第六十八話:激突
「竜騎士の、本当の恐ろしさ、だと?」
武器と血が飛び交う戦場で、対峙する将軍の口から吐き出された言葉に、リュートの顔が忌々しげに歪む。
「……はん、負け惜しみを言うな。お前達なんぞ、空を飛べねば、ただの蛞蝓に等しい生物の癖して」
「そうだな。確かに、我らは単体で、飛べぬ分には、不利極まりない。それを、二度も貴殿に突かれて、我らは敗北した。すべて、貴殿の突飛な策略によって、だ」
最初の湿地の戦い。そして、ルークリヴィル城で、投石器とリンダールの武器を使っての湿地の悪夢の再来。
忌まわしい記憶と共に、セネイを始めとした戦死者の顔が、鉄人の脳裏に過ぎる。
「だが、それも、すべては、我らの油断を利用されたがゆえ。今の我らに油断はない。加えて……」
鉄人の腕が、すっ、と天に向けて伸ばされる。
「……貴殿に策を打たれる暇を、与える気もない」
「策を打つ暇を与えぬ、だと?」
リュートが、そう鉄人の言葉を反芻した途端に、目の前の腕が、一気に振り下ろされた。それと同時に、陣の背後から轟く風切り音。勿論、有翼の民の羽ばたきではない。風を切り裂く、竜の行進の轟音だった。
振り返れば、丁度、帝国軍が最初に布陣した辺りから、一団の竜騎士が姿を現していた。
「――伏兵か!!」
リュートのその言葉どおり、鉄人は、最初の進撃の折、全ての騎士を動員したわけではなかった。一部を分からぬ程度に、最初の地点に残し、この接近戦に持ち込んだ時期を見計らって、彼らを呼んだのだ。現在、有翼軍は、中央を突破した竜騎士と北を向いて相対している。つまり、南から新たな敵が現れるということは、南北から挟み撃ちに遭う、ということを意味しており、極めて不利な状況と言っていい。
だが、生憎と、この程度で怯む英雄ではなかった。
「挟み撃ちとは、またありきたりな策を! そんな事、こちらとしても織り込み済みだ!!」
そう鉄人の策を断ずると、再び英雄の口からは、高らかな口笛が奏でられていた。
「――後方、迎撃用意!!」
その合図と共に、先にV字に陣を形成していた有翼軍の後方、丁度、V字の下の頂点に当たる部分の兵達が一斉に動いた。
「南から、新たな騎士数隊、接近! 構えぇっ!!」
後方に配備された南部軍の兵達が、一斉にその腰に付けた弓を番える。その中に、かつて竜騎士に家族を惨殺された少年、『南部の風』の戦士、レオンの姿もあった。
……最初の侵攻の折に『選定』の名の下に、惨殺された両親。そして、先の春に、あの廃坑道で焼き殺されたあの兄達。
全ての恨みと怒りを込めて、ぎりっ、とレオンは弓を引き絞る。
「死ね……。死ね、死ね、死ね!! 竜騎士共、みんな死んじまえ!! みんなの仇だ!!」
その言葉と共に、一斉に南部軍の弓が、南方に迫り来る騎士達に襲いかかる。
「――何っ!?」
だが、その無数の矢も、南の騎士を射抜くことは敵わなかった。突撃してくる、と踏んで、放った矢が、全て、見事に空を切ってしまう。何故なら、的になるべき竜騎士が、矢の届くぎりぎりの距離で、その方向を転換していたからだ。
右でも、左でもない。……予想もしなかった、遙か上空に、である。
「上? これ以上上なんて、さらに風が乱れて、飛びにくいだけなのに、一体何故……」
平原に吹きすさぶ風は、上空になればなるほど荒々しかった。とてもではないが、竜を制御するのが精一杯。まして、得物を構えて、攻撃態勢に移るなど、不可能に近いはずだ。
……では、一体、何のつもりで……。
忌々しげにその上空の一団に目をこらすリュートの瞳に、一つ、奇妙な光景が飛び込んできた。
既に、南の攻撃をかわして、両軍入り乱れる戦場の上空にまで達していた騎士団の、それぞれの飛竜の腹に、何かが括り付けられている。
「……あれは……。革袋か?」
その言葉通り、何十という革袋がロープで上空を行く竜の腹に結わえられていた。その一つ一つがたぷたぷと揺れていることから、中に何か液体が詰められているのであろう。
「何だ? 何が詰められている……?」
そうリュートが疑問の声を吐き出すと同時に、上を行く騎士が、その竜の腹のロープを解き放っていた。
途端に、両軍の陣営の上空一帯に、何百という革袋が撒き散らされる。そして、それを待っていたかの様に、鉄人、そして、全ての騎士達が手に持った武器を、その上空へと向けた。……そう、丁度、得物を、上から落ちてくる革袋に突き立てるような形である。
――ぱしゃん!!
