73.その精霊術師が見た夢の世界で溺れるわけがない①
私はセイラ、六歳の女の子。
突然だけど、今日から、王都にある、アカデミーに転入することになった。
事故にあったのか、なんなのか、それ以前の記憶がはっきりしないけど、今はヌガー先生の元でお世話になっていて、アカデミー入学の切符を手にした。
この国で生きていくために必要な知識を、これからここで毎日学ぶらしい。
周りの子たちに比べたら、本当に何も分からないんだけど、ちゃんと授業について行けるのかな?
今日は転入初日だから、クラスメイトたちに簡単に自己紹介した後、一緒に授業を受けた。
けれども、文字を書くことはおろか、読むことすら出来ず、初日から困ってしまった。
お昼休み。
先ほどの授業で、常識がなさすぎて、ドン引きされてしまった私は、早速一人ぼっちだった。
ヒソヒソ話が飛び交う教室には居辛くて、大急ぎで給食をかきこんだ後、中庭に来た。
教科書を広げて復習していると、騒がしい声が聞こえてきた。
「やめてくれと言っているだろう。君たちはしつこすぎる。これだけ拒絶しているのに、どうして伝わらないんだ」
メガネをかけた青髪青眼の男の子が、怯えたように言った。
「セルリアン様、遠慮しないで?」
「大丈夫。時間をかけて、私のことをもっと知ってもらえたら、好きになるから!」
「お父さんとお母さんが、我が家にもセルリアン様のイデンシが欲しいって言ってたの!」
女の子の六人組が、一人の男の子に詰め寄っている。
セルリアン様って、ヌガー先生が言ってた、神童って言われてる二歳上の精霊術師の人かな?
「遠慮しているわけじゃない。時間をかけてと言いながら、何年経っていると思っているんだ。それに、君たち一家は、僕のことをなんだと思ってるんだ」
セルリアン様は子鹿のように震えている。
「あの⋯⋯よくわからないけど、怖がってるみたいだし、止めてあげません?」
セルリアン様を背中にかばい、女の子たちに声をかける。
「何この子」
「どう見ても下級生でしょ。先輩に対して偉そうね!」
「まさか、あなたも彼を狙ってるって言うの?」
女の子たちは今度は私に突っかかってくる。
うぅ、勢いがすごくて怖い。こういう時ってどうしたら⋯⋯
胸に不安が広がった時、グッドタイミングで予鈴が鳴った。
女の子たちは大急ぎで教室に戻っていく。
ヤバ、私も戻らないと。
ただでさえ初日から非常識人扱いなのに。
走ろうとしたら腕を掴まれた。
「ありがとう。君の名前は?」
「いえいえ! 名前はセイラです! じゃあ! 急ぐんで!」
私はすぐに教室に戻った。
これが私とセルリアン様の運命の出会いの瞬間だ。
翌日以降も私は授業に中々ついて行けず、頭を悩ませていた。
本来ここには、この国でも一握りの優秀な人しか通えないはずだけど、ヌガー先生が面倒を見ている孤児だからと入れてもらえたようなものだ。
ヌガー先生は、私は属性と役職の組み合わせが珍しいから、神に特別に愛された子だと言うけど、読み書きも出来ないんじゃ、どうしようもない。
休み時間はとにかく勉強。
幸いなことに、言葉は聞き取れるんだから、まずは読めるようにならないと。
3歳くらいの子が使う絵本を貰えたので、口に出しながら勉強する。
「アリさん、ありがとう。お礼を言うとカエルは、帰っていきました。早く寝込んでいるネコさんに届けないと⋯⋯えーっと、これはなんだろう。シカさん仕方ない⋯⋯とか?」
ダジャレみたいな絵本だから、絵を見ながら文字の意味を推測する。
「『トナカイと仲良い』⋯⋯だ。君はその歳でまだ文字が読めないのか。どうやら訳ありというのは本当らしい」
振り返るとセルリアン様がいた。
「あ! セルリアン様! ありがとうございます! トナカイって読むんですね!」
笑顔でお礼を言う。
「礼には及ばない。それよりも、先日は情けないところを見られてしまった。僕は物心ついたときから女という生き物が苦手だ。集団を形成し、抵抗する僕をどこまでも追い回し、関係を迫ってくる⋯⋯相手が暴挙に出たからと、言い返し、手を払いのけようものなら、途端にこちらが悪者扱い。かといって言葉も通じず、高笑いしながら、毎日のように人権侵害を繰り返す⋯⋯まったく、恐ろしい生き物だ。どう対処すれば⋯⋯」
セルリアン様は気の毒なほど震えている。
なるほど。セルリアン様の女性恐怖症のルーツは、子供時代のトラウマにあったんだ。
⋯⋯あれ? どうして私、大人になったセルリアン様のことを知ってるんだろう?
