第九十四話:真実
「――負けてやった、だと? あの奇跡が……、お、お前の策略によって、作り出された虚像だと……。そう言いたいのか?!」
姑の口から告げられた衝撃の真実に、リュートは口すらも満足に動かせなかった。
何しろ、自分たちの輝かしい歴史の一ページが、破り取られるどころか、全て、反転したのだ。この、目の前にいる雌蟷螂の手によって。
これが、問わずにおれようか。
「どういう事だ、女将軍! 詳細を話せ!」
だが、このリュートの動揺とは裏腹に、前に胡座をかいた姑、女将軍ミーシカ・グラナは余裕の表情。新たな酒に手を付けながら、変わらぬ鯨飲ぶりを発揮している。
「どうって、言った通りじゃ。妾はあんな聖地回復事業なんぞ、さっさと止めたかったのじゃ。そして、自国に戻り、皇帝自ら、大陸の統治に目を向けてほしい、と望んでおった。……故に、わざと大敗をさせ、聖地というヤツを諦めさせてやろうと考えたのじゃ」
……それの、何がおかしいのか。
まるで、そう言いたげな、不遜な態度。とてもではないが、皇帝を支えるべき女将軍の考えとは思えない。
「妾はの、婿殿。あの国の有翼人に期待しておったのだ。何しろ、単体で空を飛べるのだから、強敵だ。さぞ、見事に先帝陛下の愚挙を潰し、さっさと国へ帰らせてくれるであろうとな。だが、それも期待はずれ」
「……期待はずれだと?」
「そうだろう? 貴様ら有翼人の国は、医学はそこそこだが、武器鋳造などの技術に関しては、この大陸より劣っておるからな。加えて、同じ民族であるにもかかわらず、やれ国王軍だ、四地方の大公軍だ、とせせこましい事ばかりに拘りおって、まるで烏合の衆だった」
確かに、言われるとおりである。
そして、それは、今とて変わらない。四地方の大公や、七大選定候が、如何に中央で権力を持つか。その下らない権力争いに汲々と興じているのであるから。
「それ故、妾ら帝国軍は、ボロ勝ち。そして、五年も半島を支配。……婿殿、貴様の国は、まったくに情けないの。自国を守るより、自国の内紛に明け暮れておるとはな。ま、そんな駄国、どうなろうが妾は知ったことではなかったが」
……駄国。
あの懐かしくも、慕わしい祖国への最大の侮辱の言葉。それに、堪らず、ぎり、とリュートの奥歯が鳴らされる。だが、彼の怒りに反して、当の姑は眉一つほども動かさない。ただ、淡々とかつてあった事実を語りかけるのみだ。
「しかし、こうまで有翼の国への遠征が長く続けば、先帝陛下の関心も、帝国の統治の懸案から逸れる、というもの。しかも、あの当時、奴隷貿易も頭打ちになっており、貿易での収益よりも、遠征費用の方がかかっておる、という本末転倒な状況でもあったのでな。何しろ、いくらエルダーを植民地にしたとて、駐留軍への海を越えての物資の供給には、金が掛かる。それ故、そろそろ潮時じゃ、と思うた妾は、攻めてくるという有翼軍を利用してやろうと思いついたのじゃ。あれに大敗すれば、流石に、聖地を手放したくない先帝陛下も、あの国から手を引くであろうと考えて、な」
そして、この女将軍の企みは、粛々と、実行されたのだ。
自国の皇帝を欺き。信用出来る配下以外の帝国軍兵士を欺き。そして、何より、敵軍である有翼軍を欺いて。
「あの戦、本当ならば、妾が烏合の衆である有翼軍を、一掃して、勝っておったのだ。それくらい、妾と貴様らの間には、力の差がある。だが、戦の最中、妾と先帝陛下の元にまで、突然飛び込んできた一団があった。……他でもない、貴様の父、白の英雄ヴァレルという男だ」
……父様。
元七大選定候の若君にして、王太子妃ラセリアを奪った大逆人。そして、この戦で功を挙げて、復権しようと目論んでいた、あの父である。
