「左様。君にとっても初めましてかな? 煙草森鳰。君の手術はちょっと特殊でねえ。葎が手を回して……、君の顔とか個人情報とか、私には色々伏せられてたんだよ。だからこうして話す機会が持てて、嬉しい」
その辺の事情は鳰も調べていた。鳰が改造を受けたのは、旧エデン製薬崩壊直前期だった。その時期既に葎や何割かの製薬メンバーは、公安に協力しエデン製薬を裏切る準備を進めていた。鳰の手術もその一環である。既に改造されていた他の〈12人〉とは異なり、初めから脱走させることが確定していた7号に関しては、被験者の選定から手術に至るまで苦竹葎の主導で行い、邇凝博士含めエデン製薬の方には、ダミーの個人情報を掴ませていたようだった。エデンが長いこと鳰の正体を特定することができなかったのも、そのためであった。
邇凝博士の手が、机上のボタンを押す。……が、反応しない。「……ホウ」
「この部屋のコンピュータは私が制圧した。脳も電子情報も01の信号で動いてるのは同じ。脳波をAI用にチューニングすれば……、機械でも操れる」
「ホホッ、そこまで成長していたか。ほとんど実践も無しに……。素晴らしい適合率だ、『夢魔の標的』」
邇凝博士は顔をほころばせる。できることなら私が執刀したかったなぁ、とにこにこしながら呟く。
「しかしどうしたことだい、動悸が速まり、呼吸も浅くなってる……。それにあまり眠っていないみたいだね。肌の質が落ちて目も充血してる。これはつまり……、アァ怒っているんだね。でもどうしてだい? 君の家族の一件、僕は関わっていないけど」
「命令を下したのはあんた達上層部だ。手を下した本人は殺した。次はあなたたち、そして……」
煙草森は血走った眼をぎらつかせた。「灰色の枢機卿」
「そういう動機かい。ウーン」
博士は顎を撫でながら呆気なく答えた。
「興味が、ないな」
一瞬の沈黙が流れる。
「……は……」
煙草森が唖然として口を開ける。
「イヤ、ごめんね。僕って復讐をする人間の気持ちみたいなのがサッパリわからないんだ。進んで人に危害を加えようとする心の機微が理解できない。別に感情が無いわけじゃないんだが、興味を持つ部分が人と違うんだよね。だから君が今どんな気持ちなのか、全然共感できないんだ。あ……、でもデータはとらせてもらうね。強いストレス下の精神状態が精神感応能力にどんな風に作用するのか。それには興味がある」
さあ、見せてくれたまえ。邇凝博士は全く悪気のなさそうな目で忌憚なく言ってのけた。
「……ッッッ!! ならお望み通り、見せてあげる……」 煙草森は全神経を博士の脳内に集中させた。「地獄を!!!」
脳波を接続した瞬間に、煙草森の視野が七色の光に包まれた。……ように思われた。
「……!!??」
煙草森は周囲を見渡した。
あの時……、自らを「女神」と名乗るあの女と「出会った」時に似た光景だった。だがあの光に包まれた空間と違って、ここはまるで虹色の水流の中だった。周囲や自分自身がぼやけ、遠のいて感じられる。これは……。
「そう、君の考える通り、これは『情報』だよ」
「!」渦の中に、邇凝博士の姿が浮かんでいた。
「膨大なデータを頭の中に記憶しておくコツは……、その情報を『圧縮』することなんだ。常人ならば処理するのに2時間、3時間とかかる量の記憶を、1秒分に凝縮して格納しておく。必要な時にだけ取り出せるようにね。そうすることで人の何千倍、何万倍もの記憶を、保管しておくことができる」
「……それって、まさか……」
煙草森は渦の中に手を伸ばし、虹の水を一掬いする。掌の水面に反射するように、一つの映像が動画のように動き続けている。絶句する。……海だと思っていたものは、何万という無数の細かい記憶の、塊だったのだ。
「君が僕の心を覗いた瞬間、圧縮された幾千の情報の一握りを、僕の頭の中で解凍した。僕の脳みそなら、この程度の情報を一度に閲覧するのはわけない。でも普通の人は違うみたいだ。おそらく君は今、処理しきれない量の情報を一度に送られて、脳がパンクしている。俗にいう処理落ちだ。分かるかい? どういうことかというと、君は今……」
煙草森は床の冷たい感触にようやっと気づいた。眼は開かれているのに、そこで何が起こっているのかを理解するのに何秒もかかる。思考や認識に利用する脳のリソースが完全に圧迫されているのだ。
「これで君は能力はおろか、指一つ動かせない。……さて、君をエデンの施設で永続的に管理していくために、少々手を加えさせてもらおう」
煙草森の耳には雑音としか響いていないにも関わらず、邇凝博士は饒舌に喋り続けた。残間愛の懐から電気銃を取り出し、煙草森の背中に向ける。
「電気銃を最大出力にし、君の脊髄に直接撃ち込む。常人なら確実に感電死する威力だが、君たち強化人間は全身に麻痺が残るだけで済む。君は自分の体を二度と動かせなくなるが……、心配いらない。だって君の能力を調べるのに、首から上があれば十分だもんね」
引き金が引かれる。鳰はぎゅっと瞳を閉じた。
回りながら飛んできたフラスコが、邇凝博士の手から銃を叩き落す。
ガラスが手の平で砕け、電気弾が鳰のすぐ横で弾けた。「ほッ!」博士は自分の手を震わせ、それから入口の扉に視線を移した。
「悪いな……。教師として、生徒の危険は見過ごせないんだ」
跡星丑が押し入る。




