第八十三話:信仰
「お、踊れって、それ何だよっ! 馬鹿にすんな!」
通称、『鳥籠』と呼ばれる、暗い、夜の奴隷部屋に、甲高い男の声が吐き出された。
流石に、鳥籠、というだけあって、その名に違わず狭い部屋である。加えて、窓に設えられた鉄格子に、堅牢な鍵の付いた扉。
まさに、美しい観賞用の鳥を、ただ、飼い殺しにしておくためだけに用意された、陰鬱な部屋だ。
それだけでも憂鬱な気分になるというのに、さらに嫌なことに、この一人部屋を、男二人で使わなければならないのだ。しかも、犬猿の仲である従兄弟二人で、である。
その住居への不満も相まって、銀狐エイブリーの堪忍袋の緒はもう限界だった。だのに、この金髪の男は、ねらい澄ましたかのように、エイブリーの神経を逆撫ですることを次々と吐き出してくるのだから、堪らない。
今日も、今日とて、あり得ない提案である。
よもや、『皇帝の結婚式で、お前、踊れ』、とは。
「な、何で僕がそんな事しなきゃなんないんだよっ! 僕は、北の大公エイブリーだぞっ! どうして、皇帝の結婚祝いに、踊るなんて、旅芸人みたいなこと、しなきゃならないんだっ!」
「は? お前、いつぞやのパーティーで、踊りの下手くそな歌姫、僕にあてがって恥をかかせようとしただろう。あの歌姫といつも踊ってたからには、お前、踊り、そこそこ上手いんだろう? その腕を見込んで頼んでいるんじゃないか、エイブリー君」
その言葉に、嫌でもエイブリーの脳裏にかつての王都での宴が思い起こされる。
この田舎者に恥をかかせてやろうと目論んでいたのに、あっさりと、場を奪われた事は、今になっても、腑が煮えくりかえる程に悔しくてならない。
「大体さ、旅芸人っていうけど、僕らは、今、皇帝陛下の鑑賞用の奴隷、いわば、愛玩動物なんだぞ? 美しい声で鳴いて見せなきゃ、ご主人様にだって捨てられてしまうかもしれないぞ?」
「い、嫌だっ! だ、大体、僕が踊って、お前が笛で演奏って、何だよ、それ! 不公平だろっ! お前も踊れよ、田舎者っ!」
「うるさいな。僕の笛は、姫君からのご所望なんだ。おまけのお前とは違うの。ありがたいと思えよ、結婚式に出席できるんだから」
正直、昼間の謁見での姫の発言は、リュートにとって、僥倖と言っても良かった。
結婚式の出席許可について、手詰まりを感じていた所に、あの提案。加えて、拷問のしばしの延長も許されるなど、まさに、鶴の一声に他ならなかった。
あの女のおかげで、助かった、とは、内心認めたくないものの、れっきとした事実である。
……作りたくない借りを、作ってしまったな。
あの女に、借りを作れば、良いことはないと、直感で分かっている。だが、今は、あの女の提案にすがって、結婚式に出るより他にない。
何よりも、気になる属国の様子を少しでも知ることの出来る、絶好の機会だからだ。そして、隙あらば、もっと……。
と、喚く銀狐を無視して、リュートがそう思案しながら、久々に、愛用の横笛を鳴らした時だった。
もう日も暮れた夜だというのに、突然、鳥籠部屋の扉が叩かれていた。そして、返事を待つことなく、一人の人物が入室をしてくる。
見覚えのある、恰幅の良い、リンダール人。――元老院議長ヴァルバス。忘れもしない、リュートを姫から奪い、皇帝に差し出した、白髪頭の初老の男だ。
「これは、これは、有翼の民の王子。なかなか、素晴らしい音色ですな」
議長という身分に相応しい上品な笑みを浮かべて、初老の男は笛を吹いていたリュートに、そう声をかけてきた。だが、その議長の来訪に、リュートは即座に、訝しさを覚える。
「議長殿。どうされました、貴方が、こんな夜に、どうして、こんな所に」
「いやいや、陛下の私室と皇帝の間には、我ら元老院議員すら入室出来ませんが、この奴隷部屋なら入室できますのでな。少々、探りに来たのですよ、陛下のご様子を」
「皇帝……陛下の様子を?」
「はい、それに、貴方にも、折り入ってお願いがありまして」
その男の言葉に、さらに怪訝な色を顔に漏らしながらも、リュートは、男を部屋の奥へと招き入れた。
「さて、王子殿。素晴らしい夜に、素晴らしい音色。実に、結構ですな。聞けば、何やら、結婚式で演奏なさるとか」
至って、紳士的な態度に、言葉使い。しかし、その奥底にある有翼人への差別意識に気づかぬリュートではない。この男、リュートが有翼の民の王子という手前、この態度を取ってきているが、おそらく、その内心では、有翼人を家畜以下だとしか見ていないのであろう。その証拠に、目の奥底が、嫌らしく、濁っている。
