第八十五話:逃亡
呆然、という言葉は、こういう時の為にあるのだな、とリュートはその頭の端で思う。
端で、と言うのには、訳がある。
何故なら、大まかな自分の思考は、今。
「似合うでしょう? この清楚な純白の花嫁衣装。貴方の好みに合わせましたのよ」
この、目の前の女の衣装の様に、真っ白だったからだ。
……何?
一体、何が起こった?
誰か、僕に説明してくれ。なあ、誰か。
そう縋るように視線を滑らせたその先には。
さらに増した驚愕の表情で、顎を開け放つ元老院議員。並びに、目を丸くしたままの来賓達の姿。
とてもではないが、理路整然とこの場を説明してくれる人物など、居はしない。
そんな中、目の前の純白の女だけが、その血に似た赤い瞳を、魅惑的に光らせて笑っている。そして、先に判を押した親指を立てて見せると、そこに滲む血を、べったりと、リュートの唇へと塗りつけてきた。そう、……まるで、この男は自分の所有物です、とでも言いたげに。
そして、おもむろに。
「――んぅっっ!」
激しい、口づけ。
途端に、口内に広がる生々しい鉄の味。お互いの唇に付いている血液が、唾液で流れ出して、嫌でも舌の上を這い回る。
あまりの出来事続きに、呆然と霞む頭の隅で、また、リュートは小さく思う。
……知らなかった。
キスというのが、こんなにも、苦くて。獣臭くて。どろりとしているものだったなんて。
何も考えられなくて。内にくすぶる本能が、嫌でもくすぐられて。不快で、熱くて、圧倒的で。
ああ、一体、何なんだ。
もう、この女。
僕を喰い殺すつもりか。
「……ぷはぁっっ!!」
ようやく、そこまで思い当たって、リュートは正気を取り戻していた。
唇を離し、大きく息を吸い込み、そして、こぼれ落ちんばかりにエメラルドの双眸を見開いて、目の前の花嫁を睨め付ける。
「お、お、お、おまえ……。な、な、な、な……」
口が、上手く回らない。女が舐め付けた唾液が、未だ口内に生ぬるく残っていて。それが、また、どうしようもなく、甘く、味を変えていて。
それだけでも堪らないのに、女はさらに、その清楚と妖艶の混じった顔で笑んでくるのだ。
「何って? いやですわ、旦那様。とぼけちゃって。私、もう、嘘はつけませんの」
――嘘?
嘘って、何だ。僕が、一体、何の嘘を付いた。
ええ?
そう思う間に、するり、と女の腕が首に回っていて。きつく、その腕と胸の中に、白羽ごと絡め取られていた。
「酷いっ! あなたったら、こんな列国の皆様の前で、尚、エリーを邪険にするのですか? 既に、結婚の誓いを成し合った仲ですのにっ!!」
また、しばしの、思考停止。
そして、その後、迫り来る、疑問、そして、叫び声。
「ななななっ!! 何を仰います、姫様っ! そ、そ、その有翼の王子と結婚とは、い、い、いいいい一体、如何なることで!?」
リュートが叫ぶより先に、元老院議長の叫びが場内に響き渡っていた。
そして、その叫びを皮切りに、場内が一斉にどよめき、揺れる。居並ぶ元老院議員、並びに、来賓。そして、警護の兵士に至るまで、誰一人、例外なく、驚嘆の声を上げているのだ。
だが、そんな狂乱の坩堝の中、花嫁だけが、異質だった。もじもじと、まるで少女のように、その頬を染めて。
「すみません、列席の方々。私、今日の今日まで、恥ずかしくて、どうしても言い出せなくって……。でも、やっぱり、神の御前で嘘はつけないと思いましたの。……私、実は」
そう、つらつらと語った後、その胸に、きつく男を抱いたまま、花嫁は高らかに宣言する。
「この、有翼の王子と、遠征先で恋に落ちてしまいましたのっ!!」
……はい?
