海をゆく列車
「あなたとともに永久の鉄道に乗り、銀河の果てまで旅をする。それが私の夢なのです」
そんなことを誰にも見せられないノートに、書いては消し、書いては消し、しています。あなたとゆくのなら、鉄道でなければならない。というのは、あなたと逢うのが通勤の列車の中だけだからでしょうか。あるいは永遠を約束される道は、どこまでも続く鉄路だけとしか思えないからでしょうか。
社会人として勤めるようになり、数ヶ月。やっと仕事にも慣れてはきましたが、この先何年も、毎日が同じことの繰り返しであると思うと、世界がもう色を失ってしまったもののように感じるのです。人は決まった時間に、決まったことだけをする生き物でしかないかのように。そして私もそんな生き物の一員になってしまったことで、閉ざされた、憂鬱な気持ちになるのでした。
そんな中で、私はあなたを見つけたのです。美しい人でしたが、私と同じように、世界に定まらない瞳を投げ、列車に揺られている。始めは、私と同じような気持ちを抱えた、かわいそうな人ではないかと思っていたのです。でも、たった一度、ほんの一瞬、目が合いました。その時、あなたの瞳の奥に、わずかに輝くものを、見たように思うのです。それから私の心に、何かが灯ったのです。
あなたに逢えるのは朝の通勤列車。あなたは私が乗り込んだ駅の、三つ先から乗ってきて、七つ先で降ります。私は、さらに二つ先で降ります。その間、私はあなたを見つめるでもなく、時々目をやるだけ。あなたに話しかけたい。でも、きっかけもない。あなたはいつも、窓の外に目を向けています。何を考えているかは分かりませんが、瞳の奥に、きっと強い、何かがあるのです。
私は座れることもあるし、座れないこともあります。それはあなたも同じ。ただ一度、私が座っている時、隣の席がたまたま空いて、あなたが座ってきました。私はどうしようもなく、胸の高鳴りが抑えきれない。どうしよう。今話しかけないと、もう機会がないかもしれない。そうだ、車両の中が暑いから、その話でもすればいい。窓を開けようかと、訊いてみるといい。そう考えて、思い切って話しかけようとしたのですが、なんということ、その直前に、あなたは目の前のお年寄りに、席を譲ってしまいました。
それ以来、もう隣に座る機会もなく、目が合う機会もなく、毎日の繰り返しが過ぎてゆくばかりでした。あなたと私だけが乗る鉄道を、ただ夢に見ながら。
その日は仕事でとても疲れて帰った翌日。前の日、会社で作った資料の不備を怒られ、夜遅くまでかかって全てを修正し、終電までにどうにか帰ってきました。でも辛くて、なかなか眠れなくて、朝もだるくて、しかも風邪気味でもありました。それでも家にあった風邪薬を飲んで、いつもの列車に乗ったのです。休めない、という理由もなくはないのですが、本当はあなたに逢いたくて、私は列車に乗ったのです。あなたに逢えば、きっと少しは元気が出るに違いない。それだけで、つり革につかまって、何とか揺られていました。座りたいけど座れません。あと一駅。次の駅で、あなたが乗ってくる。でも、駅に着く前に、なぜか列車が線路の途中で止まりました。一分二分と、時間が過ぎていきます。車両内が暑く、私も熱っぽく、気分が悪くなってきました。どうして列車がこんなところで、止まったままなのでしょう。信号待ちでしょうか。事故でもあったのでしょうか。車内の放送も何もないのです。
ふと気がつくと、列車から他の人が消えていました。そして私は横に長いシートに一人座っていました。列車は止まっていなくて、低い音を立てて進んでいました。窓の外は夜でした。
私は何が起きたのか分からず、しばらくぼんやりしていました。夢の中? それにしてはあまりに普通に、電車に揺られているのです。さっきと同じように。現実としか思えない。でも、さっきまで通勤の列車で気分を悪くしていたし、昼だったので、これはきっと夢なのでしょう。つり革につかまったまま見ているのでしょうか。
