第八十話:皇帝
今話、少々グロ表現含みます。苦手な方は、お気をつけください。
「久しいな、白」
その言葉と同時に、リュートに届いたのは、鼻につく臭いだった。血のようには鉄臭くない、だが、紛う事なき、人の体液特有の生々しさ。
そして、目の前に現れた仇敵の姿に、改めて、絶句する。
「皇帝、お前……。その姿、一体……」
そこにあったのは、かつて見た焔のような猛々しい男の姿ではなかった。
まるで火のようだと恐れた赤毛は、錆びた銅を思わせる鈍く、くすんだ髪色へ変化を見せており、所々、脱毛している部分さえある。
いや、それだけではない。
何よりも、リュートの目を釘付けにしたのは、その全身を覆う、白い包帯。そして、その隙間から覗く、ただれきった皮膚だった。
サンダル履きの脚、布を巻き付けただけの服の下に覗く胸元、蹌踉めく体を支えるように、寝台の支柱に添えられている手。そして、……かつては射抜くような目を宿していた、その顔も。
ぷつぷつとした水泡混じりの湿疹、そして、それが破れて、掻きむしったと思われる跡。その周囲は、おそらく滲んでくる浸出液のためなのであろう。白い包帯が、黄色く斑に染め上げられてもいた。
その、かつての猛々しい姿からはかけ離れた、糜爛した皇帝の出で立ちに、惨い死体を見慣れてきたはずのリュートでさえも、ぞくり、と寒気を覚えた程だ。
「皇帝……。な、何だ……。この一年に、一体、何があったんだ」
リュートのその問いに、かつて戦った皇帝は、顔半分を覆っている包帯の間から、不敵な笑みを覗かせた。その様相は、ただれた皮膚と相まって、どこか冥府の亡霊を思わせるほどに、不気味さを帯びている。
「……く、くくく。驚いたか、白。まあ、無理もないな……。誰あろう我が、この自分の身を受け入れがたいのであるから。まあ、それにしても、まさかお前があの女の奴隷としてこの国にやってくるとは思いもせなんだぞ。よもや、我をコケにし、我が愛竜エルマを殺したお前がな……」
かつての二度の戦いをその脳裏に思い起こさせたのであろう。皇帝は包帯から覗く赤目に、憎悪の色を募らせながら、その体をリュートの前から翻した。どうやら、部屋の中へ入れ、ということらしい。侍女サルディナの案内で、エイブリーを部屋の外に残し、リュートのみが皇帝の私室の奥へと通される。
「座れ」
そう命令されたのは、椅子はおろか、敷布の一つもない剥き出しの床の上だった。おそらく、奴隷なんぞに座らせる椅子などない、と言いたいのであろう。その処遇に、些か不満を覚えながらも、ここで事を起こしても仕方がないと判断して、リュートは、渋々と床の上に胡座をかいた。
……と、突然、彼の鼻先を何かが掠める。
見遣れば、突きつけられたのは、先に神の印――円の中の十字があしらわれた錫だった。
「よもや、お前とこうして会う事になろうとはな、白。憎きお前が、奴隷としてこの国に来ると聞いて、我は歓喜したぞ。あの可愛いエルマの仇を、ようやく取れるとな。さあて……、我が奴隷よ、どうやっていたぶってやろうか……」
先まで鼻先に突きつけられた錫が、今度は、つい、とリュートの顎にあてがわれる。
「サイニー配下の書簡から、聞き及んでおるぞ、白。お前、あの鳥の国の王子だったそうだな。それに加えて、あのサイニーを殺してくれたとか……。我がエルマのみならず、ようも、あのサイニーを……。あれは、我の父親代わりと言ってもよい忠臣であったのに……。我が、唯一心許せる将軍であったサイニーを、よくも……」
その言葉と共に、あてがわれた錫が、リュートの顎を砕かんと襲いかかる。
だが、その速さも、勢いも、かつて対峙した皇帝の一撃からはほど遠いものだった。いともあっさりと、歴戦のリュートの前に、錫が受け止められる。
「皇帝。どうした。まったく力が入ってないぞ。お前、本当に……」
「黙れ! まったく、忌々しい白めっ……! 大体、我がこの場にお前を呼んでやったこと、感謝してもよいくらいであるのだぞ。お前なんぞ、我が奴隷にと望まなければ、とっくに元老院議会で、尋問を受け、死刑判決でも出されておるというのに……。この異民族の野蛮な王子めが」
