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第九十三話:先帝

「さて、婿殿。何か飲むか?」

 

 あの愛酒連合なる驚愕の酒宴から連れ出され、リュートが(いざな)われたのは、小さめの天幕の一つだった。

 どうやら、ここは、女将軍が寝起きをするための天幕らしい。彼女のものと思われる趣味の悪い服と一緒に、酒瓶がいくつか転がっているのがいい証拠だ。

 艶めかしくて、かつ不快な、酒の香り。居るだけで悪酔いしてしまいそうな空間に、これまた、忌まわしい姑と二人っきりなのだから、リュートの気分はもう最悪だった。

 

 だが、その不快感すら払拭するほどに、姑が内に持つ真実こそは、魅惑的で。

 堪らずに、その長く垂らされた黒髪を追って、天幕の奥へと足を進める。

 

「いい。酒も何もいらないから、早く話せ」

 そう催促すれば、姑は、用意した二つの杯のうち一つを、ぽい、と捨て置いて、拗ねたように唇を尖らせた。

 

「何じゃ、つまらぬ婿殿じゃの。酒にもつき合ってくれず、早々と催促とは。早漏は嫌われるぞ」

 

 この破廉恥な台詞には、堪らず。

 

「馬鹿野郎! この酒瓶で頭かち割られたくないんだったら、さっさと席に着け!!」

 

 手っ取り早く拾った凶器を手に、赤面しきりの娘婿が姑に迫る。だが、当の姑の方は、何喰わぬ顔。これくらい言って何が悪いのかとばかりに、さらに猥談を、この娘婿に対してし始めた。

 

「話を始める前に婿殿。我が娘の抱き心地はどうじゃ? まあ、我が娘であるからの。そこそこの技術はあると保証するぞ? んん? 最低、一晩に三回くらいはシておるのだろうな?」

 

 本当に、何処の色魔親父の台詞なのだろうか。

 呆れと、迫り来る羞恥とで、リュートの口からは、声さえも出ない。ただただ、もはや問答無用とばかりに、凶器を姑の頭蓋目がけて振り下ろさんとする。

 だが、その攻撃もあっさりとかわされて、姑からは、呆れの溜息。

 

「何じゃ、婿殿。その生娘の様な初々しい態度は。よもや、貴様、我が娘を既婚処女にしておるのではないだろうな。おいおい、ひょっとして、貴様、ふの……」

 

 その先を言わすまいと、再び、リュートの第二撃が姑の顔面へと迫る。だが、これも、ひょいと、軽くあしらわれて、今度は、真摯な台詞が返ってくる。

 

「まあ、若くともそういう症例はある。安心せい、婿殿。妾は、幸いにして、性欲増強薬も、媚薬も常備しておる」

 

 ここまで、真面目な顔をして言われれば、かえって清々しい。リュートにしても、一切のためらいすらなく、この姑を殺しにかかれるというものだ。

「その汚い口をいい加減閉じないか、この淫乱くそばばあ! ここでお前の(ただ)れた人生、終わりにしてやる!」

「ああ、やっぱり、早漏じゃの、婿殿は。最高の快楽が如何なるものか知らぬうちから、終わりにするなんぞ、勿体ないの。真の快楽とは、耐えに耐えた後にやって来るものじゃ。早々に、結果だけを求めるものではない」

 

 口を開けば、この恥ずかしい言葉の数々。

 本当に、この姑、女将軍ミーシカ・グラナという女には、雌蟷螂というあだ名が似つかわしい。

 ……そう、交尾の後、雄を食べて、自身の栄養とするいうあの昆虫の習性こそが。

 

 歳に似合わぬ、引き締まった体。紅に彩られた、肉厚の唇。その黒髪は、夜の闇を思わせるほどに、しっとりと、妖艶で。意志を主張するようにつり上がった目尻を飾る、長い睫毛も。その下に輝く黒曜石の瞳も。まるで、彫像の様に整っている。

 だが、それは、神聖なるものではない。全てが、退廃的なのだ。この女に宿る魅力の数々、その全ての香りが爛れている。

 

 ()えた酒の臭いだろうか。

 いや、これは、蟷螂が男を惑わす邪淫香だろうか。

 

 とにかく、酷く鼻につく。だが、その香りこそが、心のどこかを惹き付けて止まない。

 喰われると分かっていても、逃げられぬ、哀れな雄蟷螂の様に――。

 

「どうした、婿殿。妾が怖いのか? なぁに、貴様の様な美男は大の好みじゃ。優しゅうしてやるとも。ささ、妾の全てを知りたくば、この腕の中へ来い。たっぷり、愛撫してやろうぞ」

 

 ああ、こうして、男を喰らうのだ。

 こうして、甘い言葉を囁いて。ふらふらと近づいた雄をその懐へと抱き込んで。

 

 先代の皇帝も。そして、あるいは、英雄と呼ばれた自分の父すら、(たら)し込んだのかもしれない。

 

「ここでいい。お前の毒牙にはかからん。――話せ」

 

