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極光の遥か  作者: 砂原翠
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負い目

 切先が夏空に閃き、勢いよく振り下ろされる。それを何とか刀身で防ぐと次は刀が翻り、最小限の動作で俺の肩を突いた。

 衝撃と驚きに地面へと倒れ込んだ俺に、シルヴァの叱責が降ってくる。

「動きが固いぞ。木刀を怖がってどうする」

 投げ出した四肢の全てが痛む。護衛騎士であるシルヴァに剣の稽古をつけてくれと頼んだのは自分だったが、訓練がここまで苛酷なのは誤算だった。

 空を見上げ、地を這うような声を絞り出す。

「あー、何かすげー気持ち悪い」

「どこか痛めたか?」

 しゃがみ込んで俺を覗き込むシルヴァに、首を横に振って応える。

 晴天の青の眩しさに眉を顰め、俺は言う。

「ずっと王様のこと恨んでいた。その憎しみが、俺を突き動かしてきた。だけど最近、それが濁ってきた。ユリウスの孤独や苦しみを知る度、助けてやりてーと思う。何もできなくても、傍にいてやりたいと思う。でもそれっておかしいだろ?」

「何がだ?」

 眼球を刺す日差しに目を閉じれば、空の色と正反対の赤に視界が滲む。

「だって、殺してやりたい気持ちが消えたわけじゃないのに、味方になってやりたい気持ちもある。心が真っ二つになって、気持ち悪くて、苦しい。なあ、どっちの感情が間違ってるんだと思う?」

 縋るようにシルヴァを見上げれば、彼女は嘆息して地面に座り込んだ。

「どちらも間違ってるわけないだろう。相反する心が共存することだってある」

「こんなに苦しいのが普通なのか? やってらんねーよ」

「苦しくなくなる方法を教えてやろうか?」

 彼女の言葉に、俺は弾かれたように起き上がる。

「知りたい」

 目が合うと、シルヴァは乱れた前髪を耳に掛け、頬を緩めた。

「どちらの感情も大切にすればいい」

 唖然と俺は口を開く。

「はあ? それだけ?」

「どちらかが間違っているはずだと、否定しようとするから苦しいんだ。心は容易く矛盾し、錯綜する。だから都合の悪い感情も受け入れ、その上で理性に基づき行動すればいい」

「いや、それができないから苦しいんじゃん」

 声になった抗議の幼稚さに、自分で呆れてしまう。照れ隠しに頭を掻くと、何だか気が抜けて笑い声が唇から零れた。

「もう一回」

 立ち上がりながら、シルヴァに提案する。彼女も頷き、起立する。

 互いに木刀を構えながら、間合いを計る。

 先の落石事故が人為的なものである証拠は見つからなかった。騎士団は暗殺未遂も視野に入れて調査をしたが、どうやら数日前の大雨で地盤が緩んでいたことが分かった。けれど、貴族の権益を解体しようとするユリウスを、疎む者たちがいるのも確からしい。

 ユリウスの力になりたい。権力の頂点で一人、病と理想に苦しみ続ける彼の味方でいたい。

 自分の願いのためだけでなく、ユリウスのためにも強くなりたい。剣の師匠は厳しいが、幾ら痣や傷を作ろうと諦めたくない。

 後ろ足で地面を蹴って、シルヴァに切り掛かる。鋭い太刀筋で応戦され、怯む心を叱咤し攻撃する。木刀がぶつかり合う乾いた音が、遠い雲へと吸い込まれていった。


 窓の外の陽気とは対照に、ユリウスの表情は翳っていた。ベッドから起こした背は苦しげに丸まって、しかし視線は手元の資料から離れない。

「事故の負傷者や遺族への補償は一通り済んだが、反応はどうだ?」

 ベッドの脇に椅子を寄せて、俺は答える。

「感謝されたよ。当面の生活は心配ないし、王の心遣いに救われるって」

「──そうか。レオも体調は戻ってきたか」

 固い声で問われ、俺は頬を掻いた。

「俺は平気だ。夜も眠れるし、飯も食えてる。俺よりあんたの方が、根を詰め過ぎじゃないのか」

「私はいいんだ。私のために命を懸けている人間がいるのに、寝てばかりもいられない」

 自分の体が作った影の中で、ユリウスの両手が震えていた。「なあ、レオ」陰鬱な声が、神妙に切り出した。

「一応伝えておくが、契約を破棄するなら、いつでも受け入れるぞ」

 淡々とした言葉が、鋭く俺の胸を貫いた。床が抜け、体が宙に投げ出される感覚がする。倒れそうになるのを何とか両足で耐える俺に、ユリウスが追い打ちを掛ける。

「もちろん、お前が影武者を辞めたとしても、憲法は予定通り評議会に諮る。王制と身分制の廃止のために尽力すると誓おう」

 血がざっと下がり呆然とした頭で、ユリウスを見つめる。俯き、こちらを見ようともしない王様に怒りが瞬時に沸騰するが、前髪の隙間から覗く双眸を映したとき、弾けそうだった感情は萎んでしまった。

