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極光の遥か  作者: 砂原翠
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 机の上で組んだ指先が、白く強張ってきた。

 俺は王の執務室で、会議の呼び出しを待っていた。

「そろそろ、レオにも政務を始めてもらおうか」

 ユリウスがそう切り出したのは、つい昨晩のことだった。

「明日の昼に会議がある。まずはそれに出て、感触を掴め」

「いや、でも俺自信ねーよ。政治のこととかちゃんと理解できてねえ」

「大丈夫だ。とりあえずお前は難しい顔をして、大臣たちの話を聞いていれば良い。分からないことがあれば、その場で聞かず、後で私に確認しろ」

 そうは言われたものの、知識不足の状態で影武者が務まるのか不安しかなかったが、ノックの音に俺は覚悟を決めた。

 入室を促せば、ドアを潜って入ってきたのは俺より少し年上ぐらいの若い女だった。

「この度、秘書官を拝命いたしましたレベッカ・ヘルレヴィと申します」

 たおやかに礼をすると、豊かに波打つ髪が一房胸元に落ちる。しなやかな動作で背筋が伸び、顔が上がる。潤んで細かい光の粒が躍る大きな瞳、つんと尖った鼻先、バラ色に染まったふっくらと丸い頬。

 朗らかに自信に満ちた声が言う。

「早速でございますが、お時間ですので、会議場までお願いいたします」

 案内された扉の前で、レベッカは笑みを象った唇で囁いた。

「緊張されてますか?」

「──え? ああ、してるかもな」

「わたくしもですわ。緊張で、朝ご飯も胃が通らなくて。お腹が鳴ってしまったら、心の中で笑ってくださいね」

 気安い言葉に俺は思わず相好を崩した。

「あんたみたいに話しやすい貴族は初めてだ」

 レベッカは数回瞬くと、くしゃりと笑みを零す。

「陛下はご存じかもしれませんが、わたくし下賤の出身ですの。亡くなった娘に似てるということで、今の両親に引き取られまして。失礼がありましたら申し訳ございませんわ」

「いや。おかげで気が楽になった」

 小さく頷き、レベッカが扉を開けた。

 豪勢な長机を大臣たちが起立して囲んでいる。統率の取れた軍隊のように一斉に下げられた頭に、俺は唾を飲み込んだ。

 異様な光景に圧倒され俺が立ち尽くしていると、手の甲にこつんと衝撃があった。レベッカの華奢な拳が、俺の手に触れていた。目線が合い、彼女が微笑む。

 俺は頷き、室内へ踏み入った。

 一番奥の席に着席し、「座れ」と大臣たちに声をかける。座席順で、どの人物が何の大臣かはユリウスから聞いていた。椅子の音が鳴り止むと、左隣に着席した国務大臣が高らかに宣言する。

「これより、閣僚会議を開催する」

 顰め面で会話の流れに耳を澄ませていると、段々と議論が白熱していく。どうやらこの会議の主題は、ロイヴァス王国北部地方にて平民の暴動が頻発していることらしかった。

「問題の根幹は、職が不足していることです」

 産業大臣が言う。

「奴隷解放により安価な労働者が溢れ、賃金も下落しています。元奴隷が多く暮らす地区は、犯罪も頻発し、治安の悪化も懸念されています。逆に、元奴隷への暴力も横行しています」

「下級労働者の仕業でしょう。ヒュットネン卿のお力で抑えられないのですか」

 国防大臣が、法務大臣を見る。

「いやあ。私が全てを把握しているわけではないですからねえ」

 法務大臣が首を竦めると、会議場はざわめき出す。いくつかの視線が控えめに、しかし冷徹に俺を刺す。

「厄介な問題を抱え込むことになりましたな」

「現実は理想通りにいきませんからね」

 俺の鼓膜に届くか届かないかの、ぎりぎりの声量。唐突に思い至る。ユリウスは、奴隷を解放した王なのだ。俺にとっても、臣下にとっても。

 瞬間、全身の血液が沸騰しそうになる。

 ──じゃあ、あんた等は奴隷なんか解放しない方が良かったなんて言うのか!