 いつ喰われるかもしれないという緊張感に、体中がじっとりと汗ばむ。だが、負けていられるものか。

 ここまで来て、聞かぬなど、とは出来ないのだから。

 

 その娘婿の態度に、姑もどこか、満足したのだろう。酒を手に、婿の前へとその腰を落ち着けて見せた。

 

「……ふふ。その目、いいの。本当に、……あの男を思い起こさせる目じゃ。あの、……ヴァレルとか言う、有翼の民の男をな」

 

 

 

 

 

 

 

「さて。何から、話すべきか……。そうだな。まずは、先帝の話でもしようか」

 

 酒臭い天幕に、ようやく姑と婿、差し向かいで席につき、語り出された最初の言葉。それは、実に意外な台詞だった。

「……先帝? 今の皇帝の父、……有翼の国への第一次侵攻を行った、あの皇帝、ギゼル・ハーンの話か?」

「そう。貴様らの国へと侵攻し、『ルークリヴィルの奇跡』によって、破れた皇帝。彼の話を、してやろう。彼が、何故、あの国への侵略を決めたか。そして、あの大敗の後、彼が辿った運命をな。何故なら、彼の死こそが、貴様が戦ったという第二次侵攻に深く関わっているのであるから」

 

 ……先帝、ギゼル・ハーン。

 話には聞いていたが、彼が一体如何なる人物で、そして、何を考えていたのか。リュートには、知るべくもなかった。ただ、分かっているのは、皇帝の父にして、自分の妻、エリーヤの父である、という点だけ。

 その件についても、確認のために再度問う。

 

「エリーの父、ということは、お前は皇帝の寵姫、という事で間違いないんだな? 皇帝の子を産んだわけだから、その……、そういう関係があった、ということなんだろう?」

「ははっ! 寵姫? なんじゃ、その可愛らしい言葉は。……違う、違う。妾は、先帝の愛玩動物ではない。そうだな。強いて言うなら、……愛人じゃ、愛人。ああ、勿論、妾が、ではないぞ。先帝が、妾の愛人なのじゃ」

 

 卑しくも、先代皇帝に向かってのこの、台詞。

 とてもではないが、臣下たる将軍が吐く言葉ではない。何しろ、この大帝国の主を、並み居る男の一人として数えている訳だから。

 

「……おい。何だ。お前は、先帝をただの一人の男として(たぶら)かして、巣穴に引きずり込んだ。……そういう訳か?」

 認めたくはない、事柄。だが、目の前の姑は、いともあっさりと肯定の仕草を見せている。

「そうじゃ。興味があったのでな。とりあえず、寝てみたのじゃ。……この大帝国を統べる皇帝なる男が、いかほどのものか、な」

 

 これに、性的に潔癖な婿が、納得できるはずもない。明らかな侮蔑の声音で、再度事実を確認する。

「じゃあ、何か? お前は、そうやって先帝と寝て、今の地位を得たってわけか?」

「馬鹿者。妾がそんな女と思うてか。侮るなよ、婿殿。この地位については、些かも女という性を武器にしたことはない。全て、男と対等な条件の下に勝ち上がり、掴み取った地位じゃ。次、その様な暴言を吐けば、遠慮なくその首、捻り切るぞ。覚悟せい」

 

 そう言って、向けられるのは、あの市長らを一掃した時に見せた、獣の視線だった。獰猛で、したたかで、そして、容赦がない。

 おそらく、この視線で、この女は、並み居る敵を蹴散らしてきたのだろう。男も、女も、全て関係なく。

 だが、そんなたたき上げの女将軍だからこそ、余計に腑に落ちないのだ。そんな女が、何故先帝と愛人関係にあったのか。

 その旨を姑に問うと、あっけらかんと答えが返ってくる。

 

「さっきも言ったであろう? 興味じゃ、興味。この帝国の長である皇帝とは、いかほどの男なのか。神の代理人という人間は、如何なる器なのか。それを知りたくて、妾から、先帝陛下を襲ったのじゃ」

 

 ……先帝を、襲った。

 おそらく、世界中探したって、大帝国の主にその様な無礼が働けるのは、この女くらいしかいないだろう。皇帝の寵を得るために、着飾り、媚びを売って、その寝床に引き入れられる、という女なら分かるが、自ら皇帝の寝床に進入して、皇帝の衣服をはぎ取り、コトに及んだ、と言うのだ。

 当然、リュートの理解の範疇を越えている。ありったけの軽蔑を目に溜めて、侮辱の言葉を口にしてみせる。

 

「……破廉恥女の母親は、輪をかけて破廉恥だな……。信じられん……」

「んん? 何を言うか、婿殿。賢い女たるもの、よりよい種を求めて、そちらの道に邁進することは、当然の事ではないか。何しろ、神に選ばれておるのだからな。さぞかし、素晴らしい種じゃ、と思うて、期待に胸膨らましておったのだがな。まあ、……あっちの方は、大したことがなかったな」

 

 リュートには、そちらの道も、あっちの方も、理解出来ない。いや、したくないのだ。

 何よりも、こんな恥ずかしい台詞を顔色一つ言ってのける女の存在を、認めたくないのだ。

 

