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第七十七話:渡海

お待たせしました。連載再開します。それから、この第四部帝国編を機に、R15指定に致しました。これは、今後の話の展開上、性的な事を匂わせる言葉、表現が多くなる為です。露骨な性表現は避ける方向でいきますので、どうぞご容赦くださいませ。ご意見下さった読者の方、ありがとうございました。今後とも、どうぞよろしくお願いします。

 ああ、小うるさいこと、とエミリアは、内心で嘲笑を漏らした。

 

 いつものつまらぬ朝儀への、形式だけの出席を終えて、ようやく自分の牙城に戻って、ゆっくりと、西部産の上等の茶葉でも楽しもうという算段だったというのに。それを遮るように、喧々とうるさい男の声が、彼女を王宮の中庭に引き留めていたからだ。しかも、その声の持ち主が、自分と血を分けた、しかも、いい歳をした兄のものだというのだから、堪らない。それに加えて、その喚く内容というのが……。

 

「え、エミリア! え、エイブリーが! 我が息子が、帝国に連れて行かれた! 我が、可愛い跡取り息子がぁ!!」

 

 この馬鹿みたいな嘆きである。

 そんな事、言われなくとも、王妃である自分は、とっくに知っている事実であるというのに。それを今更、わあわあと、泣きわめきながら告げて、一体どうしようというのか。いい歳した男が哀れみの言葉でもかけられたいのか。それとも、解決策でも教えて欲しいのか。

 どちらも、この自分の口から聞くことなど出来ないと、どうして、この馬鹿な兄は理解出来ないのか。

 

 ……所詮、寄生虫は親子揃って寄生虫ね。

 

 そう内心で呟きながら、エミリアは涙混じりにすがり寄る兄の顔を、軽蔑の眼差しで見遣った。

 

「あの田舎者のリュートとかいう甥が! 殿下を助けても、我が息子を助けてくれなかったのだ! ああ、あの恥さらしのラセリアの息子だけのことはある! まったく忌々しいあの馬鹿な妹の血筋のせいで!!」

 

 そこには、みっともなく喚きながら、かつての権勢ぶりはどこへやら、げっそりと憔悴した様子の兄、元北の大公オリヴィエの顔があった。あの御前会議で失脚して以来、意気消沈して、北の地に隠居していたというのに、久しぶりに王都に顔を出してみれば、可愛い息子の捕縛を知らされたのだから、無理はないだろう。眼窩は落ちくぼみ、艶やかな銀髪も心なしか薄くなり、まるで一気に十、歳をとったかの様な面持ちである。

 そんな兄の様相を、冷徹な碧の瞳で見下しながら、エミリアは、その口元をまるで微笑むかのように、にっこりと歪めて見せた。

 

「お兄様。そう仰いますな。エイブリーもリュートさんも、私の可愛いヨシュアを守って、帝国に連れて行かれたのですよ? 身を呈して、王太子を守るなんて、従兄弟二人ながらにして、何という忠義でしょう。私、甥である二人が誇らしくて堪りませんわ。うふふふふ」

 

「え、エミリア……。お、お前……」

 

「いいじゃありませんか。北の大公は、エイブリーの弟が成人するまで、またお兄様がおなりになったら? そりゃあ、私だって、甥二人が居なくなったのは寂しいですけれど、帝国に連れて行かれて、帰ってきたものはいないと聞きますし。それにね、あの二人なら、きっと仲良く帝国で暮らしますわよ。何てったって、従兄弟なんですからねぇ。私たちに出来ることは、ここから、遠く二人の幸せを願う事だけですわ。それがお嫌なら、お兄様が行って、帝国から可愛い御子息連れ戻して来たらよろしいのよ」

 

 勿論、この馬鹿な兄に、そんな度胸などあるはずがない。帝国に行く度胸があれば、まず、こんな風に、妹のドレスの裾にしがみついていたりはしないだろう。

 

 ……結局、自分では何も出来ない癖に。

 

 ふん、と最後とばかりに、兄に嘲笑を浴びせかけると、エミリアは言いつのる兄の言葉など、もう聞こえぬと、その踵を返した。

 

