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第六十九話:乱戦

「あの馬鹿!! 何をやっている!!」

 

 北の丘の有翼軍陣営、王太子ヨシュアの隣で、東大公ランドルフの怒声が飛んだ。

 勿論、その罵声の元となっているのは、現在彼らの眼下で繰り広げられている戦局に他ならない。両軍、少量の兵を空中に残しながらも、その大半が、互いの策によって、その飛行能力を失い、白兵戦の様相を呈していた。

 そんな中、あろう事か、両軍の将が、軍を放り出して、一騎打ちをしているのである。まだ、決着のついていない戦局で、こんな勝手な行動が許されるはずもない。

「馬鹿たれが! 私情に流されおって!! 残った兵、一体誰が指揮を取るつもりだ!!」

 そう戦場の一角で、将軍に斬りかかっている白羽に怒りを飛ばしながら、ランドルフは、再度、戦場全体に目を馳せた。

 

 先のリュートの策によって、大方の竜は飛行不能になっているとは言え、まだ、難を逃れたいくつかの小隊が空に残っている。現在、こちらも油の難を逃れた大男、――その独特のシルエットから、おそらくナムワだと思われる男が、空中で指揮を取って、彼らを迎撃している。元平民の出とはいえ、この数ヶ月間、彼の元で兵は訓練してきたのだ。よく、ナムワの指示に従っていて、今のところ、こちらは、彼に任せておけば、問題ないだろう。

 それよりも、難なのが、地上戦の方だった。

 現在、生き残った騎士達は、一人の帝国人の元に結集しつつある。逆に、有翼軍の方は、まだ絶命していない竜や、油に手こずって、まさに烏合の衆、といった状態で、指揮系統がまったく取れていない様相を見せている。

 

 ……このままでは、まずい。誰か、有力な指揮官が、地上戦にも必要だ。

 本来ならば、その役目をすべき男が、あの一騎打ちという体たらく。レギアスは東部軍にしか顔を知られていないし、あの男に指揮が出来るとは思えない。ならば、リュート配下の元近衛隊士……。

 

 ありとあらゆる可能性がランドルフの頭を駆けめぐるが、どれも、これも、適任ではない。

 そんな折、ふと、ランドルフの横で震える銀髪がその目に入った。

 

「そうだ! 殿下!! 貴方が地上で白兵戦の指揮をお取り下さい! 私がお供して、ご助言致します! あの馬鹿が使えぬ今、貴方様しかいないのです! どうぞ! 御指揮を!!」

 

 ……なんと言ってもヨシュアは王太子だ。彼の命なら、兵士全員が聞く。それに、自分が参謀として近くに付けば、問題ない。殿下の身も、自分が守ればいい。

 

 だが、その妙案とも言えるランドルフの進言は、あっけなく水泡に帰すことになる。

 

「い、い、い、嫌だ……」

 

 がたがたと肩を震わせて、銀髪が揺れていた。

 見ると、ヨシュアが、真っ青な顔をして、蹲っているのだ。戦場を見るどころか、その顔すら上げようとはしない。

「で、殿下!? 如何なされました?!」

 

「嫌だ! 嫌だ、嫌だ、嫌だ!! 僕は戦場になんか出たくない! あんな……、あんな血まみれの場所なんか、僕は嫌だ!!」

 

 そこにいたのは、もはや王太子ではなかった。血と砂埃と、そして、飛び交う武器に恐れをなした、ただの子供が、そこにいた。

 その顔もろくに上げられぬ王太子の様子に、即座に、北の大公と、近衛隊長が口を出す。

「東の大公殿! 何を仰るか! 殿下は此度の戦が初陣ですぞ? そんな殿下に何を無茶な事を!!」

「そうです! もし殿下の御身に何かあったら、どうするおつもりですか!!」

 のみならず、この二人守られるように、蹲ったヨシュアがその頭を嫌々をするように、振って、感情を絞り出した。

「嫌だ! 僕は、リュートとは違うんだ! リュートがやったらいい! みんな、みんな……リュートが……。そうだ、王太子だって、やっぱりリュートが……」

 

 ――バシリ!!