「妾は思った。……これを利用せぬ手は、ないとな。そして、妾は実行した。わざとあの男に負けたふりをし、先帝陛下を虜囚させ、妾自らもあの男に捕らえさせたのだ。勿論、妾を失った帝国軍は総崩れ。……貴様らの言う、『ルークリヴィルの奇跡』の完成だ。……のう、二代目、白の英雄殿よ」
余すところなく、真実を告げた雌蟷螂の顔が、蠱惑的に嗤っている。
まるで、声すら上げられぬ目の前の獲物を、あざ笑うかのように。
……お前らなんぞ、妾の栄養に過ぎぬのだ。お前ら、自国の民で喰い争っている小鳥なんぞ、な。
そう、言われている。
自然界の摂理を覆して、したたかなる雌蟷螂は、既にその腹に小鳥を飲み込んでいたのだ。
その事実が、リュートの全身を、揺さぶる。気付けば、抑えられぬほどの怒りに、がたがたと肩を振るわせていた。
「……それから、陛下だけが、貴様らの国王の元に連れて行かれての。そうして、陛下らの会談が行われておる間、森に捕らわれておった妾の元に、やって来たのが、貴様の父じゃ。あの男は居合わせた兵士全てを下がらせて、二人きりになったところで、妾に尋ねた」
――『……何故、負けた。何故、私に、わざと捕らえられたのだ?!』
「……あの男、わかっておったのだ。妾が、わざと負けてやったということが。……くくっ、なかなか見る目のある男よの」
「ち、父が……。そんなことを……」
上手く回らぬ口で、そう問えば、姑からは、また厭らしい笑い混じりの肯定が返ってくる。
「ああ。そこで、妾はあの男だけに、真実を告げてやったのだ。そして、交渉した。『妾はこのまま陛下を連れて国へ帰る故、陛下を処刑するな。そして、帰れば、妾はこの全身全霊をもって、この国への再侵攻を押しとどめよう』、と。それに対して、あの男は、しばし考えた後、妾の提案を飲んで見せた。実に、潔く、な」
「……そ、そんな……。いくら、わざと負けられた事が分かっていたって、父がお前の言うことをそんなに簡単に信じるものか! 僕の父は、そんな男じゃ……」
――『リュート、見てごらん。あそこに風の層が見えるだろう? あれを上手く使えば、うんと早く飛べるんだよ』
幼い日に、風の読み方を教えてくれた父の言葉が蘇る。
……信じたくない。
あの優しかった父が、こんな女の口車にあっさりと乗ってしまったなんて。信じられない。信じたくない。
「信じたくなければ、それでいい。だが、あの男は、分かっておったのだ。妾と、自分たちの国の力の差がな。このまま、ここで妾や先帝を殺せば、帝国からさらに報復を受けるだけだ。それが、意味するところを、あの男は、有翼軍の誰よりも分かっておった。そう言う意味では、慧眼じゃと思うがな」
その言葉に、リュートの思考が、当時の父が考えたであろう事柄に、重なる。
……もし、先帝が殺されていたら。
さらに有翼の民は、帝国から恨みを買い、侵攻が継続される。
もし、本当に、再侵攻を止めたいのなら、当時、圧倒的な軍事力を持っていた帝国が、自ら侵攻を止めるという決断をせねば、ならない。
それを、この女は、してやろうと言っているのだ。この、皇帝の最愛の女将軍自ら、この愚かな戦争を止めさせてやると言っているのだ。
この、一人の母として国を憂う女が――。
「貴様の父は言った。――『自分にも、息子がいる』、と」
リュートの思考を遮るように、女の声が、脳天に届く。
今までの雌蟷螂の声ではない。それは、紛れもなく一人の子を持つ親の声だった。
「『少々、血筋のはっきりしない息子ではあるが、それでも、あれは私の息子に間違いない。愛した女が産んだ子なのだから、それは、須く、私の息子なのだ』、と」
リュートの脳裏に、父が改竄したであろう出生書類が過ぎる。
……自分の子ではないのでは。もしかしたら、王の種なのではないか。そう疑って、自身の身に何かあれば、息子を相応しい場に導いてやってくれ、とまで、義父のロベルトに言い残していた、あの、父が。
