第七十三話:母子
そこは、一面の銀世界だった。
ルークリヴィル城を発って数日。愛竜ブリュンヒルデを人目に付かぬように何度か休ませながら、ひたすら北東へと向かうと、あの懐かしい港町がようやく眼下に見えてきた。暦の上では秋とは思えぬ寒波によって、この東部に位置する街、クレスタも雪化粧を纏い、いつもなら漁師が集い賑わっている港も、いつにないほどに閑散としている。
そんな静かに雪の降り積もる故郷を、上空から眺めながら、リュートはブリュンヒルデを駆って、街から少々離れた林の近くへと降り立っていた。
「ブリュンヒルデ。ここで待っておいで。お前が見つかると、きっとみんなパニックになってしまうから」
そう愛竜に言い残して、リュートは一人、林を後にする。
林を出ると、もうそこは町はずれの近くだった。見上げれば、白く霞む街を見下ろすように、領主の館が建っている。あの、かつて自分が養子として育った懐かしくも、愛おしい家である。
その家を町はずれからしばし眺めた後、リュートはその家の門とは反対方向になる裏手の丘へと、その翼を羽ばたかせていた。あの戦から、満足に風呂にも入っていないので、完全に血と油がぬぐい去れておらず、酷く飛びにくい翼だ。だが、何とかその翼を力に任せて羽ばたかせ、飛んでいくと、その眼下に、一面の白の世界にぽつんと佇む四角いものが見えてきた。
降りて近づいてみれば、それは自分の身長の半分ほどしかない、白い石だった。
辺りの景色同様に、白い雪を頭に被った、冷たく、無機質な大理石。その前面には、大きな翼の彫刻、そして、その下には、ある者の名が、刻み込まれていた。
その名を、冷たいリュートの手が、そっと撫で上げる。
「……レミル。……会いたかったよ」
石に刻まれたその名は、まさしく兄の名に相違なかった。
あのかつての幼い自分の生きる意味だった、太陽の様な男の名。
その懐かしい名に、自然と、リュートの碧の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「会いたかった。ずっと、ずっと、会いたかったんだよ……」
あの、雪の戦場で、変わり果てた姿を見たときから、ずっと、幼い十の頃の自分は、心の奥底でそう叫び続けてきた。だが、その思いと、今の自分は乖離して、こうして会いにくるということすらも、出来なかった。
ただ、兄が死んだという忌まわしい出来事を、どうにも自分の心が受け止めきれず、その現実から目を逸らしたくて。そして、捌け口をどこかに見つけたくて。
気が付けば、剣をその手に取っていた。
そうなれば、もう、後は簡単だった。
人を欺き、利用し、憎むべき敵をただ打ち負かせば良かったのだ。幸いなことに、自分はその才能があったらしい。『白の英雄』とまで呼ばれ、果ては軍の指揮官にまで上り詰めて、戦を率先して行った。
……その結果は、どうだ。
ゲリラ達の死。ニルフ達の死。疫病に、身内からの陰謀に、この自分の心に巣くった虚無感。ただ、忌まわしく、そして、ただただ呪わしい現実があっただけではないか。
そして、あの平原の戦で、クルシェを失い、戦にも負けた。
全て、自分のせいで、だ。
いくら、運命がどうだったのであれ、ここまで歩んできたのは、誰の選択でもない。この、自分の選択だったのだ。心の奥底に、十の頃の幼い自分を飼い続けていた、この呪わしい自分の。
見遣れば、その羽は、実によく、自分の内面を体現していた。
ぬるぬるとした油に、生臭い血。
これこそが、この自分の偽らざる真実の姿ではないか。
この、周りに降り積もった雪の白さとは、似ても似つかぬ、汚濁の色。