 咄嗟に頬の内側に歯を立て、言葉を噛み殺した。唾液に鉄の味が滲む。こんな奴等に、俺の急所を晒してたまるか。

 俺は目を細め、腹の底から地を這うような声を出した。

「泣き言を喚く無能しかいないのか、ここには」

 会議場が静まり返る。衣擦れの音のみが嫌に耳に響いた。誰もが呼吸さえ潜める中、軽やかな声音が静寂を射止めた。

「雇用の創出が急務ですわ」

 俺の右隣に着席していたレベッカが歌うように続ける。

「この春にも、雪解け水の洪水で多くの村が水没しました。治水事業は現在も進めておりますが、雇用を増やすためにより多くの公金を投入し、事業を拡大するのはいかがでしょうか」

 彼女の人懐こい双眸が俺を見た。俺は国務大臣に目を遣る。

「可能か?」

 彼は財務大臣と目配せをし、「必要な予算と技術者の数を計算いたします」と述べた。

 ようやく会議が纏まり執務室に戻ると、緊張が解け疲労が押し寄せる。頭痛に額を押さえながら椅子に腰掛けると、レベッカが「医者を呼んでまいりましょうか」と俺を覗き込んだ。

 顔を伏せたまま、俺は彼女の血色の良い手首を睨んで言った。

「俺が病弱で、理想ばかり追っているから、大臣たちの信任も得られないのか」

 沈黙が堕ちる。ドレスの裾が絨毯に広がり、レベッカがその場にしゃがみ込んだ。穏やかな眼差しで、彼女は微笑む。

「……わたくしの家は代々鉄鉱山を所有しており、そこでは数多くの奴隷を使役しておりました」

 優しく、語り掛けるような響き。

「奴隷解放により元奴隷たちを労働者として雇用し、給金を支払うようになりました。すると労働の効率が大幅に上がり、彼等に支払う賃金を差し引いても、十分な利益が出るようになりました」

 俺が顔を上げると、彼女もすっと立ち上がる。

「自分が労働者として認められ、正当な対価が出ること。それが彼等の自信と意欲に繋がっているのでしょう」

 たおやかな仕草で歩み寄り、彼女は俺の手に指先を重ねた。

「陛下は、大勢の国民の尊厳を救ったのです」

 塔へ戻ると俺は、真っ直ぐにユリウスの寝所へ向かった。ノックもせずに中へ入る。もう既に日は落ち、室内の明かりは暖炉のみとなっていた。開口一番に問い掛ける。

「何で、奴隷を解放したんだ」

 彼の顔を見るのが怖かった。自由を得たことに、確かに喜びを感じたこと。そしてそれ以上の怒りと悲しみが溢れたこと。そうやって今まで何とか繋ぎ止めていた心が、彼の返答次第で砕け散って戻らないであろうことが分かっていた。

 しかし、ユリウスは堂々と宣言する。

「奴隷も私の民だからだ。他に理由は要るか?」

 目を瞠る。奴隷解放がこの国にもたらしたもの全て理解した上で、それがユリウスの答えだった。

 鞭を打たれながら、心身を酷使した日々。その中でも気高さを失わなかった者の姿。懲罰後に冷たくなった同胞の体。目に焼き付いて離れない記憶の断片が、瞳孔に突き刺さって視界が滲んだ。

「要らねえよ。要らねえ……」

 声が震えた。嗚咽が込み上げ、その場にへたり込む。

「俺はなあ、物心ついたときから奴隷だったんだ」

「……そうか」

 短い逡巡の後、決然とした声が言う。

「私の力が及ばず、辛い思いをさせた。多くの命を救えなかった。本当にすまなかった」

「許せねえよ。一生許すかよ」

 弱々しい足音が聞こえた。覆い被さった体は、酷く痩せて薄かった。

「ああ。当然だ。許さなくていい。許さないまま、私と一緒により良い国を創ってくれ」

 枯葉のような腕で抱き寄せられる。必死に生き延びた月日の内に、失ったものの数々が胸に去来して、感情を掻き混ぜていく。もう会えない笑顔が、思い出の中でしか聞けない声が、記憶からすら消えかかっている体温が、体の内側から心を揺らす。

