第八十一話:奴隷
「気持ち悪っ」
薄い唇を、これでもかとひん曲げて、エイブリーが口にしたのは、その嫌悪の一言だった。
「気持ち悪い、気持ち悪いっ! なんだよぉ、これはっ!!」
と、さらに愚痴を吐く彼が、手にしているもの。それは、所々が、血の赤と、乾いた浸出液の黄に染め上げられた包帯だった。勿論、誰の身を、覆っていたものだったかは言うまでもなく……。
「あーっ、まったく! ちらっと見たけど、ホント、気持ち悪かったなぁ、あの皇帝の姿! それに加えて、このきったない包帯やら、衣類やらを、どうして……」
はあ、と諦めの溜息をついて、見遣れば、エイブリーの眼前には、木製の水が張られた大きな盥。そして、規則正しい間隔で溝の掘られた板に、多少泡が立つ程度の石けん。
「……どうして。この、北の大公というやんごとなき身分にあった僕が! こんな洗濯なんて、しなけりゃならないんだよぉっ!!」
今まで家事などしたことがない、深窓育ちの令息の悲痛な叫びが、皇宮の水場に響く。
だが、いくら叫んだとて、ここは敵国の中、しかも、許された者しか入れぬ、皇帝宮の水場なのである。助けが、来ようはずもない。それどころか、その叫びをかき消さんばかりに、隣からは、規則正しい洗濯の音と共に、しゃあしゃあとした声が返ってくるのだ。
「うるさいな、エイブリー。いちいち叫ばないと、お前は家事一つも出来ないのか。なんだ、もしかして、洗濯したことないのか? 自分の身の回りのこと一つ出来ないなんて、情けない男だな」
「だ、黙れ! 田舎者! お前みたいな卑しい育ちじゃないんだ、僕は!! 洗濯なんて……、洗濯なんてなぁ! 女の、それも下々の女のする卑しい仕事だ! 僕は、絶対に……」
――べしゃり。
言いつのるエイブリーの言葉を遮るように、隣の盥から、顔を目がけて、濡れた服が投げつけられていた。
「いいから、仕事しろ。今のお前は奴隷なんだよ、ど・れ・い。しかも、皇帝陛下の奴隷だぞ。こうやって、仕事をして、おまんま貰うのはあたりまえじゃないか。それに、今日は、あの侍女のサルディナが、体の調子が良くないって伏せって居るんだ。弱っている女を助けるのは、当然のことじゃないか」
「な……! こ、皇帝の奴隷なんて、なりたくてなった訳じゃない! あのキリカお姉様の奴隷ならまだしも……。あんな顔が崩れた男の奴隷なんて……」
「馬鹿だなー。お前が、扉の隙間から、あの顔見ちゃったから、悪いんだろ? 皇帝のあの惨状を知ったヤツが、この皇宮から生きて出られるわけないだろうが。秘密が漏れたら、困るから、お前は皇帝の奴隷になったんだろ。大体生きているだけでありがたいと思えよ。もしかしたら……」
変わらず、しゅこしゅこと洗濯板を鳴らしながら、隣にいた金髪の男は、顎で、くい、と水場から見える皇宮広場を示していた。それに釣られて、エイブリーが、広場を見遣れば、……そこには。
「ああして、夜を照らす人間松明になりたくないんだったら、おとなしくしてな、狐君」
その恐怖の言葉どおり、無数の火刑台の残骸。死臭にでもおびき寄せられたのだろうか、不気味さに花を添えるように、黒い鴉達まで留まっている。
そのおぞましさに、ぞくり、とエイブリーの羽が震えていた。
「ほ、ホントに、イカレてるよ、この国の人間は……。人を生きたまま焼くとか、本当に気持ち悪い。……ああ、気持ち悪い、と言えば」
ようやく、諦めて、盥の洗濯物に手をつけたエイブリーが、何か言いにくそうに言葉を句切った。そして、恐る恐る、隣の金髪の男に尋ねる。
「ほ、本当なのか? その……、皇帝と、異母妹との結婚っていうのは……」
その問いに、重なるように、皇宮広場の火刑台にたむろしていた鴉の大群が、一斉に、空へと飛び立った。
……ばたばた……。……ばたばたばたっ……。
とても、深秋とは思えぬほどの暖かく、青く澄んだ空に、黒い翼が、不気味に映える。
その冥府の使いに似た鳥の姿を見送った後、ようやく、その金髪の従兄弟の首が縦に振られていた。