「耳が腐る……。そういう話はいいから、話を先にすすめろ、この色欲ばばあ」

「ん? 何じゃ、婿殿は、女に幻想求めすぎではないのか? うん、まあ、女を知らぬ身には良くあるコトじゃ。女は、美しく、清楚で、慎ましやかで、可愛らしい。……ま、妾に言わせれば、それも、(あまね)く、男を籠絡させるために女が生み出した武器、に過ぎぬのだがな。まあ、よいよい。坊やは坊やらしくしておればよい。それでこそ、我が娘も狩りがいがあるというものじゃろうて。……ま、それはそれとして、だ」

 

 ここからが、ようやく本筋、とばかりに、姑の喉が、酒によって潤される。

 

「まあ、あっちの方は大したことはなかったが、存外、妾と先帝陛下は気が合っての。……と、いうか、陛下の方が、妾の体にぞっこんになってしまって、まあ、不慮の事故で、エリーヤという娘までもうけてしもうた。その後も、公私問わず、妾は先帝陛下の寵を得ておった、という形じゃ。何処へ行くにも、妾、妾。現帝の母である正妃すら差し置いて、妾を(ねや)にと呼ぶので、嫉妬もよう買ったわ。まあ、どれだけ着飾ろうとて、遠征にも付いて来れぬ女共が、妾に勝てる訳がなかったのだがな。遠征に行けば、先帝の側におる女は妾だけ。当然、戦の間中は、閨は、妾が独占、ということになるのだから」

 

 戦場では、皇帝を守るべく戦い、そして、夜になれば、閨を共にしてくれる。

 先帝にとって、そんな女は、この雌蟷螂しか居なかったに違いない。公私ともに、端で支え、そして、守ってくれ、癒してもくれる女は。

 世界中、何処を探したって見つからない、唯一の女だ。勿論、正妃の位を持つ女すら、霞むほどに。

 

「……当然、あの有翼の国の遠征にも、お前を連れてくるはずだな、姑殿」

 

 じっとりとした汗を額に、リュートが問う。

 それに対し、姑は、ゆったりと余裕の笑みで頷くと、あの有翼の国への初めての遠征について、その口を開き始めた。

 

「あの当時、リンダール帝国は悲願であった大陸統一を成し遂げ、絶頂の最中(さなか)にあった。だが、それは裏を返せば、国民に対して、国をまとめ上げるためのわかりやすい目標が無くなった、ということでもあったのだ。今までは、我らリンダール人を虐げてきた大陸の民族達を、傘下に収めるという国家的な大望があった。それ故、民衆は遠征費用をまかなうための税にも、徴兵にも素直に応じていたのだ。すべては、この選民による大陸支配、という御旗の元に。……だが」

 

 その反語と共に、姑の顔に険しい色が宿る。

 

「その大望が成就した時、民衆の間に何が起こったか、分からぬ婿殿でもあるまい。減税要求、徴兵拒否。……まこと、民草とは単純で、かつ、したたかなもの。今まで如何に妾らが辛い戦いの末に、統一を成し遂げたか、考えもせずに驕り高ぶってきた。この大陸を統一して当たり前。統一したのだから、もう税金もいらぬ、働かなくても良い。ただ、この繁栄を享受し、このぬるま湯に浸っておれば良いのだ、とな」

 

 姑の告げた言葉に、リュートは、かつて聞かされたロンの話をその脳裏に思い出す。

 

「そこで、打ち出されたのが、聖地回復事業、と言うやつだな?」

「……そう。よう知っておるではないか、婿殿。大陸統一を成し遂げた後、各地の統治機構を整えるためにも多額の金がいった。当然、属国からも金は徴収するが、それだけでは賄えぬ。それ故、高額の税をリンダール人にも課したのだが、これがえらく反発を買ってな」

 それは、そうだろう。愚かな民衆にしてみれば、自分たちは選ばれたこの国の覇者になったのだ。そうなって尚、税金に苦しめられ、暮らしが楽にならないのなら、反発もしたくはなろう。


「それ故、我らは考えた。税に反発する民衆の気持ちをどこに向けたらよいか。……手っ取り早いのは、宗教。そして、外敵を作ることだ」


「外敵……。そうだな、確かに、まだ打ちのめすべき敵がいると言われれば、民衆も軍を賄う税を素直に出しやすくなるだろう。それが、自分達がかつて住んだ地を不当に占拠している異民族なら尚更に」


「左様。そう考え当たった当時の元老院は、躍起になって、聖典に記された聖地の探索を騎士団に命じた。自らが何よりも信奉する宗教なら、民衆共はいくらでも金を出すからな。そりゃあ、自分たちこそが、何よりも優れた民族であるという思想は捨てがたかろう。そして、それが正しいこと、――即ち、聖典の教えこそが正しいのだ、と証明する、ということは、何よりも自らの自尊心を満たすであろうよ。それが、ただの、平凡なる一市民、いや、低俗な人間であればあるほど、だ」

 

 自らが、誰よりも優れているのだ、という証明が欲しい。

 ……だが、それは劣等感の裏返しに過ぎない。

 