……これなら、皇帝の様に、堂々と侮蔑の目を向けてくる方がましだな、と思いつつも、リュートはお得意の子猫の笑みで、純真に答えて見せた。
「はい、議長殿。僕、この国に来て、戸惑うことばかりでしたけど、ようやく、お役に立てるようで、嬉しいです」
「……それは、何より。ですが、貴方はすでに、随分、陛下のお役に立たれておられますよ。私がお願いしたとおり、良き奴隷となっておられるようで」
「そうでしょうか? いつも、いつも、陛下の癇に障りまして、何万回と死刑宣告受けておりますが」
これには、流石の議長も堪らなかったらしい。ひとしきり、ははは、と笑うと、流石、陛下ですな、と嘆息をして見せた。
「さりとて――、王子殿。貴方が来られて、陛下がお変わりになられたのも、事実です。以前なら、ガイナス将軍とて、謁見を許されなかったでしょう。それに、貴方の治療のおかげで痛みが緩和されたのでしょうか、以前より、御政務に関しても積極的になされまして」
「そうなのですか? 僕は、以前の事を知りませんが、あの体で、今も政務を?」
「ええ。おおむねの実質的政務は、現在、我ら元老院の手に委ねられておりますが、それでも、重要な事項に関しましては、神の代理人たる陛下の決済が必要ですので、書類を通じて、ご意見を賜っております」
「神の……代理人、ですか。少々、異民族の僕には分かりかねますが――」
その言葉を耳ざとく拾ったのであろう。議長の目に、さらなる侮蔑の色が宿る。
まるで、神を信じない者など、人には非ず、といった、そんな、嫌らしい眼差し。そして、尚も、揺るぎない紳士の声音で、断ずるように言葉を紡ぎ出した。
「我らにとって、神は絶対なのですよ。我らにしてみれば、神を信じぬあなた方こそ、よくわからない」
……無論、リュートも、神を、信じていないわけではない。
有翼の国にも神々は居て、各地でそれぞれに、信仰を集めている。だが、これほどまでに、狂信的でなく、もっと、人間的で、瑞々しい神々達なのだ。太陽に宿り、風に宿り、すべての自然に宿っている。人々は、時期を見て彼らに供物を捧げ、像の前で祈りを捧げ、どうか幸せに、と願う。それが、有翼の国の神々達なのだ。
それが、この国では――。
「我らの神、唯一神ディムナは、この世界を統べるただ一人の神なのです。この世界を創造し、終末に顕現し、最後の審判を下す、唯一の存在。我らは、その神に選ばれし、唯一の民、リンダール人。神の乗り物、飛竜を賜り、この大陸を制す者。あなた方異民族とは、元来違う生き物なのです」
どうして、こうも淀みなく、言い切れるのか。しかも、先の侮蔑の目線からうって変わった、一点の濁りもない、その眼差しで。
……怖い。この思想が、怖い。
リュートが、この男の狂信に抱いたのは、何よりも、その一言だった。
おそらく、いくらリュートが言葉を費やしても、彼の信仰は揺るがないだろう。そう言えば、あの男達も、そうだった。
かつて、リュートが南部熱に罹った時に、敵軍に送りつけんと罹患させた騎士二人も。腕を切り落とされ、喉を潰されながら、尚も、その信仰を捨てなかった。
察するに、規格外なのは、糸目騎士ロンや、あの破廉恥姫の方なのだろう。おおむねのリンダール人は、おそらく、この議長のような敬虔なる信者達なのだ。それは、嫌と言うほど聞こえてくる、毎日三回の礼拝の声が、明確に語っている。
「議長殿。僕は、少々、興味があるのです。この国の宗教について、学び、出来れば、理解したい。貴方の言う皇帝陛下のご様子を、僕が提供する代わりに、どうか、教えて頂けませんか。あなた方の、歴史というやつを……」
……聞きたい。
この、狂信者の口から語られる歴史観が、どうしても聞きたい。
それこそが、今、祖国に害悪をもたらしている思想の根本なのであろうから――。
そのリュートの内心を量ったのか、議長は意味ありげな笑みをもらすと、また、一点も曇りのない眼差しで、彼に向けて語り出した。誇らしくも、哀しい、民族の戦いと迫害の歴史を。
「我らが唯一の神ディムナの言葉が記された聖典『ディムナの書』はこう語っています。『我らは弱き民。その背に翼無く、その腕に獣の力無く、その足に水に泳ぐ膜も無き、無力の民。その弱さ故に、誰よりも、神に愛される』と。それと共に、語られるのは、あの悪魔がやって来た運命の日のことです」
その言葉に、リュートは聞き覚えがあった。確か、捕虜だったロンに聞かされたことがある、大地が揺れて、海が押し寄せ、豊饒の地が割れたという大昔の言い伝え。
