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極光の遥か  作者: 砂原翠
8/15

襲撃

 幾千ものさざ波が光る広大な湖の北岸に、ヒュットネン邸は居を構えていた。湖を渡る冷風を正面から受ける屋敷にて出迎えたのは、人の良さそうな垂れ目と気弱そうな口元が印象的な、壮年の男性だった。

「よくぞ、いらっしゃいました」

「会えて嬉しいぞ、ヒュットネン卿」

 ハンヌ・ヒュットネンは素朴な顔立ちに似合いの落ち着いた所作で握手を求め、俺とシルヴァを応接間へと通した。窓の向こうには緑豊かな庭が広がり、警備の人間がのどかさを打ち消すように数人佇んでいた。向かい合った長椅子に腰掛けると、ハンヌは執事を呼び寄せ、黄金色の液体の入ったグラスを給仕させた。

「我が領地の特産、蜂蜜酒です。健康にも良いと言われておりますので、ぜひ陛下にと」

 グラスを手に取ると、もったりとした蜂蜜の香りが鼻に抜ける。ひとくち口に含めば、安らぐ甘さと熟れた苦味が舌に滲み、口内が火照る。

「美味いな」

「お口に合いまして光栄です」

「俺と話をしたがっていたと聞いているが」

 単刀直入に切り出せば、ハンヌはグラスを掴もうとした手を止め、髪を掻いた。

「……ご婚礼の準備は進んでおられるのですか」

「何故だ」

「キウル家が何やら慌ただしく動いているとの噂を耳にいたしまして」

 蜂蜜酒を飲み下した胃が発熱したような心地がした。ハンヌは穏やかな双眸に、剣呑な光を宿した。

「単刀直入にお聞きしますが、陛下は何をしようとしておられるのですか」

「俺は──誰もが王より偉いと認められる世の中を作りたい」

 半笑いの表情で、ハンヌは凍り付く。

「は?」

「王政と身分制を廃止しようと思っている」

 長い沈黙の後、ハンヌは小さく溜息を吐いた。なだらかな肩がかすかに震えていた。拳を蒼白になるまで握り締め、彼は固い面持ちで言う。

「恐れながら申し上げますと、陛下のお考えは実現不可能だと存じます」

 その言葉の棘を上回る、声音の重さにハンヌの並々ならぬ気迫を感じ、俺は反駁を押し留めた。

「聞こう」

「私も若い頃は、身分にかかわらず、優秀な者が政治に参加できる未来を夢に見ました」

 ハンヌは強張った手でグラスを掴み、蜂蜜酒を薄く口に含む。

「新興貴族だ、成り上がりだ、守銭奴だと言って貴族たちから馬鹿にされてきました。だから生まれ持った地位に胡坐をかいて、他人を見下す愚か者にだけはなりたくないと思っていたのです」

 ──ヒュットネン卿は商才で貴族になられた方。

 アイラの言葉が蘇る。成功の裏に隠された彼の苦悩と理想が垣間見える。しかし、ハンヌはグラスを机に置き、目を伏せた。

「ですが、彼等に寄り添うのは、ほとほと疲れました」

 グラスから伸びる影が、濁った色に揺らめく。

「尽くしても尽くしても尽くしても、際限なく求められる。あげくの果てにあちこちで暴動を起こして国を混乱させる。彼等のような野蛮な連中を国政に参加させるのは危険だと思いました」

 机に落ちた水滴を、ハンヌの太い指が拭った。

「陛下も国のことを思うなら、思い留まった方がよろしいですよ」

 ハンヌの真っ直ぐな視線を受け、俺は息を飲んだ。

 民に主権を託すということは、民の英知を信じるということだ。かつて奴隷として生きていた同胞や、奴隷主として虐げてきた人間や、奴隷制を容認していた傍観者を信頼するということだ。

 俺だって酷く愚かだった。

 奴隷制に押し潰された人生を呪いながら、あいつがいなければ日常を疑うことすらできなかった。あいつを失った悲しみから目を背け、王を殺せば全て解決すると思い込んでいた。

 あの日、俺の刃がユリウスに届いてしまっていたらと思うと肝が冷える。

 でも、俺にはあいつやユリウスがいた。

 ──私たちは、誰もが一番偉い。王よりも。だから絶対に、己に恥じることをしてはいけない。

 ──私の代わりに、等しく民を愛してくれ。愛を捧げ、民に尽くしてくれ。

 愚かだった。浅はかだった。だけど、尊敬できる師がいた。彼等の考え方や生き様から多くを学ぶことができた。

 誰でも間違えることはある。しかも世の中に、単純な正解はない。だから、学ぶしかないのだ。

 誰もが自由に学び、自分と他人の愚かさを背負って立ち、自らの信念に基づいて選択する権利がある。間違いを重ねながら、自分の人生を選び取るべきだ。そうじゃない現在がおかしい。あるべき姿に正すだけなのだ。

