第八十七話:弱者
「パパぁ、おしっこぉ」
「お、おしっこ? シャルマ、ちょっと待ってろ! ヘイリーがしたら、すぐに手伝ってやるからって! ああ、もう、マルコまでお漏らしした!!」
気づけば、床一面に惨状は広がっていた。
どうして、待てと言うのに待てないのか。そして、どうして、ぎりぎりになってしか、尿意を告げないのか。
そう問うても、仕方がない。今、リュートの目の前に居るのは、子供という名の、小さな怪獣だからだ。
「シャルマっ! 雑巾持ってこい! ヘイリーはマルコの服脱がせてやって! こら、カルロ! 面白がって床転がるんじゃない!!」
このハーレムにあるリュートの部屋は、もう、戦場と言ってよかった。
ここの子供達ときたら、あんなに新しいパパなんかいらないぞっ、と蹴りを入れてきた癖に、なんだかんだとすぐにリュートに懐いてきて、早速、この暴れっぷりである。調度品をおもちゃにし、ベッドの上ではね回り、至る所に落書きをし……、挙げ句の果てには抱っこ、おしっこ、お腹空いたの子供による三大欲求まで口にする始末。
……一体全体。
――何の因果で、僕はこんなに子だくさんな父親になったんだ。
そう自分の予想だにしなかった現状を呪ってみても、物事は解決しない。ベッドはぐちゃぐちゃ、泣き声はひっきりなし、子供達の要求は、留まることなし。
それも、これも、この子供達を世話するハーレムの女達が、揃ってこの館を留守にしているからである。この、子供の世話なんて、まったくしたことのないご主人様と、数人の女を残して、マダム・シェリーを始めとした名目上、妾の女達が、である。
「あーーっ、もう! 僕一人で手におえるか! カーラ! カーラ、おしめ代えるの手伝ってくれ!」
堪らずに、そう助けを求めれば、ようやく厨房から、この館に残っている数少ない女の一人が顔を出した。
……薄桃の羽の美女。最初にリュートを『けだもの』と罵ったあの女性である。
おそらく、厨房で子供達の食事を作っていたのであろう。真っ白なエプロンを付けた彼女は、リュートの部屋の惨状を見るなり、諦めたように大きな溜息をついた。そして、相変わらず、リュートに敵対するような眼差しを浮かべながら、無言で子供達の世話をこなしていく。
「カーラ。い、一体、どうなってるんだ! 女達は、みんな揃って、どこかへ行ってしまって! 奴隷身分の癖に外うろつけるのか、彼女らは?」
そう尋ねながらカーラに近づいてみると、子を抱き上げたまま、びくりと体を震わせて後ずさりをする。おそらく、この一定の距離感は、まだ彼女がリュートという男に対して、警戒心を抱いているからなのだろう。この館に住むときに、自分は、女達に乱暴するつもりはない、と、明言したにもかかわらず、未だ、彼女だけはリュートに対して、態度を軟化させていないのだ。
まあ、それも仕方ないか、それだけの辛酸をこの女性は男に舐めさせられてきたわけだから、と諦めの溜息を見せるリュートに、流石のカーラも、無視は可哀想だと思ったらしい。
「……知りません。知ってても、男なんかには、言いません。それに、姫様が教えてないんだったら、私たちから、教えることは、出来ないわ」
初めての、叫び声以外の答えを返す。だが、その内容は、リュートにとって納得の出来るものではない。
「おいおい。知ってても教えてくれないって、酷くないか? 僕はこれでも君たちの同胞だぞ? いくら、君らを援助してくれているからって、あの女を優先するなんて、どういう了見だ? それに、『姫様が』って、また、あの女、何か企んでるのか?」
「それも、教えられないわ。それに、いくら同胞だって……男はみんな大嫌いよ。みんな、汚くて、粗野で……。あんたも同類よ」
完全なる、侮蔑と拒否の視線。子供を愛おしげに抱く眼差しから真逆の、氷のような眼差しに、流石のリュートも堪らなかったらしい。とりあえず、弁護を試みる。
「あ、あのな、カーラ。ぼ、僕は君らを本当に、その……性的に、どうこうってつもりは、ないから。今まで、君が味わってきた辛さは、その……僕には、どうしようも出来ないけど、あの……出来れば、少しでも君らの助けにはなりたいと思っているんだ」
それに対して、帰ってきたのは――。
「嘘よ。綺麗事、言わないで。男なんて、みんな一緒」
ぶった切るような、拒絶。
それに、即座に反論出来ぬリュートに、カーラは、丁度いい機会だわ、と言うと、子供達を全てこの部屋から下がらせた。これ以上、子供達に、大人の話を聞かれたくない、との配慮なのだろう。確かに、彼女が受けた悲劇は、子供の前で語るものではない。
……何しろ、女という生き物の全てを否定された訳なのだから。
「みんな、一緒。最初は、そうやって優しいのよ」
冷たい仮面のような顔で、おもむろに、カーラが語り出す。