「ごきげんよう、お兄様。エイブリーとリュートさんが仲良くなさってること、私もここからお祈りしておりますわ。では、私、後宮へ帰りますので。近衛兵、お兄様をお送りして」

 

 

 

 

 

 

「お帰りなさいませ、陛下。薬湯が入っておりますわ」

 

 エミリアが後宮の自室に帰ると、いつもの薬臭い湯が待っていた。あの鬱陶しい兄を振り切って、何よりも先に、西部産の薫り高い茶葉の香りが嗅ぎたかったというのに、この気の利かないところ。

 

「流石は、私の主治医というところかしらね、ドクター・マリー。私の趣向よりも、自分の治療方針を押しつけてくる辺り、実に、優秀な医者だわ」

「恐れ入ります、王妃陛下。西部産の茶葉は、眠気を遠ざける効果がありますので、陛下のご静養には不向きかと、こちらで判断致しました」

 

 このつらつらと、王妃である自分に意見を言える所など、実に、宮廷医として、板に付いている。とてもではないが、この目の前の、まだ年若く、あどけない、少女のように可憐な姿からは、想像出来ない毅然とした態度である。

 

「ねえ、ドクター・マリー。貴女って実に興味深いわね。そんな薄桃の羽で、栗毛の可愛らしい方なのに、どうして医者なんていう男の仕事を選んだの? やはり、父親であるシンの影響かしら」

 それは、エミリアが、春にこの女と会って以来、ずっと疑問として抱いていた思いだった。医者と言えば、この国では、未だ男性にしか許されていない特権の職業である。それを女ながらに目指そうとするからには、余程の決意があってのことであろうと思われるのだが。

 一方で、女は、その問いに、エミリアが想像するような余程の事情とはかけ離れた、可憐な花を思わせる笑みを見せていた。


「うふふ、陛下。敢えて申し上げるなら、……そうですわね、復讐、といったところでしょうかね」


「……復讐? あの男への?」


「いいえ。それもありますが……、どちらかというと、姉へ、ですかしらね」


 それは、女医が初めてエミリアに語って見せたもう一人の家族の話だった。その中でも、特に、姉、という単語が、嫌にエミリアの心を抉ってくる。

「あら、お姉様がいらっしゃるの? 奇遇ね、私も居たわ。大嫌いなお姉様がね」

 そう吐き捨てると、エミリアの心の奥底に、否応なしに、どす黒い感情が沸き起こる。

 ……あの、ラセリアとかいう、美しくて、純真なだけの馬鹿な姉。

 あの忌々しい甥を残して、死んだ、愚かな姉への、未だ忘れられぬ嫉妬心が。

 

「奇遇ですわね、陛下。私も、姉が大嫌いですの。何でしょう、あの偉そうに医者になるなんて公言しておきながら、考えもなしに腹ぼてになった女は。それで、さも自分が悲劇のヒロインぶったかのように、あたりちらして、結局、医者になる事なんて出来ずじまいに、子育てに追われている。しかも、死んでしまった男の子供なんか。……まったく、馬鹿じゃないのかと」

 

 告げられた、薬湯の苦さなど比べ者にならぬほどの、どす黒く苦々しい感情に、エミリアは、思わず薬湯を吹き出さんばかりに笑いを漏らしていた。

 おそらく、この女は、口ではそう言いながら、内心では姉が妬ましくて、妬ましくて仕方がないのだ。愛する男に愛され、そして、愛の結晶ともいえる子供まで授かることの出来た姉が。その姉に、当てつけるために、医者になるというかつての夢を奪って見せたのだ。

 まるで、自分の生き写しのような、この嫉妬に狂った女。その女が、自分の参謀のように、側に居てくれることに、エミリアは、歓喜した。

 

