第九十一話:猜疑
「お、お母様?」
信じられない、といった面持ちで、紅玉騎士団団長エリーヤは、ルビーの瞳を見開いた。
無理もない。目の前には、この宿営地に居るはずのない、自分の母親の姿。黒髪に、引き締まった体、そして、軽々と抱えられる戦斧槍と、まさに女将軍として相応しい勇姿なのだが、娘はその来訪に納得が行かない。
てっきり、大森林で待っていてくれているものと思っていたのに、どうして、この交易都市ベイルーンに姿を現したのか。
それに加えて、この母親、しらふではない。まだ半分酔いが回ったような赤らんだ顔。おそらくこの雌蟷螂と揶揄される女は、並々ならぬ量の酒をその胃袋に飲み込んだのだろう。母の飲酒量が桁外れに多いことは、何よりも娘であるエリーヤが知っていることだ。その事実から推察される事態を、おずおずと母に尋ねる。
「お、お母様? も、もしかして、このベイルーンに飲みに来ていらっしゃったの?」
まさか、そうではないわね? この可愛い娘を差し置いて、酒を優先するなんて。
そんな含みを持たせた質問だったのだが、どうやら、甘かったらしい。
「ああ? 当たり前であろうが。大森林には、妾を満足させるろくな酒がないのじゃ。加えて、獣人の男にも飽き飽きしてきたところであったのだ。あやつら、ガタイやら何やらは大きくて良いが、正直、粗野な奴等ばかりで、もう退屈で堪らんわ。酒を調達するついでに、新しい男でも見繕おうと思ってな。お前の迎えはそのおまけだ、娘よ」
自分の優先順位は、酒、男にも劣るのか。
この女の娘として産まれて幾年月、嫌と言うほど母の気性は分かっていたはずなのに、改めて、そうはっきりと言われると、流石のエリーヤも言葉がない。だが、当の母の方はと言うと、娘の気落ちなど、些かも気にしていない様に笑う。
「ははは。まあ、娘よ、そう心配するでない。母は既に今晩のおかずを狩ってきたゆえ。まだまだ、娘に床の面倒をかけるつもりはないぞ。自分で巣穴に獲物くらいは引きずり込めるとも。ほうれ、見よ」
その言葉と共に、母が顎で、くい、と合図してみせると、その背後から、数人の女騎士達が現れた。キリカの娘ティータを始めとした女将軍直属の騎士達。その肩には、何やらじたばたと動く、丁度、人の大きさくらいの荷物が抱えられている。
「これが、妾の晩餐じゃ」
そう女将軍が笑うや否や、女騎士達の肩から、荷物が勢いよく下ろされた。
そのうっすらと空いた布袋の口から見えたもの。それに、娘は絶句する。
「どうじゃ、可愛い金髪の鳥であろう? 妾の行きつけの酒場に雌鳥と一緒にやって来たのだが、どうもつがいではないらしいのでな。なら、ちょっと、今晩食べてみるかと、狩ってきたのじゃ。そう、この白羽も、碧の瞳も、何もかも、骨の髄までとろかせて、しゃぶってくれようぞ」
そう言って、母が胸に抱き起こした相手。布袋からようやく、這い出してきた顔は、見間違いようもなく。
「……りゅ、リュート?!!」
逃亡したはずの自分の可愛い夫。それに相違なかったのだ。
猿ぐつわを噛まされて、両手もきつく縛られて。そして、何より、髪が、ない。
麗しく、艶めいていたあの金髪が。この男の象徴だったあの黄金の糸が。
……ばっさりと、切り落とされているのだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと、リュート! 何、お母様に狩られてるのよ! そ、それに、その髪どうしたの! お、お母様? こ、この男は、駄目よ! 私の可愛い旦那様なんだから! お母様にだって、触れさせないわ! いいから、下がって!!」
「何? これが、貴様の婿だと?」
告げられた事実に、今度は女傑の目が見開かれる番だった。
なにしろ、たまたま酒場で狩った面白い鳥が、突然娘婿だ、と言われて納得出来るはずもない。加えて、この男、有翼人という奴隷民族である。到底、娘に相応しい結婚相手として認められるわけがないのだ。
即座に娘の方に向き直ると、そこへ直れとばかりに、愛用の戦斧槍を喉元へと突きつける。
「おい、娘! 結婚式を無事終えた、とは聞いておったが、気でも触れたか。この鳥を婿にするなんぞ、どういう了見じゃ」
この問いに、娘であるエリーヤは、しばし沈黙の後、拗ねたように唇を尖らせて答える。
