第六話:嫉妬
はあぁ、とひとつため息をついて、マリアンは目の前の鏡を見つめた。
いつもと変わらぬ白衣に帽子。化粧っけのない地味な顔に、無造作に纏められた栗色の巻き毛。それを直す手も、毎日の消毒で、ひどく荒れている。
「はあああぁ〜」
今日という特別な日の、自分の代わり映えのなさに、再びため息が漏れる。現実の直視を避けるように、マリアンはすぐに鏡の前から去り、医薬品の備蓄棚へと向った。
――所詮、私には縁のないことよ。
新しいガーゼを取出しながら、マリアンはそう自分を納得させようとしていた。
……姉さんは私とは違うものね。
昔からそうだった。何をするにも鈍臭い自分とは違って、いつも姉は行動力があって、要領がよく、利発な娘だった。
そんな姉のようになりたいと、いつも後を追い掛けては、転んで泣いていたっけ。それでいつも姉さんが怪我を手当てしてくれて、おぶって私を家につれて帰ってくれて……。
そんなふうに昔のことを思い出し、再びため息をつく。
……結局、私は今でも変わっていないわ。
今日だって、姉は夜勤明けにもかかわらず、綺麗に着飾って出かけていった。自分はと言えば、こんな日に当直勤務で、いつものみすぼらしい格好。まあ、一緒に出かけてくれる人もいないのだけれど。
「マーリアーン、マーリアーン」
同僚の看護婦の呼ぶ声がする。どうせ、いつもの患者さんが困らせてるのだろう。まったく、こんな日に私を必要としてくれる相手なんて九十近いおじいちゃんだけなんてね。
「ルカ?あんまり私ばかり頼らないでよ。あのおじいちゃんは話聞いてほしいだけなんだから……」
ぶつぶつと言いながら、ガーゼを持って詰め所に戻ると、同僚のルカが勢いよく飛び付いてきた。
「マリアン! あ、あんたうまいことやったわね!」
「な、何? どうしたのよ!」
「どうしたもこうしたもないわよ! あんたを尋ねてきてるのよ! あー、あんた、あの人とどうやって知り合ったのよ!いいなぁ〜」
心底うらやましい、といった様子で、ルカはマリアンをロビーへと引っ張っていく。
いつもは患者でごったがえしている病院のロビーは、今日ばかりは静まり返っており、ソファに数人の人影があるだけだ。その中の一つが、マリアンの姿を認めるなり、立ち上がった。
美しい金の髪が揺れる。背の羽にあわせたかのような、品のよい白い長衣に、それはよく映えて、まるで自らが発光しているかのように眩しい。
「やあ、マリアン。仕事中にごめんね」
碧の目が、にっこりと細められる。いつも、マリアンはこの目に見つめられると、息が苦しくなって、うまく言葉がでてこない。
ルカが、そっと耳打ちした。
「あの人、市長様の秘書でしょ? 今、女の子達の間ですごく人気あるのよ? いいわねぇ、あの人とデートできるなんて」
「えっ?」
「何とぼけてるのよぉ。こんな日に迎えにくるってことはそういうことでしょ?こっちはうまくやっておくから行ってきなさいよ!」
ドン、とルカは背中を押してマリアンを送り出した。
「マリアン? 忙しかったかい?」
「い、いえっ、大丈夫よ」
いつもと違う彼のいでたちに、なおマリアンは緊張し、思わずスカートを握り締める。白衣といっても、彼の長衣と比べてあまりにくすんだ色なので、なんだか無性に恥ずかしくなってしまう。白衣だけではない。マリアンはこんな白に釣り合うような私服だって持っていない。
――ど、どうしよう、どうしよう。
恥ずかしくて、なかなか顔をあげないでいるマリアンに、やさしく彼が話し掛ける。
「マリアン、ちょっと聞きたいんだけどさ。トゥナは今日、どこに行ったの?」
突然呼ばれた他の女の名前に、マリアンのうきうきと上気していた心は、頭から水をかぶせられたかのように、一瞬にして冷えた。
「え、姉さん?」
「うん。トゥナにちょっと会いたくてね」
にっこりと、目の前の美しい男は微笑む。
