第2話聖女様は優しく手を振ってくれる
「朝か……」
昨日は色々あったせいでよく眠れなかった。
思いのほかだるい体を強引に起こし、自分の部屋から1階に降りる。
するとそこにはいつもであれば、とっくに仕事に行っているはずの親父が居た。
「おはよう。達樹。よく眠れたかい?」
「おはよう。親父、今日は仕事に行かなくて良いのか?」
「いいや、仕事だよ。今日は少し遅く出ようと思っててね。さてと、まあ昨日は驚かせて悪かったと思ってる。それじゃあ、そろそろ仕事に行ってくる」
「気を付けてな」
「ああ、行ってきます」
俺の顔を見た親父はそそくさとカバンをもって会社へ行った。
ったく、息子の事が好きなのも、ほどほどにしとけよ。俺なんかより、郁恵さんをもっと大事にしとけっての。
大方、昨日は動揺させたし顔色を確認したかったってとこだろう。
「良い親だ。だけどな? もっといい親はあの場で再婚するのを言うんじゃなくて、事前に言う親だ」
親父に皮肉を言いながらも、どこか晴れやかとした気分になる。
再婚した親父と俺の関係がいままでと少し変わるかも知れない。
それが心の奥底で燻っていたに違いない。
「うおお。鳥肌が立った」
朝から親離れできないファザコン男子高校生っぽい気色悪いことを考えてしまった俺は、気を引き締めるべく洗面台で顔を洗った。
身支度を整え、適当に菓子パンを齧って家を出る。
高校までは電車込みで35分。近いがかなり近いってわけではない。
今日も今日とて、ゆったりと高校へと向かうのであった。
辿り着くは俺が通う高校。
教室に入りカバンをロッカーに仕舞う。
頬杖をつきながら、ぼけ~っと誰か話が出来る友達が来ないかと携帯を弄る。
待つこと数分。部活が終わったのだろう。続々と教室へやって来る生徒たち。
そんな中、教室に入って来たのは……学校で誰にでも優しく可愛い聖女と呼ばれる一人の美少女『高宮 茉莉』いいや、『阿久井 茉莉』だ。
って、まだ手続きが終わってないから高宮と言えば、高宮だけどな。
いつもなら、別にああ教室に入って来たな~程度で流す。
しかし、親父と聖女様の母親である郁恵さんが再婚。そして、兄妹となった、なんて事があったのなら軽い気持ちで流せるわけがない。
それはやっぱり、聖女様も一緒だったようだ。
俺の視線に気が付き周りに変な誤解を生まないよう、小さく手を振ってくれた。
別にクラスで用がなければ話さないような間柄だった俺と聖女様。
だからこそ、軽く手を振って貰うなんてされてしまえば……
ドキッと来るものがある。
聖女様は高嶺の花。
そんな子が妹になり、愛想よく手を振ってくれるなんて現実が訪れる事など誰が予想できたことか。
朝から思いっきり心をかき乱された俺は朝の部活を終えて教室に来た山下という友達を殴った。
「おい、てめっ! 挨拶は拳って喧嘩売ってんのか?」
「悪い。行き場のない感情を抑えきれなかった」
「そんなんで殴ったのか? まあ良いけどよ。ほれ、この前借りてた漫画を返すぜ?」
カバンから取り出した漫画を俺に渡してきた。
ちょいエッチ要素が強い青春ラブコメ漫画なのだが、俺は遠慮なく机に置かれたその漫画を急いで表紙が見えないように裏返しにする。
「おいおい。阿久井。お前、漫画を裏返しにするほど、初心なやつだったのか?」
俺の思春期真っ盛りな行動を茶化す山下。
今の今まで、普通に机に置いていた代物だというのに、今更表紙を隠すようになったら、誰だって突っ込みたくなるもんな。
「深い事情があるんだよ。察しろ」
「ちなみにその事情とは何だよ?」
「あ~。まあ、あれだ。気まずくならないようにだ」
クラスには聖女様が居る。
決して手の届く存在でなかった彼女だが、今となっては事情が違う。
親父の再婚によって、義理の兄妹になった今。
例えば、俺がエッチな漫画を読んでいるのが聖女様に知られたとしよう。今まではまあ、別に関わりのない相手だったので気にする事はない。
しかし、親父曰く、早ければ今週にでも一緒に暮らす事になった相手なんだぞ?