「知っています。それ故、あなた方は、僕らの国を聖地と見定め、今なお、遠征を行っているとか」
「その通り。その悪魔の日、我らの祖先民族はこの大陸と、あなた方が今住んでいる北の大陸に二分された。北の大陸には、かつては繁栄を誇ったリンダールの首都があったそうですが、正直、あなた方の大陸に残された我が同胞達が、如何なる運命を辿ったか、我らは知りません。そして、あなた方有翼の民が、あの半島に住み着いた経緯も。ですから、私が今から語る事柄は、全て、この大陸に残された、我らの祖先の話です。よろしいですね?」
その言葉に、構いません、とリュートは首肯する。
「……では。我らの国は、二分され、この大陸に残されたリンダール人の土地も、その多くが地震と共に海に沈みました。生き残った者達は、国を失った流浪の民となり、この大陸に、新しいリンダール人の国家を作らんと新天地を目指した。だが、そんな流浪の彼らを、体のいい奴隷として、一人残らず、捕らえた国家があった。貴方も、聞いたことがあるでしょう。この帝都の南にある大森林を主とする獣人の国家、エントラーダ。今は、我らの属国として、大森林のみを領土とする小国ですが、当時は北の砂漠までもを、その藩図とする大国家でした」
「獣人、ですか。僕はまだ、かの種族に会ったことがないのですが……。一体、如何なる民なのです?」
その問いに、少々忌々しげに、議長の眉根に皺が寄る。
「一言で言えば、野蛮な奴等です。腕っ節がやたら強く、好戦的なのをいいことに、我ら力無きリンダールの民を迫害し、全て卑しき奴隷民族として貶めた、最低の民族です。まったく、今でも、反抗を続けておるのが、さらに、忌々しいですが、まあ、それはさておきまして。それから、何百年と、我らは自分の国を持つことなく、奴隷身分として蔑まれてきたのですよ。獣人だけでなく、他の民族、海の民や、有角の民にまで、それは酷い迫害を受け続けていた。しかし……」
そこまで、暗い面持ちで語り続けてきた議長の顔に、おもむろに、希望の色とでも言うべき明るい笑みが浮かんだ。それは、まるで、うっとりと、恋でもしたかのような、陶酔ぶり。
「しかし、我ら選ばれし民は、決して、挫けることは無かったのです。この闇の時代とも言うべき迫害の時代は、神が下された試練であると。来るべき審判の日に備え、我らの信仰を問うべく、神が下した我らへの試問であると。選ばれし民であるが故の、受難であると」
これまた、リュートには理解出来ない、常軌を逸した思想。
しかし、この他民族の大陸の中で、どの民族よりも迫害を受け続けていたリンダールの民にとっては、それこそが、生きる希望だったに違いない。毎日、人としての生活すら与えられぬ中で、いつか、この受難を乗り越えた自分たちだけが救われ、迫害をしている民族は滅ぶべきなのだ、という思想は、酷く、耳障りが良く、教育すらまともにされてなかった奴隷の心を都合良く騙してくれていただろう。
毎日、毎日の、辛い労苦の中で、神の名を呼び、いつか、救われると希う。
そのいじましさを、否定することなど、誰にも出来なかったであろう。だが……。
「そして、我らは何百年もの苦難に耐えた。それ故、神は、我らこそを選民と認め、ついに、神の乗り物と、その代理人を遣わせたのです。それが、かの……」
「大帝、ハーン、ですか」
騎竜技術を編み出し、異母妹との近親婚を成し、奴隷だったリンダール人を集め、新国家を樹立させた、偉大なる帝王……。
「そうです。彼こそは、神の啓示を受けし、選ばれたリンダール人。彼により、神の生き物として、絶対に人に懐かなかった飛竜に乗ることが出来、一代にして、我らリンダール人は、この大陸の空の覇者になり得たのです。そして、神のみが許されるという神聖なる近親婚の末に産まれた偉大なる第二代皇帝ドラグナは、大帝が作り出した国を足がかりに、今まで我らを蹂躙してきた民族共を、その翼の元に、次々と屈服させていったのです。その大陸制覇事業は、約二百年経った先代ギゼル・ハーンの時代にようやく終結致しました」
「ギゼル・ハーン……。僕らの国へ、第一次侵攻を行った皇帝ですね?」
「はい、先代様も偉大でしたが、やはり、偉大というなら、初代大帝、そして、第二代皇帝でございましょう。なにしろ、今までリンダール人の中に受け継がれてきた選民の思想を、国家宗教へと押し上げ、偉大なる宗教国家リンダール帝国の基礎を作り上げたのですから」
問題は、そこだ。
