第七十九話:謁見
目隠しを外されるなり、まず飛び込んできたのは、視界を覆い尽くさんばかりの巨大な扉だった。
宮殿内の最奥にあるというその扉は、施された意匠からして、有翼の民の国の物とは、まったく異なっていた。
そこに描かれているのは、ひたすらに、同じパターンの図形を細かく組み合わせた幾何学模様。唯一、扉の取っ手に竜を象った意匠が施されているが、それ以外は、まったく動物や人物を思わせるモチーフはない。
圧倒されるのは、その幾何学模様の芸術が、この扉だけに留まらないことだった。視界に入る範囲で見渡せば、皇帝が住まうというこの宮殿は、床から天井に至るまで、幾何学の世界一色に染め上げられていた。その中でも、最も使われているパターンが、円と十字を組み合わせた模様だ。おそらく、神の印を現すことから、この宮殿に最も相応しいとして、多く用いられているのだろう。
「ここが、皇帝の間ですよ、有翼の民の王子」
圧倒的な幾何学の世界に飲み込まれていたリュートの思考を遮るように、後ろから初老の男の声が響いていた。見遣れば、そこには、先までリュートとエイブリーの目を覆っていた目隠しを外して微笑む、恰幅のよい、白髪のリンダール人の姿。先に、エリーヤ姫を帝都上空まで迎えに来た内の一人、元老院議長のヴァルバスという男だ。
あの帝都上空で、彼の言うリュートの身柄引き渡しについて、勿論、あっさりと従うエリーヤ姫ではなかった。
……この男は、私の奴隷ちゃんよ、誰がお兄様なんぞにくれてやるものですか、この老害共、さっさと死ね!、と、まるで猛獣の様な暴れっぷりを見せていたのだが、そこは流石に帝国で皇帝の下に位置する元老院が相手である。何かあれば、姫、ひいては母である女将軍の為にならぬと、副団長のキリカが必死に宥めすかして、何とか事なきを得ていた。
結局、リュート、そして、エイブリーの身柄は、この国最高位にある皇帝に属するとして、元老院議員らの手に委ねられ、上空で目隠しが施された上、この宮殿最奥の扉の前まで連れられて来たのである。
「皇帝陛下は、貴方の話を聞くや、それはそれは、狂喜なされましてな。『あの白めを奴隷にしたい』と、強く仰せられまして」
年相応に皺の入った元老院議長の口から語られたその言葉に、リュートはもう一年も前になるあの炎の様な赤毛の男との出会いを、その脳裏にまざまざと思い起こさせていた。
――『ニクート・ヴェリーサ、シュヴァリエ』
訳すると、『ごきけんよう、希少種君』。
その言葉を、雪交じりのカルツェ城でかけられてからの、あの死闘。それから、ルークリヴィル城での再戦。そして、その後の突然の帰国。
謎に満ちていたあの猛々しく、凶暴な男が、今、この扉の奥に居て、自分を待っていると言うのである。
……因縁、か。
リュートは、そう小さく漏らすと、もう一度、元老院議長の方へとその視線を戻した。
「議長殿。いいのか、このまま僕がこの部屋に入っても」
「はい。中は、玉座が置かれている皇帝の間、そして、その奥は陛下の私室でございます。この場に是非に、『白』めを呼べ、と仰せで……。中には、腕の立つ警護の騎士、そして、侍女がおります。すぐに出迎えに参りますので、この部屋に入ってお待ち下さい」
「議長殿は、付いて来られぬのか?」
いくら、皇帝直々命令の謁見だとしても、元老院議長ともなれば、そこに立ち会うのが通例であろう。なのに、どうして、この奴隷であるリュートとエイブリーだけを中に入れようとするのか。
リュートのその問いに対して、議長は、意味ありげな笑みを見せると、一言、意外な言葉を発していた。
「我らは、これから先の立ち入りを一切禁じられております。今、陛下にお会い出来るのは、先に申しました直参の騎士、侍女、そして、陛下が会いたいと申された客人のみ。例え元老院議員とて、その禁を破れば、酷いお咎めが待っておりますゆえ」
……元老院議長でさえ、会えない?
