第六十七話:会戦
平原の朝は、酷く底冷えがしていた。
気づけば、もう秋もかなり深まっていたようだ。早朝に吐き出す息が、ほんのりと白みを帯びるのが、そのいい証拠である。
思えば、いつも戦の時には、こんな白い息を吐いていた。
初陣、カルツェ城の戦い、そして、竜騎士を泥に沈めた湿地の戦い。そして、皇帝、並びに鉄人と対峙した、ルークリヴィル城の戦い。
それから一年。
今日も、また、寒い曇天の秋である。気象士によると、秋に相応しくない寒波が、再びやってこようとしているらしい。
……まるで、あの日の因縁のようだな。
暗く空を覆い尽くす雲に、そう一人言葉を漏らす英雄の耳に、聞き知った部下の声がかけられた。
「隊長! このロープ、どうすればいいんだっけか?」
振り返れば、曇天の空を背に、斑の黒羽、『黒犬』リザが居た。その足下には、到底一人では抱えきれない長い極太のロープが横たわっている。その所々に、何か鉄の塊の様な物が括り付けられている奇妙なロープだ。それを確認するなり、にや、と碧の瞳が歪められた。
「進撃と同時に、別働隊に命じて、平原の草の間に隠させておけ。なぁに。すぐに使う時が来るさ」
その言葉に、納得が行かないように、リザは首をひねる。……こんな紐で、どうやって、敵が殺せるのか、と疑問でならない、といった表情だ。そんな彼に意味ありげな、そして、魅惑的で不敵な笑みを残してやると、ばさり、と白い羽が翻った。来るべき戦に向けて、最後の詰めを確認するために。
この宿営地で、一番豪奢に飾られたテントに戻ると、既に自軍の主立った役者達が揃っていた。上座に座るは、王太子ヨシュア。そして、その脇には、彼を守るように控える近衛隊長ラディル、北の大公エイブリーの姿。ただ、一人、豚と揶揄されるミッテルウルフ候は、万が一の有事に備えて、平原北のルークリヴィル城に駐留したままなので、欠席をしている。
「おや、英雄殿。遅かったですな。もう、ヨシュア様は、とっくにお待ちでしたのに」
先ずは、入るなり、軽く牽制のつもりか、従兄弟であるエイブリーが王太子の前に立ちはだかって、嫌味を言ってくるが、言われたリュートはその方を一瞥すらしようとしない。ただ、彼の背に隠れた王太子に向けて、軽く一礼をするのみである。
「りゅ、リュート。やっぱり、君がここに……」
リュートのその態度に、ヨシュアは萎縮したように、上座から立とうとする。だが、それを、遮るように、近衛隊長のラディルの手が、ヨシュアの肩を押し戻した。
「殿下。何を仰っているのです。ここは、貴方のお席ですよ」
「ら、ラディル。ぼ、僕はただ、リュートの仕事ぶりを見たくて、補給兵を連れてきただけだ。こ、こんな戦で、リュートの上に立つつもりなんか……」
そう言ってヨシュアは抗うが、控える二人は、聞く耳を持とうとしない。なんだかんだと貴族にしか分からぬような理屈をこねて、ヨシュアを押し戻すのみだ。
……くだらない……。
その様子に、リュートはふう、と一つ、大きな嘆息を漏らす。
奴等が何をこそこそと企んでいるのか、おおよそ見当は付いているが、自分にはまったく関係のないことだ。自分自身の姿勢は、すでに明言してあるとおり、ヨシュアの臣下であるのだし、別に、この戦の指揮権さえ奪われなければ、頭に誰が担がれていようが、貴族としての面子がどうであろうが、些かも気に掛けるつもりはない。それを今更、まだ、猜疑心を迸らせて、この自分に向かってくるこの男共の心理というのが、まったくに理解出来ないのだ。何を、そうきゃんきゃんと人の事を嫉み、足下に吼えかかってくることがあるのだろうか。