「素敵。貴女って、本当に素敵よ、ドクター・マリー。貴女のような侍女が欲しかったのよ。私の周りの女官なんて、それはもう馬鹿みたいに、追従の言葉ばかり。それが、もう、救いようのないことに、あのリュートとかいう甥の事を、『さすが、陛下の甥御様ですわねえ』などと言ってくるのだから堪らないわ。あの男なんぞ、褒めたって、私の歓心を一つとして得られぬということが、どうしてわからないのかしらねえ」

「ええ、本当に。綺麗事を言えば、人の心が動くと思っているあたり、馬鹿ですわね。……特に、あの男に、騙されて、英雄なんぞと祭り上げている所なんか、本当に愚かの極み。あの、悪魔のような男にね」

「……ふふ。悪魔、ね。ええ、そうよ。あの忌々しい女が残した悪魔。ようやく、消えてくれたわ。本当は失脚させてやろうと思っていたけれど、何て事はないわ。あっちから、海の向こうへと越えてくれたのだもの。まあ、惜しむらくは、あの男の死に際が見られぬ事だけど。……残念だったわね、ドクター・マリー。貴女、あの男の首、欲しがっていたのではなくって?」

 

 その問いに、女医の眉が、ぴくり、と反応した。

 だが、それも、気づかぬほどの一瞬で、女はすぐに、また顔一面に可憐な少女の微笑みを取り戻す。

 

「ええ、出来れば、この手であの男の体を隅々まで解剖してやりたかったのですけれど。……あの、碧の目も、金の髪も、原型を留めていないくらい、ぐっちゃぐちゃにしてやりたいのですわ。本当に、残念。売国容疑をかけて、斬首か絞首にしてやりたかったのに……。本当に、使えない二人でしたわね、エイブリー様とラディル様は」

 

 まったくに、台詞と、表情が一致していない。ともすれば、『まあ、そこの丘に、こんな綺麗なお花が咲いていましたの?』とでも言いそうな無垢な少女の顔であるのに。

 その女の見せた表情に、……この女は……、と心の中であきれ果てながら、エミリアの笑いは止まらなかった。

 

「えーえ、そうね、ドクター・マリー。おかわいそう。あの馬鹿二人のせいで、お望みが叶えられなくて。でもね、私、いいこと考えておりますのよ。あの男の体が出来ぬなら、それ以外の部分をぐっちゃぐちゃにして差し上げるのはどう? そうね、あの男の名を聞いて、誰しもが英雄なんぞと言わぬよう。リュートという名を聞けば、誰しもが嫌悪と侮蔑で唾を吐きたくなるような、そんな仕打ちをしてあげるのは如何? 万が一にも、あの男が帰ってきた時の為にね」

「……素敵。素敵ですわ、陛下。でも、そんな事が出来まして?」

「勿論よ。あの男は、それだけの事をしてくれたのだから。感謝しないと。ねえ、シルヴィア?」

 

 笑いながら、女医に向けてそう肯定する言葉の先で、エミリアはもう一人の女の名を呼んでいた。

 その聞き慣れぬ名に、女医はすぐに、怪訝な色を顔に漏らす。何故なら、この王妃の間には、現在自分と王妃しか居ないはずであるのに。一体、王妃は誰に向けて、そう同意を求めているのだろうか。

 その女医の内心の問いに答えるように、エミリアは、その指をぱちん、と高らかに一つ、鳴らして見せた。すると、その後ろ。今まで誰も居なかったはずのカーテンの後ろから、一人の人物がその姿を現していた。

 

「おや、俺っちに会うのは初めてだったかな、ドクターは」

 

 女か、男か分からぬような声。そして、その容姿も、どちらとも付かぬ中性的な、黒髪の人物。だが、一点だけ印象的な部分がある。その、まだ、少年の様な、少女の様なあどけない顔を一気に、堅気でないものに染め上げている、その右目。

 

「うふふ、シルヴィア。ドクターがびっくりしているわ。もう少し、音を立ててもよいのよ。それから、彼女にも教えて差し上げなさいな。あの男が半島でしでかした、実に罪深い事をね」