「それから、こうも言っていた。――『その息子が生きるであろうこの国を、これ以上外敵の脅威に晒すことはできない。よしんば、外敵と戦うのが、これからのこの国に科せられた運命だったとしても、今しばらく、息子達には猶予をあげたいのだ。この国が外の国に対抗出来るほど強く一丸となるまでは――』。そう告げるや否や、あの男は、妾の縄を解いて見せた。そして、最後に、妾に向けて言ったのだ」
――『今は、貴女を信じ、一旦、この国の運命を預けてみよう。ただし、我らの国は、このままでは終わらない。この国は、あなた方の国が犯した暴虐を、武力以外の手段で追求出来るほどに強くなるだろう。その時に、あなた方に本当に罪を贖わせて見せよう』
初めて知らされた、父の真意。
それに、息子の体が、芯から打ち震える。
血が繋がらぬと疑った息子であるのに。それを越えて、愛し、案じ、信じ、希望を与えんと、決断してくれたのだ。
あの、かけがえのない父が。自分と母を支え、養い続けてくれた、唯一の父が。
この、自分の、父が。
……ああ、何て。
そう嘆息し、息子は深く、深く、愚かな自分を恥じ入るしかなかった。
自分の浅慮を。自分の傲慢さを。自分の厚顔無恥を。
自分は、こんなにも深い愛に包まれていたというのに、自分がしてきた事は、一体、何だったのか。
父の愛も、母の愛も、全て忘れて、復讐の為にしか生きなかったあの日々が、今はただ、ひたすらに恥ずかしい。
「……父様」
海を越え、遙か遠いこの異国で、こんなにも近くに父を感じようとは、思いもしない事だった。
恥じ入り、思わず握りしめた拳。母に似たのか、父に似たのか、分からない背の白羽。この体、全てに父を感じる。
爪の先、髪の一本に至るまで。彼が居なければ、自分はこの場にあり得ないのだ。……自分を養ってくれた、あのかけがえのない父が居なければ。
それだけに、父が辿った運命こそが呪わしい。
あの国を誰よりも憂えた父が、女将軍の縄を解いて見せた所を、偶然、ランドルフに見られ、そして、売国の容疑をかけられたのだから。
何という、皮肉。
何という、悪戯。
「神がおわすという聖地において、神は何と残酷なる遊戯を、人に科したのか。妾は、神が、大嫌いじゃ。人は、神から見たら虫けらに等しい生き物や知れぬ。だが、虫けらが虫けらとして、矜持をもって、懸命に足掻こうとするのを、あざ笑うような神は、大嫌いじゃ」
……この、女も。
足掻いた一人か。いや。今なお、足掻かんとする虫けらの一人なのだ。
神への悪態を吐きながらも、哀しげに目を伏せる女将軍の姿に、リュートは、そう思いを新たにせざるを得なかった。
「……それで、お前達帝国軍は賠償金の支払いと、不可侵条約の締結の後、帝国へと帰国した。その後、どうなったんだ。その不可侵条約を結んだはずの国が、どうしてそれをあっさり破り、再び有翼の国への侵攻を開始したのか」
目を伏せ続ける姑の沈黙に耐えきれず、リュートが、そう言って、先の話を催促すれば、姑からは、また意外な答えが返ってきた。
「そうだな……。強いて言えば、因果は巡る、とでも言おうか……」
「……因果?」
リュートのその反芻に、姑の顔が、さらに曇る。
「あの大敗から、帰国し、妾は陛下に、神の救済なんぞという馬鹿な夢からさっさと覚めて、この大陸の統治に目を向けて欲しいと懇願した。だが、当の陛下はと言うと、……敗戦後、めっきり意気消沈した様子で、まるで死人の様になってしまったのだ。政治は元老院に丸投げ。軍事も、妾達三将軍に丸投げ、と言う状態で……。あの、現皇帝、カイザルの様に一人部屋に籠もってしまわれたのだ」
皇帝の、引きこもり。
敗戦が余程ショックだったのだろうか。それとも、それ以上の何かが、彼を打ちのめしたのだろうか。
もしかして、それはあの先帝が突然宗教狂いになってしまったという理由と、何か関係でもあるのだろうか。
その理由を、リュートが問わんとした矢先、女将軍の呟くような一言が、それに覆い被さった。