一体、この女は何を喋っているのか。理解出来ぬリュートのその鼻先で、花嫁はその口を止めることはなかった。
「私、この王子様と北のお国で運命的な出会いを致しましたのっ! でも、私とこの方は敵同士。叶わぬ恋とずっと心の奥底に思いを秘めておりましたのですけれど、やはり、私、この方が忘れられなくて。でもね、私のその恋心は決して無駄ではありませんでした」
うっとりとした、まるで、本当に恋をしているかのような陶酔の眼差し。そこに、ご丁寧に涙まで浮かべて、花嫁はさらに言いつのる。
「この方も、同様に私を想っていて下さったのですわ。私がガイナス将軍に連れられて、帝国に帰ると聞いて、この方はっ……。この方は……」
その先の言葉を、薄々予想して、リュートの顔面が、一瞬で、蒼白に変わる。
「この方も、『私と離れたくない。どうせ叶わぬ恋なら、せめて私の奴隷になりたい』と、植民地のエルダーまで来て下さったのですわっ!! しかも、たった一人で! 単騎で、私という姫の元にっ!! 何て勇敢なんでしょうっ!」
――案の、上、だった。
あの、エルダーでのやりとりを。あの、取引を。
「ち、ちちち違うっ! ぼ、僕は王太子であるヨシュアを庇うためにっ……んっ、んんんっ!!」
再び、黙れ、とばかりに塞がれる唇。
そして、姫は、その愛を体現するかのように、くちくちと音を立てて、王子の口を吸い取って見せた。居合わせた来賓達の頬が、かえって赤くなる程の熱烈ぶりで、激しく、有無を言わせぬように。
「もうっ。照れちゃって、あなた。そんな風に言わなくったっていいじゃないの。もう、周知の事実なんですし。ねえ、貴方も見ていらっしゃったでしょ? ガイナス将軍」
唇を離して、再び妖艶に笑む花嫁の目が、隅で控えていた黒装束の男に向いた。その視線を受けた当の本人は、突然の指名に驚きを隠せない様子だったが、すぐに、何かに思い当たったように、ぽん、とその手を打つ。
「ああ、そう言えば。そこの金髪兄ちゃん、エルダー城に飛び込んで来るなり、姫さんにキスしてたわ」
――ざわり。……ざわざわざわっ……。
告げられた衝撃の事実に、場が再びどよめきを見せる。
だが、そのエルダー城でキスを仕掛けた本人はと言うと、ざわめきどころか、もうぐうの音も出せないほどに、驚愕をしていて。回らぬ口で、何とか弁明せんと試みるも。
「ち、違うっ! あ、あれは、仕返しでっ……」
「仕返し? ああ、そうね。私たち、聖地にて初めて口づけしあった仲ですものね」
すべて、女の笑みの前に都合良く解釈されていて。
それに加え。
「聖地でキスって、そりゃあ、神が認めたってことかい。ああ、エルダーでも姫さん、この男のキスに応えていたっけ。ほうほう、だから、あんなにあっさりと奴隷になってみせたんだな、この金髪兄ちゃんは」
訳が分かっているのか、いないのか、ガイナス将軍の援護まであって。
――もう、……最悪。
だが、そんな文字通り真っ白になった花婿に一切構わず、式場上座では、さらに花嫁の一人舞台が続いていた。
「ええ、それでね、恋人同士の私とこの方は、主人と奴隷という身分に偽って、この国に帰ってきましたの。でも、私は、神の啓示を受け、皇帝陛下に嫁がねばならぬ身。そして、この方は陛下の竜エルマの仇。どうにも結ばれぬ運命だったのでしょう。この方は哀れにもお兄様の奴隷として連れ去られて……、私は陛下に嫁ぐ覚悟を決めて……。でも、やっぱり、この場に来て、この王子様のお姿を拝見して、私、どうしてもお兄様に嫁ぐ事は、出来ないと思いましたの。何故なら、……それは、……神の前で嘘をつくことになりますもの」
その言葉に、またもざわめく場内。分けても、敬虔な元老院議長ヴァルバスは、嫌な予感を感じたのだろうか、その身に滝のような汗をかきながら、その詳細をおそるおそる尋ねる。
「ひ、姫様……。な、何ですか、その……。か、神に嘘をつくというのは……」
その問いを、待ってましたとばかりに、女のルビーの瞳が、ぎらり、と光る。だが、それはあくまでも悟られぬほどの、一瞬。すぐに、純真無垢な花嫁の仮面を被って、女はその詳細を、恥ずかしげに語り出した。
「え、ええ……。じ、実は、私、もう、こんな無垢な純白のドレス……、着られるような身分では、ありませんの」
「……な、何ですって……?」
「だって……、だって、私……」
呆然としていた花婿を、花嫁はまた、涙混じりにかき抱く。そして、驚愕の一言。
「だって、私、すでに、この方に処女を捧げているんですものっ!!」
………………………。
――ああ、もう。
真っ白だ。
そう遠く呟いて、灰になりかける花婿を尻目に、場内は、もう狂乱と言っていい状態だった。
特に、この結婚を推し進めてきた元老院議員は、口々に、……神への冒涜だ! あの王子、姫を汚すなど、言語道断、火刑だ、火刑! いますぐあの男、火にかけろ! などと叫んでいる。
これには、焼き鳥にされては堪らないと、リュートは灰として消えかけていた頭を、何とか立て直して反論を試みる。