「私なりに考えがあって、この男を婿にしたのよ。その事については、後でお話しますから! とりあえず、その男、返してよ!」
だが、この娘程度の抗議に、はいはいと獲物を渡す母ではなかったらしい。ふん、と鼻息荒く吐き捨てると、娘に見せつけるように、獲物の喉元に舌を這わせてゆく。
「おい、娘よ。なにゆえ、こんな上等の餌を放し飼いにしておるのじゃ。大事な餌なら鎖くらい付けて飼っておかねば、間違えて妾が喰ってしまうではないか。こんないい男を、……もったいない。せっかく、一晩中、妾の床で喰ってやろうと思っておったのに」
心底、残念。
娘の夫であるというのに、この母、少しも悪びれることなく、そう思っているらしい。だが、この腕の中の獲物の抵抗ぶりと、詰め寄る娘の態度に、どうやら、興を削がれたようだ。
ああ、つまらぬ、とだけ吐き捨てて、獲物の喉元から舌を離すと、娘の背後に建つ宿営用の天幕へと、その足を進めていく。
「その鳥は、お前の顔に免じて我慢してやるわ、娘。その代わり、今晩の食事の折には、その婿殿を連れて、上等の酒を持ってこい。婿殿に酌をしろと言え。この姑、帝国第三軍の将、ミーシカ・グラナへの挨拶としてな」
「……まさか、あの年増娼婦が、女将軍だったとはな。正直、驚いた」
晩餐の準備の為に、と連れてこられた夫婦だけの天幕の中。
身支度をする妻に、そう吐き捨てる通り、あの酒場での邂逅は、リュートにとって、逃げる算段すら、一瞬忘れてしまうほどの衝撃だった。そして、その隙をついて、あれよあれよと、あの女傑に捕まってしまい、この忌まわしい妻の元へ戻るという体たらく。結局、自由を謳歌できたのは、半日もなかった。
この妻くらいなら振り切れると思っていたのに。思わぬ所で蟷螂が待ちかまえていたとでも言おうか。
結局、あの後、酒場に戻ってくるはずの闇商人ヒルディンとも会えずじまいで、彼に、高値が付くであろう金髪の束を持ち逃げされただけ、という格好になってしまった。
この事態に、つくづく、自分はこの帝国に来てからついていないと、運命を呪っても仕方がない。
なにしろ、目の前には、妖しくその紅玉の瞳を光らせて迫る、鬼嫁の姿。逃げ出した夫を詰りたいのか、それとも、逃亡奴隷を罰したいのか。とにかく、その全身に有無を言わせぬオーラを纏っているのだ。
「……ごめんなさい、は?」
「は?」
狭い天幕の中、詰め寄った妻の口から、意外な言葉が発せられる。
「ごめんなさい、って言いなさいよ。この嫁を一人市場に置き去りにしたんだから。それに、この嫁に無断で髪を切るなんて。一体、何処にやったのよ、あの金髪」
そう言われて、改めて見遣った妻の顔は。
……夫が今までに見たこともないほど、怒りに充ち満ちていて。だが、その憤怒と同時に拗ねた子供のような表情も覗かせていて。
「おい。何、変な顔して怒ってるんだ」
思わず、そう問わねばならぬほどに、目が、赤く染まっていた。いや、元々が、赤い目なのだが――、いつもの赤目に加えて、その白目の部分さえも赤く充血をしていて。
「――馬鹿っ!!」
きつい罵倒と共に、夫の体が押し倒される。
これには即座に、リュートが抗うが、未だ、捕まった時のまま、腕が縛られている為、うまく抵抗が出来ない。見る間に、妻の赤い瞳が間近へと迫っていた。
「馬鹿馬鹿馬鹿っ!! 言ったのに! 全部、私の物だって言ったのに! その白羽だって、金髪だって、全部、ぜーんぶ、私の物なのにっ!!」
これまた、予想外、だが、なんとも妻らしい台詞。この独占欲の塊の女王様に相応しい、反吐が出そうな傲慢な台詞だ。
「何を言っている。僕の体は僕の物だ。何をどうしようが勝手だろうが。大体、お前、気持ちが悪いんだよ。羽が欲しいとか、髪が欲しいとか、……頭、イカレてるんじゃないのか」
リュートにしてみれば、ただ抜け落ちる体の一部である。それに価値なんぞ、一銭も見いだせないのに、この女と来たら。
「あ、あんたって男はぁ! どうして、そう天然な訳?! ほんっとうに、自分の価値と女心が変わってないのね! ったく、もう、だから……」
「……はあ? 他人が僕に付けた価値なんぞ知るか。それに女心を分かれだって? ましてや、体全てをお前に差し出せだ? まったく、反吐が出る」
「体だけじゃないわよ!! 言ったでしょ! 心だって、命だって、私の物だって! 誰にもやらないわ、あんたは私の奴隷なんだから!」
いつかの結婚式で言われた殺し文句。