 

 言いつのるヨシュアの言葉を遮るように、高らかな衝撃音が響いていた。それと同時に、響く、鷹を思わせる鋭い咆哮。

 

「愚か者!! それでもこの国の王になる男か!!」

 

 見ると、そこには、王太子の頬を撲った手を、ぎりぎりと握りしめながら、黒曜石の瞳に怒りを燃え立たせる男の姿があった。

「殿下!! 貴方、この戦場の兵士を見捨てるおつもりですか! 今まで貴方を慕い、貴方を養い、そして、貴方の国を守るべく命を賭けておるあの男達を! 何と情けない。それでも人の上に立つ者ですか! そんな腰抜けなら、本当に王太子なんぞお辞めなさい! そして、どこぞで細々とその毒蛇達と隠居しておったらよろしい!!」

 呆気にとられる王太子と大貴族二人を尻目に、ばさり、と艶やかな黒羽が翻る。そして、その男らの方を、もう一瞥すらもせず、一言、最後だとばかりに吐き捨てた。

「貴方が出ぬなら、私が行く! この、東大公、ランドルフがな!!」


 ……父上よ。私は、私の道を行く。……貴方を、越えるために、私は、大公という身でありながら、戦いに、赴く。

 それが、新大公、ランドルフ・ロクールシエンという男なのであるから!


 あの王都で、哀しい別れを済ませた父に、ランドルフはそう思いを告げる。これから、生きて、大事を成さんとする、一人の男と成らんが為に。



 

「――ランドルフ殿!!」

 

 残された王太子が、その凛とした後ろ姿に、声をかけるが、去りゆく黒羽は、一度も振り返る事はなかった。ただ、すらり、とその黒の剣を腰から抜いて、恐れることなく戦場へと翔て行く。

「……ランドルフ殿……。僕だって……、僕だって……」

 悔しげな声を、去りゆく黒羽に送りながら、がっくりとヨシュアの足が、地に折られる。動きたくても動かない、この身が恨めしくて。そして、無力な自分が、ただただに、歯がゆくて。

 

 ……僕だって、強くなりたいんだ。でも……。僕は、リュートじゃない。リュートみたいには、なれない。

 

 どうしようもないほどの憧憬の念とともに、自分への嫌悪感が涙となって、王太子、ヨシュアの若い頬をはらはらとこぼれ落ちていった。

 

 

 一方で、その様子を後ろで眺めながら、毒蛇二人は、彼に気づかれぬ程度の声音で、こそこそと密談をし始める。

「ふう、ようやく邪魔者がいなくなりましたな、エイブリー殿。ようやく、私も動けます」

「……ですね。あんな戦場、野蛮な東部者に任せておけばよろしい。上手くすれば相打ちにでもなって、邪魔者が一掃されてかえって嬉しいくらいです。まったく、嫌ですねぇ。反骨精神だかなんだか知りませんが、この世を勝ち抜くには、もっとスマートな手段があるというのに」

「左様、左様。……では、殿下の事、よろしく頼みますよ。私、少々仕事をして参りますので」

「頼みましたよ、ラディル殿。我らの可愛いお人形さん、……王太子殿下の為にね……」

 

 

 

 

 

 

「や、やめて下さい! リュート様!!」

 

 一方で、戦場の一角で響くクルシェの叫びは、少しも男達に、届いていないようだった。

 少々背の高い草が疎らに生えた平原に、その悲痛な叫びをかき消すほどの金属音が木霊している。

 

 ――がきん、がきん。

 

 斬り合う両者の剣は一向に止まる気配がない。上に、下に、そして、右に左に。まるで、剣舞をするかのような攻防が、一分の隙もなく続けられていた。

「ふん! 前より剣が軽くなったのではないか? 白羽の戦士よ! そういえば、心なしか痩せたな!!」

「そっちこそ、前よりスピードが衰えているぞ、将軍! もう耄碌し始めたか!!」

「言いおるわ! ただの子供の分際で!!」

 その言葉に、剣を返しながら、ぴくり、とリュートの頬が反応した。

「……子供、だと?」

 

「そうではないか? ん? 私怨に任せて、兵を使う、残酷な、子供だ」

 

 ……ふるり。

 将軍の指摘に、反応するように、一瞬だけ、リュートの剣が乱れた。その隙を突いて、一気に鉄人のサーベルが振り下ろされる。

「黙れ! 侵略者! お前らにだけは、残酷などと言われたくはないわ! レミルを殺し! ニルフも殺し! そして罪もない無辜の民を殺した!! 下らぬ、お前らだけの神の為に!!」