水音を響かせて、無数の革袋が破られていた。帝国兵の得物によってのみではない。掲げていた有翼兵の剣や槍によっても、革袋が突き破られる。それと同時に、戦場に一斉に、袋の中に詰められていた液体が撒き散らされた。
敵味方の区別はない。竜の背に、騎士の鎧に、そして、……有翼兵の翼に。
「こ、これは……」
浴びた液体に、リュートが驚愕の声を漏らしたのも、無理はない。
その血染めの白羽にかかった、褐色の液体。ぬるぬるとして、酷く重さを感じる。
「――あ、油か!!」
言うとおり、彼の自慢の翼をじっとりと濡らしたのは、水とは違うぬめった輝きを放つ油だった。それもただの油より、少々粘度の高い……、ぬるぬるというよりは、ねとねと、といった触感の、見たことのない油だ。
「空襲、と、いうのが、我ら竜騎士団の真骨頂でな」
静かな鉄人の声が、油にまみれて、一瞬動きを止めていた戦場に、響き渡る。
「我ら民族、他の国を侵略する時は、いつもこのように空から油を撒いておるのだ。そして、地べたで這う他民族を、そのまま焼き尽くして、国を滅ぼしてきた。この油は帝国で取れる引火性と粘度の高い特別な油だ。どうだ? 貴殿らの羽には、少々辛いであろう?」
その指摘通りだった。
粘度のある油に汚されて、リュートの自慢の翼は、瞬く間にその動きを鈍くしてゆく。それは、勿論、彼だけではない。周りの有翼兵も、同様に翼を濡らされて、飛行を困難にさせられていた。中には既に翼の機能を失って、墜落する者まで出ているほどだ。
「我らの竜はこの程度の油なら、しばらくは余裕で飛行出来る。……それが、貴殿らとの決定的な違いなのだよ」
落ち行く有翼兵を、その鉛色の瞳で映し取りながら、鉄人が静かに告げる。
「……そら、今度は貴殿らが、地に這い蹲る番だ」
「あははははっ! あの堅物、やっとなりふり構ってられない手段を取ってきたわね! 面白くなってきたじゃない!!」
油の降る戦場を南の丘で眺めながら、紅玉騎士団団長エリーヤが、そう気勢を上げた。そして、その隣でも副団長キリカの口元が嬉しげな笑みを見せる。
「ですわね。あのいつも澄ました騎士の鑑が、やっと、一人の男に堕ちてきましたわね。ふふ……、私、ああいう閣下の方が、断然好きですわ」
「本当に、いつも自分も他人も誤魔化した仮面よりも、ずっと素敵な顔をしているじゃないの。……それにしても、これで、形勢は完全に我が帝国のもの。さて、……これから、あの白羽ちゃんはどう出るか……」
試すような赤目が、戦場に再び向けられた。そして、油にまみれた白羽を眺めながら、女が小さく呟く。
「まあ、ここで終わるような男なら、……私の手元に奪う価値のない男だった、というだけの話ね」
「将軍、貴様ぁーーーっ!!」
ぬめる羽を何とか動かして、リュートが雄叫びを上げる。
だが、どれだけ叫んだとしても、今のこの不利な状況は変わらない。全ては、この油の空襲を予期出来なかった自分の失態だ。
「皆! 墜落だけは、何としても避けろ!! 翼が保たぬものは、構わず地上に降りて、指示を待て!!」
そう叫びながら、再度確認した戦場は、最悪の状況だった。ぬめった油に翼を取られ、その隙をつかれて、次々と殺されていく有翼兵達。そして、突如降りかかった惨劇に、パニックを起こして、指示もまともに通らない指揮系統。
――まずい! このままでは……。
確実に、このままでは負ける。崩れた陣を、そして、落ちた兵士達の士気を立て直さなければ、勝機の芽はない。
……やむを得ぬ、か。
まだ、しばらくは使いたくなかったものを……。
そう一人逡巡するも、それ以外の手段は、今のリュートに残されてはいなかった。即座に、その目を北の丘にある小さな森へと馳せる。
「……この状況すら、ひっくり返せなくて、何が英雄か」