「――どうして」
理解、できない。
今まで、恋だの愛だの、したことが無かったリュートには、女の激情が、理解出来ないのだ。
「どうして、そんなに僕に執着するんだ。別に僕じゃなくったっていいだろう。他に男はごまんといるのに」
いつか自分の事が好きだと言った幼なじみ。歌姫を始め、宮廷ですり寄ってきた貴婦人達。そして、この炎のように熱い、異国の姫。
数々の女達が、自分を欲しいと言う。
心が。体が。そして、命が。
その女達の感情が、ざらり、とリュートの反抗心を撫で上げる。
――どうして、皆、そんなに欲深いのか。
貪欲に相手を自分の物にしたい、と思うことが、恋なのか。相手を求めて、求めて、執着することが、愛なのか。
執着、という気持ちだけなら、分からなくもない。
自分だってかつては嫌と言うほどに、兄に執着した。両親を失った自分に、『一緒にいよう』、と手を差し伸べてくれた、あの兄に。
自分の居場所を失いたくなくて。自分の光を見失いたくなくて。
兄という存在に、激しく執着していたのだ。
だが。
女が男に。そして、男が女に、求める執着。それが、一体何なのか、リュートには、分からない。
家族に向けた執着に似た感情なのか。それとも、その執着を凌駕する感情なのか。
……煩悶。
ただただに、リュートの心は煩悶する。
だが、当の妻は、一切の曇りもその心に無いように。
「馬鹿ね。本能よ。本能が求めるの。あなたが、欲しくて欲しくて、堪らないってね。それ以外、何があるかしら」
そう答えて、夫からの深い、深いため息を誘う。
「……やっぱり、お前は獣だな、『奥さん』。褒め言葉じゃないぞ。……侮辱だ。お前みたいな女、僕はやっぱり、大嫌いだ」
「おお、こっちへ来い、婿殿。妾に酌をするがいい。遠慮するな、他でもない貴様の姑じゃ」
天幕の奥から、低い女の声がリュートを呼ぶ。
無論、その声の主は、他でもない、一番の上座に、堂々と鎮座する女将軍、ミーシカ・グラナ。そして、その前にはずらりと並べられた酒樽、これまた、酒樽。
夫婦の挑戦的な会話を終えて、将軍の天幕へと来てみれば、既に将軍はすっかりと出来上がっており、この娘婿を呼ぶ態度だった。それに渋々と従い、夫婦揃って母の前に用意された席へと腰を落ち着ける。だが、その夫婦の顔はと言うと、互いにふて腐れた仏頂面。これに堪らず、その理由を母が問う。
「何じゃ、娘。久しぶりに会ったと言うに、その顔は。そんなに母が婿殿を喰おうとしたのが、気に入らぬのか」
「当たり前でしょ。私の獲物を横取りするなら、お母様でも許さないわよ。それにしても、お母様。いくら酒と男が欲しいからって、大森林からわざわざ動くなんて……。いつぞやの密書でも、大森林で待っていてくれると書いていらっしゃったではないですか。なのに、どうして……」
「まあ、あの酒場で情報収集もしたかったのでな。ちょくちょくあそこに飲みに行っておったのだ。ついでに腐った豚狩りも出来たことだし、いいではないか」
そう笑うと、母はまた目の前にあった酒樽を、ひょい、と抱えて、中の酒をそのまま一気に飲み干した。その相も変わらぬ蟒蛇ぶりに、娘はもう窘める気にもならない。
「ほれ、それよりも、婿殿、婿殿。こっちへ来い、と言うておるであろう。ずっと毛深い男達ばかり相手にしておったので、貴様のようなタイプに飢えておったのじゃ。可愛がってやる故、ささ、ここへ」
まるで、嫌らしい親父が、若い娼婦を呼ぶような台詞である。これに、このはねっ返りの山猫の様な男が、靡くわけもなく――。
「お断りだ、くそばばあ。誰が酌婦の真似事なんぞするか」
にべもない、返答。だが、しかし、対する姑からは。
「貴様に選択権があると思うてか、婿殿。大事な娘をやったのだから、この姑を敬わぬか」
リュート以上に有無を言わせぬ台詞が返ってくる。いや、台詞だけなら良かったのだが、行動まで相まっているのだから、堪らない。第三軍を束ねるという怪力で、リュートを自分の間合いへと引きずり込んでくる。
その様は、まさに、蟷螂が獲物を狩るが如く。瞬く間にリュートの体は、将軍の膝元へと倒されてしまった。
「ふふふ、娘婿と聞いたときは、驚いてぶち殺してやろうかと思ったが、こうして改めて見てみると、やはり、有翼人は可愛らしいのぉ。特にこの、白羽。あの有翼の国への遠征を思い出すわ」
――有翼の国への遠征。