今、何よりも、有翼の民の国を脅かしているのは、皇帝に問うた通り、宗教的な理由に他ならない。
この宗教こそを土台とする国だからこそ、行われる聖地回復という名の侵略。それを、止める為には――、知らねばならない。この、国の根幹を成す宗教というものを。
「少し、あなた方の信ずる教義について、補足を願いたいのですが、あなた方の言う約束の地とは、一体、如何なる存在で?」
この問いに、それを尋ねるリュートの意図を悟ったのであろう。議長はあからさまに彼に対して侮蔑の視線を投げかけて、嫌らしくも答える。
「約束の地とは、来るべき審判の日に神に愛され、救われた我らリンダールの民のみが辿り着くことのできる、豊饒の地。悪魔の日に北の地に閉ざされたる聖地イヴァル。そこで、我らは、死して尚、永遠の命を神より賜りて、楽園に生きることができるのです」
……楽園。……あれが。
その呆れの言葉と共に、リュートの脳裏に浮かんだのは、あの、陰気な地下の墓所だった。
そして、思い出されるのは、あの神の遺跡を人質に、エリーヤ姫を退けた一件だ。確かに、実に、あの作戦は有益だった。それほど敬虔でないロンでさえも、聖地が焼かれると知って、慌てふためいていたほどだったのだから。
……うん、これは、この男には言わない方がいい。
神の遺跡を焼こうとしたなんて言ったら、この男と、信者達はきっと黙っていないだろう。
遠い目を浮かべながら、そう判断して、リュートは何事も無かったかのように、その先を議長に尋ねる。
「しかし、議長殿。その聖地回復事業というのは、一体、何故先代の時代になって打ち出されたのです? そして一度僕らの国に破れたにもかかわらず、現皇帝の時代になって、今なお、あの聖地に拘るのか。その理由というのが、僕は知りたい」
「それは――」
またしても、侮蔑の笑み。おおよそ人間に向けられるようなものではない、そう、まるで、家畜を見下すような、蔑みの眼差し。
それを宿して、一言、議長は、断ずる。
「聞かぬほうが、よろしい。まだ、死にたくないのであれば、ね。奴隷殿」
……結局、肝心な所は、だんまりか。
その返答に些か不満を覚えながらも、リュートはその言葉の裏に隠された事実を、一人熟考する。
ここまで、ぺらぺらと誇らしげに語っておきながら、ここで黙る、ということは、その理由というのが如何に重要であるかの裏返しである。ただ単に、先代が敬虔な皇帝だったから、という理由なら、ここで黙りはしない。誇らしげにその敬虔ぶりを讃えるのが筋であろう。
それを、ここまで隠すとは――。
――何か、ある。
あの皇帝の突然の発病といい、不自然な異母妹との結婚といい。
この国は、本当に、何かあるのだ。
しかし……。
「さて、王子殿。我らの信ずるものと、我らの帝国の歴史を少々ご理解頂いたところで、……本題に入りましょう。率直にお聞きしますが、最近、陛下の身辺で、変わったことはございませんか? 特に、侍女サルディナのことで……」
思案するリュートを遮るように、議長は意外な問いを発していた。
「さ、サルディナのことですか? どうして彼女の事を僕に? 彼女はリンダール人の侍女でしょう? あなた方の方が、彼女のことはよく知っているのでは?」
「いえいえ、彼女は陛下のお気に入りでしてな。陛下が側にと所望する女は、現在、彼女だけで、我らが彼女に干渉することは、陛下から固く禁じられております。それに加えて、少々特殊な過去もございまして、彼女も、そして、護衛騎士も、陛下の言うことしか聞きませぬし」
「……過去?」
その言葉に、リュートの脳裏に思い起こされるのは、いつか見たサルディナの足の火傷跡だった。おおよそ、若い女性には相応しくないあの、傷跡。それが、皇帝と何か関係でもしているのだろうか。
だが、その事について、議長はこれ以上話すつもりはないらしく、また、その眉根を寄せて、忌々しげに話を先に進めていた。
「……正直、あの女が陛下のお気に入りなのは、受け入れがたいですが、まあ、仕方ない。陛下のご病気の為には必要な女ですから。で、彼女についてですが、最近、彼女の体調に何か変化は?」
「体調、ですか? そう言えば、最近彼女は時々横になることが多くなりましたね。ひどく眠そうですし、時折、胸焼けでもしているのか、胸をさする仕草も見せています。どこか悪いのか、と聞いても、いいえ、ちっともと言って笑うばかりなので、僕としてもそれ以上は聞けませんが……」
その答えを聞くなり、議長の目が、きらり、と妖しい光を見せていた。そして、尚もその詳細を問わんとリュートへと詰め寄る。