ふと、その脳裏に、この墓に眠る男の言葉が思い起こされる。
――『俺は、お前のこの真っ白な羽が大好きだぜ』
確かに、ここに眠っている男は、そう言ったのだ。果てる戦場に行く前に、確かに、あの、太陽の様な男は、そう言い残していたのだ。
こんな汚濁に染まった羽ではなく、ただ、あるがままの自分の羽の色こそが、好きだと。
……なのに。
「ごめん……。ごめん、レミル……。僕は、僕は……貴方が好きだと言ってくれたこの羽を、こんなにも汚してしまった……。ただただ、やり場のない怒りに任せて、血を被りつづけてきたんだ。すべて、貴方の死の、そのせいにして……」
自分が汚したのは、自らの羽ではなかった。
自分は、何よりも、兄という存在を汚し続けてきたのだ。兄の仇をとって、復讐を果たすという大義名分のもとなら、何でも許されると、勝手に自分に思いこませて。兄の死を、何よりもの免罪符にし、血を被り続けてきたのだ。
その事実が、激しくリュートの心を抉っていた。
――自分の恨みは、何よりも兄を汚し、そして、自分の恨みは、誰よりもクルシェを殺した、と。
あの一騎打ちで、クルシェを殺したのは、将軍ではない。間違いなく、彼を殺したのは、恨みを糧にしてしか生きられなかった自分の心の弱さだった。それだけではない。自分の恨みは、自軍の兵をも焼き殺し、戦の勝利すらも失ったのだ。
「……レミル。僕は、もう、恨みを糧にして、戦うことなんか、出来ない……。僕は……」
辿り着いた、その答えが、口から漏れる。
だが、それに対する答えは、眼前の冷たい大理石からは、一言も返っては来なかった。ただ、静かに、雪の降る白の世界の中に、佇んでいるだけだ。真っ白な、無垢な白の世界に、冷たく、無機質に。
気づけば、しんしんと降る雪の音が、かき消されていた。
聞こえ来るのは、自分のものとは思えぬほどの、激しい嗚咽だった。……後悔と、懺悔と、やるせないほどの哀しみの入り交じった嗚咽が、ひたすらに、白い世界に木霊する。
もう、いくら泣いたか分からないほどに、泣いて、ふと、自分の体を見遣ると、うっすらと雪が積もっていた。手もかじかんで、既に感覚を失っている。
……このまま、ここで、一緒に。
一瞬、心の奥底で、甘い声が響く。
まだ、あの深い深い自分の心の深淵で、小さな骸骨が、かたかたとその顎を鳴らして誘っているのだ。
……こっちへ、おいで。こっちは、静かで、冷たくて、そして、安心だよ、と。
「…………っっ。…………っ!」
負けてはいけない。負けてはいけないのだ、と心に言い聞かせるが、かじかんでいるのは、もう手だけではなかった。頭の芯が、痺れるようにして、思考が定まらない。
……駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!!
闇に、足下が掬われる。手を離せば、もう足下に広がっているぽっかりとした虚無に、全てを持って行かれそうだった。
――さく、さく……。さく、さく……。
かじかんだ脳髄に、突然、小気味よい音が、響いていた。
……さく、さく、さく、さく。
ふと、気づけば、それは、誰かが雪を踏みしめる音だった。だんだんと、こちらへと近づいてくる。
しばらくして、足取りが、一層に速く、そして、近くなる。音の感じからして、一人のものではない。おそらく、二人いるのだろう。
……さくり。さくり。
小さな音を立てて、その足音の持ち主達は、リュートの背後で、ぴたり、とその足を止めていた。
「リュート……?」