「でも、ここで、少し過ごせば、たちまち獣に変わるわ。あの男もそうだった。最初は、毎日、毎日、『君のことが本当に好きなんだ』とか囁いてきて。でも、私にその気がないと知るや、たちまち、力ずくの行為に及んだわ。挙げ句、言ったのが、『君のことが、好きすぎて』よ? 馬鹿じゃないの? 一体、それで、誰が好きになるって言うの?」
おそらく、彼女の言うあの男、というのは、ここに以前いた有翼人の男の事だろう。マダム・シェリーから聞いてはいたが、流石に、その当事者から聞くと、さらに、凄惨で痛ましい事件に、リュートの息まで詰まるようだった。
「あの男、私の事を見れば、『好きだから、好きだから』って……。好きだから、何? 好きだから、何をしてもいいの? 『俺を恋に狂わせた君が悪いんだ。こんなに綺麗な君が悪いんだ』って、何、それ。……好きだから、狂ってもいいっていうの?」
悲壮感を滲ませ、そこまで言いつのると、カーラはもう向き合ってもいたくないとばかりに、その羽をばさり、と翻した。と、同時に、ふわりと、一枚抜け落ちた薄桃の羽が、リュートの眼前を掠める。
その薄桃色に。
思い出したのは、あの、幼なじみの姿だった。
――『好きなの! 好きなのよ、あなたが!!』
いつかのルークリヴィル城で、そう想いを告げてくれた、あの薄桃羽の幼なじみが。
何故だか、今、このカーラという女性が告げた男の話と被って仕方がない。
……あの人も。
好きだという気持ちを拒絶され、姿を消したあの人も。
王都に行き、毒蛇と結託し、自分を陥れようとしたあの人も。
――狂ってしまったのか。……恋とか言う、訳の分からない感情に。
今まで、いくら考えても、彼女が自分を害する理由というのが、リュートには分からなかった。だが、今、カーラの話を聞き、あの告白を思い起こせば。
辿り着く答えは、一つだった。
……だが。そう、悟っても。
「分からないな……。僕には、そういう感情が、分からない。人を狂うほどに、好きになる……。そんな気持ち、本当に分からない」
そう誰に向けるでもなく、呟けば、どうやら、その台詞が何よりもカーラの癇に障ったらしい。先に増した激しさで、尚も言いつのってくる。
「当たり前よ! だって、好きなんて、嘘なんだから! みんな、みんな、自分の欲望を叶えたいだけの免罪符よ! 私は信用しない! 恋だとか、愛だとか、もう絶対に信用しない! 女は所詮、男にとったら、道具よ! 力に任せて、言うことを聞かせるだけの、男にとって都合のいいおもちゃよ!!」
心の奥底からの、女の、その叫びが。
どんな刃物より、リュートの心を抉ってくる。
「もう、嫌よ……。私は、どうして、女になんか、産まれたの。どうして、力のない、……男に、暴力で押さえつけられるしか出来ない女なんかに産まれたの……。どうせなら、心なんてない動物に産まれたかった。こんなに、哀しい思いをして、でも、どうしたって、力では男には勝てなくって……。神様は、どうして、こんな不平等な性を私に与えたのよ!」
気づけば、リュートの部屋は、先に子供らが居たときよりも、ずっと悲痛な空気を湛えていた。どうしようもない、やるせなさと、女の悲鳴に似た、慟哭。
「私は、もう嫌。……暴力によって、虐げられるだけの女は、もう嫌。みんな、そうよ。だから、ここの女達は、今……」
と、そこまで言いかけて、はた、とカーラは口を噤んだ。そして、これ以上は言えないわ、と言うと、またさっきまでの仮面の表情に顔を戻して、溢れ出ていた涙をぬぐい去る。
「す、すみません、取り乱してしまって……。ただ、私は、……あなたの思い通りにはされたくない、と言っておきたかっただけで……その。ごめんなさい、あなたが、私を虐げたわけでもないのに。あの……もう、昼ご飯、出来ていますから、食堂で子供達と一緒に召し上がって下さいな、旦那様」
「い、いや、いいよ。君が先に食べておいで、カーラ。僕は、今、とても子供達と楽しく食事出来る気分じゃないんだ」
「そ、そうですか。あの、……こ、子供達に、優しくして下さって、あ、ありがとうございました。私、あの子達にも、酷いこと、されたくなくって……」
一体、誰が、自分より弱い女や子供を虐げようなど思うだろう。
だが、リュートがそう思うより、現実は、遙かに厳しく……、哀しいかな、そんな人間がこの世にはごろごろとしているのだ。
「人間なんて、みんな暴力の前には、無力ですわ、旦那様。だって、怖いですもの。痛いですもの。どうしたって、弱い人間は、その前に屈してしまいますわ。哀しいですけれど」
食堂へと去っていく前に、カーラが残したその言葉が。
また、リュートの心を、激しく揺さぶっていた。
……ああ、あいつも。きっと。
あの、今、この時にも、厳しい受難の身にあるであろう、かの人物の事を思えば。
