第七話:密偵
ドンっと、所長室の高級な応接机に、ワイン瓶が置かれた。
「本当にいいんですかい? 隊長」
驚く衛兵三人に構わず、二本、三本と瓶は増えてゆく。仕舞いには、庶民は滅多に口にすることの出来ない高級ハムの塊まで、ごろりと転がった。
「いいんだよ。気にするな」
そう言って、白羽の隊長、リュートはためらうことなく、所長室のキャビネットをあける。これまた、高級なグラスに、陶器がびっしり詰まっている。リュートはそれでもためらうことなく無造作に、グラスを四つ取りだした。狼狽える三馬鹿共に、それぞれグラスを渡すと、彼は座った目で言い放つ。
「飲むぞ。付き合え」
「うめえ〜〜〜」
「市長はいつもこんなうめえ酒飲んでるのかぁ。いいな〜、さすがロクールシエンの御曹司!」
「うひゃあ、こっちのハムもとろけそうだ〜。隊長、ホントいいんすか〜?」
すっかりご機嫌な三馬鹿を前に、リュートは一気にワインをあおった。
「いい、いい。ぱーっと飲もう。こんなくだらない任務なんかやってられるかってんだ」
ふうーっ、と酒臭い息を吐いて、リュートは毒づいた。
「ひゃあ〜。隊長は話がわかる〜」
「そうそう、酒でも飲まなきゃやってられませんや。いただきま〜す」
「おう、飲め飲め」
三馬鹿の言うとおりだった。
今のリュートは酒でも飲んで、自分を誤魔化さなければならないほど、ぼろぼろだった。
兄の言葉が、深く心に突き刺さって、まともに立っていられない。
自分のすべてを否定された気がして、どうやって自分を律すればよいのかもわからぬほどだ。
「でも、いいんすか〜。これ飲んじゃって。市長に怒られるんじゃないっすか」
まだ酒は苦手だというアランが、心配げに言った。
「大丈夫だ。このワインもハムも色惚け教官がこっそり隠してたやつだ。なくなったって、おおっぴらに言えやしないさ」
そう言って、リュートは小刀でハムを薄く切り出す。
「あの色惚けは僕に恩があるからな。これくらいどうってことないのさ。うん、うまい」
「ええ〜。でもこのグラスは市長様のじゃないんすか〜? 勝手に使っても……」
「アラン。お前は心配性だな。いいんだよ。あの陰険、いつだって書類をぐーっちゃぐちゃにするんだ。この床一面にだぞ? それを気にもしないで、次から次へと仕事まわしてきやがって……。あの散らかし魔がこんなグラス使った位で気づく訳ないだろう」
酒の力もあって、リュートの口は滑らかに回る。
「く、苦労されてるんっすね〜」
「そうだ。それでいつだって、整理の仕方が悪いだの何だのって。いい加減にしろっていうの、なあバズ」
振られたバズはすでに相当できあがっており、顔はリンゴのように真っ赤になっている。
「ホント、そうっす。俺も市庁舎で槍の管理がなっていないだのなんだの言われましたよお。そんなとこまで、しらねっつの」
バズの愚痴に、今度は泣きそうな顔をしてトニーが訴える。
「市庁舎の事務共も泣かされてますわ。俺も前まで事務方にいたんですけどね、なにしろ鍛練所の業務も抱えてられるでしょう。鍛練所の事務共が市庁舎に来てたびたび文句も言っていくし」
その言葉に、アランも頷く。
「そうそう。秘書もよく愚痴りに来てたよな。ランドルフ様に部屋の管理がなってないって毎日怒られるってさ。隊長も苦労するはずだよ」
「鍛練所なんて、まだいい方だと思うぜ〜。こっちにゃ、あのオルフェ様までいらっしゃるんだ。事務方だったときは、胃に穴が空くかと思ったぜ〜」
そう言って、トニーはしくしくと泣き出した。どうやら泣き上戸な体質らしい。
「ああ、あの眼鏡な。あれも横暴だ。いっつも何考えてるかわからない。あの陰険市長以上に食えないやつだ」
三人の愚痴を止める事なく、リュートはしゃべり続けた。そうでもしなければ、今にも崩れ落ちそうだったからだ。
「バズ、お前衛兵にしては太りすぎなんじゃないのか。今度鍛えてやるから、鍛練所に来い」
すっかり空になった酒瓶を前に、リュートは隣の小太りに絡んでいた。
「え、ええ〜。遠慮しときますぅ」
「なにぃ、お前、僕の訓練が受けられないっていうのかぁ。アラン〜、お前も来い。お前小さすぎるんだよ。鍛練すればのびるぞぉ」