後ろから、投げかけられたその声に、一瞬で、ついさっきまで、リュートを引きずり込もうとしていた闇が、遠のく。そして、彼の心の奥底から溢れ出たのは、ただただに、懐古の涙だけだった。
「リュート? リュートなのね?」
「リュート……。リュート!!」
聞こえてきたのは、女の声だった。一人は心の奥底に潜む子供が、切望して止まない淑女の声。そして、一人は、ずっと、心の奥底で謝りたいと願ってきた若い女の声だ。
その声に、涙混じりに、リュートは、振り向いていた。そして、小さく、彼女らの名を紡ぐ。
「リーシャ母さん。……トゥナ……」
そこには、かつて、自分を実子のように慈しんでくれた義母。そして、その後ろには、かつて兄の件で嫌った幼なじみの女の姿があった。二人とも、雪の中で、傘を差して、母はその手に花を、そして、幼なじみは小さな毛皮の塊を抱えている。
ふと、その毛皮の塊のようなものに、目をこらすと、ぴくり、と小さな毛皮が動いた。それに、慌ててトゥナがその毛皮を抱え直す。
……何だ、あの毛皮。
と、泣きはらした目で、そう思う間に、リュートの頭上に、傘が差し出されていた。
「――お帰りなさい」
気づけば、義母が、リュートの頭の上に降り積もった雪を、撫で落とし、一言、そう声をかけていた。
帰還を、喜ぶ、その言葉を。……ただ一言、『お帰りなさい』、と。
「やっと、帰ってきたわね、この私の……もう一人の息子は」
顔を上げれば、そこには、今にも涙を溢れさせんばかりに微笑む、義母の顔があった。その懐かしい微笑みに、どうしようもなく、リュートの心が震える。
「か……、母さん……」
「ずっと、ずっと、待っていたのよ。貴方が、ここに、帰ってくるのを。ずっと、……ずっと」
その言葉と同時に、差し出された傘が、雪と共に、宙を舞っていた。
予期しなかった、だが、心の奥底でずっと求め続けてきた、この再会。その喜悦に、堪らずに、血の繋がらぬ母と子は、その体を抱き合わせていた。ふわり、と思わず、懐かしい香りが、その鼻孔をくすぐる。
「母さん……母さん……、母さん……」
そう名を呼びながら、抱きしめた義母の肩が、嫌にほっそりとしていて、それが帰ってくることの出来なかった不肖の息子にとっては、何よりもやるせなく、心に突き刺さった。
「リュート、お帰り……」
抱き合う母と子の後ろから、今度は、幼なじみの女の声が、投げかけられる。その声に、リュートが義母との再会の喜びから、顔を上げて後ろを見遣ると、そこには、今までないほどの穏やかな微笑みを浮かべた、幼なじみの姿があった。
「お帰りなさい。待ってたのよ。私も、お義母さんも、そして……」
そう涙混じりに笑むと、幼なじみは抱えていた毛皮の塊を、そっと、リュートの前に差し出してきた。
「……この子もね」
その毛皮にくるまれていたもの。……それは、この白い世界に、ほんのりと染まった、愛らしい桃色。何よりも、生き生きとした生命の息吹の色をその頬に宿した、小さな赤子だった。
雪の墓石から母にいざなわれ、リュートが通されたのは、かつて義理の家族と暮らした館の、暖炉のある広間だった。
あの心を閉ざしていた幼き日と、変わらぬ暖かい家族の部屋。調度も、間取りも、少しも変わっている所がなかった。ただ、唯一違うのは、この家に男の匂いが一切しない、ということだけだ。
「……よかったわ。あのままあそこにいたら、凍傷になるところだったわね」
赤子をゆりかごに寝かせた後、トゥナが、昔取った杵柄とばかりに、手際よくリュートのかじかんだ手を、丁寧に手当してゆく。その見事な看護婦の手つきになされるがままにしながら、リュートがぽつり、と尋ねる。