「了解、ご主人。それから、もう一つ、ご報告。あの捕らえられていた近衛隊長ラディル殿の件、手は打っておいたぜ。あっちから、ご主人の名が漏れることはねえよ」

「ま、仕事が速いのね。うふふ、やっぱり、貴女を後宮に戻してよかったわ、シルヴィア。貴女も、その目の仇を取れて、嬉しいでしょう?」

 

 王妃の言葉に促されるように、新しく現れた人物は、意味ありげにその右目に、手を這わせた。そこには、本来あるべき眼球は失われ、ただただ、暗く、不気味に眼窩を覆っている、黒い眼帯があった。

 

「仇ねぇ。俺っちは、どうでもいいやぁ、そんな事。それより、性悪な女お二人の望み、たんと叶えて差し上げましょ。何と言っても、俺っちの本職は密偵だかんな。ま、本領発揮といきますかね。さ、お仕事、お仕事、楽しいなっと」

 

 

 

 

 

 

 

 一方で、同じ宮廷の国王執務室では、ひたすら平身低頭して、この国の長と、その腹心である宰相に臨む小男の姿があった。自らが犯した、手ぬるい失敗の咎を、ひしひしと感じてるせいか、いつも不敵に光っている眼鏡も、今日は鈍く曇ったままである。

 

「も、申し訳ございませんでした、国王陛下、宰相閣下。私、大口を叩いて進言を致しましたというのに、このざまで」

 

「真だ、真だ、オルフェ。お前が出過ぎた真似をするからだぞ。まったく、おとなしくラディルとエイブリーをこの王都に押しとどめておけば良かったのに、お前が『泳がせて尻尾を掴みましょう』なんぞと言い出すから、同行を許したのだ。結局、あの二人に、引っかき回されるだけ引っかき回されたそうではないか。その結果が、ラディルのみの捕縛とはな。エイブリーは帝国に連れて行かれたと言うし、英雄殿まで……。お前が居ながら、何という失態か!」

 

 いつにない鼠の宰相の激高ぶりに、若き文官オルフェは、もう言葉もない。ただただ、ひれ伏して、自分の爪の甘さと、他の文官共の生ぬるさを呪うのみだ。

 そんな中、事態を見守っていた国王が、ようやく、その口を開く。

 

「よい、宰相。オルフェの進言を認めたのは、他でもない余なのだ。……全ては、余の責任だ。余の器量の無さが、この国の内部の憂いを全て招いておるのだ。余と、……それから、我が息子、ヨシュアの器量不足がな」

 

 突然、王者の口から飛び出したその自嘲の言葉に、居合わせた宰相とオルフェが、慌ててその顔を上げる。

「へ、陛下、陛下! 何を仰っておいでです! 国王たる陛下がその様なお言葉……。全ては、この宰相の拙さ故。どうぞ、どうぞ、この鼠めを罵り下さいませ!」

「よい、宰相。貴殿はよくやってくれている。そもそも四地方を国王以外の者が統治する、というこの国の在り方が問題なのかもしれんな。どれだけ頭に国王という長がいたとて、その権力にすり寄り、傀儡にし、この国の実権を握りたいと願う者は後を絶たん。それを制し、全てを統括する器量が、余には欠けておるのやもしれん。まったく、獅子王の統一戦争が残した負の遺産は大きいの」

 

 結局、百年前に、この王家が全国平定を成し遂げたとしても、所詮たかが、百年の事。未だ各地には、かつての地方独立体制を望む者が多くいるのも事実。それだけでも頭が痛いと言うのに、竜騎士という強力な外敵までやってくる始末。さらに、タチが悪いのは、その外敵に対抗するために国内一致団結するべき所を、外敵との戦争を、国内の権力争いに利用しようとするのだから、堪らない。

 

「……まったく。本来、外敵、というのは、国内の不満を外部に向けるには格好の標的であるのに。余も、統治者としてまだまだだな……。恥じ入るばかりだ。それに加えて、我が息子と来たら……」

 

 息子である王太子ヨシュアの失態は、勿論、とうに国王に届けられていた。

 戦前でのごたごたに加え、戦場での尻込み、そして、その後の勇み足による虜囚。とてもではないが、褒められるどころか、罪に問われてもおかしくない失態ぶりである。父親である自分としては、この機に、王太子として、戦場を見て、いくらか成長して欲しいとの思いもあって、補充兵と共に、初陣として半島に行かせたのであるが、結局は、良いように利用されて、このざまである。