女将軍の言葉に、リュートの心臓が、どきり、と、一気に跳ね上がる。
それと同時に、脳裏に浮かぶのは、育ての父の顔だった。
あの、血が繋がっているかどうか、わからない、父の。
幼い自分と、病弱な母を残して、戦争へと行ってしまった、あの、父の。
最初の竜騎士達の侵攻の折に、『ルークリヴィルの奇跡』と呼ばれる大勝を成し遂げた、あの、父の。
そして、何よりも。
売国の嫌疑をかけられ、死した、あの、父の。
他でもない、この目の前に居る女将軍を、故意に逃がしてしまったという、あの、父の。
その逃がしたという本人と、まさか、あのような邂逅をしようとは。
そして、よもや、こんな場で、対峙することに、なろうとは。
運命の皮肉さに、さらにリュートの心臓が、鼓動を早める。
……父様、父様。
どうして、死んでしまったんだ。
僕と、母様を残して、どうして、死んでしまったんだ。
こんな女を、助けたせいで――。
考え当たった悲痛なる思いに乗せられるように、リュートの口からは、詰問が飛び出していた。
「……おい! お前、本当に、あのミーシカ・グラナなんだな? あの有翼の国への第一次侵攻の折、白の英雄ヴァレルに捕らわれ、そして、逃がされた女将軍――、それに、間違いはないんだな?!」
この、娘婿からの、意外な問い。
それに、さしもの女将軍の目も、揺るぐ。
「何? ……婿殿。貴様、今、何と言うた……?」
「僕は、その白の英雄、ヴァレルの息子として育ったんだ! 教えろ! 父は、……あの父は、どうして、捕らえたお前を故意に逃がしてしまったんだ!?」
膝元へ引きずり込まれたのをこれ幸いに、と、リュートが女将軍の首元へと掴みかかる。
だが、当の女将軍は、婿の迫力に気圧されたのか、それとも、意外すぎる事実が受け入れがたいのか、首を締め上げてくる手を、振りほどこうともしない。ただ、何かを考え込むように、ゆったりと、その目を伏せ、一人頷いて見せた。
「……なんと、な。あの男の息子か。まさか、貴様が、な」
目を開け、改めて見遣った娘婿の顔に、女将軍はどこか得心がいくところがあったのだろうか、長い、長い溜息を吐き出す。そして、掴みかかるリュートの手を、払いのけると、一人ごちるように言葉を漏らした。
「よもや、このような場であの男の息子に会えるとはな。しかも、我が可愛い娘婿、というではないか。まこと、運命とは皮肉なものよの」
自嘲するような、女将軍の笑い。
それに、重ねて、リュートが問わんとするも、女将軍の視線は、既に娘へと移っていた。
「……娘。お前、面白いものを連れてきたの。なるほど、確かに貴様、顔の良さだけでこの男を選んだわけではなさそうだな」
「ええ、お母様。私もこの事実を聞いたとき、驚きました。そして、是非ともこの男をお母様に会わせたい。そう思って、ここまで連れてきましたの。……まあ、少々逃亡癖があるのが、玉に瑕の旦那様ですけれど」
そう言って、互いに含み笑いをするのは、この親子の間にだけに知られる事実がある故だろう。この女同士の結託ぶりには、もう堪らないと、リュートは声を荒げて、再度問う。
「何だ、このけだもの母娘。いいから質問に答えないか。どうして、父はお前を逃がしたんだ? それに、あのハーレムの女達もだ。一体、どういうつもりで、有翼の民の女を飼っているんだ。それについても、いい加減、教えないか」
この国に来て、腑に落ちないことばかり起こる。
だが、その疑問も、有翼の国の危機の前には、後回しだ、と思ってきた。だが、もう、この女に会ったからには。
「答えろっ、女将軍! そして、エリー!」
詰問、それしかない。
だが、そんな鬼気迫るリュートの様相とはうって変わって、女将軍は、黒髪を鬱陶しげに掻き上げての、余裕の表情。
「何のつもり、とはこれまた異な事を言う婿殿じゃ。娘よ、この婿殿に諸事情、話しておらぬのか」
「あらかたハーレムの女から、話させたんだけどね。肝心な所は言っていないわ。言うと、この男、何をしでかすか分からなかったから」
「……そうか。ならば、良い。婿殿、そう焦るな。大森林の方も、そろそろ準備が整う頃であるし、じきに、妾が教えてやろう。なぁに、貴様に悪いようにはせぬ。この都市での情報収集も済んだことだ。共に大森林へ参ろうではないか」
ここまで来ての、さらなる焦らし。これに、反抗心だけは人一倍なリュートが、はい、と頷くわけもない。