ただ、唯一、憂うることがあるとすれば、それは、彼らに担がれるヨシュアの情けなさだけである。以前と比べれば、まだましにはなったとは言え、王者と言うには、まだまだ学ぶべき所は多いだろう。だが、それも……。
「貴殿ら、いい加減になされよ。今は、会戦前の軍議であるぞ。なにゆえ、その様な下らぬ事に、時間を割いておるのだ。殿下も殿下だ。その様な不謹慎な者ら、一喝の元に伏しなされ」
深慮するリュートの内心に、被さるように、凛とした声音が響いた。
「……これは、東部大公殿。貴殿こそ、昨日今日やっと来られて、今更口出しですかな」
そこには、北の大公となったエイブリーを諫めるように、立ち上がる黒羽の若者の姿。そのかつて、守るべき者として、慕った男の言に、静かに、リュートの目が伏せられる。
……これでいい。
これからの事は、この男に預けることが出来た。この男なら……、かつて、自分が主君として慕ったこの男なら、必ずや、国政を良い方向に導いてくれるだろう。そう言った意味では、今、彼がこの戦に来てくれて、僥倖だったと思う。彼を呼んでくれたクルシェにも、オルフェにも、心から感謝せねばなるまい。
そう心の中で、予期せぬこの男との再会に、安堵しながらも、リュートはその端で、どこか、受け入れられない感情を覚えていた。
どうして、今更。もう、別れはあの王都で、告げてきたはずなのに、と。
「……ート。リュート。どうした」
呼びかけられて、気づいてみれば、北と東の新大公同士の嫌味の応酬は、既に終わっていたらしい。どうやら、毒蛇共も、東の新大公の正論と、居並ぶ幕僚達からの厳しい視線には耐えられなかった様子で、……まあ、ヨシュア様をないがしろにしなければ、よろしいのですよ、などと負け惜しみを言いながら、上座の奥へと戻っていた。その様子を、未だ忌々しげに睨み付けながら、こそり、とランドルフが耳打ちをしてくる。
「リュート。足下の毒蛇の事は気にするな。オルフェが動いてくれるそうだ。お前は、存分に帝国と戦えばいい」
「うん。まあ、この戦、負けるのも、あいつらの本意ではないだろうし、そうそう邪魔はしてこないとは思うけど。ありがと、ランディ」
……そう。こんな奴等、本当にどうだっていいのだ。
自分の身は、何の為に今、ここにあるのか。本来ならば、あの雪の戦場で果てても良かったこの身を生きながらえさせて、ありとあらゆる謀を用いて、ここまで歩んできたのは、何の為だったのか。
ぎり、とリュートは、その右手をきつく握りしめる。
あの熱病に罹ってから、どうにも食べることが出来なくなってしまい、やせ細った右手だ。
本来ならば、こんな状態で臨みたくはなかった。将軍に勝ち、そして、今、この場には居ない、この戦争を指示したあの憎き皇帝の首すらもこの手で跳ねてやりたかった。だが、どうにも、体と心が限界を迎えているのだろう。どうしたって、この戦の先が、自分には見えないのだ。
そして、どうしたって、もう、自分には、あのいつか王都で聞き及んだ、甘い冥府の世界への憧憬が、捨てきれない。
理性では、こんなことは許されないと、どこかで分かっている。だが、どうにも、これしか、ないのだ。
こうして、血にまみれた戦場に立って、全てを終わらせるしか。
「だが、勝たねば、終われぬ。……全て、勝ってこそ、報われるのだ」
ぼそり、と漏らしたリュートのその独り言が、居並ぶ男達にも届いたらしい。その言葉の意味を都合良く、鼓舞の意味だとはき違えてくれる。
「そうです、リュート様! 勝ちましょう! 我ら、貴方のご指示に全て従います」
「我らの国をいいように蹂躙する輩なんぞ、全てこの平原に埋めてくれましょう!」
「――ああ、そうだな」
先までの憂慮を、全て、頭の中から追い払い、リュートは、その凛とした双眸を上げた。あの、全てを屈服させるような、碧のエメラルドに似た、眼差しを。
