モノワスレ
私達には歴史がない
富士山が見たいと言った彼女の肩を抱きながら私は歩いている、渋谷のどこかなのだろうがここが何処なのかも分からず、次第に頭が空っぽになる恐怖に争うためか、はたまたパトロール中の警官に保護されるのをどこか待っているのか分からずとにかく歩く、84歳と77歳の逃避行。
電車の車内では、手を繋ぐ私達に席を譲りながら若い夫婦が「ずっと仲良しなんですね、羨ましい。」と言った。
きっと長年連れ添った老夫婦だと思ったのだろう。
彼女は若い夫婦にニッコリと微笑み「富士山を見に行くんですよ」と無邪気に言った、彼女の認知症は初めてデイサービスで会った1年前から確実に進み、最近では自分の子供の名前も思い出すのに時間がかかる。
だが、1年前初めて彼女に会った時、この人と一緒になりたいと唐突に思った。77年間で初めての感情だった、その感情を5年生になった孫娘に話すと「素敵ね、おじいちゃんも恋をするんだね」と真剣に聞いてくれた。
何かにつけて富士山を見たいと言う彼女の家に、息子夫婦が買ってくれた電動自転車で向かう、家はデイサービスの送迎車で知っていた。
インターホンを押すと笑って招き入れてくれた彼女に想いを伝える。
「妻に先立たれてからの人生の方が長くなりました。妻が許してくれるとは到底思えないけどあなたを、あなたを愛してしまいそうです。」
彼女は落ち着き払って言う。
「愛って言うのはね、富永さん。」
「佐藤です。」
私はそう訂正するとため息混じりに彼女は言う
「愛って言うのはね、佐藤さん、人生に何回も何回も訪れるものなの、街の喫茶店の店員さんや、近所のハムカツや、公園のカラスにだって愛してしまうことはある。あなたの言う愛ってそう言うこと?」
正直何を言っているか分からなかったが、私は真剣に答える。
「いえ、いやはい。そうかも知れませんが私はずっとあなたのことを考えてしまう、確かに最近の私は下着を汚してしまうことは増えたし、物忘れは酷くなった。だからこそ最後の時をあなたと過ごしたいと思った、身勝手な考えではありますが、一緒にいてはもらえないですか。」
「私もね、富岡さん。」
「佐藤です。」
「佐藤さん、私もね、自分の頭の中が怖いの。デイサービスから帰ってバッグを開けると知らない色鉛筆が入っていたり、一週間前とさっきの出来事の違いが分からなくなる。毎日死んだ主人の仏壇に手を合わせるけど顔も思い出せない。」
「愛されたまま亡くなったご主人が羨ましい。」
それから私達は毎週デイサービスの後こっそり会うようになった、息子夫婦にガスを止められた部屋でコロッケを食べたり、深夜ラジオを聴きながら彼女の部屋でウトウトしたりした。
彼女が私のことを好きかはよく分からない、だが富山とか富原とか呼びながらも隣に座ってくれるようになって、少しづつ昔の話をしてくれるようになった。
「昔ね、息子が生きている時に主人と富士山に行ったの、5合目までだけど雲海が綺麗に見えてねぇでも不思議ね、富士山が全然見えないの。」
「私と富士山を見に行きませんか?明日のデイサービス一緒にサボって電車に乗って、富士山が綺麗に見える公園を知ってるんです。」
そして私達は谷中霊園を越えて電車に乗り、渋谷で降りた、50年前ここで見た富士山が忘れられなかったのだ。
しかし、そこには富士山どころか公園も無くなっていた、馴染みだったバァは駐輪場になり、コッペパンをよく買った店はラブホテルになっていた。
夕暮れが近付く坂を登りきって息を切らしながら彼女に言う、
「富士山、見えなくてすいません。」
「富士山見えなかったわね、あの建物は登れるのかしら?」
それはテレビで見たような初めてのような、とにかく化け物じみたビルジングだった。
私達はなんとか入り口を見つけ47階までエレベーターで上がり、何とかチケットを買い展望広場に出た。
その景色は綺麗かは分からなかったが圧倒的な建物の量と高さだった、そして富士山は見えなかった。
しかし彼女は言う。
「富司さん!見てご覧なさいよ、こんなに美しい世界があったのね」
無邪気にはしゃぐ彼女を見て初めて思う、そうか、彼女は30年前に死んだ妻に似ていたんだ、妻が84歳になったら彼女のようになっていたに違いない。
妻の名前を呼ぶと、彼女が振り返る。
彼女の笑顔がゆっくりと消え、言った
「言ったでしょ?何度も訪れるものなのよ」
それから1年後彼女が入居型施設で亡くなったことを聞いた。
しかしもう私には何も思い出せなくなっていった、彼女の名前も、妻の名前も。