告げられた皇帝の意外な事実に、リュートは承伏できない違和感を覚える。そして、その疑問を煽るかのように、またしても議長は、意味の分からぬ言葉を彼に告げていた。
「『白』殿。どうぞ、驚きにならぬよう。そして、陛下の良き奴隷となられるよう、切にお願いを致します」
議長が、奴隷にお願い。しかも、驚かぬように、とは一体、何を意味しているのか。
だが、後ろで頭を下げる議長の口から、その答えは聞かれなかった。待っているのは、眼前の幾何学模様の扉のみ。
そのあまりの緻密さに、どこか怨念めいたものを感じながらも、リュートの瞳は、一分も揺るぐことはなかった。向こうに待つ皇帝を睨め付けるかのように前を見据えながら、その重く閉ざされた扉を開かんと、手をかける。
「……わかった。行くぞ、エイブリー」
扉を開けると、男二人をまず待っていたのは、皇帝の間、という名の通りの豪奢な部屋だった。広さは、ちょっとした舞踏会でも開けそうな程もあるだろうか、天井のひどく高い空間である。ここも、扉の外と同じく、みっしりと、タイルやレリーフで幾何学模様が施され、その床には、部屋の奥まで続く赤い敷布。ここを通って、皇帝に謁見せよ、というのであろう。敷布の先を見遣れば、一段高くなった場所には、天蓋のついた一際、豪華な椅子……おそらくあれが玉座に違いない。
そして、その玉座に座るは、勿論……。
「皇帝、カイザル・ハーン……」
遠目に、皇帝は、微動だにせず、玉座に鎮座していた。
その様子に、リュートは、酷く違和感を覚える。
皇帝が纏っているその衣装。それは、リュートにも見覚えのある衣装だったからだ。
……黒の、全身鎧。
かつて戦ったカルツェ城の戦いで、皇帝が纏っていた鎧である。
「おかしい……。どうして、玉座で全身鎧を? それに、どうして、この間には、皇帝以外、誰一人としていないのだ」
思わず、口をついてしまった疑問の通り、この皇帝の間は、ただただに、静かで、人の気配というのが一切感じられぬ空虚な空間だった。
そう、遠く、玉座で待つ、皇帝からも、まったくに気配というものが感じられず、やたら精密な幾何学が、心を圧迫してくる不気味な部屋……。
「お、おい、田舎者! な、何だよ、この部屋! 普通、皇帝に会うっていうんだったら、この脇にずらーっと腹心なり何なりが控えているはずだろ? それが、どうして、皇帝一人で、あそこに座ってるんだよ?!」
恐ろしさから、半泣きになりながらも、リュートの後ろで、エイブリーもそう疑問を漏らしていた。
「いいから、お前は黙ってろよ。誰のおかげで、皇帝に会えると思ってるんだ。あのままだったら、お前奴隷市場行きだったんだぞ?」
……そう。リュートのその言葉が示すとおり、従兄弟エイブリーの身柄は、元老院に預けられた後、お前はお呼びでない、とばかりに、即座に議員らの手によって、奴隷商人に引き渡されんとしていた。それをリュートが、これは僕の従兄弟で身分も高いし、皇帝もきっと気に入るだろうと庇ってくれたから、この場にこうしていられるのだ。
だが、その恩もどうやら、銀狐に似た従兄弟の頭からは、すぐにこぼれ落ちてしまったようだ。相も変わらず、ぶつぶつと、リュートに向けて、恨み言を送り続ける。
「大体な、田舎者。お前が僕をこの国に連れてきたのが悪いんであって……って! ちょ、ちょっと待てよ! な、何勝手に一人でづかづか進んでんの!!」
エイブリーお得意の愚痴むなしく、白羽は、気づかぬうちに赤い敷布の半分程まで、その歩みを進めていた。畏れなど、一分もない、まさに、不貞不貞しいその態度。
「ば、馬鹿野郎! こ、殺されるぞ、田舎者! こ、これはきっと罠なんだよ! 近づいたが最後、きっと、どっかからわらわらと兵士が湧いてきて、お前を惨殺するんだよ!」