獅子の如き面相で、英雄は自分をそう鼓舞してみせた。
途端に、絶望の灰の戦場に、金の髪に覗く碧の光が煌めく。そして、鳴り響く、一際高らかな口笛の音。
その音に反応して、羽を油に汚された兵らが、一斉に、その腰に結わえ付けられた袋に、手を突っ込んだ。そして、その汚された翼を羽ばたかせて、空中で何とか持ちこたえながら、袋から取りだしたものを、相対する飛竜の鼻先に投げつける。
その様子に、北の丘で、王太子と共に戦場を見つめていたランドルフが、驚愕の声を上げていた。
「……あれは!!」
兵士の腰にそれぞれに結わえられた袋。それは、昨日ランドルフが、夜なべして縫ってやった麻袋だったからだ。その袋から、次々と兵士らの手によって、何かがぬめる戦場に投げつけられている。それが何なのか、確かめんと、ランドルフはその黒曜石の瞳を、さらに戦場へと凝らした。
兵士の手に握られて、ひらひらと舞い落ちる葉の様な物。
……いや、様な物、ではない。葉、そのものだった。何かの植物の葉をを乾燥させたものが、無数に竜の鼻先に投げつけられているのだ。
「な、何だ、あの干し草は……!?」
ランドルフがそう疑問の言葉を呈すや否や、またも戦場に英雄の口笛の音が響き渡った。
「総員、地上に退避!! 着陸して、油をぬぐい去れ!!」
意外な命令が、即座に、有翼軍陣営に通る。確かに、今、有翼軍は、油に汚されて、空中戦には不利な状況ではあるが、まだ油で汚しきられていない、無事な兵もいる。ここでこのまま全員が着陸したら、それこそ竜騎士達の思うつぼである。彼らが、未だ飛べる竜を駆って、空中から地上に向けて襲いかかることは火を見るよりも明らかであるし、いや、事に寄れば、もっと状況は悪いだろう。地上に降りたが最後、竜騎士はそのまま上空から、火矢の一つでも投げ入れれば、後は地上で有翼軍のみが、その翼の油に引火させられて、火だるまになるのは目に見えているからだ。
「……愚かな。ここで、踏みとどまらず、地上戦に持ち込もうとするとは。貴殿を買いかぶりすぎておったかな、白羽の戦士。このような干し草が、一体何だと言うのだ」
ふん、と敵の将の采配をあざ笑う将軍の耳に、聞き慣れた音が飛び込んできた。
――ドン、ドン……。
腹に響くような低音。進軍の時にも打ち鳴らされていた、太鼓の音である。その聞き慣れたはずの音に、びくり、と将軍の体が震えた。
「な、何だ。誰が、この太鼓、打ち鳴らしておる。私は打つように命令していないぞ。……飛竜を纏めて操るために打ち鳴らす太鼓の音など!!」
武人としての勘が、即座に緊急事態を感じ取っていた。すぐに、将軍はその耳をそばだてて、その音のする方向を見遣る。
……北の丘の小さな森。
そこから、間違いなく太鼓の音は響いていた。……有翼軍の陣地である、北の丘から、である。
「な、……何故、有翼軍が……」
そう絶句するよりも早く、激しい振動が将軍の体躯を揺さぶっていた。
見ると、愛竜ベルダが、その鼻先に被さられた干し草に操られるように、首を大きく振り乱している。将軍も、急ぎ、手綱を取るが、ベルダは一向にその騎手の命令を聞こうとはしない。あろう事か、首を下げて、下降態勢に入っている。そして、それは将軍のみではない。周囲の草を投げつけられた騎士、全てが飛竜の暴走にパニックを起こしているのだ。
「……べ、ベルダ!! ベルダ!! 一体どうした!! み、皆も、落ち着け!!」
そういつになく動揺を見せる将軍を、地上に着陸しながら、碧の瞳が不敵に睨め付けていた。そして、上空で慌てふためく将軍をあざ笑うかのように、凶悪な笑みでそのからくりを告げてやる。
「――飛竜草だよ。お前らが、飛竜の調教の時に使う草だ。ん? この近くの森で昨日取って干したばかりだ。香りも強烈だろう?」