 女将軍は、自国民を、そう侮蔑しているのだ。

 

「……それで、生け贄に選ばれたのが、僕らの国――、あのイヴァリー半島だったってわけだ」

「そうだ。……妾は、反対したのだがな。国を治めるのに、外敵を作るのは、手っ取り早い手段だが、長期的に見れば、その政策は愚の骨頂以外の何ものでもない。これから、足固めをしなければならない時に、余所の国に手を出して、何の益があるものか」

 

 意外なことに、この女は、あの遠征に反対だったと言う。この、先帝の愛人にして、公的な場でも彼を支えてきたというこの女が。

 その事実に、些か、リュートの目が揺るぐ。だが、それと同時に感じるのは、さらなる疑問の念だった。

 

「では、どうして、お前が反対したという有翼の国への侵攻が開始されたんだ?」

 

「……一つには、探索騎士団の手によって、貴様らの国に、かつて我らが住んだという『約束の地』の遺跡が見つかったこと。それが、民衆、聖職者、そして、それに後押しされる元老院議員らの心に火を付けた。貴様も会ったことがあるか? 現議長のヴァルバスという男。あれは、かなりの狂信者だからな」

 

 かつて、皇宮で、リュートに堕胎薬を託した初老の男との会話が蘇る。

 彼と話したとき、何よりも感じたのは、自分が何を言っても、この男の信仰は揺るがぬだろうという、嫌悪にも似た感情だった。……そうか、彼なら。

 

「そして、もう一点。その宗教的な救済思想に、……先帝陛下が飛びついたのだ。『聖地にて祈りを捧げ、赦しを乞いたい』とな」

 

 そう、もう一つの理由を吐き捨てた女将軍の顔は、先のどこか情の滲んだものとは一転して、激しい怒りと、嫌悪に彩られていた。あの床を共にした、という先帝を何よりも侮蔑し、そして、哀れむようなその表情に、リュートは違和感を覚える。

 

「おい。どうして、そんなに先帝は宗教狂いになってしまったんだ? 元からそんなに、敬虔な信者だったのか?」

「いいや。あれは、そんな男ではなかった。あれを……、あの陛下を変えたものは……」

 

 ……そうだな。

 自嘲の笑いと共に、女将軍が言い淀む。そして、一言絞り出したのは、意外な言葉だった。

 

「強いて言うなら、弱さ故、か」

 

「……弱さ?」

 

 そうリュートが反芻するが、女将軍の口から、それ以上の理由は語られなかった。全てを語る、と言ったのに、ここだけは語れない。そんな意志だけが、ありありと感じられる沈黙だった。

 これに、流石のリュートも無理強いは諦め、その先の話を重ねて問う。

 

「それで、お前達はさらなる軍勢をもって、あの半島に侵攻し、あのルークリヴィル城を聖地として支配した、というわけだな。だが、そんな暴挙を、僕らの国が黙っていられるわけがない。そこで、起こったのが、あの『ルークリヴィルの奇跡』と呼ばれた大戦。……お前も、そこに居たんだな? 女将軍」

 

 その問いに、ゆっくりと、姑の首が縦に振られる。

 

「ああ。おったとも。先帝陛下と共に、妾もあの戦に出ておった。今は、娘の配下にある紅玉騎士団も、当時は妾の配下にあったのでな。彼女らと、第三軍兵を率いて、陛下と共に、有翼軍をあの城で迎え撃った。……だが」

「……そこで、皇帝は僕の父、白の英雄ヴァレルに、負けた。そうだな?」

 再びの、首肯。だが、その瞳の奥に、何か意味ありげな光が宿る。

「あの男は、実に希有な男であったよ。誰よりも風を読み、策を練り、そして、先帝陛下の隙を突き、彼と妾までをも虜囚せしめた。そう、聞き及んでおろう? 正直、先帝陛下もあのような大敗を喫するなど、夢にも思うておらなんだであろうて」

「ああ……、だからこそ、『奇跡』と僕らの国では称されているんだ。だが、問題は、その後、捕らわれたお前と、僕の父に何があったか、だ。……それが、僕にとって、何よりもの疑問なんだ。何故、僕の父が、……英雄と呼ばれたあの父が、自国民を裏切るような真似をしたのか。どうして、お前を逃がすような愚挙を犯したのか」

 

 射抜くような、碧の視線。それを真っ向から受け止めてなお、女将軍の目は揺るがなかった。

 一つ、溜息の後、意外な言葉を口にしてみせる。

 

「貴様が、彼の真意を理解するには、もう一つの事柄を知らねばならない。……他でもない、この妾の真意というものを、な」

 

「お前の、真意……?」

 

 ……そういえば、とリュートは一つの矛盾に思い当たる。

 先に、この女は、有翼の国への侵攻には反対していた、と言っていた。その女が。……皇帝すら襲える程の女が、彼に望まれたからと言って、易々と遠征に行くものだろうか。それほどに、この女は、簡単に信念を曲げる女だろうか。

 