「……死刑だって?」
受け止めた錫を離して、そう問うリュートに、皇帝はまたも、にやり、という嫌な笑みを見せていた。
「そうだ。いくら希少種とは言え、お前は帝国三本柱の一人、ヴィーレント・サイニーを殺した男だ。処刑されても文句は言えんだろう? それを我が助けてやったようなものだからな。感謝しろ」
「……一体、どうして」
処刑の事も勿論だが、リュートには、皇帝がこの私室に自分を呼びつけたその真意というものが、未だに分からなかった。そして、何より、目の前にいる男の、驚愕の変貌ぶりもだ。
一方で、訝しむリュートとは対照的に、皇帝は意味ありげに笑って、侍女を呼びつけると、上手く動かぬ体を彼女に預け、幕の付いた寝台へとその身を横たわらせていた。
「ふ……。歩くのもきついとはな。サルディナ、脚が痛うて、かゆい。何とかせい」
「……はい、陛下」
どうやら、単なる皮膚病ではないらしい。先の錫での一撃といい、引きずるような歩き方といい、筋肉まで衰えているようだ。
「驚いたか、白。我の惨状を見て、さぞかし笑いが止まらぬのであろうな」
寝台の上で、些か息を切らせながら、自嘲げに皇帝が笑みを漏らしていた。だが、その笑みに、周りのただれた皮膚が付いていっておらず、おおよそ不敵な笑いからはほど遠い、酷く奇妙な表情になっている。
正直、リュートにとって、この国に来て早々に皇帝に会うことが出来るなどとは思っても見ない事だった。
……あの忌まわしき戦争を引き起こした張本人。そして、今も、あの有翼の国を脅かさんとしている国の長。
その男に、会って言いたいことは山ほどあった。だが、今は、何よりも、意外すぎる皇帝の様相こそが驚きで、他の如何なる問いもその口からは出てこなかった。
「話せ、皇帝。その姿、何があった……?」
その言葉に、脚を侍女に薬草の入ったぬるま湯で清められながら、皇帝が口を開く。
「知りたいか、白。我の身に降りかかったおぞましい出来事をな……」
充満する薬草の独特の香りと、皇帝から漂う腐臭。その嗅ぐだけで胸焼けしそうな空気の中で、リュートは皇帝の口から語られる話に、耳を傾けた。
「覚えておるか、白。あのルークリヴィル城の戦いを」
それは、忘れもしない、冬晴れの日の死闘だった。皇帝、そして将軍、対、ランドルフ、リュートという双頭が雌雄を決した戦い。
あと少し、という所で、皇帝、将軍共に逃がしてしまった苦々しい思い出が嫌でもその脳裏に蘇る。
「あの戦いで、我は突然、腕に何やら痛みを感じてな。戦い終えて、鎧の下を見てみれば、右腕に湿疹が浮き出ておったわ」
動きにくい手を何とか使い、皇帝は腕に巻き付けられた包帯をずらして見せた。そこには、一際酷い惨状の糜爛した皮膚。
「これはただごとではない、と判断したサイニーは、即刻、我を帝国へと帰らせた。その帰還の間にも右腕の湿疹は治まる気配を見せなかった。いや、それどころか徐々に腕から体へと、その広がりを見せていったのだ」
……だから、か。
告げられた皇帝の発症に、ようやくリュートは、あの突然の帰還という行動に得心がいく。あの状況で、そして、この皇帝の気性からして、リュートに一矢を報いもせずに帰還など、ずっとおかしいと思っていたのだ。
それが、まさか、急病の為だったとは……。
「それから、この帝都に戻っても、我のこの病状は良くなるどころか、悪くなる一方だった。湿疹が全身に広がり、皮膚が盛り上がり、表皮がべろりと剥がれ落ちる……。それのみではない。日に日に、関節や筋肉の動きが鈍ってきた……。しばらくは、騙し騙し、公式の場には姿を出しておったが、今や、この顔だ。とてもではないが、……国民の前には顔を出せぬ」
がり、と音を立てて、皇帝の指が、崩れ落ちた顔を引っ掻いていた。またも、剥がれたかさぶたから、じわりと、血と浸出液が、痛々しく滲む。
「そうか。それで、元老院議長にも会わないのか……。議長は、お前のその状態を知ってはいるのだな」