「……ああ。らしいな。僕も、正直……」
……気持ち悪くて、吐きそうだ。
周囲に誰も居ない事を確認して、従兄弟はクラース語で、そう言い捨てていた。
「そもそも、事の発端は、正妃の死、だったらしい。正妃は皇帝の遠縁にあたる女性だったそうだが、ある日、突然、惨い死に様で自殺してしまったそうなんだ。これには、皇帝も、元老院も不審を抱いたものの、結局、自殺の原因は分からなかったらしい。それだけなら良かったんだが……」
言い淀む従兄弟の先の言葉のおぞましさを悟ったのか、洗濯物を握ったままのエイブリーの喉が、ごくり、と鳴らされる。
「それから、次々と、皇家に縁のある正妃候補が、謎の死を遂げてしまったらしい。病死に、事故死、暗殺に、自殺……。死因は様々だったらしいが――、この相次ぐ不審な死、それに加えての、皇帝のあの奇病の発症。これには、さすがの元老院も、……何か、神罰でもこの国に下っているのか、と恐れをなしたそうだ。そこで、行われたのが、『神託の儀』、という儀式らしい」
「神託、の儀? 神様にお伺いをたてるって、事か?」
エイブリーのその問いに、再度、従兄弟の首が深く頷かれる。それと同時に、皇宮の尖塔のある鐘が、高らかに打ち鳴らされていた。そして、皇宮外から響く、無数の民衆の声。
この地を揺るがすようなどよめきが一体、何を意味しているのか。もう、この有翼人二人には、嫌と言うほどに分かっていた。
「……丁度、礼拝の時間らしいな。今頃、皇宮外では民衆が、一斉にひれ伏して、祈りを捧げているのだろう。彼らの言う唯一神、そして、その代理人である皇帝に。……いや、正確に言うと、皇帝の仮面を付けた影武者に、だがな」
……そう。金髪の男の言う通り、この国は一神教を軸とした宗教国家でもあるのだ。毎日の礼拝は、この国にとって欠かせぬ重大な習慣の一つなのである。
その朝、昼、晩、と皇宮前で行われる祈りに、ようやく、エイブリーは、あの皇帝の間で見た、恐ろしいまでに良くできたマスクの意味を理解していた。
「ああ、だからか。あんな崩れた顔では、礼拝に出られないから、元老院は、あの仮面を付けた誰かを民衆の前に、皇帝として出しているんだな。遠目で、帽子でも被っていたら、確かに、民衆は気づかないだろうし……」
「そう。……で、話を神託の儀に戻すと、だ。皇帝は、神の代理人ではあるが、神そのものではないそうだ。ここでは偶像崇拝禁止だからな。皇帝を象った像だとかは、信仰の対象であってはならないそうなんだ。だから、この皇宮も、人や動物のモチーフが一切ない幾何学模様って訳だ。で、皇帝とその后に起こった不幸について、その皇帝より上に位置する神の声を聞いてみようと言うことになったらしい」
「……その、神の代理人である皇帝が聞くのか?」
「いや、エイブリー。そうじゃないらしい。皇帝とは別の選ばれた巫女が、命を賭して、神にお伺いを立てるそうだ。聞くところによると、巫女は自らの身に炎を纏って、その極限状態で神の声を聞くらしいから」
告げられたあまりにも残酷な神託の様子に、エイブリーが思わず、うげえ、と舌を出していた。それは、つまり、神託をするイコール焼死を意味しているわけで……。とてもではないが、有翼人であるエイブリーにとって、その狂信ぶりは、理解出来るものではない。
「何でも、火は、リンダール人にとって神聖かつ、絶対なものなのだそうだ。だから、神託にも、敵を滅する時にも、使われる……。で、それで、肝心の神託なのだが……」
再び、皇宮の外から、民衆の声が轟く。
神を讃え、神が守るこの帝国を讃え、そして、リンダール人という民族を讃える、その文句。
その怨念の声にも似たどよめきに、言いしれぬおぞましさを覚えながらも、金髪の男はようやく口を開いた。
「『二百年前の、大帝ハーンの時代に立ち返れ』。それが、炎で息絶える前に巫女が残した言葉らしい」
……二百年前の、時代に、立ち返れ。