「それで、……そんな彼女に、陛下は?」
「最近、めっきり彼女を殴りません。僕に殴り返されるのが嫌だからか、何なのか……。ともかく、いい傾向です」
そうですか、という返答と共に、また、議長の表情が変わる。先の忌々しげな表情から一変、今度は目を細めた柔和な表情である。だが、その微笑みも、どこか貼り付けたような白々しさを含んでおり、それが一層リュートの内心に不審を抱かせていた。
「議長、今の質問は一体、何のつもりで……」
「は、ははは。いえいえ、少々噂が本当なのか確かめたくてですね。……そう、あのサルディナが妊娠しているのではないか、という噂の真偽をね」
「に、妊娠?」
正直、リュートにとっては、青天の霹靂といっていい情報だった。
憎きリンダール人ながら、なかなかいいな、と思っていた女が、美人ではないものの、その控えめさが素晴らしいと思っていた女が、結婚もしていないのに、妊娠をしているというのである。まこと、女というのは、理解しがたい生き物だ。
「はい。おそらく。しかも、彼女が妊娠しているとなれば、相手は決まっているでしょう」
「ま、まさか……。こ、皇帝……」
はい、と再び、議長は頷きを見せる。確かに、彼の言うとおりならば、皇帝のお気に入りの女、それ即ち、皇帝の寵を受ける女ということであり……。
「陛下はご病気になられてから、あの女以外、一切側女を置きません。必然、あの女の腹の子は、陛下の御子という事に」
「それを、どうして、陛下はあなた方に知らせないのです? 皇帝の子となれば、それは……」
「陛下は――」
そこで、一旦、議長は意味ありげに、言葉を句切った。そして、先の柔和な笑みから一転、自嘲とも言える笑みを浮かべて答える。
「陛下は、我々元老院を、信用しておられません。神託の儀を、勝手に行い、そして、あの姫との結婚を推し進めた我々を、ね」
「あ、あなた方が勝手に神託の儀を?」
「はい。正直、陛下のご病気の悪化が見ておられませんで。一時は自暴自棄になって、政務も一切されないという有り様で、それ故に、陛下の許可を得ず、議会の独断で行ったのです。それで、あの神託を得まして、陛下にお伝えしたところ、ひどく激怒されまして、それ以来、お部屋に閉じこもって気に入った者しか、周りに置かなくなってしまったのです」
……それは、そうだろうな、とリュートは内心で呆れ果てる。
何処の世界に女に困らぬ身分の男が、異母妹との結婚をはいはいと了承するというのだろうか。しかも、それが、今病床で苦しんでいる者に、神からの啓示という、絶対的な命令として押しつけられるのであるから。
「いや、当初は断固反対する陛下に手を焼きました。私共には、理解出来ないのですがね。なにしろ、近親婚というのは、神に許された者にしか出来ない神聖婚でもあるのです。神が今こそ、奇跡の再来を、と願っておるのです。その神の御意志を遂行できるというのに、陛下も妹姫も、どうしてそう神に逆らうような真似をなさるのか……。いや、しかし、陛下の方も妹姫の方も、ようやく双方御納得頂けたようで、何よりです」
「二人とも、結婚式を了承すると?」
「はい。いや、お二人共、ようやく、信仰心に目覚められまして、神もお喜びでしょう。願わくば、神の代理人の血を色濃く宿した男御子が産まれることを願うのみですが……」
ここまで話を進めてきて、リュートは改めて、この男の異常さを確認する。
……本当に、こんな馬鹿な話を、神の啓示としてありがたがっているのだ。何よりも、至上の物として。揺るぎない、信仰の証として、だ。
しかし、とリュートは思う。
異常だ、と断ずるのは、あくまで、リュートが異邦人だからであろう。この国に生きる者にとっては、それは異常でも何でもない。当たり前の事なのだ。有翼の民が、風と共に生きるように、この国の民は竜と、そして神と共に生きることが、当たり前の事なのだ。
――隔たりは、大きいな。
言葉を尽くしても、この国の意識は変わらないだろう。被虐の身にあり続けてきた遙か昔より、この民族に染みこんできた思想を、今更自分一人が訴えても、何も変わりはしないのだ。
……言葉を尽くしても、思いをどれだけ込めても、変えられないものが、この世には嫌と言うほどある。だから、人は……。
「さて、何よりも姫君の早期のご懐妊を切望致したいところですが――、それとは別に、今、かの女の腹におる子のことも、早急に考えなければ、なりませんな」