それからセルリアン様は、毎日のようにお昼休みに、中庭で文字を教えてくれた。
「この点はもっと横に倒さないと『ソ』か『リ』に見えてしまう。今の君は、ただ何となく形を覚えて書き写している段階のようだ。押さえるべきポイントを理解すれば、応用が利くようになる」
「なるほど! セルリアン様に教えてもらえると、すごくわかりやすいです!⋯⋯とってもありがたいんですけど、毎日毎日いいんですか?」
「これは先日のお礼代わりだ。君が気にすることではない。では次の文字に移ろう」
セルリアン様は年齢の割に落ち着いていて、クールなように見えるけど、面倒見が良くて、とっても優しい人だ。
よく見たらお顔立ちも整っていて、かっこいい。
それでいて、わずか八歳にして、特級昇格間近と噂される優秀な人。
雲の上の存在だよね。
そんなセルリアン様のおかげで、あっという間に文字の読み書きをマスターした。
ある日のこと。
「セルリアン様! 私、さっき先生に褒められたんです! セイラ君の字は読みやすいって! あと、嬉しいことに、ちょっとずつですけど、みんなが授業中に何をしているのか、ようやくわかってきました! セルリアン様のおかげです!」
「そうか。しかし、それは君が努力して得た成果だ。理解が深まれば、以前よりも楽しく学ぶことができるだろう。引き続き励むことだ」
セルリアン様は、メガネをクイッと押し上げながら言った。
「それで、これ⋯⋯お礼にすらならないと思いますけど、これだけ上達しましたという、証明も兼ねていると言いますか⋯⋯」
ドキドキしながら手紙を渡す。
感謝の気持ちを込めて、一生懸命書いたんだけど、ちゃんと伝わるかな。
セルリアン様は、丁寧な手つきで封筒から手紙を取り出し、静かに中身を読む。
「セイラ君、ありがとう」
セルリアン様は、初めて見るような、とびきり優しい表情をしながら頭を撫でてくれた。
メガネの奥の青く澄んだ瞳で、じっと見つめられる。
きれいだな⋯⋯ずっと見ていたくて、目をそらせないから、いつまでも見つめ合ってしまう。
心臓がうるさく騒ぎ出す。
私、いつの間にか、セルリアン様のことを好きになってしまったみたい。
これが初恋⋯⋯
「あ〜! いたいた! セルリア〜ン!」
夢のような時間を強制終了させるかのように、突然聞こえた大きな声。
赤髪赤眼の男の子が、手を振りながら走ってくる。
セルリアン様のお友だち⋯⋯盗賊と同じくらい珍しい、重戦士のボルド様だ。
「最近セルリアンが、可愛い女の子とイチャイチャしてるって聞いたから、見に来ちゃった! 本当に可愛いね〜!」
ボルド様は白い歯を見せながら笑い、顔を近づけてきた。
「あのセルリアンが恋か〜確かに、こんな、かわい子ちゃんなら納得〜」
両肩を掴まれて、激しく前後に揺さぶられる。
どうやらボルド様は、嵐のようなお方らしい。
セルリアン様は、そんなボルド様の首根っこを無言で掴み、私から引き剥がして地面に転がした。
「え〜! 乱暴しないでよ〜!」
「乱暴しているのは君の方だろう。そうやって茶化されるのは迷惑だ」
抗議してくるボルド様に対して、セルリアン様は冷たい声で言った。
そっか、セルリアン様は、私とこんなふうに茶化されるのは、迷惑なんだ。
って当たり前か。
胸が痛んで、喉の奥が締め付けられるような感覚がする。
この状況に耐えられなくて、静かにこの場を立ち去った。
「セイラ君。急にどうしたんだ。どこへ行く」
セルリアン様の声が聞こえたけど、無視して逃げた。