「……そして、ある日」
……ふるり。
見たこともないほどに、女将軍の唇が震える。
この女傑を心の底から、怯えさせた、出来事。……それは。
「ある日、妾が虫の知らせを感じて、先帝陛下の私室に行って見れば、そこには、陛下の、……足が、……いや、体そのものが、ぶら下がっていた」
その言葉を吐く姑の顔は、酒ですら酔わせられぬほどに、蒼白で。
武を持って、男達の上に君臨する将軍でも、子を持つ慈愛に満ちた母でもなく。
……一人の、女。
紛れもなく、皇帝という一人の男の愛人だった、女の、顔だった。
「その後、すぐに、息子であるカイザルも部屋も駆けつけてきて、二人して、陛下の体を下ろした。だが、もう、陛下の息はなく……。大帝国の主が、いとも簡単に、……自害してしまっていた」
皇帝が、自害。
すべての責任をかなぐり捨てて、神の元へと行く道を選んだのだ。
あの、忌まわしい戦を引き起こした張本人が。苦しみ、死んでいった兵士達に、何の贖いもすることなく。
その事実に、リュートの体が震える。腹の底から迫り来る、怒り。それによって問いを返す唇までも自然、わななく。
「どうして、そんな事が……」
だが、その疑問に、目の前の雌蟷螂は答えない。ただ、沈黙を貫いて、静かに目を伏せているのみだ。
その態度と、この愛人だった女が犯した裏切り行為。それを踏まえて導き出した一つの仮定を、リュートが再び侮蔑混じりに姑へと問う。
「お前が、先帝を殺したんだな、女将軍。どれだけ理想に燃えて、敢えて裏切り者の汚名を着たのかは知らないが、お前の裏切りが先帝から自信を奪い、彼を自殺に追い込んだんじゃないのか。……そうだろ? まったく、大した臣下だ。流石は、男を喰らう雌蟷螂と揶揄されるだけのことは……っ!!」
その先の言葉が、リュートの口から奪われる。
他でもない、喉元をねじ上げてくる、女の手によって。しかも、親指一本で、見事に気道を潰しにかかってくるのだから、堪らない。
「……かっ! ……かはっ!!」
そう鈍く声を漏らすと同時に、リュートの首が解放されていた。だが、対峙する雌蟷螂の瞳は、その鋭い輝きを失ってはいない。まるで視線だけで、男を殺さんばかりに、きつく眼前へと詰め寄ってきていた。
「おい、鳥。いくら娘婿とて、それ以上言ったら、遠慮なく縊り殺すぞ。妾を侮辱したければ、命がけでするのだな。この甘ったれの小僧が」
……侮辱じゃない。本当のことを言っただけだろ。
そう言い返そうとするが、先に潰された気道が、上手く息を通してくれない。ただ、げほげほとしたむせ返りだけが、反論になる。
「……妾の裏切りが陛下を殺しただと? 男女の機微も、陛下の思いも哀しみも分からぬ子供が、偉そうに言うでないわ。侮辱や批判だけなら誰でもできるのだ。せいぜい、偉そうに遠吠えでもしておれ、子童が!」
かつてない激高ぶりが、女将軍の逆鱗に触れたことをありありと語っていた。おそらく、これ以上余計なことを言えば、本気で殺されるに違いない。
……ここまで、この女を激高させる皇帝の死。
その理由が一体何なのか。気にはなるものの、おそらく、この姑は語りはしないだろう。ならば、これ以上の問いは、無意味。
そう悟り、リュートが唾を床に一つ吐き捨てて、席に戻れば、姑も思うところがあったのだろう。おとなしく、その感情の切っ先を心の内へと収めていた。
「次、言えば、死ぬぞ、婿殿。いいな? ……さて、話を先に進めるとだな。その先帝陛下の自害について、妾は公にはしなかった。国民にも、元老院にも、病死じゃと嘘を付いて、早々に彼の遺体を荼毘に付したのだ。無論、疑いは持たれたが、それもすぐにもみ消された。新たに皇帝の座に就いた息子、カイザル・ハーンの手によってな」
……カイザル……。
あの、炎の様に猛々しかった若者が……。