食事など、到底、喉を通ろうとするはずもない。今はただ、キリカからの朗報を待つよりないこの身が、恨めしい。
「エイブリー……。頼む、無事でいてくれ……」
――ぴしゃり……。ぴしゃり……。
鈍く光る銀髪から、水が、冷たい床にしたたり落ちる。
一体、何度この水滴のしたたる音を聞いただろうか。もう、分からない程に、エイブリーの頭は朦朧としていた。
当たり前だ。一体、何度、この頭から水をぶっかけられたか、分からないのだから。それに加え、とどめとばかりに、将軍から食らった強烈な平手打ち。
だが、ありがたいことに、その平手をもって、あの猛獣は納得してくれた。おそらく、もう、つまらなさすぎたのだろう。あの黒い獣にとって、こんな狐程度の狩りでは。なにしろ、この矮小なる銀狐は、あっけなく、その喉笛どころか、腑の全てを差し出したのだから。
「……あぁ……」
口を開こうとするが、うまく開けない。おそらく、頬が腫れて、酷い顔になっているのだろう。もう、ここまで来ると、どうでもいい思いが、頭を過ぎってくる。
――あーあ。水も滴るいい男、なんて嘘じゃないか。こんな顔じゃ、貴婦人達に、嫌われてしまうよ。
貴婦人なんて、目の前には、居はしないのに。それどころか、あの華やかなる宮廷に、帰る算段すらないというのに。
あるのは、ただ、この陰鬱で、おぞましい拷問具の揃った、地下牢の壁だけ。
虫が、這っている。壁に、天井に、自分の身に。この体に滲む血が、呼んだのか、足がやたらに生えたその形態が、さらにおぞましい。だが、それも、振り払えないのは、この四肢が、全て鎖に繋がれているからだった。
「最悪だ……、もう、……死にたい」
つい先頃まで受けていた暴行の記憶が。そして、その痛みに負けた、自分の弱さと罪深さが。
ただただに、呪わしくて、このエイブリーという矮小な人間を、消してしまいたいと、思った。
かつり、と靴音が響く。
また、あの暗黒の男が、戻ってきたのだろうか。戻ったって、こっちは、もう絞りかす一滴、出やしないってのに。ああ、また、『アレ』をするのか。嫌だな、嫌すぎる。どうせなら、殺せば、いいのに。死神が来れば、いいのに。
そう呟いて、エイブリーは腫れ上がった瞼を何とか、瞬かせ、迫り来る人物の姿を迎えた。
だが、やって来たのは、彼に死を与える神でもなく。また、彼に地獄の苦痛を与える、黒い猛獣でもなく。
「……サルディナ」
この陰鬱で凄惨な地下室に似つかわしくない、地味な妊婦だった。
おかしな事に、牢番もいない。兵士もいない。全ての邪魔者を下がらせて、女は、一人、満身創痍の有翼の貴公子の元に現れていた。
「酷い目に、遭われましたわね。狐さん」
この国に来てからの一ヶ月、あの金髪の従兄弟から、毎日地獄の様な語学研修を受けて、エイブリーは多少のリンダール語が理解出来るようになっていた。だが、所詮は俄仕込み。その理解能力の低さを慮って、サルディナは言葉を句切るように、ゆったりと、語りかけてくる。
「酷い目も、何も……。このざま……。情けない……」
鉄の味が滲む口内を、なんとか動かしてそう答えれば、鍵を開けて、牢に入ってきた女の手が、そっとその頬に伸びる。
「大丈夫。出来る限り、私が治療しますわ。染みるでしょうけど、我慢して」
そう言って、女が取りだしたのは、医療用の布に、軟膏だった。
「い、痛いっ! あ、ああ……っ!!」
触れられるだけで、体の芯から軋んでくる。今まで、貴公子の身分にあったエイブリーには、経験したことのない、苦痛。
だが、サルディナの治療は容赦はなかった。
「大丈夫。思っていたより酷くありません。ガイナス将軍の拷問と言うからには、体の半分以上潰れていると思いましたけど、そんなに骨も折れていないようですし、すぐに回復しますわ」
思ったほど、傷が酷くないのは、当たり前だった。何故ならば。
「さ、サルディナ……。こ、殺して、くれよ。ぼ、僕は、もう、生きてる価値なんか、ないんだ。僕は、……僕は」
……喋ってしまったんだ。
全て、喋ってしまったんだ。この身の痛みに、耐えきれなくて。
守るべき、自国の詳細全てを。帰るべき、あの国の、人々を。……いとも、あっさりと……、自分の口から、ぺらぺらと。
ただ、肉体に加えられる苦痛から逃れたい一心で。
絞るように吐き出された男の懺悔が、暗い牢に、消える。
響くのは、ただただに、後悔と、自責の嗚咽だけ。 そんな言葉すら失った有翼人を、妊婦は静かに、断罪していた。
「仕方ありませんわ。人間って、そんなものですもの」
そう冷たい声音で男を断じながら、女の双眸には、同情とでも言うべき色がありありと浮かんでいた。そして、同じ声音で、また、自分自身を断じて見せる。
「私も、そんな人間です。私も、暴力に屈して、一番大事なものを売った人間です」
「だ、だい、じな、もの?」
回らぬ口で、そう問えば、女からは自嘲の笑みが返ってくる。