「ちょ、ちょっと。背の事は言わんとってくださいよ〜。俺っちはこれから伸び盛りなんすから〜」
「うるさぁい。つべこべ言わずついてこぉい」
ここまで飲んだのは初めてであるが、どうやらリュートは絡み体質らしい。絡まれた二人も、酔いながらもうんざりとしている。
丁度酒が切れたのを機に、アランは要領よく新しい酒を買いに行くと言って逃げ出した。残されたバズはたまったものではない。
「ちょ、隊長〜。俺だけじゃなくて、あっちにも構ってやってくださいよ」
そう言って、部屋の隅で小さくなってしくしく泣いているトニーを指さした。
「あんな泣いているやつ、お断りだ」
むしろ、自分が泣きたかった。
大声をあげて、子供の様に泣きたかった。
お願い、レミル。捨てないで。
僕を一緒にいさせて。家族でいさせて。
お願いだ、お願いだ。
そうやって、捨てられる子供の様に、わんわんと泣きたかった。
「ただいま〜。酒買ってきたよ〜」
アランが帰って来ると同時に、リュートは酒瓶をひったくる。残りの二人も同様で、バズとトニーは新しい酒を再びぐびぐびと胃に流し込んだ。
「たいちょ〜。酒場のおねえさん、すてきだったんすよ〜。場所変えて飲みません〜」
これ以上、買い出し係にされてはかなわないと、アランが言う。
だが、それがリュートの気に障ったようで、アランの頭に、抜いたコルクがこつんとぶつけられた。
――女なんて!
リュートは忌々しく毒づく。
あのレミルを抱きしめる胸が、まざまざと蘇った。
どうして、女だというだけで、当たり前のように必要とされるんだ。
自分はすべてをかけて、彼のために学び、鍛えてきた。
それなのに、自分は必要とされず、何もしていないあの女が、いとも簡単にレミルをさらっていった。
リュートにはそれが口惜しい。
だが、どうあがいても、自分は女になれはしない。
ぐびり、と一口、新しい酒に口を付ける。
そう、どれだけ母譲りの容姿をしていても、自分は女ではない。
たとえ、ドレスを着たって、化粧をしたって……。
ふと、レギアスの冗談が、思い出された。
ひらり、とひらめくレースのドレス。
『これなんか似合うよ〜? こういうの着てたら、きっと相手も油断する・・・』
――油断?
一瞬、リュートは自分の血が逆流するような感覚に襲われた。一気に体温が下がる。
ぞくり、と背筋を振るわせ、その手からグラスが滑り落ちた。
「隊長! どうしたんですか?」
グラスを拾おうと、アランが駆け寄った。
だが、それはかなわない。
アランの首に、ぴたり、と剣が突きつけられていた。
「な、何のまねですか……隊長」
たじろくアランに、リュートはきっぱりと言い放った。
「お前が、『クローディア』だな。アラン」
きょとん、とした顔をしてアランはリュートを見つめる。何が起こっているのかわからない、といった表情だ。
「え? な、なんですか? そのクロ何とかって……」
「とぼけるな!」
リュートは一喝した。
「お前、確か言っていたよな。あの事故のあと、僕に憧れて衛兵になったと。そのお前が、どうして知っている?」
「え……?」
「前の秘書も所長室の管理がなっていないと毎日怒られてたと。僕たちがレンダマルに来た日に、あの秘書から聞かされた愚痴だ。どうして最近入ったばかりのお前が、その愚痴を知っている?!」
ぐい、とリュートは剣をアランの顎に当て、その顔を上げさせた。まだ、あどけない、少年の顔だ。
にや、と不気味にその顔が歪められた。
と同時に、どさり、とリュートの背後で何かが倒れる音がした。振り向くと、バズとトニーの二人がそろって昏倒している。
「バズ! トニー!」
叫ぶが、反応は全くない。
「アラン! 貴様!!」
リュートはさらに剣に力を込める。しかし、その剣先までもが、奇妙にぐにゃりとゆがんだ。机も、壁もだ。立っていられない。
「もう、遅いよ」
声変わり前の、少年の、鈴の音にも似た声が響いた。
「今更気づいたって、もう遅い。さっき買ってきたワイン、効くだろ?」
そう言って、慣れた手つきでアランはリュートの剣を叩き落とす。