 鈍い音を響かせて、リュートの剣が、再び鉄人のサーベルを受け止めていた。がりがりと嫌な音を鳴らしながら、両者の剣が拮抗する。

「……そうだ。我らの神は絶対なのだ。我らは、……神にすがるしか、ないのだよ。この、我ら、リンダール人といういじましい民族はな!!」

「また、訳の分からぬ事を!!」

「分からぬか……。そうだな。……分からぬから、この様に我らは剣を合わせるしか、出来ぬのだ。……何処まで行っても、結局、争いごとが無くならないのは、人の常なのだよ。共に愛し合った夫婦でさえ、理解出来ぬ部分で、些末に争い合うのだから。誠に、人間というは、愚かだの」

 拮抗する剣を、隙を見て、リュートの剣が引き返していた。そして、即座に油で汚れた羽を使って、後ろへ飛び退いて距離を取る。

 

「まだ、言うか。この卑しい盗人共。何が、聖地だ。何が、かつての豊饒の地だ。いくら、所有権を主張したとて、ここはもはや、我ら、有翼の民の土地!! そこにのこのことやってきて、人を惨殺することの、何が大義か!! この悪魔共!!」

 

 ぜえぜえと、リュートの息が荒い。それは、勿論、相対する将軍とて同じ事である。その様子に、剣を振り上げながら、尚もリュートが言いつのった。

「ご、傲慢なのは、お前らだ。自分の都合で勝手に侵略し、勝手に……レミルを……僕の兄を……、殺した。僕の父も、母も……。みんな、みんな、お前達に殺されたんだ!! お前達は、どうしたって許しておけない! みんな、みんな、血祭りにあげてやる!!」

 吐き出した感情と共に、再び地を蹴って、リュートは切っ先を将軍の懐に向ける。だが、それも、すんでの所でサーベルに阻まれ、憎き男の体を刺し貫くことは、かなわない。

「それで……、憂さ晴らしに、兵士というおもちゃを使って、復讐に来た、というわけか、幼い英雄よ」

 

「……違う!!」

 

 剣を引き戻しながらの、明確な否定の台詞。だが、その面相はとても、明確な拒絶のものではなかった。

「ち、違う、違う、違う! ぼ、僕は……。僕は……」

 

 そう言い淀む英雄の表情に、端で眺めるしか出来ないクルシェは、はた、と一つの出来事に思い当たった。

「……あの、顔……。あれは……」

 それは、いつか、クルシェが王都で見た、英雄とは思われないような、幽鬼を思わせる顔だった。あの、この世のものではないような、その瞳に何も映していないような、ただただ、虚無を思わせる、悲愴な表情……。

 それに、もう、クルシェの心は悲鳴をあげそうに、痛みを感じていた。

「やめて、やめて、やめて!! もう、やめて! リュート様!!」

 

 ……もういいから。

 

 もういいから、リュート様。そんなに、自分を傷つけないで。

 お願いだ。

 お願いだから。誰か。誰か。リュート様を、助けて。助けて。……助けて!!

 

 

 

 

 

 

「蒼天騎士団! 並びに、帝国兵!! 白兵戦に持ち込むぞ!! 今なら奴等は単なる烏合の衆! 今こそ、軍事帝国リンダールの勇士の力、思い知らせてやるときだ!!」

 

 蒼天騎士団、新副団長ジェスクの雄叫びが、戦場の生き残りの騎士達を鼓舞していた。それに呼応するように、一斉に帝国兵が、その気勢を上げる。

 

「まずいぞ! おい! 誰か!! 誰か指揮をとれ!! このままだと帝国の精鋭達に潰されるぞ!!」

 その様子に、レギアスが即座に事態を憂慮して、叫んでいた。見れば、周りの有翼兵は、未だ油の処理や、飛竜の始末に手間取って、完全に指揮系統を失っている。このままでは、確実に、統制のとれた帝国兵にやられてしまうだろう。

「クソっ! リュートの馬鹿野郎!! 何処行った!」

 何とか眼前に立ちはだかっていた飛竜を斬り殺して、レギアスは即座に、帝国兵が陣を組んで襲いかかってくる最前線に向かおうとする。だが、その内心では、とてもではないが、自分には指揮なんぞとれないだろうという不安が、渦を巻いていた。

「……っくしょ! なら、いいさ! 指揮が取れんなら、俺らしくぱあーっと、咲いて、ぱあーっと散ってやっか! あの世にゃ歴代の可愛子ちゃんも待ってるだろうしよ!!」

 そう一つ腹を括って、最前線に巻き毛が飛び出そうとした、その時。

 

「――死んで貰っては、困るな。我が、幼なじみよ」

 

 凛とした声音と共に、眼前に、ばさり、と黒い影が飛来していた。

 濡れたような黒髪。そして、しっとりとした夜を思わせる、落ち着きのある黒羽。

 

