第七十四話:鎮魂
……一体、どれくらいぶりだろうか。
こんなに深く、そして、長く眠り、こんなにも清々しい朝を迎えたのは。
いや、それだけではない。
一体、どれぐらいぶりに、こんなに食事が美味しいと思っただろうか。朝に焼かれたパンも、木の実のジャムも、温められたミルクも。その全てが、この体の全てに行き渡るほどの極上の味わいだ。
そして、どれくらいぶりに、この光景が美しいと思っただろうか。全てが、無垢な雪の白に覆われた、一面のこの銀世界が。
今までは、眠りも食事も、ただ、ぎりぎりの所で命をつなぎ止めておくための手段でしかなかった。……復讐の為に、この体を保たせるための、ただそれだけの、義務。
そして、この窓の外に降る雪も、あの兄の死を思い起こさせる、冷たく、寒々しいものでしかなかった。
……だが、再び顧みて、今、自分の目の前にある光景はどうだ。
同じ眠り、同じ食事、そして、同じ雪の光景。
それが、……その全てのものごとが、ただひたすらに愛おしい。
母の入れたミルクも、幼なじみの差し出してくれたパンも、その後ろのゆりかごで、まだ眠たげに口を開ける、赤子のあくびでさえも。
そう全ての今在るものの喜びに、思い馳せて、リュートの心は、この美しい故郷の有り様に、深く、深く、感じ入っていた。
そして、パンを口に運びながら、また、愛おしげに赤子の顔を見遣る。
相変わらず、幸せの塊のような、ふくふくした頬。昨日は兄に似ている、と思った顔も、今日改めて見てみれば、そうでもないような気がする。兄に似ているようで、母であるトゥナにもよく似て……。そうかと言えばどちらにも似ていないような、そんな不思議な顔だ。
突き詰めて考えれば、その感覚は当たり前のことなのかもしれなかった。
……この赤子は、レミルではない。そして、トゥナでもない。『ハイエル』という喜びを意味する名の付けられた、この世でただ一人の人間なのだから。
「……ハイエル。昨日の夜はよく夜泣きしていたね。あんまり、お母さん、困らせちゃ駄目だよ」
食事を終えて、赤子の頬を撫でながら、リュートがそう声をかけてやれば、赤子からは何ともいえない甘い香りが漂ってきた。乳臭いような、生まれたばかりの若葉のような、そんな不思議な香り。
その香りだけで、心が一杯になるほど満たされて、気づけば、リュートは、いつまでも赤子の顔を眺め続けていた。
「リュート。そんなずっと見てなくても大丈夫よ。どこにも行きやしないわよ、まだ飛べないんだから」
そう母が声をかけてくるが、リュートの目はなかなか赤子から離れない。なぜなら、この赤子の表情ときたら、いつまで経っても見飽きないのだから。
……と、リュートが赤子と蜜のような甘い時間を過ごしていた時だった。
突然、ドン、ドン、と大きな音を立てて、館の扉が、激しく叩かれていた。
その焦ったような叩きぶりから、扉越しではあるが、何か尋常でない様子が窺える。その音に、即座に、リュートは、何か嫌なものを感じ取って、赤子の側を立った。
「……あら、お客さんかしら。おかしいわね、こんな雪の日に……」
「いいよ、母さん。僕が出てくるよ」
そう言って、部屋を出れば、戸を叩く音は一層に激しさを増していた。
……こんな、雪の日に、こんなに、焦ったように叩くなんて。……何か、緊急事態でも起こったのか? それとも……。
内心で、そう警戒を強めながら、リュートは館の扉の閂を開け、外で扉を叩く人物を迎え入れようとした。
「……はい。どちらさ……」
その続きの台詞が、突然の衝撃によって吹っ飛ばされる。
あまりにも、突然の、頬への衝撃によって。
しかも、尋常でない強さの、衝撃によって、だ。
歪んだ頬と、思わず倒れ込んで尻餅を付いてしまった戸の外の雪の冷たさに、ようやく、リュートは自分が頬を殴られたのだと、理解した。
そして、それと同時に、真正面から、罵声が浴びせかけられる。
「――この、馬鹿猫がぁっっ! やっぱりここに居たか!!」
よく、聞き知った声。
その声に、リュートは即座に撲たれた頬を上げて、真正面を見遣る。
すると、そこには、一面の白の世界に、くっきりと浮かび上がる、黒の羽。そして、それに合わせたかのような、黒髪に、黒い服。
その男の姿に、ふるり、とリュートの心が震えていた。
「……ら、ランドルフ……」