「ちょ、ちょっと、待てよ! だ、誰が、お前のしょ、しょ、しょ、しょしょしょ……をっ!! そ、そんな事実無根な……」
だが、この純情無垢な花婿が、この血の化粧を纏った百戦錬磨の花嫁に敵う訳がない。かえって、恐ろしい程の妖艶な笑みを、また突きつけられるだけだ。
「ああら? 何を仰っているの、あなた。ねえ、忘れたわけじゃありませんでしょ? あの、素敵な夜を」
「す、素敵な、夜?」
「ほら、思い出して下さいな。あなたが私の奴隷になってから、この国に帰ってくる途中の中継島で、あなた、私の部屋に来たじゃありませんか」
……確かに、行った。
だが、それは、この女が飛竜の事で話がある、と言ったから、わざわざ牢から連れ出されただけであって、決して自主的に夜ばいをしにいった訳ではない。だが、そんな事情、居合わせた者に、……分かるわけがないのだ。
「あ、あれはっ……! た、ただ、話をしただけでっ! 何もっ……」
「何も、ですって? よくもまあ、そんな事が」
また、ぎらり、と花嫁の瞳が光る。それは、あたかも、獲物を狩る、狩人の視線のように、鋭く、冷徹に。
「じゃあ、証拠を言ってさしあげましょうか? 私が、あなたに抱かれたという証拠」
……そんな証拠はない。だって、抱いていないんだから。こんな女と、……した覚えはないのだから。
そう、リュートが高をくくるも、……甘かった。
花嫁は、にやり、と笑うと、居合わせた来賓達に届くような大きな声で、一言、指摘する。
「だって、私、知っているんですのよ。あなたのその御胸に、飛竜の爪痕があるってこと」
うふふ。
そう笑って、女が示したのは、常は服に隠されているはずの、リュートの胸板だった。
そう……、丁度、あの中継島でひんむかれて、舐められた、あの傷跡のある……。
「な、何ですとっ? そ、それは真のことでございますかなっ!? そ、そ、それが、事実だとすると、ひ、姫様は、裸のその男の胸に抱かれた、ということに……」
これまた、都合良く元老院議長が、誤解してくれる。
それに、満足したように、花嫁の演技は止まらなかった。
「ええ。情熱的な夜でしたわ。この方の逞しい御胸に抱かれて。エリーは至福の思いでした。……お疑いになるというなら、聞いてみては如何かしら? この旦那様の御胸に、そんな傷が本当にあるのか。その傷を付けた方が、この場にいらっしゃいますもの。ねえ、お兄様?」
そう言って、またうっとりとした演技を惜しげもなくみせる女が、自信満々に振り向いたのは――。
今まで、幕内で、剣を抜いていた、自分の異母兄だった。
その指摘に、兄である皇帝は、今まで抜いていた剣を、素知らぬ振りでしまって、ふふっと小さく息を漏らすと、幕内から、低い嘲笑混じりの声で答えた。
「……そうであったな。確かに、そうだ。その男の胸には、我が付けた飛竜の爪痕がある。忘れもせぬわ。あのカルツェ城の戦いをな。そうか、妹よ。お前、その男の胸に抱かれたか」
これまた、皇帝からも、最強の援護射撃。
ここまで来ると、流石のリュートも――。
「ちちちちちちち違うっっ! ち、違うんだっ! 確かに、確かに、僕の胸には傷があるけどっ! そ、それと、これとは、何にもっ! た、ただ、この女が、そ、それを舐めただけっ……」
見事に、墓穴を掘る。
今、自分が何を言ったか、気づいた時には、既に遅し。居合わせた議員、そして来賓には、リュートの言わんとしていることなど伝わるわけがない。伝わったのは、ただ、その中の一つ、『舐めた』という卑猥さを帯びた単語だけである。
「き、聞きました? い、今、た、確かに、舐めた、とか何とか……!!」
「あ、あの男、姫様に、じ、自分の身を舐めさせただって? な、なんという鬼畜! 我らの神聖なる花嫁、エリーヤ姫に、そんな破廉恥な真似をっ!!」
「よ、よもや、傷だけでなく、言えぬようなところまでもっ? ああ、なんと罪深い!!」
――ああ。もう。誰か。
誰か、もう、うん。神様でも、何でもいいから。
「いいんですのよ、議員の方々。エリーは女になれて、幸せでしたもの。まして、こんな美形な王子様に抱かれて。流石、聖地にて愛を誓い合った方ですわ。もう、そりゃあ、この方との夜は、すごかったんですのよ。ねえ、リュート王子。……私、やっぱり、あなたでないと駄目なの。だから、この皆様方の前で、きちんと結婚した事を、お見せしましょう?」
……助けて。
だが、そんなリュートの嘆願もむなしく、神すらも、助けには来なかった。ただ、神の道具と言われる焔が、めらめらと、夫婦の背後に燃え立ち、そして、ただ、粛々と、花嫁からもたらされる結婚証書を受け入れるのみ。
衆人の前で、証書が、火にくべられる。そして、一瞬で、それは炎に舐め尽くされ……。跡形もなく、この世から消え去っていた。その証書に書かれた婚姻を何よりも、神が、認めた証として。
誰にも侵されぬ、神聖なる、結婚の成就である。
――ま、負けた。
その、炎に消えゆく紙を呆然と見つめながら、リュートは小さく声を漏らした。
……この、僕が。数々の敵を、その計略で打ちのめしてきたこの、僕が。
完全に、この女の前に、敗北した。