「はい。私が、売ったのは、思想です」
その言葉と共に、突きつけられたのは、女の足に刻まれた火傷の跡だった。あの、結婚式で、議長が彼女に投げつけた侮蔑の言葉が蘇る。
……魔女。そして、火刑。
「狐さん。あなた、おかしいと思いませんでした? 私が治療するより、白様が治療した方が、陛下のかゆみや痛みが改善されていたことに」
そういえば、とエイブリーは、かつての奴隷生活に思い馳せる。リュートが来てから、皇帝は痛みから来る苛立ちが抑えられ、この侍女にも暴力を振るわなくなっていたのだ。その事が、意味するのは、何なのか。その問いに、女はつぶさに答えを示していた。
「この国、あなた方の国より、医学だけは、遅れているのですわ。宗教という名の盲信が、邪魔をしているのです。この国では、……宗教的な理由から、医療のための研究が、制限されています。病気は信心が足りないから起こる。果ては、病の全ては悪魔の為せる業として、治療として行われるのは、無知蒙昧な祈祷に、気休め程度の薬湯のみ。ですが、すべてのリンダール人がそんな風に愚かだった訳ではありません。信仰という盲目から逃れ、病気を病気として研究しようとするもの医者達がおりました。それが、この私の一族、ヴェルダン家です」
「け、研究?」
「はい。有り体に言えば――医学の為の解剖を行っていたのです。異民族でなく、神に選ばれた民族であるリンダール人を」
勿論、死刑囚やらなんやら、秘密裏に手に入れた死体をですが、と注釈を入れて、サルディナは頷いていた。そして、尚もその先の話を続ける。
「ですが、その選民の体、つまり神に愛された民族の体を解剖し、研究するなど神の教えに悖るとして、異端審問にかけられまして。一族郎党、捕らえられて、火刑判決が下されたのです」
告げられた事実に、エイブリーは傷だらけの体に、さらに、ぞっと寒気をもよおした。それでも尚、妊婦はその眉根一つ寄せず、淡々と治療を続け、その先を話す。
「私も勿論、囚われて、家族共々火刑台に括り付けられました。そこで、居合わせた高位聖職者、並びに元老院議員達から、改心をすれば、命は助けてやってもいいと言われたのですが、私の一族は、無知蒙昧で人を縛る宗教なんぞごめんだと、決して屈せず……私の見ている前で次々と自分の思想と矜持に殉じました。ですが、……私は」
ちら、とサルディナの視線が、自分の足に刻まれた火傷跡に向く。
「少し、火を付けられただけで、あっさりと自分の信じてきたものを捨てたのです。そして、何でもするから、火で焼くのだけはやめてくれと懇願しました。そこを助けてくれたのが、……陛下です」
「こ、皇帝が?」
はい、と頷いて、妊婦は静かに、目を伏せた。
「当時陛下は、あなた方の有翼の国から、発病の為に帰ってこられた時で……。かゆみと筋力の衰えからくる苛立ちに、相当蝕まれておりましたわ。それも、当たり前のこと。祈祷で病気が治ればこの世に医者はいりません。その医者も、薬湯を与えただけでお手上げだ、という藪なら、これまた、いりません。陛下が、何よりも欲したのは――悪魔の業と言われた我がヴェルダン家が有する医学知識でした。それゆえに、私を一人お助けになって、側に置き、侍女として重用したのです。無論、そんな元魔女を側女に、など元老院は反対致しましたが」
なるほど。それで、あの議長の企みか、とエイブリーは納得する。一度会ったあのヴァルバスという男の敬虔ぶりと照らし合わせれば、サルディナが皇帝の子を孕むのを疎んずるのも仕方のないことであろう。
「で、でも、サルディナ。どうして、君は、そんな皇帝の子を? た、助けてもらった恩があるから、彼に身を任せたのか……?」
また腫れた頬を動かし、エイブリーがそう問うと、妊婦からは意外な答えが返ってくる。
「いいえ。私の家族を火あぶりにした元老院と、神の代理人である陛下の事は、今もお恨みしております。この私の足に刻まれた火傷がある限り、私は彼らを許しはしない。でも……」
そう反語を紡ぐと同時に、妊婦の顔が今までの嫌悪のものから、違うものに変化する。エイブリーが、見たことのないその表情。哀しみと、怒りと、やるせなさと。そして、何よりもの親愛の情が入り交じった、人間の顔。
その顔で、妊婦は腹を愛おしげに撫でながら、また思いも寄らぬ問いを投げかけてきた。
「狐さん。貴方、人を愛したことがありまして?」
この、虫の這う牢で、語られるとは思えないような、その会話。
その意外さに戸惑いながらも、エイブリーは虚ろな頭でその問いの意味を考える。
かつて、王都では。
女とは、男の身を飾る生きた宝石だと思っていた。美しく、そして、若ければ、よい。連れて歩いて、人の羨望を受けることが出来ればよい。そうでなければ、性欲の捌け口だ。
そう、思っていたのに。……それが、今は。