「大森林だと? 僕はそんな所には行かないぞ。僕にはするべき事があるんだ。そんな所までハネムーンなんぞに行けるか。教えないなら、力ずくで喋らせるぞ」
黙る姑らに耐えかねての、リュートの一撃。
女であっても、容赦はない。急所をねらい澄ましての、渾身の拳が女将軍を打ちのめさんと振り下ろされた。
――だが。
「……遅いな、婿殿。妾の美麗な顔を撫でたくば、床へ来るがいい。たんまりと、愛撫させてやるゆえ。……無論、顔以外の部分もな」
誘惑の言葉と共に、女の顔面寸前で、拳が止められていた。のみならず、その拳が解かれ、女将軍の手の内へと絡め取られる。そして、近づいた姑の唇からは、さらなる魅惑の言葉。
「妾と共に大森林に来れば、全ての謎を教えてやる。妾が逃がされた意味。そして、――貴様が、一体、何の夫になったのか、ということも」
「リュート。私を信じろと言っても無駄かも知れないけど、とりあえず、騙されたと思って大森林へ行きましょうよ。きっと、素敵なものが見られるわよ」
嫁までも。この、憎たらしくて、心が逆撫でされて仕方がない、この妻までも。
祖国を踏みにじった、憎悪の対象――、リンダール人の姫である、この女までも。
「……いいだろう。そこまで挑発するなら、行ってやる。だが、覚悟していろよ。全てのものを見定め、それで尚かつ、僕がお前らを許さない、と思うなら」
妻と、その母である姑を前に、ぎらり、と碧の目が、不敵に光る。そう――、いつか見せた山猫を凌駕する、あの獣の眼差しで。
「――お前らの喉笛、遠慮無く噛み切ってやる」
「……許せぬ。我は、やはり、……許せぬわ、サルディナよ」
一方で、未だ暗い影が落ちる幾何学の空間――帝都、シャンドラ宮殿内の皇帝の私室では、怒りに充ち満ちた帝王の声が、静かに吐き出されていた。
傍らには、彼を支え続けてきた、魔女と虐げられる侍女サルディナの姿。彼女は、帝王の言葉が意味するものを、彼の手に握られているものから、即座に、悟っていた。
「お父上が、……先帝様が、今も憎いのですね、陛下」
その侍女の視線の先。爛れた皇帝の手に握られている物。それは、他でもない先帝、ギゼル・ハーンの遺品――かの父帝の顔をそのままに写し取った黄金の仮面だった。
崩れ落ちる前の自分の顔によく似た、父の顔。
その頬を水泡によって膨れた現皇帝の指が、そっと撫で上げる。
「……憎い? ……憎い、とはまた違うのかも知れぬ。許せぬ、とは思うが、憎いとは思わぬな……。ただ、父上の様にはなりたくないと思うていた。自らの心の弱さに負けて、神に縋り付いたあの男の様には。その上、みっともなく鳥共に虜囚され、廃人のように帰国したあの男の様には。……そう思うて、あの聖地への遠征に向かったというのに。……このざまだ」
撫で上げた指が、今度は自らの頬にあてがわれる。
かつては炎のように猛々しい美丈夫、見事な青年皇帝として、諸国を震え上がらせたというのに。
今や、爛れ、崩れ落ちた顔。あの、かつて反発した父帝の様な死者の顔になってしまった。
「因果だな。『我は父上とは違う。我は、この忌まわしき神の呪いを断ち切るために、あの聖地に向かうのだ』、と意気込んで鳥の国へ行ったというのに。他でもない、かの聖地にて、この呪いが発症したのだから。これが、神の采配ということか……。だが、それでも……」
一度、光を失った帝王の紅の瞳が、ぎらり、と挑戦的に輝く。
「我は、父のように自ら負けを選ぶ事はせぬ。この崩れた体を抱えて、最後まで抗ってやるとも。……神の、呪いを断ち切るために。我にこのような苦しみを与えた神への復讐の為に」
その言葉と共に、傍らの女の頭が、深々と下げられた。まるで、永久の臣従を誓うが如く、何よりもの思いを込めて。
「陛下。……死の淵まで、共にありましょう。私は――、地獄の底まで貴方のお側におります」
……サルディナ。
幾何学が彩る皇帝の部屋に、小さく、女の名が呼ばれ、そして、抱擁。
「サルディナよ。我の共犯となり、子を宿してくれたお前がいるからこそ、我は、運命に抗えるのだ。サルディナ、我を最後まで支えてくれ。我が、父の様にならぬように。我が、父の様に……」
帝王の膨れた指が、女の服の裾を握りしめる。
それは、まるで子が母に縋るように。幼い子供が、慈母の愛を、乞うように。