「やはり、お前がクローディアか……」
「そうだよ。あの馬鹿と会ってたときに使ってた偽名。やだね。あいつ、喋りやがってさ」
たたき落とした剣を拾い、今度はアランがリュートにそれを突きつけた。
「まあ、その名前だけで俺っちの存在に気づいたなんて、さすがロクールシエンのぼっちゃま、と褒めてやってもいいけど。あんたもね、いい線いってるよ。よく俺っちが『クローディア』だって気づいたよ。まあ、遅いけど」
がくり、とリュートの力が抜けた。体の自由が利かない。
「ワインに、なにか入れたな……」
「うん、睡眠薬。一口でも結構利くでしょ?」
にこり、と微笑むアランのその顔はひどく幼く、少年にも、少女にも見えた。
そう、まだ幼さの残るこの男ならドレスを着たらきっと女に見えるだろう。黒髪の、美しい女に。
……騙された! やはり、トゥナは『クローディア』などではなかった。
「何を企んでいる……?」
回らぬ口でリュートはアランにそう尋ねた。
「あのね、俺っちは密偵だよ? なにを企んでいるかなんて、そんなこと言うわけないじゃん」
けろっと、アランは言い放つ。その様子にまるで緊張感はない。まるで、子供がいたずらをしたかのような、そんな口調だ。
「あのラスクとか言う男を操って、テロを起こさせたんだろ? 東部の混乱が目的か!」
リュートのその問いに、アランは一瞬、きょとん、とした顔をして、すぐに笑った。
「あはははは。東部の混乱だって? え? あの『東部解放戦線』とかいう馬鹿の集団のこと? ええ〜、あれまで俺っちのせいにされちゃうのは心外だなあ」
「お前が彼らを煽ったんじゃないのか!」
「やだなぁ。あの秘書に近づいた事は近づいたけど、煽ってなんかいないよ。あいつさ、俺っちのドレス姿見て本気で惚れちゃってさ。んで、蕩々とくだらない理想まで俺っちに聞かせてくれちゃって。んで、俺っちは言ったわけよ。『あなたの夢が実現できた世界で生きられるなら、それはなんて幸せなことでしょうね』って。そしたらあいつが勝手に暴走しちゃっただけだよ」
「それを煽ったっていうんだよ!!」
リュートは弱々しいながらも怒気をはらめて言う。しかし、アランはどこ吹く風、といった雰囲気だ。さらに、続けて、リュートは詰問する。
「あの男は僕らを犯人にしたてあげて、何かをしようとしていた。この部屋に……何が隠されてるっていうんだ……。こんなことをして……」
おそらく、ここで眠ってしまったら、このアランはそれを持ち出すなり、なんなりするだろう。それだけは、避けなければ、とリュートは必死に耐える。
ふう、とひとつ、アランは呆れた様にため息を付いた。
「なんだ。案外馬鹿なんだね」
「何……?」
「あのさ、本当にわからない? この部屋で、二度も睡眠薬盛られてさ」
――ぞくり。
再び、背筋が凍り付いた。
「まさか……。まさか」
リュートは、恐ろしい仮説を口にする。
「目的は……僕……か?」
「正解。よくできました」
拍手の代わりに、アランはパチン、と指を鳴らした。
その合図と同時に、バルコニーの窓から、音も立てず、二人の男が入ってきた。全身黒づくめで、顔にも覆面をしている。
「ちょっと、拉致させてもらうよ。隊長」
アランのその言葉と同時に、男達が動いた。リュートを拘束せんと、一気に迫ってくる。
リュートは何とか後ずさるが、睡眠薬の影響で、足下がふらつき、視界が歪む。あっという間に机の前まで追いつめられた。
「無駄だよ。その睡眠薬、効くでしょ。あの男にもこれ貸してあげて、あんたを眠らせてもらうよう頼んだんだ。市長暗殺の混乱に乗じて、あの場で俺っちがあんたを回収するつもりだったけど、まんまと失敗したからね。今度は、失敗しない」
アランの目が、不気味に光る。ふらふらになりながらも、リュートはなおも抵抗した。
「無駄無駄。ほおら、そろそろお目々がおねむだよっと」
視界が、歪み、机に手をついて、倒れかける。ふと、手に何かが触れた。リュートはすばやくそれをたぐり寄せる。
「まだ抵抗する気? 無駄だよ、やめときな」
アランの声だけが響く。視界が、もうほどんどない。目がかすむ。このままでは……やられる!!