「トゥナ……。その……、あの、……あの子は……」
「ハイエル」
その問いに、トゥナは短い言葉で答えた。そして、手当てを続けながら、愛おしげに、ゆりかごの中で、目をきょろきょろと動かしている子の顔を見遣る。
「……あの子の名よ。私と……そして、レミルの子供」
……ああ、やはり。
返ってきた答えに、リュートは感慨深げにその首を縦に振る。
道理で、似ているはずだ。あの顔、あの髪、そして、あの羽。
全て、あの慕った兄を思わせる、懐かしい色を宿している。
その愛おしみに満ちたリュートの眼差しを受け、トゥナが、その口から詳細を語り出す。
「あの後ね、しばらく半島の集落に厄介になっていて、雪が溶けてから、クレスタに帰ってきてこの子を産んだの。父は、酷く驚いていたけれど、リーシャ奥様が私をこの館に迎えたいと仰ってくれて、それで、ここであの子を産んだのよ」
「母さんが……」
と、リュートが母の方を見遣ると、母は、暖炉の上の鍋で何かを温めている所だった。くるくると鍋の中で、木べらを回しながら、恥ずかしげに答えてくる。
「うふふ、最初はびっくりしたんだけどねぇ。だって、いきなり、レミルの子、妊娠してます、なんて。まさか、私、お婆ちゃんになるなんて、思ってなかったから」
「ご、ごめんなさい、お義母さん……。えっと……」
結婚もせずに妊娠してしまった事に、未だに負い目があるのだろう。トゥナが思わず謝罪の言葉を口にするが、気のいい義母はそんなことなど一向に気にする様子はないようだ。
「いいのよ。私、子供大好きだもの。ましてや、自分の孫だなんてね」
そう満足げに微笑む義母に、リュートは一つ、疑問を口にする。
「ところで、母さん。どうして……。どうして、あの場所に僕を……」
考えてみれば、おかしな事だった。この突然の帰還は、義母に勿論、知らせていなかった事だ。なのに、どうして、あの墓に自分を迎えに来ることが出来たのか。
その問いに、義母はまたいつものように微笑んで答える。
「日課なのよ」
「……日課? ああ、そうか。レミルの墓参りが……」
と、納得するリュートの言葉を遮るように、トゥナの首が横に振られた。
「いいえ、違うわ、リュート。墓参りの為じゃないわ。お義母さんが、毎日、あそこに行っていたのはね、貴方を待つ為なのよ。貴方が帰ってくるのは、あそこしかないから」
「……えっ……?」
告げられた真実に、激しくリュートの心が揺さぶられる。
……毎日、毎日。義母はあの墓の前に、日参していたというのか。この、自分を待つために。この、ふがいない息子が、いつ帰ってきてもいいように、いつも、あの場所で。
「母さん……」
ふと、握りしめた胸元に、小さなお守りが揺れていた。この義母が縫って、兄が持たせてくれたお守りだ。その中に収められた小さな手紙の言葉が、リュートの心に突き刺さる。
――『早く帰ってらっしゃい。ずっと、待っているから』
あの、言葉どおり。……待っていてくれたのだ。
義母は、自分たちがこの地を離れてからずっと、ここで、ひたすらに帰りを待ち続けてくれていたのだ。
その事実は、母の無償の愛の証拠に他ならなかった。この、血の繋がらぬ、不肖の息子に対しての。
何物にも代え難い、その母の深い愛に、自然と息子の口から、謝罪の言葉が漏れる。
「……ごめん……。ごめんなさい……」
「いいえ」
息子の謝罪に、義母は木べらを回していた手を休めて、否定の言葉を口にした。そして、鍋を火から下ろすと、哀しげで、そして、申し訳なさげな眼差しを、息子に向ける。