それは、あの捕虜、ロンヴァルドからもたらされた飛竜の秘密だった。飛竜の最初の調教の時に、必ず使われる、特別な草。母竜の香りに似ると言われる、この国の雑草の一つだ。
「どうだ? 母竜の香りに加えて、纏めて空を飛ぶ為の調教に使われる太鼓の音。一番、飛竜の脳には強烈に届く命令だろ?」
リュートのその言葉どおりだった。飛竜達は、騎手の手綱によって与えられる命令よりも、明らかに太鼓の音に従っていた。空中に散らばっていた飛竜が、皆一斉に下降しながら、一カ所に集まり始めてゆく。
「くそっ……! あの男がどうして、こんな方法を使えるのだ。どうして、飛竜の調教方法を……」
上空で何とか竜を操ろうと試みる将軍が、そう吐き捨てるが、一向に飛竜達は命令に従おうとしない。ついには、空中で、一塊の集団になって、一斉に下降を始めていた。痺れを切らした将軍の命が、混乱する上空に響き渡る。
「このままではまずい! 飛竜が地上に着陸する前に、先に決着を付けるぞ!! 今、地上にいる全有翼軍に対して、火矢を射よ! 奴等を火あぶりにしろ!!」
「火矢か……!! させるかぁっ!!」
その意図を即座に悟ったリュートが、再び地上で口笛を吹き鳴らした。
それに呼応するように、即座に、北の丘の森から、木々の葉を散らして、一陣の風が吹き抜けてくる。
……白銀の、平原を切り裂く、風である。
「ブリュンヒルデーーーーっっ!!」
英雄がそう名を呼んだ風に、戦場に居合わせた誰もの目が釘付けになった。
そこには、あり得るはずのない生物の姿。
ただ、リンダール人のみに従い、他のどんな民族にも使われぬと謳われる生物が。天翔て、全ての国々をその翼の下に屈服させると謳われる、気高き生物、飛竜が。
紛う事なき有翼の民であるリュートの命に従って、その白銀の翼を、赤と灰の戦場に煌めかせているのだ。
「行っけぇ! ブリュンヒルデ!! 俺の調教の成果、奴等にとくと見せてやりなぁ!!」
白銀の竜を送り出した丘の森で、その竜尾に、今まで太鼓を打ち鳴らしていた調教師アーリが檄を飛ばす。
「な、何だ。あの飛竜は……。な、何故、あやつ、竜を……」
突然現れた新しい白銀の風に、思わず鉄人の口から、驚愕の言葉が漏れた。だが、すぐに、その頭を働かせて、一つの推測を導き出す。
「まさか……、ロンが……。そうか、あいつなら……」
そう呟く間に、白銀の鱗の竜は、戦場の間近に迫っていた。金の目をした、轡を付けられた若い飛竜。ようやく人一人を乗せることが出来る程度に成長した竜だ。
「あれ一騎か……。ならば、所詮は若竜、恐るる事はない」
だが、その鉄人の言葉は、見事に裏切られることになる。
その白銀の竜の足に握られているもの。それに、ぞくり、と鉄人の体が身震いをしていた。
「行け! ブリュンヒルデ!!」
飛竜草と太鼓の音によって、空中で一団に纏められていた騎士達の上空に、白銀の竜が飛来する。そして、騎士がその竜に向かって、弓矢を番えるより早く、その足から何かが落とされていた。
……そう、先に、将軍が身震いしたもの。
それは、かつて、将軍を敗走せしめた戦いで使用された、大きな網に他ならなかった。それも一つではない。頑丈なロープで編まれた網が、次々と白竜の足から落下させられているのだ。
いつもならこの程度の網、避けられてもおかしくはないが、いかんせん、まだ、あの忌々しい太鼓の音は続いている。竜を制御するのに必死な騎士達が、それを避けることなど不可能。次々と頭から被せられる網に、騎士達が互いに引きずられるようにして、バランスを崩していた。
それを悟った将軍の、激烈な声が、狂乱の戦場に木霊する。
「――しまった! 投石器がないと思って、油断しておったわ!」
油断はない、と思っていたのに。……なんたる失態であるか!!
