第八十九話:商人
赤毛の新妻は、いつになく上機嫌だった。
なにしろ、彼女の視線の先には、ずらりと並ぶ南方の珍味を扱う露店、露店、これまた露店。加えて、帝都では破格の値が付く上等の織物に、装飾品の数々。この買い物天国に女の本能とでも言うべき物欲が動かぬはずはない。財布の紐を締めるだけ、時間の無駄というものだ。
「ああーっ! あれ、シャイランの金刺繍じゃないの! それに、ガルーナの翡翠細工も! あ、あれも、見てよ! あの透かし織りの扇、私に似合うと思わない? ああっ、もう、流石は交易都市ベイルーンよね、どれから買ってもらおうか迷っちゃうわね、あなた」
そう新妻らしく、腕を組む夫にねだっても、夫からは色よい返事が返ってくるはずもない。なにしろ、この夫ときたら。
「馬鹿言え。無職の僕がそんなお金持ってるわけないだろうが、『奥さん』。ヒモ亭主を好んで囲ってるのはそっちだろ」
無一文に加えて、この不自由な身分である。高価な装飾品を妻に買ってやる甲斐性などあるはずもないし、また、金があってもこんな妻に買ってやる気など砂粒一つほどもないのだ。
「あら、つれない旦那様ね。せっかく、お願い聞いて市場に連れ出してあげたのに。私との買い物につき合うのが嫌だったら、今すぐ紅玉騎士団の宿営地に連れ戻したっていいのよ?」
その言葉どおり、新妻エリーヤと、彼女が率いる紅玉騎士団は、元老院に大森林へ向かう許可を得てすぐに、夫であるリュートとハーレムの女子供を連れ立って帝都を出立。飛竜に乗って南へ向かうこと数日、ようやく帝国南部、獣人の国家エントラーダとの国境近くにある交易都市ベイルーンへと到着し、この都市の郊外に宿営地を設けていた。
ここで、大森林に向かう前に、水や食料を整えようという算段なのだろう。確かに交易都市と言うだけあって、南の各属国から集められた商品と、雑多な民族の商人達が、縦横無尽に行き交っている。
この多種多様な民族の洪水は、有翼の民の国でしか育ってこなかったリュートにとって、まさに脳天を直接殴打されたような衝撃だった。確かに、一度、結婚式で民族の長達の姿を目にしていたものの、改めて、多様な姿をした人間達を、間近で見てみると、まるで今までいた世界とまったく異なる次元の世界に来てしまったかのような錯覚を覚える。
界隈には、いつか会った色彩の暴力王子同様に、頭の角の装飾品をしゃらしゃらと鳴らして闊歩する有角人、露店で海産物を売っている手に水かきの付いた海の民、それに、流石に国境近いと言うだけあって、やたら毛深い巨体の獣人達の姿も目だつ。
そんな様々な民族の坩堝の交易都市にあっては、どのような民族が居ても、取り立てて、人々の関心を惹き付けることなどないのだが、この赤毛の姫ご一行だけは違っていた。今にも突き刺さらんばかりに、人々から向けられる好奇の目。これまた、目。
だが、その原因はこの国の帝妹でも、または、その夫である白羽の有翼人の存在でもなかった。
妻である姫は、紅玉騎士団の騎士服を纏い、一般騎士に扮しているし、加えて、その夫は、嫌でも目立つ羽と、金髪を隠すために、頭からすっぽりとフード付きの外套を纏っているのだ。つまり、この夫婦は、一見してただの騎士と、その付き人、という風情で、取り立てて人の関心を向けられるものでもない。
その夫婦を差し置いて、何よりも、この都市の人々の目を惹き付けているもの。
それは、この姫の護衛として付いてきた、紅玉騎士団最強の女騎士、ジェック・ミリーガルの存在だった。
細かく編み込まれた黒髪に、亜麻色の肌、そして、女とは到底思えぬような見事な体躯。そして、男でも振り回せぬような戦斧を軽々と担いだその戦女神のような姿は、嫌でも人の目を惹き付ける。
「おい……。こんなでかい斧持っていたら、嫌でも目立つだろうが。何のために僕がこんな地味な格好をしていると思ってるんだ」
だが、そのリュートの文句に、女騎士が返答をすることはない。何しろ、この女、喉元に自ら付けた傷によって、喋ることが出来ないのだから。代わって、その主人である姫が答える。
「仕方ないじゃないの。ジェックは私の護衛で付いてきたんだから、得物は必要でしょ? あなたも安心しなさいよ。もし、元老院からの刺客がこの街に居たとしても、彼女なら守ってくれるから。本当に強いのよ、ジェックは」