《《エッチな男の子と一つ屋根の下》》
そりゃあ、怖くて一緒に暮らしたくないに決まってる。
俺の立場で考えてみろ。
聖女様がエッチな子と仮定した時、そんな子と一緒に住み始めたら襲われるんじゃと心配に……、
ならないな。
むしろ、エッチな女の子と一つ屋根の下とか大いに歓迎だ。
まっ、考え方なんて、そもそも男と女じゃ別物か。
「おい、いきなり黙り込んでどうした?」
「山下よ。俺は多感なお年頃なんだ。そっとしといてくれ」
そう呟くと、山下は俺が普段と違うからか呆気に取られていた。
で、昨日から頭から離れてくれない聖女様の方をふと向くと、なにやら友達に珍しく眠そうな事について指摘されていた。
「茉莉が眠そうなのって珍しいけど、なんかあったの?」
「私でも眠い時は眠いんです」
「あ、はぐらかした。で、実際はなんで眠いわけ?」
「ん~。それは……」
言うかどうかを悩む聖女様は俺が見ている事に気が付いた。
だからこそ、こう言ったのかもしれない。
「驚くことがあって眠れなかったんです。それはそれはもう驚いちゃうことがあって眠れなかったんです」
まるで俺に同意を求めるかのように微笑みかけてくれる聖女様。
友達である神田さんは微笑んでいる事から、決して悪くない何かが起きたのだろうと解釈し、何があったの? としつこく聞く。
嫌な顔せずして、『まだ秘密です』とはぐらかし続ける聖女様。
そんな彼女がはぐらかす秘密を知っているのは、
俺だけだ。
それがまあ、堪らなく俺をドキドキさせるのはここだけの話だ。
別に聖女様と兄妹になったところで、学校で話す機会が増える事もなかった。
気が付けば普段通りに放課後を迎えていた。
一応、部活に入っているが今日は活動日ではないので普通に家に帰る。
うだうだと携帯を弄ったり、テレビを見たり、色々としながら過ごすこと2時間。
親父が会社から帰って来て、俺に言う。
「達樹。明日、予定はあるのかい?」
「あ~、ないが、どうしたんだ?」
「実は、郁恵さんと茉莉ちゃんが住んでいる家に荷造りを手伝いに行く予定なんだが、その……達樹も手伝ってくれると有難い」
一緒に住む前に出来るだけ距離を縮めたい。親父なりに色々と考えている。
そんな気しか感じられない親父の気遣いを断る理由はなかった。
「なら、しょうがない。これから一緒に住む家族の手伝いくらいしなくちゃダメだろ」
「ははっ。ありがとう。それじゃあ、明日はよろしく頼むよ。それじゃあ、郁恵さんに達樹も手伝ってくれるって伝えとく」
携帯で俺が行くことを知らせる親父。
その数分後だ。俺に一本の電話が掛かって来た。
画面には高宮 茉莉と表示されている。
「もしもし、どうした?」
『あ、阿久井くん。じゃなかった。達樹くん。お母さんから聞いたんですけど、明日荷造りを手伝いに来てくれるそうなのでお礼をと思いまして』
「律儀なことで。別に気にしなくていいのに」
『親しき中にも礼儀ありです』
「てか、今日は神田さんに問い詰められてて大変だったろ」
寝不足の理由は秘密にした結果。
神田さんからしつこくされていたのを知っている俺は、何とはなしに話題を振っていた。
『いえいえ。誰だってああいう風に気になっちゃうのは当然です』
聖女の名は伊達じゃない。
今の今まで、相手を貶める言葉を使っている姿は見たことがないんだからな。
やはり今回もしつこくされようが、うざいだの、しつこいだの言わないか。
「明日は少しくらい荷造りの役に立てるように頑張らせて貰うつもりだ。それじゃあ、また明日」
『はい、来るのを楽しみに待ってますね』
電話を切った。
でも、すぐに電話がまた掛かって来たので出る。
「何か言い忘れた事でもあるのか?」
『あの、達樹くん。つかぬ事をお聞きしますが、もしかして、私の事をなんて呼ぼうか困ってませんか?』
「……まあな」
俺はまだ高宮 茉莉の名を呼んだことがない。
いいや、正確には家族になると判明してから呼んだことがないだな。
学校で数回ほど高宮さんと呼んだ覚えはあるし、声を掛けなくちゃいけない時はこれからもずっとそうだろうと思っていた。
が、しかし。親父と養子縁組を結べば高宮茉莉は阿久井茉莉となる。
それなのに高宮さんと呼び続けるのはおかしいだろ?
だがしかし、学校一の美少女で聖女と見紛うことが多い彼女を茉莉と気軽に呼び捨てるのも恐れ多いんだよなあ……。
結果、俺は聖女様の事をまだ名前なり愛称なりで一回も呼べていないわけだ。
『私の事はこれから気軽に茉莉って呼んでくださいね?』
「男どもは高宮さんって呼んでるのに、俺だけ……」
胃がキリキリする。
絶対に野郎どもからなんか言われるし、うるさくされそう。
だからと言って、高宮さんと呼び続けるのは……望ましくない。
仕方がないので、恐る恐る俺は口にした。
「ま、茉莉……」
『はい。なんですか? 達樹くん』
「よ、呼んでみただけだからな」
『ふふっ。なんか、あれですね。これでまた、達樹くんと少しだけ仲良く成れた気がします』
名を呼んで貰えて嬉しそうにしているのが電話越しでも分かる。
クラスどころか校内中を探しても、高宮茉莉を茉莉と気軽に呼び捨てる人が居ないのを知っている。
それがまた俺の心を鷲掴みして来る。
だというのに、茉莉は俺に対してさらに追撃を仕掛けて来た。
『明日も、気軽に茉莉って呼んでくださいね? じゃないと怒っちゃいますよ?』
これまた俺の見たことがない聖女様。いいや、茉莉の一面だった。
学校で怒るどころか、怒りますよ? なんて一言も聞いたことがない。
家族になる事でどんどん出て来る聖女様の聖女らしからぬ部分。
それを知っているのは俺だけで、知れば知る程もっと知りたくなってしまい少しばかり意地悪になってしまう。
「ああ、分かった。《《高宮》》さん」
『もう、達樹くんってば酷いですよ? 』