「いいえ。謝らなければならないのは、私の方よ。私は、ずっと、貴方を騙し続けてきたんだから。貴方の出生の秘密を知っていて、それをずっと黙ってきた。そして、あのお亡くなりになった東大公様から、手紙をもらった時に、その事が何を意味するか知っていて、尚、貴方の身をここに留めておく事が出来なかったのよ……。私は……、無力な母親だったわ。だから、せめて、……いつでも貴方がここに帰ってこれるように、と……。貴方が選定候であろうが、何だろうが、きっと、貴方が帰りたいのは、この場所だとそう思って……」
そう言い絞ると、はらはらと、懺悔の涙が義母の瞳からこぼれ落ちた。守ってやりたくても、主君と夫に逆らえず、この義理の息子の持つ運命にも抗えなかった、一人の母としての懺悔の涙が。
「ごめんね……、ごめんね……。辛かったでしょう。私……貴方を守ってやれなかった。……お母さんなのにね」
もう、その言葉だけで、十分だった。
リュートには、その最後の言葉だけで十分だった。如何に、自分の出生の秘密によって、受け入れがたい運命が降りかかってきたのだとしても、自分にとって、その母の言葉だけで、全てが救われるような気がした。
「いいんだ、母さん。これが、僕の運命だったんだ。最初は、……ずっと、黙っていた旦那様も恨んだけれど、もう、僕は誰も恨んでいないよ。旦那様だって……」
そう言いながら、リュートは王都での義父の姿をその脳裏に思い出させる。
あの、娼館に行った帰りに寄った大神殿で、誰にかまうことなく、息子の死を悼んでいた一人の父親としての姿。あの時は、なんだか居たたまれずに、思わず逃げ出してしまったが、後から思えば、あの父としての姿を哀しく思うと同時に、嬉しくもあったのだ。
……ああ、この人も、自分と同じように、レミルを大切に、思ってくれていたのだ、と。
だから、あの王都で別れるときに、自分は、彼に自ら深い深い一礼をして臨むことが出来たのだろう。今まで育ててきてくれた礼と、レミルという兄を自分に与えてくれた礼を込めて。
「母さん。……旦那様は……?」
男っ気のない館に、ふと疑問を感じて、リュートは義母を見遣る。すると、帰ってきたのは、何か諦めたような義母の否定の仕草だった。
「あれから、一度も帰ってきていないわ。多分、まだ王都にいるのでしょうけれど。たまに、手紙がくるから……」
「……そんな……」
どうして、義父は帰ってこないのか。
その理由が、リュートには、少し分かるような気がした。
……ここは、明るすぎるのだ。この、家族が過ごした暖かい広間は、息子の死を受け止めきれぬ男にとって、きっと、明るすぎて戻って来られないのだ。だから、多分、彼は、今もあの暗い大神殿に通い詰めて、一人でひっそりと泣いているのだろう。
「旦那様……」
そう義父の哀しみと、切なさに思い馳せると、リュートの脳裏に、もう一人、行方の気になっている人物の事が思い出された。
「そうだ、トゥナ。マリアンは? マリアンは、今、どうしているんだ?」
その問いに、姉もどこか諦めたような否定の仕草を見せる。
「私がクレスタに帰ってくる前に、あの子、一度父さんの所へ顔を見せたらしいの。それで、王都で医者になりたいから、と、父さんの王都での学生時代の事とか、色々聞いて行ったらしいわ……。父さんは、私には何も教えてくれずに、もう、この街を去っていったけど……」
その返答を受けて、リュートの心に、一つ嫌な事柄が浮かぶ。
確か、トゥナの父は王妃のスパイだったはずだ。その父から色々聞いて、王都へ向かったとすれば……。
……やはり、あの心理的な陰謀は、マリアンが……?