ゆっくりと、言われた言葉を反芻してみるものの、エイブリーには、その言葉が意味するものが何なのか、さっぱり見当が付かない。どこをどうしたら、それが、あの異母兄妹の結婚というおかしな話になるのだろうか。いくら考えても、その答えは導き出されないのだ。
そんな従兄弟を見かねて、金髪の男が、さらに聞いたと言う話を続けて、語り出す。
「少し、お前には話していただろう、エイブリー。この国は元々、奴隷だった大帝ハーンが、逃げ込んだ飛竜の山脈で騎竜技術を生み出して作った国なんだ。で、その二百年前の時代、ハーンが、まだ、騎竜技術を生み出していない頃の話なんだが、ハーンは逃げ出すときに、自分の家族も一緒に、飛竜の山脈に連れてきていたらしい」
そう言うと、金髪の従兄弟の持つ碧の瞳が、まるで、二百年前の初代皇帝へ思い馳せるように、皇宮北へと向いた。そこには、遠くそびえ立つ、リンダール山脈の姿。活火山の山脈という通り、所々、薄く噴火の煙がたなびいているのが印象的な山々だ。
「あの山脈は、元々、獰猛な飛竜が住まう土地。人が住むような場所ではなかったそうだ。そこで、何とかハーンは家族と共に暮らしては居たんだが、当時、二十代だった彼に、のっぴきならない悩みが降りかかる」
「……悩み?」
「そう。男なら、誰しも、悩むだろうよ。何せ、あそこには、ハーンの家族以外、誰も住んでいなかったんだから」
その言葉に、ようやく、エイブリーは一つの事実に思い当たる。
「……そうか。女、……妻、か」
そう、とまたも、隣で、金の髪がゆったりと縦に振られる。
「そりゃ、二十代の健康な男子ともなれば、家庭の一つでも持ちたいだろうよ。いや、家庭、とまではいかなくとも、性欲の捌け口くらいは欲しかろう。だが、彼は脱走奴隷という身。街に降りて、女を連れて来たくとも、掴まるのを恐れて、山を下りられなかったらしい」
「ま、まさか……」
導き出される、答え。
自分でも考えたくないほどのおぞましい事実が、エイブリーの全身に鳥肌を立てていた。
「――そ。近親婚だ」
いとも、あっさりと、だが、明らかな侮蔑の声音で、従兄弟は言い捨てていた。そして、尚も、皇帝から聞いたという話を続けてくる。
「ハーンの家族は、父親と、その後妻、そして、その後妻の産んだ妹がいたらしい。それに、……手を出しちゃったんだな、ハーンは」
「……て、て、て、手を出したって……! い、妹だろ? 血が半分しか繋がっていないとはいえ、妹なんだろ? き、き、気持ち悪っ!!」
「同感、同感。僕も気持ち悪くて堪らないが――、そこで、奇跡が起こってしまった訳だ」
一瞬、忌々しげに眉根を寄せると、碧の瞳の従兄弟は、眺めていたリンダール山脈から、その視線を遙か上空へと滑らせた。すると、そこには、大空を悠々と飛ぶ竜騎士の姿。おそらく、人が多く集まる礼拝で、暴動でも起こらないように、と、監視をしているのだろう。
その姿に、従兄弟はまたも、忌々しげな声音で、吐き捨てる。
「異母妹との間に、子供が生まれると同時に、ハーンは初めて、飛竜の人工孵化に成功したそうだ。そして、その子供と共に飛竜を育て、調教の末、ようやく騎竜技術を編み出した。それゆえ、その近親婚の末に出来た子は、『奇跡の子』、そして、竜を意味するドラグナ、という名を付けられ、二百年経った今でも、畏怖されているらしい。この国を、竜騎士の国として興し、そして、この大陸全土を手中に収めんと乗り出した、偉大なる第二代皇帝として、な」
語られた帝国の歴史に、改めて、エイブリーはその身に、じっとりとした、嫌な汗をかく。それと同時に、ようやく、納得がいったとばかりに、長い、長い溜息を洗濯板の上へと吐き出していた。
「だから……。だから、今の皇家の惨状を、神の怒りと恐れる元老院は、再び、近親婚をして、奇跡を成さんとしているわけか……」
「そういうこと。なんでも、神の代理人である大帝の血を色濃く残した皇帝が、欲しいんだそうだ。聞けば、あの女、以前は、大森林の平定に行っていたそうだが、皇帝の発病を受けた元老院によって、帝都へと連れ戻されたらしい。で、その神託を聞かされるなり、激怒して、逃げるように、今度は僕らの国の遠征にやってきていたそうだ」