何しろ、結婚という、永久の牢獄に、囚われてしまった訳だから。
この、忌々しい、炎の様な女の腕の中に。
だが、そう自分の行く末に思い馳せるリュートの思考は、すぐに遮られる。
目の前に、圧倒的なルビーの輝きが迫っていて。それに、抗う暇もなく。
またも、女の唇が覆い被さっていた。
もう、ここまで来ると逆らう気力もない。
ただただに、女の舌に任せて、快か不快か分からなくなってしまったその行為に、身を委ねるのみだ。
そして、その愛の交歓に見える光景を、まざまざと見せつけられるにつけ、自ずと来賓達の口から溜息が漏れる。
なにしろ、かたや、大輪の花を思わせる美貌の姫君。そして、かたや、遠き国からやって来た哀れで儚げな囚われの王子。これが、絵にならぬはずがない。
「いやぁ、二人とも、お人形さんのようですな。実に、美しいご夫婦で」
「姫君も、神の前で真実を告白するなんて、何て敬虔な方なんでしょう。なかなか、あのようなこと、言えるものではありませんわ」
「神も酷い事をなされますな。皇帝陛下と姫との婚姻命令を下しておきながら、聖地にて、あの姫と王子の愛をお認めになるのですから。いやいや、神とて、あの似合いの二人には、その頑なな御心を溶かされた、というところですかな。いやぁ、実に、お熱いことで。見ているこちらが、恥ずかしい」
実に、素晴らしい、解釈までしてくれる。
おそらく、このいつまで経っても口を離してくれない花嫁は、その内心で、何て素晴らしい来賓方かしら、とほくそ笑んでいることだろう。そんな風に思い馳せるリュートの耳に、突然、場を切り裂くような怒号が突き刺さった。
「――み、認めませんっ! 認めませんぞっ!!」
無論、こんな異論を唱える急先鋒は、ただ一人。――元老院議長ヴァルバスである。
「認めないっ! 聖地でいくら愛を交わしたとて、神託を得たわけではないでしょうっ! こ、これは神への冒涜ですぞっ! その男との結婚は無効ですっ!」
だが、そんな汗でへばりついた白髪頭の抗議程度に、狼狽える花嫁ではない。花婿の口から、勢いよくちゅぽっ、とその唇を離すと、また無垢な笑みで答えてみせる。
「あら? 今、さっき、神が証書を受け入れてくれたではないですか? 神が認めぬ結婚なら、紙が焼け残るはずでしょう? もう、残りかす一つありませんわ。それは、つまり、私たちの愛を神が受け入れてくれた証拠。神が私に王子様と添い遂げなさいと言っているのです。もう、……引き離せませんわよ。私と、この方、死ぬまで夫婦ですの」
「……なっ! ひ、姫! 何を仰る! 貴女の成すべき仕事は、陛下との子を産む事です! それを成さずして、他の男に嫁ぐなど……」
「――よい」
言いつのる議長の言葉が、突然、男の声に遮られていた。
議長という身分の男を、一言で黙らさせることの出来る者は、この場に、ただ一人。
「へ、陛下……」
見遣れば、上座中心にかけられた幕が、中からふわり、と膨らんでいた。そして、その半分透けて見える仮面の奥から、侮蔑の声音が返ってくる。
「よい、と言っておるのだ、ヴァルバス。もとより、我とてこのような狂った婚姻、破ってやりたかったのだ。諦めよ」
「あ、諦めよ、とは、陛下! お、お世継ぎは一体どうされるおつもりですか! 姫との奇跡の子を、神自身がご所望されたのですよ? それを……」
「黙れ。そんなおぞましい子を望んでおるのは、お前とその周りに蔓延る議員共だけであろうが。そんなに帝国が牛耳りたいか。ええ? 我のような帝王ではなく、お前らの言うことをはいはいと聞く、神の代理人が欲しい。ただそれだけであろうが」
流石に、この言葉には、すぐに議長も反論出来ぬらしい。慌てて、取り繕うように話題を変えようとするが、皇帝は、好機だとでも言うように、その口を止める事はなかった。
「世継ぎが欲しいというなら、丁度良い。属国の王らがおるこの場にて、この皇帝直々に教えてやろう。……世継ぎなら、とうに出来ておるわ。来い、サルディナ!」
その命令に答えるようにして、一人の女が式場に姿を現す。騎士ツァイアに守られるようにして、上座を歩んでくるのは、勿論、あの地味な赤毛の侍女である。
「列国各位! この喜ばしい日に、さらに吉報である! 心して聞け! これは、我の侍女にして、我の寵姫サルディナ。我の愛に応えて、我の子を初めて宿した女だ。今、この女の腹には、間違いなく我の子がおる」
その突然の報告に、またもざわめく場内。中でも、サルディナの事を疎んでいる元老院達は、堪らずに声を荒げていた。
「み、認めませんっ! 認めませんぞっ! そ、そんな身分の女の子など、世継ぎとはっ! ましてや、ましてや……その女はっ!!」
言い淀む議長のその言葉の先を予期したかのように、サルディナが、唇を噛みしめて、目を伏せる。まるで、その先の言葉を、何よりも、疎んじるように。
だが、そんな彼女の仕草とは裏腹に、議長はあっさりとサルディナを忌まわしい単語で断じていた。
「――その女は魔女っ! かつては神を信じぬ無神論の女として、火刑に処された女ではないですかっ!!」
……魔女? 火刑?