 出来うるなら、今からでも行って、息子の横っ面ひっぱたいてやりたい所だが……。

 

「陛下。ヨシュア様は、現在ルークリヴィル城にて、自ら御謹慎中です。陛下から直々に御沙汰があるまで、部屋から一歩も出る気はないと、強く仰せで……」

 

 オルフェのその言葉を信ずるなら、どうやら、当人も、ようやく自分の愚かさを理解したらしい。自ら罰を願うなど、かつての王子からは考えられぬ事なのだが。

 

「そうだな……。ヨシュアには、きちんとした責任を取らせるためにも、罰則を科さねばな。ときに、オルフェよ。今、ルークリヴィル城はどうなっておる」

「はい。現在、国王軍は第二軍の将、ミッテルウルフ候様が、御統括。それから、東の大公殿下も協力なさって、軍の立て直しを急ぎ進められております。どうやら、帝国側も、何やら事情があるようで、現在ごたごたとしておりまして、当分攻められる心配はないでしょうが……」

「そうか……。東の大公殿にも世話になったようだし、礼を言わねばな。それにしても……」

 

 平原での戦の報告、そして、その後の顛末を聞けば、聞くだけ、国王の心には、あの息子かもしれない男の運命が突き刺さる。

 ……あの、英雄と謳われた男が。かつて、獅子の様だと見惚れたあの、若者が。

 

「あれは……。帝国へ捕らわれてしまったか……。あの、金の髪の若者は……」

 

 正直、誰しもがあの男へ過度の期待を掛けすぎていたきらいはあったのだろう。誰しもが、あの男こそ、この国を救ってくれる英雄だ、と信じてしまっていた。それが、こうした結果になろうとは……。

 

「あの男を、お恨みになりますか、陛下」

 

 国王の内心の逡巡を悟ったかの様に、眼鏡の小男が問う。

 それに対して、国王は、その目を閉じ、首を振って、静かに、その心情を吐露してみせた。

 

「いいや。あの者は、あの者なりに、ようやってくれたのだ。確かに、失態は失態であるし、戦での敗北を、全てあの男のせいにして恨む者もいるであろうが……。あれも自分の失態を自覚し、その咎を負うべく、自ら志願して帝国の捕虜になったのであろう。それをこの王都という高見にいただけの余が、どうして責められようか」

 

 ……そう、こうして、安全な場にいるだけだった自分が。

 降りかかってきた過酷な運命に何とか抗い続けてきたあの男を責めるなど、傲慢の極みでしかない。それが、例え、心の弱さから過ちを犯してしまった、罪深い男だったとしても。

 

 ひとしきり、英雄と呼ばれた男の運命に、そう思い馳せると、国王はゆったりとその目を開いた。すると、そこには、先の畏れの表情から一変、何よりも強い意志を宿した眼鏡が輝いていた。

「陛下。あの男への御厚情、感謝致します。しかし、あの男が抱える事情がどうであれ、罪は罪。失態は失態です。あの男がこの国に帰ってきた時には、しかるべき罰を与えてやって下さい。それが、王者としての務めでもあると存じます」

「……オルフェ……」

 国王には、告げられた罰則への要求の言葉よりも、何よりも、この男のその眼差しと、ある言葉が心に突き刺さってならなかった。

 

「信じておるのだな。……あの男の帰還を」

 

 あの、連れ去られたら、二度と帰ってくることは出来ないと言われる帝国へ行ったというのに。もうあの男の手には育てた軍も、彼を支える仲間もいないというのに。

 

「まあ、あの男は、昔から不貞不貞しく、しぶとかったのですよ。何せ、初陣で皇帝に、唾吐きかけた男ですから。今度も帝国相手に、存分に唾でも吐き散らかして来ることでしょうよ。東の大公殿下によりますと、心の憂いは取り除かれたようですので、そう心配はないかと」