「諸兄。では、此度の戦の最終確認だ」
「姫様。如何お考えです?」
今にも空から何かが降り出してきそうな曇天の空、寒々しい平原を見下ろしながら、紅玉騎士団副団長キリカのその問いが、風に溶ける。祖国である帝国と同じ秋を迎えているとは思えぬほどの寒さ。流石、北の大地は帝国より、冬の訪れがずっと早いようだ。ぴゅうぴゅうとうるさく吹きすさぶ風が、否応なしに、これから開かれるであろう戦の緊張感を煽っていた。
そんな張りつめた空気の平原を眺めながら、後ろに武装した女騎士達を控えさせた団長、エリーヤは余裕の笑みを浮かべて、問いに答える。
「如何って言われてもねぇ。私は、自分のやるべきことしか、分からないわ。ただ、あのリュートという男と、鉄人との対決にはとても興味があるけれど」
「それを聞いてるんです。ねえ、どっちが勝つと思われますか?」
「そうねぇ……」
キリカのその問いに、答えるべく、赤毛の女騎士、エリーヤはその瞳を再び眼下の平原に凝らした。
そこには、すでに布陣をすませた両雄の姿。
黒光りする鱗の竜に乗った竜騎士団をその背に控えさせた、鉛色の壮年の男、ヴィーレント・サイニー。
そして、それに正対するように、色とりどりの羽を持った有翼兵をその後ろに控えさせた、金の髪の若者、リュート・シュトレーゼンヴォルフ。
「そうね、どちらも悪い布陣じゃないけれど。ま、戦というのは水物と言うしね。時機を外さぬ男が勝つ、ということかしら」
「……また訳の分からぬ事を。それよりも、時機を外せぬのは、我らの方ではありませんこと?」
姫の言葉に、呆れた溜息を返した後で、キリカはにや、という意味ありげな笑みをも返していた。それに釣られるように、隣に騎竜している姫の、たっぷりとした蠱惑的な唇も歪む。
「何言ってるのよ、キリカ。私たちは動くな、と言われているのよ。動くわけ、ないじゃない」
「えーえ、そうでしたわね。私たち、『この戦』では動いてはいけないのでしたわね。素敵な殿方達がそう仰ったのですもの、動いては、いけませんわよね」
「そうよ。『この戦』の中では、何があっても、動いちゃ駄目よ。……何があっても、ね」
……何が、あっても。
その言葉を反芻しながら、キリカは、その紅の塗られた口元を魅力的に歪ませていた。
「皆! 聞け! 白の英雄、リュート様からの、最後のお言葉である! 聞け! 聞け!!」
既に布陣をすませた有翼軍に、熊に似た咆哮が響き渡る。リュートの片腕として、東部軍から引き抜かれ、今までこの軍を教育してきた豪傑、ガルド・ナムワの雄叫びである。その今まで訓練時に嫌というほど聞いていた野太い声に、一斉に居並ぶ兵士達の背筋が引き締められた。
そして、黄金の羽の描かれた旗を背に、一人の若者が兵らの前に姿を現す。
凛とした碧の双眸と、劇的な勝利のシンボルと謳われる白い羽。その英雄の勇姿に、否応なしに、兵士達の士気が上がる。
「聞け! 皆の者! 身分在るものも、そうでない一兵士も、よくこの場に馳せ参じてくれた! 此度の会戦は、この半島を再び冒す侵略者達との最後の決戦と言ってよい! 今こそ、八年前の奇跡の再来の時だ! あの大勝利を思い出せ! そして、今度こそ、帝国がこの国に手出しの出来ぬように、決定的にその頭上に鉄槌を下してやる時だ! あのトカゲ乗り共に、自分の住むべき土地が何処であるか、思い知らせてやるがいい!!」
――おお……ぉぉぉぉ……。
寒風吹きすさぶ平原が、男達の雄叫びによって大きく揺れる。
「奮い立て! 今こそ、あのトカゲ共を、海の向こうへ追い落とす時!! 我らの手に勝利を!!」
「――……勝利を!!」
陣の全て、右翼から左翼まで、全ての兵達が思いを同じにしていた。