「だからって、こんな馬鹿でかいのじゃなくったっていいだろ。大体、何だよ、この規格外の女は。さっきから、向けられる視線が痛くて仕方がないぞ」
そのリュートの言葉が示すとおり、人々が彼女に向けるのは、巨大な戦斧への驚愕の視線だけではなかった。
……明らかな、侮蔑の目線。
彼女の独特の編み込まれた髪型と、肌の色を見るなり、道行く人々――特に、リンダール人と思われる民族からは、唾でも吐きかけられんばかりに嫌悪の視線が送られてくるのだ。
だが、この程度の侮蔑、慣れたものと、女騎士ジェックも、そして姫も一向に気にする様子はない。ただ、変わらずに品物を見定めながら、夫に回答してみせる。
「彼女が混血だからでしょ。混血児は、神に愛されたリンダール民族の血を汚すもの、として忌み嫌われているもの」
「混血?」
「そうよ。彼女は、今は滅びたアラマート族――大陸西に住んでいた少数戦闘民族とリンダール人の混血よ。この珍しい髪型と肌の色が何よりもの証。アラマートは、最後まで帝国の属国になることを拒み、神をまったく信じない無宗教の民として、帝国の竜騎士にすべて滅ぼされたわ。でも、彼女は半分リンダール人の血が入っているから、生き残ることが出来て……。奴隷として売り飛ばされていた所を、お母様が買い上げて、騎士として育て上げたのよ。でも、基本、騎竜技術は、純血のリンダール人にしか伝授されないから、彼女は、技術の漏洩を絶対にしないという誓いとして、自分の喉を潰してみせたってわけ」
なるほど。一度、この帝国に来る前の中継島で、そのようなことを知らされてはいたが、改めて、女が話せぬようになった理由について、リュートは納得する。それと同時に思い馳せるのは、この女の過酷な運命だった。
自分の半分の血が、そのまた半分の血を根絶やしにしたのだ。これが、悲劇でなくて何なのだろうか。
そして、その悲劇を引き起こした技術の為に、また、自らの喉をも潰して、そして、その悲劇の担い手になっているのだから。
「……皮肉だな。自分の民族を滅ぼした国の、その技術で、また、他の民族を殺すのか……。因果な女だな」
だが、そうリュートがありったけの侮蔑をぶつけても、口の利けぬ女騎士は、眉一つほども表情を変えることはない。お前如きが何を言っても揺るがぬわ、とでも言いたげなその態度に、流石のリュートも閉口せざるを得ない。
そんな中、妻だけが異質なほどに上機嫌だった。
「ジェックに説教したって無駄よ、あなた。その子は私とお母様に何よりもの忠誠を誓っているのだから。例え、あなたでも、この私に傷一つ付けようものなら、遠慮無く首を飛ばしにかかってくるわよ」
――一体、どうして、こんな女に。
あまりの傲慢な妻の態度に、リュートはそう内心で呆れの溜息を漏らさざるを得ない。
こんな性格最悪で、驕り高ぶった女の何処がそんなにいいのか。自分の民族を滅ぼし、尚、何の罪もない北の大陸に侵略を続けんとしているこの国の帝妹に、一体どうして、そんな忠誠が誓えるのか。まったくに、理解出来ないのだ。
……まったく、どいつもこいつも姫様、姫様、と……。そういえば、あのハーレムの女達もだ。自分を虐げてきたリンダール人の姫である女に、どうしてあそこまで入れ込むのか。いくら、援助して貰っているからと言っても、彼女らは……。
と、リュートが内心で、そこまで疑問を漏らした時だった。
「市長様だ! 市長様がいらしたぞ!!」
その声と同時に、市場が一斉にどよめき、動いた。即座に、リンダール人、その他の民族全て関係なく、全て道の端によって、頭を地に擦りつけんばかりにひれ伏す。
その様子に、今まで装飾品を品定めしていた姫の口から、ちっ、という舌打ちが漏れた。
「嫌なヤツが来ちゃったわね」
その姫の言葉が示すとおり、兵士を引き連れてやって来たのは、見るからに悪徳そうなひげ面の肥満男だった。
まるで今にもこぼれ落ちんばかりに蓄積した頬の肉、そして、もう三段だか、何段だか分からないくらいにせり出した腹の脂肪は、見ているだけでも不快感をもよおす。それに加えて、その人の三倍程もあろうという巨体を輿に乗せて、それを奴隷と思われる男達に担がせているのだから堪らない。ガリガリに痩せて、今にも崩れ落ちそうな男奴隷が数人、巨体をその肩で支えながら、首に鎖を繋がれているその様は、悪趣味を通り越して、怒りすら感じるほどだ。そして、さらに、リュートの心を沸騰させたのが――。
「あれは、――有翼の民?」