 

 この、一筋縄ではいかぬ眼鏡の小男に、こうまで言わせるとは。

 ……本当に、不思議な男だ。

 悪魔のように残忍で、時に、子供のような幼さを抱え、数多くの者に憎まれるが、それでもこうして人を惹き付けもする。

 

「……混沌だな、あの者は。全ての、混沌だ」

 

 罪人で、英雄で、子供で、大人で。憎み、愛し、恨み、慕い、断じ、許し、殺し、そして、生かす。

 

 ……あの、人間の相反するものをその身に宿した、男が。

 

「帰ってくる。きっと、この国に、再び、帰ってくるとも……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「帰るーーっ! かーえーるーぞーー! 僕は帰るぞーーーっ!!」

 

 潮の香りの漂う暗闇に、鉄格子の間から、そう決意を投げかけても、何も返っては来なかった。

 無理もない。山びこなど、期待するべくもない。ここは、起伏など何もない、海のど真ん中なのだから。しかも、暗く、何も見通せぬ夜の海だ。

 それに加え、この男がはき出せる声量なんぞ、たかが知れている。今までは声なんぞ張り上げるなんて、貴公子の嗜みから外れたこととして馬鹿にしてきたのだから。

 それでも、男は叫ばざるを得なかった。この、突然降りかかった、いや、大嫌いな従兄弟に降りかけられた運命に、何とか抗いの姿勢を見せるために。

「僕を誰だと思ってる! 北の大公であるエイブリーだ! 帰せーーーっ! 帰せよーーーっ!! このクソ女共ーーーっ!!」

 

「うるさいな、エイブリー。どれだけ罵っても、女騎士達は鳥がさえずっているくらいにしか思っていない。体力の消費だ。いいから、黙れよ」

 

 エイブリーの必死の叫びもむなしく、後ろから冷たい声が、投げかけられる。

 勿論、この北の大公であるエイブリーをこんな目に遭わせた張本人。忌々しい従兄弟の声である。振り返って見遣れば、同じ牢に首輪と手錠を付けてぶち込まれながら、優雅に髪を撫でつけている金の髪の男の姿。

 

「き、貴様ぁ! 何を悠長なこと言ってるんだ! 売られるんだぞ! この海のど真ん中にある島の牢から出られないと、僕らは、このまま海を渡って、帝国で奴隷として売られるんだぞ!!」

 

 彼のその言葉通り、男二人がぶち込まれているのは、有翼の民の王国から、南に海を下って、一日の距離にあった小島にある砦の中の牢だった。あのエリーヤ姫との取引の後、すぐに、男二人は、帰還命令の出ている紅玉騎士団と共に、飛竜に括り付けられて、海を南下。しばらく進んで、外洋に出た途端に、襲い来る激しい風と雷雨に悩まされながら、何とか辿りついたのが、この砦しかない小さな島だった。

 どうやら、ここが、海を渡ってくる竜騎士達の中継地点になっているのだろう。砦には、数多くの竜の為の厩舎や、騎士が寝泊まりするための設備が綺麗に揃っていた。

 考えてみれば道理で、例え飛竜と言えども、不眠不休で何日も海を渡れるものではない。こうしたいくつかの中継地点を経て、休憩を挟みながら、大陸間を移動しているのだろう。他にもこういった中継島がいくつかあるそうだが、哀しいことに、男二人は目隠しされて連れてこられた為、この島が大陸間のどの位置にあるのかすらも、分からずじまいだった。

 

「うーん……。風の感覚からして、多分、エルダーから、南西に……。せめて、星でも見えればなぁ」

 

 暗い牢の中から、鉄格子越しに、金髪の男が位置を確かめんと外を覗く。だが、生憎と、たれ込めてきた雲が空を覆い尽くして、方角を示す星の位置すら確認出来なかった。

「な、何、星なんて眺めてるんだよ! 僕は死ぬかと思ったぞ! 何だ、あの外洋の風は! 羽がもげるかと思った!!」

 金髪の横で、そう銀髪の従兄弟が唾を飛ばすのも無理はない。

 飛竜に乗るのに慣れていたはずの、リュートでさえも、あの外洋の風の猛々しさには舌を巻いたのだから。到底、有翼の民の羽では、渡海出来そうもない暴風。強靱な飛竜でやっと抜けられるだけの風が、常にこの島と有翼の民の大陸の間には吹きすさんでいるのだ。

