婚約者
とんでもなくよく眠れた気がする。体の軽さがいつもと段違いだ。関節の軋みも、筋肉の倦怠も、締め付けられるような頭痛も、視界の靄もなにもない。そう思って寝返りを打ったとき、俺は呼吸を忘れた。
眼前に、蒼白な顔があった。
閉じた瞼はひたすらに透けて、血管も骨さえも浮き出てきそうだった。表情は安らかで、まるで彫刻を見ているようだ。触れれば固く、冷たい気がした。
「ユリウス」
囁くように呼んだ。恐れと痛みが混じった感情が言う。こいつはもう、生きていないんじゃないか。
ざまあみろ。頭の端で誰かが言う。俺が殺す前に死んでんじゃねーよ。反対側の端で、別の誰かが言った。どちらも俺の声のようで、そうじゃない。
「なあ、起きろよ」
俺は、ユリウスの口元に手を伸ばした。指先で、吐息に触れないと安心できなかった。
生きていて欲しい。はっきりと願った。冷たくなったあいつを思い出した。魂が抜けた肉体は、もう人間じゃない。そう思うほどはっきりと、容貌が変化するのを知っていた。
もう少しで指の皮膚が熱に触れる、そのときぱちりとユリウスの双眸が開いた。
「おはよう」
寝起きの顔が笑う。俺は慌てて手を引っ込め、後ずさった勢いのままベッドから転げ落ちた。
「朝からレオは元気だな」
朗らかな声がベッドから降ってくる。舌打ちを落とし俺が起き上がると、暢気なユリウスが笑い掛ける。
「昨晩は楽しかったな」
「俺は楽しくなかった。もう絶対にお前と一緒には眠らない」
ユリウスは「せっかくの青春だったのに……」だの何だのもごもごと言っていたが、無視する。こいつが死んでるかと思って、心臓が止まるほど怖かった。その事実が屈辱だった。怒りに反して涙が滲んでしまいそうなくらいに。こんな感情は二度とごめんだった。
特に気分を害した様子もなく、ユリウスが唐突に提案する。
「なあレオ、今日は特段用事がなかっただろう。私の婚約者に会いに行かないか?」
「あ?」
耳を疑った。婚約者?
「そんなもんいたのか?」
ベッドに横臥したまま、ユリウスは壁を指さした。前王と王妃が描かれた肖像画の横に、ユリウスが描かれた肖像画が飾られている。その絵の中に、ユリウスに寄り添う女性の姿があった。
「あれが婚約者?」
「そうだ」
俺は溜息を吐く。
「よくあるやつ……」
「よくあるやつだろう」
壁に飾られた肖像画はどれも、美しく立派に描かれているものの人物の特徴を捉えているとは言い難く、ぼんやりとした顔立ちのどこにでもいそうな人物が堂々と鎮座している。
「参考にならないだろ」
「雰囲気程度なら、似てなくもない」
「参考にならないってことだな」
匙を投げてベッドに腰掛けると、ユリウスがこちらを見上げる。窓から差し込む陽光に包まれ、先程より心なしか血色が良さそうに見える。
「評議会の勢力は、大きく三つに分かれている。現体制の変革を目指す改革派、現体制の保持を志向する保守派、中道の中立派だ」
以前もそんな説明を受けた覚えがある。うろ覚えな記憶に、ユリウスの穏やかな声が染み込む。
「私の婚約者アイラの生家、キウル家は、中立派の中心となっている家門だ。評議会で憲法を通すには過半数の賛成がいる。ぜひともキウル家は味方につけたい」
「説得しろって?」
ユリウスの顔は半分枕に沈み、心地良さそうに瞼が閉じられる。
「アイラは聡明な女性だ。真摯に話せば必ず応えてくれる」
「おい、顔も分からないのに大丈夫かよ。何かもっと情報はないのか」
微笑みのまま、ユリウスは停止する。
「おい。おいって」
寝やがった。俺は天井を仰ぐ。呆れた。だが、冷たくしこっていた恐怖は綺麗さっぱり消え失せた。どうやら朝陽に溶かされたらしい。俺は腹いせにユリウスの銀髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜ、王の寝室を後にした。
馬車を下りると、キウル家の大勢の使用人たちに出迎えられる。
今朝のユリウスはあたかもその場の思い付きのように提案してきたが、その実俺の予定も把握して、アイラへの根回しも全て済んでいたようだった。
用意周到な奴。憎まれ口を飲み込んで、豪奢な門扉をくぐれば、玄関ホールで待っていたのは年端も行かぬ少女だった。
