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第七十一話:終焉

「総員、退避! 退避ーーっ!!」

 

 劫火が舐めるように覆い尽くしている平原に、ランドルフの命令が木霊する。

 だが、時は既に遅しといった様相で、騎士達を追いつめんとしていた有翼兵の一団は、見る間に炎に包まれていた。その間に、騎士達は現れた紅玉騎士団の手によって、南とへ撤退を開始。それは、同時に、この戦の終りを意味していた。

 南のエルダー城に向けて、去りゆく帝国軍を、火の向こうに眺めながら、地上で指揮を取っていたランドルフが、ほう、と一つ安堵の溜息を漏らす。

 

「……あっちも、これ以上仕掛けてくる気はないということか……」

 

 正直、ランドルフにとっては、これ以上紅玉騎士団が戦闘を仕掛けてこないことは、僥倖であった。火にまかれていない兵士もまだ残っているとはいえ、これ以上煙る戦場で、飛べぬ有翼軍が戦っても、勝ち目はなかったからだ。とはいえ、あちらも、元々少ない騎士の内、かなりの数をこの戦で失っており、後の事を考えれば、これ以上戦闘を続けるのも、得策ではないと判断しての撤退だろう。

 

「……正直、引き分け……、いや、敗北か」

 兵達に、消火と負傷兵の救助の命令を下しながら、ランドルフは凄惨な戦場を、再び見回す。未だ、舐めるように、枯れ草を焼く炎、そして、一面を灰色に染める煙。

 

 その煙の向こう、丁度、北の方向に、ゆらり、と一つ大きく揺れる影があった。羽のあるシルエットから、間違いなく有翼兵であろう。何かを抱えるようにしながら、蹌踉めいて、こちらに近づいてくる。

 

「……りゅ、リュート!!」

 

 そこから現れたのは、血と油と、煙で酷く汚された白羽だった。その凄惨な姿に、ぞくり、とランドルフの背が震える。だが、それよりも、彼を恐怖させたのは――……。

 

「ら、ランディ……。た、助けて……。クルシェが……、クルシェが……」

 

 漏らされた懇願の言葉が示すとおり、ランドルフの心臓を何よりも打ちのめしたのは、リュートの腕の中にいた弟の存在だった。

「クルシェ!! クルシェ!! どうした!」

 呼びかけて、ようやく目を開けた弟の顔は、もう白に近い蒼白だった。見ると、体には、おそらく帝国のサーベルによると思われる刀傷が刻まれている。とてもではないが、助かりそうにもない、傷が。

 その傷に、思わず、ランドルフの足が、がくがくと震えだす。

 

「助けて! クルシェを助けて!! お願いだ、ランディ!! お願いだ! ぼ、僕は、もう飛べないから、クルシェを……! どうか、軍医の所まで……!!」

 熱く、息苦しい炎の中を、クルシェを抱えて走ってきたのであろうリュートの体は、もうボロボロだった。羽は焦げ、自慢の金の髪も先が縮れている。

「わ、わかった……! だが、どうして……どうして、クルシェが……」

 

 弟の体を急いで抱き取りながら、漏らしたランドルフのその問いと同時に、がっくりと、リュートの体から力が抜ける。そして、そのまま、地にひれ伏して、まるで懺悔でもするかのように、言葉を絞り出した。

「ごめん……。ごめん……!! 僕のせいなんだ……。僕の……。僕を庇って、クルシェは……。僕が、一騎打ちで気を抜いたばっかりに……。クルシェが、僕の盾になってくれて、将軍と相打ちに……」

「な、なんだと?!」

 告げられた事実に、激しくランドルフの心が揺れる。

 

 ……あの、一騎打ちで。あの、将軍と。あの、弱々しかった、クルシェが。

 

 かつての弟の姿をその脳裏に思い起こさせるランドルフの腕で、小さく、黒羽が動いた。

 

「あ、兄上……。お、お願いです……。下ろして、ください……」

 