 そのリュートの内心に答えるべく、女将軍は再び語り出す。

 

「有翼の国への侵攻が元老院によって可決され、それに皇帝が調印した時、妾は思った。……安易に外敵を求めるなど、なんという馬鹿共か。自大陸に内含する数々の膿から目を逸らし、神の救済などという欺瞞を求めるなど、何と情けない我が君か、とな。だが、当時、反対派は妾一人。到底、その決定を覆すことなど出来ず、侵攻は淡々と進められた。加えて、貴様ら有翼人という新たな商売の種すらも獲得し、帝国は聖地回復事業に沸き立ち、反対派が口を挟む余地すらなかった」


「じゃあ、お前は侵攻が行われている間も、変わらずに反対派であった、ということか?」

「ああ。妾はこの大陸平定に心血を注いだ将軍じゃ。この大陸を治めるということが、如何に難しいか、知らぬわけではない。……ときに、婿殿よ」

 

 核心部分に触れる前に、今度は姑から婿への問い。

 しかも、何かを試すような、そんな視線である。これに、リュートの警戒心が強められぬ訳がない。

 

「婿殿、貴様、今までこの国を見てきて、どう思った? 忌憚なく述べるがいい」

 

 これは、まさしく試問だろう。

 この国に来て、見聞きしたもの。それを、どう捕らえるかによって、婿たるリュートの資質を問うているのだ。まさに、女将軍からの挑戦状。

 ……望むところ。

 リュートの碧の眼差しが、その輝きをいや増し、その思うところが述べられる。

 

「一度、皇宮で奴隷生活をする前に、皇帝の間の地図を見た。あの時、不審に思ったことがある。属国の領土、そして、多さに比べて、帝国の領土、狭すぎないか?」

 

 いびつな楕円状のこの大陸。その中心に走るは、活火山のリンダール山脈。その麓、帝都シャンドラを中心として繁栄するこのリンダール帝国。

 だが、その帝国本土は、大陸に散らばる属国よりも遙かに小さく、ともすれば、この大森林エントラーダの領土の半分ほどしかなかった。加えて、その周囲には、数々の属国。丁度、帝国本土を囲むように位置するその多彩な属国が意味するもの、それが何なのか。

 

「小国による諸大国の支配。しかも、異民族による支配。これが、如何に難しいか、分からないほど、僕は馬鹿じゃない」

 

 有翼の民という単一民族国家でも、獅子王の統一戦争という、血を血で洗う戦いの末に統一を果たしたのだ。そして百年経った今とて、最後の抵抗派、東部には独立を求める過激派が存在している。――かつて、ランドルフが殺されそうになったのが、いい証拠だ。

 ……その、民族ですら。

 姿形、言語、文化。多少の違いがあっても、ほぼ同型を成す民族達ですら、軋轢(あつれき)は大きいのだ。それが、姿形、言語、文化、有りとあらゆるものが異なる民族達なら、その火種の大きさは計り知れない。しかも、それが、自らを選民として位置づけ、他民族を劣人種として貶める驕慢なる民による支配なら、尚更に。

 

 そして、その支配の根幹となるものが、軍事力、それしかないとしたら――、それは。


「当然、他民族からの反発は大きいな。あの交易都市での有り様、酷いものだった。中央の監査が入るどころが、元老院と癒着してやりたい放題やっているんだろ? そんな適当な支配を続けていれば、こんな大きすぎる帝国、すぐにひびが入るだろうに」


 あの交易都市で、異民族を劣人種と位置づけ、鞭を振るい、財を搾り取ろうとしていた豚の姿が、嫌でもリュートの脳裏に思い起こされる。確か、助けた女サーシャも言っていた。どの民族、そして、同族からも嫌われている、と。

 そして、交易都市の兵士達のたるみようも半端ではなかった。おそらく、元からの正規兵ではないのだろう。何しろ、これだけの広大な領土だ。反乱を防ぐ為に、帝国軍を各地に駐留させようとすれば、かなりの人員を要する。

 それこそ、そこらにいる訓練すらまともに受けたことのないものでも、かき集めて来なければならないほどに。


 ……つまり、支配をしなければならない異民族に比べて、圧倒的にリンダール人の数が少なすぎるのだ。


 加えて、あの交易都市で売買されていたものだ。あの妻がきらきらと目を輝かせていた品々、全てが外国産だった。織物も、食器も、装飾品も全て、全て。

 その事が意味するもの。それは、ひとえにリンダール帝国の産業の貧困さに他ならない。……とどのつまり、彼らには、奴隷民族という出自故に、歴史的な文化がないのだ。


 支配を受ける方からしてみれば、だ。自分たちより技術も統治制度も劣った元奴隷民族に、軍事的に敗北したからと言って、支配されたくないと思うだろう。人は自分より暴力的に勝るだけの馬鹿には、従いたくないものだ。


 要するに、圧倒的に、足りないのだ。

 この帝国には、大陸を長く支配する能力が、ないに等しいのだ。


 ただ、強力な武器をたまたま見つけた子供が、――『俺様は強いんだ! だから、賢い奴も、技術を持っている奴も関係なく、俺様にひれ伏せ! さもないと殺しちまうぞ!!』、――そう言って喚いている国。