「ふん……。元老院は、我のこの惨状を何とか国民に隠そうと躍起になっておるわ。だが、どうしても、どこからか情報というものは漏れるものらしい。それとなくではあるが、我の惨状は噂となって、流布しておるようだがな」
忌々しげに、滲んだ体液を拭うと、皇帝は濁った赤目を、窓の外へと滑らせた。すると、そこには、リュートがこの帝都に来た時に見た城壁の落書き――。
――『今こそ、二百年の呪いが、皇帝を殺す』
リンダールの文語に、まだ慣れていないリュートでさえも読める、簡単な文。その中の単語が、目の前の皇帝の惨状と相まって、リュートの心をぞくり、と竦ませていた。
「呪い……とは、その……、お前のその病気のことを言っているのか……?」
「おそらく、な。ふふ、誰が漏らしたかは分からぬが、呪いとは言い得て妙であるな」
忌々しげにそう吐き捨てると、皇帝は、窓のガラスに映る自分の姿を、これ以上見ていたくないとばかりに、目を背けた。
「そ、それは、何だ……。その、……本当に呪いというわけではないだろう。一体、どうして、そんな風に……」
人を呪い殺す呪術、というものは有翼の国にもいくつか方法が存在しているものの、リュートは、それをまったくに信じたことはなかった。髪の毛を入れた人形を焼く、だとか、名を書いた紙を土に埋めるだとか、そんなまじないで、人を殺せるほどに、この世は甘くはないのだ。
「医者によれば、原因不明の奇病、ということだ。肌が崩れ、筋が衰え、内臓が蝕まれる。緩慢に、死に至る、この国でもほとんど類を見ない奇病だ。医者もお手上げだと言いおった。だが、呪い、というのもあながち間違いではないかもしれんぞ。この顔は、まさに呪われておると言うに相応しいおぞましさだからな」
「……まさか。呪いで人が病気になれば、苦労はしない。そんな方法があるのなら、僕は戦場なんぞに立たず、暗い部屋で永遠にお前を呪い続けていたぞ」
リュートのこの返答には、流石の皇帝も笑わざるを得なかったらしい。先までの苦痛の表情から、一変、また崩れた顔に、奇妙な引きつった表情を見せていた。
「ははは……。流石は我をとことんコケにしてくれた男だな。現実的で結構。だが、愚かな者共は、呪いを真であると信じておるようだぞ。『他国を蔑ろにし、他民族を殺して、帝位に就いたリンダール皇帝に、あまたの他民族の神々から、神罰が下った』とな」
また、くく、と、自嘲げな面持ちで、そう笑うと、皇帝は、今度は視線を向けることなく、リュートに窓の外の光景を指し示していた。
「見てみろ、白。先ほどの城壁ではない。それより下の、この皇宮の広場をな」
言われるとおり、リュートがその腰を床から上げて、外を見てみれば、窓の下に広がる皇宮広場の一角に、一つ奇妙な光景があった。
何十、いや、何百と打ち立てられた木の杭。高さは人の身長より少し高いくらいだろうか。奇妙なのは、そのどれもこれもが、真っ黒に煤けているのだ。
「あれは、何だ」
その黒々とした木の杭に、リュートは、即座に、言いしれぬ不安を覚える。それに対して、皇帝は、また包帯の間から、その顔を奇妙に歪めて、答えた。
「処刑台だ。あの、下らぬ落書きを書いて、暴動を起こした他民族の反抗組織の、な。丁度、昨日、焼いた所だ。窓を開ければ、煤けた臭いが漂ってくるぞ。人の肉が焼けた臭いと共に、な」
告げられた事実に、リュートは、自分の推測が正しかった事を確信し、ぞっと、その身を竦ませた。
……火刑台なのだ。
あの、煤けた杭全て、人を縛り付けて焼いた、残骸なのだ。
「皇帝、お前、何て残酷な事を……」
振り向けば、そこには、ただれた口元から覗く、猛獣の牙を思わせる八重歯。唾液で、てらり、と光ったそれは、リュートにしてみれば、まさに、おぞましい怨念を宿した凶器に見えてならない。
「くくく……。この皇帝の治世に逆らい、反乱を起こそうとするからこうなるのだ。属国の、卑しい異民族の分際で、な。ここから見る夜の人間松明は圧巻であったぞ、白。まあ、この帝都にまで入り込んで、城壁の破壊とあの文句を書けた事は褒めてやってもいいがな。どこかの大森林で、未だ反乱を続けておる獣人共と比べてな」