ざらり、としたものが、マリアンの心を撫でた。
「ね、姉さんなら夜勤明けでさっき出かけたわ」
「どこに行ったか知らない?」
「知らないわ。最近、よく出かけているから、今日も誰かいい人とデートじゃないの」
わざと意地悪く言ってしまう自分を、ひどく醜く感じながらも、マリアンはそれを止めることができない。胸のざらつきはより一層、その不快感を増している。
「よく出かけてるの? いつも会っているのは男?それとも女?」
「知らないわ」
「どんな人か心当たりは?」
「知らないわ」
「いつごろから彼女は出かけるようになったの? 頼む、教えてくれ」
ざらり、ざらり、ざらり。
「知らないって言ってるでしょう!!!」
胸のざらつきに堪えきれず、マリアンは声を荒げた。
「ご、ごめん」
今まで、一度たりとも彼女のそんな姿を見たことがなかった幼なじみは、酷く驚いている。すまなさそうに、頭を下げる彼のその姿が、さらにマリアンには不快に思えた。
「話はそれだけ? 私、忙しいの。もう、いいかしら?」
冷たく、言い放つ。
「うん、ごめんね。これで失礼するよ。また今度改めて二人で食事でもしよう」
「えっ……」
彼のその言葉に、再び、一瞬にしてマリアンの心は浮き立った。マリアンの胸は期待に高鳴り、その頬は桃色に上気する。
しかし、彼女の期待とは裏腹に、次には、また冷や水のごとき言葉が待っていた。
「トゥナのこと、よく教えてほしいんだ」
「……ええ」
マリアンはそれだけ絞り出すのがやっとだった。すぐに顔を背けて、幼なじみの前から駆け出す。
今、自分は酷く醜い顔をしているだろう。
それだけは、彼に見られたくはなかった。
――どうして!どうしていつも姉さんだけ!!!
妹は、崇拝の裏に隠れていた姉への思いをぶちまけるように、ただひたすらにその場から駆けだしていた。
「申し訳、ありません」
三人の衛兵が地に頭をこすりつけんばかりに土下座をしていた。
「全くだ。あれほど言ったのに、どうして見失うんだ」
金の髪を白い長衣になびかせて、彼らの上官が呆れたようにため息をつく。
「申し訳ありません。てっきり夜勤明けですので、まだ出てこないかと油断しておりました」
右端の小太りの男が再び、地に頭をこすりつけた。それを隣のまだ若い少年のような男がこづく。
「そうだぞ。お前が油断するから悪いんだ。どうしてくれるんだよ、憧れの隊長との初仕事なのに」
「そうだ、そうだ」
そう言って、一番左端のやせっぽちの男も尻馬に乗る。
「もういい。誰が悪いとかいう問題ではない。連帯責任だ。いいから皆顔をあげろ。何事かと人が見ているだろう」
恥ずかしげに、上官は辺りを見回した。
人、人、人。
そして、ずらりと並んだ屋台に、出し物小屋。打ち鳴らされる太鼓に、響くラッパ。
今日は市民達が待ちに待った、レンダマル市収穫祭の日であった。
その広場の真ん中で土下座をしている三人組は否応なく目だつ。上官は、見せ物ではないと言わんばかりに、しっしっと群衆を払う。
「今回の件は許すから、早く顔をあげろ」
上官がそう言うと、三人はぱっと顔を煌めかせて上官に抱きつこうとする。
「あ、ありがとうございますっ」
「さすがリュート様だ!!」
「許してくださるんですねっ」
はあ、と再びリュートは、深くため息をついた。
トゥナの監視のため、市庁舎から三人の衛兵を借り入れたはいいが、彼らのまあ使えないことといったら……。何しろ、まだ祭りも始まっていないというのに、彼らはすでにトゥナの姿を見失っていたのだから。
自分で監視していれば、と後悔しても遅い。彼らに緊張感がないのも、もっともなことだとリュートは自分を納得させる。
この街全体のうきうきとした雰囲気に加え、この監視の真の目的を知らないのでは、無理もない。いや、例え目的を知っていたとしてもどうだろうか。現実に監視の目的を知っているリュートでさえ、この命令には酷く懐疑的であるのだから。