聞かされた顛末に、納得した、という調子で、ぽん、とエイブリーはその手を、一つ鳴らす。
「そうか、だから、あの平原の戦でも、前から駐留していた蒼天騎士団と、あの女の紅玉騎士団は一枚岩ではなかった、ということなんだな。蒼天騎士団にしてみれば、自国の諮問機関から、帰れ、とさんざん言われている女は、目障りだっただろうし」
「たぶん……。しかし、考えてみれば、そりゃあ、異母兄との結婚は嫌だろうよ。ましてや、兄との子を産め、と言われて、はい、そうですか、と言う女じゃないだろう、あれは。結局、昨日予定していた兄妹の面会は、皇帝が、体の具合が良くないから、と断って、また後日、ということにはなったんだが、あの女も内心、ほっとしているだろう。会いたくもない兄に会わずに済んで。……道理で、あの女、帰国を渋っていたはずだよ。いくら、神の声や、国の為とはいえ、こんな事、まともな神経なら承伏できるはず、ないからな」
「そ、それで、あのエルダーにまで、元老院からの命を受けた暗黒将軍が迎えに来てたってわけか。道理で、あの姫さん、やたら、将軍に突っかかっていたな」
「……将軍、と言えば」
エイブリーの言葉に、金髪の従兄弟は、また、盥で洗濯物をこする作業に戻りながら、思い出したように、もう一人の軍人の名を口にしていた。
「あの破廉恥女の母である第三軍長のミーシカ・グラナが、今の時期に、大森林とやらに派遣された理由が、ようやく分かるような気がする。多分、母にしてみれば、可愛い娘を異母兄なんぞに嫁がせたくないだろう。きっと神託を推し進める元老院に、反対していたに違いない。それで、元老院は、大森林で獣人達の暴動が起こったのを幸いに、彼女を平定遠征に行かせたんじゃないのかな。ま、こんな上手い具合に暴動が起こるのも、怪しいと言えば怪しいけど、ね」
「じゃ、じゃあ、あの元老院議員達は、母である女将軍という邪魔者が居ないうちに、さっさと兄と妹を結婚させてしまおうって魂胆なのか? う、うーわー……。何て言うか、血統の為に、子作りさせられるって、動物扱いだな。皇帝と帝妹だっていうのに……。ま、僕らの国を侵した国の皇帝だから、いい気味だけど」
そう吐き捨てると、エイブリーは、その顔に、久々に、銀狐と揶揄されるに相応しい、嫌らしい笑いを漏らしていた。
「あーあ、あの皇帝の惨状といい、このごたごたといい、野蛮な元奴隷民族にはお似合いの運命じゃないの。獣みたいに、気持ち悪く交わって滅びればいいよ、こんな国。なあ、田舎者、そう思わないか?」
だが、エイブリーのその問いとは裏腹に、隣で洗濯を続けている従兄弟は、至って深刻な顔つきで、何かを考え込んでいる様子だった。それを不審に思い、……お前だって、帝国が憎いだろう、と再度、エイブリーが問う。
しかし、またも返ってきたのは、憎しみという激情からはほど遠い、極めて冷静で、そして、尚かつ先を見据えるような澄んだ眼差しだった。
「いや。憎いは憎いが……。だから、皇帝を殺そうとか、惨い病状をあざ笑おうとは思わんよ。勿論、憎しみ以外の理由で、彼を殺さねばならない時が来たら、僕は彼を殺すかもしれんが――。今は、まだ、その時ではないと思う。もう少し、この国を見てみたい。この国を治めてきた皇帝というものを、ここでしばらく観察してみようと思うんだ」
「な、何だって? な、何を甘いこと言ってるんだよ?! あいつらは僕らの国を侵したんだぞ? それを……」
「分かっている、エイブリー。ただ、どうしても、気になることがあるんだ」
じゃぶり、と音を立てて、洗濯物を水から上げると、金髪の従兄弟は腰を上げて、布を絞る作業へと移った。まだ、一枚も洗いが終わっていないエイブリーとは、雲泥の手際の良さ。流石は、元平民出だけのことはある。
「な、何だよ、田舎者。気になることってのは……」