辿り着いたのは、最も忌むべき答えだった。
とてもではないが、かつての幼なじみが毒蛇と結託し、自分を陥れるような真似をしているとは、信じたくはない。信じたくはないが……。
と、考えたくない思いに縛られているリュートの思考を中断するように、赤子が甲高く泣き声を上げていた。即座に、母親のトゥナがゆりかごに駆け寄って、赤子を抱き上げる。
「あらあら、ハイエル。おむつ……じゃないわね。おっぱいかしら。リュート、今から授乳するから、あんたちょっと、あっち向いててよ」
「……えっ……」
突然の幼なじみの言葉に、即座にリュートはその頬を赤く染めて、あさっての方向を向く。とてもではないが、幼なじみとはいえ、それは、直視してはいけない光景だろう。
「ご、ごごごごめん。あ、あの、しばらく、部屋、出ていようか?」
「いいわよ、そのままで。ずっと、貴方と話がしたいと思っていたのよ」
「……僕と?」
そう疑問を呈するリュートと、背を合わせて椅子に座ると、トゥナは、赤ん坊に乳をふくませながら、静かにその思いを語り出した。
「ええ。あのルークリヴィル城で、貴方と別れて、この子を産んで……。それから、私、ずっと後悔していることがあったのよ。私、貴方と、レミルに謝らなければと、ずっと……そう思っていた」
「僕と、……レミルに、だって?」
女の口から語られた意外な言葉に、思わずリュートは振り向きそうになる。だが、その視界に、ちら、と女特有の胸の膨らみが入り、慌ててその視線を元に戻した。
「そうよ。私、本当に思いやりのない女だったわ。……ごめんなさい、リュート。あの時、私も、レミルの死が受け入れがたくて、貴方にも妹にも、酷い八つ当たりをしてしまったわ。貴方だって、マリアンだって、同じようにレミルの死が辛かったのに、まるで自分だけが不幸なヒロインぶって……。もっと、貴方達と、哀しみを分かち合って、いたわり合っていればよかったのにと……。この子を産んで、改めてそう思わされたのよ、リュート」
その言葉に、即座にリュートは、その頭を振る。
「……ち、違う! 違うよ、トゥナ。謝らなければならないのは、僕の方だ。僕こそ、君に酷い事を言ってしまった。『みっともない』、とか、あんな酷い事……。僕こそ、その……、八つ当たりしていたんだ。子供という生きる希望が与えられている君に……。どうして、君だけにそんな明るい未来が、救いがあるんだと、そう思って……。ご、ごめん……。本当に、すまなかった」
かつての幼い自分を恥じ入るように、リュートは幼なじみを背にしたまま、深く頭を下げた。それに、トゥナは小さく頷いて、一言、……いいの、と許しの言葉を口にする。そして、赤ん坊にふくませる乳を代えながら、もう一人の男についても、思いを語り出した。
「それからね、私、レミルにもずっと謝らなければ、と思っていたのよ」
「……レミルに?」
ええ、と背の向こうで、小さくトゥナが頷く。
「私、彼にも酷いことをしてしまったの。私……、彼が出征するとき、私という存在を一人残して、危険な戦場に行こうとする彼が、どうしても許せなかった。私よりも、どうして、戦場を取るの? そんなに戦いが大事なの? 私の意志や、心配する辛さなんか、これっぽっちも思いやってくれないの? どうして、男って、こんなに馬鹿なの? ……そう思ったわ」
心なしか、トゥナの声が震えているのは、聞き間違いではないだろう。……多分、泣いているのだ、と、背中を合わせたリュートにも分かる程の声音だ。
「でもね、違ったのよ。彼は、そんな風には少しも思ってなかったのよ。……彼は、……ただ、守りたかっただけなのよ。私という存在を、……ただ、守ってくれようとしただけだったのよ……」
絞り出されたその言葉に、リュートの心も、揺れる。
……『守りたかった』。
どこかで、誰かが、言っていた思いだ。……そう、ごく最近、自分の身近にいた、少年が……。