そう呼びかけた男の様相は、いつもの澄ました大貴族のものではなかった。先に撲った手をぶるぶると握りしめ、かつてない程の憤怒の表情を、その顔に浮かべている。いや、それだけではない。いつも、綺麗に撫でつけられた黒髪は、酷く乱れ、心なしか、顔もげっそりと憔悴した様子だ。
「……ど、どうして、あんたが……。そ、それに、何か、あんたボロボロなんだけど……」
「――うるっさぁい!! 誰のせいだ、誰の!!」
その言葉と共に、再びランドルフの拳が、リュートの頬を殴りつけていた。予期せぬその攻撃に、またもリュートの体が、吹っ飛ばされる。
「な、何すんだよ! 来て早々、何で二回も殴られなきゃいけないんだよ!」
「黙れ! この山猫!! お前なんぞ、二発殴ったくらいじゃ、私の気が治まらんわ! その面、ぼっこぼこにしてやらんと気が済まんのだ! 覚悟しろ!」
リュートの反論もむなしく、ランドルフは有無を言わせぬ顔つきで、倒れたリュートの胸ぐらをひっつかむと、無理矢理彼の体を引き起こした。そして、またも、その口から怒声を飛ばしながら、リュートの顔に、拳を入れる。
「ああ? お前、勝手にあの城を抜け出して、こんな所にまで逃げるなんぞ、一体どういう了見だ! もう、我慢がならん! その顔、原型留めて居ないくらいにぼこぼこにしてやるわ!」
「ちょ……、ちょっと待ってよ! 逃げるって、そんな! 僕は逃げるつもりなんか……」
「黙れ! 問答無用だ!!」
あまりの剣幕に、話が通じないと諦め、ようやく、リュートは振り上げられる拳に対して、防御の姿勢を取る。
「ら、ランディ! ま、待って……! 話を……! 話を……」
そう言う間に、防御の隙を突いて、またもランドルフの拳がリュートの顔にめり込んでいた。たらり、と小さくリュートの鼻から、血まで流れ出ている。ここまでくると、もはや、この跳ね返りの男も黙ってはいられない。
「……待てって言ってんだろうが!!」
反撃とばかりに、リュートの拳がランドルフの腹に、ぶち込まれていた。
この一撃に、堪らずランドルフの足が、がっくりと地に折られる。そして、そのあまりの衝撃に、みっともなく、げほげほと地面に向けて、胃からせり上がってきたものを吐き散らかした。
「……お、お前、……この凶暴なクソ猫が……」
「待てっていうの聞かないからだろうが! いきなり来て、殴ったのは、そっちだろ!」
「うるさい、黙れ!!」
またも隙を突いて、倒れ込んでいるランドルフの足が、リュートの右足を払っていた。堪らず、バランスを崩して、リュートの体が、再び雪の上に転がる。
「何、すんだよ!!」
「やかましい! 今日という今日は、お前をぶちのめしてやらなきゃ気が済まないんだ!」
「はあ?! ああ、いいよ! 上等だ、相手になってやるよ! ぼこぼこに出来るもんなら、やってみろよ!!」
そう言って、互いが襟元に掴みかかり、顔に向けて、殴らんとした、……その時。
すこん、すこん、と音を立てて、男達二人の頭に、鍋が投げつけられていた。
慌てて、男二人が、扉の後ろを見遣ると、そこには、この家の女主人、義母リーシャの姿。その手に、料理用のお玉を持ちながら、にっこりと微笑んでいる。そして、その無言の圧力を顔に湛えたまま、指を男達の後ろに向けて、一言、言う。
「……外でやりなさい、外で」
その有無を言わせぬ母の微笑みに、堪らずに、男達は、場所を雪の降る中庭へと移していた。
そして、ランドルフは纏っていた毛皮を、そして、リュートは、だらしないままにしていた部屋着を脱ぎ捨てると、互いに手をばきばきと鳴らして、相手を牽制する。
「このクソ猫。お前と会ったときから、その生意気な面、いつか殴ってやろうと思ってたんだ。覚悟しろ」
「はあ? あんた如きにやられる僕だと思ってんの? 来いよ、返り討ちにしてやるからよ。このヘタレ大公が」
「誰がヘタレだ、誰が!!」
その聞き捨てられない言葉に、ランドルフの拳がリュートの顔を狙わんと、繰り出される。
「あんたしかいないだろ、あんたしか!! なんだかんだと、過去に囚われて、うじうじ悩んでいるあんたしか!!」
そう言葉を返しながら、リュートは迫り来る拳を、軽くあしらった。そして、お返しだ、とばかりに、右拳をランドルフのみぞおちへと向ける。