「お前には、まだ、この私の元で働いて貰わなければ、困るのでな。この……東大公、ランドルフの元でな!」

 

「ら……ランドルフ!!」

 現れた気高い大貴族の存在に、レギアスの心に、一気に光が差し込んだ。漆黒の装いの中、印象的に光る、黒曜石に似た、瞳の光が。


「行くぞ、戦友! 久しぶりの戦場だ! 腕が鳴るわ。皆の者! この新大公の元に、付いてこい!!」


 その、清廉で、頼もしい声音に、レギアスはその脳裏に、あの雪交じりのカルツェ城の戦いを思い起こさせる。あの、ランドルフを長に、ナムワ、オルフェ、そして、リュートと共に戦って、生き抜いた、あの忌まわしくも、誇り高い思い出が。

 思わず、柄にもなく、レギアスの瞳が、感激で滲んでいた。


「――おうっ! おうっ!! やっぱいいわ!! お前の下で戦えるって、やっぱ、最高だぜ、ランドルフ!!」

 

 

 

 

 

 

 一方、血みどろの白兵戦が行われている戦場から遙か北、王太子と北の大公がいる丘よりもさらに一つ丘を越えた辺り……、丁度昨日、有翼軍が宿営地を構えていた場所に、艶やかな長い睫毛を瞬かせた男は居た。


「まったく、北の大公殿も、人使いが荒い。この近衛隊長である私を使い走りにするとは……」

 そう不満げな溜息をつきながらも、近衛隊長ラディルは、その羽を休めて、宿営地の一つのテントの前に着地する。王族、貴族専用の、一際豪奢なテント。昨日、リュートが使っていたものである。

 周囲に誰も居ないことを確認しながら、こそこそと羽を縮めて、ラディルは、テントの中へと入る。中には、昨日リュートが縫っていた麻布の残骸と共に、おそらく軍関係のものと思われる重要書類が、無造作に散らばっていた。それを一枚一枚、確認するように、ラディルの手が拾い上げる。

「……ふふ……。ルークリヴィル城の方の書類は、ミッテルウルフ候に任せてあるし、後は、全て、これだけか……。本当に、英雄殿は、こういう事に関しては無防備なのだから……」

 そう一人ごちながら、ラディルはその手一杯に書類を抱えて、再びテントから出て行く。そして、遠く怒号が響く南の戦場に、その長い睫毛の目を馳せながら、また、意味ありげに呟いた。

 

「歴史というのはね、全て文書によって裏付けられるのですよ、英雄殿。正史に一言、『英雄』と書けば、この大陸に血の雨を降らせた男も、獅子王と謳われるのです。逆も、また、しかり。この戦に居合わせた兵達の口は、金か何かで黙らせるとして。あとは、この書類を全て改竄して、証拠としてでっち上げれば、この戦勝はヨシュア様のものになる。ま、あの坊ちゃん殿下なら、何とでも言いくるめられますし。それに、殿下も英雄が、売国の徒であるという証拠を突きつけられれば、公然とは庇う事はできまい。こうして、貴方の名で、密通書をでっちあげればね、リュート殿」


 かさり、と音を立てて、ラディルの懐から、一通の書簡が取り出される。リュートの筆跡によく似せられたサインが記された帝国様式の書簡である。


「『白の英雄は、やはり敵国と通じていた。聞けば、あの赤毛の敵国の姫と、口づけすら交わした仲だとか。あの父にして、この子ありですねぇ』。……そう言って、この改竄書類を、戦勝に浮かれる貴方に、突きつけてやりましょう」

 くくく、という嫌な笑いを漏らすと、ラディルは、その目を書類から上げて、テントに掲げられた王太子旗へと向ける。

「あの指揮権云々にかこつけて、戦後の処理は私たちに任せるという言質はとってありますし、南部熱での失態もある。ましてや、あの軍を放り出しての一騎打ち、という責任放棄の容疑もね。この不利な条件に、そうそう貴方も抗えないでしょう、英雄殿。そうすれば、また、あのお父上が成した奇跡の時のように、待っているのは英雄への不審論ですよ……ふふふ」

 

 それは、到底あの白羽には届かぬ言葉であったが、ラディルはそれを吐いたと同時に、心の中で勝利を確信していた。

 ……これで、あの男がこの戦に勝とうが、罪に問える。これで、あの私に、恥をかかせた男も、失脚をする。いや、事によれば……。

 