どうしても、その数々の貴婦人達の顔すら思い出せない。思い出すのは、ただただ、あの敵国の年上の女性だけ。だが、いくら考えたって、彼女は身を飾る生きた宝石ではない。そんな女の事が、どうして心から離れないのか。
本当に、自分でもよくわからないのだ。強いて言うなら、本能、だろうか。理性では及ばぬ部分に、あの女性への感情はあるのだ。
「あるよ、サルディナ。今、このどうしようもない状態にあっても、求める女性は、いるよ。自分でも、馬鹿だと思うけど」
その答えに、妊婦は今までで一番、ふわりと柔和な笑みを見せた。地味で、目を見張るような美人ではないが、見るだけで、こちらの心まで癒されるような優しい笑み。その笑みに、エイブリーはその恋する男の本能で、悟る。
……ああ、この人も。そして、皇帝も。
「狐さん。不思議ですわね。多分、かつての陛下なら、私は憎むだけだった。或いは、その地位を利用したい、その財を得たいと思うだけだったかもしれない。でも、今は……」
共にありたいと思いますのよ、あの崩れた陛下と。あの、私だけに仮面の下の素顔を見せて下さるあの方を。この魔女めに、共に堕ちてくれと懇願してくださったあの、神の代理人を。
そう言って、腹を撫でる女のそれは、慈母の表情だった。未だ産まれぬ子と、そして、今にも崩れ落ちそうな大きな子供を癒す、母。
だが、その中で、嫌にエイブリーの心にかかる言葉があった。
……皇帝の言う、共に堕ちてくれとは一体、如何なる意味なのか。
だが、その真意を問う前に、治療は終わっていた。そして、いつしかあの慈母は消え失せ、気づけば目の前には、魔女と言われるにふさわしい冷淡な女が居た。
「狐さん。私が貴方を助けたのは、私の好意じゃないの。陛下から、命ぜられたから。『あの狐は死なせるな。まだ、利用価値があるから』と」
「り、利用価値?」
「ええ。貴方は紛れもない陛下の奴隷。死ぬことだって、自分の意志では許されないのですよ」
……一体、自分という人間は何だったのか。
女から告げられた言葉に、がらがらと音を立てて、エイブリーという人間が崩れ落ちていく。
地位も、お金もあった。女にだって、不自由しなかった。ねっとりとした陰謀を用いて、政敵を失脚させ、栄華をさらに極めんとした。
だが、今の自分は何だ。
地位など、毛ほども役に立ちはしない。お金なんて、血に飢えた凶暴な黒い猛獣の前には無意味だ。
虚飾を全てはぎ取って、出てきたものと言ったら――。
一番差し出してはいけないものを、あっさりと差し出した、小狡い狐だ。
家族を、そして、同胞を売った、矮小な男だ。
いくら、今まで小狡い事を重ねて生きてきたとて、決してやってはいけないことが何なのかくらいは、わかっていたのに。
丸裸になった自分は、途方もなく、惨めだった。
涙と鼻水にまみれ、仲間を売り、それを開き直ることも、また、仕方ないと諦めることも出来ない。いっそ、底なしの恥知らずだったら、よかったのに。自分のやった売国行為を、身を守るための正当防衛だと堂々と言えるくらい、悪党だったらよかったのに。
――こんな自分を。
一体、誰が許してくれるだろう。
ましてや、愛してくれるなど。
そう思い当たったときに、縋るのは人間を越えた存在だった。到底、人では愛しきれない醜いものまでも、愛してくれる超常の存在。
自分を消したいほどに罪深い者だと悟ったときに、その罪からくる業苦に耐えかねて、魂を委ねるもの。この、いと弱き人間こそが、縋らねば生き抜けぬもの。
今まで、一度も名を呼ぶことがなかったその存在を、何よりも求め、エイブリーは暗い牢で希った。
こんな人間など、助けられる価値などないと、心のどこかでは、分かっていても。その者の本当の名が、一体何であるか、分からなくても。
「助けて……、神様」
「神なんて、まやかしよ。ましてや、その神の名において、人を縛り付け、そして、焼くなんて、言語道断だわ」
かつて見たサルディナの火刑の詳細を夫に語った後、新妻エリーヤは、忌々しげにその言葉で話を締めくくっていた。そして、凄惨な処刑を思い出した苛立ちを払拭するかのように、目の前の鶏肉に、ぶすり、とフォークを打ち立てててみせる。勿論、この妻の不作法に、共に食事をしていた夫が耐えられるはずもなく、即座の苦言が返ってくる。
「おい、『奥さん』。姫という身分の癖して、テーブルマナーもないとはな。余所でやって、夫である僕に恥をかかせるのはやめてくれよ。大体、何だ。僕は食事する気分じゃないってカーラにも言ってたのに、無理矢理昼食につき合わせて」
「いいじゃないの。あんたが絶食したって、事態が好転するわけじゃなし。とりあえず、キリカに任せなさいよ。あれは、あれで優秀なんだから。それよりも、さっきの話、どう思う?」