「あの息子は、妾と共に、先帝の死に様を見ながら、堂々と妾の嘘に乗ってきたのだ。そして、公に先帝は病死として認められ、彼が皇帝になった。それから、数年。若く、傲慢な皇帝の統治に、妾も諸国も多少の不満を持ちながらも、何とかうまくやって来た。そして、彼の治世もようやく落ち着きを見せ始めた時、突然、あの若き皇帝が言い出したのだ。――有翼の国にある聖地の奪回事業の再開をな」
確か、『ルークリヴィルの奇跡』から、新皇帝による再侵攻までは七年。それだけあれば、帝国もある程度は落ち着き、遠征に向かうだけの国力も回復していたであろう。
だが、問題は、何故、彼がその再侵攻を言い出したか、だ。
その疑問を、即座にリュートが問う。
「以前、皇宮で奴隷生活をしていた時に、皇帝と話した事がある。遠征の目的の一つである奴隷貿易については、正直、もう頭打ちなんだろう? これ以上有翼の国から奴隷を狩ってきても、特に得るものはない。遠征するにも 莫大な金がかかるし、奴隷が欲しいなら、この帝国で繁殖させればいいだけの話なんだからな」
「そうだ。それ故、遠征の理由は奴隷貿易にのみは、求められない。何より求められるのは、……またも宗教的な理由だ」
かつて皇帝と話したときに語られなかった理由。
宗教が、政治的な手段のみではないとだけ言って、笑ってみせたあの崩れた顔が、嫌でもリュートの脳裏に蘇る。
「……回帰主義とでも言おうかな。我がリンダール人は、元が国のない奴隷民族だ。これだけの領土を帝国として統治しながら尚、ここは自分たちの土地ではないのでは、と疑っているのだ。本来の自分たちの土地は、あの北の豊饒の地なのだ。こんな多彩な異民族に、いつ脅かされるか分からない大陸ではない、とな。それ故、いくらあの大敗があったとしても、リンダール人はその思想が捨てきれなかった。そして……」
……ふふっ。
嘲りとも、微笑とも付かない笑いが、女将軍の口から漏れる。
「何より、カイザルが欲したのであろうよ。自ら命を絶った父を目の当たりにしたあの男が。あのような無惨な死に方はしたくない。自分こそは神に認められた皇帝なのだ。自分なら、あんな大敗はしなかったのに、とな」
その感情に、リュートは思い当たるところがあった。
父と息子。
自分とヴァレルという父。そして、ランドルフと、鷹の大公と謳われた父ガンダルフ。そして、オルフェやレギアスだって、父に反発を繰り返していた。
その例から鑑みるに、父が偉大であればあるほど、時に、息子は父を否定したくなるものだ。そして反発し、自分こそは父を凌駕する存在だと誇示したい。
「若い男には、良くあることだ。……カイザルは、父帝を、嫌っておったからな。自分の母である正妃を捨て置いて、妾の肉体に溺れるあの先帝陛下をな。そして、どうにも彼は、父帝の全てを否定してやりたくて堪らなかったのだろうよ。自らが、何よりも優れた皇帝であると証明を得たいが為にな。それこそが、自らの弱さを証明するとも知らずに」
選民思想の上に、さらに成り立つ選帝思想。
だが、それも、劣等感の裏返しに過ぎない。
女将軍は、また、自国の皇帝をも、そう侮蔑しているのだ。
「……それで、皇帝は、再びの聖地奪回事業を、始めた。そういう訳か……?」
大森林の一角に打ち立てられた、酒臭い天幕の一室。語られるであろう真実に、リュートの怒りはもう、爆発寸前だった。
「ああ。妾は、そう思っている。……『父と、自分は違うのだということを、全世界に遍く知らしめたい。それこそが、大陸を統治する皇帝の威信を示すことになる。そして、他国をまた一つ傘下に入れ、神の地を手に入れることこそが、帝国の強大さを諸国に知らしめ、反乱の意を削ぐ枷となるに違いない』。その若き皇帝の傲慢で幼稚な思想が、また、貴様らに悲劇をもたらしたのだ」
……真実は、想像以上に、浅く、そして、馬鹿馬鹿しく。