「父親の時だって、クルシェの時だって、そうだったじゃないか! そうやって、くだらない過去に拘って、結局最後まで自分からは解決しようとはしないんだから! これが国を支える大公だなんて、笑わせるよ!!」
「黙れ! くだらない過去に拘ってるなんぞ、お前にだけは言われたくはないわ! いつまでも、兄、兄、と、本当に鬱陶しくて、女々しい!! これが選定候で、王子かもしれんだなんて、ちゃんちゃらおかしいわ、この愚図猫!!」
互いを罵倒しながら、しばし、拳の攻防が続く。だが、どちらとも、決定的なダメージを相手には与えられないようで、すぐに決着が付く様子はない。
「ふん! あんたみたいなレギアスに守られてる坊ちゃんなんか、僕に勝てる訳ないんだから、おとなしく降参しておいたほうがいいんじゃないの?!」
「はん! そっちこそ! 昔のお前ならいざ知らず、今のお前の拳なんぞ、屁でもないわ! こんなに……」
――ばきり。
ランドルフの拳が、見事に、リュートの頬を撲っていた。
「……こんなに、弱りやがって……」
はあ、はあ、と息を切らせながら、ランドルフが、雪の上に転がった痩せた白羽を、哀しげに見つめる。
「馬鹿野郎……。本当に、馬鹿なんだから、お前は……」
「……ば、馬鹿とは何だ、馬鹿とはぁっ!!」
その憐憫の視線に、耐えきれなくなったように、リュートが勢いよくその体を引き起こした。そして、その勢いのままに、今度は自分の拳を、ランドルフの頬へとめり込ませる。
「馬鹿はそっちだ、馬鹿は!! 何にも、考えてない癖に! 父親の真意も、クルシェの真意も……。毒蛇達の企みのことだって、そうさ! あんたはいっつも考えなし過ぎるんだよ!!」
「うっさい! 私は、私なりに……」
「鈍い!」
がつり、と鈍い音を響かせて、リュートの足がランドルフの腹を、抉っていた。
「鈍すぎるんだよ、あんたは! そうやって、人の気も知らずに……」
「じゃあ、お前は知ってるって言うのか! ああ? お前は人の気持ちなんか、何でもお見通しだとでもいうのか! 驕るなよ、山猫!!」
先のリュートの攻撃に増したランドルフの蹴りが、今度はリュートの脇にめり込む。これには堪らず、体を蹌踉めかせるリュートに、ランドルフはさらに追い打ちだとばかりに、拳を腹に入れてきた。
そして、その攻撃に思わず、雪の上に倒れ伏したリュートの上に、間髪入れずに、馬乗りになる。
「お前こそ、人の気持ちなんぞ、これっぽっちもわかっとらんくせに! 私が……、私が、どれだけ……!!」
馬乗りになったままに、ランドルフが、ぐい、とリュートの首もとをねじ上げた。そして、この男と別れた時から、いや、もっとそれ以前から、この男に抱いてきた思いを告げてやる。
「……私が、どれだけ心配したと思ってるんだ、馬鹿野郎……」
「ら、ランドルフ……」
その黒羽の男の見せた表情に、碧の瞳が大きく揺るぐ。
見たことのない程の……怒りと、そして、今にも潤みそうな、真摯な瞳。
「私に、……何も言わずに、勝手に居なくなりやがって……。どんなに、心配したか……。分かっているのか……?」
絞り出された言葉と、目の前の男の乱れように、リュートはようやく、一つの事実に思い当たった。
「あんた……、そう言えば、どうして、僕がここにいるって……」
「締め上げたんだよ、お前の部下の近衛隊士二人! そうしたら、クレスタに向かったと吐いたから……」
……もしかして。
語られた言葉に、さらにリュートの体が揺るぐ。
「もしかして、あんた、……あの後、僕をすぐに追ってきてくれたのか……?」
「……当たり前だろう……」
考えれば、おかしな事だった。
リュート自身は、いくらか休ませては来たが、脚の速いブリュンヒルデでここまで飛んできたのだ。それを追って、すぐに飛んで来たとしても、所詮は有翼の民の速さでしかない。それが、こんなにすぐにここまで追って来られる、ということは……。
「あんた、もしかして、……休まずに、ここまで?」
その答えは、待つまでもなかった。
それは、何よりも明確に、彼のぼさぼさの髪、そして、憔悴した様子の顔が語っていたからだ。
「あんた……、クルシェが……。あんたの弟のクルシェが、あんな風になってしまったばっかりだっていうのに、どうして……」
もう、その心はボロボロだろうに。