この、何もない空虚な空間の、一体どこからわらわら湧いてくるものか。大体、殺したければ、こんな方法取らなくとも、他にいくらでもやりようがあるのだ。
……まったく、我が従兄弟ながら、情けないことだ。
リュートはそう嘆息しながらも、その歩みを止めることはない。ただ、堂々として、玉座に座る皇帝の前に、臨んでいた。
その眼前に、黒光りする全身鎧が迫る。そして、その竜の牙飾りの付いた兜の下から覗く、鋭い赤目。まるで、赤い宝石ルビーを埋め込んだかのような、印象的な、その目……。
その目に、ぞくり、とリュートの身が震えていた。
「……な、何だ?」
その目はルビーの様な目ではなかった。……ルビーそのものなのだ。
血のような紅玉が、兜の下に埋まっている。それだけではない。その目は、一度も瞬きをしていなかった。その口も、鼻も、全て、かつて対峙した皇帝そのものの姿をしているのに、ぴくり、とも動かないのだ。
無表情、と言うのではない。まさに、文字通り、無機質な顔なのだ。
その顔に、言いしれぬ不安を覚え、リュートは誰にかまうことなく、その玉座へと駆け上がった。そして、おもむろに、その兜を頭からはぎ取る。
「――なっ……!!」
彼が、絶句したのも、無理はない。
そこには、おおよそ、命、と呼べる物はなかった。
冷たい黒鎧。そして、それを纏った冷たい木人形。そして、おそらく陶器で出来ていると思われる冷たい、皇帝の顔。
「か、仮面……?」
手にとってみれば、その陶器はまさしく、皇帝の顔を写し取っていた。ご丁寧に、睫毛や眉毛まで、貼り付けられている。
……良く出来た、いや、良く出来すぎた、恐ろしいまでのそのマスク。
「な、何なんだよぉっ! こ、こんな人形玉座に据えておくなんて、僕らを馬鹿にしてるのか! 一体、何のつもりで……」
後ろから駆けつけてきたエイブリーでさえも、この異常な部屋に、その体を震わせていた。と、ふと、彼の目に、玉座の後ろの壁に掲げられていた布が目に入る。
「お、おい、田舎者! こ、これ……」
そこにあったのは、皇帝の印を意味する円十字の下の竜翼紋。そして、その下には……。
「ち、地図だ! これ、この大陸の地図じゃないか?」
その言葉どおり、巨大な布に描かれた大陸の全図と思われる地図があった。
全体的には、横に広がったいびつな楕円、という感じだろうか。山脈、砂漠、といった地形と共に、いくつか国境線と思われる線も描かれている。その中心には、一際巨大な山脈の印、そして、その北には、今リュート達がいる帝都シャンドラの文字。
それを囲むように、円が描かれており、どうやら、このいびつな円が本来のリンダール帝国の領土、と言うことらしい。その国境と思われる円を超えた先には、おそらく属国と見られる他国家が存在している。
リュートがロンから習った範囲で読めるのは、シャンドラから山脈を越えて南に行った場所にある、『大森林エントラーダ』の文字。そして、シャンドラから南西にある『海洋国家ミダールト』の文字のみ。
その他も、多く属国と思われる国々があるものの、今のリュートの能力では解読が難しい。
「うーん……。口語なら、大体完璧なんだがなぁ。リンダール語は書くと難しい……」
と、リュートがその目を地図の上方に向けると、そこには、一際目だつ、光を現すような放射線状の印が一つ。……『聖地、イヴァル』と大きく書かれた、そう……、リュートが見覚えのある、嫌に長細い形をした半島の姿。
「こ、これがイヴァリー半島か……」
そう絶句してしまった通り、半島の小ささと来たら、この下に広がる大陸の大きさの何十分の一、いや、何百分の……ことによれば、それ以上……。それくらいに、この大陸の大きさは、自国の大陸と比べて、半端ではないのである。