もう、笑い一つ、漏れなかった。
両親も。兄も。ニルフも、クルシェも。
そんなものの為に、死んでいったのか。あの崩れた皇帝の、そんなお遊戯の為に。
破れた父帝の汚名を濯ぐという、栄光の箔を自らに打ち付けたいために、これ以上の領土と、聖地という名誉を求めた。
その事実から察するに、侵略に次ぐ侵略の末、領土を広げ続けてきた帝国の皇帝は、恐ろしかったのだろうか。……侵略をしない、という選択が。
自ら攻め続け、攻め続け、歯車が狂っても攻め続ける。
どこかおかしい、おかしいと感じることがあっても、止められないのだ。止まる勇気が、ないのだ。
止まれば、圧倒的な武力を見せつけることでしか、諸国を牽制出来ぬこの夢の帝国は、崩壊するかもしれない。崩壊すれば、またあの忌まわしい奴隷民族へと貶められる。
自分たちの国が、欲しい。
誰にも脅かされぬ、自分たちだけの国が、欲しい。侵略によって手に入れた国ではなく、遙か昔から自分たちが住んだ国が。
ああ、あそこに国がある。
この選ばれた民族に約束された大地がある。
だが、そこには、小うるさい鳥が住んでいる。ええい、構うものか。奴等は人間ではないのだ。殺せ、殺せ。殺して聖地を奪回しろ。それこそが、選ばれし民族に神が科した使命なのだから。
考え当たった思想は、ロンから聞かされていたものと、殆ど相違がなかった。だが、改めて思い馳せてみると、リュートにとって、それは実に馬鹿馬鹿しく、幼稚で。
もう呆然と、震えた声で呟きを漏らすしかない。
「……何だ、それ……。そんな、馬鹿な話が……」
「馬鹿は、貴様らだ、婿殿よ。鳥の民族が、甘ちゃん過ぎるのだ」
リュートの呟きをぶった切るように、低い声音が姑からは返ってくる。
「この大陸に生きておれば、そのようなことは当たり前のこと。弱者は強者に喰われる。それが、命がけの捕食であろうと、お遊びでの狩りであろうとに係わらず」
獣のような、鋭い黒の瞳。それは、まるで、荒野に生きるけだものを思わせて。
その口から漏れる論理までも、獣のものになっていた。
「自分たちが公正であれば、他者も公正であってくれると思うのか? 答えは、否だ。世界は貴様が思うほどに、貴様に対してフェアではない。弱国は、強国の傲慢で狂った論理に蹂躙されるものだ。そして、世界とは、身勝手で、傲慢で、弱者を顧みぬものだ。それが、遍く、人間の本質であろう? 何を嘆くことがあろうか。後は、それを飲み込んで、気に入らなければ……」
……ただ、戦うのみだ。
そう断ずる姑の声には、些かの曇りも憂いもなく、ただただに明朗、それだけだった。
そして、語られるは、将軍職にある女の言葉とは思えぬ程に畏れ多い、帝国への堂々たる挑戦状。
「妾は、気に入らぬ。またもこの大陸から目を逸らし、安易に魂の救済を聖地に求める皇帝と、元老院が。そして、それを諸手を挙げて指示する愚かな民衆共が。何が、聖地か! 何が神の救済か! 今、目の前にある不幸を救えずして、何が神か! そんな神を得るための遠征なら――、また、この妾がぶっ潰してやろう! いや、遠征だけではない。今度は、その様な愚挙を二度も犯した皇帝と、元老院、全てを潰し、新たなリンダール帝国を作り上げようと。……妾は、そう決意したのじゃ」
到底、受け入れられないような、驚愕の女の決意。
何故なら。
「ちょっと待てよ。何いきなり暴論かましてるんだ。遠征が気に入らないなら、またそれを止めさせればいいだけだろう? それが、どうして、皇帝も元老院も潰すとか極端な話になるんだ。お前は帝国の将軍だろう?」
まさに、神をも恐れぬ反旗の提示。女の言葉は、それに他ならなかったからだ。
だが、疑問を呈するリュートを尻目に、姑は至って冷静に、新たな酒を手に取ると、一つ、意外な問いを投げかけていた。
「――婿殿。妾と初めて会ったあのベイルーンの酒場で、貴様、何を見たか、忘れた訳ではあるまい」