広場に、高らかにラッパか吹き鳴らされた。
祭りの開幕だ。
市庁舎前にしつらえられた特別な舞台に、黒羽の男が颯爽と姿を現す。
市民達の声援に答えて、黒羽の市長はゆったりと手を振った。
――自分も黒髪のくせにな。
リュートは、心の中でそう毒づいた。
黒髪の女『クローディア』。怪しい黒髪の女を監視せよ。
そう簡単に言ってのけるが、東部に一体どれだけの黒髪の女がいると思っているんだ。現に、目の前の屋台に、一人、二人。あっちにも一人。あっちの子供も、そっちの男も、黒髪。とどめにはこの使えない三人組まで全員黒髪ときた。
もともと、東部に黒髪は多いだろうに、どうしてトゥナだけが疑われなくてはいけないのか。
おそらく、ランドルフがこだわっているのは、トゥナがガリレア帰りの女であること……。毒蛇の巣と言い放った王都ガリレアから、最近やってきた女だということ。
それから、先にマリアンが言っていた、しょっちゅう誰かと出かけている、というのも気になる。
しかし、あのトゥナがそんなことをするだろうか?……いや、するはずがない。
それは幼なじみとして、時を共にしてきたものの率直な勘だった。
「隊長〜」
間抜けな声が聞こえる。まだ少年のような三人組の一人だ。彼らはいつのまにか、リュートのことを隊長と呼んでいる。一体何のことかと聞けば、『黒髪の女監視隊』の隊長ということらしい。こいつら、本当に馬鹿じゃなかろうか。
「隊長。あっちの芝居小屋で並んでる黒髪の女、さっきからずっと隊長のこと見てますよ。怪しくないですか?」
小太りの、確かバズとかいう衛兵が指を指す。
「馬鹿。ありゃ、ただ隊長に見とれてるだけだろうよ。隊長はあの事故以来有名人だからな」
今度はやせっぽちのトニーがバズをこづいた。
「そうそ。俺っちもあの事故で隊長に憧れて衛兵になったクチだもんよ。女達が痺れるのも無理ねぇって」
白い歯を見せながら、十四くらいの少年に見える男、アランが笑う。
「あ、俺も、俺も」
「ああ〜、俺もあんなふうに女の子に見つめられて〜」
「あ、隊長。さっきの看護婦さんは隊長の彼女じゃないんすか〜? 結構可愛かったけど〜」
それからもずっとこの三馬鹿は何がおかしいのか、くだらない話題でケタケタと笑っている。本当に馬鹿じゃなかろうか。放っておけば、このまま三人で飲みに行きそうな雰囲気だ。
だいたいランドルフは、幼なじみの僕なら怪しまれず彼女に近付けると言うが、この自分の目立ち具合から本当にうまくいくのかもわからない。
……ああ、面倒臭いな。
このまま、この三馬鹿と本当に飲みに行ってやろうか、とリュートは本気で考えつつあった。
ふと、群衆の中に見慣れた空色の羽を見つけた。
レミルだ。
彼は、クレスタから持ってきた一張羅を着て、いつもよりめかしこんでいた。きょろきょろと、辺りを見回す様子から、誰かと待ち合わせしているものと思われる。
彼に声をかけようかと、リュートが近づいた時、急にレミルはうれしそうに破顔し、群衆の向こうに手を振った。
群衆をかきわけて、一人の女が彼の前に現れる。
美しい黒髪に、薄紫の羽。
それは、紛れもなくトゥナだった。
「あ! いた!」
三馬鹿の一人、アランが声を出す。
幸い、彼らにリュート達の存在を気付かれずにすんだようで、二人は連れ立って群衆の中に姿を消していった。
「追うぞ」
それから、数時間。
ただただ退屈な尾行に、リュートは飽き飽きしていた。
彼らは、周りの市民達と同じように、屋台を巡り、出し物を楽しみ、芝居小屋に入り……。特に怪しいところなど、毛ほども見当たらない。
――ああ、くだらない。
リュートは、目の前の芝居を見ながらつぶやいた。
使い古された恋愛悲劇だ。