 迷いの霧が晴れていく。俺は穏やかな気持ちで微笑んだ。

「ありがとう、ハンヌ。俺の知らないところで、民のために尽力してくれていたんだな」

 ハンヌが大きく目を見開いた。グラスの中の黄金色が、窓から差し込んだ陽光を反射して白く輝く。

「私の領民のことですので……。しかも、私は結局、何もできなかったのです」

「そんなことない。何も変わらなかったわけがないよ」

 あいつの笑顔が、眼裏に浮かぶ。

 短い生の中で、あいつは直接世界を変えたわけじゃない。だけど、あいつの想いは俺を通して世界を今、変えている。

「あんたの努力は、無駄なんかじゃないよ」

 あいつは俺の中で生き続けている。

 ──リューリ。

 心の中で、あいつの名前を呼ぶ。彼女の名前をずっと、口にすることさえできなかった。

 あいつを亡くした日から、ずっと凍り付いていた感情が融け出し、溢れる。

 一つ残らず覚えている。睫毛に優しく翳る目尻も、緩く弧を描く唇も、鋭い三日月に似た横顔も、全部。

「社会を良くしてくれてありがとう」

 語尾が震えた。心がこんなにも燃え立って、気を抜けば泣いてしまいそうなのは、喉を焼いた蜂蜜酒のせいなのだと思った。

 僅かに滲んだ視界の端で、誰かが手を振った気がした。走り去って行く後ろ姿を見届け、俺はやっと、あいつの死を受け入れることができた。

 その時、俺たちが入ってきた方と反対側の扉から、聞き慣れぬ声が飛び込んだ。

「なあ、もういいだろう、ハンヌ」

「ラッセ」

「陛下は、信用できる方だ」

 ドアの前で、ラッセと呼ばれた壮年の男は朗らかに腕を組む。

 吸い込まれそうに鋭利で魅力的な眼差しに、堂々たる風格を放つしなやかな体躯。ラッセは美しい獣を彷彿とさせる男だった。

「何者だ!」

 後ろに控えていたシルヴァが俺を庇うように前に出る。俺は彼女を目線で制し、闖入者と知り合いらしい家主に問い掛ける。

「ハンヌ、説明してくれ」

 焦った様子でハンヌは男の横に立ち、彼を手で指し示した。

「彼の名はラッセ・カートラ。私の学友であり、平民の労働団体の指導者でもあります」

 ハンヌは腰を折り、「ご無礼の理由を説明させてください」と声を震わせた。しかし、ラッセの隣に立った彼は、先程と違い心なしか自信が漲って見えた。

「私は幼い頃から、生まれによって不当に虐げられる者、身分に阻まれ夢を諦める者たちを多く見てきました。そんな現実を変えたくて平民のために動いてきたのですが、貴族の身では彼等の信頼を得ることができず、どうしようもなくなっていたときに、彼が助けてくれたのです」