新たに栓を開けた酒瓶から、なみなみと、姑の杯に酒が注がれる。
……とく、とく。……とくとくとく。
「あの闇商人、ヒルディンとの会話を言っているのか? お前、酔い潰れたふりして、盗み聞きしていたのか」
今にも溢れんばかりに注がれた酒を、姑の唇が吸い取る。かなり大きめの杯であるにも関わらず、息を挟まず、一口。相変わらずの見事な鯨飲ぶりである。
「まあな。妾とて、ただ、飲みにあの酒場に行っておったわけではないのだ。あの交易都市で、今も秘密裏にあるものが売買されている――、その情報を確かめたくてな。ここから、ちょくちょくとあの都市に行っては情報収集をしておったのじゃ。それが、貴様があの高利貸しのチビ助から得た情報、……あの、巾着袋の中身じゃ」
――『こ、これは、貴殿が一生かかっても払えぬような高額商品だぞ! 触るな!!』
そう言って、あの小柄な、だが、したたかな商人が、隠し持っていた秘密。
リュートが知る、この国の根幹を成す重要技術。
「……騎竜技術の、売買。あれが……」
「如何にも。婿殿、知っておるか? この世で一番、止めにくいもの。それが、何なのか?」
意外な問い。
それをまるで示唆するように、再び、姑の杯になみなみと酒が注がれる。
……とくとく。……とくとくとく。……とくり。
先のものより、多い、その酒量。当然、許容量を超えた酒を、杯が受け止められるはずがない。表面張力を越えて、とぷり、と杯の飲み口から、酒が溢れ出す。
それは、あたかも、堰き止めた水が、止水提を乗り越えて、溢れ出すように。
「それは、人の口じゃ。どれだけ堰き止めたとしても、人の口に戸は立てられん。新たな技術には、必ず漏洩が、付随してくる。それが、武力という悪魔の業なら、尚更に」
さらに、酒が、杯から溢れ出す。それは、ぽたぽたと天幕の床に落下して、敷物にいくつもの点を描き――。
「婿殿よ。人が火を使い出した時、一体どれだけ、その技術を占有できたであろうか。人が、鉄を生み出した時、一体どれだけ、その技術を自らの家族のためだけに使うことが出来たであろうか」
……ぽた。ぽた、ぽたり。
染みは、いつしか大きく広がって。
やがて、床に敷かれた幾何学模様の毛織物に染み渡り、あらゆる方向へ、浸食していく。
「人は新たな技術があれば、それを何としてでも得て、自らの為に使いたいと欲する生き物なのだ。その技術が自らの利になり、自らの欲望を叶えるものである限りは、人の技術革新の欲望はとどまらぬ。無論、それは、我が国の騎竜技術も例外なくに」
自らの持たぬ、武力。
人はそれを喉から手が出るほど欲しがるものだ。
……平和の為。権利を得る為。どんな理由でも、等しく、自らの益の為に。
だから、あの小人族の闇商人は。
「……どの国も欲しがる機密、それは、つまり何よりも高く売れる商品、ということだな。それを、あの商魂逞しい商人達が、何者からか買った、と、そういうことか?」
「そうだ。あのチビ助の一族に、金を借りたリンダール人の何者かが、借金の肩代わりにでも情報を売ったのか、それとも、あのチビ助らが巧妙な方法を用いて聞き出したのか、真相は分からぬが、ここ数年前から、騎竜技術が少しずつ漏洩しているのでは、という疑惑は持たれておった。その都度、情報を売った者、買った者を火あぶりにして、これ以上の漏洩を堰き止めておった形だが、まこと、人の口、というは恐ろしいの。どれだけ規制したとて、止められぬ。……見たであろう? 帝国が傲慢な統治を続けておる間にも、異民族達は虎視眈々と技術を狙い、今ではあんな場末に居る闇商人すら、情報を商品として持ち歩いているのだ。それが、意味するもの、それは……」
――すなわち。
「既に、かなりの量の情報が、他民族に漏れている。……そういうことか?」