「ちょ、ちょっと、何これ? 無理無理無理! でかすぎるだろ! なあ、田舎者! この大きさ、治める帝国って、生半可じゃないぞ!!」
エイブリーの言うとおりだった。
想像を遙かに超えた帝国の藩図に、少々リュートも驚愕をしてしまったのは、事実だ。
正直、舐めすぎていたかな、とも思わないでもないが……。
――いや、待てよ……。
巨大過ぎる地図を再び眺めるに付け、リュートの心に、ふと、疑問の念が沸き起こる。
「お、おい、田舎者! お前、帝国をぶっ潰すとか、大口叩いたけどな! こんなんどう考えたって無理だろ! はったりばっかり噛まして、いいかっこしやがって! そんな事、お前一人で出来るわけないだろうが! この考えなしの、狂言者!」
「うるさい、エイブリー。ちょっと、黙ってろ。いいから、この地図……」
と、従兄弟を無視して、リュートがその地図に没頭し始めた時だった。
「――お待たせ致しました」
横から、若い女の声が投げかけられていた。
驚いて見遣れば、玉座の丁度、右方にあった壁の一角から、隠し扉と思われるドアが開いていた。そして、その扉から、一人の女が姿を現す。
おそらく、これが、先に元老院議長が言っていた侍女なのだろう。帝国特有の肌の露出の多いながらも、地味な衣装を纏った女が、リュート達に向けて頭を下げている。
「『白』様ですわね。陛下がお待ちです。こちらへどうぞ」
そう言って、上げられた女の顔に、リュートは少々驚きを隠せなかった。
美人とは言い難い、どこにでもいそうな地味な顔立ちの女。長い赤毛を頭頂部にぴっちりと結い上げて、華やかさからはかけ離れた地味な群青色の服を纏っている。どこから見ても、とても、皇帝付きの侍女には相応しくないような、華のなさなのだが、驚くべきところは女の地味さではなかった。
注目すべきは、その地味な顔を痛々しく染め上げている、青紫の痣。瞼もふくれあがり、口元に血が滲んだその様相は、確かにこの女がつい最近に、何者かによって、暴行を受けたことを語っていた。
「き、君、大丈夫かい? そ、その顔……。それに、腕にだって痣があるじゃないか。君のような若い女性が、一体どうして……」
女のあまりの惨状に、思わず言い淀んだリュートの言葉を遮るようにして、女は、無表情にまた頭を下げていた。
「私めのことは、お気になさいますな。私は陛下付きの侍女、サルディナと申します。以後、どうぞ、お見知りおきを、『白』様」
一方で、皇帝の間がある本宮から少し離れた西宮に、リュートをこの国へと連れてきた姫の姿はあった。
「信じられない、あの愚帝めっ! 私から、早々と可愛い奴隷ちゃんを奪うなんてっ! まったく、帝都に入る前に、さっさと隠しておけばよかった!」
宮殿付きの女官に、その艶めく赤毛を梳らせるままにしながらも、女の文句は止まらなかった。
「大体ね、あの元老院の爺共、そっちのことは何にも私たちに知らせない癖して、こっちの事情にはやたら通じて居るんだから。おそらく、サイニー配下の第二軍の生き残りの奴等が教えたのでしょうけれど、まったくに忌々しいことっ!」
「そうですわね、姫様。でも、ここでは口を御慎みなさいませ。この女官は、まだ姫様と昔から懇意にしておりますから良いですけれど、他の誰が聞いて居るともしれないのですから。それに、御母君である将軍閣下の件もございます。ここは一旦、おとなしく元老院のご意見を聞かれ、この後、陛下と一度お会いなされるのがよろしいかと……」
キリカのその諫言に、仏頂面を見せながらも、姫にはこれ以上の反論の余地はなかった。皇帝命令によって、母が不在の今、事を起こせば、遠征に行っている母の身に何かあってもおかしくはないからだ。
「まったく……。どうしても、私とお兄様を引き合わせたいようね、元老院は。出来うるなら、一生、見たくない顔なのだけれど。それに加えて、あの奪われた奴隷ちゃんが……」