……大森林。
先に見た地図にも記載されていた地、そして、あの中継島で姫の元に届いた報告でも聞いたことがある地だ。
確か、姫の母である第三軍長ミーシカ・グラナが派遣された、大森林エントラーダ……。
そこで反乱を起こしているのが、自分たちとは違う異民族……ロンの言っていた獣人だというのか。
「それで……、その、お前が病気であるということはよく分かったんだが……、一体、どうしてだ。どうして、僕を奴隷として側に呼びつけた。憎い仇なら、ああして、公開処刑でもしたらよかっただろうに」
未だ納得の行かない皇帝の真意に、堪らずにリュートは疑問をぶつけていた。これに対し、皇帝はまたも窓の外の火刑台を眺めながら、答える。
「くっくっく。別に、お前のその白羽を赤い炎で焼き尽くしてやってもよかったんだがな。しかし、それでは、つまらぬだろう。いたぶって、いたぶってのち、殺してやらねば、我の気が収まらん」
「馬鹿言え」
あきれ果てたその一言と共に、一瞬でリュートの姿が消えていた。
護衛の青年騎士すらも動けなかったほどの、その速さ。
気づけば、皇帝の首が、今にもねじ切られんばかりに掴み取られていた。
「僕は死ぬ気でこの国に来たんじゃない。殺されるくらいなら、全力で抗うぞ。ああ、そうだ。今、お前をこのまま人質にして、皇宮を出てやってもいいな」
ぎらり、と碧の瞳が不敵に光る。そして、さらにきつく力を込めて握られる皇帝の首。
と、さらに、気道を潰さんばかりにリュートが、その手を動かしたその時。
「陛下を離せ」
ここに来て、ようやく、護衛騎士ツァイアのサーベルがリュートの喉元にあてがわれていた。
「……ふん。ちょっと、遅すぎるんじゃないの。『皇帝陛下』、あんたも無能な飼い犬飼ってるね。何が腕が立つだか。笑わせる」
そう一つ嘲笑を漏らすと、意外なことに、リュートの手が、するり、と皇帝の首から解かれた。もう少し力を入れれば、簡単に気道をつぶせたであろうに。どうして、その優位な状況をあっさり捨てて見せたのか。
「白……。貴様、我に情けをかけたか……!!」
げほっ、と一つむせて、皇帝は忌々しげに、リュートに向けて唾を飛ばしていた。そして、尚もその身を寝台から起きあがらせ、リュートの首元へと掴みかかる。
「貴様なんぞに、情けをかけられるくらいなら死んだ方がましだ、この鳥め! 我を誰だと思うておる! 我は、大帝国リンダールの皇帝ぞ!!」
この突然の行動には、今まで黙って彼の脚の手当てをしていた侍女も驚いたらしい。傷だらけの主人を何とか諫めんと、その身に縋り付いて、懇願をしていた。
「陛下! 陛下! お待ち下さい! そんなに急に動かれては、また皮膚がお破れになります! どうか、どうか、このサルディナめに免じて、御静まりのほどを……っきゃっ!!」
リュートが制する暇もなく、皇帝の手が、侍女の頬をきつく打ち付けていた。
「黙れ、サルディナ! お前が我に意見するな! 大体、我の皮膚が破れるのは、お前の手当がまずいからだろうが! この役立たず!! お前に、……お前らに、この我の辛さが分かると思うてか……!!」
まるで、猛り立つ獣のように、皇帝は自分に縋り付く女に、再度暴力をふるっていた。だが、女は一向に抵抗する様子はない。ただただ、皇帝から向けられる拳をその顔で受け止め、静かに、……お静まりください、と、懇願の台詞を紡ぐのみだ。
「――やめろ!!」
ぱぁん、と、一際高らかな音が響く。
侍女の頬からではない。この、大帝国を統べるという、皇帝の頬からである。
「皇帝! お前、最低なヤツだな! 女性に暴力をふるうなんて、男の中でも最底辺の人間のすることだ! 恥を知れ、恥を!!」
見遣れば、皇帝の傍らには仁王立ちでふんぞり返る金髪の男の姿。またしても、護衛の動けぬうちに、皇帝の顔をその手で撲っていたらしい。これには、撲たれた当の本人もすぐには言葉が出てこないようだ。
「……き、貴様、白!! よ、よくも、この皇帝の頬を……!」