そうリュートが問ううちに、零れていた酒はすべて、床に吸い取られ、一体、どこまでが染みで、何処までが幾何学の模様か、分からぬほどになっていた。
「婿殿、話が早くて良いな。そういうことだ。建国より二百年、竜に乗るという神の御業の軛が、今こそ破られようとしておる。今は、まだその憂いは、皮膚内にうっすらと潜在しておるだけだが、放っておけば、やがて炎症を起こし、膿となって飛び出すぞ。そうなった時、果たして、この帝国は耐えられるだけの体力があるかどうか……。貴様は、どう思う? この大陸の覇権に関わらなかった有翼の民の貴様なら、この今の大陸の覇者を一体、どう見る?」
またしても、姑からの試問。
それに、リュートはあらゆる情報を脳内に駆けめぐらせ、熟考する。
自分は、一体、この国に来て、何を見た。そして、何を知った。
この国を統べる皇帝の気性に、あの病。無知蒙昧とも言える信仰ぶりに、それに則り政治を行う元老院議長。暴動を起こす他民族に、驕り高ぶり、腐敗した帝国人の支配。そして、その支配の要とも言える騎竜技術の漏洩。
もし、その騎竜技術が、他民族によって、リンダール人と同等に使用されるようになったら?
例えば、リンダール人より遙かに頑健な体を持つ獣人が、同じように空を飛んだとしたら?
戦艦を持つという海の民が、その船に竜を乗せることが出来たとしたら?
そして、その異民族達が、一斉に反旗を翻したら?
あの、病に伏している皇帝は、対処できるだろうか。
あの、狂信しか能のない元老院は、対抗できるだろうか。
あの、騎竜技術に頼るしかない帝国は、対応できるだろうか。
……答えは――。
女将軍の目が、静かに伏せられる。
「そう。遠征云々以前に、この国は、もう来るところまで来ているのだ。……崩壊の、序曲までな」
そして、その崩壊は、今の皇帝、元老院では止められぬ。
「愚かな者共が、これ以上妾の愛する帝国の頭におって貰っては、困るのだ。この国が最低限の国として、未来に保たれるには、即刻の改革こそが必要なのだ。それ故、妾は、責任ある将軍として、能ある者、意欲ある者を帝位に据えるべきだと考えた」
……その者が、誰なのか。
リュートが問う前に、女将軍は、答える。
「妾のその決意を、誰よりも理解し、そして、自ら勧めんとしてくれた者が居る。他でもない。妾の血を受け継ぎ、そして、思想を受け継いでくれる者だ」
この女の血を分け、そして、この女を何よりも決意さしめた娘。
それは――。
「そう。妾の娘にして、貴様の妻、エリーヤだ」
……エリー。
妻にして、仇。憎くて、心をいつも逆撫でされて、調子を狂わせられる、あの女が。
「我が娘は、言った。『お母様、お兄様は、もう駄目よ。お父様と同じ轍を踏むあんな男、皇帝に相応しくありません。技術の漏洩が懸念される今、ああして、自国の統治よりも、神の遠征に心血を注ぐなんて、馬鹿にしかできないわ。あんな愚帝、いつまで帝位に据えておくのですか。……いつか、言ったでしょう? 私が、この国を変えてみせると。私が、お父様や、お兄様に代わって……皇帝になって見せると――』」
……皇帝に。
あの、女が。
「娘エリーヤの大望。それは、この腐った帝国に蔓延る膿を一掃し、そして、自らが皇帝位についての、この帝国の再生。即ち――新生リンダール帝国、初代女帝になること」
――新生、リンダール帝国、初代女帝――。
何て。
何ていう、望みだろうか。
畏れ多くも、皇帝異母妹という存在でありながら。いや、神の代理人である初代皇帝の血を受け継ぐが故であるか。
「ふふ……、まさか、あの子供の戯れ言が、本当になろうとは思いもせなんだがな。だが、その言葉を受けて、妾は、再び決意した。我が娘の手に帝位を。その為に――、あのカイザルから、帝位を簒奪する。つまり……」
その先は、言わずとも分かる。
政権の、簒奪。それ、即ち。
「……そう。クーデターだ」