 見遣れば、血にまみれた唇を必死に動かして、弟が懇願していた。

「お、ろして……。ぐ、軍医の所に、い、行っても、ぼ、僕はもう助かりません、から……。それよりも……、兄上に……。兄上と、お話したい事が……」

「クルシェ! もう喋るな!」

「いいから……。下ろして……。リュート様も……、こっちへ……」

 最期の懇願とばかりのその願いに、ランドルフは火の回らない安全な草むらに、クルシェの体を横たえてやる。抱き下ろした弟の体は、まだ青年と言うには幼さの残る軽い体で、その事が、さらにランドルフの心をきつく締め付けていた。

 そんな悲痛な表情を浮かべる兄の頬に、震えながらも、弟の手が、そっと伸ばされる。

 

「……ようやく、こうして、お話し出来ますね、兄上。ごめんなさい、いつも、兄上の事、避けてて……」

 

「く、クルシェ……」

 

「ごめんなさい……。あ、兄上の事……、大好きだったんですよ……、本当は。でも、僕の出生の秘密を知ってしまってからは、どうしても……兄上と、向き合う事が出来なくなってしまって……」

 かたかたと、震える右手が、ランドルフの頬に、赤い筋を付ける。クルシェと、そして、将軍の血の混じった赤だ。

「クルシェ……! もう、いい。いいから、早く、軍医を……。レギアス! レギアス! 軍医を連れてこい!!」

 そう命令して、場を立とうとする兄の手を、ぐい、と血まみれの弟の手が引き戻す。

「兄上……、聞いて。聞いて……。ぼ、僕は、自分がメイド腹の庶子だと知って、自分に酷く劣等感を抱くと同時に、兄上が、うらやましくて、妬ましくて、なりませんでした……。この家を継げて、れっきとした母上がいて……。何もかも、僕は兄上に敵わないんだ、と、兄上を見るたびに、……辛くなってしまって……。それで、ずっと、避けてきたんです……。兄上も、僕と会うとき、ずっとぎこちなかったから、……本当は兄上は、血が半分しか繋がっていない僕を疎ましく思っているんじゃないか……って……」

「ち、違う!! 違う! それは……」

 言いつのるランドルフの前で、ふわり、と弟が笑みをもらした。あの、かつてまだ幼かった頃のランドルフが、初めて恋をした女に似た、その笑みを。

「知ってます……。昨日、レギアス達との会話、聞きました……。兄上、本当は……」

「……なっ!! ば、馬鹿、お前!」

 凄惨な現状だというのに、思わず赤面してしまった兄の、その初々しさに、弟は、尚もいたずらげに笑う。

「ふふふ……。あの王都で、初めて、兄上のそんな顔、見た時。僕は……、初めて、兄上を身近に感じたんです……。兄上だって、完璧な人間じゃないんだな……。僕が、……お助け出来る、余地は、あるんだな、と……。そう思って……」

 

 こふり、と、またも小さくクルシェの口から鮮血が漏れる。リュートの手によって、応急処置はしてあるものの、深く刻まれた傷が、じわじわとクルシェの命を浸食しているのであろう。顔も、先のものより、ずっと血の気が無くなっていた。

 その様子に、堪らず、リュートが駆け寄って、彼の手を握りしめる。

「クルシェ! しっかりしろ! 今、レギアスが軍医を……!!」

「……リュート様」

 リュートの言葉を遮るように、クルシェは、握られた手を、きつく、握りかえした。そして、またも、ふわり、と微笑んで、言葉を紡ぐ。

「あ、なたの、おかげなんですよ、リュート様。あなたのおかげで、僕は、……変わろうと思ったんです。自分を否定し、劣等感を抱くのをやめて、……一人の男へ、変わろうと……。それを僕にさせてくれたのは、貴方なんですよ、リュート様……」

「……クルシェ……」

「貴方は……僕の恩人で……憧れでした。……だから、そんな貴方に、あの毒蛇達に頭を下げさせてしまったことが、どうしても、悔しくって……。ずっと。悔いていました……」

「お前! そんな事……! まさか、お前、そんな事を苦に思って……」

 悲愴な顔で詰め寄るように、そう問うリュートに、クルシェは小さく首を振って答える。

「いいえ。それも、ありましたけど……。何より、僕は、ずっと貴方をお守りしたいと思っていた。……あの王都で、貴方の……お辛そうな顔を見たときから……。ずっと、僕は貴方に恩返しがしたいと……、ずっと、貴方の事を助けて差し上げたいと、思っていたんです……だ、だから……」

 

 ――ごふっ、ごふっ……!