「サルディナの話か。魔女という名の医者か……。そんな過去があったなんて、驚いたが、しかし……。意外だったな。武器鋳造を始めとした技術は帝国の方が遙かに優れているのに……」
と、かつての戦に思い馳せながら、夫であるリュートも、用意された料理に手をつける。さっき妻が手を付けた鶏肉に加えて、北の大陸ではお目にかかれない珍味ばかりだが、やはり食は進まない。
だが、一方で、目の前の妻は、何処にそんなに入る胃袋があるのかといった勢いで、次々と皿を空にしてゆく。のみならず、またも口に食べ物を入れたまま喋るという不作法まで披露してくるのだ。
「みんな、宗教のせいよ。そりゃ、この国で宗教が何よりも重んじられる理由を私は知らない訳じゃないけどね。信仰はあくまで人の為にあるものであって、人を盲目にするものであってはいけないと思うのよ。ましてや、人を縛り付けるなんて、言語道断!」
おそらく、あの自分を縛り付けた神託の事を言っているのであろう、妻の怒りは食べっぷりに比例するように激しくなっていた。
「だいたいね、選民だの何だのというのが、鬱陶しいのよ! 自らを選民と言わしめるのは、奴隷時代の劣等感の裏返しに過ぎないと思わない?! こうして、自らの国を打ち立てた今になって、その奴隷根性をいつまでも引きずっているのが、気にくわないわ。元奴隷だろうが、現奴隷だろうが、自分で自分を律し、誇り高く生きればいいだけでしょう? それをいつまでも、神に認められないと、自分らの矜持が守れないなんて、最低最悪よ」
これに関しては、流石のリュートも妻に同意せざるを得ない。今、自分は奴隷身分なわけだが、今更、神なんぞに認めて貰わなくとも、ちっとも恥じ入ることなどないからだ。自分という人間を他者がどう捕らえようが関係ない。今、ここにいるのは、リュートという一人の人間なのであるから。
そう内心で思い馳せる夫の沈黙を肯定の証であると悟ったのであろう、妻は尚、自国の宗教についての持論を展開する。
「選民だ何だといって、結局ありがたがるのはリンダール人だけよ。他の民族にしてみれば、こんな宗教が帝国第一の宗教ですと押しつけられても、反感しか抱かないわ。そのあたり、分かってないのよね、皇帝と元老院は!」
そう吐き捨てる妻の顔に、夫はいつにないものを感じ取っていた。凛として、それでいて、思慮深い、一人の女からうって変わった、一人の為政者としての発言。それに堪らず、問いを返す。
「……それは、つまり。『奥さん』は宗教改革が必要だと思っているということか?」
これに対して、妻からは、明確な答えと、清々しいまでのテーブルマナー違反が返ってくる。
「あったりまえでしょ? 私が宗教様のおかげでどんな目に遭わされそうになったか、知ってる癖に!」
「エリー……。口に食べ物を入れたまま喋るんじゃない。僕は、パンくずを顔に吹っかけられながら、食事する趣味はないんだ」
もう何度目か分からないほどの、夫から妻に対しての戒めの台詞。だが、そんな夫の諫言も、あの望まぬ結婚を強いられそうになった妻には、とんと届いていないようだ。今度は、その口に、棗の蜜づけを一杯に頬張りながら、さらに愚痴をこぼす。
「あの神託といい、それを盲目的に信じる議員共といい、女を何だと思っているのかと私は言いたい訳よ! 女はただ、子を産むだけの奴隷じゃないわ! ましてや男に虐げられるだけのものでもね!」
その台詞に、リュートは思うところがあったらしい。気の進まぬ妻との会食だが、いい機会だとさらに問いを重ねる。
「ふうん。よっぽど男に従いたくないんだな。だから、ハーレムの女達に援助しているのか?」
「……そうね。いくら有翼の民とはいえ、女が虐げられるのは、見ていていい気持ちがするものじゃないわ。彼女たちに同情の気持ちがあるのは、認める」
「でも、それだけの理由じゃないんだろ? 彼女たちをここに飼っているのは」
この問いに、今まで饒舌だった妻の口が一瞬、止まる。そして、目の前の夫の姿を、改めて値踏みするように見遣った後、意味ありげに笑いを見せた。
「まあね。でも、あんたには、まだ教えてあげないっ」
「……ふん。女同士結託して、ご主人様を仲間はずれか。本当に、嫌な本妻に妾共だな。加えて、あの子供達の世話まで僕にさせやがって……」
「いいじゃないの。あなた、子供は嫌い? 私は子供、大好きよ。子供はいいわ。可愛くって、希望があって」
これまた、妻の意外な一面。そのいつにない女特有の表情に、リュートが思い出したのは、いつかのクレスタで会った、兄の子と、それを産んでくれた幼なじみの姿だった。
生き生きとその頬に生命の色を宿した小さな赤子。そして、それを慈しむ、母。
あの命を守り、彼らが幸せに生きられるためなら、何でもしてやろうと思った。あの赤子の小さな手を血で汚さないためなら、この身全てに血を被ってでも、守ってやろうと思った。