「何を一人で思い悩んでいるんだよ」

 事故の直後、ユリウスは俺の混乱を受け止めてくれた。揺らぐことがないと思っていた彼はしかし、日が経つにつれ明らかに憔悴していった。そして今、ユリウスの瞳の奥に揺れる光は、千々に砕け散り、跡形もなく消え去ってしまいそうだった。

 震える手の平が、ユリウスの顔を覆い隠す。

「……私の身代わりでお前が死んでしまったらと思うと、怖くてたまらないんだ」

 丸まった背中はついに布団へと突っ伏してしまった。

「多くの犠牲の上に王位に座すことを、覚悟していたつもりだった。なのに、犠牲になるのがレオかもしれないと思うだけで、あれから夜も眠るのが怖いんだ。情けないだろう」

 これは誰だろう、と思う。

 いつも冷静で凛とした王の姿はどこにもなかった。知らない男だ。王座の威光の影に隠れた、あまりにも無垢で無防備な心だった。

「レオ。お前が隣にいてくれると、正しく生きられる気がする。だが、私のせいでお前を殺されてしまったら、私はもう一生太陽の下で生きる資格を失う気がする」

 窓から差し込む光を受け、ユリウスの背中の薄さが際立った。寝間着に包まれた肌のすぐ下に隆起した背骨が、細やかな影を象った。その儚さに誘われて、思わず俺は歩み寄った。触れた肩は想像通りに貧相で、この脆さを白日の下に曝け出したいという欲望に抗えなかった。

「──俺が、大切か」

 縋るように、ユリウスが俺を見上げた。蒼白な頬に、一筋の涙が伝う。

「私の民を、全て等しく愛している。──はずなのに、レオだけ違うのだろうか」

 彼を、救わなければならない。自分の手で壊しておきながら、強くそう思った。

「違うものか」

 ユリウスは強い人間だ。憎しみや願望を全てぶつけたとしても、飲み込んでしまえる王の器を持っている。だが、俺の指先は、今や簡単に彼の心を砕くことができる。

 だからこそ、俺が守らなければならない。

「あんたは、勘違いしている。俺が特別大切なわけじゃない。あんたは俺に負い目があるから、罪を重ねるのが恐ろしいだけだ」

 俺に真っ直ぐ見入るユリウスの、その純粋が恐ろしかった。暗い両目に差し込んでいく光の意味するものが、怖くて仕方なかった。

「だけどあんたは、どんな罪も罪悪感も背負って生きることができる人間だ。そうだろう?」

 ユリウスを安心させたくて笑う。鏡映しのように彼の表情も緩んでいくことが、絶望をより一層深くした。

「怖がらなくていい。今は俺が表に立つ王だ。あんたの罪は、俺の罪でもある。俺にだって覚悟はある。二人で背負おう」

 嘘じゃない。どんな危険も理解した上で、俺は自分の意思でここにいる。彼に、余計な心配をしないで欲しい。決して偽りでないはずの言葉が、舌に絡み付き、もつれさせるのは何故だろう。