 紹介されたラッセは、へらりと笑って後頭部に手を遣った。

「ハンヌのことが見ていられなかったからなあ。志は高いのに、器は小さい」

「な……お前……!」

「嘘嘘嘘、冗談だよ。拗ねるなって。志に器が追いつかなくて当然だよ。だって、君の志は前人未到の高みを目指していたんだから」

 照れたハンヌを横目にラッセは飄々と言葉を継ぐ。

「本当のことを言えば、僕は仕事なんかせず、毎日ずっと昼寝をしていたいんだけど」

「それ、昼寝なのか?」

「だけど、この世が不完全なままだと夢見が悪いからなあ。これからも君と皆を助けてあげないと」

 気安く軽快な会話をする二人を前に、俺は呆然と尋ねる。

「俺を試していたのか?」

 蒼白な面持ちでハンヌが弁明する。

「お許しください、陛下。ラッセが粛清されましたら、彼を慕う数多の民が路頭に迷います。確証がないと、陛下と引き合わせることができなかったのです」

 ラッセが一歩前に進み出た。

「陛下のお心を疑って、誠に申し訳ございません。でも僕等の運動は既得利権の剥奪を拒む貴族たちから目の敵にされています」

 真摯な双眸が俺を射抜く。

「僕等は、命懸けで陛下の御前にいるのです」

 冷徹な緊張が走る。しかしそれは一瞬で、ラッセはふっと表情を和らげ人懐こい笑みを浮かべた。

「しかし、陛下が僕等と同じ志をお持ちだとは、この上ない喜びです」

 ラッセとハンヌが頷き合う。

「ようやくここまで来たんだな」

「やっと、私たちの悲願が叶う」

 その声音にはそれまでの険しい苦労と、ようやく掴んだ未来への隠しきれない歓喜が滲んでいた。

「ぜひ、私たちに協力させてください。革新派の貴族や平民は、陛下の革命を支持いたします」

 俺は蜂蜜酒をもう一口喉に通した。火照った頬を冷ますように、彼等の元へ歩み寄る。

 黄金色の酒と同じ色の期待を二人は纏っていた。俺は手を差し出す。

「感謝する」

 二人が一遍に俺の手を握る。三人で交わした握手はどの手の平も汗ばんで、俺たちは笑い合った。

 刹那、突如として平和な空気が破られた。

「陛下!」

 シルヴァが叫ぶ。

「窓の外に不審者が!」

 弾かれたように窓に視線を向けると、横切る人影が見えた。

「警備が……」

 瞠目し、ハンヌが呟く。窓から広がる中庭では、警備が折り重なるように倒れている。

「早くここから脱出を!」

 シルヴァが腰の両側に帯びた剣を抜き、片方を俺に押し付けた。ハンヌとラッセが顔を見合わせ、それぞれ蜂蜜酒のボトルと花瓶を手に取る。まあ、何もないよりはましだろう。

 俺たちはシルヴァを先導として部屋を出ようとしたが、彼女の「離れて!」と制する声に扉から飛び退いた。瞬間、ドアが蹴破られる。

 部屋に雪崩れ込んできたのは、盗賊のような身なりをした輩たちだった。どの男も大柄で、棍や斧、鉈、大鎌、金棒といった物騒な武器を手にしている。

「目的は何だ」

 シルヴァの鋭い問いに、斧を担いだ男が笑う。

「さあ、知らねえな。俺等は雇われただけだからよ。あんたらを殺せってな」

 その言葉を合図に、男たちが襲い掛かってくる。シルヴァが屈み、後ろ足を蹴った。

 一閃。振り下ろされた斧を避け、空いた腹に斬撃を。大鎌を振り上げた男に、素早い蹴撃を喰らわせ転がし、棍を打ち付けてきた男に剣で応戦し、手首を切って棍を落とさせた。

「おお……」

 一瞬で三人の大男をのした彼女に、ラッセが感嘆の声を上げる。

 しかし、シルヴァを薙ぎ倒すように金棒が水平に襲い掛かる。大きく下がった彼女の脇を、鉈を持った男が抜けた。

「陛下!」

 金棒を持った男と交戦しながら、シルヴァが声を張り上げる。鉈を持った男がこちらに駆けてくる。俺の後ろには、ほぼ丸腰のハンヌとラッセがいる。俺は覚悟を決め、剣を構えた。

 真正面から、濃密な殺意を浴びる。恐怖と緊張の裏で、俺の声が言う。

 ──ユリウスもあのとき、こんなに怖かったのか。

 王を殺すと息巻いて、ナイフを振り下ろした日を思い出す。

 ようやく理性に感情が追い付いた。これが後悔だ。目的のためだとしても、復讐だとしても、殺そうとしてはならなかった。

 あんなに奴隷主から振るわれる鞭を恐れていたのに、こんなに単純なことに気付けなかった。あの肌で弾ける痛みを思い出すと、今でも足が竦む。

 目前に迫った男が、鉈を振りかぶる。剣技の訓練でよく、シルヴァが言っていた。

 ──木刀をそんなに怖がってどうする。

 ──そんなこと言ったって、怖いもんは仕方ねーだろ。

 ──恐怖を感じるのは、悪いことではない。ただ、恐怖が動きを鈍らせるのは、死に直結する。恐怖を瞬時の動きに変換することが重要だ。

 シルヴァの太刀筋はいつも無駄がなく、美しかった。

 ──怖いからといって、逃げるのは駄目だ。怖いからこそ前に避け、相手の懐に潜り込んで隙を突くんだ。

 彼女の最小限の動きでこちらを捉える剣戟に比べれば、鉈の軌道は驚くほど大振りだ。

 俺は半身を翻して刃を躱し、後ろ足を蹴って相手の間合いへ踏み込んだ。仰け反った男の肩から、剣を真下に振り下ろす。

 剣が肉を断つ僅かに引き攣れた感覚。血飛沫が頬に散った。

 民を愛して欲しいというユリウスと願いと、ユリウスを助けたいという己の誓いが、胸中で交錯する。

 男は鉈を取り落とし、その場に崩れ落ちた。剣を握る手に力を込める。矛盾。この心は相反する感情に溢れている。

 どちらの感情も大切にすればいいというシルヴァの言葉、己に恥じることをしてはいけないというリューリの言葉。その本当の意味をまだ理解できたわけではないけれど。迷いも混乱も連れて行く。きっと、そうしないと辿り着けない地平がある気がするから。

「陛下、ご無事ですか」

 金棒の男を倒したシルヴァが駆け寄る。

「ああ、平気だ。ハンヌとラッセも怪我はないか」

 振り向けば、青ざめたハンヌが「大丈夫です」としどろもどろに答え、ラッセが「守っていただき、ありがとうございます」と頭を下げた。

 それから手分けして賊を縛り上げ、怪我をした従者たちに手当てを施し、ようやく一息ついた俺に思い詰めた顔でハンヌは言った。

「申し訳ございません。賊の襲撃を許したのは、私の落ち度です」

「雇い主に心当たりは」

 シルヴァの問いに、ラッセが首を横に振る。

「僕等の運動は各方面から疎まれているので、現段階では何とも申し上げられません。しかし、必ずや首謀者を見つけ出します」

 屋敷を出る頃には日は既に大きく傾き、茫洋と鎮座する湖は斜陽に照らされ、蜂蜜色に染め上げられていた。刺客によって、ヒュットネン家からも護衛騎士からも多くの被害が出た。馬車から強風に荒れる水面を眺めながら、俺は今回の急襲と先の落石事故を結び付けずにはいられなかった。

拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

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