 ……そんな、醜い国なのだ、この大帝国は。


「……左様。言う通りじゃ、婿殿。当時の帝国はの、大陸支配と聖地回復という浪漫に浮かれ果て、諸外国を統治するということが如何なるものか、学ぼうとせんかったのじゃ。ただ、自らを選民と位置づけ、傲慢な統治が当たり前だと、狂った論理を諸属国に押しつけた。これが意味するもの、それは貴様の言うとおり、帝国人が反発の火種を自ら撒いた。それに他ならない」


 結局は、過ぎたる領土なのだ。

 統治能力もない癖に次から次へと新たな土地を飲み込んで、それで満足してしまったのだ。そのツケが、どれほどのものか分かりもせずに。

 肥大化すればするだけ、身体には一層の負担がかかる。大きな体を支えようとするなら、それなりの努力と代償を払わねばならない。それもせずに、ただ、新しい領土という甘さだけを摂取するならば、まさに、その体は――。


「……死に体、だな。この帝国、肥え太りすぎて、もう、限界なんだろう?」

 

 武力だけを頼りに、他国を侵略し、自らを選民と位置づけ、君臨するリンダール人。

 元が飢えた奴隷民族だ。初めて得た自由。初めて得た権力。初めて得た悦楽。

 その甘い蜜を求めずには得られなかっただろう。その体が、もう動けぬほどに、いや、自らの体を蝕むまで肥え太ったとしても。

 

 リュートのその答えに、女将軍は、満足そうに頷いて見せた。

 

「左様、婿殿。軍事力にのみに頼る繁栄。それは、所詮、砂上の楼閣に過ぎぬ。敵が同じだけの軍事力を手に入れれば、たちまちに崩れ落ちる、夢の帝国じゃ」

 

 今にも崩れそうな砂丘の上に、建設された巨大な城。それが、どれだけ堅固であろうとも、足下が崩れれば、待っているのは、もう、……崩壊、それしかないのだ。

 

「本来ならば、この大陸を統一したとき、その甘い蜜だけでなく、苦い薬も飲み下すべきだったのだ。そして、その甘さに見合うだけの辛酸を舐めて、何十年、何百年かけて、足下を固める。そうすべき所を、元老院と先帝は、現実から目を逸らすように、また安易に甘い蜜を求めた。貴様らの国にあるという聖地という、甘露を」

 

 宗教、そして、奴隷貿易。

 いつ崩れるかも分からぬ楼閣の上で、肥満体は、未だ甘い汁が欲しい欲しいと、手を伸ばした。その足下が砂であるという恐怖から目を逸らすように。自分たちは、誰よりも優れているのだ。神が選んだのだから、滅びなど、ない。いや、認めたくない。まだまだ、甘い汁が吸えて当たり前なのだ。

 

 ……欺瞞。その哀しいまでにいじましい論理は、ただ、ひたすらの欺瞞でしかない。

 

「……ああ。だから、エリーは、宗教をあそこまで嫌っている訳か。それから、あの男、サイニー将軍も……」

 

 かつて対峙した鉄人の残した言葉が、リュートの脳裏に蘇る。

 彼と最後に戦った平原の戦での一騎打ちで。確かに、彼は、こう言っていたのだ。

 

 ――『……そうだ。我らの神は絶対なのだ。我らは、……神にすがるしか、ないのだよ。この、我ら、リンダール人といういじましい民族はな!!』

 

 おそらく。

 あの男も、心の隅で疑問を抱きながらも、抗えなかったに違いない。哀しい、奴隷民族の国家が持つ脆弱さゆえの欺瞞に。いつ自分たちの立場が崩れ、再び奴隷へと貶められるのではないかという恐れ。それを誤魔化すための甘い理想に。

 だから、あの、クルシェに殺されながら、どこか納得したような死に顔を見せたのか。

 彼は、ただ、安堵したのかもしれない。自らの弱さを、ようやく認め、もう自らを誤魔化さなくとも良いのだと。

 

 神の救いさえも、拒否して。

 ただ、心の平穏を、死に求めていたのだとしたら。

 

「哀しいな。人の心を、そして国を蝕んで、何が宗教か……」

 

 呟くように漏らした、リュートのその言葉に、姑がゆったりと頷く。

 

「左様、婿殿。宗教は、人の心を救うためにあるものだ。だが、建国より二百年、奴隷民族を救いたいと打ち出した、大帝ハーンの思想は、歪み、腐りきっておる。我らには、また、宗教改革も必要なのだ。医学の発達より神の教えを重視し、能ある医師らを火あぶりにするような無知蒙昧なる邪教は、即刻、排除されるべきであろう」

 

「……火あぶり。皇帝の侍女、サルディナの家族の事だな。彼女もまた、宗教の犠牲者でありながら、未だ皇帝の側にいるというのが、少々理解できないところではあるが……」

「ふん……。お子ちゃまな婿殿には、男女の機微など分からんのだな。あれにはあれの考えがあろうよ。無論、皇帝陛下にも、な。放っておけ、男と女の間のことじゃ」


 そう微妙なからかいを受けながらも、リュートはここで反発しても仕方がないと、一人熟考する。そして、ここまでの会話で、姑が何を言いたかったか、もう一度整理してみせた。


