82.そのDV男が見た夢の世界で溺れるわけがない
※暴力・暴言の表現があります。苦手な方はご注意ください。
私は聖良、十八歳。
高校生の時から働いている定食屋さんで勤務している。
けどそれも今日でおしまい。
いわゆる寿退職ってやつだ。
「聖良ちゃん、今まで本当にお疲れ様。ありがとうね」
店長見習いの高橋くんは花束をくれた。
「ありがとうございます。これからはお客さんとして時々来ますね」
私は笑顔でお店を出た。
お店の裏口にその人は立っていた。
私の旦那様、大企業で課長職をしている正男さん。
まだまだ子どもっぽくて、世間知らずの私にも優しくしてくれる、頼りになる年上の男の人だ。
「じゃあ、俺たちの家に帰ろう」
正男さんは私の手を引いた。
優しい正男さんは、毎日こうやって仕事終わりに迎えに来てくれるんだよね。
自分も仕事で疲れているはずなのに⋯⋯
課長さんのお仕事は、とっても忙しいらしいけど、部下のみなさんに慕われ、部長からは期待されるほど優秀なんだそうだ。
楽しく話をしながら、私たちの新居⋯⋯元々は正男さんが一人暮らしをしていた、高級マンションの一室に帰って来た。
家具も家電も、何から何まで高価なもので揃えられていて、不自由なく暮らせるようになっている。
それもこれも、正男さんから私への愛情表現とのことだ。
今日から私は、正男さんの妻として、専業主婦をしながら彼を支えるんだ。
玄関のドアが閉まった直後だった。
正男さんは、高橋くんから貰った花束を奪い取り、玄関の床に叩きつけた。
「え⋯⋯どうして? どうしてそんな酷いことするの?」
「あの男はお前に下心がある。お前、俺に隠れてあの男に色目を使ってたんだろ! 人が汗水垂らして金を稼いでる時に、あいつと遊んでたんだろ? 大して稼いでなかったくせに、ふざけんなよ、クソアマが!」
――ドン
正男さんは私の身体を乱暴に押したあと、ドアを蹴った。
まただ。どうして怒られてるのかわからない。
さっきまで楽しい雰囲気だったのに。
いつも正男さんは突然不機嫌になる。
男の人に大声で怒鳴りつけられて、怖くて涙が出る。
身体が震えて止まらない。
「今ここで、俺の目の前で、あの店の関係者全員の連絡先を消せ」
「そんなの出来ないよ。またお店に行くって約束したもん」
「どうしてお前は、俺の許可なく、そんな約束をしてくるんだ!? 俺のことが好きじゃないのか!? 本当はあの男と結婚したかったって思ってるんだろ!? 違うなら今すぐここで証明しろ!!」
――ドン
正男さんはまた玄関のドアを蹴った。
「もう止めて! わかったから! 私が好きなのは正男さんだけだから! 怖いことしないで! 怒鳴らないで! ごめんなさい! ごめんなさい!」
震える手で連絡先を消去した。
残っている連絡先は、正男さんとマンションの管理人室、タクシー会社と家事代行サービスくらいだ。
「よし、ちゃんと消してくれたな。お前の愛は伝わった。お前はまだまだ子どもだし、親がいなくて躾もされてないから、どうして叱られたのかも、わかってないのかもしれない。けど大丈夫だ。お前は俺の言うことさえ聞いてればいいんだ。ちゃんと俺にふさわしい、立派な女に育ててやるから。愛してる。この思いは誰にも負けない」
正男さんは私を抱きしめながら優しい声で言った。
本当かな。
この人って私のことを愛してるのかな。
だったらどうして、こんなことになるのかな。
そっか。私が正男さんを怒らせたから。