『私は無実です! お信じにならないのでしたら、今すぐこの胸切り裂いてみせましょう!』
殺人の嫌疑をかけられた姫が、自殺をはかるラストシーンだ。
……簡単に嫌疑はかけられても、無実を証明するのは容易くはないんだよな。
トゥナだってそうだ。今怪しい行動がなくたって、それでランドルフは彼女がシロだとは納得しないだろう。
やはり、真犯人を別に見つけるしかないか。
芝居は大盛況のうちに幕を閉じた。辺りはすっかり暗くなっているが、祭りの本番はこれからだと、人々の熱気は盛り上がるばかりだ。群衆達の波に楽しそうに駆けてゆく二人の背を、リュートはひどくうらやましく見送っていた。
仕事さえなかったら、自分も一緒にお祭りまわれたのに。マリアンも誘って、昔みたいに四人で過ごせたらどんなに楽しかったろう。
少し、肌寒くなってきた秋の風に、リュートはそう、一つ呟いて、身を縮こまらせた。
「隊長、隊長!」
リュートが屋台で何か暖かいものを物色していると、三馬鹿の一人、バズがレミル達が消えたほうから飛んできた。
「隊長、ちょっとおかしいですぜ。あの二人、祭りの輪から抜け出して、どっか行こうとしてますぜ」
「何?」
買ったばかりのスープもそこそこに、リュートはバズの案内で彼らを追う。
辿り着いた先は、リュートもよく知った場だった。
市庁舎前の武骨な四階建ての建物。そこは、リュートが毎日通っているレンダマル兵士鍛練所だった。
リュートは現在は翡翠館に部屋を与えられているが、未だ、兄のレミルはここの宿舎で寝起きしている。彼らは、人目を憚るように、裏口からこっそりと中へ入って行った。
「あれ?鍛練所って女子禁制じゃないんすか」
あとから駆け付けてきたアランが言う。
「確かに、いつもは守衛のおじさんが市長目当ての女の子達、追い返してるよな」
たまに市庁舎前で警備をしているというトニーも言った。
「今日は祭りだからな。守衛のおじさんも飲みにでてるんじゃないか?」
バズ達の言葉に、リュートは、はっと気付かされる。
――そうか。今日なら容易くここに入れる。レミルがいたらなおさらだ。
まさか、と思う。
トゥナが本当に『クローディア』だとしたら?
うまく言えば、レミルは簡単に幼なじみをここに入れてくれるだろう。確か、あのラスクという男は僕らを眠らせて、何かをする時間を作りたかったのだった。そう、この鍛練所所長室で、だ。その何か、というのが未だこの鍛練所に残されていたとしたら?
必ず『クローディア』はそれを回収しにくるに違いない!
――レミル!!
もし、本当にトゥナが『クローディア』なら、ここに自分を連れてきたレミルをただで済ますわけがない! ……レミルが危ない!!
リュートは、三人と共にすぐに彼らの後を追った。
「バズは裏口。アランは正門。トニーは所長室だ。すぐに配置に付け!」
そう指示を出すと、リュートは自分自身が彼らの尾行につく。鍛練所内は皆出払っているのか、ひどく静まり返っていた。
二人は、リュートの尾行にはまったく気付かない様子で、暗い鍛練所内を進む。そして、躊躇することなく、ある部屋に入っていった。
先日までリュートが兄レミルと住んでいた部屋だった。
リュートは壁にぺたり、と張りつき、ドアの隙間から中の様子をうかがった。立て付けの悪いドアだけあって、声も漏れ出てきている。
「何よ。こんなところまで連れてきて、話って」
トゥナの声だ。
「まあまあ、座れよ。今日はどうせ誰もいないしさ。リュートだってここには帰ってこない」
そう言ってレミルは向かいのベッドにトゥナを座らせた。リュートが先日まで寝起きしていたベッドだった。
「外ではできない話? 一体何?」
少し、いらついたようにトゥナは言う。その様子を察してか、レミルはおずおずと口を開いた。
「あのさ、トゥナは今でも医者になりたいって思ってる?」
……医者? こんな所まできて、医者の話か?