……祖国を救え! 祖国の平和の為に、戦おう、と。
そんな右翼の一角、駆けつけた東部軍の一部を任された男、レギアスだけが溜息をついていた。
「……ったく、あいつは、こういうことだけは、本当に得意だよなぁ。自身は無理してる癖してよ」
「本人も、まあ、色々と思うところはあるらしいが、もうああするしかないのかもな」
そうレギアスの隣でオルフェも同意するが、こちらも、納得のいっていない表情である。
「にしてもよ、お前、いいのか。お前は宰相様から別の命を受けてここに来たんじゃねえの?」
「構わん。その件は、この戦が終わり次第、あれと話すつもりだし。それに、……今、余計な事はあいつに言わない方がいいだろう」
「……なら、いいけどさ。いやぁ、可愛い彼女がいるのに、宰相様の所、首になったら、さぞかし大変だろうなーって、ちょっと心配しちまったぜ」
そのレギアスの、『彼女』という台詞に、一気にオルフェの顔が、赤に染め上がる。
「な、なななな、何を! か、彼女だなんて、私は仕事一筋だっ!!」
「へえ〜。じゃあ、俺が王都のメイドちゃんから聞いてる話は一体何なんだろうなぁ? 確か、可愛い三つ編みにそばかすの西部訛りの女の子と、一緒に暮らし始めました、だっけかなぁ」
「ち、ちちちちち違う!! が、ガリーナが、勝手に押しかけてきただけだ! あ、あんな子供とは何もない! そう、一切、何もないんだ!!」
そう珍しく慌てふためきながら、眼鏡をくい、と直すいつもの彼の姿に、レギアスは一つ疑問を覚える。
「おい、ところでよ。お前、何でそんな格好なんだ。ここ、戦場なんだぞ」
言うとおり、隣の眼鏡の男の姿は、戦闘服とはほど遠いどころか、普段の文官服より遙かに地味な普段着だった。居並ぶ武装した兵の中で、浮きまくっていると言っていい。
「馬鹿者。私は、常々言っているだろう。武力なんぞ野蛮で大嫌いだ、と。こんな両軍入り乱れるであろう平原の戦いでは、私の得意な投石器は役に立たんし。ま、私には、私の戦場があるということさ、この脳筋の野蛮人」
「おい、お前まで、そう言うのかよ。俺は、あの親父とは違って、頭は女だらけなの。っとに、なんだかんだと親父さん似だな、お前は」
「あの蝋人形と一緒にするなと、何度。私は、あんな地方文官で終わるつもりはないのさ。私は……」
その先を意味ありげに言い淀むと、オルフェは、腐れ縁の巻き毛の男の隣で、ばさり、とその羽を翻した。そして、その後ろ姿で、一言言い残す。
「……武運を、レギアス」
「お前もな、オルフェ」
「――さあ、時は来た」
全ての兵達への言葉を終えて、リュートはその瞳を平原南に布陣する将軍へと馳せる。勿論、かなり距離があるため、将軍の表情どころか、居並ぶ竜騎士の内、どれが彼であるか見分けのつかぬほどであるのだが、不思議とリュートは、彼の今の面持ちが分かるような気がした。
きっと、あの男は、いつぞやに対峙した時のように、鉄人としてあり続けているに違いない。……あの、自分を軽くあしらって尚、撤退を決めたあのルークリヴィル城の戦いの時の様に。
「リュート様」
そう将軍の有り様に思いを馳せていたリュートの背後から、よく聞き知った声がかけられた。まだ、青年と言うには少々幼い、少年の声だ。
「……く、クルシェ……」
振り返れば、そこには、強い意志をその黒い瞳に宿した、一人の少年兵がいた。大公家の次男というやんごとない身分でありながら、弓を手に、他の弓兵と変わらぬ出で立ちをしている。
「どうしてお前が……。お前は、王太子殿下の元にいるランドルフの側に居ろと言ったじゃないか。お前がこんな戦場に出ることはな……」
「――いやです!!」