「うるさい! もしかして、彼女の顔の痣、みんなお前がやったのか? 本当に、情けない男だな! 苛立ち紛れに女を殴って憂さ晴らしか。この腰抜けのヘタレ野郎! 自分より弱い者にしか手を出せないなんて、人間のクズに等しいぞ!」
「だ、黙れ! お前に何が分かる! 生きながらにして、体の外から崩れ落ちて行く我の辛さがわかるか! 毎日、毎日、皮膚が痒うて、夜も寝られず、ただれ落ちるままにするしか出来ない! 日に日に筋力は衰え、今ではまともに歩けもせぬ有り様だ! そのくせ、頭だけは以前と変わらずまともなのだから堪らんわ。どうせなら、この頭から真っ先に腐り落ちれば、この様な苦悩も恥も味わわずに済んだものを……」
「だからって、女に暴力をふるっていい理由にはならん!!」
そう断じて、リュートがその鉄拳を再び皇帝に向けんとした時。
護衛騎士よりも早く、今まで皇帝を諫めていた侍女が、体を張って、リュートの前に立ちはだかっていた。
「良いのです、白様。私は陛下から、どのような仕打ちを受けても構わぬのです。陛下を撲つなら、どうぞ私をお撲ちくださいませ」
これには、流石のリュートも堪らなかったらしい。
ここまでの仕打ちをされても、皇帝を庇う侍女の気持ちが理解出来ない様子ではあったが、ふう、と一つ諦めの溜息をついて、あっさりと、その拳を収めていた。
だが、その行動がさらに皇帝の癇に障ったようで、侍女サルディナの体を押しやって、さらにリュートに掴みかからんと試みる。
「何だ、白! その態度は! ええ? どうした!? お前、我が憎いのではないか!? 同胞を殺され、国を侵され、どうしようもなく我が憎いのだろう? ならば、情けは無用だ! 殺せばいい!! お前のその憎しみのままに我を殺せばよかったのだ!!」
「――断る」
まるで、狂人のように叫ぶ皇帝の前に投げかけられたのは、ただ決然としたその一言のみだった。そして、皇帝を見据えるは、ただただに、澄み切った、濁り一つない碧の瞳――。
「僕は、もう憎しみでは人を殺さない。本能のままに憎しみを迸らせ、復讐という名の下に激情に流されることが、如何にむなしく、不毛なことか、僕はこの身をもって知っている」
それは、この、かつて英雄と呼ばれた男が犯した、許されざる罪だった。忘れたくとも、忘れてはならぬ。そして、目を背けたくとも背けてはならぬ、苦い苦い、愚かな過去。
「……皇帝、もしかして、お前、死にたいのか。その業苦を背負って生きるのが辛くて、死んだ方がましだと思っているのか。周りの者も、皇帝であるお前を殺せない。そして、自殺も出来ない。だから、僕を呼んだのか? お前を憎み、お前をコケにした僕なら、遠慮なく殺してくれるだろうとそう思って……。哀れだな」
「なっ……! 何を! わ、我が死にたいなんぞ……」
「……お前の所の神の世界は知らんが……、冥府への憧憬と言うなら、僕もわからないではないよ。兎角、この世というのは、辛い事が多いからな。愛しい者は死に、それを受け止めなければならない自分の心もどうしようもなく弱い……」
かつて、自分の心に巣くった、どうしようもない程の虚無感。
その経験した過去が、何よりも、皇帝を見据えるリュートの瞳に、憐憫の色を落としていた。
だが、その哀れみの感情より、何よりも勝るのは、自分をこの世界に戻してくれた、人の温かさだけだった。その幸せを知っているからこそ、リュートはきっぱりと、皇帝に告げる。
「僕はお前を殺さない。死にたければ、自分で死ね、皇帝。辛くて、辛くて、逃げたければ、自分で逃げろ。お前の幇助なんぞ、僕はせん。それが嫌なら、這い蹲ってでも生きろ。そして、自らが他国にした事を償え」
全ての過去を背に、リュートが皇帝に向けたのは、どこまでも清廉で真摯な眼差しだった。これに、その心のままに激情を迸らせていた皇帝が、耐えられるはずがない。
「……な、何だ、貴様……。どうして、そんな目をしている……。あのルークリヴィル城戦では、どうしようなく暗い目をしていたお前が……。この我以上に、憎しみに心委ねていたお前が、どうして……!!」