リュートは、一つ決意すると、きつく、手の中のものを握りしめた。
――ドスッ!
鈍い音が響いていた。
「おいおいおい……」
驚いて、アランも、男達も動きが止まる。
はあはあと、リュートは息を荒げて立ち上がった。
「ちょっと……隊長さんよ。そこまでする……?」
アランは驚嘆の声を漏らす。
リュートの太腿に、小刀が突き刺さっていた。さっきハムを切っていたものだ。
太腿から血を流しながら、リュートはアランを睨み付ける。
「な、なめるなよ……」
激しい痛みが、眠気と酔いを凌駕していた。リュートは手負いの獣のように、息を切らせながらも、昏倒していたバズの腰の剣を抜き、それを鋭く構えた。
「ちょ。やんのかよ……」
そのリュートの迫力に気圧されながらも、アランは男達に指示をだす。その指示にしたがって、男達は二人一斉に、リュートへと襲いかかった。
――ドシュッ、ドシュッ!!
所長室に、生々しい音だけが、響いた。
アランは言葉がでてこない。
無理もなかった。屈強な自分の部下として信頼を置いていた黒ずくめの男達が、一瞬にして崩れ落ちたからだ。
「なめるなと言っただろう」
二人の男を踏み台にして、リュートはアランにそう凄んで見せた。
「今日の僕はすこぶる機嫌が悪い。腕の一本や二本、覚悟してもらうぞ」
ぞくり、と今度はアランが背筋を凍らせる番だった。手負いの獣ほどおそろしいものはないと聞いていたけど、本当だったとはね。
「はあ〜、意外と強いね。こりゃ計算外だったよ。作戦変更するわ」
「何……?」
「本当は生きて連れ帰りたかったけど、拉致不能とみなし、やむを得ず殺害執行といきますかね」
ぺっ、と手に唾を吐くと、アランは再び持っていた剣をリュートに向けて構え直した。
「殺害……?」
リュートは忌々しそうに、その眉根を一層険しく寄せた。
「そう。本当はね、俺っちのご主人優しいから、あんたのこと拉致、監禁で済ますつもりだったけど、それが出来ないなら殺せって言われてるんだ」
「僕を殺して何になる」
ぺろり、とアランは唇を舐めた。
「まあね、あんたがロクールシエンのところにいると、困る人がいるんだ。いろいろと」
困る、だと?
自分は、あの手紙で無理矢理ここに来たようなものだ。それが、困る、だと?
「どういう意味だ」
「あのクレスタの田舎でおとなしくしてれば、よかったってこと。あの、ロベルトのところでさ。そうすればこっちだって手出ししなかったのに」
突然出された義父の名に、リュートは反応した。
「旦那様のもとで……?」
「ホントに、クレスタ伯の元中央貴族の誇りはどこに行ったのかね。大公に尻尾ふってあんたをロクールシエンに差し出すなんてさ」
前に一度聞いたことがあった。リュートの義父ロベルトは、もともとガリレアの中流貴族の出身の婿養子だと。
――ガリレア……?
また、ガリレアか。
「お前もガリレアの手のものか。僕がロクールシエンのもとにいると、何故ガリレアの者が困るというんだ」
「だから……、そんなことは話す必要がないっての!」
アランの剣がリュートを襲う。
だが、それは標的をさし貫くことはかなわない。一瞬にして、目の前からリュートが消えていた。
それと同時に、アランの左から剣が現われる。あまりに、突然の攻撃にアランはかわすので精一杯だった。左腕にかすかに血が滲む。
「うわ、速……」
そう呟く間にも、その剣先が止まることはない。
カン、カン、と立て続けに軽やかな金属音が響いた。暗い所長室で、剣が二つ交わされている。アランは防戦一方だが、けして致命傷を負うことはない。確かに速い剣さばきだが、その剣はひどく軽かったからだ。見れば、リュートは両手持ちの剣を片手で扱っていた。これでは、その太刀筋にパワーが感じられないのも道理である。
「なんなんだよ、それ。かっこつけてんの」
アランのその問いに、リュートは鼻でふん、と笑う。
「まだお子さまの相手なんか片手で十分だ」
その言葉に、アランはぺっ、と唾を吐いた。
「いきがってんのも、今のうちだっての!」
アランは勢いをつけて、リュートの懐に潜り込む。両手で切り込むアランに、今度はリュートが防戦の姿勢をとらされる。弾いても、弾いても、アランはその剣を緩めることはない。じわり、じわり、とリュートは後ろに追い詰められていく。ついに、リュートの後ろに机がせまっていた。