突然飛び出した単語に、今まで呆然としていたリュートの頭が、まるで水を被せられたかのように、一瞬で冷えた。それと同時に、脳裏に浮かぶのは、いつか見たサルディナの足の火傷跡。
……まさか、あの痛々しい傷跡が。
炎に、一度焼かれた時の傷だったとは。
だが、そんなリュートの視線にすら、サルディナは応えることはなかった。静かに目を伏せたままに、自分を寵愛する帝王の言葉を待つ。
「何を言うか、議長。確かに、この女はかつて火刑を受けた女だ。だがあの時、改心し、我に永遠に仕えるという誓いをしたではないか。今は、神の火という神聖な道具で焼き清められた聖女だ。その女が孕む子は、無論、神からの贈り物に相違ないだろう」
この言葉には、議長も即座に返す言葉が見つからないらしい。
その火刑云々の詳細は、分からぬものの、サルディナの顔、そして、皇帝の声に、今、些かのためらいもないことは、リュートの目にも、明白だった。全て、覚悟を決めた人間の顔と、声。その声をまた揺るがせぬままに、皇帝は、動揺と、喜びの声の入り交じった来賓達に、諭すように語りかけた。
「我の婚姻は神によって破られたが――、神はその代わりに、この女の腹に、神の子を遣わされたのだ。この女が産む子こそが、次の皇帝だ。居合わせた列国諸王ら! 貴殿らが、証人である! この後、もし、この女の産む子に何かあれば、それは神の御意志に逆らう事だと心得よ!」
この言葉が、何を意味するものなのか。
花嫁に押し倒されたその先で、リュートはよく理解していた。堕胎薬入りの茶を託された彼だから分かる、その意味。
それは、つまり、今後この侍女の腹の子を脅かすことがあれば、全て元老院の仕業だと思え、と列国の前で告げた、という事である。
……敵ながら、なかなか、素晴らしい牽制をしてみせる。この場を、逆手にとって、サルディナを守るとは。
改めて、リュートは皇帝の機知を、そう賞賛せざるをえない。
だが、その当の自分の身は、というと――。
「うふふふっ! サルディナっ! よくやったわね! お兄様の子を宿して見せるなんて、なんていう大手柄かしらっ! 私、叔母として、甥か姪の誕生を楽しみにしておりますわっ! ねえ、あなた?」
この、圧倒的な花嫁の前に抵抗すらできないという、体たらく。
……ああ、もう。何なんだ。
どうして、僕は、いつもいつもこの女に。
この、炎のような女の前に、いつも。こうして。
考えてみれば、おかしなことだった。
この結婚式という場にリュートを引きずり出した、この女の態度からして。
……ああ、だから、あの時、将軍まで、結婚式に来てね、と言っていたんだな。将軍の口からも、援護を貰うために。
それにどうして、気づけなかったんだ。この、自分は。議長の堕胎薬作戦はすぐ感づいた癖して。
どうして、この女の企みだけには。
――本当に、訳が分からない。この、赤い、炎の様な女は。
「さあっ! 行きましょう、あなた。新居はもう用意してありますわっ! 今晩もエリーを可愛がってくださいましねっ!」
可愛がるというよりも。
どちらかというと……。
そこまで、自分の運命に思い馳せた所で、リュートの体は、勢いよく花嫁に引きずられて、駆けだしていた。
上座を降りて、来賓達の祝福を受け、将軍と皇帝からの高らかな笑いを受け、栄光と情熱の紅の敷布の上を。
一点だけ、誓いの血で赤く汚された白い衣装を纏った花婿と、花嫁が。
手に手を取って。
この陰鬱な式典会場から、光に満ちた外の世界へと。
後に残されるは、ただ、ぎりぎりと歯噛みするしか出来ぬ、元老院議員のみ。
だが、その中で一際幅を利かせている白髪頭だけは、簡単に諦めはしなかった。すぐに控えの兵士に向けて、怒りの命令を下す。
「殺せ。あの王子、殺して、今すぐ姫様を連れ戻して来い!! 絶対に、生きてこの宮殿から出すな!!」
「――さーあっ! 走って、走って! 全速前進ーーーっ!!」
あの狂乱の式場から、外に出るなり、リュートは、そう気勢を上げながら、ドレスの裾をまくり上げる花嫁と共に、自主的に逃亡を図っていた。何故なら、彼らの後ろには既に。
「待てぃっ! 姫様を返せぇっ! 議長命令だぁっ!!」
そう怒声を飛ばしながら、得物を構えて迫り来る兵士の姿。
「何なんだよっ、この状況っ! 何でこんな事にっ!!」
「何でって決まってるでしょうっ! あんたを殺せば、私は未亡人になって、再婚が出来るんだから。それで、またお兄様と娶せようっていう元老院議員共の腹よっ! 殺されるのが嫌なら、逃げる、逃げるっ!!」
「馬鹿野郎! 誰のせいだ、誰のっ!!」
一体、こんな風に命を狙われたのは何度目になるだろうか。つくづく自分には長生きが出来ない運命が降りかかってくると、人生に絶望しながら走るリュートの前に、今度は新たな兵士が立ちはだかっていた。
「姫様、ここは通せませんっ! どうぞ、御静まりの程をっ!」
「お黙りっ! そこを通しなさいっ!!」
その言葉と共に、リュートの隣で、純白のベールがふわり、と舞う。そして、その中から大輪の花を思わせる赤毛が靡くと同時に。
「ぐふぅっ!!」
ドレスの下から現れた白い足が、華麗に兵士の体を蹴倒していた。
「あーははははっ! 私の前に立ちはだかろうなんて、百年早いのよっ! 雑魚はさっさと、ひれ伏してなさいっ!!」
そう、驕慢に言い切ると、さらに、花嫁は兵士の得物を奪うという暴挙にも及んで。
「さーあっ! ぶちのめされたいのは、どいつからっ?!」