ぐい、ときつくリュートの首元がねじ上げられる。
「どうしてだ! どうして、どうしてお前だけが、そんな救われた目をしている!!」
「別に、救われてなどいない。僕が救われているように見えるのなら、それは、お前の心が、救いをどうしようもなく求めて、僕に嫉妬しているのだろう。僕は、ただ、僕を救おうとしてくれていた全ての人を裏切りたくないだけだ。命を賭けて、僕を守ってくれた人のことも、そして、今、僕の背で共に戦っている人のことも」
静かに、目を閉じて、リュートは祖国で待つ者全てにその思いを馳せた。
……あの大地で眠る、愛しい死者達。そして、自分を信じ、帰還を待っていてくれる全ての生者達。
全ての人への思いを込めて、リュートは決然と、皇帝に告げる。
「皇帝。僕は、一人の踏みにじられた国の人間として、お前に要求する。今すぐ有翼の民の国への侵略をやめろ。そして、拉致した有翼人の全ての解放と、帰国。それから、しかるべき賠償と謝罪。そして、永遠の不可侵条約の締結。あの聖地が、いくらかつてお前達が住まう土地だったとしても、今、お前達がしていることは罪悪でしかない。もう、こんな愚かな戦争はやめるべきだ」
その言葉を受けて、場に、しばしの沈黙が流れる。 互いに、互いを、射抜くように、見据えたあと、その沈黙を破ったのは、皇帝の狂気を帯びた笑い声だった。
「……は、はははっ。ははははははっ!! 笑わせるな、白! 何を今更、そんな甘い事を言うておる。お前に、そんな綺麗事吐き捨てられた所で、一体、我の心がいかほど動くものか! 人を善だ、悪だと切り捨てて、戦争を止めることが出来たら、そんな世話のないことはない! この世は汚濁なしには生きられぬのだ!!」
「汚濁が人間の本質の一部であろう事は、僕も否定しない。だが、それだからと言って、僕は、他人の汚濁を被り続け、同胞が蔑ろにされるままにはできない。これ以上の侵略と戦争を阻むために、全力でお前と戦おう」
「……は、ははっ。気が触れておるか、白。お前なんぞがどうしたって、戦争は止まらぬよ。我らの国には、今、どうしてもあの聖地奪回の為の戦が必要なのだ。今、この国を……、リンダール帝国という大国家を治め、維持して行くためにはな! 大体、我と戦うだと? 奴隷如きお前が、一体、何を……! お前なんぞ、我が、死刑だ、と一言言えば、即刻焼き鳥になる運命であるのに……、それを偉そうに、何を言うか……っって!!」
つらつらと言いつのっていた皇帝の言葉が突然、遮られていた。
……体を襲った、激しい痛み。
それに耐えられずに、皇帝が、声を殺したままに、脚を見遣れば、そこには何のためらいもなく包帯をはぎ取る白羽の男の姿。
しみ出た浸出液が固まって、皮膚に張り付いているため、剥がされるだけでも痛くて、悲鳴を上げそうになるのに、この男ときたら、一切手加減なしに、包帯の下の薄綿布を引きはがしてくるのだから、堪らない。
「白! 何をする! わ、我の脚に触れるな! サルディナ! この男をはよう、止めい!!」
「うるさいな。ちょっと患部を見るだけだよ。僕は母が病気がちだったから、故郷にいた頃から医学の本読んでるんだ。それから、南部熱に罹った時だって、軍医から色々医学の事教えて貰ったし。もしかしたら、帝国の医学ではお手上げのこの病気も、有翼の民の知識なら治せるかもしれんぞ?」
「ば、馬鹿を言うな! 白、お前なんぞ、今すぐ火あぶりだ! さっさとそこの火刑台に縛り付けられて来い……って、痛!!」
今度は、薬湯で濡らした布での患部への一拭き。
「さっさと殺すのはつまらんのじゃなかったのか? うん? まあ、そう焦るな。僕はお前の奴隷なんだから、しばらく良い子でご主人様に仕えてやるよ」
「な、何を、貴様……」
「だってさ、このまま僕を殺したら、またお前、そこの侍女、殴りつけるんだろう? 僕は、こういう清楚なタイプの女性が暴力を受けているのは見過ごせないんだ。それに、護衛としても、そこの無能な騎士より、ずっと、役に立つとは思うけどな」
