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極光の遥か  作者: 砂原翠
1/15

契約

 王を殺す。

 あの日から、それだけを心の支えに生きてきた。

 奴隷解放令。あの日、俺の世界の全てがひっくり返った。

 それまで、命の価値には序列があると、本気で信じていた。

 あいつは、生まれながらに人は皆平等だと唱えていたが、そんな綺麗事を本気にする奴は奴隷仲間にいなかった。

 物心つく前に値段をつけられ、売り買いされた命だった。命令は絶対で、守らない奴には鞭が飛んだ。言いつけを守るのに、自分の意思は不要だった。

 それなのに!

 あの日、俺たち奴隷の価値は自由民と平等になった。

 あいつが鞭で打たれ、木に吊るされて殺された次の日だった。

 馬鹿な奴だった。

 従順な振りして腹の中で嗤っていればいいのに、奴隷主に屈服することは、魂への冒涜だと主張して憚らなかった。

 俺の知らない奴隷農場の外の世界では、奴隷解放の機運が高まっていたらしい。各地で奴隷たちによる暴動が起き、奴隷主たちの緊張も最高潮に達していた。

 だから、あいつが見せしめにされた。

 愚かな言説で、奴隷を扇動している。奴隷主はそう言って、あいつを縄で縛った。

 口先だけでも謝ればいい。奴隷仲間は誰もが説得した。それが賢い方法だと。それは違うと、あいつは言った。

「私たちは、誰もが一番偉い。王よりも。だから絶対に、己に恥じることをしてはいけない」

 あいつが誰よりも正しかったことを、あいつが死んだ後に思い知ったのだ。 


 王が奴隷解放令を発布して、俺たち奴隷の世界は一変した。

 昨日までは奴隷主に使役されるための命だったのに、翌朝には奴隷主と対等な人間だと言われたのだ。

 喜ぶ奴も多かった。苦難の日々がようやく終わった。俺たちの存在が認められた。報われた、と。

 諦めてる奴もいた。平等なんて、名目に過ぎないだろう。奴隷農場から解放されても、家も仕事もない。どうせ最下層からは抜け出せない、と。

 俺は違った。

 ──ふざけんな!

 ──馬鹿にすんのも大概にしろ!

 王は、一夜で奴隷の価値をひっくり返した。

 奴は、自分の意思一つで世界を変える力を持っているくせに、今までそうしなかったんだ。

 許せない。

 翌日には自由民になれるなら、何のためにあいつは死んだんだ?

 何のために俺は生き残った?

 王を殺す。

 それが俺の生きる理由になった。

 だから、俺の前にひょっこり王が現れたとき、運命だと思った。


 運命。

 運命が俺に味方をしている。そう思った。

 薄汚い貧民街のひとけのない路地の曲がり角から飛び出してきたのは、ここに最も相応しくない人物だった。

 戴冠後のパレードを奴隷主に連れられて見たから覚えている。日焼けを知らない生白い肌、少しぼやけた印象の表情と、その奥の影を帯びた銀の瞳。

 父王の病死で急遽戴冠した、若王。おそらく俺とそう年齢が変わらないくらい──まあ俺は、自分の正しい年齢なんて知らないが──若い。

「すまない」

 すれ違いざま俺の肩にぶつかった王は、そう言った。幼さを残した、穏やかな声だった。

 ──は?

 王が平民に謝るなんておかしいだろ。俺の冷静な部分が言う。だけど前のめりの俺が言う。平民みたいな身なりで隠しているけれど、こいつは間違いなく王だ。こんな好機、逃したらもう一生ない。

「おい」

 腕を掴んだ。いつだって腹を空かせていた俺たち奴隷よりもさらに細い腕だった。簡単にへし折れる、そう思った。

 安っぽい帽子の下で、銀色の双眸が揺れる。目の下の隈、痩せた頬、蒼白な唇。

──こいつ、本当に王か?