「ふ、ふふ……。ふふふふふ。この戦で、あの将軍や、鬱陶しい東の大公と共に、戦死してくれれば、それが一番よいのですがね。ま、万一勝ち残った場合は、貴方の処刑方法を考えるだけで、笑いが止まりませんよ、英雄殿。ふふふふ、ふふふふふふ。は、ははははは……」

 

「――悪趣味ですねぇ、近衛隊長殿は」

 

 ラディルの嫌味な高笑いに被るように、背後から男の声が響いた。

 動揺のあまり、ばさり、とラディルの手から、書類が落ちる。急ぎ、それを拾い上げんと、ラディルが地面に手を伸ばした時だった。

 みしり、と嫌な音を響かせて、ラディルの手が踏みつぶされていた。

「ぎゃあっ!! な、何を……!」

 

「ああ、叫び声まで悪趣味ですか。宮廷一の艶男の名が泣きますよ。まして、重要書類の改竄なんて真似をしたらね」

 

 尚も踏みつけられる足に、即座に、ラディルの顔が上げられる。……そこには、曇天の空を背後に、きらり、と何かが不気味に光っていた。

「その書類のリュートのサインを全て、ヨシュア様の名前に変えて、戦勝はヨシュア様のものにし、リュートには売国の容疑をかける、ですか。せっかく精魂込めて書いた書類を改竄されるなんぞ、文官に対する一番の侮辱ですよ。ましてや、歴史は文書だけで作られる、などという浅はかな考えもね。そんなことをしたって、兵士達が黙っているわけがないという事がわからないのですか。あれの兵士を、そう舐めないことです。人心を金で買おうなんざ、まったくに、美しくない」

 そう近衛隊長お得意の台詞を吐きながら、男はさらに踏みつけた手に、体重をかけてきた。その不貞不貞しい所業をしれっとした表情でやってのける男の顔に光っているもの。それは、曇天の空にもかかわらず、鋭い光を反射させている、印象的な眼鏡だった。

 

「だ、誰だ! 貴様!」

「なあに、名乗るほどの者じゃありません。ただ、この国を憂う一人のしがない文官ですよ。今のところは、ね」

 

 きらり。きらり。

 そう不敵に眼鏡を光らせ続けながら、小男は尚もぶつぶつと小難しい台詞を、その口で紡ぐ。

「ふう。こんな地味な格好で張っていた甲斐がありましたねぇ。それにしても、やはり、私がかつて宰相様に申し上げた事は間違いではなかった。こんな選定候だの何だのと、重要職を世襲にすること自体が間違いなのだ。最初は偉大な祖先の血も、濁って、凝り固まって、精々こんな汚い謀略を企むしか出来なくなる。即刻、この様な腐った血統は排除され、実力のある者がポストにつけるような制度にすべきなのだ」

 勿論、ラディルには、この男が何を言っているのか、少しも理解できない。

「き、貴様! 何を言っている?! は、はよう、私の手の上から退け! この選定候である私に、こんな事をしてただで済むと思っているのか!!」

 

「……何を馬鹿なことを。ただで、済まないのはそちらのほうですよ、毒蛇さん」

 あざ笑うような眼鏡の男のその言葉と共に、テントの背後から、数名の男達が飛び出してきた。皆、その胸に小さな紋章を付けた文官服を着ている。……宰相配下の王宮付き文官服を、である。



 その数人の宰相付き文官を背後に控えさせて、小男は尚も不敵に、隠された真実をその口から紡ぎ出した。


「――『あの二人は南部に行ったら、きっとその尻尾を出す』。いや、あなた方が殿下と共に行く、と言ったときに、私、宰相様にそう進言申し上げて良かった。陛下も、宰相様も、あなた方がこの場に来ることを憂慮して、あなた方の遠征を反対しておられましたんですが、ま、結果的には私の進言通り、泳がせておいて良かった、と言うところですかね。本当に、あの宰相様から受けた密命だけでも鬱陶しいのに、こんな仕事まで率先してやってのけるとは。私という男は、実に優秀な文官ですよ」