「まさに、あの風は天然の壁だったな……。それを越えて、何千という軍隊を送り込んで来るのだから、まったく、帝国というヤツは……」

 

 外を窺うのは、これ以上無理と判断して、リュートは、再び牢の中の一角に戻って、悠々と腰掛ける。その態度が、また、銀髪の従兄弟の癇に障ったらしい。先までの苛立ちに増した口調で、さらに、リュートの首もとに詰め寄っていた。

 

「この田舎者! お前のせいで、どうして僕まで奴隷にならなきゃいけないんだ! お前なんて、あの平原の戦いで負けて、更迭された罪人の癖して! お前はその責任でも取ったつもりかもしれないけどな! 僕は関係ないだろう、僕は!!」

「は? 何言ってるんだ。お前だって、勇み足で軍を使ったじゃないか。同類だろう」

「な、何を! 僕とお前を一緒にするな! お前みたいな人殺しの悪魔! 田舎者の、最低野郎! お前なんか、死ねばよかったのに!!」

 

 と、そこまで言って、銀髪の従兄弟エイブリーは、はた、とその口を噤む。

 ……しまった、下手なことを言えば、また、この男にボロ雑巾にされる。この乱暴な田舎者の暴挙に抗うことなど、出来なかったのだ。

 ようやく思い当たった、その答えに、エイブリーはその狐に似たつり目を瞑って、来るべき拳骨に備えた。だが、一向に、鉄拳が彼の頭を襲う様子はない。恐る恐る目を開けて、見遣れば、そこには、意外にも、真摯な眼差しで頷く従兄弟の姿があった。

 

「うん、それでいい。君はずっと、そうやって、僕を罵っていてくれればいいよ、エイブリー」

 

「は?」

 

「僕は言うとおり、最低最悪の人間だ。自分の私情に流されて、兵を失わせた傲慢な人間だ。だから、君は、もう物言わぬ兵達の代わりにずっと、そうやって、僕を罵って、呪っていてくれ。今の僕に必要なのは、僕の理解者でも、協力者でもない。君のような、僕を嫌い、憎む人間だ。ともすれば、独善に陥る僕を省み、多角的に物事を判断するためには、僕を否定する人間が必要だ。だから、君を一緒に連れてきたんだ、エイブリー」

 

「……そ」

 

 告げられたあまりの思惑に、銀狐は絶句していた。だが、すぐに、その発言の意味する事に気づき、手錠の付けられたままに、必死の形相で、金髪の男の襟元に掴みかかる。

 

「そういう所が傲慢だって言うんだよぉおっ!! 僕の意志なんぞおかまいなしに、勝手に決めやがってぇっ! お前の自戒と反省なんぞ、僕が知ったことか! 帰せ! 帰せよぉおっ! 僕を貴婦人達の所へ帰してくれぇっ!!」

 

 ……ひいいいいん。

 おおよそ、大の男のものとは思えぬ、狐が鳴くような高い声で、エイブリーは泣き伏していた。一方で、泣きつかれた金髪の男は、その眉一つ動かすこともない。ただ、淡々と事実を告げてやる。

 

「うん、まあ、単純にお前が嫌いだから、嫌がらせしたかった、ということでもあるんだがな、エイブリー。諦めろ」

「き、嫌いって、それはこっちの台詞だ! この性悪野郎!」

「性悪はお互い様だろう。王妃といい、お前といい、僕の性格の悪さは、絶対に北の大公家譲りだな。それにしても、そう女が欲しいなら、ここには一杯いるじゃないか。ちょっと、羽は生えてないけど、それでも女は女だ」