「まあ、話は大体分かった。要するに、あれだ。帝国は軍事力にものを言わせて、領土を喰うだけ喰って、あとはやりたい放題。そうなったら、せっかく統一したこの大陸に、ひびが入るのは必定。なのに、その統治をほっぽり出して聖地を求める者共。そして、その思想の根元となっている宗教。お前は、それが許せなかった、という訳だな」


 リュートのその答えに、雌蟷螂は満足げに首肯する。

 どうやら、最初の試問は合格だったようだ。

 

「うむ、お子ちゃまはお子ちゃまの様だが、さりとて、婿殿。貴様、思ったより、よう分かっておるではないか。流石は、我が娘が選んだ婿、ということか。最初は、有翼の民を婿なんぞ、どういうつもりだ、と驚いたがな。娘から、ここに来るまでにあらかた有翼の国でのあらましは聞いたぞ。皇帝を退け、そして、捕虜であったロンという男からもたらされた騎竜技術によってサイニーまで撃破したそうだな。ふふ、『白の英雄』という称号は伊達ではないか」

「……ふん。そんな称号、とっくの昔に返上したよ。僕は、そんな大層な男じゃない。僕は、ただの、……そうだな。……お子ちゃまだ」

 

 先に、姑に揶揄された台詞を用いての反論。どうやら、これが、姑に、いたくお気に召したらしい。今までなく大声で笑って、破顔してみせる。

 

「くっくっく、婿殿。よいよい。若い内は、お子ちゃまでも良いのだ。時に、その若さは何よりもの武器になることがある。恐れを知らぬと言うことは、愚かでもあるが、良いことでもある。時に、重ねた年月は、人を臆病にするのでな。歳を喰えば喰うほど、変化を恐れるようになる。かつての妾もそうだった」

「お前も? そうは、思えないがな」

「それが、そうでもないのだ。妾も、躊躇することがあったのだよ。特に――、ある決意をするまでは、な」

 

 そう言って、さらに目を細めた姑の、目尻に刻まれた皺が、嫌に印象的で。

 リュートは、堪らずに、その真意を問うていた。

 

「ある決意? それは、一体……」

 

 だが、その問いに、姑は即答しない。

 ……話を、先のものに戻そうか、と言うなり、また、酒で喉を潤して見せた。 


「言うたであろう? 貴様らの国への侵攻が可決された時、妾は唯一の反対派であったと。貴様が指摘したとおり、小国による傲慢な支配という、この国の統治の在り方は、妾が心配するところであったのでな。ここで、また他国が挙って反乱でも起こされては適わんと、口酸っぱくして、馬鹿な遠征は止めろと進言したのだが、哀しいかな、最愛の愛人であった妾の意見は先帝陛下と元老院の前に一蹴された」


「……一蹴、か。低脳ばかりだな、帝国は」


 元が教育など受けておらぬ奴隷の民族には、人の上に立って統治するなど、過ぎた事だったのか。それとも、馬鹿げた遠征だと分かっていても、敢えてその現実から目を逸らしたかったのか。

 リュートには知るべくもない事柄である。


「無論、その決定に、妾は不服だった。どうして、この難しい大陸、そして、大きすぎる領土を捨て置いて、余所の国に手を出すのか、と。だが、そう心のどこかで疑問を感じながらも、これが陛下の決めたことなら、と諦めかけていた。……その時だった」

 ほう、と熱い溜息が、姑の口から吐き出される。

「遠征に行く陛下を送り出す準備をしていた妾の元に、突然、まだ少女だった、娘エリーヤがやってきたのだ。そして、妾に切々とまくし立てて見せた」

「……エリーが? 一体、何を?」

 

「『お母様、どうして、そう簡単に諦めてしまったの? いつも、私に何でも簡単に諦めるなと言う癖に』とな。そして、こうも言った。――『お母様はこのままではせっかく統一したこの国が危ないって、いつも言ってるじゃない。それなのに、どうして間違っているお父様を正せないの?! お母様は、私にいつも、間違っていることは何でも正せと言うじゃないの。お母様は私を裏切る気?』とな」

 

 ……あの、エリーが。

 あの傲慢で、傍若無人な、妻が。

 

「無論、妾は将軍という立場上、反論したよ。『妾は陛下の決定に従う。陛下は、陛下なりのお考えがあるのだろう。主君であり、お前の父である陛下を、妾に裏切れと言うか』とな。だが、あの娘、まだその齢八つほどで何と言ったと思う?」


 ――『情けないお母様ね。だったら、私が変えてあげるわ。あんなお父様や、お兄様が皇帝だから、駄目なんでしょう? じゃあ、私が大きくなって、一杯勉強をしたらいいわね。そうしたら、皇帝になって、私が、この国を統治してみせるわ』