肥満のリンダール人の横に侍る、翼を持った美女の存在だった。
おそらく拉致された有翼の民の一人なのだろう。まだ若くて美しいその女性も同様に首を鎖で繋がれて、暗い表情で男の横へと侍らされていた。ただ、輿を担ぐ奴隷とは違い、彼女には上等の服と装飾品が与えられ、まるで、民衆達にその翼を見せびらかすような――そう、まさに、愛玩動物と言って差し支えない処遇を与えられていた。
「この交易都市の市長よ。帝都から派遣されてきた役人の一人だけど、まあえらっそうに、担がれちゃって。多分、輿を担いでいるのは、属国にもなれなかった国の民達ね。それから、多分、あの有翼人は、ここの奴隷市場まで流れてきた希少種ってとこかしら。ああ、ほんっとに、ああいうの、悪趣味で嫌いよ」
その妻の解説に、夫は少々驚いたように言葉を返す。
「何だ。てっきり高飛車なお前のことだから、ああいう輿、好きかと思っていたけどな。意外だな」
「馬鹿言わないで。私には、お母様から貰った素晴らしい足があるもの。前に進みたかったら、自分のこの足で歩くわ。ま、どこかの誰かさんは、その足を見せびらかすのは大嫌いらしいけれど」
「うるさい。僕は女性は、慎ましやかなのが好ましいと思っているんだ。お前みたいなのは、範疇外だ」
「はいはい、堅物さんねぇ。いいから、頭下げてよ。今、私が姫だって、見つかると面倒くさいんだから。このまま一騎士としてやり過ごすわよ」
妻がそう言うなり、女騎士ジェックによって、ぐい、とリュートの頭が下げさせられる。すると、今まで歩みを進めてきた輿が、市場の中心にある広場でぴたりと止まり、その輿に乗っていた肥満の市長が、高慢にその口を開いてみせた。
「聞け、皆の者! 既に聞き及んでいる者もおろうが、現在、この都市の郊外には、大森林へと向かう紅玉騎士団及び、それを率いるエリーヤ姫が宿営をされていらっしゃる。何と言っても、皇帝陛下が御妹君であられる。決して粗相の無いように、この都市を上げて姫君を歓迎申そうではないか!」
その言葉に、即座に夫が妻に問う。
「おい……。お前をもてなすつもりだぞ。どうなってるんだ」
「ああ、そう言えば、この市場に来る前に、今晩の晩餐会のお誘いにと、市長の使いが来てたっけね。美味しいものが食べられるのは大歓迎だけど、あの気持ち悪い脂肪の塊を見ながらだと、美味しさが半減するっていうんで、断ったはずなんだけどねぇ。大体、私欲しいものは自分で手に入れるから、あんなデブに貢いで貰いたくもないんだけど」
だが、その妻の言葉とは裏腹に、市長には晩餐会を開く気は満々らしい。変わらずに嫌らしい笑みを浮かべながら、法外な要求を市民達に向けてし始める。
「そこで、姫をおもてなしするために、是非、君たちにも協力を求めたい。まずは、各自の店で、一番高価な商品の無償提供。姫は大変美食家であると聞くし、食料品店は、最高級の食材を用意しろ。そして、姫への贈り物として、珍しい装飾品の品々も良いな。それから、会場を彩る絨毯も、食器も最高級のものを――」
勿論、これに黙って従う店主などいない。自店の最高の品を無料で持って行かれて、商売が務まるはずがないのだ。次々と異民族の商人達から反論の声が上がる。
「ま、待ってくれよ! 姫君がここにやって来たのも、それを歓迎するのも俺たちには関係ないだろうが!」
「そうだ、そうだ! 大体、前にもなんだかんだと因縁付けて、俺らから商品巻き上げておいてよ! 今度ばかりは、渡せねえぜ!」
「帝都のお偉いさんに媚びを売りたいなら、自分の財布でやんな! 俺ら、南の国からここまでどれだけ苦労して交易にやって来ていると思って居るんだ! 帝国人の官吏だからって威張りくさりやがって!!」
「――黙れぃ、下等民族共が!!」
ばしり、と輿の上で鞭を鳴らして、市長が激高していた。それによりまたぷるぷると脂肪が揺れて、実に、その姿は醜悪極まりない。そして、無論、その主張までも、だ。
「いいか、異民族共! お前ら、劣人種がこの選民の国で商売できるのは、一体誰のおかげだと思って居るんだ! すべて、この市長様が、この都市を取り仕切って、お前らに商権を与えてやっているからだろうが! その恩に報いるのは当然のことだろうがぁ!」
「……おいおい。何だ、あの絵に描いたような悪徳官吏は。ぶっ飛ばしていいか」
あまりの横暴ぶりに、リュートがそう問えば、妻からは気持ちいい返事が返ってくる。