 

 クルシェの口から苦しげに吐き出された鮮血が、間近に寄り添うリュートとランドルフの顔をも赤く染め上げる。

「もう、もう、喋るな、クルシェ! ほら、レギアスが、軍医を……」

 そうリュートが指し示した先に、何があるのか、クルシェには、もう判別が付かなかった。ただ、ぼんやりと、霞がかかったような世界。その中で、兄と、リュートの声だけが、鮮明に聞こえている。

 それが、クルシェには、何よりも、心強く、何よりも、暖かかった。そして、その声と、流れ出る自分のなま暖かい血に、一つの光景を思い起こさせる。

 

「リュート様……、僕の命は、……あのガンゼルク城で、ニルフさんから貰った命なんです。……貴方を慕って、付いてきたニルフさん、そして、兵士達の命です。みんな、この国を……、この国の英雄である貴方を、守りたいと、思ってたんですよ……」

 

 

 告げられた言葉に、激しくリュートの心が抉られた。あの戦で、助けてやれなかった、ニルフ。そして兵士達の思いに。

「に、ニルフが……? へ、兵士達も……?」

「だから、僕も、……同じ様に、しただけです。貴方なら、きっと……この国を救って、下さると……。そして、僕も、ニルフさん達と、同じように、戦いたかった……。ただ、それだけなんです。……だから……」

 そう言うと、クルシェは打ち震えているリュートの手を握りしめ、そして、その視線を今度は兄、ランドルフの方へと向けた。

「……僕は、……一人の男として、戦っただけです。……だから、兄上。リュート様を恨まないで差し上げて下さい……。僕は、自分の意志で、あの場に飛び込んだんですから……」

 

「クルシェ……」

 

 向けられた意志の強い弟の眼差しに、兄は、もう弟の名を呟いてやることしか、できない。ただ、ただ、弟の成長ぶりと、覚悟と、そして、命を奪いゆく流れる血が、切なくて。気づけば、その黒の両眼から、はらはらと涙がこぼれ落ちていた。

「兄上……。僕は、貴方の弟でよかった。……本当は、もっと、貴方のお役に立ちたかったのだけれど……。ごめんなさい、兄上。そして……、お願いです。リュート様を……。リュート様を、守ってあげて下さい……」

 流れ落ちる涙が、弟の頬に、ぽたぽたと降り注ぐ。それを、血で汚れた手で、ぐい、と拭き取ってやりながら、兄は、その頭を垂れて、深く、深く頷いていた。

 

「ありがとう、兄上。……約束ですよ。貴方と、リュート様なら、この国を、きっと……」

 

 そこまで言い絞ると、クルシェの瞼が、苦しげに瞬かれた。もはや、自分の意志では、瞼すら開けるのが困難なのであろう。ようやく駆けつけてきた軍医が、即座に、処置を施す。

「クルシェ! クルシェ、駄目だ!! しっかりしろ! しっかりしろ!! 死ぬな! 死ぬな!!」

 辺りに、半狂乱のリュートの声が木霊する。その声を遠くに聞きながら、クルシェは瞼の裏に、一つの光景を思い起こさせていた。

 

 いつか、見た、あの白羽の男。

 あの、レンダマルから兄たちが出征する折に、初めて見た、白羽の若者が。

 

 ――『誰だ! 出てこい!!』

 

 そう言って、剣を突きつけられたあの時から、ずっと、感じていた予感があった。

 

「リュート様……。貴方は、風です。猛々しくて、……荒々しい。そして、この翼を持つ民を、新しい場所へいざなってくれる……。そんな風です。だから……。だから、どうか……」

 

 

 ……御自分の、お心のままに、誇り高く、生きていって下さい。

 

 

 その言葉は、声としては少年の口からは、紡がれなかった。だが、彼を愛おしむ男二人の耳には、その懇願が、何よりも明確に届いていた。

 

「クルシェ……、クルシェ……」

 

 呼びかけても、もう少年の口からは、何の言葉も返ってこなかった。そこには、ただただ、うっすらと、嬉しげに、微笑む口元があるのみ。

 手を握りかえしても、肩を揺さぶっても、もう、何も返さぬ、まだあどけなき、少年の体。

 