「一つは、あの皇帝の間の地図。もう一つは――」
ぱん、と小気味よい音を立てて、白いシーツが暖かい秋空に映える。その白さは、どこか、一面の雪景色を思わせて、今頃、真っ白な雪に覆われているであろうあの有翼の国への郷愁を、男達の心に抱かせた。
そんな中、祖国に残してきた男に思い馳せた従兄弟が、言葉を繋げる。
「もう一つは、僕の捕虜だった糸目騎士が言っていたこと。――『帝国の真実』。あの男が、あそこまで、行ってみてきたらいいと言うからには、この国には、もっと隠された真実があるはずなんだ。あの男、何かを企んでいる様子だったし、それに、多発する暴動もおかしい。多分、皇帝の病気以外にも何かが、きっと、あるはずなんだ。それを、僕はもう少し、この皇宮で探ってみるつもりだ。それには、うってつけだと思わないか、この、皇帝の奴隷という立場は」
その不敵な言葉に釣られて、エイブリーが傍らを見遣れば、そこには、奴隷という身分を少しも感じさせない、意志の強い、凛とした横顔があった。そして、その顔に浮かぶは、犬猿の仲である彼でさえも、一瞬見とれてしまったほどの、魅力的な笑み。
「とりあえず、皇帝の結婚式があると言うんだったら、好都合じゃないか。多分、そこには、属国の首長たちも集まるんだろう? この国を取り巻く国の様子を知ることのできる、絶好の機会だ。そうだな、隙あらば――」
……にやり。
その笑みは、かつてエイブリーが一度だけ見たことがある……、そう、忘れもしない、あの御前会議で、この従兄弟が居並ぶ貴族共を打ちのめしたときに見せていた笑み、そのものだった。
その表情に、またも、一瞬、エイブリーの心臓が、どきり、と跳ねた。だが、即座に考え直して、嫌な考えを頭から全て追いやらんと、ぶんぶんと、きつく首を横に振る。
「ば、ば、馬鹿言え! この田舎者! お前なんか、生意気な口利いて、さっさとそこの火刑台で焼かれろ! 目障りなんだよ! 田舎者の癖して、綺麗な理想論ばっかり語りやがって……。そんなんで、人が動くと思ったら大間違いだぞ! 僕は、絶対にお前の味方になんぞ、ならないからな!!」
それに対して、従兄弟からは、また、清々しいまでの頷きが返ってくる。
「ま、そうだな。美しい理想だけでは、人は動かない。だが、……それに、少しの現実的に叶いそうな希望が加われば、どうかな? 例えば……」
……にやり。
またしても、あの、嫌味なまでの、美麗な笑み。
「僕が、この皇宮を出る暁には、君も一緒に、ここから連れ出してあげてもいいよ、エイブリー。勿論、良い子で、僕の言うことを聞いてくれたら、だけど」
憎たらしいのは、この国を潰したら、などど言わないところだ。どうにかこうにか頑張ったら、手が届きそうになる希望を、ちらつかされて、それに奴隷という弱者が、掴まらぬはずはないのだ。
……そう。おそらく、奴隷だった、大帝ハーンも同じだったのだろう。
目の前にある、現実的な、竜に乗れるという、小さな希望。それに、掴まっただけだったのに――。
「小さな現実の積み重ねこそが、歴史なのだ。そして、それが、やがて、大きなうねりとなる。僕は、それを……」
だが、その先の言葉は、金の髪を煌めかせた従兄弟からは聞かれなかった。代わりにエイブリーの耳に届いたのは、うって変わった楽しげな笑い。
気づけば、堪えきれぬ、といった様子で、珍しく従兄弟が破顔していた。そして、一言、意味ありげに呟く。
「ま、楽しみだな、結婚式が。あの破廉恥女も、はいはいと元老院の言うことを聞くタマじゃないだろうし。とりあえずは、どうにかして、僕の結婚式への出席を、皇帝陛下におねだりするとしますかね」
……悔しい。
悔しくって、悔しくって、仕方がない。
どうしたって、エイブリーには、不貞不貞しい従兄弟の姿から、目を離すことが出来ないのだ。あんなにコケにされ、心の奥底から嫌悪する男であるのに。
この男なら、何かやってくれる。この男なら、もしかして。
そう思わされることが、この上なく、悔しくて、妬ましいのだ。