「父上の様に、自ら死を選ばぬように――」
帝王の脳裏に、息絶えた父帝の姿が蘇る。
土気色の顔。動かぬ四肢。そして、首元にありありと残った太い、縄の跡。
その痛々しい自傷の証拠を隠したのは、父の片腕にして、愛人の、あの女だった。
あの女は、父が自害した部屋に、誰よりも早く駆けつけていた。そして、女にしては無骨なその指で、絹布を父の首に巻き付けて、そっと、その縄跡を隠してみせた。いや、縄跡だけではない。全ての国民、全ての臣下、全ての血縁者にその死の真実を隠し、あの女はこう言ったのだ。
――『もう、苦しみは終わりまする、皇帝陛下。妾が、終わらせて見せます。後は、全て妾にお任せ下さったらよろしいのです。貴方の『義母』であるこの妾が、貴方の苦しみを――』
その先の言葉と、光景が、皇帝の脳裏から弾けて消える。
思い出したくもない、この皇帝の私室での出来事。そう、あの女将軍、ミーシカ・グラナとの――。
「あの雌蟷螂め……。父上を堕落させ、母上から父上を奪ったあの女も。我は、許さぬ。我は……」
怒りのために、帝王の崩れた体が、ぶるぶると震える。今にも、床から落ちそうなその体。それを愛おしむように抱きしめながら、侍女が語りかける。
「陛下、陛下、落ち着いて下さい。あまり興奮されると、また、皮膚が……」
「――陛下」
帝王の興奮に水を差すように、皇帝の私室の扉が叩かれる。護衛騎士のツァイアの声だ。
「陛下、ガイナス将軍がお目通り願っております。例の、……女騎士キリカの件で、ご報告があるとか」
「……女騎士? ああ、あの、雌蟷螂の腹心とやらのことか。……ははは、丁度良い。聞こうではないか。ここへ通せ。ガイナスの入室のみ、許可する」
久しぶりの新たな入室者。
浅黒い顔に、縮れた毛、印象的なもみあげ。そして、何より、全身を覆う黒鎧。野卑で、下品な帝国一の将軍、ヴラド・ガイナス。
自らを律する騎士道精神も無ければ、高潔な理想があるわけでもない。ただただに、自分より強い相手を求め、自らの強さを証明する場が欲しいだけの戦争狂。だが、それが、いい。
そんな馬鹿だからこそ、任せられる仕事がある。
血と、涙と、そして人の心を踏みにじっても、帝王には、成さねばならぬ仕事がある。その泥も何もかも、被る事が出来るのは、この馬鹿だけだ。
「陛下。まさか、あんたが俺様をここに入れてくれるとはな。いいのかい? その顔、隠さなくてもよ。それに、以前のあんたは、俺様よりも、ずっと、サイニーを重用してたってのに」
「……サイニーは、死んでしもうた。死んだ者には、もう、命令すら出来ぬ。あれは、……少々頑固者で口うるさかったが、清廉で、よい男だった。そうだな……。父帝よりも、遙かに我の『父』であった」
先の有翼の国で戦死した男。第二軍を束ね、騎士道を旨とする『蒼天騎士団』を率いていたあの、騎士の鑑たる鉄人。
厳しくも、真摯であったあの男の指導に反発ばかりしていたというのに。今となっては、あの男に何よりも懐古の念を抱くのだから、実に人とは勝手な者だ、と皇帝は自嘲する。だが、そんな皇帝の笑みすら、床の横に座る暗黒騎士には、理解出来ないところだったらしい。その口から、死者について、歯に衣着せぬ台詞を紡ぎ出す。
「俺様とあの雌蟷螂に言わせりゃ、サイニーは馬鹿だぜ。どんなお綺麗な理想で繕ったって、変わりゃしねえ。喰うか、喰われるか。それが、この大陸の掟だろうが。その喰うという行為に、大義名分を持たせることに、一体何の意義があるってんだい」
獣は生きるために、捕食をする。その事は罪でも何でもない。悪びれることなど、何もないではないか。
この、獣のような男は、……帝国の本能と呼ばれるこの男は、そう信じて疑わないのだろう。
だが、皇帝は、知っている。かの『父』と仰いだ将軍の、苦悩と贖罪の念を。
かつては、分からなかった。ただ、反発するだけだった、あの男の誇りが如何なるものだったか、今なら、分かるのだ。
あのルークリヴィル城の戦いで、誇り高い蒼天騎士に守られ、命長らえ、そして、この忌まわしい病を発症してしまった、今なら。
「サイニーは、ただ、人間たらんとしただけだ、ガイナスよ。獣に堕ちたくないと、願う事こそが、あれの人間たる証であったのだ」
かの将軍が死したという平原の戦の顛末を、皇帝は第二軍の生き残りがしたためた書簡から、余すところなく知っていた。