リュートはますます不審に思い、その耳をそばだてた。
「え? そりゃもちろんだけど、言ったでしょ? 女には免許が発行してもらえないって」
そう口を尖らせるトゥナに、レミルは人差し指を立てて、微笑む。
「一つ、方法があるって言ったら?」
レミルの言葉にトゥナは驚きを隠せない。
「え! ど、どんな方法? 教えて!」
目をキラキラさせて、トゥナはレミルに詰め寄った。そんな彼女をしっかり見据え、一つ深呼吸をすると、レミルははっきりと言った。
「俺と、結婚しよう、トゥナ」
二人の間に沈黙が流れた。
トゥナは何を言われたか、一瞬理解できなかった。それはドアの外のリュートも同じである。
「な……。いきなり何言ってるの?」
トゥナはやっとそれだけ絞りだした。
「貴族の家柄だったら行けるんだろ、大学。俺と結婚したら貴族の身分が手に入る」
「そ、そりゃそうだけど、だからって……」
「俺は本気だよ、トゥナ」
トゥナは、今までに見たことがない、レミルの真剣な眼差しに見つめられていた。
「好きだよ、トゥナ」
ようやく、トゥナは理解した。一気に顔が赤くなる。
「え、あ、あの」
「俺のこと嫌いか?」
トゥナの口はぱくぱくと動くばかりで、うまく言葉が紡ぎだせない。なんとか、首を横に振って、一言紡ぎだした。
「き、嫌いなわけ、ないじゃない」
「じゃあ、好き?」
レミルのその問いに、少し間をあけて、恥ずかしそうにトゥナはうなずいた。
「トゥナ!」
レミルは一気に顔をほころばせて、うれしそうにトゥナに抱きつく。
「ちょ、ちょっと、だからって結婚だなんて……。あなたはクレスタの領主になるのよ? わかってるの?」
「わかってるさ! だから君を選んだ。君なら、一緒にクレスタを治めていける!」
……一緒に治める? いったい何を言ってるんだ……?
「私が? 私は無理よ。ただの町医者の娘よ。あなたの手助けなんてできない! そういうことならリュートがいるじゃない!」
トゥナは予想だにしなかった言葉に、激しく狼狽えた。そんなトゥナに、レミルははっきりと言い放つ。
「リュートはここに置いていく」
――置いていく……?
リュートには、その言葉の意味が、わからない。
なのに、心臓が、おかしい。鼓動が、止まりそうだ。……息ができない!
「置いていくって。リュートはずっとあなたの手助けしたいって言ってたじゃない!」
「……俺たちは、離れたほうがいいんだ」
「ど、どうして?」
「リュートは俺よりずっと能力があるよ。ランドルフ様のもとにいた方がいい」
トゥナは、どきり、とした。今、レミルが見せている顔は、あのレストランで、初めて見た顔と同じものだったからだ。
「だからって」
レミルの顔が、あまりにも痛々しく感じて、トゥナはそれだけ言うのが精一杯だった。
「あいつは俺のところにいちゃだめだ。もっと広い世界で生きていくべきなんだ。ランドルフ様なら、それをあいつに与えてくださるだろう」
「でも……でも、リュートはあなたの側にいたがってるわ。あなた達、兄弟でしょう?」
「わかってる、わかってるさ! でも駄目なんだ! 俺はあいつと一緒にいられない!」
ひどく言いにくそうに、まるで自分を責めるように、きつく唇をかみしめ、レミルは自分の感情を吐露した。
「きっと、俺はあいつに嫉妬する」
――嫉妬……?