閑散とした車内を見回しました。そして、私は信じられない……あなたを見つけました。あなたもまた、一人座って揺られているのです。私が夢に見た、いいえ実際は漠然と空想していた程度だから、こんなふうに、見る夢として見たことは一度もないのです。私の胸は高鳴りました。夢の中でも、いいえ夢の中だからこそ、あなたに話しかけなければ。私は立ち上がり、あなたの方に向かって歩き出しました。あなたはすぐに、私に気がついて、私を見つめます。そして私もあなたを見つめつつ、近づいていきます。私は、あなたの前で、立ち止まりました。
「隣……いいですか?」
あなたはうなずきました。私はあなたの隣に座りました。言わなければ。伝えなければ。これは夢だから、何を言ってもいいのだと思っていますが、ひどく現実的なもので、私はなかなか言葉が出ません。
「あのう……私、前からあなたのこと……」
「知ってる」
「え?」
私はまたあなたを見つめます。あなたも私を見て、目が合いましたが、私は気がつきました。あの輝くものが感じられなかったのです。でも、あなたには違いない。
「あなたはいつも同じ列車に乗ってたね。私が降りてもまだ先に行ってる」
「ええ、そうです。でも、なんで……」
「なんでって、時々私の方を見ているから、目立つよ」
「あ、そ、そうなんですか……」
気恥ずかしい。夢の中だから平気なんだと、自分に言い聞かせます。
その時、前に広がる窓の外を、光が横切りました。そういえば、この列車はどこを走っているのでしょう。私は後ろを向き、冷たいガラスに額を押しつけ、窓の外を見ます。そして予想通りというか、そこは一面に無数の光の点が浮かび、列車が進むに従い後ろへと流れていくのです。
「星の海だ!」
「あれは違うよ」
あっさりとそう言って、あなたも私のように後ろを向き、窓の外を見始めました。
「違うの……ですか?」
「うん。あれはみんな私達の命……いいえ、命のもと」
「……魂?」
「うん、まあ、そんなところかな。でも、よく見て。点いたり消えたりしているでしょ」
確かに光の点一つ一つ、ずっと同じように光っているわけではなく、消えるものがあり、何もないところに灯るものもあるのです。
「消えている間、誰かの体に宿り、それは人の意識となって生きる」
「え?」
「私達の魂はね、ずっと同じ体に宿っているわけではないの。眠っている間は、抜け出てここに帰ってくる。目覚める時にこの世界から飛んでいって宿る。でも、同じ体でも同じ魂とは限らない。今日あそこの魂が宿ったとしても、明日は別の魂が宿るかもしれない」
「え? そしたら……違う人になってしまう」
あなたは微笑し、首を横にふります。
「魂は記憶を持っていない。その人の体に置いていく。だから次の魂がやってきて、目覚めるとその記憶を使う。魂が入れ替わっても、記憶が同じだから、意識がずっと連続していると思うだけなの」
「へえ……そういうものですか……」
「あと、よく見て、あの光は波のように揺れているでしょ」
「はい」
「一つ一つの光……魂は独立しているけれど、その全部は互いにつながって関係を持っているの。ちょうど海の表面にある水の分子が、つながって波打っているようなもの。それは全体で、一つのエネルギーであり、一つの命でもあるの」
よく分からない話だけど、私としては、あなたの顔がすぐそばにあって、私に話しかけてくれるだけで、幸せな気持ちになるのです。
「だからね、死ぬことは怖くない。眠る時と同じことが起きるだけ。私の、この体には、もう魂は戻ってこないけれど、今私やあなたに宿っている魂は、永遠に生きているもの。あの魂の海である、大きな命の一つ」
死ぬなんて……せっかくこうして二人だけで列車に乗れたのに。そう思ったのですが、このまま死んでもいいかもしれないと思いました。もう、この夢の中でしか、あなたと一緒にいられないような気がしたのです。