あの、心を開く事が出来ぬままに、死んでいった弟の事だけでも、この男の心を、酷く打ちのめしているだろうに。
……どうして。
「……死んだら、どうしようかと思った……」
リュートの上に、馬乗りになったままで、ランドルフが、そう小さく呟く。
「お前が、……居なくなったと聞いて……。逃げたのではないかと、怒りを感じると同時に……、ずっと、ずっと、……心配だった。……お、お前が……し、死ぬつもりなんじゃないかって……。クルシェや兄を追って、クレスタで、死ぬつもりじゃないか、と……」
絞るように吐き出されたその言葉に、リュートは即座に返す言葉を持たない。
「あ、……あ、あの……。僕は、そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりじゃなかったら、何なんだ!! いっつも、いっつも、人の心配余所に、好き勝手しやがって! ここに帰りたいなら、私に一言言ってからにしろ! 私だって……」
……私だって、お前をここに、ずっと帰してやりたいと思っていたんだから。
小さく、聞き取れない程の声音だったが、確かに、ランドルフはそう呟いていた。
「ら、ランドルフ……」
「あの、王都に行く前からずっと……。辛そうなお前を見るたび、そう思っていた。あの兄が死んだ後に、無理をさせず、お前をこの地に帰してやればよかったと……。それなのに、お前は、ずっと無理ばかりして……、意地を張って……。そんなお前が、何も言わず、いきなりここに行ったなんて聞けば、そりゃ、心配にもなるだろうが!! そんな人の気持ちもお前はわからんのか! 人のことを心配するという当たり前の気持ちも、お前はわからんのか!!」
気づけば、馬乗りになったランドルフの拳が、再びリュートの顔を撲っていた。
だが、リュートには、その頬の痛みも感じなかった。頬よりも、何よりも、………自分を撲ったランドルフの、その顔こそが痛々しかったからだ。
「……ランドルフ……。どうして。……どうして、あんた、そんなにも僕の事を……」
そう言い淀むリュートの前で、きらり、と光るものがあった。目の前の、黒曜石に似た、黒の光だ。
「約束! しただろうが!! あのカルツェ城の戦いの前に、約束しただろうが、お前と! 私が大公になったら、国を思い、民を思い、そして、臣下を思う大公になる、と!!」
ぐい、とさらにきつくリュートの首元が締め上げられる。気づけば、もう、潤んだランドルフの瞳とぶつかりそうな距離だった。
「お前は……私の臣下だろうが、リュート!! 私を奮い立たせ、支え、そして、守ってくれた大切な臣下だろうが! それを……、それを、……誰が見捨てられるか……」
その言葉に、リュートの脳裏に、思い起こされるのは、あの一年前の初陣だった。
初めて、この男の臣下として参加したあの戦い。初めての戦で、あの時の様子はあまり覚えていないが、ただ、一つ、確かに覚えている事がある。
……この人を慕い、何よりも、この人を守りたいと、そう思っていたのだ。
この、大切な、主君を。
「リュート……。私は……そんなに、強くないぞ……。父上を失い……、クルシェを失い……。今また、お前まで失ったら……、私は……、私は……、どうしたら……」
ランドルフの顔が、伏せられる。
おそらく、見られたくないのだろう。この、臣下に、自分の……主君たる自分の泣き顔を。
だが、リュートには、それが出来ない。馬乗りになられ、首元をねじ上げられているリュートには、その泣き顔をこの男に隠すなんて、出来なかった。
ただ、その碧の瞳から、熱い思いをあふれ出されるままに、言葉を紡ぐ。
「ご、……ごめん……。ごめんなさい、ランドルフ……。ぼ、僕のせいで……。僕のせいで、クルシェが死んだのに……。僕は、あんたの弟を、殺したのに……」
――ばきり。
その言葉の先を砕く様に、ランドルフの拳がリュートの口元を撲っていた。
「馬鹿野郎っ!! お前は何を聞いとったんだ!! お前! クルシェの最期に、何を聞いとったんだ!!」
「……えっ」
「クルシェは! お前を守ったんだろうが!! 慕ったお前を! 誰よりも、勇ましく、守ったんだろうが!! お前が私を守ろうとしてくれたように、クルシェもただ、お前を守ろうとしたんだろうが!」