子供は、愛おしい。
次代を担うであろう若い命は、この自分の生を賭けてでも守る価値がある。それが、自分の子であるなら、きっと、尚更に――。
そう思い当たって、ふと、リュートの目に映ったのは、傲慢かつ身勝手に自分を夫にした、妻の姿だった。
「あら、なあに? 私の顔に何かついてる? それとも、あんまり自分の妻が綺麗だから、見とれていたの?」
「……馬鹿。自意識過剰だ。お前は、……そんなに綺麗じゃない。性格が悪いのが顔に出ている」
「あら? あなただって、性悪が滲み出ているお顔よ? 綺麗な顔は、綺麗な顔だけれど。あ、そうだ。今度、あなたにお化粧させてよ。きっと、ドレスでも着たら、もっと綺麗だと思うわっ」
「……死ね」
こんな女と、夫婦だなんて。
死ぬまで、離れられない夫婦だなんて。
屈辱。
それ以外の何物でもない。
――見ていろよ。僕は、誰かに人生を押しつけられるのが、一番嫌いなんだ。
そう夫が、妻に向けて、内心で宣戦布告をした時だった。突然、部屋に、侍女の声が飛び込んでくる。
「姫様。お客様が――って。こ、困ります、殿下! 姫様は、今、旦那様とお食事中なんですから」
「ん? 旦那様? ああ、あの結婚式で攫われた有翼の王子か! あれは実に傑作だったなっ! いいよ、いいよ。僕は、気にしないから」
「気にしないって! ああ、ポイキオ殿下! そんな勝手に!」
制止する侍女の声に被さるように、軽薄そうな男の声が部屋に入ってきていた。聞き覚えのないその声に、訝しく思い、リュートが入り口の方を見遣れば、そこには。
「やあっ! 姫様、お久しぶりっ! おやおや、ヒモ旦那君まで、ご一緒で!」
底抜けの明るい声音でそう言い放つ、色彩の暴力男の姿。
この、奇抜ともいえる衣装を、見間違うはずもない。ましてや、その頭上にきらりと輝く一本の鋭い角も。
「ル・ポイキオ! 久しぶりね! あ、いいえ、あんたも結婚式に来てたから久しぶりではないかしら?」
その妻の言葉が示すとおり、入ってきたのは、結婚式に出席していた有角の国の王子と思しき男だった。
相も変わらぬ原色が入り乱れた悪趣味な民族衣装を身に纏い、頭の角にも、しゃらしゃらと鳴る装飾具。もう、見ているだけで、目がちかちかしてかなわない。
「おい、エリー。この男……」
「やあっ! 有翼の民の王子っ! 初めまして、僕はご存じの通り、リンダール帝国が属国、有角の国パルパトーネの第二王子、ル・ポイキオという者だっ。どうぞ、お見知りおきを!」
滑舌の良い挨拶と共に、きらり、と角と歯が華麗に光った。そして、親密すぎるほどの握手。その男の爽やかさに、即座に、リュートは悟る。
……うん。こいつ、絶対、鬱陶しい……。
だが、その色彩の暴力男はそんなリュートの視線には構わず、さらに人懐こく笑いかけると、一つ驚きの言葉を口にしていた。
「あははっ! そう警戒しないでっ! 仲良くやろうよ、恋敵君」
……恋敵君?
リュートにはその言葉の意味が分からない。
いや、薄々分かっていても、理解したくないのだ。なにしろ、自分は恋なんて、したことがないのだから。
「はははっ! お互いフェアであろうね? 今は君の方が夫ということでアドバンテージを取られているけど、僕は姫様の事、諦めてはいないから」
「……はい?」
よくよく見れば、どぎつい衣装の前に霞んでいたその顔は、なかなかに端正なものだった。歳は二十歳前後だろうか。黒髪に、彫りの深い顔。リュートとはまた違ったタイプの美男である。
その美男は、また爽やかに笑うと、今度は、おそらくその『恋』の相手であろうリュートの妻に近づき、おもむろにその手を取って見せた。
「ああ、我が美しき女神よ。貴女が人妻になられると聞いて、心が潰されるような気持ちで結婚式にまかり越しました。いや、しかし、流石は僕の崇拝する赤い女神。実に、……あっぱれな逃走劇で。改めて、惚れ直しましたよ。これは、僕からの気持ちです」
そう言うと有角の王子は、ためらいもなく。
人妻であるエリーヤ姫の手に、深いキスを落として見せた。まるで、夫であるリュートに見せつけるかのように、ねっとりと、親密に。そして、そのキスに答えるように、姫も普段、夫に見せないような淑女の笑みを見せる。
「うふふ。私も貴方に会えて嬉しいわ。いつも、遠くパルパトーネからやってきては、こうして愛を囁いてくださるのですもの。どうして、貴方を邪険に出来るかしら」
「貴女の愛を得るためなら、僕は何でも致しますよ。ああ、この旦那様に飽きたら、いつでも仰って下さいね。貴女のお美しい手を、有翼の民という奴隷のためにお汚しになることはありません。いつでも、僕がこの角で、旦那様を亡き者にして差し上げますから」
これまた、歯の浮くようなキザな台詞。それだけでも、吐き気がするのに、この異民族の王子ときたら。