もう、本当に頭に来るくらい悔しいので、エイブリーはいたずら心も手伝って、ざっくりと、この男の弱みを突いてやることにした。
「ふ、ふーん……。な、なんだかんだ言って、あの姫さんの事認めてるんじゃないか。へえー、お前、あんなのが好みだったの」
これには、どうやら。
「ば、ばばばばば馬鹿野郎っ!! だ、だだだだ誰が、あんな女の事! あんな破廉恥女、どうなったって僕は知らないぞ! ぼ、僕には関係ないんだからな!」
案の定、だった。
どうしたって、この不貞不貞しい従兄弟は、あの女に弱いのだ。さっきまでの澄ました顔を真っ赤に染めて、全身で、否定。
これが、エイブリーに楽しくないはずがない。
「うわー……、お前、最低だなー……。自国を侵した国の姫に惚れるとか、売国もいいところだよ。国に帰ったら、さっそく皆様に言いふらしてやろう。今度こそ、お前の失脚だ。ざまあみろ、くくくっ」
「ば、馬鹿言え! お前だって、あのキリカとかいうおばさんに惚れてる癖して! だ、大体な、僕はあんな女これっぽっちも好みじゃないんだ! 僕が好きなタイプは、……そうだな、控えめで、しとやかで、一緒にいるとほっとするような……。そうそう、皇帝の侍女のサルディナみたいなタイプが……」
と、金髪の従兄弟が言いつのった時だった。
洗濯用の水場を見下ろす事の出来るバルコニーから、その当の本人、サルディナが顔を出していた。
どうやら、従兄弟二人の間で交わされていた会話はクラース語だったため、彼女に、会話の内容は理解できていなかったらしい。怪訝な顔をしながらも、明るくリンダール語で話しかけてきた。
「白様、狐さん。すみません、お洗濯お任せしてしまって」
「い、いや、いいよ、サルディナ。それより、体の具合はどうだい?」
先の姫の話題から一変、金髪の男は、至って穏やかで優しげな顔つきで、侍女にリンダール語で答えていた。これに、まだ、その顔に痛々しい痣を残したままのサルディナが答える。
「ええ。大丈夫ですわ。今から、少々陛下の所へ行って参ります。ですので、もう少し、お洗濯お願いしてもよろしいかしら」
「あ、ああ。構わないよ。あ、また皇帝が君を殴るようなら、僕に言ってくれ。倍にして、あの男に返しておいてやるから」
「まあ、白様ったら、恐ろしいことを……」
少々困惑した様子ながらも、向けられる女からの微笑みに、王都で、歌姫やその他の貴婦人を、その鈍感さで泣かせてきた金髪従兄弟もまんざらではないらしい。どうやら、こういう地味なタイプが本来の好み、というのは間違いはないらしく、どうにかして彼女を皇帝の暴力から守ってあげたいと思っているようだ。どう見たって、釣り合わない……不細工、とまではいかないが、美人でない女なのに。
その従兄弟の趣向に、首をひねりながら、エイブリーは、その視線をサルディナの脚へとそらせた。丁度、高い位置にあるバルコニーを下から見上げる形なので、地味な侍女服から、嫌でもその素足が目に入る。
と、ふと、彼女の脚に、奇妙な傷を見つけた。
サンダルと、その下に巻いてある布にうまく隠されてはいるものの、確かに、そこには、痛々しい、引きつった火傷の跡。よく見たら、右足だけではない。左足も、同じように、大きな火傷の跡があるのだ。しかも、その跡は、つい最近のものではない。おそらく、その具合から、もっと過去に受けたと推測される古傷だ。
そして、その奇妙な跡に、先まで、侍女に優しく微笑んでいた隣の従兄弟も、即座に気づいたようだった。微笑みを、その顔の奥に引っ込めて、バルコニーの下から、訝しげに侍女の両足を見つめている。
「あ、あら。もう、いやですわ、殿方お二人で、嫌らしいっ。も、もうっ、失礼致しますね」
だが、どうやら、当のサルディナの方は火傷ではなく、もっと、卑猥なものを下から覗かれていると思ったらしい。顔を真っ赤に、その場からすぐに身を翻した。
「あ、ちょ、ちょっと、サルディナ! ご、誤解だよ! ぼ、僕は覗きなんか……!」