言いつのるリュートの言葉は、今までにないほどの男の声音でそう断ち切られていた。
「いやです、僕は! 兄上の側より、貴方の側にいたいんです! あんな情けない兄上に、貴方を任せておけませんから!!」
「……情けないって……。クルシェ、お前……」
「それに、約束したんです!! ニルフさんと、約束したんです! 貴方と共に戦って、貴方の采配をこの目で見届ける、と! それが、僕に命をくれたニルフさんとの男の約束なんです!!」
それは、あの雨のガンゼルク城で死んでいった男、ニルフから最期に聞いた彼の望みだった。この英雄と、共に戦いたいという、果たしきれなかった一人の武人の心残り。
その死んだ男の遺志をも宿した少年の目に、どうして、否、と言えるだろうか。リュートはあの共に付いてきてくれた十字傷の男に思いを馳せながら、ただただ頷くしかなかった。
「わかった。でも、危うくなったら、トーヤと一緒に逃げろよ。お前に何かあったら、僕はランディに顔向け出来なくなるからな」
「……はいっ。ニルフさんの分も、きっと貴方のお役に立って見せますから!!」
煌めく少年の瞳を前に、一瞬、気づかれないくらいに、英雄と謳われる男の顔に憂いの色が差した。
……誰かに、似ている。あの、姿。
それが誰だったのか、思い出せぬままに、リュートの思考を、角笛の音が破壊していた。……ついに、竜騎士達の、進撃の合図である。
――ぶるるる……。
進撃の角笛を受けて、居並ぶ竜が嘶きの後、平原を蹴って、次々と空へと舞い上がった。鼓舞するような太鼓の音を背に、瞬く間に、平原の上空が黒光りする鱗で埋め尽くされる。その陣を組んだ騎士達の中心に鉄人は居た。
武装させた愛竜ベルダの背に乗り、曇天の空を悠々と翔るその姿は、騎士の鑑と讃えられるに、実に相応しい勇姿である。
「閣下、あの白めに、今こそ雪辱を晴らす時です。我らの持つ力と速さで、奴等存分に蹂躙してくれましょう」
脇に控える腹心の騎士の、忌々しげな声音が鉄人の耳に届く。あのルークリヴィル城の戦いで戦死したセネイに代わって、蒼天騎士団副団長に就任したジェスクという男だ。
その男の言葉に、鉄人は一人逡巡する。
……確かに、力と速さでは我らの方が勝る。それでも尚、我らが負け続けていたのは、なにゆえであったか。
全ては、あの白羽の男の意外な策略に翻弄されたに、他ならない。あの地形を利用した湿地の戦、そして、皇帝という弱みを突かれたあのルークリヴィル城の戦い。
だが、今回はそれがない。地形は周囲を小高い丘に囲まれたただの平原。空は曇天だが、今の所、視界も悪くない。そして、あの皇帝も居なければ、厄介なあの赤毛の姫も、事態を傍観するのみ。
秋を過ぎて、本国から兵の補充も届いた。数の上ではあちらが上回るが、個々の戦闘能力は、竜騎士の方が遙かに上。……と、するならば。
この歴戦の我らに、死角はない。その上に、私の策略が乗れば、尚のことだ。
そう内心で勝利を確信すると、鉄人は、その愛竜の腹を勢いよく、どかり、と蹴った。それに呼応するように、次々と騎士の足が、竜の腹の上で鳴らされる。
「征くぞ、蒼天騎士団! ――我が唯一神、ディムナの名の下に!!」
ちゃらり、と胸で神の印が揺れると同時に、黒光りする一団は平原に轟く風と化していた。
平原の中心の上空で、剣と剣、槍と槍、そして、男と男の意地が激しくぶつかり合う。最初の一撃は、力とスピードで勝る竜騎士に軍配が上がっていた。先の尖った矢印状の陣形で、それを受け止める有翼軍の中央を瞬く間に、食い荒らす。
その攻撃を何とか凌がんと、中央に配備されていた黒犬リザの檄が飛んだ。
「おめえら、持ちこたえろ!! 見てな、鉄槌ってのは、こう下すんだよ!!」
――がつん、がつん。