優しい正男さんは私のために、こうやって怒ってくれてるんだ。
どこかの誰かが言ってたよね、叱られている内が花だって。
じゃあ私は正男さんの期待に応えないと。
両親を亡くして、友だちもいなくて一人ぼっちの私の側に居て貰えるんだもん。
それにこの人と居ればお金に困らないどころか、贅沢な暮らしが待っている。
我慢さえすれば幸せになれるんだから。
「おい。返事は? そこは、ありがとうございますだろ!? ぼーっとして、まだあの男のことを考えてんのか? もっと厳しい躾が必要か!?」
正男さんは私の肩を掴んだ。
「痛い! 止めて!」
「だから! 躾けて頂きありがとうございますだろうが!? もっと痛めつけないと理解できないのか!?」
正男さんは腕を振りかぶった。
殴られる。怖い。
「ブラン様! 助けて!」
そう叫んだ瞬間、私の左手の薬指に婚約指輪が現れ、フランネルフラワーが白く輝き出した。
「うわぁぁ! やめろ!」
正男は怯えたように叫んだ。
違う。こんなのはおかしい。
私は、私が一番幸せになれる世界に帰るんだ。
私を愛してくれる彼を幸せにするんだから。
「セイラ! セイラ!」
ブラン様が私を呼んでいる。
全てを思い出した時、白い光に包まれた。
「セイラ、大丈夫か? 気がついたか?」
目を開くとそこには、心配そうにこちらを覗き込む愛しい人がいた。
「ブラン様! 会いたかった! ありがとう。助けてくれてありがとう⋯⋯」
思い切り抱きつくと温もりを感じた。
やっと帰ってこれた。
首の後ろに腕を回して自分から口付ける。
最初は戸惑った様子だったブラン様も応えてくれる。
あぁ、幸せだ。
温かくって心が甘く癒される⋯⋯
「おい! おい! 愛子! 俺の話を聞いてんのか?」
幸せな二人を邪魔する耳障りな声。
「あれ? 正男さん。まだいたんですか?」
さっきの夢の中にでも、封印されてくれたらよかったのに。
あと、最高に気まずいのは、ブラン様の背中越しにアッシュ様、ジェード様、ノワール様、ボルド様、セルリアン様が立っているのが見えたこと。
キスしてるところを思いっきり見られた。
けど、ブラン様の後頭部しか見えてないよね。
しかも私、あの五人と濃厚な人生を過ごしたような⋯⋯
周囲の様子から察するに、実際に経過した時間は、そう長くは無さそうだ。
「おい。俺の存在を無視するな。どうだ、愛子。夢の旅を経て理解できただろ? 俺もそいつらも女の扱い方は一緒なんだ。婚約者がいる愛子に対して劣情を抱き、夢の中では好き勝手している。そいつらだって、王子さえいなくなれば、お前と結ばれて幸せに暮らせるという希望を捨てきれていない。だからあんな夢を見るんだ」
またもや正男は勝手な理論を展開し始めた。
「ふざけるのも大概にしてくださいよ。全然違いますから。確かに夫婦にはなりましたけど、みなさんすごく大切にしてくれましたよ? あなたみたいに、暴力や言葉で支配するような人はいませんでしたから! それに、夢の中でどうしようと自由ですけど、あなたは現実でも人を傷つけてますよね?」
「愛子、お前は頭が悪いから理解出来ていないんだな。後でじっくり教えてやるから、この際後回しにする。男たちがその事実を再認識出来ていればそれでいい。では今から断罪イベントを行う。誰か一人でも動いたり、魔法を使ったりすれば強制執行になる。俺の式神は優秀だからな」
正男が仕切り、突然始まったイベント。
断罪って誰を、何の罪で? 執行って何を、どうするの?