「笑えるであろう? とても、八つの小娘の台詞とは思えぬ。いや、恐れを知らぬ小娘だからこそ、言えた台詞ということか。だが……、その子供ゆえの言葉が、何より妾を変えた」

 

 その言葉と共に、姑の顔が、今まで見せていた女将軍の顔から、一人の女のものへと変化する。我が子を愛おしみ、そして、我が子の行く末を誰よりも案じる、一人の母のものへ。

 

「妾は、その時思った。このまま、帝国が誤った道を辿るのを傍観することは、何よりもの国への裏切りであると。そして、国への裏切りは、これからこの国に生きるであろう娘への裏切りでもある。忠誠を誓った皇帝陛下よりも何よりも、未来を担う子供らは裏切れぬ、とな。そう思い当たったとき、妾の心からは、迷いが消えた。皇帝と元老院の決定が覆せぬなら、覆せないなりに、妾は抗ってやろうとな」

 

 子を、誰よりも守りたいという母の決意。

 それは……。

 

「妾は、決意した。この国を正しい道に導くためならば、如何なる手段でも取ろうと。そして、我が慕わしき先帝陛下と、愚かな元老院が行おうとしている愚挙を早々に潰し、その目をこの大陸という足下に向けさせてみようと」


 決意を体現するように、女の拳が、がしり、と握られる。


「それから、妾の密かな戦いが始まったのじゃ。正攻法では、元老院の決定は絶対に覆らぬ。ならば、こちらもとりあえず、頭数を揃えようと思ってな。時を見て帝国に帰り、妾の考えを支持してくれる者を探した。配下の紅玉騎士団の中から、第三軍の中から、一人、二人、……また三人と、な。加えて、諸国の動向も気になっていたのでな。密かに首脳の面々と個人的な交流も重ねて、色々と話し合ってきたのだ」


 表向きは皇帝に従いながら、その内では、遠征中止の為の活動に奔走していた。

 間違いなく、姑は、そう言っているのだ。

 憎むべきリンダール人の将軍である、この女が。あの聖地回復事業に帝国人でありながら抗い、皇帝を、自国の政治に専念させるために。


 ……信じられない。

 信じられるものか。


 そう、内心で否定の言葉を紡ぎながらも、リュートの口は押し黙ったままだった。

 何よりも、その先の言葉が聞いてみたくて。そして、心のどこかでずっと感じ続けてきた違和感を、払拭したくて。

 思わず、雌蟷螂の言葉に、耳をそばだてていた。


「そうして、この国、いや、この大陸の未来を憂う同士を、妾が密かに募っている内に、あっと言うまに、五年が経ってしもうた。だが、一向に陛下と元老院、そして民衆は聖地回復事業を手放そうとはしない。観賞用の奴隷売買に、聖地巡礼という浪漫。それに追従し、鳥狩りというお遊びでの狩りに興じて、守るべき自国にも戻らぬ騎士共。当然、帝国の統治は腐敗し放題だ。まったく、聖地だとか、そんなものの為に自国の政治が蔑ろにされるなど、妾にはこれ以上耐えられなかった。だが、どうしたって妾の意見は聞き入れられぬ。なら――もう、こんな馬鹿共には、多少の犠牲を覚悟しての実力行使しかないと、妾は思ったのだ」


 ……実力行使。

 それが何なのか、リュートが問うより先に姑が口を開く。


「妾がそう思い立った時、丁度、五年の支配を続けていた有翼の国で、大規模な戦が計画されているという情報を得た」 


 最初の侵攻から、五年。大規模な、戦。そこまで言われれば、もう、分かる。

 ……そう、言わずもがな。

 

「『ルークリヴィルの奇跡』……。あの、僕の父が英雄として名を挙げた戦……」

 

 リュートのその漏らした言葉に、深い、深い、頷きが返ってくる。

 それと同時に、ぶつけられたのは、リュートの根幹を揺るがすような問いだった。

 

「婿殿。貴様、おかしいとは思わなんだか。今まで苦戦しておった有翼軍が、何故、あの大戦で勝利出来たのか。いくら、よく風を読み、計略を用いる貴様の父、白の英雄ヴァレルがいたからといって、何故、ああも簡単に皇帝と妾が虜囚されたのか」

 

 今までに、姑の口から語られた事実が、その問いの答えだった。

 ……信じたくはない。何故なら、あの奇跡、そのものが、奇跡でも、何でもないとしたら。

 

 揺るがされる。

 自分の父の虚像が。自国の誇りが。そして、何より、この自分の信じてきた歴史が。

 

 嫌な考えを振り払うかのように、リュートの(かぶり)が横に振られる。

 

 聞きたくない。……聞きたくない。

 自らの父が。自らの誇りが。自らを形作ってきた歴史が。

 壊れるような、事実など。

 

 だが、目の前に鎮座する雌蟷螂の舌は、止まることがなかった。変わらぬ饐えた臭いと、てらりと光る唾液を携えて、女の口が、語り出す。

 

「――負けてやったのだ。誰あろう、この妾が。あの愚かな遠征を止めさせるためにな」



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