「お久しゅうございます、陛下」
煌びやかなドレスに身を包んだ彼女は、優雅に礼をする。年齢は十歳前後。黒々とした豊かな髪が艶めいていた。彼女が顔を上げると、凛々しい眉と目尻の跳ねた双眸に射竦められる。
「ああ、久しいな」
応えながら、俺は傍らに控えたシルヴァに目配せをする。
こいつは誰だ。助けてくれ。視線に念を込めてみたが、彼女は表情を強張らせ、頷くだけだ。
馬車の中でアイラの特徴を聞いたときもそうだった。「アイラ様は、眉目秀麗で聡慧なご令嬢で……」だの何だの延々と聞かされたが、どんな奴なのかさっぱり分からなかった。
とりあえず、目の前の少女の幼さだ。きっと彼女の姉が応接間で待っているに違いない。俺は見当をつけ、少女に向かって微笑んで見せた。
「姉上は息災か?」
「姉? 私には兄と弟妹しかおりませんが」
じゃあ何だ、こいつは婚約者の連れ子か……? そんな重要なこと、最初から教えといてくれよ。俺は推理を軌道修正する。
「じゃあ、母君は元気か?」
「ええ、母もご挨拶をしたいと申しておりましたのに、父の仕事の都合でご挨拶もできず、謝っておりましたわ」
父? 離婚も死亡もしてないのか? ユリウスの婚約者は一体誰だ。叔母か? 従姉か?
冷汗が噴き出す。隣のシルヴァも顔色が悪くなる一方だし、俺は白旗を揚げる。どうせ負けを認めるなら、正直に尋ねる方が良いだろう。
「それで今日は、俺の婚約者に会いに来たのだが」
「私ですが」
私ですが?
想定外の答えに俺は凍り付く。視界の端にシルヴァが頭を抱えているのが映る。
だって分かるか? 女児だぞ? ユリウスの奴、ガキが好きなのか? 見損なったぞ!
「だって、こんな小さな子ども……」
「何を仰っているのです。そういう取引だったではありませんか。お聞きになっておりませんの?」
盛大な溜め息を吐き、アイラは「ついていらしてください」と俺たちを応接間に通した。使用人たちを全て下げ、テーブルを挟んだソファーから向かい合う。
「で、あなたは誰ですか?」
「誰って、俺はあんたの婚約者だよ……」
「建前はよろしくてよ。本当のことを教えてくださる? そうでないと、私の婚約者様を守れませんわ」
アイラはこちらを見上げているはずなのに、見下ろされているような冷徹な眼差しが俺を刺す。ソファーの後ろで起立するシルヴァを見ると、彼女は項垂れ首を左右に振った。
仕方ない。俺は腹を括り、これまでの経緯を洗いざらいアイラに打ち明けた。
「影武者? 正気ですか?」
ようやく口を開いたアイラの声音は、呆れと蔑みを纏っていた。
「あなたみたいな残念なおつむで、王の代理が務まるのかしら」
「残念で悪かったな!」
「本気で言っておりますのよ。病弱で政の場に姿を現さないより、身代わりに政を任せていたことが露見した王の方が、権威失墜の度合いがずっと大きいですもの」
彼女の言葉は一切の抵抗なく、俺の奥深くへと差し込まれた。
俺とユリウス、互いの利になる対等な契約だと思っていた。けれど、俺がユリウスに負担を強いている度合いの方がずっと大きいのかもしれないと、やっと思い至る。
膝の上で強く、拳を握る。
違う。ユリウスは「等しく民を愛してくれ」と言った。保身を考えるような王じゃない。困難や不利益を天秤に掛けるまでもなく、何を賭けたとしても掴み取りたいものがある。
「ユリウスは、俺を信じてくれた。その信頼の他に、何の保証が要る」
幼い顔付きが厳しく尖り、アイラが俺を睨み付ける。
「あなたが、私の婚約者様を誑かしたの」
か細い手が、テーブルを叩く。
「だって、さっきの話、まともじゃないわ。身分制は最早、国の根幹を成している。それを取り払ってしまえば秩序が破壊され、民は混乱に陥るでしょう。疑心暗鬼がはびこり、犯罪が横行するわ」
「じゃあ! あんたはこの不平等に満足してるのか? 秩序のために自由や感情が踏み付けられるのを、許せるのか? こんな社会のままで、存続させる価値あんのかよ」
鞭で打たれ、死んでいった奴隷たち。貧民街で冷たくなる下層民。病苦に鞭打って政を行う王。そんな犠牲で成り立つ社会ならいっそ、壊れてしまった方がマシじゃないのか?
