プロローグ セブンス・ヘヴン
——風速4m。夜空は快晴、所により通り雨。街路に人影は無し、第三区画に人員待機、第五・第六区画にスナイパー配置完了。標的の到着を確認。担当はA班および第九研究班、作戦指揮はエデン戦闘大連隊副連隊長・海土路佐丞が執り行う。
……これより〈12人の怒れる男〉第7号・煙草森鳰の掃討を開始する。
白い外壁の内側を、紅葉に色づいた楓の木々が取り囲む。芝のよく整えられた広い庭、優美な曲線を描くように湾曲した屋根、星明りの指すバルコニーたち。瀟洒な一軒家が等間隔に並ぶ都南の高級住宅街。その一角を、炎の舌が絡めとる。
……ガラスの割れる破砕音とともに、3階の窓から少女が飛び出す。後を追うように焔が手を伸ばす。屋根の上を転がり落ち、少女は危うげに芝生の上に着地する。ピンクの長い髪が火影の揺らめきを受けて明るむ。
隣家の屋根やバルコニーの上に、数人の人影がある。火の光が長くする少女の影を辿るように、ヘルメットを被った黒衣の集団が輪を縮める。少女は路地に向かって駆けだす。押さえた右肩からは紅い血が溢れ、鮮血の轍を白いアスファルトの上に点々と残す。
燃え盛る炎が猛る。木枯らしを集めたような轟音は家々の壁に吸い込まれて、夜の静寂を脅かせずにいる。
こちら餘目。標的をロスト。戸外に逃げたものと思われます」
エデンの回線に女のハスキーな報告が届く。
「俺が捉えてる。煙草森の心音の方向を共有する」
男が塀の上を走り抜けながら腕時計に向かって答えた。残間愛は視覚に心電図のようにして現れた対象の心音を睨みつける。少女は闇を隠れ蓑にして進んでいるが、11号の恋愛曲線の前には隠密は意味をなさない。
「……12時の方向に400メートル先。それなりのスピードで走ってる。包囲の外に出さないよう後を追って」
やや遠く離れたビルの上から双眼鏡を覗き込み、班長の雨乞烏合が指示を出す。夜の暗黒に水色のツインテールが淡く光る。
割り込むように、インカムから若い男の声が聞こえてきた。「いえ、餘目さんは『罠』の位置を目指して北西に回り込んでください。残間さんを中心に足の速いメンバーで誘い込みます。……七坐さん」
桃色がかった茶髪の少女がはじかれたように応える。
「……対象はそちらに向かっています。7号をA6の外に出さないよう脇道をカバーしてください。可能なら『罠』の家屋に誘導するようプレッシャーをかけて」
「りょーかい、っす!」
高所に配置されたスナイパーたちの弾丸が、少女の進路を塞ぐように射撃で誘導する。足を狙う者もいたが、ぎりぎりのところで躱される。
「あの距離から殺気を読んでるのか……?」残間が後ろからその様子を見て舌を巻く。「噂の精神感応能力は伊達じゃないな。A班の3人! 接敵できる奴は戦闘に入っていいぞ!」
ばらばらと街道の上にエデンの追跡者が降り立つ。少女は歩を緩めることなく彼らを睨み返した。
生暖かい風が吹く。寒気が、追跡者たちの全身を走る。思わず足を止め、あたりに目を配る。
白熱灯が一斉に明滅し、落ちた影が異様に伸びていく。濃く、深く、黒が周囲の家々を侵食していく。
その時、彼らは見た。星が笑い、月が人の顔を浮かべニタニタと笑みを浮かべるのを。
それは比喩ではなかった。彼らの目には実際にそのおぞましい光景が、一瞬のうちに広がったのである。影は泥土をしたたらせた濁流の怪物となり、家々は奇形に醜く歪んだサイケな極彩色の火花となった。天は落ち、地はうねり、突き立った電信柱は人の形をして怒れたように腰を振った。血は沸騰し冷たい鳥が薔薇のように皮膚を突き破る……。
追跡者たちの叫喚が響き渡った。見えない悪霊を振り払うように一心不乱に銃を乱射する。残間は舌打ちして彼らの足元に滑り込み、斜線を外しながら腕や胸を掴んだ。腕時計に叫ぶ。
「A班の三名が脱落した! 幻覚を見せられてる。俺も多分これ以上近づくとヤバい……」
ドクン、と手の中で相手の心臓が止まる感触がある。暴走した兵士たちがおとなしくなって倒れる。
「こっちも遠目から補足できない。蜃気楼を出されてる」
雨乞が返す。ふむ、と海土路は通信機の向こうで呟く。「餘目さん、そちらから対象を視認できますか?」
「こちら餘目、煙草森は予定通り廃屋の方向に向かっています……。伏魔殿の武器庫が隠されている場所です。当然そこに逃げ込んで……。あっ! 通り過ぎました。まずいな、このままだと包囲の外に……」
唸るようなエンジンの爆音が夜霧を切り裂く。青のスポーツカーがアスファルトを切りつけながら狂ったように走り抜ける。餘目は遠巻きに運転席を目撃して叫ぶ。「ナナクロ⁉」
七坐而澄の運転するスポーツカーが、轟音を上げて路地を突っ切っていく。「いつの間に盗み出して……、ナナクロ! 応答しろ!」
「暴走か?」餘目の呼びかけを聞きつけた残間が問い返す。