鈍い音を響かせて、リザの手にしたハンマーが、竜の頭上に振り下ろされる。途端に、ぐらり、と竜が蹌踉めくが、それでも墜落しないのは、休戦の時期を使って、鉄人がハンマー対策として用意させた竜専用の兜のおかげだった。
「ちぃっ! 敵さんも馬鹿じゃねえってか! っとによ!!」
そう毒づくリザの耳に、ピィッという甲高い口笛の音が届く。
「――よっし、退け、お前ら!!」
リザの命で、有翼軍の陣の中央が、何かに掻き分けられるように、二股に別れた。そして、今まで戦っていた兵達の後ろから、ある一団が姿を現す。陣後方に配備されていた弓兵隊である。
味方が眼前から退いた事により、竜騎士達の先陣が、一気に弓兵隊へと迫る。それを見越していたかのように、またも、甲高い口笛の音が響いた。
「弓兵隊、てぇっっ!!」
今まで中央が踏ん張ってくれた時間を利用して番えられた矢が、一斉に迫り来る騎士へと降りかかる。さながら、空を流れる無数の流星といった様相である。
無論、その矢の雨をかわすことなど出来ぬ先陣の騎士達は、全身をハリネズミの様に突き刺され、絶命して、寒い空を真っ逆さまに下っていった。
「やった! 竜騎士の出鼻を挫いた!」
平原で繰り広げられる歴史的スペクタクルを目の当たりに、王太子ヨシュアがそう叫ぶ。彼が、現在居るのは、戦線が開かれている場所より、遙か後方。丁度、昨日宿営地としてテントを張っていた場所にほど近い、平原を囲む小高い丘の一角だった。
「すごいなぁ、リュートは。ああやって、口笛一つで、兵を動かせるんだから。こんな、後ろでただ成り行きを見守る僕なんて……」
そう感嘆の声を漏らすと同時に、複雑な心境をも吐露するヨシュアに、後ろから、いつもの嫌味な声がかけられる。
「何を仰る、殿下。あんな血にまみれた汚い合戦など、下賤の者にやらせておけばよろしいのですよ。殿下は、やんごとなきお方なのですから、その身に傷一つついては大変。貴方は、こうして、ここで勝利を待っていればよろしいのですよ。ま、あれは、何と言っても戦争上がりの男ですから、心配はいらぬでしょう」
勿論、彼の従兄弟にあたる北の大公エイブリーの言である。これに同意するように、ヨシュアの護衛であるラディルも何か言おうと口を開くが、他の男の毅然とした声音が、彼の言に覆い被さっていた。
「何を仰るはこちらの台詞だ、北の大公。いいですか、殿下。あれが一朝一夕にあの場に立っておるとお思いですか? 今まで共に時間を過ごし、そして、築き上げてきた信頼があるから、兵達はあれにあそこまで従うのですよ?」
「……ランドルフ殿……」
割って現れた黒の武装を纏った男に、今までにやにやと含み笑いを続けていた毒蛇達の顔が、一瞬で歪む。
「おや、東の御大公殿下。その様な武装でいらっしゃるから、てっきりまた戦場にでも出られておると思うておりましたのに」
そう嘲るような近衛隊長の視線に、黒の男は一瞥もくれない。横に控える大貴族を無視して、ただ、王太子であるヨシュアに諫言するのみである。
「殿下。あそこにおる者達は、皆、この国の為に戦っておる勇者達です。あの頭にいる白羽から、兵士の一人に至るまで、皆尊い祖国の戦士です。どうぞ、彼ら一人一人を思い、彼らの身を案じてやって下さい。皆、貴方の統べるべきこの国の、英雄なのですから」
王太子に向けて、真摯な眼差しでそう訴えながら、ランドルフの心は張り裂けんばかりに早鐘を打っていた。
どうしたって、この心の奥で感じる不安が拭いきれないのだ。
……何か、嫌な予感がする。
そう感じていても、今、自分があの戦場に飛び込むわけにはいかない。この毒蛇二人が余分な事をせぬよう、ここに居て牽制するのも勿論だが、何より大公という身分がそうさせてくれない。