 ユリウスが微笑む。後には引けなくなって、俺は言う。

「臆せず行こう。俺たちは、この国で誰も成し遂げられなかったことに挑戦するんだから」

 ──王を殺す。

 執念にも似た願望が、蛇になって俺の心臓を絞め殺す。

 狂気のごとく澄んでいた思いが、世界の鮮やかさを知ってしまった。一度混ざってしまった色は戻らない。

 邪念を断ち切り、俺は明るくユリウスに尋ねた。

「それより、アイラが言ってた革新派の大臣の件はどうなった?」

「ハンヌ・ヒュットネン卿のことか」

 ユリウスは手元の紙束の一番後ろから、一枚の便箋を取り出した。折り目のついたそれを日に透かしてみせる。

「使者を向かわせたら、手紙が寄越された。政治に関する意見交換会を開きたい、だと」

 窺うような目線に、当然だと頷く。

「行こう」

 ユリウスの部屋を出ると、ようやく満足に呼吸ができた。ドアを背に蹲る。

 ──どちらの感情も大切にすればいい。

 シルヴァの言葉が蘇って、力なく笑う。大切にして、いいのだろうか。大切にする権利があるのだろうか。

 塔の廊下は暗く冷たく、けれどその排他性だけが俺の歪んだ心を許している気がした。


「お加減が優れませんか?」

 執務室の花瓶の手入れをしながら、レベッカが口を開いた。俺は椅子の背凭れに体重を預け、彼女の細い指先が一輪の花を花瓶から抜き取るのを眺めた。

「いや、体調は悪くない」

「午後から、ヒュットネン卿の屋敷へ向かわれるのですよね」

「ああ。レベッカにも話していたか?」

「秘書官ですもの、陛下の予定は全て把握しておりますわ」

 深紅の薔薇を頬に寄せ、レベッカは悠然と微笑む。美しい花弁と唇の曲線に見惚れながら、俺はぼんやりとユリウスの言葉を思い出していた。

 ──私の代わりに、等しく民を愛してくれ。

 執務机に乱雑に広げられた書類を脇に寄せて、問い掛ける。

「そう言えば、レベッカには聞いたことなかったな。あんたは、王や国に何か要望はないか?」

 彼女は長い睫毛を数度瞬かせ、手元の赤に目を落とした。

「……色を、忘れたくないのです」

 形の良い爪が、慈しむように一輪を撫でる。

「孤児だったとき、世界にとって私は透明でした。いてもいなくても同じの、どうでもいいもの。取るに足りない、つまらないもの」

 俯いたレベッカの表情が曇る。彼女の手が花びらを覆い隠し、ぐしゃりと握り潰した。

 顔を上げた彼女と目が合う。痛みをこらえる笑顔だった。彼女がゆっくりと手の平を開くと、鮮血に見紛う眩さが目を刺した。

「養父母が透明だった私を見出し、色を付けてくれたのです。そうしてやっと、私も灰色の人生を抜け出し、色とりどりの世界を知ったのです」

 ゆっくりと、レベッカがこちらに歩み寄る。思わず俺も椅子を立った。至近距離で見つめ合うと、彼女の瞳の細やかな煌めきに息が止まる。

 それは、夢のような一瞬だった。

 レベッカがぱっと、花を降らせた。薔薇から毟った花弁を宙へと放り投げたのだった。舞い散る赤に彩られ、彼女は一層美しさを放つ。

「楽しい世界にしてくださいな。永遠に生きることに飽いてしまわないくらい」

 無邪気とも妖艶ともつかない声音だった。薔薇の青く芳しい香りに脳が占められる。

 レベッカがこちらに手を伸ばした。俺の肩に舞い落ちた赤を摘まみ上げ、首を傾げる。

「陛下は? どんな世界を望まれるのですか?」

 彼女が差し出した花弁を受け取り、俺は目線の高さに掲げてみせた。

「楽しい、か……考えたことなかったな。俺にとっての世界は、楽しいとか楽しくないとか以前に、辛く険しい場所だったから」

「まあ、それはもったいないですわね。人生を十分に謳歌しておられないということではありませんか」

 そう言うと、彼女は俺の手を取った。温かな体温と滑らかな肌に、呼吸が止まる。

「まだお時間に余裕がありますわね?」

 わけの分らぬまま頷くと、レベッカは撒き散らした花弁をハイヒールで軽やかに踏み付け、俺の手を引いて執務室を飛び出した。

 入り口付近に控えていたシルヴァが驚いてこちらを見る。彼女に向け、レベッカはふっくらとした唇に人差し指を当て、片目をぱちりと瞑って走り去る。

「どこへ行くんだ」

「すぐですわ」

 階段を駆け上り、王宮の最上階に辿り着く。心臓が跳ね、息が弾む。南に面した廊下の大窓を、レベッカが一気に開く。その勢いで外へと倒れ込みそうになった体躯を、とっさに腕を掴んで引き留めると、満面の笑みが俺の視界を満たした。

「陛下、見てください!」

 開け放たれた窓から吹き込む風を、正面から浴びる。

 見渡す限りの蒼穹に、目が眩む。陽光を受けたレベッカの表情が、より一層明るく輝く。

「これが私たちの国です! 色に溢れておりますわ」

 色とりどりの建物の屋根が、緑鮮やかな森林が、光を纏って蛇行する川が、目下に延々と広がる。空の果てを掴もうとするように、レベッカが腕を伸ばす。

「生きることって素晴らしいですわ。人の上に立つ陛下が、誰よりも人生の価値を信じてくださらないと、民も未来に希望を持てませんわ」

 強風が舞い込み、レベッカの細い髪が縦横無尽に宙へ遊ぶ。彼女の弾む感情が、ぱちぱちと俺の肌の表面で跳ねる。俺は目を細め、目の前の美しい女を見た。

「ありがとう。心が楽になった」

「お安い御用です。わたくし、気晴らしの手段なら幾つも持っておりますのよ。気が塞いだら、お声を掛けてくださいな」

 彼女の乱れた髪の一房を掬い、耳に掛けてやる。そうすると、悪戯な笑みを零してレベッカは空を見上げ、双眸に澄んだ青を宿した。天と地の境界へと視線を投げると、雪の衣を羽織った山脈が雲を纏って淡く霞んでいた。

拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

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