「だーめ。後で私が痛い目に遭わせてやるんだから、あなたは手を出さないで。あれは、今晩の私のおもちゃにするんだから。獲物横取りしないでよね」
どうやら、今晩の晩餐会で、何かをするつもりらしい。だが、そう姫からのお仕置きが待っている、と言っても、リュートにしてみれば、未だ脂肪を揺らして商人達に詰りよる肥満男を見続けているのは苦痛でしかない。
「ったく、あの程度の男が官吏をやってるなんて、お前の国も堕ちてるな」
「……はん。言ってなさいよ、奴隷ちゃんの分際で。いいから帰るわよ。買い物は興ざめしたから、また今度ね。それよりも、帝都に残ったはずのキリカから連絡がないのが気になるけど……」
と、姫がその踵を返すさんとした時だった。
今まで、輿を支えていた奴隷の一人が、おそらく極度の疲労の為なのだろう。がくり、とその膝を折って、地面に倒れ伏した。そうなると、自然、輿のバランスが崩れ――。
「う、うぎゃああ!!」
垂れ下がっていた脂肪に引っ張られるように、巨体が輿の上から転落する。
これには即座に、周りを固めていた兵士が助けにあたるものの、間に合わず。当然、市長はみっともなく地上にその巨体をしこたまに打ち付ける羽目になってしまった。
「……ざまぁ」
その醜態に、天罰だとばかりに、夫婦二人して嘲笑を向けるその先で。
「き、き、貴様らぁ! ど、奴隷の分際で、よくも、よくもぉ!!」
勿論、市長がいきり立たないわけがなかった。自分の身を落としてしまった奴隷達に向けて、容赦のない鞭の雨を降らせ始める。
元々が痩せた奴隷達である。巨体を支えているだけでも無理だったのに、加えて、この仕打ち。見ている方も辛くなるような痛烈な折檻だが、商人達は、自分まで鞭打たれてはかなわないと、誰一人助けようとする者はいない。
そんな中、市長と一緒に輿から落ちた有翼人の女奴隷が、縋り付くようにして、その主人を宥めていた。
「お、お止め下さい、旦那様! このままでは皆、死んでしまいます! 可哀想ですから! どうか、どうか!」
だが、そんな観賞用の女奴隷の懇願が、この愚物に受け入れられるはずもなく、ただ、きつい平手だけが女の頬に返される。
「……きゃっ!!」
この女への暴力に、流石の姫も女騎士も、その眉根を寄せざるを得なかったらしい。今までの侮蔑の視線からさらに激しい嫌悪を加えて、市長を見遣る。だが、その視線の横で、さらにきつく光を宿す瞳があった事に、彼女たちは気が付かなかった。
そう、最強と謳われる女騎士ですら気づかぬほどの、一瞬で、鋭く、そして、不敵に――。
「黙れ、雌鳥! ただ着飾っていればいい鳥の分際で! よくも、このご主人様に楯突きやがって! 自分の身分がどんなものか思い知らせてやる!!」
そう市長が叫び、再び、女の顔に、鞭が振り下ろされた、その刹那に。
「死ね、豚野郎」
突然、飛び込んできた一陣の白い風が、華麗に鞭を蹴り飛ばしていた。そして、その直後に、市長の頬にめり込む肘鉄。
無論、誰のものかは言うまでもなく。
「あーあ、……ぶっ飛ばしちゃった。酷い旦那様ね。嫁のおもちゃ、早速、取り上げるなんて」
その呆れの言葉が示すとおり、新妻の隣に居たはずの夫の姿は忽然と消えていて。
そして、さらに、市長の腹にしこたまに加えられる、第二撃。
これには堪らず、護衛の兵士が白い風を巻き起こした男に襲いかかるものの、兵士の制止如きで止められる男ではない。その外套の下に隠されていた羽を羽ばたかせると、即座に、同族の女奴隷の手を取ってみせた。
「こっちだ、付いてこい」
「……えっ?」
突然現れた同族の男に、女奴隷は驚きを隠せない。だが、そんな驚きに被さるように、兵士がすぐに動いて、彼らの前に立ちはだかった。
「この暴漢が! 覚悟し……っ」
そう気勢を上げて、兵士は、得物をフード付きの外套を纏った男に振り下ろさんとするも。
「逃げろ、兄ちゃん!」
「そうだ、市長の横暴をこれ以上許すな!」
見事なまでに商人達からの援護射撃が、兵士を打ち付けていた。食料品店から投げつけられる卵に、食器店から投げつけられる陶器の欠片まで。物が乱れ飛び、血気盛んな若い商人たちが、その中へと飛び込んで。
「あら。大乱闘ね」
そう赤毛の新妻が評するとおり、あっという間に、市場は収拾がつかぬほどに、兵と商人達が入り乱れる乱戦の現場と化していた。