そう、その言葉を発していた少年の存在を脳裏に浮かべるリュートに、トゥナは、さらに自分の思いを告白し続ける。
「彼は、……どうして、と問う私に、こう言ったわ。『……俺は、男だから』って。その時には、私、その意味が分からなくて。……何、男という性に酔ってるのよ、って、馬鹿にしてしまったの。でもね、そうじゃ、なかったのよ。……そうじゃなかったって、今なら、分かるの」
背中越しに、トゥナの肩が震えている。赤子をその腕に抱きながら、おそらく、ぼろぼろと涙を流しているのだろう。声も、もう嗚咽混じりで、内容が上手く聞き取れないほどだ。それでも、尚、リュートは彼女の思いを一字一句聞きのがすまいと、その耳を静かにそばだてる。
「この子が産まれて、ようやく分かったの。彼の、『守りたい』って言葉が。『男だから』って言葉が。……私が、こうして、赤子に乳をやるように、彼も、私とこの子に、ただ安全で、平和な世界をくれようとしただけよ。あの時、妊娠してるなんて、私も気づいてなかったけど。でも、彼は、きっと、その生きるという本質が、そして、そのために男は戦うという本質が分かっていたのよ。私よりも、ずっと、ずっと……。なのに、私は……、あんな風に、彼の心配を煽るように戦場にまで付いていってしまって……」
かつての自分の軽率さと、浅はかさを恥じるように、トゥナの声がかき消える。聞こえてきたのは、ただ、後悔の念の嗚咽だけだった。
「私がすべき事は、そんなことじゃなかったのよ。ただ、……ただ、『行ってらっしゃい。ずっと、待っているから』、と。そう言ってあげれば良かっただけなのに……。そう言って、彼を安心して戦わせてあげれば良かったのに……。最後の最後まで、自分の我を通して、彼に心配をかけて……。そして、そのままに、彼を死なせてしまった……。ただの一言も、彼に安心をあげることもせずに……。私は、本当に嫌な女よ……」
「……トゥナ……」
赤ん坊をその両腕に抱きしめながら、若い母は、亡き恋人を想い、ただひたすらに泣いていた。そして、その慟哭に導かれるように、再びリュートの瞳からも、涙がこぼれ落ちる。
……ああ、この女も。
この人も、子供という希望をその腹に宿しながら、ずっと、後悔という闇を抱えていたのだ。それを、自分は、少しも慮ろうとしなかった。
永遠に愛する男の胸に抱かれぬ女の哀しみと、そして、永遠に本当の父に抱かれぬ、この赤子の哀しみを。……これっぽちも。これっぽっちも、だ。
「――リュート」
母と子の哀しみについて、そう忸怩たる思いを噛みしめるリュートの前に、乳をやり終えた母が、そっと赤子を差し出していた。そして、涙をぬぐい去った赤い眼差しで、一言言う。
「抱いてあげて」
そう差し出された赤子は、乳を飲み終えた満足感からか、さらにその頬を赤く染めて、まるで幸福の塊のような顔をしていた。くるくると愛らしい目を、リュートの碧の目にも向けて、何か、喋るかのように、口をぱくぱくと動かしている。
その仕草と、あまりの愛らしさに、思わずリュートはその首を横に振っていた。
「……で、出来ない」
赤子から目を逸らして、自分の手を見遣れば、あの戦場からろくに風呂にも入っていない、汚れた手だった。名も知らぬ騎士の血。対峙した将軍の血。そして、あの慕わしい黒羽の少年の血。全ての血が、未だに爪の間にこびりついた、汚濁にまみれた手だった。
そんな手で、どうして、こんな無垢な赤子が抱けよう。
こんな、……人殺しの手で。
「出来ない。……僕の手じゃ、駄目なんだ。僕は……汚い。汚い手を、しているから……」
そう言い淀んで、リュートはその手を後ろに隠そうとした。だが、それをすぐに、横にいた義母の手が、絡め取る。
「どうして? 貴方の手は、こんなにも素晴らしい手なのに」
……素晴らしい?