「あいつは勉強だって、剣だって、なんだって俺よりずっとできる。ランドルフ様も、何かにつけ、あいつを重用してるじゃないか。俺なんか、あの方の視界にすらいれてもらえないってのに」
自嘲するように、レミルは言う。
「レミル……」
「俺が能力がないのが悪いのはわかってるさ。でも、この嫌な気持ちはどんどん俺のなかに広がってくんだ。なら、いっそ、仲のよい兄弟でいられるうちに別れたほうがいい」
がしり、と、レミルの指がトゥナの肩を掴んだ。その俯いた顔は今にも泣きそうだ。
「それに……あいつは、俺のことをまるで神様みたいに慕ってる。前の事故の時だって自分を犠牲にして俺を助けた。俺はそんな大した人間じゃないってのに。犠牲になってまで、助けられる人間じゃない。俺は、……俺は特別な能力なんてない、こうやって醜く嫉妬するただの平凡な人間だ!」
肩にかかる指の力が、より一層強くなる。
「正直……俺には重すぎるんだ……」
すべての感情をさらけだしたレミルを、トゥナは黙って抱き締めた。女性特有の、胸の柔らかい双丘が、優しくレミルを包み込む。
「ごめん、トゥナ。プロポーズしたあとでこんなみっともない姿見せて……。でも、お前だけなんだ。こうやって見せられるの……」
レミルは、泣いているのか、その顔を上げない。
何故だろう、と、トゥナは自問していた。
自分が幼い頃から夢見ていた理想の男は、こんなものではなかったはずだ。自分の理想は逞しくて、頼りがいがあって、すべてにおいて強い男、だった。こんな男の弱さなど、一笑に付してきたはずだ。
なのに、どうして。
どうして、こんなに自分の腕の中の男が愛おしい?
どうして、こんなにも、この男の弱さが愛おしいのか?!
ああ、これは自分だ、と、トゥナは思う。
私も、こうやってただ抱きしめられたいのだ。こうやって、自分の弱さを受け止められたいのだ。
私だって、けして強くなんかない。いつだって虚勢を張って生きてきた。
母が死んでから、自分は強くあらねば、といつも奮い立たせてきた。妹を助け、父を助けるためには、自分が強くならなければと。医者を志したのはそのためだ。
でも、いつも心の中では求めていた。
ただ、屈託なく笑う妹のように、私も誰かに抱きしめられたいと。いつだって、妹に嫉妬していた。
この人なら。
この人なら、きっといつもの太陽のような笑顔で、私を受け止めてくれる。私も、この人をこうやって抱き締めることができる。
それは、自分が描いていた理想ではないけれど、きっと、ひどく、幸せな事だろう、とトゥナは思った。
……共に生きる、というのは、こういうことなのかもしれない。
トゥナは、そんな漠然とした思いに駆られながら、柔らかなベッドの上で、ただひたすらに愛おしい男を、その胸に抱きしめた。
トゥナがレミルを抱きしめるのと同時に、リュートはその場を駆けだしていた。
どこをどう走ったのかも覚えていない。
気づくと、そこは屋上だった。秋の風が、冷たく羽に吹き付ける。はあはあと、息を切らせながら、リュートは屋上の冷たい床に崩れ落ちた。
……嫉妬だって?! 一体何を言ってるんだ!!
リュートはその冷たい床を拳で殴りつける。
僕がうらやましいだって?
何を言ってるんだ?
すべて持っているのは、レミルのほうじゃないか。
家族も、家柄も、友人も、恋人も、そして弾けんばかりの笑顔も、みんな、みんな、持ってるのはレミルのほうじゃないか!
拳に、じんわりと、血が滲んだ。ひどく、痛い。
誰のために、学び、誰のために、鍛えてきたと思っている?
すべて、あなたのためだ。すべて持っているあなたの側にいるためだけに、血反吐を吐く思いで、手に入れたものだ。
何も持っていない僕が、あなたという太陽の側にあるためだけに!
それがうらやましいだって?
あなたという存在に、すがって生きるしかなかった惨めな僕がうらやましいだって?!!
ふ、ふふ、と、リュートの口から笑いが漏れた。しかし、それはすぐに笑いではなくなる。
乾いた床に、水滴がにじんだ。
『ずっと、ずっと、一緒にいよう』
幼い日のその約束が、ただただ悲しかった。