「ここまで商人の反感を買ってるなんて、あの市長、よっぽど下らない事、してきたのね。しかも、この程度の商人の反抗すら抑えられないなんて、なんて兵士達かしら。まったく……恥さらしが」
なかなか収まらぬ事態に、忌々しげにちっ、と舌打ちを漏らすと、姫は、護衛の騎士ジェックに顎だけで合図をして見せた。その命令に、即座に巨大な戦斧が動く。
ヒュオ、と一つ風切り音を響かせて、群衆の中に飛び込むや否や、女騎士ジェックは、その中心に、あり得ないほどの馬鹿力で戦斧を叩き付けてみせた。その衝撃で、市場の地面に敷き詰められていた石畳が割れて、破片が飛び散り、今まで乱闘を続けていた男達に一斉に石片が降り注ぐ。無論、その程度では致命傷与えるには至らないが、混乱する場を一瞬で黙らせる程度なら、十分過ぎる効果があった。
「ほらほら、あんたら、さっさと散る! さもないと、この場は紅玉騎士団が力ずくで押さえつけるわよ!」
その女騎士の主人と思われる騎士から放たれた言葉に、流石に商人達も潮時だと悟ったのだろう。皆、捕まっては堪らないと、蜂の子を散らすように市街と消えていった。残されたのは、呆気に取られた兵士と、伸びきった市長の姿。
「まったく、情けない男ねぇ。……あら?」
突然の乱闘劇に、思わず気を取られていたが、ここに来て、新妻はようやく異変に気づく。
「私の可愛い旦那様は、どこ?」
辺りを見渡しても、ぶちのめされた兵士達の下を探しても、あの白羽は何処にも見あたらない。考えられるのは、先の乱闘に紛れて、妻の目を盗んで逃亡した、としか――。
思い当たったその答えに、びきり、と新妻の額に青筋が浮かぶ。
「いい度胸じゃないの。奴隷の分際でこの嫁から逃げようなんて。しかも、他の女と手に手を取っての逃亡劇とはね。浮気性な旦那様だこと」
その言葉と同時に、苛立ち紛れの新妻の踵が、がつり、と伸びた市長の腹に叩き落とされる。
「……やられたわ。流石は、私の旦那様ね。あの娘を助けると同時に、自分もこの私から逃げてみせるなんて。まあ、買い物に連れて行けなんて言うから、何かあるな、とは思ってたけど。ちょっと油断しちゃったわね、ジェック」
おそらく、夫はどこかで逃亡を企ててくるだろうとは予想していたが、まさか、こんな場面で、早々と逃げるとは。あまりの予想外の行動に、護衛、兼、お目付役として連れてきたジェックでさえも、珍しくおろおろと動揺を見せていた。
「大丈夫よ、ジェック。すぐに紅玉騎士団を使って、この都市を封鎖させるわ。誰が、大事な旦那様を逃がすものですか。猫の子一匹出すつもりはないわ。それにね、大丈夫よ」
そう自分の臣下を宥めるように言うと、妻の口からは勝ち誇ったような高笑いが漏れる。
「だって、どこかに行きたくったって、私の旦那様は無一文なんですもの。明日の食料だって買うお金は無いはずよ。さて、ヒモ亭主ちゃんが奥さんに泣きついてくるのが楽しみね。あーっはっはっは」
だが、そんな妻の高笑いも、この夫には通じなかったらしい。
「ひい、ふう、みい……、ざっと三十万リーブルか。うん、大収穫、大収穫。これだけあれば、一ヶ月遊んで暮らせるな」
その言葉通り、助けた女が恐れおののくほどに、白羽の夫、リュートの財布は瞬く間に潤っていた。
一体、何をどうしたか。
あまりにも華麗で、素早すぎるこの男の金銭獲得方法に、付いてきたこの女奴隷――サーシャの口はあんぐりと開いたままだった。
何しろ、この男、追っ手を振り切って、この都市の細い路地に身を隠すと、即座にサーシャと自分の顔を使って、見るからに悪党と思われるリンダール人の男達を誘惑。そして、路地に男数人を引っ張り込むや否や、一瞬で男共をなぎ倒し、そして躊躇うことなくその懐に手を突っ込み……、あとは、大収穫、というわけだ。
「わはは、母様譲りのこの顔、本当、便利だな。この馬鹿共誘惑するなんざ、朝飯前だ。さてさて、あの鬼嫁からの追っ手が来る前に、あと三ヶ月分は荒稼ぎしますかね。あ、サーシャだっけ? うん、気にするな。僕は、強請りと集りは得意中の得意だから」
強請り、集り、と言うよりはむしろ、強奪なこの行為なのだが――、女奴隷サーシャには、そんなことをこの男に突っ込む余裕はない。ただただ、この男の爽やかすぎる笑みが恐ろしくて。
「あ、あの……、あ、あなた、何者……」
辿々しい口調で、それだけ問う。それに対して、男は新たな獲物を華麗にぶちのめしつつ、あっけらかんと答えた。