「これで終わりだよ!」
アランの渾身の一撃を、右手の剣で一度は止めたものの、リュートに逃げ場はない。交差する剣が、ガリガリと嫌な音を立てた。
アランはその剣に体重をかけるようにして、その力を一層込める。片手のリュートはその力にあらがいきれず、背中から机の上に倒される形になった。机の上の皿が、音を立てて割れる。
「かっこつけたまんま、死んできな!」
アランは、机の上のリュートに馬乗りになるように襲い掛かった。リュートの顔を目がけて、もう一度剣を振り下ろす。
だが、それより、一瞬速く、リュートの空いていた左手が動いてた。
その手は、自らの左の太ももに突き刺さったままになっていた小刀を引き抜くと、ためらいもなくアランの顔へとそれを突き刺した。
「ぎゃああああっ!」
突然のえぐられるような痛みに、アランはたまらず、仰け反った。絶叫が所長室にこだまする。
アランの血が、ぽたぽたと床を汚した。
自分の惨状を、ようやくアランは認識する。右目が……、小刀によって差し貫かれていた。
「ふん。何が密偵だ。簡単に乗せられやがって。左手をわざと使わなかった意味もわからなかったのか」
氷のような冷たい顔を向け、リュートはアランに再び剣を突き付けた。
「次は約束どおり腕をもらうぞ」
――冗談じゃねえ!!
アランは戦慄した。
このままでは本当に腕まで持っていかれる。そう確信せざるを得ないほど、リュートの目にはためらいがない。
「くそっ」
小刀が突き刺さったままの右目をかばいながら、アランはバルコニーの方へと逃げる。
「待てっ!」
逃がすものか、とリュートもアランを追う。
「やだね! あんたなんかこれ以上相手にできるかっての!」
アランはそう言いながら、自らの懐に手をつっこんだ。小さな袋を一つ取り出すと、それを追ってきたリュートに投げ付ける。
「くっ!」
白い粉がぶちまけられた。刺激臭がして、ひどく目にしみる。
「とりあえず、今日のところは退散するよ。命が惜しいなら一生田舎に引っ込んでることだな!」
アランの声が響いた。
リュートが粉を振り払い、ようやく、目を開けた頃には、すでにアランの姿はなかった。
「くそっ!」
リュートはバルコニーから一気に暗い空に飛び出し、辺りを見回すが、アランの姿を見つけることはできなかった。
「逃げられたか……」
首を振って、リュートはそのまま鍛練所の屋上に着地する。
地に、足がついた途端、力ががくり、と抜けた。酔いと、睡眠薬、そして太ももの痛みが一気に彼を襲った。
「はあ……何なんだ。今日は……」
ごろり、と屋上の冷たい床に転がった。
色んなことがありすぎた。レミルの決別宣言、『クローディア』の正体、そしてその目的……。
目的は自分の拉致、もしくは殺害。
自分の知らぬところで、何かが動いている。現在宮廷にいるというロクールシエン大公、密偵を操るおそらくガリレアの黒幕、そして元中央貴族の義父ロベルト。
――あのタヌキ親父が!
すました義父の顔が苦々しく思い出された。
あいつはきっとすべて知っているに違いない。知って、僕をここに寄越したんだ。
……絶対に、許さない!!!
怒りにまかせて、リュートは再び起きあがった。
その白い羽をいっぱいに広げて、空高く飛び上がる。レンダマルの街で一番高い塔の上に降り立つと、彼はくくっていた髪をほどいた。
秋の風に、母譲りの長い金髪が揺れる。唇をきつく噛みしめ、リュートは胸にいつもあったペンダントをそっと握りしめた。
「母様……」
ヒュウ、と一つ秋の風が吹き抜けた。
ぞくり、とリュートは身を震わせる。
――なんだ……?
秋風の冷たさとは違う、不気味な風が、リュートの羽を駆け抜けた。
ぞくり、ぞくり。
再び、感じる寒気。
「風が、違う……? なんだ、この風は……」
ひどく、気味の悪い風だ。南から吹いている。
「南……」
この先の遙か南には来るものすべてを拒むというアイ山脈がそびえ立っている。
いや、これはもっと南からだ。山脈の……南?
ドクリ、と一つリュートの心臓が脈打った。
「まさか、な」
口にした言葉とは裏腹に、リュートの碧の瞳は、暗い南の空をじっと睨み付けていた。