「あ、あ、……クルシェーーーーーっっっ…………」

 

 悲鳴の様な、慟哭が、平原に木霊する。英雄と呼ばれていた、一人の男の心からの叫び声が。

 

 

 ――ぽつ、ぽつ……。

 

 気づけば、みぞれ交じりの雨が、戦場を濡らしていた。焼かれて黒く焦げ付いた有翼兵。刺し貫かれ赤く染まった騎士。敵味方、区別なく、しとしと、しとしと、と……。

 

 それは、涙雨と言うには、遙かに冷たい、深秋の、みぞれ雨だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その雨に、自慢の銀髪を濡らさせるままにしながら、王太子ヨシュアは、ただただ呆然と、戦場となった平原を眺めていた。

「……こんな……、こんな……」

 そこには、とてもまだ年若い少年が直視出来ないような惨状の光景が広がっているのみ。

 敵味方関係なく、平原に死屍累々と横たわった兵士の死体。そして、それを焼き尽くした猛々しい炎。とてもではないが、深窓の王宮育ちの王子にとっては、受け入れる事が出来ない、残酷な現実である。

「こんな……。どうして、どうして……こんな惨いことに……」

 涙混じりにそう呟き、再びその足をがっくりと地に折ったヨシュアに、その後ろから、冷酷な言葉が投げかけられた。

 

「決まっているでしょう、殿下。全ては、あの男のせいですよ。あの白の英雄殿のね」

 

 振り返れば、そこには、自分と同じ銀髪を揺らし、忌々しげに口元を歪める従兄弟の姿があった。

「……エイブリー」

「まったく、あの南部熱での失態といい、この戦での失態といい、どこが英雄なのか。あれは、この国に災厄をもたらす悪魔ですよ、殿下。即刻捕らえて、詮議致しましょう。ええ、何と言っても貴方はこの国の王太子なのですから、貴方が命令すれば、あの男も逆らうことは出来ますまい」

「そ、そんな! エイブリー!! 僕は、リュートをそんな風に……」

 抗う王太子に、狐に似た従兄弟は、尚も絡むようにして、諫言を続ける。

 

「何を仰います。殿下は、いずれこの国を治める方です。御自分の従兄弟だからといって、あれをお見逃しになれば、それこそ王太子としての恥なのではありませんか? きちんと責任を取らせることこそが、あの男の為でもあるのですよ」

 

「……そ、そんな。エイブリー……」

 従兄弟からの言葉を受けて、尚も躊躇う王太子を尻目に、狐に似た銀の従兄弟は、即座に、後ろに控えていた私兵を呼びつけていた。

「おい、お前達! あの者が逃亡しないように、今すぐあの男の身柄を押さえてこい! 王太子命令だと言ってな!! 逆らうようなら、多少、痛めつけても構わん!」

「え、エイブリー……、ま、待って……」

 

「――お待ち下さい!!」

 

 今にも私兵が、戦場で蹲る白羽に向けて、飛び立たんとした時、後ろから、良く通る男の声が投げかけられた。

 驚き、王太子とその従兄弟エイブリーが後ろを振り向くと、そこには、地味な服を纏いながら、不敵に眼鏡を光らせている小男の姿。

 その見覚えのない男の持っている書類に、一瞬、びくり、とエイブリーの背筋が震えた。その様子を眼鏡の隅に映しながら、小男が王太子の前に、すっ、と進み出る。

 

「お初にお目にかかります、殿下。私、宰相付き文官の一人、オルフェ・レンダラーと申します。突然にお声をおかけして、さぞ驚きの事と存じますが、どうぞ、お心確かにお聞き下さい。今、この場を離れている近衛隊長ラディル殿ですが、この度、文書偽造未遂容疑にて、宰相様の命の元に私が逮捕致しました。あの者、貴方を利用して、あのリュートを売国奴として陥れようと企んでおったのです。そして、それは、近衛隊長殿だけではない」

 