一瞬、リュートの脳裏に、平原の戦の前の、クルシェの姿が思い起こされた。
誰かに、似ていると思った、あの姿。
……ああ、あれは。
「……僕と、……同じだったのか、クルシェは……。僕と、同じ思いで、ただ、戦場に……」
その問いに、大きくランドルフの首が頷かれる。
「そうだ……。だから、……だから、お前が殺したなんて言って、……クルシェの死を汚してやるな。あれは、あれの意志で、そうしたのだから。あれの覚悟を……そう、軽んじてやるな……」
そう、切なげに言い絞ると、ランドルフは、ようやく、その濡れた黒い双眸を、碧の瞳へと向けていた。そして、極めて真摯な声音で、リュートに向けて言う。
「生きろ、……リュート。お前は、生きてなければならないんだ。お前に、命をくれたクルシェがいいと言うまで、どんなに苦しくたって、生きなければ、ならないんだ。それが、……何よりもの、あいつへの償いなのだから」
告げられた思いが、……何よりも、深く、リュートの心に染み渡っていた。
自分を守って果てた弟の思いと。そして、その思いを受け止めて、なお、自分を思ってくれる兄の思いと。
「生きろ。私だけじゃない。レギアスも、オルフェも、お前の部下達だって、皆、皆、そう願っている。お前に、生きて欲しいと。お前を、失いたくないと。みんな……、みんな、お前を必要としてるんだ、この……クソ山猫が」
そして、自分を取り巻く、全ての人々の思いと。
「……僕は……」
全ての思いを胸に、リュートが感じたのは、何よりも、この愚かな自分を恥じ入る気持ちだった。
……僕は、一体、何を絶望することなどあったのか。
ヨシュアと半島で話したときに、こんな人生など、こんな忌まわしい運命など、いくらでもくれてやると思った。こんな愛する人たちが次々と奪われてゆく哀しい世界なんて、もううんざりだと思った。
だが、そうでは、なかったのだ。
奪われたものよりも、遙かに、この世界には、自分には幸せがあったのだ。
ずっと待ち続けてくれていた義母。
新しい命と、それを産んでくれた幼なじみ。
体に染み渡る美味い糧に、美しい故郷。
そして、自分をこうして追ってきてくれる、大切な……。大切な、手が。
「誰が……」
誰が、死ぬものか。
こんな素晴らしいものを、一体誰にくれてやるものか。
僕は誰に嫉妬されたって仕方がないくらいに、幸せなのだから。
――誰が、一体、こんな素晴らしい人生を、手放してやるものか。
「誰が、……誰が」
そう小さく呟くと、リュートはその涙の浮かぶ瞳を、きらり、と意味ありげに光らせていた。
その光に、ランドルフは、ふと、嫌なものを感じ取る。そして、それは、杞憂ではなかったようだ。即座に、ランドルフの耳に、獅子の咆哮を思わせる怒声が届いていた。
「……誰が、クソ山猫だ、この真っ黒ヘタレ主君め! 何、いつまでも飼い主ぶってんだ、死ね!!」
――ばきり……!!
見事に、リュートの拳が、馬乗りになったままのランドルフの顔にめり込んでいた。
その突然の衝撃に、堪らずランドルフの体が反り返り、その隙をついて、下になっていたリュートがランドルフの体を反転させる。そして、そのままランドルフの体を雪の上に、転がすと、先までの立場と入れ替わるように、リュートがランドルフの上に馬乗りになった。
「……ふん!! 形勢逆転だな! 今までぶん殴られた分、倍返しにしてやるよ」
「き、……貴様ぁ」
そう言って、馬乗りになられたランドルフが見上げたのは、どこまでも生意気で、不敵な、かつての跳ね返りの男の顔だった。
その顔に、嬉しくもあるのだが、何よりも……。
「……ぼっこぼこにしてやんよ」
……何よりも、この、貴公子の笑みこそ、恐ろしい。
「や、やめろ! リュート!! 話そう! 話せば、わかる!! 話せば、わかるから! な、リュート?! な? な?」
「ふん……。話し合いが全てを解決したら、この世に戦争はなくなるな。うん、素晴らしい、素晴らしい」
「す、素晴らしいって、お前……!! や、や、や、や……」
――……やーめろーーーー…………。
鈍い拳のめり込む音と共に、ランドルフの断末魔が、雪の港町に木霊する。
その様子を館の中で、つぶさに観察していた女二人は、窓の外で、冥府の道を着実に歩みつつある大公を背に、小さくあきれ果てたように、溜息をついた。