 告げられた宰相、そして国王の真意に、びくり、とラディルの身が竦む。

 ……まさか、そんな。自分たちの企みが、全て見通されていたなんて。


 そんな近衛隊長の動揺をあざ笑うかのように、手を踏みつけている男は、尚も言葉を続ける。

「リュートには少々精神的に辛い思いをさせましたが、あれの心のフォローなんぞ、私の役目ではないのでね。そんな事は、あの黒羽の大公様がやればいいことなのです。にもかかわらず、あの男、ちっとも来やしないで。……ったく、あなた方の企みに食って掛かろうとするクルシェ様をお諫めするのも勿論ですが、不安を煽って、あの方に手紙を書かせ、東の大公殿を引きずりだすのも、苦労致しましたよ。本当に、私の手紙で早々と来ておれば、こんな手を使わなくても済んだのに、あのランドルフ様という方は……。ま、しかし、結果良ければ、全てよし、というところですかな。こうして、書類改竄未遂容疑の証拠、しっかり押さえられましたから。さ、一緒に王都に帰りましょうね、近衛隊長殿。宰相様と、堅物の司法長官殿がお待ちです」


「な……。き、貴様……。わ、私を、この選定候である私を、は、嵌めた、ということか……。き、貴様、後ろに宰相がおるとは言え、ただの文官の分際で、何ということを!!」

 その言葉に、ようやく男の足が、未だ抗うような態度を見せるラディルの手の上から退く。そして、また、その眼鏡をきらり、と光らせると、不気味な笑みを、にや、とその顔に浮かべた。

「いやぁ。私、戦場に出ますと、血が滾って、少々、別人格発揮してしまうんです。それにね、私の様な身分の低い男は、なりふり構っておられないのですよ。しろ、と言われた事以上の事をしてみせないと、出世の芽なんて、そうそうないわけです。ですからね……」

 

 ――がつん!

 

 再び、眼鏡の男の靴が、きつくラディルの手を踏みつける。

「ですから、近衛隊長殿。貴方、私の踏み台になって下さい。この、私の出世の為に」

 きらり、きらり、きらり。

 いつもの九割り増しほどに眼鏡を光らせて、小男は、そう言い放っていた。

 

「――そう、この私。ゆくゆくは宰相職を狙おうという、オルフェ・レンダラーの為にね」

 

 

 

 

 

 

「白兵戦が、始まりましたわね、姫様」

 

 砂煙の上がる戦場から南。丘の上で、未だ待機したまま、紅玉騎士団キリカの呟きが漏れる。

「何と言いますか、どちらもぎこちないですわねぇ。ま、空中戦ばかりやってる両軍にとって、白兵戦など慣れない、ということもあるのでしょうが、両方とも肝心の指揮官があれではねぇ……」

 丘の上の空中で、竜の背に乗ったまま、キリカは、腰袋から取りだした望遠鏡で、戦場の一角を注視してみた。

 そこには、剣を振り上げて、互いに斬りかかる男二人の姿。

「……本当に、殿方って、わかりませんわ。軍より、意地を取るなんて。あの鉄人でさえも」

 その言葉に、隣で同じように望遠鏡を覗いていた団長エリーヤが、答える。

「あら、いいじゃない。はっきりしていて、私は好きよ。結局戦争なんて、喧嘩の延長線上にあるようなものだから」

「また、姫様は訳の分からぬ事を……。私闘と戦争は違うでしょうに。何より、戦争には大義が必要ですわ」

「……ふん。大義ね……」

 そうキリカの言葉を鼻で笑いながら、赤毛の姫はその瞳を、再び白兵戦の行われている戦場へと戻した。

 

 ……と、姫の赤目が、何か驚愕のものを見たかのように、大きく見開かれる。そこには、明らかに、先の状況とは違った光景があった。

「見て。キリカ。有翼軍が指揮系統を取り戻してる。……あの、先頭付近の黒羽の男の元にね」

「まあ! これは、これは……。なかなかの立て直しぶり。あんな素敵な殿方、有翼軍にいらっしゃったのね」

「面白い。……面白くなってきたじゃない!! ふふ。あの蒼天騎士団副団長、何処まで持ちこたえられるかしらね」

 吐き出された姫の不敵な言葉に、即座に、キリカの胡乱げな眼差しが送られた。

「ひ、姫様。も、持ちこたえられるかって……。それって、まさか……」

 そう言い淀むキリカの横で、ルビーの瞳はさらに、その光をいや増していた。

 

「決まってるでしょ。白兵戦は、負けるわ。……そろそろ、私たちの出番かしらね」

 

 

 

 

 

 

 ――がきん、がきん、がきん!!