 きらり、と眼鏡を光らせて、小男の視線が、狐に似た北の大公に向いた。そして、手に持っていた一枚の書類を、彼の前に突きつける。

「……あなたも共犯なのでしょう? 北の大公殿下。この偽造した密通書、貴方が作らせたのではありませんか?」

 

 告げられた従兄弟に対する突然の容疑に、信じられないといった様子で、王太子が、隣の男の方を見遣る。

「ら、ラディルが、そんな事を……。それに、え、エイブリー……? お、お前もだって? お、お前もまさか……、そうなのか?」

 だが、その王太子の問いに、問われた当の本人は、いささかもその表情すら揺るがせなかった。ちらり、と分からぬ程度に、一瞬視線を逸らして、ただ一言、答える。

 

「さて? 何のことでしょう?」

 

 しゃあしゃあと、貴公子の笑みで、告げられた答えに、勿論、オルフェは納得出来るはずがない。

「な、何を……! 私は、王宮で、貴方がリュートを陥れんとしている企みを、確かにこの耳で聞いたのですよ? あの、ドクター・マリーとかいう女との会話をね!」

 だが、この指摘にも、狐の笑みは少しも揺るがなかった。ただ、ひょうひょうとして、とぼけた言葉を返すのみである。

「さて? 誰ですか、その女? 私を慕う女性は星の数ほどいますのでね。ああ、確か町中で引っかけた女学生か、それとも、売春婦でしたかねぇ。いや、覚えがありません」

「覚えがないなんて、よくもそんなこと言えますね。私は、あの王宮で、貴方とあの女が確かに……」


「おやおや、宰相殿の部下は盗み聞きが趣味ですか。いやぁ、さすが、あの鼠の宰相だけあって、下品な男を飼っていらっしゃる。それも、この北の大公である私に、何の証拠もなく言いがかりを付けてくるとは……。少々陛下の懐刀とか言われて、図に乗っているのではないのですかな、宰相殿は。所詮、この私より身分の低い選定候の分際で。殿下もお気をつけなさい。あの鼠こそ、陛下を操って、宮廷を牛耳ろうとしている下賤な輩ですぞ。そこへ行くと、私は何と言っても貴方の従兄弟なのですから。何を信じるかは、明白ですね、殿下」


 一見して、限りなく爽やかかつ、親愛の情を浮かべたような笑みで、エイブリーは、王太子に向けて、そう問いかける。それに対して、王太子は、戸惑いと動揺の入り交じった視線を、交互に、従兄弟と眼鏡の男に向けるしか出来ない。

「殿下! 騙されてはなりません! この従兄弟の北の大公こそ、貴方を利用する不貞の輩……」

 そう言いつのるオルフェの言葉を遮るように、後ろから、また違った男の声が投げかけられた。

 

「お、お待ち下さい、殿下!」

 

 その声に、オルフェが急ぎ振り返ると、そこには、宰相配下の文官に囲まれ、手錠を付けられた近衛隊長ラディルの姿があった。その突然の登場に、即座にオルフェが文官に向けて、叱責を飛ばす。

「だ、誰がここに連れてきていいと言った?! この者の身柄は即刻ルークリヴィル城に送れと言ったではないか!」

 この言葉に、宰相配下の文官達は、ちらちらと視線を泳がせながら、申し訳なさげに答える。

「あ、あのう……。そ、それが、近衛隊長殿が、最後に、是非に殿下にお会いしたいと申されまして……。私たちも、流石に、選定候というやんごとなきご身分の方が、涙混じりにそう仰っては、むげにお断りも出来ず……」

「――愚か者!!」

 この文官達のいざというときの爪の甘さに、オルフェは思わず罵声を飛ばしていた。だが、所詮、オルフェは、文官の中で、特に身分があるという男ではない。その男からの罵声に、文官達は少々不満げに口を尖らせるのみだ。

 

 一方で、この近衛隊長の登場に、エイブリーはにや、と口元を意味ありげに歪めていた。そして、おもむろに、彼の元に近づくと、顔を覗き込むようにして、尋ねる。

 

「近衛隊長殿。いやぁ、貴方、随分なこと、なさったのですねぇ。私もすっかり騙されておりましたよ。私はただ、殿下をお支えしたくて付いてきただけでしたのに、まさか、貴方がそんな事、企んでおられたとはねぇ。いやぁ、びっくり、びっくり」