色々と説明不足のまま、正男は私に手をかざした。
恐怖で逃げ出したいけど、動いたら駄目なんだよね。
戸惑っていると、腕の紋様が疼き出した。
焼けるように熱くて痛い。
動かず必死に耐えていると、腕の紋様からヘビが飛び出してきた。
え、さっき倒したと思ったのに⋯⋯
ヘビはニョロニョロと地面を這い回り、あろうことかブラン様の首に巻き付いた。
「うっ⋯⋯」
「ブラン様!」
ブラン様は苦しそうに両手を首元に持っていく。
けれども、ヘビは実体がないのか掴めないみたい。
そのままヘビは紋様となって、身体に潜り込んだ。
「これで準備は整った。王子が受けた呪いは、周囲の人間の感情を敏感に察知する。この中にいる誰か一人でも、王子が消えればいいのにと願えば、呪いが発動する。その願いの大小は関係なく、意識無意識どちらでもだ。男たちにとっては、またとないチャンスだろ? 自分の手を汚さずに、王子を消すことが出来るんだからな。では始める」
正男がブラン様に手をかざすと、辺りは霧に包まれた。
何それ。そんな呪いが私たちに通用するとでも?
ここにいるみなさんは、ブラン様の幼少期からの親友。
信頼し合える仲間だ。
そんな呪いは絶対に発動しない。
そう思ってたのに。
「うぅ⋯⋯」
ブラン様の苦しそうな声が聞こえる。
え⋯⋯まさか⋯⋯呪いが発動してる?
いや、そんなことはない。
ヘビが悪さしてるんだ。
霧が濃くて、すぐ側にいるブラン様の姿も見えない。
助けた方がいい? でも、動いたら強制執行だよね?
何も見えないと疑心暗鬼になる。
大丈夫。誰もブラン様に消えて欲しいなんて思ってない。
拳を握りしめてみなさんを信じる。
徐々に霧が晴れていく。
ブラン様は⋯⋯⋯⋯生きてる。
ヘビに絡みつかれて、窮屈そうだけど、ちゃんと生きてる。
「⋯⋯⋯⋯なんだと! 呪いが発動していない!? おい、どうしてだ、男ども! そこの王子が憎くないのか!? 妬ましくないのか!? 愛子のことを抜きにしたって、恨みの一つや二つくらいあるだろう!!」
正男は読みが外れたのか、うろたえている。
地団駄を踏んで、激しい怒りをあらわにする。
「そりゃ、ガキの頃にはケンカしたことくらいあるけど、ブランにいなくなって欲しいなんて、思うわけがないだろうが」
「悔しい気持ちはあっても、それとこれとは別。ブランは大切な仲間だから」
ジェード様、ノワール様は、きっぱりと答えた。
「クソ! これじゃ、作戦が台無しだ! ふざけんな! ふざけんなよ!」
正男が取り乱す中、後方から白い光の矢が飛んで来た。
矢は、ブラン様の首に巻き付いたヘビに突き刺さり、ヘビを消滅させた。
これは⋯⋯ナーダ様の魔法?
「遅くなってすまない。ブラン、大丈夫か?」
振り返るとそこには、大神官の姿をしたモント殿下が立っていた。
首には白いストラをかけている。
モント殿下はブラン様に駆け寄り、手を差し伸べた。
「兄上! ありがとうございます。もう大丈夫です」
ブラン様はモント殿下の手を取り、立ち上がった。
「もうこれ以上、彼の好きにさせてはいけない。ブランのスキルは、彼には効かないのか?」
「はい、兄上。彼はここの国民ではないようで、効果がありません」
そうか。ブラン様の王のスキル『絶対服従』で正男に命令出来たらよかったけど、それが効かないんだ。
けど、どうしてだろう?
私だって虹の輪をくぐってきたけど、ちゃんとこの国の国民として転移出来たのに。
もしかして⋯⋯
鑑定スキルで正男を確認する。
「分かりました。彼は僧侶クラス?の国民じゃなくて、カテゴリーが魔物⋯⋯妖怪なんです。名前は⋯⋯」
詳細を確認しようとすると、突然地響きがした。
私たちが立っている地面が揺れている。
「え〜! なになに?」
「これは地震なのだろうか?」
みなさんも戸惑っている。
「セイラ、大丈夫か?」
ブラン様が守るように肩を抱いてくれた。
しばらく地響きが続いた後、広場の石畳に亀裂が入った。
六柱の神の石像とともに、広場が巨大な円形ステージのようにせり上がる。
やがてそれは高度を増し、山よりも高く空に浮かび上がった。