生き残りの騎士によると、彼は、何かに決着を付けたいと、敵将との一騎打ちを求め、その最期に神の印を捨てたそうだ。そして、自らの理想の為に死んでいった者の救済を願っていたという。その事実と、彼が健在の時、皇帝の側にて見せ続けていた騎士の鑑としての佇まいが、彼の苦悩を嫌でも皇帝に知らしめていた。
人を踏みにじるという事を、仕事として成さねばならない時、心だけは獣になるまいと、自らに科した騎士道という理想。それを誰よりも体現し、そして、それに死すまで縛られたあの男の苦しみ。
だが、ようやく、死して後、あの男の苦悩を理解出来たとしても。
理解と、共感は、似ているようで非なるものだ。
あのサイニー将軍の哀しみが理解出来ても、皇帝には、それを汲み取ることが、出来ない。
現に、この目の前の黒い男とて、そうだ。こうして、また鼻をほじりながら、サイニーの矜持を一蹴してくるではないか。
「……へえ。お綺麗な理想だこって。けどよぉ、んなもんなくったって、俺様は自分の事、人間だと思ってっけどな。陛下だって、そうだろ?」
……この男は。
この男は、だから嫌なのだ。
自分の写し身のようなこの凶暴な男は、だから、嫌なのだ。
自分に似すぎていて、歯止めが効かなくなる。自分の持つ狂気と愚かさ、そして、猜疑心が、この男と居ると増幅される。ああ、だから、サイニーは我の側に有ったのか。
本能を抑える理性として、我が側にて、騎士の鑑であり続けたのか。
だが、サイニー。
お前は、もう居ない。
お前は、あの白に負けたのだ。この帝国の理性であるお前は、紛れもなく、負けたのだ。
我に残されたのは、この黒い本能。
そして、人間たるに相応しくない、この崩れた姿。
サイニーよ。
我は、お前のようには成れぬ。
お前が望んだ、賢帝には、我はどうしたって成れぬのだ。お前の理想は、我には重すぎる。そして、お前の思想など、この現実の前には脆すぎるのだ。
我は、こういう人間だ。
我は……。
「ガイナス。それよりも、あの雌蟷螂の部下の件だ。あの女の口から、何か証言は引き出せたのか」
かつて反発した男へ馳せる思いを断ち切るように、皇帝は冷たい声音で、先の話を問う。
「いんや、それが、しぶとい女で、びくともしねぇですわ。陛下に命じられて、狐を餌に捕まえてみたんですがね、何も喋ろうとしねえんでさ。あれくらい骨のある女はそうそういねぇぜ。ますます惚れちまって、手加減が出来なくなりそうだぜ、あのキリカには。だが、どうやら、あの雌蟷螂が大森林で何かをしようとしているっていう、陛下の読みは、あながち間違いではなさそうだぜ。必死に隠そうと口を噤んでいるのがいい証拠だ」
沈黙こそが、証拠、とは、実に、よく言ったもの。忠義があればあるほどに、頑なになる臣下の態度こそが、何より、隠された案件があることを語っているのだ。
「くくく、やはり、な。あの雌蟷螂が、元老院によってでっち上げられた暴動程度に、動くとは思えなかったのだ。あれが、ほいほいと元老院命令に従い、娘の帰国を待たずして、大森林に行ったからには、それなりの理由がある。そして、あの妹が、我との結婚から、白と共に逃げ出した理由もな。あの不自然な結婚式に、女将軍の帰還を阻むように、また起こったという暴動……。これは、何かがあると思わんか、ガイナス」
「陛下。あんたにしちゃあ、冴えてるじゃねえですかい。んで、あの狐を餌に、俺様にキリカを捕まえさせたって訳か。ま、とりあえず今は、あのキリカ、暗黒騎士団宿舎への無断侵入罪って容疑で、捕らえてあるけどよ。……にしても、子が出来ると、女は変わると言うけれど、男も変わるもんだねえ、陛下。あの我が儘皇帝が、今や、いっぱしの策士じゃねえですかい」
その微妙な暗黒将軍からの褒め言葉に、崩れた皇帝の顔が、自嘲の色を見せる。
「ふ……。以前は、あまりの肉体の苦痛故に、この頭から腐ればよい、と思うておったのだがな。子が出来た今となっては、この頭のみでも腐り堕ちてくれるな、と思うわ」
「けどよぉ、陛下。その姫さんに、元老院はあっさりと大森林に向かわせる許可を出しちまったようだぜ。もう紅玉騎士団はベイルーン辺りにはいるんじゃねえのかねぇ。いいのかい? あの雌蟷螂が何かを企んでるっていう陛下の考えが本当なら、あの母娘、合流させるのは不味いんじゃねえですか。なんなら、今から紅玉騎士団に強制帰還命令出しますかい?」