暗い衝動が心臓を掴む。息が苦しい。前のめりになって胸を押さえた俺の髪を、一陣の風が撫でた。
颯爽と、アイラが立ち上がった。顔を上げられず、その表情は見えない。落とされた声からも、感情は読み取れなかった。
「ないわね」
「へ」
「こんな社会壊してしまいたいのは、私の方よ」
呼吸が楽になる。やっと顔を上げたそのときには、アイラは体を翻し、窓際へと歩を進めていた。
大窓からの光を浴び、小柄な体躯の輪郭が白く霞んでいた。薄い背中は影を帯び、酷く遠く見えた。
「私と陛下はね、子を成さないことを条件に婚約したのよ」
語る言葉は無機質で、幾重にも感情を捻じ曲げ、押し殺すのに慣れていることが窺える。
「あのお方は自分の寿命を分かっておられて、後ろ盾もない我が子に王位を譲ることをよしとしなかった。私は、誰にも恋愛感情を持てないのよ」
小さな息継ぎに、空気が震える。
「貴族は政略結婚ばかりだし、家門のために感情なんて無視されるのが当然のこと。だけど私はどうしても、誰かと愛を囁き合ったり、肌を触れ合わせたりすることに耐えられなかった。私と陛下は利害が一致した共犯関係だったの」
ゆっくりとアイラが振り向く。逆光で、その面持ちは掻き消される。
「両親は、私に好きなようにすれば良いと言ってくれた。私が、この不自由な社会で、自分だけ自由を享受するのが許せなかったの」
俺の目が、眩さに慣れてきた。逆光の中の、微細な表情が少しずつ読み取れてくる。
「ねえ、あなたの目指す社会でなら、私は自分を曲げずに済んだの? 両親に、娘に無理を強いたと自責させずに済んだの? ただ自分を貫くという選択が、大切な人たちへの裏切りにならずに済んだの?」
壮絶な笑みだった。怒りと、失意と、悲しみが、笑顔の下でせめぎ合っていた。
彼女が自分を殺し耐え忍んできた日々が、その笑みに滲んでいた。
声が喉につっかえた。全身の骨が全て、鉛になってしまったようだった。
──私の代わりに、等しく民を愛してくれ。
不意に、ユリウスの声が蘇った。愛するということが何なのか、まだ俺には分からない。けれどアイラもロイヴァス王国の民であるから、ユリウスの愛が注ぐことに疑いはない。彼ならきっと、アイラを一人にしない。
四肢の硬直が溶け、俺はソファーから立ち上がった。彼女の元へ歩み寄ると、酷く暗い双眸が俺を睨め付ける。
愛なんて知らない。だけど俺は、愛と呼べるものを受け取ってきた気がする。俺に理想を語り、物を教えたあいつから、そしてユリウスからも──
「まだ、何も手遅れじゃない」
死人は還らない。でも、アイラや彼女の家族の後悔は、まだ取り返せる。
「誰もが自由に生きられる国を、一緒に作ろう」
アイラの緊張が、ふっと緩んだ。自らの弛緩を恥じるように、ぱっと顔を逸らす。あどけない仕草だった。彼女は唇を強く噛み締め、そして薄く息を吐いた。
「──自由になりたい。自由に生きたい。本当はずっと、そう望んでいた。その願いは、間違いじゃなかったのね」
彼女は震える手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。小さな嗚咽が部屋に満ちる。柔らかな陽射しが、彼女を抱擁する。窓の向こうには、丹念に手入れされた庭が見える。優しい風が木々をそよがせ通り抜けていく。どこまでも、吹き渡っていた。
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