そう将軍が自分を戒めるが、時はもう既に遅かった。
次々に落下してくる網と、そして、尚も降下態勢に入っている竜達に、騎士らはもう為す術がない。そんな中、地上から、良く通る男の声が響き渡った。
「ブリュンヒルデ! 来い!!」
羽の油をあらかた拭き取ったリュートが、その翼を何とか羽ばたかせて、上空へと駆け上がる。その手には、しっかりと握られた太いロープ。その所々に、鋭い鉄菱が括り付けられた、特注品……あのリザに平原に用意させておいた極長のロープである。
その先を持って、リュートが再び口笛を吹く。すると、今まで、騎士達の上空で網を撒き散らしていたブリュンヒルデが彼の元まで、真っ逆さまに降下してきた。そして、一つ旋回すると同時に、その背に飛び上がっていたリュートを乗せる。
「よし、良く来た、ブリュンヒルデ! いい子だな! さあ、蹂躙するぞ」
手綱を取ったリュートの命令に答えるように、ブリュンヒルデは高らかに一つ嘶きをしていた。
――キュイイィィッッ!!
天翔る白銀の竜の背に、起立して騎乗する血染めの白羽の戦士。曇天の空に、流星の如く煌めく銀の鱗、そして靡く金の髪。
そのかつてない英雄の姿に、敵味方共に、目を見開く。
「な、何て、男……」
勿論、その驚愕は、南の丘にいるエリーヤ姫も例外ではない。そのルビーに似た瞳をこぼれ落ちんばかりに見開いて、白羽の男を凝視するしかできない。
「ああ……。やっぱり、私が見込んだ白羽ちゃんね」
魅惑的な唇から、うっとりと呟かれるその姫君の言葉とは裏腹に、戦場では凄惨な光景が、幕を開けていた。
鉄菱をつけたロープを手に、恐れることなく白銀の竜が、騎士の一団に襲いかかった。
現在、騎士達は、逃げまどうほどにバランスを失って、降下して行っており、下から飛び上がってくるリュートと竜を迎撃する余裕すらない。その騎士達の上空まで、地上から伸ばされたロープを持って、一気に飛び上がると、リュートはその先をしっかりと握りしめながら、愛竜に向けて、指示を飛ばした。
「行け、ブリュンヒルデ! 騎士達の周りを、このまま旋回しろ!!」
その言葉どおり、ブリュンヒルデは鉄菱のついたロープで地上と繋がれたままに、騎士らの上空を縦横無尽に飛び回る。勿論、地上と、上空のブリュンヒルデとの間で苦戦している騎士達の一団は堪ったものではない。絡まる網だけでも一苦労だというのに、ブリュンヒルデが上空で動くたびに、伸ばされた極太のロープが、不規則な動きで、騎士達に襲いかかってくるのだ。しかも、そのロープの所々には鋭い鉄菱が括り付けられている。これが、恐ろしく、皮と肉を食い破ってくる。そして、バランスを崩した一体の騎士が墜落を始めると、網に釣られて、次々と周りの騎士らも墜ちて行くのだ。
「よし! いいぞ、ブリュンヒルデ! 次は降下だ!!」
リュートの命に従って、白銀の竜が、ひゅん、と風を切り裂いて、下降を開始する。何とか墜落を免れようとする騎士団よりも速く地上へ。勿論、そのロープで、網に絡まる数十隊の騎士を巻き込んだままにである。
「――総員、右方向へ!! 騎士団、総力でこの網、引きちぎるぞ!! 何とか竜を操れ!!」
せっぱ詰まったような鉄人の檄が飛ぶ。
「だが、もう遅い」
ブリュンヒルデに乗せられて戻った地上で、リュートが冷たい声音で、そう断じていた。
上空から戻ったリュートから、ロープの先が兵士達へと手渡された。騎士団を、その鉄菱で巻き込んだ、地獄に繋がる一筋の紐が。