言われた意味が分からぬリュートの手に、今度は、片手で赤子を抱いたトゥナの、空いているもう一方の手が触れる。
「いい? リュート。言ったでしょ? 私はね、雪が溶けるまで、ずっと、あの半島に居たのよ。あの、貴方が戦って、そして守ってくれた半島に。貴方がもし、あの城を奪回して、守ってくれなければ、身重の私は、とっくに帝国兵に殺されていたわ」
そう言いつのると、トゥナはリュートの手を取って、そのまま抱えている赤子の頬へとそれを触れさせた。
「いい? 貴方が居なければ……、『白の英雄』と呼ばれる貴方が居なければ、この子は産まれていなかったの。……貴方のおかげで、この子は産まれたのよ。貴方が、この子の命をくれたのよ、リュート。貴方の手は、この子の命を守ってくれた手でもあるの」
触れた赤子の頬は、かじかんだ手に、酷く暖かくて、凍り付いていた自分の心までも、溶かすようだった。
……全ての希望と未来を宿した、薔薇色の生命。
こんな、素晴らしいものを。
「こんな、素晴らしい子を……」
自分は、守れたというのか。
あの、どうしようもなく愚かだった自分が。この、生きる希望を。
堪らずに、リュートはその両腕に、赤子を抱きしめていた。そして、一言、この命を産んでくれた女に、頭を垂れて言う。
「……ありがとう。……ありがとう、トゥナ。この子を、産んでくれて、ありがとう……」
「リュート……」
泣きながら赤子を抱く息子の肩を、今度は血の繋がらぬ母が抱きしめていた。
「リュート、よく聞いて……。貴方もね、こうして産まれてきたのよ。貴方だって、……こうして、皆に希望を与えるように産まれてきたのよ。私、ずっと覚えているもの、貴方が産まれた日の事……」
そう諭すように息子に言うと、母は、その脳裏に、もう二十年ほども前になる、春の日の出来事を思い起こさせた。
「貴方が産まれたとき、貴方のお父さんも、お母さんも、本当に喜んだのよ。駆け落ちして、どうにも希望を見いだせなかった二人に、貴方が希望を運んできたのよ。例え平民として、貧しくしか暮らせずとも、家族三人で、幸せに生きていこうと……」
その言葉に、嫌でもリュートの脳裏に、父と母の顔が浮かぶ。もしかしたら、血の繋がっていないかもしれない父と。そして、いつも少女の様に微笑んでいた美しい母の姿が。
……そうだ。確かに、僕たちは幸せだったじゃないか。
僕は、……幸せだったじゃないか。この、世界で。この、港町で。確かに、幸せだったのだ。
それ以上、何があっただろうか。
「リュート。皆、皆ね……。こうだったのよ。皆、こうして産まれてきたの。貴方も、レミルも、私も、トゥナも。皆、こんな小さな赤ちゃんだったのよ」
……みんな、みんな。
国王も、大公も、選定候も、平民も。
ランドルフも、レギアスも、オルフェも。……ゲリラの戦士達も、ニルフも、クルシェも。そして、おそらく、敵である帝国人さえも。
みんな、みんな、こんな赤子だったのだ。善も悪もない。ただ、ひたすらに無垢な赤子。
「……なのに、どうして」
どうして、あんな悲劇が起こるのか。
どうして、人を嬲り、蔑み、蹂躙し、奪い、奪われ、そして、殺し合わねばならないのか。
そのどうしようもない命題が、抉るように、リュートの心に突き刺さってならなかった。
だが、今の自分に、その問いに答えるだけの器量はない。今はただ、……ただひたすらに、泣きたい。
すべての思いに、今、どうしても涙を流したくて、ならないのだ。
死んでいった者の。生きている者の。そして、これから、生きるであろう者の、すべての思いに。
――ことり。
しばらく、一人、赤子を抱いたままで泣き伏していたリュートの傍らに、突然、義母の手によって、一つの杯が置かれていた。
その中には、なみなみと、注がれた暖かいミルク。
おそらく、先に暖炉で温めていたものだろう。砂糖も入っているらしく、甘い匂いが、優しく鼻をくすぐってくる。
「とりあえず、飲みなさい。それから、ゆっくり眠るといいわ。ここは、貴方の家なんだから」
そう言われ差し出された杯に、おずおずと、リュートは口を付けた。
口いっぱいに、甘くて、まろやかな乳の味が広がる。そして、飲み下せば、まるで、五臓六腑に染み渡るような、暖かさ。
その何ともいえない味わいに、思わず、リュートの口から、小さく言葉が漏れていた。
「……美味しい」
それは、あの兄が死んだ日以来、初めて彼が感じた、食べ物の味だった。
この世界で生きるために、必要であり、何よりも尊い、命の糧の味。
――生きたい。
その味をすべて胃に収め、ただ、ひたすらに願ったのは、狂おしいまでの、その生への執着だった。