「この列車は、どこまで行くんですか?」
「好きなところまで」
「じゃあずっと、ずっと乗っていたい」
「それは無理」
「どうして?」
あなたはまた、私を見つめます。
「あなたは多分、正式な乗客じゃないもの」
「え?」
正式とか、そんなものがあるなんて。
「正式な乗客なら、さっき言った話は知っているはず」
「誰かに教わるの?」
「いいえ、ただ知るようになる。分かるようになる。納得するかどうかはさておいて」
「私は……私は離れたくないんです。あなたと……」
「私と?」
「初めて見た時から、好きだったんです」
私は必死でした。今全てを言わなければ、もう伝える機会はないと思ったのです。
「そうか……それで、乗ってこれたんだ」
あなたは前を向き、ややうつむいて座りました。そして私も、同じ方を向いて、並んで座ります。列車はゆっくり揺れています。私達の他に、誰もいません。あなたは、私の手をそっと握りました。私も握り返します。
「今になって、私が誰かに好かれるなんて」
「好きです。好きなんです……離れたくない」
何か無駄なことを言っているようで、私の目に、涙があふれてきます。
「ありがとう。でも、もう遅い」
「どうして?」
「生きている間に、優しくされたかった……」
その時、一瞬めまいのようなものがして、気がつくと、私は横になっていて、どこかの天井を見ていました。揺れていない。電車の中ではない。それは明るい部屋の中でした。どこだか知ろうとして、私は体を動かしました。
「あ、気がつきましたか? 大丈夫ですか?」
誰かの声。見ると、制服を着た駅員がいます。するとここは駅でしょうか。
「私は……」
「電車の中で気を失ったそうですよ。ここは駅の救護室です」
駅名を訊くと、それはあなたが乗ってくるはずの駅。その駅になかなか着かず、気分が悪かった私は気を失ったのでした。
「人身事故がありましてね。大変でしたよ」
「人身事故? ……自殺?」
私はまさかと思いました。
「ええ、若い女性ですがね。遺書も落ちてました。優しくされたかったとか……失恋でもしたんでしょうかね……」
あなただ。いつもの列車で、そしあの魂の海をゆく列車の中で逢ったあなたに違いない。私は血の気が引いていきます。あれはあなたが、天に昇る時に乗る列車なのです。
「まだ気分悪そうですね。もう少し休んでいたらいかがです?」
私は黙って、うなずくだけでした。
それから遅く出社し、まるで死んだように一日を過ごし、一人の家に帰ってきて、食事をして、入浴をして、少し泣いて、この先あなたのいない毎日が続くことを悲しみながら、眠りにつきました。
翌日、重い体を引きずるように、いつもの列車に乗りました。あなたの乗ってこない駅に着くのが怖くて、私はつり革につかまって目を閉じていました。その駅も過ぎると、いつまでも目を閉じているわけにもいかず、私は目を開けましたが、そこで息を飲むほど驚きました。
あなたが乗っていたのです。何事もなかったかのように。私はしばらく考え、やっと分かりました。私の夢はただの夢に過ぎなくて、自殺した若い女性というのは、あなたではなかったのです。私はつり革につかまったまま天を仰ぎ、まるで救われたような気持ちになりました。
ただ、何かが引っかかります。あなたがいつもと違う。いいえ、今までと違う。何の違和感でしょうか。あなたは、いつも降りる駅ではなく、その一つ前で降りていきました。
今日だけ? 今日だけではなく、その後もずっと同じでした。ちょうど勤め先を変えて、雰囲気が変わった? いいえ、そんな単純ではない何かがあるような気がするのです。あなたは多分、依然からその駅で降りていたのです。
世界は一つではないという。もっと大きな仕掛けの存在。それはあの列車の夢が、ただの夢ではないという確信から、生まれてくるように思うのです。
あなたに話しかける日は、果たしてくるのでしょうか?