リュートの思考を遮るような、奇妙な笑みが議長の顔に浮かぶ。明らかに不自然と分かる、親愛という感情を装った、その不気味な笑み。ともすれば、一瞬、騙されそうになる、その優しげな顔。
改めて、リュートは、自分が性悪でよかったと思う。この手の顔には、どう頑張ったって、騙されたくても、騙されないからだ。
「いくら正妃でも、側室でもない女とはいえ、陛下の子なら、我らも無碍には出来ません。そこで、貴方にお願いが、あるのです、白殿」
「……お願い?」
はい、とまた張り付いた笑みでそう答えると、議長はその懐から、一つの小瓶を取りだして見せた。中には、茶葉だろうか、葉を乾燥させたものが少量入っている。
「これを、サルディナ殿に差し上げて欲しいのです。これは、我がリンダール人が懐妊したときに、妊婦に飲ませる滋養の茶葉です。この茶一さじづつを毎日一回、是非彼女に。ああ、勿論、彼女にも、陛下にも、懐妊祝いの茶というのは、内緒でね。我らが懐妊を知っていると分かれば、またお気に障るでしょうし。ただのお茶として、差し上げて下さい」
有無を言わせぬ眼差しでそれだけ言うと、議長は小瓶をぐい、とリュートの手に握らせてきた。そして、まだ質問を投げかけようとしていたリュートを遮るように、その腰を椅子から浮かし、一言言い残して、部屋から去っていく。
「それでは、白殿。結婚式の演奏、楽しみにしておりますよ」
後に残されたのは、リュートの手の中の小瓶のみ。それに、今まで黙って議長との会話を見守っていたエイブリーの興味が、注がれぬはずがない。
「おい、田舎者。この茶、飲んでみないか? 奴隷になってから久しく茶なんて飲んでいないんだ。この国の茶ってのに、興味があるし……」
「やめておけ」
茶を手からひったくらんとしていたエイブリーを、リュートの冷徹な一言が制していた。そして、さらに意外な事実をさらり、と告げてくる。
「……死にたくないなら、やめておけ、エイブリー。多分、毒薬入りだ」
「ど、毒薬?」
あまりの衝撃の一言に、もう一度、エイブリーはリュートの手の小瓶を目を見開いて、しげしげと見遣った。一見、何の変哲もない茶葉。それなのに、一体、どうして……。
「毒薬……というか、そうだな。致死の物は入っていなくても、多分、堕胎薬くらいは、入っているだろうな」
「だ、堕胎薬って……! りゅ、流産させる薬ってことか?! な、何で、そんなこと分かるんだよ!」
突然降って湧いた恐ろしい話に、慌てふためくエイブリーとは対照的に、リュートは、その眉一つ動かすことはなかった。いつもの不貞不貞しい、そして、怜悧さを宿した顔で、淡々とその考えを話してくる。
「さっきの議長の話しぶりと態度で、分かるさ。あの男は、兄妹の結婚推進派の急先鋒だ。自分が長である元老院が行った神託を、何よりも信じ、そして重視している。もし、サルディナが本当に皇帝の子を妊娠しているなら、彼女の子は、彼らが望む次代皇帝の座を脅かす邪魔者にもなりかねない。元老院すら手が出せない皇帝の寵を得ているサルディナが産む子なら、尚更だ」
「だ、だからって……!」
「エイブリー、お前、一体彼の顔の何処を見ていた。あれは、腹に一物も二物も隠した人間の顔だ。性格が悪い北の大公家の血筋のお前なら、分かるだろうが、同属なんだから。元老院は、サルディナの事を快く思っていない。言っていた彼女の特殊な過去というのが、おそらく関係しているのだろうが……。これで、サルディナが子を産めば、例え、皇帝と姫が結婚したとしても、姫は、サルディナに子がいるなら、自分は子など産まなくてもよいでしょう、と言い出すのは目に見えている。どうしても、姫と皇帝との子を次代に、と望む元老院なら、いらぬ子など――堕胎くらい、させるさ」
冷徹に告げられたその推理に、納得しつつ、エイブリーは、またも呆れとも嫌悪とも言えない表情を漏らした。それに同意するように頷いて、さらにリュートは続ける。
「おそらく、僕に堕胎をさせるのは、失敗しても口を簡単に封じられるからさ。この茶葉の分量は、見積もって、三日分。丁度、皇帝の結婚式が終わる次の日までの量だ。それは、要するに、これはそれだけ飲んで、やっと効果が出る薬ということ。と、いう事は、つまり……?」
「……こ、皇帝の結婚式後に、丁度、流産するっていうことか……」
「そういうこと。そして、皇帝の結婚式後に、僕を待っているのは将軍による拷問だ。その時にサルディナが流産すれば、すべての罪を僕になすりつけて、拷問にかこつけ、僕の口封じを兼ねて、葬れるってわけ。簡単だろ?」