迫り来る兵士を、あっさりとそのサーベルで、斬り倒していた。おそらく、致命傷にはなっていないだろうが、この、ためらいの無さときたら、もう、リュートの理解の範疇を越えに越えている。
さらに、花嫁はその行動に留まるのみならず、新たに奪ったサーベルを、ぽい、とリュートに投げつけてきて、……ほらほら、あんたもさっさと戦いなさい、という始末。それだけなら、まだしも。
「あー、もう。このドレスの裾、鬱陶しいったらないわ」
そう呟くと同時に、惜しげもなく、ドレスの裾をびりびりとサーベルで切り裂いて見せたのだ。途端に、リュートの眼前には、白く艶めかしい素足が、堂々とその姿を現し……。無論、これに、黙っていられるリュートではない。
「こ、この破廉恥女! 足しまえ、足! 恥を知れと何度言ったら、分かるんだっ!」
そう、渾身の説教をもって窘めるも。
「は? 馬鹿じゃないの? いいから、新手が来たわよっ! 進む、進むっ!! ……ていっ!!」
兵士と共に、あっさりとその提案も切り捨てられていた。途端に、無垢な純白だったドレスが、兵士の返り血を浴びて、赤く染め上がる。
そのぞくりとするような妖艶な魅力が、また、いやに、男心を舐め付けてきて、……もう、流石にこの花婿も、覚悟を決めるしかなかった。
「だ、大体だな、ぼ、僕はお前とけ、けけけけけけ結婚なんて嫌だからな! お、おおおおおお前みたいな破廉恥な女……、だ、だだだだ大嫌いでっ! た、ただ、今はっ……殺されるのがごめんだから、一緒に戦ってやるだけだぞっ!!」
これまた、舞うような、剣捌き。
流石、英雄と謳われた男の剣の舞に、敵う兵士など、そうそういるものではない。駆け抜ける花嫁の剣と共に、次々と襲い来る兵士達を藻屑へと変えていた。
「あはははっ! 素敵よ、あなたっ! さすが、この私の旦那様ねっ! このままこの先のバルコニーまで行くわよっ!」
「ば、バルコニーって、た、確か、いつも礼拝が行われている時に、民衆の前に、皇帝が姿を現すって言うあそこか? あ、あんな見通しのいい、しかも逃げ場のないところに逃げて、どうしようって言うんだ!」
「いいから、いいから! この嫁に全て、任せなさいって!」
そう言う内にも、また次々と追っ手は増えていた。この宮殿の全警備兵の威信にかけて、逃がすつもりはない、とばかりに、ガイナス将軍の命によって、宮殿内の通路が、次々と封鎖されて行く。残るは、ただ一つ。この花嫁の言うバルコニーへの道だけ。
何体かの兵士を切り捨てて、ようやく、新婚夫婦の前に、明るく光が差し込むバルコニーの入り口が近づいてくる。
「おい、ここ、五階だろ? しかも、バルコニーの先に、降りる為の階段なんて、無いんじゃないのか?」
「いいから、そのまま、まっすぐに! ぶち破るわよっ!! 初めての夫婦の共同作業と行こうじゃないのっ!」
「何が共同作業だ!! ……ったく! 仕方ない、なっ!!」
その言葉と共に、花婿と花嫁の剣が振り下ろされ、がしゃり、と音を立てて、華麗にバルコニー入り口の扉が、ぶち破られた。そして、そのまま、空が大きく広がっている外へ、駆けだして行くも――。
「――そこまでだぜ、金髪兄ちゃん。姫さんを返しな」
後ろから、響く、低く粗野な声音。
ここまで逃げてきた新婚夫婦にとどめを刺すように、ついに、後ろから、黒装束の男が現れていた。
「ったく、俺様、こんな鼠を追いつめるようなマネ、ホントは嫌いなんだけどよぉ。何てったって、暗黒騎士ガイナスの真骨頂といやあ、全てを焼き尽くす焦土作戦だからなぁ。こんなみみっちい戦い、したくねえんだ。だから、二人ともおとなしくしてくれや」
いつもの調子で、耳垢をふっと飛ばして、後ろからサーベルを構えて迫るその仕草に、リュートの武人としての勘が、びりびりと体を震わせていた。
……この男、手練れ中の、手練れだ。正直、勝てるか……、自信が、ない。
だが、そんな花婿の横で、血染めの花嫁の笑みは失われることはなかった。ただ、悠々として、また無垢な処女の笑みを浮かべると。
「ガイナス。新婚夫婦を引き裂くなんて、野暮な真似、しないでちょうだい。私、この方に、すべて身を捧げる覚悟、できていますの」
そう、傲慢に言い捨てて。
剣を構え直していた花婿の手を取ると、バルコニーの柵の上に登り、そして、そのまま花婿の首元へと抱きつくと、一言、命令する。
「――飛んで、あなたっ!!」
……飛べ? 飛べって?
そう花婿が思う暇もなく、あっさりと夫婦二人の体は抱き合ったままに、バルコニーの外の空へと、舞っていた。
待つのは、勿論、バルコニーの下の地面への、墜落。
それだけは、何としてでも避けたい、と、花婿は、咄嗟に、その背の翼を羽ばたかせる。そして。
「お、お、重いぃぃ!!」
花嫁を両手で抱き上げながら、何とか、空中で踏ん張って見せた。
だが、所詮、一人の体しか支えられぬ有翼人の翼。いつまでも、花婿の努力が続くわけもなく、見る間に二人の体は、地面へと、迫る。
「も、もう限界だ! 僕は一人で逃げる! お前はさっさと降りろ! って言うか、落とす!!」
「はあ? 花嫁突き落とす花婿がどこにいるのよ! いいから、もう少し踏ん張りなさいよ!」
「馬鹿! 羽がもげるだろうが! さっさと落ちろ、破廉恥女め!」
と、花婿があっさりと、花嫁を投げ捨てんとした時だった。
突然、バルコニーの丁度正面にある城壁の陰から、きらりと光るものが、飛び出してきた。
日射しを受けて、白銀に光るそれは、そのまま、一直線に、こちらの方へと空を翔けてきて――。
――キュイィィィッ!!