そして、墜ちてくる騎士団を地上で待ち受けるは、先に食い破られ、リュートによって地上に退避させられていた弓兵隊。
「行くよ、クルシェちゃん、レオン!!」
少年二人を共にした弓兵トーヤの弓が、上空で網とロープ、そして太鼓の音に苦しめられている飛竜の腹に向く。
「丁度いい距離まで、墜ちてきてくれたね。これなら、この地上から、矢が届く」
「食らえ! 兄ちゃんの、そして家族の仇だ!!」
クルシェ、レオンの弓に、ぎり、と弓が番えられた。そして、鱗の装甲のない竜の腹に向けて、地上から少年達の、そして、弓兵達の矢が襲いかかる。
そして、それと同時に、引かれるロープ。
下からの弓。絡まる網とロープによる引き。そして、未だ竜に下降の指示を出し続けている太鼓の音。
この三方からの攻撃に、流石の鉄人、そして蒼天騎士団も抗う術を持たない。
「死ね、竜騎士」
その悪魔の様な言葉と共に、轟音を響かせて竜騎士達が落下していた。途端に、地上に、もうもうと散った葉と砂煙が巻きあがる。
「ふん、最初から着陸しておけばよかったものを。下手に自分の優位を保とうと抗うからこうなるのさ、馬鹿者め」
汚れた白羽の男からの、侮蔑の言葉が吐き出されたその地上は、もはや凄惨と言うにも生々しい現場だった。
墜落の衝撃で、飛竜は多くが骨折。当たり所の悪いものは、既に絶命をしていた。もはや原型を留めていないほどに潰れた竜の死体。先に油によって墜落させられていた有翼兵の死体に折り重なるように潰れた、騎士の頭。
そんな鉄臭い凄惨な地上で、生き残った騎士の一人がなんとか無事な竜を駆って、飛び上がろうとするも、未だ鳴り響く太鼓の音のせいか、竜はなかなか飛び上がろうとしない。上空には、ただ、先の網を免れた竜騎士が数隊残るのみだ。
「今だ! 先ずは無事な竜の足の腱を切れ! 飛び上がらせる術を奴等に与えるな!!」
即座に、指示を出しながらも、リュートはブリュンヒルデを駆って、空へと舞い上がる。眼下に広がる地上は、些か墜落の衝撃で土煙が上がっているが、視界を全て覆い尽くすほどではなかった。
飛び上がらんとする何体かの飛竜。それに抗う有翼兵。竜にとどめを刺さんと振り下ろされる剣。そして、その剣を受け止める騎士のサーベル。
地上はもはや混戦の様相を呈していた。
「有翼軍! 北を背に、陣を組み直せ!! 火だけは、絶対に敵に使わせるな! 翼の油に引火するぞ!!」
そう自軍に向けて、空の上から指示を飛ばしながら、リュートはさらに地上を舐めるように見渡していた。……一人の男の姿……、宿敵とも言える、将軍の姿を探すために、である。
「何処だ……。将軍、何処だ……」
混乱する戦場を眼下に、白銀の鱗のブリュンヒルデが、空中を飛び回る。空中に残っていた騎士達の攻撃を見事に避けながら、白銀の光の飛行は留まることがない。
眼下に広がるのは、ただ草の枯れ色と、鎧の灰色に混じる血の赤のみ。その奇妙な色彩の戦場に、一つ、見落とすことの出来ないような鉛色が、ぎらり、と光る。
「――将軍!!」
ついに見つけた仇敵に、即座にリュートは竜首を返す。本来ならば、このまま空を飛びながら、兵に指示を出すべきなのだろう。自ら得ているこの優位な状況を、むざむざ捨てることはない。
そう頭では分かっていても、リュートの体はもう止まらなかった。鉛色の光の上空まで一気に翔け下ると、握っていた手綱を躊躇うことなく放し、……そして、血と油に汚れた羽を何とか羽ばたかせて、空に飛び出していた。
……ざしゃり。
ざらついた音を、その靴裏に響かせて、金の髪を靡かせた男が、鉛色の鉄人の前に着地する。