言うとおり、簡単だ。簡単に言ってくれるが、この男が、どうして、こんなに爽やかな笑みを浮かべているのか、エイブリーに理解するのは、簡単ではない。
「お、お前、どうするつもりだよ。皇帝の子殺しとして、は、嵌められるところだったんだぞ。なのに……」
「うーん、そうだなぁ。胎児を殺すってのは趣味じゃないし、ましてや、拷問されるのも趣味じゃないんだよなぁ。僕はどっちかっていうと、拷問する方が性に合ってるし」
きらり、と嫌味なまでに、エイブリーの眼前で、歯が白く光っている。そして、その、清々しいまでの貴公子の笑みも。
「……よし、決めた。逃げるぞ、エイブリー」
「はい?」
あまりの状況と表情の違いについて行けないエイブリーを尻目に、さらに、金髪の従兄弟は楽しげな笑みを浮かべて、話を続ける。
「だってさ、例え、サルディナの子を殺そうが、殺すまいが、ここに居たら、拷問されるだけだし。本当はもう少し、皇帝から話を聞きたかったけど、いいや。後は逃亡先で調べるよ」
「……と、逃亡先? そ、そんなのがあるのか?」
「そ。エイブリー君、ここに来て、僕が無収穫のままでいると思ったのかい? 僕だって、何も考えずに皇帝に正論ばっかりぶつけていたわけじゃあない。正論はあくまで、交渉の一手段でしかないということは理解している。お前にも言っただろ? 『美しい理想だけでは、人は動かない』、と。それが分かった上で、彼とああいう話をしたのは――牽制と、それから、試問とでも言うかな……。まあ、別の手段を取らなければならないということを、再確認したかっただけだ。それに加えて、ちゃんと会話の中から情報は得ているから、心配するな。一つはね、今日、確認出来た。有翼人の繁殖施設の存在」
その単語を紡ぐと同時に、先まで笑みから一変、リュートはその眉根を寄せて、吐き捨てた。
「この国では、奴隷確保の為の有翼人の繁殖が行われているんだ。つまり、それは、かなりの数の有翼人が家畜のように飼われている、ということだろう。僕は、まず、その同胞達が捕らわれている施設を目指そうと思う。木を隠すなら、森の中って言うし、それに、同胞達からこの国の事も聞きたい。加えて、出来うるなら、彼らに協力を得たい。この国を内側から引っかき回すのに、味方が、お前一人じゃ、心許ないからな、エイブリー」
「だ、誰がお前の味方だっ! 僕はお前の味方になんかならないって言っただろっ! 大体、逃げるって言ったって、一体どうやって逃げるんだよっ! 鍵かけられてるし、空にもいつも竜騎士飛んでるしっ!!」
「……多分」
にや、と、また形のよい唇が嗤う。とびっきり恐ろしく優雅に、そして、不敵に。
「多分、何かが起こるはずさ。勿論、今度の結婚式でな。その隙を、突く」
「な、何かって……」
「皇帝もあの破廉恥女も、表面的には結婚に同意したようだが、……多分、あの女が結婚に了承したのは、母を人質に取られているようなものだからだ」
「ひ、人質って……」
確か、あの姫の母親は、現在、大森林とかいう所に遠征に出ている女将軍だったはずだ。それが、どうして人質になるのか。
まったく分からないエイブリーに、あきれ果てるように、さらにリュートは嗤う。
「さっき議長が、言ってただろ? 今、この国の実務は元老院がやっているんだ。多分、軍事面でもそう。ならば、姫に言うことを聞かないなら、母君の遠征軍への兵糧が届かなくなってもいいのですか、などと暗に脅しをかければいい。それで渋々彼女は了承したのだろうが、あの女は、おとなしく兄と結婚させられる女じゃない。それをするくらいなら、あの女は、結婚式で、相手の喉元くらい、掻き斬りに行くだろうよ。それは、今になって、サルディナを妊娠させた皇帝も同じ。何故なら、この国には、離婚というのが許されないのだからだ。そう、夫か妻か、どちらかが死ぬまでは――」
「ま、まさか……」
思い当たった考えに、ぶるりとエイブリーの体が震える。あの、一度平原の戦いでみた赤毛の女。あれは確かに、何物をも焼き尽くす焔に似た――。
「血染めの結婚式か。……面白い物が見られそうだな。だが……」
ふふふ。
不気味な笑い声が、金髪の奴隷から紡ぎ出される。
「ま、せいぜい兄妹で喰い殺しあってくれたらいいよ。この国が腐っていることは間違いようのない事実だし、運良く共倒れになってくれたら、面白いじゃないか。皇帝も妹の手にかかって死ぬなら本望だろうし、あの女も、皇帝を殺してただで済むわけがない。逆も、また、しかり。皇帝が妹を殺したとしても、面白い事になる。うんうん、後は、その混乱を僕らが利用したらいい」