 

 この清々しいまでの言い逃れに、勿論、黙っているオルフェではない。

「何を白々しいことを! どうせ、黒幕は貴方と……」

「黒幕? なら、聞いてみましょうか」

 オルフェの言葉を遮って、エイブリーは再び、近衛隊長の顔をしげしげと見遣って、問いを続ける。

 

「ねえ、近衛隊長殿。この企み、誰が仕組んだものなのです?」

 銀狐の口から飛び出していたこの質問に、オルフェが、即座に、危機を感じ、動きを見せるも、既に間に合わなかった。

 

「……わ、私が、全て仕組んだことです」

 

 衝撃の言葉が、小声ではあったが、明確に近衛隊長の口から紡ぎ出されていた。これには、堪らず、オルフェが即座に抗う。

「な、何を仰る、近衛隊長殿! あ、貴方が主犯なわけ……」

「私です! この件については、すべて、近衛隊長である私の独断で成したことです。北の大公殿は関係ありません! すべて、私があの男の恨みから、仕組んだ謀略です!」

 

 ――しまった!!

 

 オルフェは内心で、そう舌打ちする。

 自分の目算では、この密通書という証拠を突きつけて、ドクター・マリーの件と絡めて問いつめれば、いずれ、銀狐とて王太子の前で尻尾を出す。その時こそが、この男を王太子から引き離し、失脚をさせる絶好の機会だと踏んでいたのだ。それが、この阿呆の文官共の爪の甘さのせいで、裏目に出てしまった。

 

 ……余計な真似をしてくれたものだ。せめて、この銀狐が共犯であるという明確な証拠を口から引き出すまでは、この男を連れてくるべきではなかったのだ。この、まだ幼い王太子の前には!

 

 と、そうオルフェが地団駄を済んだ時には、もう時は遅かった。

「殿下! 全て、私がしたことです! 私、どうしても、かつての臣下、ニルフがあの男のせいで殺された事が許せなくて……。あのかつて私の臣下として、第三軍を支えてきてくれたあの男が、見捨てられるようにガンゼルク城で死んでいったと聞かされて、どうしても、あの男が……。あの白の英雄殿が許せなくって、こんな事を……」

 待っていたのは、涙混じりのラディルによる迫真の演技だった。こうなれば、経験の浅い深窓の王子は、その心を惑わされるしかない。

 

「……や、やめてくれ! もうやめてくれ! こんな、残酷な戦に加えて、謀略とか、宮廷を牛耳るとか……! やめてくれ! もう、みんな、みんな信じられない!! エイブリーも、ラディルも、宰相の部下も、もう、みんな下がれ! みんな信用出来ない!」

 

「殿下……」

 オルフェが言いつくろおうと試みるも、まだ年若い王太子の心は、既に分厚い扉に固く閉ざされていた。誰の言葉も聞きたくない、とばかりに、腕を振り切って、言いつのる。

「リュートの事は、後で、東大公を含めて話合おう! だから、今は、彼にルークリヴィル城での謹慎を命じる。それから、ラディル。お前もだ。王都から、父上の返答が来るまでは、お前も同様にルークリヴィル城にて、監禁だ。いいな!?」

 それだけ命令すると、王太子は、ばさり、とその羽を翻して、一人、逃げるように戦場を後にしていた。

 

 その王太子の後ろ姿に、何か勝ち誇った様に、残された銀狐がオルフェに向けて、一瞥をくれる。

「ふん。宰相配下だかなんだか知らないけど、あんまり僕に楯突かない方がいいんじゃないの? 所詮は、文官。この大公をどうしても犯人扱いしたいんだったら、明確な証拠を提示してもらわないと。まあ、あれば、だけどね。いやいや、近衛隊長殿も本当にお気の毒。かつての臣下の無念を晴らしたい一心でこんな事までなさるなんて、何て臣下思いの素晴らしい方なんでしょう。確かに、しようとしたことは褒められたことではないですけど、ま、未遂ですし、きっと罪も軽く済みますよ。ねぇ?」