「――来たか。白羽の戦士よ」
横たわった愛竜ベルダの体を背に、ゆらり、と鉄人がその頑健なる体躯を上げていた。どうやら、愛竜の体が緩衝材となって、騎手に致命傷を与えなかったらしい。鉄人の体は些か擦り傷を負っているものの、何処も大事には至っていないようだった。
「自ら、私と同じ地に立つとは、貴殿も愚かだな。それに、先の手も、出し惜しみせねば、とうに我らを全滅出来たであろうに」
「……そうだな。本来なら、もう少しお前らを追い込んでから使おうと思っていた僕の判断ミスだ。まさか油を使われるとは思っていなかったのでな」
「ふ……。判断ミスはお互い様だ。だが、そろそろ限界だろう? その翼も。ならば……」
すらり、と将軍の腰のサーベルが、音を立てて抜かれる。
「『これ』で勝負を付けようではないか」
騎士の鑑と謳われる鉄人の、その意外な申し出に、白羽の英雄のみならず、周囲に居合わせた騎士ら全てが、目を見開いていた。即座に、新しく蒼天騎士団副団長に就任したジェスクの諫言が飛ぶ。
「閣下!! 何を仰います! 敵軍ももはや飛べぬ者が多数です! 生き残った騎士達を纏めて白兵戦を……!!」
「――黙れ! これは……譲れぬのだ。一人の武人として、この男と剣を交える事だけは、誰にも譲れぬのだ!!」
とても、いつも冷静沈着な鉄人とは思えぬほどの激情の台詞。とてもではないが、ジェスクにはその心理が理解出来ない。……今更、若い男のするような腕試し、ということをする鉄人ではないだろうに。
「見損ないましたぞ、閣下!! それが、帝国第二軍長たるお方の言葉か!! 良い! 私が閣下に代わって指揮を取る! 残った騎士! 全て、我が麾下に集え!!」
そう宣言して戦場に戻っていくジェスクの後ろ姿を、ちら、と見つめながら、リュートが口を開く。
「馬鹿だな、将軍。どうして、お前……」
「ふ……。私とて、迷いなしにこの場に立っておるわけではない、ということだ」
「……また、訳の分からぬ事を……」
「よいだろうが、別に。貴殿に、私の内心は量れぬよ。貴殿に許されているのは、今、私の一騎打ちの申し出を受けるか、否か。それだけだ」
鉛色の目を伏せ、静かに鉄人はそう告げていた。その言葉に、リュートは一人煩悶する。
……ここは、断るべきだ。
先の副団長と思われる男が、白兵戦に持ち込む、と言っていた以上、こちらも受けて立たねばなるまい。有翼軍の総指揮者はこの自分。兵達を纏めて、白兵戦に臨むべきだ。
そう、分かっていても。
どうしても。……どうしても、脳裏に離れぬ光景があった。
あの、雪の戦場で、槍を突き立てられて、絶命していた兄の姿が。あの、雪よりも、冷たかった、肌が。
ぎり、と、痩せた右手が、握りしめられる。あの雪の肌に比べたら、遙かに熱い血潮が通っている、右手が。
「将軍、僕は……」
気づけば、既に右手は剣を抜いていた。あの兄を殺された、そして、部下であるニルフを、兵士を殺された激しい怒りを宿した剣が。
「リュート様!! 駄目だ!!」
護衛としてついてきたクルシェの声が、どこか遠くに響いている。だが、どこかは、もはや分からなかった。地上に轟く兵達の怒号も、残った兵らが空を翔る風切り音も、今、絶命しゆく兵士達の狂乱の悲鳴も、どこか、遙かに遠い。
怒りたつ碧の目に映る光景。……それは、ただ、きつく斬り合わされる二振りの剣。それしか、なかったのだ。
――ガキン――
交差音、そして、荒い息づかい。
それだけが、もう、世界の全てだった。
「――死ね、将軍」