 

 もう何度交わされたか、分からぬ金属音が、砂埃の煙る戦場に木霊している。

 どれだけ耳を塞いだとしても、鼓膜を食い破る、男と男の意地のぶつかり合う音。それに、側で成り行きを見守っているしかできないクルシェはもう鼓膜だけでなく、心臓までも破られそうな心地を覚えていた。

 

 眼前で、繰り広げられる、英雄と鉄人の対決。

 

 どちらも、互いに手傷を負って、ひどく消耗をしていた。それでも尚、どちらからも、剣舞を辞める気配はない。

 言葉はない。ただただ、空を切る剣の音と、荒い息づかい。それが、軍の全てを担っていた男、二人の最後の戦いだった。

 

 

 

 ……負けられない。負けられる、ものか。

 

 鉄人の剣をあしらいながら、リュートは内心で、ずっとそう呟いていた。

 だが、この体力の少なくなってきた場面に来て、その心の隅で、小さく疑問の念が、ぶくり、と沸き起こる。

 

 ――僕は、一体、何に負けられないんだ、と。

 

 あの、兄を殺した戦を指揮した、この男に、勝てばいいのか。ただ、それだけで、全てがうまくいくのか。

 そして、それが、僕の本当の望みなのだろうか、と。

 

「リュート様! もうやめて! もうやめて!!」

 

 クルシェの声が、遠くに響いている。

 あの、どうにもやるせなく、砂浜で寝てしまった自分を、ずっと慈しんでいてくれた、少年の声が。

 

 その声に、気を取られた一瞬、鉄人のサーベルが、眼前を掠めていた。

 

 ……危ない。首を狙われる所だった。

 

 即座に、リュートはその思考を、目の前の剣へと引き戻す。

 再び交わされる金属音。だが、それも、先ほどの勢いはない。もう、限界が近いのだ。リュートも。そして、鉄人も。

 

 ……勝たねば。この男に、勝たなければ。

 

 その弱った剣捌きに、リュートは内心で、決意を新たにする。

 

 この男に勝たなければ、何も見えて来ない。この男に勝って、恨みを晴らして、そして、今いる帝国人の首を、全て刎ね散らかしたら。

 そうしたら、きっと、もう帝国も、この国には手出しはすまい。そしたら、そしたら……。


 

 ――『出来ないのヨ、そんなコト。例え、今いるサイニー将軍が死んだって、次は他の騎士団が来るだけ』

 


 脳裏に、一人の男の言葉が鳴り響いていた。

 

 ……だめだ。

 駄目なんだ。この男に、勝っただけでは、駄目なんだ。

 

 響いた帝国人、ロンの言葉に、リュートは、その事実に思い当たる。いや、ずっと気づいていて、そして、ずっと考えないようにしていた事実だ。

 だが、どうして、自分は、それから、ずっと目を背けて来たのだろうか。

 

 そう自らに問いながら、リュートは力を振り絞って、鉄人の懐に飛び込んでいた。無論、それを返さんと、即座に鉄人も動きを見せる。

 と、同時に、剣と、剣が、不思議なことに、まるで時間の動きが遅くなったかのように、ゆっくりと交差をし始めていた。感じたことのない、何処までも無限の時間。

 

 ――その一瞬。

 

 リュートの眼前が、真っ黒に覆われていた。

 剣も、それを構える鉄人も、遠くで叫ぶクルシェも、何もない、ただ黒の虚無の世界――。

 

 

 

 

 ――『もう、こんなの嫌だよ』

 

 

 

 声が、脳天に響いた。……幼い、少年の声が。

 

 ――『ねえ、もうやめようよ、こんな事』

 

 見れば、漆黒の世界に、小さな羽を揺らした少年が一人いた。

 

 ……レミル?

 

 そう本能で感じて、手を伸ばしたその羽は、あの、懐かしい空の羽ではなかった。

 それは、何処までも白い、純白。この、血と、油とで汚された、自分の白羽とは比べものにならぬほどの、無垢な、白だった。

 

 ――『ねえ、僕、もう疲れちゃったよ。だって、みんな、意地悪だもの』

 

 言って、振り返ったその顔には、涙に濡れた、碧の寂寥の眼差し。

 

 ……僕、だ。

 

 それは、あの、平民だったころの、自分だった。まだ、幼くて、何も知らなかった、十の頃の自分。

 その、漆黒の世界に佇む少年時代の自分は、尚も、啜り泣きの声で、訴えかけてくる。

 

 ――『みんな、みんな、ひどいんだ。僕は何もしてないのに。みんなでよってたかって、僕の事利用しようとするんだ。ううん。それだけじゃないよ。みんな、みんな、僕の大事なもの、奪ってっちゃうんだ。父様でしょ、母様でしょ。それから、レミルだって』

 

 ひどいよ、ひどいよ。

 十の頃の自分が、尚も、大粒の涙をこぼしながら、泣きじゃくる。

 