懐かしい、甲高い声で、一つ、嘶いてみせた。
そう、忘れもしない、あの可愛らしい、若竜の声で――。
その、変わらぬ美しい白銀の鱗と、金の瞳の乙女の姿に、思わず、リュートが歓喜の声を上げる。
「ぶ、ブリュンヒルデ!」
予期しなかったこの愛竜との再会。
それに浸る間もなく、リュートらの体は、ふわり、と彼女の背に掬われて、そして、そのまま上空へと駆け上がった。そして。
「しまった!!」
そう暗黒将軍が歯噛みした時には、既に遅く。
瞬く間に、白銀の竜は白い新婚夫婦を空の彼方へと連れ去っていった。
「な、な、何だよ、もう。色々ありすぎて、頭がおかしくなりそうだ。でも、一体、どうして、ブリュンヒルデが……」
遠く皇宮を後ろに追いやりながら、花嫁と愛竜に二人乗りになったままに、リュートがそう溜息を漏らす。すると、その斜め後方から、もう一体の飛竜の羽音が近づいてきた。すわ、追っ手か――と、警戒を強めて、その方向を見遣れば、そこには。
「おほほほほ。白羽さん。いいえ、もう姫様の旦那様ですので、リュート様とお呼びした方がよろしいかしらね」
上品に微笑む短髪の麗人の姿。勿論、この花嫁の腹心であるキリカである。
「その竜、貴方が皇帝陛下の奴隷として連れ去られてから、ずっと、紅玉騎士団でお預かりしておりましたのよ。うふふ、よく調教出来ていて、いい仔ですわね。さっきも、よく私の命令を聞いてくれて、あなた方を無事救助してくれましたでしょう?」
その言葉を信ずるなら、先の逃亡劇、すべて、最初から仕組まれていた、ということである。あの夫婦の共同作業も、バルコニーからの脱出も、全て、全て。この麗人の主人である……今、リュートの腕の中にいる花嫁に、である。
「じゃあ、姫様、リュート様。私、このまま追っ手を撒いておきますから、また、後ほど。先に、新居にて、いちゃいちゃしててくださいな」
「……い、いちゃいちゃって! お、おい!!」
そうリュートが引き留める内に、キリカの竜首は既に返って、反対側の皇宮へと向かっていた。
「な、何なんだよ……。お、おい、し、新居って……」
去りゆくキリカの姿を見送って、改めて腕の中の花嫁に尋ねれば、先の式での清楚さから一変した笑みが返ってきた。
「うふふ、とりあえず、この近くにあるうちの館まで行きましょう。そこは、治外法権だから、元老院もうかつには手が出せないわ。さっきみたいに追っかけられて、殺されたくはないでしょ?」
「ば、馬鹿っ! だ、誰のせいで、こんな事になったと思ってるんだ! ああ、もう、僕の計画が台無しだよ。大体、何だよ。その、け、け、結婚って!」
「あら? 私が、お兄様と、はいはいと結婚するタマだと思って? でも、だからって、お兄様をあっさり殺しちゃおうなんて、浅慮な女でもないのよ。そんなことしたら、いくら私だってただでは済まないもの。それをせずに、私がお兄様との結婚から逃れるにはどうしたらいいか。答えは簡単。……人妻になっちゃえばよかったのよ」
あっさりと、言ってくる。
この国で結婚する、ということが、何を意味するか、分かっていないはずはないのに。
「ど、どうするんだよっ! 大体、なんで僕を選んだんだっ! 相手は他に居ただろうがっ! り、離婚も出来ないのに、どうして、僕と……」
その問いに、さらに腕の中の花嫁は、妖艶に花婿に笑いかけた。そして、花婿が、今、竜の手綱を取って、両手が使えぬのをいいことに、大胆に、また首に手を回してくる。
「あら? だって、あなたは、お母様を逃がした有翼人の息子だもの。ぜひとも、お母様にあなたを会わせたいのよ。それにね」
擦りつけるように、花嫁と花婿の鼻先が触れあう。そして、花嫁からもたらされる恐ろしい、一言。
「離婚したかったら、簡単よ。私が、あなたをこの手で殺しちゃえばいいんだから」
「……なっ!!」
「うふふふ。あなたが死んじゃえば、私、再婚できるのよ。だから、心おきなく私の手にかかって死んでね。あ・な・た」
あまりの台詞に、もう絶句するしかない花婿に、さらにとどめを刺さんと、濡れた花嫁の唇が迫る。
「言ったでしょう? あなたは、私の奴隷。その体も、心も、命も。全部、私のものなんだから。覚悟しなさいよ」
もう、これ以上ない、殺し文句。そして、熱い、熱い、口づけ。
その火の様な女にとろかされるその脳裏で、リュートは幼い頃に見た憧れの光景を思い起こさせていた。
……いつかの、故郷クレスタで挙げられた、純朴な青年と清楚な花嫁の結婚式。