そうリンダール語で金髪の男が言いつのるも、時は既に遅し。言い終わらぬうちに、きつくバルコニーの扉が締め切られ、中から一言、痛烈な言葉が返ってきていた。
「――もうっ! 白様も、狐さんも、大嫌いっ!!」
「――大嫌い、とな、サルディナ」
皇帝の私室に入るなり、中にいた主が、サルディナにそう語りかけていた。いつもなら、かゆみと痛みからくる苛立ち紛れの怒声が飛んで来るはずなのに、今日に限って、上機嫌な様子だ。
「へ、陛下。ご、ご覧になっておられましたのですか……。お、お恥ずかしい……」
「よい。たんと、嫌いと言うてやれ。どうやら、あの男、お前をどうにか守ってやりたいとか思っておるようだが、……まあ、思い上がりも甚だしいの」
変わらない、漂う体液と、薬草の香り。
そして、変わらぬ、崩れた、主君の顔。
その、血と、浸出液の滲む顔に、サルディナの手が、そっと触れられる。一分も、躊躇うことのない、その慈しみの愛撫。それに、ゆったりと、皇帝はその身を委ねた。
「……サルディナ。そなただけだの。この崩れた我の顔に触れてくれる女は」
「いいえ、陛下。私の様な女が、陛下のお顔に触れられるだけでも、至極の喜びですのに……」
どこか、甘さを漂わせる、その男女の会話。
その会話を部屋の隅で、護衛騎士ツァイアは、眉一つ動かさずに聞いていた。まるで、それは、いつも見慣れた、当たり前の風景だ、とでも言うように……。
「サルディナ。少々、具合が悪いと聞いておったが、どうした。どこぞ、悪いところでもあるのか? よもや、我の撲ったその顔が……」
その問いに、まだ痣の残る女の顔がゆったりと、横に振られる。
「いいえ、陛下。この顔の傷でも、病気でもありません……。あの……」
恥ずかしげに、そう言い淀むと、サルディナは、視線を一瞬、護衛騎士のツァイアの方に向けた。そして、意味ありげに頷くと、皇帝の方へと向き直り、包帯に巻かれた右手を取って、そのまま、それを自分の下腹へと添わせた。
そして、消え入りそうな声音で、静かに、告げる。
「あの……、ややが……」
もう、聞こえないほど小さかったが、それでも確かに届いたその単語に、皇帝の瞳が、一気に揺るいだ。くすんだままだったその瞳が、一瞬にして、まるで、ルビーのような輝きを取り戻す。
「やや……。そうか、御子が、出来たか……」
……はい、と返事と共に、小さく、女の首が縦に動く。
それと同時に、控えていた護衛騎士も、その目を伏せて、皇帝に深い深い一礼をして、皇帝に臨んでいた。
「サルディナ、ツァイア……。ようやく……、ようやくで、あったな」
「陛下……」
また、小さく恥じらって、その下腹をそっとなで上げるサルディナを、皇帝の腕がおもむろに抱き寄せていた。筋が衰えているとは思えぬ程の、その力強さ。
そして、有無を言わせぬように、塞がれる、その唇。
「……んっ」
微かに、声を漏らして、サルディナは皇帝の舌に応えていた。
乾燥してひび割れて、皮膚がささくれ立ったその唇。そこを癒すように、何度も、何度も、サルディナは、その唇を、自らの舌で舐め回す。
「陛下……、へ、いかっ……」
「サルディナ。ようやった、ようやったの。……これで」
つ、と、皇帝のただれた手が、女の下腹に伸びた。その中にいる小さな命を慈しむように、ゆったりと、そして、愛おしげに、撫でて、言う。
「次の皇帝は、この子だ。この……我の子こそが、次の皇帝なのだ。……あの女や、あの女が産む子なんぞに、誰が帝位をくれてやるものか」
人の内部に流れる液体の臭いと、薬草の充満した部屋で、三人の男女が、目を伏せる。
宿った新しい命。そして、これから待ち受けるであろう、辛く苦しい運命に思いを馳せて。
逃げたくとも逃げられぬ、共犯者の顔をした、三人が。
「もう、あの異母妹なんぞ、いらん。この腹の子の帝位を脅かす、あの雌蟷螂の娘なんぞ、な。あんな、邪魔者は――」
……この皇帝、直々に、排除してくれようぞ。
崩れかけた帝王の決意が、死臭の漂う部屋に、溶けていた。