「……いや、いい。好きなようにさせろ。あの娘と、母親が合流すれば、必ず、何かが起きる。そう思って、我もわざと元老院の許可を見逃しておるのだ。何かが起きれば、お前の所にいるキリカとかいう女騎士からの証言が無くとも、あの雌蟷螂の企みを潰す大義名分が出来るゆえな」
その皇帝の言葉に、ガイナスも得心がいくところがあったのだろう。顎を撫でながら、頷いて見せる。
「大義名分ねぇ。まあ、それがなきゃ、元老院だって、納得しねえでしょうし。あいつら、まだ姫様に子を産んで貰いてぇなんて、馬鹿な事思ってっからなぁ。俺様に科した聖地奪回の任務といい、神託といい、あいつらよっぽど神の救済が欲しいらしいですぜ」
「ふん……、あの神狂いの糞爺共が、後でほえ面かくのが楽しみであるわ。あの、雌蟷螂の本性を見たときの、奴等の顔がな。我の読みが正しければ――、あの雌蟷螂と娘が出会えば、何かが起こる。そうなれば、あとはお前の出番だ、ガイナスよ。この皇帝が統べる帝国に仇なすものは……」
ちら、と皇帝の赤目が、傍らの侍女の腹に滑る。
まだ、膨らみもしない、だが、確実に命が宿った、その、女の腹に。
「……そして、この皇帝の血統に害を成すものは、全て、排除しろ。それが、例え、今までこの国を守ってきた将軍職にあるものだったとしても」
揺るぎのない、帝王の言葉。
それに、一瞬気圧されながら、暗黒将軍が問いを返す。
「陛下。そろそろ、俺様にも教えちゃくれませんかね。陛下は、あの雌蟷螂めが、一体、何を企んでいるとお考えで?」
それに対して、返ってきたのは、何よりも冷たい炎の視線だった。
赤々と燃える炎をその奥に宿しながら、まるで、無機質なルビーの様に冷たい、帝王の眼差し――。
「あの雌蟷螂は、必ず、この皇帝に対して、――謀反を起こしてくる」
「……謀反? まさか」
あまりに冷徹な帝王の目と、告げられた予測に、さしもの暗黒将軍の背筋も凍る。
信じられない。
今まで、共に、この帝国を支えてきたあの女将軍が。いけ好かなくとも、それでも、同じ、リンダール人という同胞だった、あの雌蟷螂が。
だが、そんな暗黒将軍の驚きとは余所に、皇帝は自信に充ち満ちた声音で、その推測を口にしていた。
「我は、ずっと、あの女を疑っておったのだ。あの、父の愛人にして、我が異母妹エリーヤを産んだ女将軍を。……父が鳥共の国への遠征を決めたときから。鳥共に虜囚されて廃人然となった父上と共に、帰国したときから。そして、父上が死に、我が皇帝となったときから、ずっと、ずっと……、あの女の目が何処を見ているか、我にはよう分かっておったのだ」
母から、父帝を奪った女将軍への長年の憎悪が、皇帝を猜疑心の塊へと変えていた。
だが、あの女将軍は、遙かに上手。
いくらあの女を厭うたとしても、今までの浅慮な青年皇帝に、彼女を追求出来るような能力はなかった。
ただただに、淡々と職務を全うし、誠実な帝国の三本柱の一つ、女将軍ミーシカ・グラナとして帝都を守り続けるあの女の姿を、後ろから見つめるしか出来なかったのだ。その懐に、鋭い鎌を巧妙に、隠しているのでは、と常に疑いながらも――。
……だが。
あの有翼の国への再侵攻にも、そして、かつて起こった本当の大森林での暴動にも、その腰をこの帝都から動かそうとはしなかったあの女が動いたからには。
石のように帝都にしがみついてきた女が、動いたからには。
今まで、廷臣の仮面を被り続けていた女が、帝都を離れたからには。
そして、その娘が。この自分以外に先帝の血を唯一継いだ、あの妹が、母の元に向かったからには。
あの母娘が自分の後ろに見続けてきたものを、今、皇帝は、確信せざるを得なかった。
「ガイナス……。我の読みが正しければ、あの女は動く。おそらく、この、……我が帝位を脅かさんが為にな」
お久しぶりです……。
更新、遅くてすみませんでした。何をしていたかと言いますと……。
作者ページの活動報告にも書いたとおり、スランプでして。
昔は、あんなに書くのが楽しかったのに、今、ぱたっ、と書けなくなり、書いては消し、書いては消し、の繰り返しでした。
それで一ヶ月弱、苦心をしており、ようやく何話か書きためられたので、少しずつ、アップしていこうかな、と思います。
活動報告に、応援コメント下さった方、ありがとうございました。これからも、出来る限り、頑張ります。