「ふぅ……。まったく、この国を背負う大公と選定候が、何でこんな雪の中で殴り合ってるのよ」
「まあまあ、トゥナちゃん。うふふ、いいじゃないの。男の子は、こうでなきゃあ」
「……本当に、男って馬鹿ね」
それから、一夜明けて、ランドルフが目を覚ますと、もう雪は止んでいた。
どうやら、疲れがたまっていたらしい。気づけば、日は、もう随分高い所まで昇っている。
未だ寝ぼけた頭と、ズキズキと痛む顔を何とか起こして、ランドルフが、ニーズレッチェ家の館の広間まで降りて行くと、そこには、昨日自分をぼこぼこにしてくれた男の姿はなく、彼の義母と、幼なじみの女とその赤子が出迎えてくれた。
広間いっぱいに、ふぅわりと広がった女と赤子の匂いと、焼けたパンの香りが、ランドルフの心を甘くくすぐってくる。
「あら、大公様。よくお眠りになりまして? 朝食出来ておりますわ。なにぶん、突然のご訪問だったので、大したものはありませんけれど」
「い、いや。女主人殿、こちらこそ、すまない。……それより、あいつは……?」
おそらく、酷い色をしているであろう顔を撫でつけ、ランドルフは差し出されたパンに口を付ける。甘さはないが、香ばしい、美味いパンだ。
「リュートなら、朝早く起きて、外でじっと一人で何か考えている様子でしたけど。呼んできましょうか……」
そう丁度、女主人が提案しているときに、広間の戸が開き、白羽の男が入ってきた。
こちらも、目の周りや、口元が酷い色合いになった顔をしている。とてもではないが、あの王都で貴婦人達を虜にした貴公子の顔とは、ほど遠い顔である。
「ただいま、母さん。……っと」
ちら、とランドルフの方を一瞥だけして、目も合わせずに、白羽の男が、彼の隣の席に着席した。
そのまま、お互いに、何を言うべきか、分からないままに、しばし、気まずい沈黙の時間が流れる。そして、お互いが、その手持ちぶさたに、用意されたミルクに、口を付けた。
と、その時、二人の様子を見とがめた母が、教育的指導、とばかりに、一言、義理の息子を窘める。
「リューちゃん。ランちゃんに、ちゃんとご挨拶しなさい。お友達でしょう」
――ぶうぅっ!!
思いがけない言葉に、男達二人の口から、大量の白濁液が噴出する。
「か、かかかかか母さん! お、おおおおおおともだ……、お、お、おとも……」
「ち、ちちちちち違うっ! わ、私は、こ、こんな男と、その、と、ととととともだ……、ともだ……、なんかでは……」
その男二人の慌てふためきようを、にこやかに見つめながら、母が、有無を言わせぬ微笑みで、何やら男達二人の前に、どんっ、と籠を置いてきた。中に、ワインと、小さな杯、そして、切り花がいくつか入った小さな手持ち籠である。
「か、母さん? こ、この籠……」
「うふふ。レミルの墓参り。私、今日久しぶりに墓参り、さぼるから、貴方達二人、お願いね。ぴっかぴかにしてきてやって」
「……は、墓参り……?」
勿論、あの女主人の笑みに、男二人は逆らえるはずもなく、食事を終えて、二人、無言のままに、雪の港町を、さくさくと雪を踏みしめる羽目になっていた。
一夜明けたクレスタは、昨日までの雪空とは、うって変わった晴天の空に、一面の銀世界の照り返しが、ひどく眩しい。
「なあ、リュート。……お前、さっきまで何処へ行ってたんだ。朝食も食べずに……。きちんと食事を取れと、昨日あれほど……」
墓へ行く道すがら、街を抜けた辺りで、ようやくランドルフの方から自分の前を行く白羽に向けて、気まずい沈黙を打ち破った。それに対して、隣で今まで仏頂面を決めていた男も、ようやく、その口を開き始める。
「別に。ただ、朝の散歩に行ってただけさ。朝飯なら、さっきあんたと一緒に食べただろ。ぐだぐだ言うなよ、うるさいな」
「うるさいって……。だ、大体、何だ、こんな朝早く、寒い中に散歩なんて……」
そう喋りながら、踏み出したランドルフの足は、もう雪に取られそうに不如意だった。昨日さらに降った雪によって、町はずれにある墓のある丘は、さらに積雪量が増したのだろう。もう辺りは、見渡す限りの白の世界に覆われていた。
「ふん……。いいだろ、別に。色々、考えるには、寒くて、真っ白なこの世界が丁度よかったんだ。今まで見て、聞いて、そして体験してきた数々の物事が……はっきりと今、見えてきたんだ。……今まで、混乱してきた頭を、全て一度、無に出来る、この白の世界のおかげで」