「ええ。あれが、グラナ閣下をかつて救った男の息子だったとは、驚きでしたわね。よもや、こんな因縁まであるなんて……」
姫の先の言葉を察したかのように、キリカがそう繋いでいた。それに、同意するように姫の首も深く頷かれる。
「そうね。あの男が、本当に、お母様の言っていた男の息子なら、尚更、私の手元に置いておきたいわ。このまま、あの愚帝の奴隷として使われるなんて、以ての外。何とか取り戻したいけれど……でも、お母様は遠征中だし……。その遠征だって、奇妙なものよ。ガイナスの残していった一軍の半分がこの帝都を守ってるとは言え、どう考えたって、この機に、邪魔なお母様を大森林に追いやったとしか……」
「――いいえ、姫様」
姫の思考を遮るように、宮の一室には、新たな女の声が響いていた。
誰も、この女官とキリカ以外、入室許可した覚えはない。不審に思って、即座にキリカがサーベル片手に、窓の方に向き直れば、そこには、窓枠からこの部屋に身を乗り出している女の姿。
このキリカによく似た涼やかな目つきに、短いショートの髪型。そして、彼女と同様に、騎士服を纏い、紅玉と花をあしらった腕章を着けていることから、この女も、同じ騎士団の団員である事が窺える。
ただ、違うのは、女には、キリカの持つ、大人の女特有の色香がまったくに感じられぬ所だ。ともすれば、少年と見まごうばかりの起伏のない、あどけない体。そして、キリカの豊満な胸とは比べ物にならぬ平面的な、その胸。
「もう、お母様ったら、いつも物騒で嫌になっちゃうわ」
キリカにサーベルを突きつけられながらも、女は軽薄とも言える明るい声音でそう言い放っていた。
そのまだ、少女の香りを残した声に、姫、そして、キリカの顔色が一瞬で、明るいものに変わる。
「ティータ!」
「うふふ。姫様、キリカお母様! お帰りなさいませ! もう、ティータは、いつまで有翼の国に留まっておられるのかと、心配していましたわ!」
サーベルを軽くかわして、まだ少女といって差し支えない女は、一目散にキリカの胸元に飛び込んできた。それを、いつにない愛おしげな眼差しでかき抱いて、キリカが告げる。
「もう、馬鹿娘! びっくりしたじゃないの! 悪い子ね。ママ、いつも言ってるでしょう? 窓から入って来ちゃ駄目って。大体、ここ三階なのに、どうやって……。まったく、もう、十五歳にもなるって言うのに、このおてんば娘ったら」
「ごめんなさい、お母様。ちょっと、正面切って、この部屋に入って来るには、憚られる用件がございまして。大森林から飛竜を飛ばしたその脚で駆けつけましたから、ご連絡もないままにすみません」
そのまだ幼さの残る少女の言葉に、即座に、姫が食いつきを見せる。
「ティータ! 今、何て言った? あんた、大森林から来たって……」
「あっ! 姫様! そのご衣装、とても良くお似合いです! ティータも着たいくらい!!」
姫の質問むなしく、ティータという名の少女の瞳には、姫の纏った衣装と宝石しか、まず映っていないらしい。いつも、人の話を聞かないといって、母に怒られているのだが、まったくに懲りていないようだ。
「それより、姫様。ロン様が捕虜になったってホントですか? 嫌だ、ティータのロン様なのに。どうして、お母様、ロン様のこと助けてきてくれなかったの? ねえ、どうして……って、痛!!」
ごつん、と鈍い音を響かせて、ティータの頭上にキリカの鉄拳が落とされていた。
「ティータ! いくらロン様の事が好きだからって、その態度は何? 姫様に謝りなさいな! いいから、早く姫様の質問に答えなさい! あんた、一体どうして大森林からここにやってきたのよ? 閣下の元にあんたは居たんでしょう?」