「ああ、僕? ただの元英雄で王子様かな。それに、今はしがない奴隷で、姫君の旦那様。ついでに言うなら――」
……ぼこり。
そう、鈍い音を立てて、悪漢のみぞおちに拳がめり込むと同時に。
「人の言いようにされるのが何よりも嫌いな、はねっ返りの山猫だよ」
「……そ、そうなんですか。りゅ、リュート様。あの、大体の事情は分かりました。あの、……助けてくれてありがとうございます」
三ヶ月分どころか、半年分のお金を荒稼ぎし、死屍累々とも言える悪漢達の体をその下に敷き敷き、語られた男の事情に、ようやく女奴隷は、得心の溜息を漏らした。
「私は、三ヶ月ほど前に帝都からこのベイルーンに売られてきて、あの市長の愛玩奴隷としてずっと飼われてきました。見てのとおり、酷い男です。奴隷には容赦なく鞭打つし、異民族にも酷い差別意識を持っているんです。そのあまりの横暴ぶりに、異民族だけでなく、リンダールの市民からも嫌われているんですよ、あの市長」
そう言って、髪を撫でつける女奴隷、サーシャは改めて見遣れば、実に美しい女だった。流石に市長のお気に入りの愛玩動物だけあって、流れるようなブラウンの髪に、薄黄色の羽。おそらく、かなりの高値の付く希少種に違いない。
「ふうん。まあ、大体どこの国でも中央から派遣されてくるお役人ってのは威張り腐っていていけ好かないもんだ。……に、してもあの市長の絵に描いたような悪徳ぶりは、度が過ぎているな」
「私、帝都からここまでいくつかの都市を見てきましたけど、地方に行けば行くほど、腐敗は酷いですわ。異民族は奴隷に貶められないにしろ劣人種として差別されますし……。属国という立場なので仕方がないのかもしれませんが、やはり、帝国の統治に対する不満は高まっているようです。さっき見ましたでしょう? みんな、貴方が市長をぶちのめして拍手喝采だったではないですか。それも、これも、地方役人と中央の元老院との癒着が原因と言われていますわ。ああして、中央のお偉いさんに媚びを売るために、市民や商人を蔑ろにしているのですもの。私もいつも酷い目に遭わされて、もううんざりでした。本当に、何とお礼を言っていいか――」
「気にするな。僕がしたくてしたことだ。ああいうのが一番嫌いなんだ。それに、丁度、『奥さん』との買い物にも飽き飽きしていたところだったから別にいい。まあ、いくつか気になることはあるものの、しばらく、あの鬼嫁から離れて、自由の身を謳歌することにするよ」
何しろ、久々の娑婆である。リュートにしてみれば、現金強奪すらわくわくと血がたぎって仕方がないのだ。
第一、自分はこの国に何をしに来たのか、忘れるつもりはない。
少々、大森林にいるという嫁の母である女将軍や、紅玉騎士団の元にいる有翼の民の女達のことは気になるものの、時間がない今、そんなことは後回しだ。ぐずぐずしていたら、次の春に、またあの国への進軍があるのだ。それを、なんとしてでも、止めなければ……。
そこまで内心で思いを新たにすると、リュートは深々と頭を垂れていた女奴隷へと向き直って、問う。
「それよりも、君、これから、少し、僕につき合ってくれないか。君は、都合のいいことに、帝都や、この交易都市は勿論、ここまでいくつかの都市を知っていると言うし……」
この突然の申し出に、女奴隷サーシャは驚きを隠せなかったものの、主人の所を逃げ出して行くあてなどない身である。ましてや、この頼もしく、どこまでも不貞不貞しい男の頼みを断る理由はない。
「え……? そ、そりゃあ、わ、私で良ければ、お供しますけど……」
「よし。じゃあ、とりあえず、この都市で身を隠せるような場所知らないか? それから、ついでにこの交易都市で手に入れたいものもあるんだ。その為に、『奥さん』にわざわざ頼み込んで買い物に連れてきて貰ったんだからな」
その要求に、女奴隷は顎に手を当てて、しばし考え込むと、何か思い当たったように、ぽん、と軽快にその手を叩いて見せた。
「身を隠す場所に、買い物ですか……。ああ、それなら」
その女奴隷サーシャの案内で、リュートが連れてこられたのは、交易都市の一角にあるいかがわしい界隈だった。立ち並ぶ売春宿に、その間にひっそりと佇む商店。流石に目立つため、リュート同様頭からフード付きの外套を纏っているとは言え、おおよそ、サーシャのような美女が足を踏み入れる様な場ではない。だが、彼女は構わずに、ある酒場のドアを開けて、中へと入っていく。