返された、あまりにも意外な、そして、不敵な笑みに、流石の皇帝も、言葉がない。
あの、二度の戦で対峙した時から、不貞不貞しい男だとは思っていたが、よもや、ここまでとは。
そんな呆気に取られる皇帝を尻目に、白い羽を背にした有翼人は、またも、爽やかに笑って、自分の意見をごり押ししてくる。
「ははは。まあ、お前が本気で僕を殺しに来るまでは、僕、ここで、毎日お前の世話してやるから。うん、何、気にするな。お前がどれだけ泣き叫んだって、世話はやめてやらないつもりだし」
「……し、白……。き、貴様、一体、何のつもりで……」
その真意を問う言葉に対して、白羽の男からは、具体的な返答はなかった。
向けられるのは、ただただ、清々しい、貴公子の笑みのみ。そして、さらに不貞不貞しい、一言――。
「うん、あの破廉恥女より、お前の奴隷になった方が、ずっと、面白そうだ。ま、至らない奴隷だが、よろしくな、皇帝陛下」
これには、堪らず、居合わせた侍女も、騎士も、目を丸くして、口元をぽかんと開け放つしかできない。そんな中、ようやく皇帝だけが、その位の意地というものを引っ張り出してきて、反論してみせる。
「は、は、はは……。よ、よかろう……。何を企んでいるかは知らんが、たっぷりと、いたぶって、そっちから殺してくれと懇願させてやるわ。覚悟しておけ、白!!」
「はいはい。覚悟、ね。死ぬ覚悟なんぞ、この世で最もしたくないことだが――、まあ、いいや。それにしても、破廉恥女で思い出したんだが、どうして、今更になって、あの女をこの帝都に戻したんだ? 丁度、この国に来てやろうと思っていた僕にとっては好都合だったが、あの女はどうやら、しぶしぶと戻ってきたといった様子だったし……」
と、訝しむリュートの問いに、皇帝は先までの表情から一変、どこか諦めにも似た冷たい顔を見せていた。そして、事務的とも言える声音で、一言、答える。
「――我の、婚姻の為だ」
……婚姻。
結婚、ということだろうか。この皇帝、まだ、独身だったのか?
そうリュートが内心で疑問を漏らす内に、皇帝は未だ自分の足下に控えたままの侍女サルディナの姿を、意味ありげに、ちら、と見遣った。そして、その膨らんだ瞼が痛々しい目を伏せて、また無機質に答える。
「我には正妃がおったが、子も成さぬうちに死んでしもうたわ。それから、我がこの病に罹ってしまい、早う跡継ぎを、と元老院の爺共が焦っておるのだ。血統のよい、こんな崩れ落ちた男ではない、新たな皇帝を、とな……」
「それで、再婚するから、あの妹を呼びつけたのか? 何だ、あの女。兄の結婚式に出席するくらいであんなに渋ることないじゃないか。本当に、あの破廉恥は、我が儘で、高慢で、まったくに気にくわない女だな」
と、リュートが呆れの溜息を漏らした時だった。
今まで感情を殺したようだった皇帝の目が、突然、ぎらり、と不敵に光っていた。そして、また、包帯の間から、死者を思わせるただれた顔で、笑みを見せる。
「まあ、渋るのも、無理はないな。あれは、我を毒虫のように嫌うておるゆえ」
「……だからって。兄の結婚式に出席するのは妹の務めだろう。いくら、異母妹といっても……」
「異母妹……。そう、異母妹、だからだ」
リュートの呟きに、またも、皇帝は意味の分からぬ言葉を返していた。
……異母妹、だから? 異母妹だから、何なのか。血が半分しか繋がっていない、そして、仲が悪いからといっても、所詮はたかが、結婚式ではないか。
だが、そのリュートの内心の疑問は、皇帝から発せられた衝撃の言葉に、あっけなく砕かれることとなる。
彼が、またも、そのふくれた皮膚を、何とか動かして、笑いを見せながら、リュートに告げた、その言葉。それは、とても、有翼の民であるリュートの常識では、理解出来ない、いや、したくない言葉だった。
「あの妹が出たくないのは、無理もない。何故なら――」
皇帝の顔の、水泡が、ぷつり、と弾けた。そして、しみ出る、浸出液。
「我と、あの女の結婚式なのだからな」