「見えてきた……?」
「ああ。今まで自分がしてきた事。そして、自分が犯した罪。そして、……これからの、僕のすべき事が……」
一面の銀世界に、振り向き、ランドルフの前に現れたのは、何よりも輝くエメラルドの様な煌めきを宿した、男の双眸だった。その凛とした、そして意志の強い瞳に、ランドルフの心に、確かな安堵感が生まれる。
「リュート、お前……。いいのか? お前が望むんだったら、ここであの子供と一緒に暮らしてもいいんだぞ? あとの事は私が……」
「……いいや。もう、僕は、逃げないと決めたんだ。この運命からも、この世界からも。僕は……」
そう言い淀むと、リュートは先を行っていた足を止めて、今度はランドルフと肩を並べて歩き始めた。
「ねえ、ランドルフ。僕は、明日、ここを発とうと思うんだ。それで、……あんたも一緒に、来てくれないか。少し、会って貰いたい男がいるんだ」
「……会って貰いたい男?」
「うん。少し、驚くかもしれないけれど……。でも、あの男の事、あんたにも知っておいて貰いたいから……」
勿論、ランドルフにはリュートの言う男、というのが誰の事なのか見当もつかない。
そうこうしている間に、足の方は勝手に動いて、雪の中を進んでいたらしい。気づけば、もうレミルの墓の前まで辿り着いていた。
「……レミル。おはよ」
おもむろに、そう声をかけて、リュートが墓の上に降り積もった雪を撫で下ろす。
「ごめんね、今まで、来られなくて。心配、してたよね。……ごめん」
そのいつもの態度とはうって変わった兄への素直な台詞に、隣に居るランドルフは、少々苦々しい気分になりながらも、しぶしぶと墓の前に、籠の中から花を添えてやる。すると、もう一つ、籠の中に入っていたワインと、杯の存在に気づいて、それをリュートに問うてやった。
「おい、これどうしたらいいんだ」
「もう。いいからコルク開けてよ。ホント、坊ちゃんは使えないな」
本当に、可愛くない、相変わらずの反抗ぶり。それに、些か青筋を立てながらも、ランドルフは言うとおりに、瓶の蓋を開けてやった。そして、それを受け取ったリュートが、杯を墓の前に置いて、そこに開けたワインをとくとくと注いでやる。
「レミル……。そう言えば、僕ら、兄弟なのに、一度も一緒に酌み交わす事が出来なかったね……。本当は、もっと……腹を割って話せばよかったのに……。ごめんね……」
白い大理石と、一面の雪景色に、赤い葡萄酒の色が、よく映える。
何よりも、生命を宿した体に流れる、熱い血潮によく似た、赤が。
「レミル……。でもね、もう心配しなくていいよ。僕は……」
またそう言い淀むと、リュートはおもむろに、その胸元をまさぐって、一つのお守りを取りだした。あの義母が縫った、中に兄の空色の羽の入ったお守りである。そして、それを手にしながら、何を思ったか、墓の前に積もった雪を、手だけでざくざくと掻き分け始めた。
「おい、リュート……。冷たくないか。一体、どうしたんだ、急に……」
「いいんだ。これを……。このお守りを、ここに返してやろうと思って……」
……この、羽をくれた兄の元に、全て返してやりたいんだ。
そう小さく意志を語りながら、さらにリュートの手が雪を掻き分けて行く。だが、昨日降った雪は、かなりの積雪になっており、なかなか地面まで辿り着かない。だんだんとその手がかじかんで、動かなくなってくる。
「……くそっ。あと、ちょっとなのに……」
と言い淀む、冷たいリュートの手に、ふと、暖かい手が触れていた。
「いい。私も手伝おう」
気づけば、隣の黒い男の手だった。その触れる暖かさに、ふわり、とリュートの顔に笑みが宿る。
「うん。手伝ってくれる?」
「……ふん。いつも、そう素直だといいのにな」
しばらく二人がかりで掘り進み、ようやく、雪を掻き分けて、地面に小さな穴を開けることが出来た。その穴の中心に、リュートはそっと、持っていたお守りを置いてやる。
「これでいい。これで、いいんだ。……これで、やっと、あの子が戻れる……。あの、僕の中に居た、十の頃に、心を殺された小さな子供が、これで、やっと、冥府の世界へ、帰れるんだ……。あの、小さな骸骨が……」