首をもたげた不安に蓋をして、言う。

「あんた、ユリウス五世だろ」

 それは、ロイヴァス王国の民なら誰でも諳んじることのできる、王の名前だった。

 上品だが幸薄そうな顔つきに、緊張が張り詰める。

 躊躇いつつも厳かに彼が首肯したとき、俺の脳裏に決意が弾けた。

 ──王を殺す。

 みすぼらしいコートの内側に手を滑り込ませ、錆びたナイフを掴む。何度も夢見てきたこの瞬間。ゴミ同然のナイフで、高貴な首を掻っ切ってやる。

 衝動に任せて腕を振る。恍惚と一足早い達成感が全身を支配する。

 けれど、その切っ先が首の皮を裂く前に、俺の腕が叩き落とされた。

 体勢が大きく崩れ、地面に全身を打ちつける。そうしてようやく、俺は腕を踏みつけられていることに気づいた。

 息もできない俺の頭上から、王の声が降ってくる。

「シルヴァ、やめなさい」

「ですが」

 固い大人の女の声だった。ぴくりとも動けないほど強く俺の腕を踏んでいるのも、シルヴァと呼ばれた彼女のブーツらしかった。

「足をどけなさい」

 ゆっくりと、一語一語噛んで含めるように、王は言った。女は不承不承ながらも足をどけた。

 痛みをこらえ、俺は解放された腕で数歩先に転がっているナイフへと手を伸ばした。すると王の高級そうな靴がナイフを蹴り、そのまま彼はしゃがみ込んで俺と目を合わせた。

「私に恨みでもあるのか」

 落ち着いた、静かな声だった。恐れも怒りもなく、ただこちらを見定めようと探る色を帯びていた。

 俺は地面に這いつくばったまま、両手を握り締めた。

「俺は、この国で一番偉い奴になりたい」

 それは、宣誓に似ていた。

「王位を簒奪したいということか」

「違う。王なんかより、もっと偉くなりたいんだ。それには、王が邪魔だ」

「偉くなって、どうする」

「他の奴も同じくらい偉くする」

 勢いで口走ってから、ああそうだと思い至る。俺は、王を憎むより強く、身分によって命の価値が変わるこの世界を憎んでいたんだ。

 もちろん、階級を放置した王の不作為も許せない。だけどそれよりももっと、あいつを殺したこの世界が許せない。

「この国に住む奴ら全員を、王よりも偉くするんだ」

 言葉にすると、やっと深く息が吸えた。あいつが死んでからずっと止めていた呼吸が戻ってきたようだった。

「だから、王を殺そうと思った」

 宣言すると、王は眉値を寄せ、しかし微かに口元を緩めた。

「しかし、俺を殺したって、別の王が立つだけだぞ」

「じゃあ、そいつも倒す」

 反射的に答えると、王は「はっはっは」と大きく口を開けて笑った。ひとしきり笑い終えると、王は笑みを象ったまま言う。

「俺がお前を、王にしてやろうか」

 だから俺は王になりたいわけじゃないっつの! 俺が怒鳴る前に、女が悲鳴のような声を上げた。

「陛下! 冗談でも口にされて良いことと悪いことがあります」

 けれど女の声を無視して、王はこちらに手を伸ばした。枯れ枝のような細い指先が俺の頬を掴み、王は笑みを深くした。

「お前、私に似ているな」

 俺は顔を顰め、王の顔を見た。整った銀髪、涼やかな銀眼、透けるような肌。どこもかしこも汚れ、乱れた俺とこいつが似ているとは思えなかったが、王の言葉に女がはっと息を飲んだ。

「私の影武者になればいい」

「影武者?」

 鷹揚に王は頷き、ローブをはだけさせた。質素な服を捲り、腹を空気に晒す。それは、あばらが浮き出た病人の体だった。

「私は生まれ付き病弱でな、医者からも長くは生きられないだろうと言われている。近頃は調子の良いときは稀で、今日のように寝床から起き上がれる日は少ないのだ。だから、私の代わりにお前が表に出て、私の仕事をして欲しい」

「何で俺が」

 問えば、何故そんなことも分からぬのだとでも言うように、王は憐れみの目線を向ける。

「お前、身分制度を廃したいのだろう」

 誰もが王より偉くなる。それはつまり、奴隷も自由民も王も、ただの平民であるということ。そして国民の一人一人が、国の主権者になるということ。

「王ならば、それができる」

 冷たい風が吹いた。一年の大半を雪に閉ざされるこのロイヴァス王国の、短い春に相応しくない、凍えるような風だった。

 妖艶な笑みで、甘美な声で、王は誘う。

「なあ、私と王にならないか」

 こいつは悪魔だ。薄い手を取りながら、俺は思った。

拙作をお読みくださり、ありがとうございます。

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