「この辺りの酒場には、よく、旦那様に連れてこられましたから。ここはその中でも、異民族が経営する酒場で、私にも良くして下さって居るんです」
そう告げられながら、リュートも中へと足を踏み入れると、流石にまだ昼間であるせいか、お客の姿はほとんどなかった。ただ、酒場のカウンターの片隅には、昼間っから飲み散らかして、酔いつぶれたのであろう年増の売春婦と思われる女が一人。そして、カウンターの中では、マスターと思われる男が、夜の仕込みをしている最中だった。
「マスター。サーシャよ。この間は、どうも」
そうサーシャが声をかければ、年季の入った皺だらけの顔が上げられる。おそらく、獣人族なのだろう。人より大きい体躯と、毛深い腕が、実に印象的だ。
「おお、サーシャか。何だい、こんな時間に。それに旦那様は一緒じゃねえのかい」
「ええ、ちょっと、訳ありでね。少し匿ってくれない? それから、ヒルディン呼べる?」
「ヒルディン? ヤツなら、多分、上の部屋で寝ているだろうけどよ。またお前さん、ご禁制品が欲しいのかい? 何だっけ、有翼の国の本だとか、そんなのだったか。ま、ヒルディンなら、どんな商品でも扱ってるから、手に入らないもんは無いけどよぉ。ま、待ってな、呼んでやるよ。ああ、そこの飲んだくれの婆は放っておいていいから」
突然の女奴隷の訪問、そして連れだってやって来た男の存在に、マスターも何かあると感じ取ったのだろう。詳細を問うこともなく、そのヒルディンなる人物を呼びに、店の奥へと消えていった。
その後ろ姿を見つめながら、リュートがサーシャに尋ねる。
「おい、あのマスター信用出来るのか。それに、ヒルディンとかって、誰のことだ」
「大丈夫です。あのマスター、獣人族で、リンダール人、特に市長の事、心底嫌っているもの。それに、ヒルディンっていうのは、正規の商権を持たない商人、……いわゆるモグリの闇商人ですわ。彼にかかれば、手に入らない物はない、と言われるくらいで。私も市長が、隣の売春宿で遊んでいる間、こっそりと、ここで、与えられた装飾品と引き替えに、ご禁制の有翼の国の本とかを買っていたんです。リュート様も欲しい物がおありになるんでしょう? きっと彼なら売ってくれますわ」
……闇商人、とは聞き慣れないが、好都合だった。モグリなら、金さえきちんと払えば、客の情報をそうそう漏らすことはないだろう。この女奴隷なら、ある程度はこの都市の事を知っているだろうと踏んで助けたのだが、実に僥倖というか、何というか。
ようやく、僕にもツキが回ってきたじゃないか、と内心で笑みを漏らすリュートに、今度は、サーシャが慣れた手つきで、カウンターから飲み物を差し出してきた。
「飲んで下さいな。ここの勝手はよく知っています。なにしろ、あの市長、本当に下品な男で、この店でもしょっちゅう、私に酌をさせながら、何人も売春婦を侍らせていましたから。まったく、男って言うのは、ハーレムだとかいって、女を侍らせるのが、どうしてそんなに好きなんでしょう」
これには、流石のリュートも耳が痛い。別に、好きでなったわけではないとは言え、自分もそのハーレムの主に該当するわけで。
「うん、まあ……。力がある男に女性が群がるのは当然なんじゃないかな……」
とりあえず、苦しい弁護を試みる。だが、この返答に女が納得するわけもなく。
「……まっ! 女が本当に求めるのは、殿方から一心に愛されることですわ。いくらお金があっても、他の女にふらふらと愛を語る男なんて、私はごめんです。お金と力を利用したいと思う女は多いですけど、でもそれが女から愛されている、ということになるかと言ったら、そうじゃないんですのよ」
正直、リュートにとっては苦手な話題である。恋だとか愛だとか、今までしたことがなかったし、これからも別にする必要もないと思っている。それ故に、女の恋愛観などどうでもいいと、話の腰を折ろうとした時だった。
「その通り!」
突然、カウンター隅から、酒焼けしただみ声が投げかけられた。見遣ると、そこには。
さっきまで酔いつぶれていた場末の娼婦と思しき女がくだを巻いていた。おそらく、まだ酒が抜けていないのであろう。赤らんだ顔と、酒臭い息が、実にみっともない。だが、流石、商売道具だからだろうか、歳の割には、なかなかいい体つきをしており、どこか見逃せないような色気のある熟女だった。