「馬鹿野郎!! あの女騎士達なんぞ、おおよそ女として認めたくない種族だろうが! あいつら、きっとみんな、女の格好した男なんだよ! みんな、おかまなんだよ!!」


「――誰が、おかまですって?」


 エイブリーの言葉を遮るように、牢の外から、よく通る女の声が投げかけられていた。見遣れば、そこには、女騎士数名を引き連れた紅玉騎士団副団長キリカの姿。

 有翼の民の言葉であるクラース語がわかるキリカは、耳ざとくエイブリーの暴言を拾っていたのであろう。その額に怒りの青筋を浮かべながら、おもむろに牢の中へと入ってきた。

 

「まったく、奴隷の分際で口の減らぬこと。ま、いいですわ。今から、そこの銀髪ちゃんには、たっぷりと自分の身の程を分からせて差し上げましょ。それから、白羽さん、貴方はここから出なさい。姫様がお呼びよ」

「……エリーが?」

「ええ。貴方の連れてきたあの白銀の竜の事で、話がしたいと。ジェック、この方を姫様のお部屋まで連れて行って差し上げて」

 

 そのキリカの命に従うように、彼女の後ろからは、とても女とは思えぬほどの体躯、そして、亜麻色の肌をした女騎士が現れていた。いつぞや、リュートに巨大な戦斧を振り下ろした馬鹿力女である。

 その首元に付いた痛々しい傷跡から察するに、どうやら、この女は言葉が話せないらしい。手を使ったジェスチャーで、後に付いてこいと、リュートに合図を送ってきた。

 

「わかった。行こう。だが、エイブリーは……?」

 

「ああ、この方の事なら、心配なさらなくていいのよ、白羽さん。うふふ、ちょっとした身体検査をさせて頂くだけですわ」

「……身体検査?」

 

 このキリカとリュートの間で交わされた言葉は、リンダール語だったため、エイブリーには、その内容が理解出来ない。だが、目の前の女の妖艶な笑みが、すぐに嫌な予感となって、彼の体を震わせていた。

「お、おい、田舎者。この女達は一体何をするつもりなんだ。お、教えてくれ」

 

「え? うふふふふ。だって、売るための奴隷ですもの。きちんと商品がどれだけの価値があるのか、把握しておかなくてはね。そう、体中、隅々までね」

 

 エイブリーの問いに、返ってきたのは、これまた嬉しげに笑うキリカのリンダール語だった。中でも、聞き捨てならないのが……。

「す、隅々までって……」

「決まってるでしょう? あんなところも、こんなところも、余すところなく。体中全て、よ」

 

 ……あははははは。

 

 告げられた言葉に、思わず、リュートの口から乾いた笑いが漏れる。

 

「ちょ、ちょっと、田舎者! お前、この女の言葉分かるんだろ? じゃあ、通訳しろよ! この馬鹿女共に、『僕は北の大公のエイブリーだぞ! 変な真似したら、ただじゃおかないからな』って、伝えろよ!!」

 

 そう気勢を吐きながらも、哀れなる従兄弟の顔は、もう半泣きだった。特に、にじり寄る女騎士達の手が、何よりも彼に恐怖を与えているらしい。とても、あの王都で、女達をとっかえひっかえ侍らせていた貴公子の顔ではない。

 その様子に、金の髪の従兄弟は、牢の外から、爽やかな貴公子の笑みを浮かべながら、声をかけてやる。


「通訳? いいよ。ねえ、お姉さん方、この銀狐ちゃんが言うにはね……」

 と、途中で女騎士にも分かるリンダール語に変えつつ、リュートが満面の、まるで子猫のような笑みで、告げた言葉は。

 

「『僕、エイブリー。お姉さん達みたいなタイプが好みだから、いっぱい可愛がってね』だって」

 

 

 勿論、その言葉に、女達の目がさらに妖しく光ったのは言うまでもない。

 ちなみに、リュートが、哀れにも素っ裸にひんむかれ、涙ながらに牢の隅でうずくまる従兄弟の姿を発見したのは、これから待っているエリーヤ姫との魅惑の会談を終えた、後のことである。

 

 

 

 


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