 ――『みんな、僕の事、勝手に利用しようとして、妬んで、嫉んで、疎んで、殺そうとまでして。ねえ、もう嫌だよ、こんな世界。大好きな人たちが殺されて、それが神様の為だって、訳の分からない事を言われて。それで、この国の運命とか、みんな勝手に僕に期待して。ばかじゃないの。僕は、そんなの、ちっとも欲しくないのに』

 

 寂しいよう。寂しいよう。

 母様に会いたい。父様に会いたい。レミルに、会いたいよう。

 

 ――『もう嫌だよ。戦いたくないよう。剣も嫌だ。血も嫌だ。人を騙すのも嫌だ。気を張って生き続けるのも嫌だ。僕は、ただ、……ただ、静かに、大好きな人たちの所で、一緒に寝たいだけだよう』

 

 

 それは、紛れもなく、あの日の、自分だった。

 あの夜盗に母を殺され、父が小さな欠片となって帰ってきた日の、抜け殻になっていた、十の自分。

 

 ……ああ。この子が。

 僕の中にいたこの子が、僕に物を食べさせなくしていたのか。

 

 わあわあと、眼前で泣きじゃくる自分を前に、リュートはようやく、その事実を悟る。

 

 

 ――『ねえ、もう行こうよ。僕は、もう、本当に疲れちゃったんだ。もう、こんな世界、沢山なんだ。だから、僕と一緒に行こうよ』

 

 父様と。母様と。そして、レミルの所へ。

 

 

 

 甘い、甘い、冥府からの誘いが、手を伸ばしてくる。

 見遣ると、少年の顔は、瞬く間に、げっそりとやせ衰えていた。そして、肉が落ち、筋も落ち、ただ、その双眸に暗い穴が空いた髑髏(どくろ)だけが、残る。

 

 ――『イコウ、イコウ。ボクトイッショニ、タノシイセカイニ、イコウ』

 

 かたかたと、顎を鳴らしながら、髑髏がその手で誘ってくる。

 それに、無意識に、自分の手が、伸びていた。

 手っ甲で、覆われた、血まみれの、手が。

 

「――――っっっ!!」

 

 見れば、手っ甲は、ぶかぶかだった。いや、手っ甲だけではない。銅鎧も、脛当ても。その下に着込んだ服さえも、大きすぎる。

 

 ……ああ。これが、僕だったのか。

 

 改めて、確認してみた自分の姿に、妙に、納得がいった。

 

 ……大きすぎる武器と、鎧に、身を包み、そして、その手を残酷にも真っ赤に染めた、小さな、十の子供。

 それが、紛うことなき、自分の、姿だった。

 

 

「僕は……、僕は、大きな力を持てあました、ただの、子供だった。ずっと、ずっと、あの、夜盗に、母様を殺された時の、子供の、ままだったんだ」

 

 はらり、と涙が、その頬を伝う。

 それを、愛おしむかのように、骸骨の手が、伸びてくる。……ダイジョウブ、ダイジョウブ。モウスグ、クルシミハ、オワルヨ、と。

 

 ――もう、こわくないよ。もう、くるしまなくて、いいんだから。さあ、いっしょに、ねむろう。いたいのは、いっしゅんでおわるから。おかあさんと、おとうさんと、そして、おにいさんのいるところへいこう。

 さあ、あっちで、まっていてくれるから、いま、ここにあるもの、もう、みんな、みんな、すてて、いいんだよ。

 

 小さな、細い骸骨が、甘い言葉と共に、血染めの白羽を、優しく抱擁していた。

 

 

 

「――もう、疲れた……」

 

 その言葉と共に、一瞬で、世界が戻ってきた。

 銀色の剣が、交差し、荒い息づかいが響く、この、忌まわしき、現実の世界が。

 

「……将軍、僕は、もう……」

 

 一瞬、手が、緩む。鉄人の、全てを乗せたサーベルを、受け止めていた手が。

 

「愚か者!! その首、貰ったぞ!!」

 

 即座に、サーベルが、切り返す。そして、一直線に、切っ先が、金の髪の靡く、その喉元へと、向かう。

 

 ……これで、いい。


 これで、いいんだ。

 もう、僕だって、疲れたんだ。

 だから、少し、休ませてよ。

 お願いだから。お願いだから。

 

 

「――リュート様!!」

 

 

 ぷしゅ。……ぷしゅり。

 

 嫌な音を、奇妙に、二度響かせて、鮮血が、平原の空を舞っていた。

 

 


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