「いいこと言うな、そこの女! 女ってのは、男の装飾を好きになるんじゃない! そのどうしようもなさを好きになるんだって言っているのに、どうしてあの馬鹿野郎は……」
おそらく、男にふられたのだろうか。酔った娼婦と思われる女は構わずに、酒臭い息を吐きながら、くどくどと自分の恋愛観を語り出す。これには、流石のリュートも堪らず。
「飲め。飲んで、また潰れてろ」
マスターが不在なのをいい事に、カウンターに置かれていた酒瓶をぽい、と娼婦に投げつけてやった。どうやら、かなり上等の酒だったらしく、受け取った娼婦の顔が一瞬で喜びに変わる。そして、うん、これこれ、ベイルーンの酒はこれでなきゃ、と言いながら、またその中身をちびちびとやり始めた。
「……ったく、なんだ、この娼婦は。それにしても、問題は、この後どうするか、だ」
どうやら、この界隈にはまだ紅玉騎士団の追っ手はかかっていないらしい。ちらり、と外を窺っても、特に変化はない。だが、あの嫁のことである。既に、都市の四方にある門とその外には騎士を配置済みだろう。
「とりあえず、夜まで待つか……。暗くなれば、隙をみて脱出できるだろうし……」
「あ、あの、リュート様には、どこかに行くあてがおありで……?」
「……ああ。サーシャ、君、ハーディーンという地名は聞いたことがあるかい?」
それは、リュートがこの旅路の途中で、ハーレムの女を纏めている婦人、マダム・シェリーから聞き出した地名だった。
――『私が居た有翼人の繁殖施設は、帝都から南にあるハーディーンという地にございました。そこは、リンダール山脈の一角にある盆地で、周囲を四方、山に囲まれている都市です。そこには有翼人の男を含めた奴隷が、今も多数飼われているとか……』
「ハーディーン……。聞いたことはありますが、正確な場所までは、ちょっと……。でも、そんな場所に行って一体何をするおつもりで?」
「うん、少し、ね。サーシャ、君、行くあてが無いんだったら、一緒に来るかい? でも、危険な旅にはなるだろうから、もし嫌だったら、僕の逃亡後に紅玉騎士団を頼ったらいい。あそこには、他の有翼の民の女が庇護されているし」
「ええ? でも、私がそんなことしたら、リュート様に迷惑がかかるんじゃあ……」
「いい。嫁からの追っ手なんざ、どうにでもなる。それよりも……」
と、リュートがまた外の様子を窺おうとしたときだった。
「サーシャ、連れてきたぞ」
先に、闇商人を呼びに行っていたマスターが、カウンターの奥から戻ってきた。だが、その連れてきた、という言葉とは裏腹に、彼の横には、誰の姿も見えない。
「おい、闇商人を連れてきたんじゃないのか。一体、どこに……」
そう不満を漏らしながら、さらにリュートが目をこらすと、巨体のマスターの後ろから、一つ甲高い声が返ってきた。
「どこだ、とは失礼な。我が輩はきちんとここにおるではないか」
まるで、子供のようなきんきんとした高い声。その声に釣られて、リュートがマスターの足下を見遣ると、そこには。
声に違わず、子供の身長ほどしかない小男が一人。だが、その顔はと言うと、幼さからは、ほど遠く、かなりの皺が刻まれている。尖った鷲鼻に、分厚い丸眼鏡。その背には、身長の半分以上はあろうかという大きな袋が背負われている。
男は、その丸眼鏡の奥の瞳で、リュートの姿を改めて確認するなり、くけけ、と嫌な笑いを一つ漏らした。そして、何か商売道具なのだろうか、木で出来た小さな菱形の粒が、規則正しく並んだ板を取り出すと、その粒をぱしぱし、と軽快に弾いて見せた。
「我が輩、小人族のヒルディン・ブラント・グレゴリオという者である。我が輩ら、小人族の商人にかかれば、手に入らぬものはないぞ、有翼人の男よ。望みの物を言え。何でも揃えてやろう。ただし、――闇商人と取引するからには、破産は覚悟してもらうがな」
無論、この挑戦的な取引にたじろぐリュートではない。値切り上等、とばかりにカウンター越しに、有無を言わせぬ優雅な笑みを送ってやる。これに、商人も、その本能でただ者ではないと悟ったのだろう。また、くけけ、と楽しげな笑いを漏らすと、カウンターにぴょん、と飛び乗って、リュートの視線を真っ向から受け止めて見せた。
「いいだろう。面白い客は大歓迎だ。さて、楽しい商売の時間といこうではないか」