この、母からの制裁には、流石の少女も堪らなかったらしい。涙目になりながらも、気を取り直して、姫の前にて、その態度を正す。
「し、失礼を、姫様! 紅玉騎士団新入騎士、ティータ・グレイ! グラナ将軍閣下よりの密命、拝しまして、はるばる南の大森林よりまかり越しました! 閣下よりの密書がございます! どうぞ、ご覧のほどを!」
先までの軽薄な態度から一変、極めて真摯な敬礼と共に、そう告げると、ティータという名の少女騎士は、おもむろに、その胸元に手を突っ込んだ。そして、まだ谷間も何もない胸の間から、一通の小さな書簡を取りだしてみせる。
「うふふ。どうぞ、読んでみて下さいませ。閣下から、姫様への、大事なお手紙です」
「――こちらですわ」
変わらぬ幾何学の床の上を案内されて、リュート達が辿り着いたのは、暗い扉の前だった。
その重厚に閉まったままの扉の脇には、一人の若い男騎士の姿。リュートと侍女サルディナの姿をちら、と見遣ると、小さく一つ礼をしてきた。
これが、元老院議長の言っていた腕の立つという護衛騎士なのだろう。まだ、若くて、その精悍な姿は、この痛々しい侍女とはうって変わって、皇帝付きの騎士としては相応しいような美丈夫だった。短く刈り上げた赤毛といい、しっかりと通った鼻筋といい、あの、のほほんとしたロンとはまったくかけ離れた見事な男ぶりである。
「ツァイア。『白』様をお連れしましたわ。陛下にお取り次ぎを」
サルディナのその呼びかけに、ツァイアと呼ばれた騎士は、無言で、閉まったままの扉を二度叩いて見せた。
すると、中から、その音に答えるようにして、男の声が返ってくる。
「――来たか、『白』め」
それは、間違いなく、あの初陣で対峙した皇帝の声に他ならなかった。
猛々しく、どこか獣を思わせるような、凶暴さを備えた、その声音……。忘れもしない、あの、戦場、そして、惨劇。
その声に、リュートは身を再び引き締めながら、凛とした声音で答える。
「久しいな、皇帝。来て早々お前に会えるなんて、まさに僥倖だ」
語られたのは、勿論、皇帝と同じリンダール語。そのかつては理解すら出来なかったはずの言葉を、リュートが喋っていることに、再び、部屋の中から、猛々しい笑いが返ってきた。
「ははははは。以前とは、違うようだな、白。くくく……、まあ、よい。以前と違うのは、お前だけではない」
「……僕だけではない?」
その皇帝からの返答に、些か、違和感を覚え、リュートが問い返すも、返ってきたのは、また笑いと、意味ありげな言葉だけだった。
「そうだ。我も変わった。お前が、腰を抜かすほどに変わってしもうたわ。さあ、その扉を開けよ。お前に、いとおぞましきものを見せてやろう」
……おぞましき、もの?
扉からの言葉は、声音と相まって、リュートの身を一瞬でも大きく竦ませるには、十分な迫力を帯びていた。だが、これほどのことで怯むリュートではない。
おぞましいもの、というなら、嫌というほど見てきたのだ。何よりも、この自らの心の内に。死への憧憬と、そして、この罪深い自分の愚かさを。
それ以上に、おぞましいものなど、この世にありはしない。
この、英雄と呼ばれながらにして、傲慢に人を騙し続けて、死地へと他者の命を送った自分よりも、おぞましいものなど。
「かまわん。何だって、僕は直視してみせよう。いいから、さっさと見せろ」
自らへの自戒と、そして、罪を見据え、リュートはその碧の瞳をすっくと上げていた。そして、固く閉ざされた扉にその手をかける。
鈍い音と共に、皇帝の居る部屋に通じる扉が開いた。
そこから漏れ出てくる臭い。
……そして、そこから、現れる光景。
それに、覚悟を決めたはずのリュートの目でさえも、激しく動揺を見せる。
「こ、皇帝……、そ、その姿は一体……」