 ここまで自信を持って言うからには、おそらく、オルフェの目撃証言以外に、この銀狐が謀略に関わっていたという証拠は、絶対に見つからない自信があるのだろう。察するに、銀狐はいざとなったら、尻尾を切ることが出来るように、わざわざ近衛隊長を担ぎ出してきたのだ。そして、この近衛隊長も、ここで北の大公が失脚すれば、共倒れになる、ということが分かっているから、こうしてわざわざ出張ってくる真似までして、庇っているのだ。後々、北の大公に助けて貰い、そして、今後、宮廷で力を持つようになる彼に恩を売っておく意味でも、だ。

 

 ……正直、甘く見過ぎていた。

 

 オルフェは改めて、自分の不甲斐なさに恥じ入るしかない。

 もっと、文官達にきつく言い含めておくべきだったのだ。この、毒蛇が宮廷に蔓延(はびこ)ってもいいようになされている、平和惚けの無能文官達に、だ。

 こんな爪の甘さでは、宰相位など、夢のまた夢。もっと、冷静に、そして、隙なく、獲物は追いつめなければならなかったのだ。

 

「……逃がすものか。絶対に、逃がすものか。絶対に……」

 

 誰に言うでもなく、オルフェはぎりっ、と歯を噛みしめて、そう呟いていた。だが、今の自分には、余裕の笑みで去りゆく銀狐を、忌々しく見送るしかない。そして、残された近衛隊長に向けて、先のものに増した眼鏡の煌めきを向けながら、静かに告げた。

 

「いいですか、近衛隊長殿。私、手加減致しませんよ。絶対に、吐いて貰いますからね。本当の黒幕を、失脚させ、この国を正しい方向に導くその時まで、私はこの国に蔓延(はびこ)る毒蛇と戦い続けます。だから、絶対に、貴方に対する追求の手は緩めませんよ。法廷で、貴方のその口から、本当の黒幕の名が出るまで。いいですね」

 

 その台詞に、顔を青く染める近衛隊長を尻目に、オルフェは、その水晶に似た色素の薄い目を、遠く王都へと馳せていた。そして、自分を奮起させるように、一言、呟く。


「絶対に、逃がすものか。身分が低かろうが、どんな汚い手を使おうが、絶対に、宰相位を手に入れてみせる。それが、この私の夢なのだから」


 ……そして、それが、私なりの、この国を救う戦いなのだ。 

 視線を、今度は、血塗られた戦場へと戻し、オルフェは静かに場を後にしていた。

 背にしても、鼻につく血と、肉を焼いた臭い。そして、遠くから響く、少年の叫び声。


「――離せ! 離せよ!! 許せないんだよ! あの男だけは絶対に許せないんだよぉ!!」


 見遣れば、雨の中、未だ煙る戦場に、一人の少年兵が飛び込もうとしているところだった。その坊主頭の少年を、元近衛隊のリザと思われる男が必死になって、止めている。

「やめとけって、レオン! まだ火が回ってんだから、おめーまで、火だるまになっちまうぞ!!」

「離せよ! あん中には将軍がいるんだよ! 俺の家族を惨殺して、兄ちゃん達を焼き殺した将軍が! この手で死体引きちぎってやらねぇと、気が済まねえんだよ! 離せ! 離せよぉ!!」

 半狂乱になりながら、少年は、手当たり次第に、石を炎の中に投げつけていた。何度も、何度も。その恨みを晴らさんが為に。




 その哀れな姿を遠くに見るに付け、オルフェの眼鏡の奥に、憐憫の情が色濃く落ちた。そして、その光景を後ろに、一人、その内心で呟く。


 ……こんな惨劇は、もう沢山だ。

 もっと、もっと、この国は、一丸となって戦わねば、また、こんな悲劇は起こり続ける。

 国を強くし、そして、侵略から身を守るためには、如何なる手段を用いても、今、この国を蝕んでいる弊害は排除せねばならない。

 絶対に。断固として、だ。

 

 全ての、この国を守るために死んでいった兵士達を後ろに、彼らへの追悼の思いを心に抱きながら、男のその決意は、冷たい雨の中、ただ、いや増すだけだった。

 

 


また体調崩しており、更新遅くなりました。多分あと三、四話で、第三部終わるはずです。よければ、あともう少しお付き合い下さいませ。

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