「だ、だけど、に、逃げるって言っても、お前有翼の民のいる場所、分かるのかよ……」
声が上ずっているのは、けっして、エイブリーが来たるべき結婚式の陰鬱さに恐れおののいたからではない。なによりも、この、金髪の従兄弟の笑みこそが、恐ろしいからである。
「決まってるだろ? 拉致、拉致。この国に詳しい人、ちょっと連れ去っちゃおうかなって。今まで散々僕らの同胞を拉致してくれたんだから、一人くらい僕が拉致したっていいだろ? そうだなー、出来るなら、大物がいいよね?」
……一体、誰を拉致するつもりなのか。
それは、聞かない方が身の為だろうと、銀狐の本能が告げる。それと同時に感じるのは、ただただに、この男の自信の根元は一体何処にあるのか、という疑問の念だけだ。
だが、その心の内にくすぶる疑問も、笑みを浮かべながら笛を吹き始めた従兄弟を前に、いつしか、どこか遠くへと消えてしまっていた。
今は、何よりも、この男が紡ぎ出す笛の音が美しすぎて。
自分たちの身に降りかかっている運命も、これから立ち向かわなければならないであろう荒波も。
どこか、どこか、遙かに、遠い。
思い起こされるのは、あの麗しき風の国への郷愁の念。
その郷愁が強ければ、強いほどに、今あるこの身が哀しくて、そして、愛おしい。
気づけば、旋律は、エイブリーが幼い時によく聞いた、祖国の童謡に変わっていた。
曲は、歌う。
その曲に添えられた歌詞以上に、何よりも、この吹き手の思いを。
――帰ろう。いつか、あの国へ。
戦いを終えて、あの国へ。あの、慕わしい祖国へと。
「……いい曲だな、サルディナ」
奴隷部屋から漏れ出てくるその旋律に、そっと、皇帝は耳を傾ける。
傍らには、慈しみ深く、寄り添ってくれる女。悪阻のせいか、顔色が思わしくない様子だが、女は以前より、ずっと美しく見えた。
どことなく、体全体が丸みを帯びて。
まだ膨らまぬ腹が、何よりも神々しく見えて。
「ええ、陛下。本当に、心が安らぐ音色です。一体どうしたら、こんな音が紡ぎ出せるのか……」
そう言う女の声こそが何よりも珠玉の音色で。
つくづく感じさせられるのは、女の強さと、そして、この身の弱さだけだった。
「サルディナ。我は、怖い……。我は、怖くて、堪らない」
皇帝という身分にありながら。
いや、皇帝という身分にあるからか。
その問いは、いつも覇者たるこの男の心を蝕んで、やり場のない暴力へと変わっていた。
それを、いつも、受け止めてくれていた、この女。
どうして、こんな男を。どうして、こんな崩れかけた人間を。
どうして、こんなに抱きしめてくれるのか。
その全ての思いを込めて、皇帝は、女の足に刻まれた火傷の跡を撫で上げた。
「どうして、我は、……こんな風にしか……」
だが、その先の言葉は紡がれない。
ささくれだった唇が痛くて、全身を蝕む湿疹がむず痒くて。
一瞬で、心が、怒りと絶望に覆い尽くされるのだ。
どうしようもない、畜生へと自分は堕ちて。本能のままに暴れ狂うしか出来なくて。そうなったときに。
すがるのは――、ただただ、丸みを帯びた女の体と、そして、手に握られた、円十字のみだった。
「助けて、くれ……。我を、助けてくれ……。どうして、助けてくれぬのだ。……我は、嫌だ。もう、こんなのは嫌だ。我は、我は……」
この身が疎ましい。この、神の血を宿したと言われるこの身が――。
「いらぬ、いらぬ。神の代理人の血を色濃く宿した子など、我はいらぬ。父上の血を分けたあの妹など、我は、いらぬ。同じ呪いを受け継ぐ女など、この世にはいてはならぬのだ」
――大帝が、神の祝福を得る代わりに賜った、この業苦を断ち切る為には。
かちり、と音を立てて、皇帝の手の中の錫の先端部分が、回った。それを、そのまま上へ引き抜けば、錫の柄部分に仕込まれていた鋭利な刃が、ぬらりと、その姿を現す。
「神よ。我は、この手で断ち切ってやろう。貴方が、我を救わず、さらにこの様な業苦を背負わせるのであれば、我は、貴方に逆らう。貴方の命に背いて、我は、この手で、妹を殺してやる。貴方が望む神聖なる婚姻を、この手で赤く染めてくれよう。それこそが――」
女が目を伏せる。
弱く、そして、崩れかけた帝王の体を抱いて、その体に降りかかった運命までも、愛おしむように。
「陛下。私は、どこまでも陛下の共犯者になりましょう。それこそが、私の貴方への報い、復讐、そして、愛なのですから。そう、……全ては、神への」
男と、女の声が重なる。
「――神への、復讐の為に」