標的は廃屋から遠ざかろうとしている。十字路に差し掛かった。七坐の車が豪速で駆け抜け、対象を正面から撥ね飛ばした。
垣根を超え、そのまま廃屋の壁に突撃する。対象の少女は家の中に弾き飛ばされた。
「今です! 残間さん、突入を!」
「了解……、お手柄だぞ、ナナクロ……」
車に走り寄って残間は運転席を覗き込む。ダッシュボードに頭を打ち付けたのか七坐は気絶しているように見えた。だが車のサイドガラスが曇っていてよく見えない。
ひとまずは任務を優先すべきだった。残間は車の上に飛び乗って、崩れた壁の隙間から対象を見下ろした。フローリングの上に転がって血まみれになった少女は、異様に滑る床の上で何とか立ち上がろうともがいていた。が、うまくいかない。裏返された甲虫のように哀れに地を掻く。
「生きていますか?」
海土路が残間へ尋ねる。残間はああと応じた。
「我々同様身体強化も受けていますからね。車で轢いたくらいでは死なないでしょう。しかし、その建物の床と壁からは、私の能力で摩擦力を奪っています。一度踏み入れたが最後、抜け出すことはできないでしょう」
「……の、ようだな」
残間は、乱れた髪の隙間からこちらを睨む少女を気の毒そうに見下ろした。
「サングラスは外さないでください。7号の洗脳は目を見ることによって発動します。それから脈を常に乱し続けることで、幻覚に嵌められるのを防ぐように……」
「ああ、分かっている」
「では手筈通りに」
通信を切り、残間は軽く息をついた。不揃いな心音が感情を不規則にし、かえって敵の精神操作を妨げる。
「……改めて確認する。お前が煙草森鳰だな」
「……知らないね。そんな名前は」
少女が低く呟く。残間は冷たく相手の心拍を見定める。「……嘘だな。俺にごまかしは通用しない。俺の頭を覗けるなら、それも理解しているだろう?」
少女は答えない。ただ桃色の髪の隙間から鋭いまなざしをこちらに向け返しているだけだ。
「お互い時間の無駄はやめよう。もう一度だけ聞くぞ。お前は第7号能力者、煙草森鳰だ。間違いないか」
「……ああ。だったらどうする?」
心音を見る。嘘はついていなかった。残間は肯く。「俺たちはお前を……」
異様な気配を感じて残間は一歩退いた。瞬間、轟音と共に家屋が垂直にひしゃげた。巨大な手の平に押し潰されたように、あるいは縦に圧縮された空き缶のように、一つの廃屋が丸ごと地面に圧壊されていた。部屋の中にボンネットを押し込んでいた七坐のスポーツカーは、巻き込まれる形で前体を地面に埋められ、そのまま爆発した。
「ナナクロ!!」残間は煙に咽びながら、燃え盛る車体を見て叫んだ。「……どういうつもりだ、連隊長!」
残間は空を仰ぐ。黒い空の中に、軽々と身を預け浮遊する一人の男がいた。第3号能力者・海土路佑丞は、逆さになった地上を見上げる。
「どうもこうもねえだろ。対象が煙草森本人である、その確証を引き出した上で処理する。今回お前らに任せた任務は、たったそれだけだ。だがお前らがあんまりとろいもんだから、連隊長である俺様が直々に手早く終わらせてやったんだよ、残間愛」
「7号は既に追い詰めていた。部下を巻き込まず制圧できたはずだ」
「たかが歩兵一人で騒ぐなよ。部下の一人や二人お前も犠牲にしてきただろうが。餓鬼だから特別扱いか? 甘いな。弱者は所詮強者という炎の薪でしかない。序列が下だと思考まで弱者のそれになるのか? 11号」
残間は腰のホルスターに手をかけ、うっすらと青筋を立てた。「お前が強者かどうか、確かめてみるか?」
拳銃を引き抜く前に、残間の口から小さく血が零れた。残間は膝を折り顔をしかめて咳き込む。隣に雨乞が降り立っていた。
「身内で争っている時間はない。伏魔殿が来る前に遺体を回収する」
「ちッ……、相変わらずネクロウィルスか……。鬱陶しい……」
残間は胸を押さえて恨めしそうに言った。
残間の肉体には、人間を歩く屍へと変えるネクロウィルスが打ち込まれていた。管理するのは雨乞、通常なら最近に心肺を侵され死人になっているはずの残間が自我を保ち続けていられるのは、彼が心臓操作能力者だったからに他ならない。
「副連隊長、近隣の住宅壁に『吸音性』を付与してくれて助かった。目立たず作戦を遂行できた」
「こちらこそ、烏合さんの能力でやりやすくなりましたよ。事前にこの地域に感染症を流行らせておくことができた。標的に接触することなく、相手を弱体化させておけるのは9号の能力の強みですからね」海土路佐丞が通信機の向こうから答える。『さて、兄貴も瓦礫を片してくださいよ。しゃしゃり出てきたからには、最後まで役に立ってください』
「ふん、俺様を顎で使えるのは、お前くらいだよ……」海土路佑丞は小さく笑い道路に降り立った。
廃屋の礫が重力を失ってふわりと宙に彷徨った。3号がその下を確認し満足そうに肯く。「いずれにせよ、任務は完了だな」
崩れた岩の下で、少女は静かに死っていた。