 ──私たちは、誰もが一番偉い。王よりも。

 祈るように、脳裏にこだまする言葉に縋る。

 ユリウスへと回した腕に力が籠る。細い腕が同じ強さで抱き返してくれること。その事実だけが、俺の呼吸を繋いでいた。

 乱れた呼吸が落ち着いた頃、俺はユリウスを支えベッドに連れて行った。

「おい、王様」

 ふざけて呼び掛ける。

「あんた、臣下から馬鹿にされてるんじゃねえのか」

 苦笑し、ユリウスはベッドに横臥する。

「まあな。病弱で臥せっている頼りない上司だ。忠誠は捧げ辛いだろう」

「それで良いのかよ」

「国王の悪口も言えない国よりは健全だろう。だがまあ、政治はやりにくいかもしれんな」

「俺が苦労するんだぞ」

 にやりと笑い、ユリウスは体を回転させてこちらを向く。

「お前には悪いと思っているが、考えてみろ。国王一人の意見がすんなり通る国家運営なんて危険すぎるだろう。多少面倒でも、色んな意見が反映される方が良いんだ」

 乾いた指先が、俺の手の甲に触れた。

「お前ならできる。大丈夫だ」

「寝てるだけの奴は気楽で良いな」

「羨ましいだろう。一緒に寝るか?」

「は?」

 ユリウスの手が、俺の手首をがっしりと掴んだ。

「お前も一緒に寝ればいい」

「何でだよ。嫌だよ」

 広くはないが、塔の二階にちゃんと俺の自室も宛がわれている。

「私みたいに寝ていたいと言ったろう」

「ごめんって。俺の気遣いが足りなかったことは謝るから、やめようぜ」

 ユリウスの握力は一向に弱まらない。

「怒っているわけではない。同衾して夜通し語り合うのが、平民の親睦の深め方なのだろう?」

「いや、知らねえって」

 迷いにユリウスの指先が緩んだのに気付いて、俺は仕方なく布団の中に潜り込んだ。物言いたげな沈黙の後、彼はゆっくりと手をほどいた。俺は溜息を吐く。

「何か言えよ、語り合いたいんだろう」

「そうだな……レオは、夢はあるか?」

「夢ぇ? だから王よりも──」

「そうじゃない。お前だけのための夢だ」

「はあ? ねえよ、そんなもん」

 奴隷の頃に散々切望した、柔らかい寝床も、美味しい食事も、清潔な衣服も、全部手に入った。これ以上望むものなんて、何もなかった。

「私は、あるぞ」

 窓の外には星空が広がる。夜が枕元まで満ちてくる。

「ロイヴァスより北の地では、オーロラという光の道が天に架かると聞く。死ぬ前に一度、見てみたいんだ」

 ユリウスの瞳に、暖炉の炎が揺らぐ。俺は目を逸らし、暗い天井を見た。

「馬鹿じゃねえの。王国より北に行って、帰ってきた奴はいないじゃねえか」

「だけど、誰かがオーロラを見たからこんな伝承が残っているのだろう」

「ただの法螺話かもしれねえぞ」

 小さく笑う吐息と、身じろぎの音が聞こえる。

「まあ、証明しようがないからな。信じたいことを信じるさ」

 唐突に、ユリウスはもう全てを諦めているのかもしれないと思った。ただ民のための王であろうとして、自分自身の全ての可能性は、もうとっくに捨ててしまっているのではないのか。だからこそ、叶いそうもない夢を後生大事に抱えているんじゃないか。

 瞬間、弾けた苛立ちに、俺は肘でユリウスを小突いた。

「何だ」

 不服そうな声が飛んでくる。

「俺もいつか……自分のための夢を見つける。だからあんたも、その夢を諦めるんじゃねーぞ」

 沈黙が堕ちる。恐る恐るユリウスを見ると、満面の笑みが迎えた。

「楽しみが増えた。平民の青春は良いものだな」

「いやだからその偏った情報は何だよ。騙されてるぞ」

 下らない軽口を叩いているうちに段々瞼が重くなり、泥濘のような眠りに沈んでいく。鋭い朝陽に肌を刺されて起きるまでずっと、優しい気配に包まれていた。

拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

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