皆に祝福され、笑顔ではにかみながら、栄光の花道を歩んで行く新婚夫婦に、いつか自分も、とその姿を重ね。
生きることを切望したあのクレスタで、いつか、あんな風に、と思ったのに。
――思った、のに。
目の前にある光景に、再び、絶句する。
祝福どころか、後ろからは、殺そうとする追っ手が、かかり。
花嫁は笑顔ではにかむどころか、妖艶に勝ち誇った笑みを浮かべる、憎い、憎い敵で。
その姿は、清楚どころか。
足は剥き出し。ドレスはびりびり。そして、至る所には、返り血の跡。
そして、それは、ご多分に漏れず、自分もで。
変わらずに、白羽が、血で汚れていて。
……ああ、こんなはずじゃ、なかった。
僕の人生は、こんなはずじゃ、……なかった。
そう呟いてみるも、打開策は、果てしなく見えない。見えるのは、ただ――。
「うふふふふ。白竜に乗った王子様に、望まぬ結婚式から攫われる、なんて、女の夢だわ」
などど、ほざく、この自分の妻だけ。
その妻は、また、うなだれる花婿をいいことに、唇に食らい付いてきて。
――ああ。この女。本当に、僕を喰うつもりなんだな。
と、その思考の隅で、思う。……だが。
「……あれ?」
ちゅぽん、と、音を立てて、妻のキスから、ようやく逃れたその先で、リュートは、一つの事実に思い当たった。
「……何か、忘れている気が、する」
「陛下。すんません、逃げられましたわぁ」
花嫁の逃亡劇に、未だ混乱を見せる式場に、黒装束の男が戻った。そして、顛末を幕の内にいる皇帝に報告しつつも、剛胆に笑ってみせる。
「いやいや、ま、陛下としては、逃がしてやったほうが良かった、ってとこですかねえ。あの兄ちゃん、命拾いしやがったな」
「構わぬ、ガイナス。あれなんぞ、殺そうと思えば、いくらでも殺せる。我とて、妹が人妻になってくれて、一安心だ。あの蟷螂の娘を貰ってくれる男なんぞ、この世にはおらんと思うておったからな。精々、あの白め、骨の髄までしゃぶり尽くされるがいいさ」
「おお、怖いお兄様だねえ。に、してもよ。俺様としては、少々不足だな。知りたかった有翼の国の情報も知れなかったしよお」
慌てる元老院議員を横目に見ながら、そう残念げに嘆息する将軍に、今度は、幕内から魅惑的な提案がもたらされる。
「案ずるな、ガイナス。有翼人なら、もう一人、いるだろう」
その指摘に、思い当たったように、ガイナスがその視線を滑らせた、その先には――。
道化のように奇妙な化粧を施した、銀髪の有翼人の姿。
一人この場に置いてけぼりを食らった不安からだろう。その目は恐怖に怯え、視線も定まっていない。ただ呟くは、自分を置いて逃げた、従兄弟への呪詛の言葉のみ。
「な、何だよ。あ、あの、田舎者……。ぼ、僕も連れて行ってくれるって言ったじゃないか……。どうして、どうしてだよ……」
その追いつめられた狐のような表情が、余計に暗黒将軍の加虐心を煽ったらしい。一つ、ぺろり、と舌なめずりをして、将軍は皇帝に頷いていた。
「へへ。まあ、あっちで我慢しますかね。骨はなさそうだが、あっちなら、簡単に喋ってくれそうだ」
「……好きにしろ、ガイナス。我は、サルディナと部屋に帰る。あの女と腹の子に何かあれば、遠慮無く元老院議員を処刑しろ。皇帝命令だ。良いな」
「あいあい。陛下は、いいねえ。ためらいがなくって。俺ぁ、あんた、好きだぜ。ま、あの姫さんもな。……さてさて」
そう呟いて、上座を降りる暗黒騎士の視線に、ようやく気づいたのであろう。式場の隅で震えていた銀狐の顔に、さらなる恐怖の色が宿る。
「……や、止めてくれ。止めてくれよ。僕は、き、北の大公エイブリーだぞ。ぼ、僕は……」
何か、呟いているが、クラース語なので、将軍には、その内容が分からない。尤も、分かったとして、そんな言葉が、この男の歩みを止める何の助けにもならない訳だが。
「さて、銀髪兄ちゃん。楽しい、拷問の時間だぜ」
どうやら、これは早口で、かなり崩れたリンダール語だった為、目の前の銀狐には、意味が通じなかったらしい。だが、それも、この暗黒将軍には、何ら関係のないこと。勿論、さらに響く、哀れな銀狐の悲鳴さえも。
「……助けて。……助けてくれよ。助けてくれよ、リュートーーーっ!!」
――ああ、なんか、小鳥ちゃんが鳴いてらあ。
その程度にしか、聞こえないのだ。聞きたいのは、悲鳴ではない。
この暗黒の鎧を纏った猛獣が何よりも欲するもの。それは――。
「さて、たっぷり、鳥の国の事、喋ってくれよ。次の春の、この俺様がする楽しい戦の為にな」