震えた、だが、何よりも愛おしみに満ちた声音で、そう言い贈ると、リュートはそのお守りに、別れを告げるように、土をかけてやった。
「……さよなら、レミル。……さよなら……。そして、ありがとう……」
そうリュートが告げた後ろで、どこからか、子供の笑い声が響いた気がした。
だが、後ろには、誰もいない。
ただ、白い……無垢な、白い世界が広がっているだけだ。
……ああ、あれは。
振り返ることをしなかったその背に、リュートは小さな四つの羽を見た気がした。
空色と、薄紫と、薄桃と、そして純白の小さな翼。
あの、帰らぬ日々の、光景を。
目を閉じ、再び、開けてみれば、そこにあるのは、その色とりどりの羽とは似ても似つかぬ、濡れた様な漆黒の羽だった。そして、その羽の色に似た落ち着いた声音で、静かに語りかけてくる。
「リュート。私も、ここに置いていく。……私の父と弟への思いと、そして……」
ぺしり、とランドルフの手が、軽くリュートの額を撲っていた。
「お前への、心配もな」
「……ランドルフ」
「ふん。もう、心配いらんだろう。お前は、もう……、今までよりずっと、……頼もしい目をしている。これからは……」
そう言い淀むと、ランドルフは恥ずかしげにその翼を翻した。そして、その陰で、小さく呟く。
……これからは、対等の、……友だからな、と。
その言葉に、しばし、惚けたように、リュートの身は雪原の中に佇んでいた。
そして、ようやく、言われた意味を飲み下すと、その心に、いい知れない暖かみが広がっていくのを感じる。気づけば、足が雪を掻き分けて、去りゆく黒羽を追っていた。
「待って! 待ってよ!! ねえ、最後の言葉、よく聞こえなかったんだけど! ねえ! もう一回言ってよ!!」
「う、うるさいっ! 黙れ、黙れ、黙れ!! 私は何にも言っとらんぞ! 何にもな!!」
「嘘! 確かに言った! 確かに言ってたよ! ふーん。そうなんだ、あんた僕と……」
「――やっかましい!!」
そう断ち切るように叫んだランドルフの前に、すっ、と何かが差し出されていた。
見遣ると、それは、先に墓に供えたワインの残りと杯。それに怪訝な色を浮かべるランドルフの前で、何かいたずらげな表情を浮かべた金髪の男が言う。
「……とりあえず、一緒に飲まないか?」
その提案に、一瞬で、ランドルフの表情が変えられた。勿論、驚きと、その奥に隠された、喜びの表情に。
そして、その頬を朱に染めたまま、あさっての方向を向きながら、ぶっきらぼうに答えてやる。
「ふ、ふん! の、飲んでやらんことも、ないぞ」
その承諾に一瞬、顔を見合わせて笑うと、男達二人は、再び肩を並べて、雪原の中を歩き出した。
「またまた、照れちゃって。素直じゃないんだから、ランディも」
「お前、いい加減、その呼び方改めろ。……ったく、私の方が年上なんだから、少しは敬え。大体、お前、そもそも酒が飲めるのか、子供の分際で」
「うーん、そう言えば、僕、割と酒乱らしいよ。確か、レンダマルにいた頃、酒飲んで、衛兵に絡んだ記憶がある」
「ええ? そいつは、ごめんだな。お前に絡まれるなんぞ、想像しただけで鬱陶しい。誰か、私以外にも一緒に……と。あ、そう言えば」
教えられたリュートの体質に辟易しながらも、ランドルフはその脳裏に一つの言葉を思い出していた。そして、何か諦めたように溜息をつくと、リュートに向けて新しい提案をしてやる。
「なあ、酒は、お預けにしておかないか」
「……何で?」
「いや……。レギアスが、な。いつか、私と、オルフェと、お前と……。四人で飲み交わすのが夢なんだそうだ。だから、今、お前と飲んだら、きっとあの男が妬くから……」
告げられた巻き毛の男の思いに、思わずリュートの口から、ぷっ、と小さく笑いが漏れていた。
「わかった。いいよ、ひとまず、酒はお預けだ」
そして、小さく頷くと、一面の白い世界を眺めながら、隣にいる友人に、新しい提案を告げてやる。
「……じゃあ、とりあえず、今日はミルクで乾杯といこうか」
「ふん……。悪くないな」
白と黒。
対照的な二つの翼が、白い無垢な世界に映える。
この国を担う、二人の若者の、残した確かな足跡と共に。この、始まりの港町の雪原に。
……さく、さく、さくさく。
小気味よい音を立てながら、男達の歩みは、止まることなく、白い世界に跡を残し続けていった。