「いつでも、僕は貴女をお慕い申し上げておりますよ。その証を見せろ、と言うのなら――」
ぐい、とおもむろに、姫の細腰を抱き寄せて。
近づいた、蠱惑的な唇に。
「んっ……」
キス、して見せた。
リュートという、夫が居る前で。
不貞不貞しくも、大胆に。何ら、悪びれることもなく。
しかも、あろう事か。
「うふふ、貴方って、いつも大胆ね、ポイキオ」
そう王子から口を離していい放つと。妻までも。
「これは、その気持ちのお礼よ」
キスを、返して見せた。
勿論、口と、口で。しかも、かなり、深く、濃密に。……これには、流石の夫も。
「……っ!!」
そう、顔を赤らめて絶句するより、他にない。だが、その表情も一瞬で。
すぐに、眉根をかつて無いほど寄せた、侮蔑と、嫌悪のものに変わる。
「ふ、ふーん……。破廉恥女には、似合いの相手だな。僕が死ぬ以外で、離婚する方法があるんだったら、いつでも夫の座くらい、くれてやるよ。好きにしな、不潔民族共。僕は、ハーレムに帰る」
それだけ唾棄すると、即座に、白羽を翻して、夫は妻の部屋を後にしていた。
その清々しいまでの潔癖な姿に、今までキスを受けていた有角の国の王子ポイキオも堪らなかったらしい。すぐに、唇を姫のものから離して、呆れの溜息をついて見せた。そして、一言、心配げに漏らす。
「いいのかい、姫様。あんな純情な旦那様、怒らせちゃって。いくら、頼まれた事とはいえ、僕も罪悪感、感じちゃうなぁ」
「いいのよ、ポイキオ。素敵な演技ありがとう。あれくらいしなきゃ、うちの旦那様の心は溶かせないわ」
うふふふふ。
そう笑いを漏らす人妻の顔が、あまりにも、魅惑的で。思わず、内からせり出す感情に、王子は耐えきれず、細腰を抱く手に力を込めた。
「ああ、やっぱり、いいな、君は。本当に、寝取ってやりたいくらい、素敵だ」
「うふふ。いいわよ。貴方だって、素敵だもの、ポイキオ。私、貴方、嫌いじゃなくてよ」
「そう? じゃあ、姫様。僕にも、許してくれるかい? 貴女を、愛称で呼ぶ権利をさ。『姫』でもなく、『エリーヤ』でもなく、あの旦那様が呼んでいた愛称を、ね」
端正なマスクから、甘い言葉とともに、姫の白い首に小さくキスが落とされる。そのキスに身を委ねるままにしながら、女が出した答えは。
「嫌よ」
実に、清々しく、明確で。もう、首筋に吸い付いていた王子の口からは笑いしか漏れなかった。
「ははははっ。よっぽど、あの旦那様にぞっこんなんだね。じゃあ、もう、僕も当て馬の役割は、お断りだな。有角の民は、勝ち目のない戦いはしない主義なんだ」
「そ。賢明だ事。だから、好きよ、有角の民ってね。いつまでも下らぬ事に拘っている、頭の悪い獣人達より、ずっと、ずっとね」
その返された言葉に、また、きらり、と王子の角が光った。そして、その口を今度は姫の耳たぶにあてて、誰にも聞かれぬ程度の声音で、静かに告げる。
「その頭の悪い獣人のことだけどね。彼らも、ようやく頭がよくなったようだよ。ここに来る前、僕の父と、そして君のお母様から、連絡があった。『こちらの準備は、殆ど整った』とね。僕もこれから大森林へ向かうつもりだ」
意味深な、その囁き。その意味を、姫は過たずに理解したようだ。満足げに口を歪めると、今度は王子の耳たぶに噛みつかんほどの距離で、答えを返す。
「そう。なら、話は早いわね。先に行ってお母様にお伝えして頂戴。『いつぞやは、素敵な密書をありがとうございます。おかげで、娘は無事、結婚式を終えました。じきに、可愛い旦那様を連れて、大森林へハネムーンに参ります』とね」
その答えに、また王子も全てを悟ったようだった。満足げな笑みを浮かべて、体を姫から離すと、深く一礼して、その踵を返す。
「では。お待ちしておりますよ。我らが盟主、エリーヤ様と、旦那様のご到着を、心より」
「ええ、ポイキオ。また、すぐに会えるわ。うふふ、楽しみね」
「こちらも、楽しみにしておりますよ。……それでは、新婚夫婦に、幸あらんことを祈りまして」
しゃらり、と角の装飾品を一つ鳴らして、色彩の暴力王子は軽やかに去っていった。
気づけば、昼の礼拝の時間だったらしい。グラナ邸の外から、また礼拝の声が聞こえてくる。その声に煽られるように、女は誰も居ない自室で、一人、決意を漏らしていた。
「……もうすぐ。……もうすぐよ。私は、もう、何者にも屈しないわ。虐げられ、強制されるだけの弱い女ではありたくないもの」
零した言葉に煽られるように、女の目が、鋭く光る。ルビーの様に優雅に、獣の様に鋭く、そして、火の様に情熱的に。
まるで、全てのものに挑戦状を突きつけるようなその視線で、女の決意は揺るがなかった。
誰に言うでもなく、一人、宣戦布告をしてみせる。
「待ってなさい。私は、欲しいものは絶対に手に入れる主義なのよ。地位も、そして、……男もね」