かつて父に言われた言葉が、嫌でも頭を過ぎる。――『もし戦死したら、後の東部のことはどうなるのだ』と。
自分には守るべき民がある。そして、成すべき仕事も、リュートとした約束も残っている。その為には、今、この身を戦場にて危険に晒すわけにはいかないのだ。
「……頼む。頼むぞ、レギアス。あいつを……、リュートを守ってやってくれ」
「姫様、先陣がやられましたわね。鉄人らしくもない」
一方、南の平原にそびえる小さな丘には、武装をすませながら、一歩たりとも動こうとしない紅玉騎士団の姿があった。その先頭で、平原の成り行きを見守っていたキリカのその問いに、隣に騎竜するエリーヤの唇が、ほんのりと歪められる。
「まさか。この程度、鉄人なら予測の範囲でしょ。何か、策があってのことよ。……ほら、見て」
姫に促されて、キリカが再び平原上空に目をこらすと、そこには、陣の先頭を破られて、尚、突撃する竜騎士団の姿。
「なるほど、先陣の騎士達は、最初から盾に過ぎなかった、という事ね」
姫のその言葉通りだった。針山の様に矢を突き立てられて、落下していく竜騎士の後ろからは、無傷の騎士が、得物を抱えて現れていた。勿論、狙うは、先に雨の様に矢をお見舞いしてくれた弓兵隊の一団。
「先ずは、飛び道具を封じようという訳ね。なかなかいいじゃないの。接近戦なら、こちらの方に分があるのだし」
言うとおり、竜騎士は片手で竜を操る、という特性から、両手で扱う弓矢、というのがなかなかに困難なのである。足だけで、竜を操る事の出来る熟練騎士なら弓も可能なのであるが、この両軍入り乱れる戦場においては、それもリスクの方が高いとしか言えないだろう。
「さて、弓は封じた。あとは、どうする気かしらね、鉄人は……」
まるで何か面白い芝居でも期待するかのような赤目が、再び、戦場を舐めるように見回す。すると、弓兵隊を食い破った竜騎士の一団は、即座に東と西の二手に分かれて旋回を開始。そして、先に弓兵隊の為に、右翼、左翼の二手に分かれていた有翼軍のそれぞれの脇に襲いかかる形で、突撃をし始めた。
「……個々の戦力は、竜騎士が強い。なら、少数戦に持ち込む気ね、サイニーは」
「脇を狙うのは、有翼軍を揺さぶって、固まった陣を、さらに小隊に分散させようという魂胆ですか」
「そうね、数の上では、あちらが上回っているのだし、悪くない戦法だと思うわ。ただ……」
言い淀む姫の言葉に、キリカは何か含む所を感じ取って、その先を問う。
「ただ、何ですか、姫様」
「いいえ。……ただ、つまらない戦法だな、と思ってね」
「たいちょー! 弓兵隊戦闘不能! どうしよー?!」
竜騎士達の突撃によって、蹴散らされた弓兵隊の中、自身もその腕に怪我を負ったトーヤが、そう叫んだ。それに対して、先に二手に分かれていた有翼軍の右翼にいるリュートが即座に命令を下す。
「弓兵退避! 全有翼軍、後方からの攻撃に備え、二の一陣形に変更!」
その命令に、即座に有翼軍が動く。二手に分かれた右翼、左翼のそれぞれが、方向を変えて迫ってくる竜騎士を迎え撃たんとするような、V字の陣形へと変化を見せた。そして、左翼の、丁度竜騎士と相対する最前線に、待っていたように、つるりとした禿頭が姿を現す。
「はぁっはっはあ! 儂の槍が、久々にうなるわい! 死にたいヤツから、かかってこんかぁ!! このナムワ様が相手だぁ!!」
熊の咆哮をその喉元から迸らせて、巨大な槍が掲げられていた。そして、それに続く、元東部駐留軍の精鋭達。途端に、曇天の空が、その灰一色のくすんだ世界から、赤混じりの凄惨な世界へと、その様相を変えていた。
「少数戦に持ち込もうとするなら、儂らの見せ場よ! 我が、元東部駐留軍、何度こうして竜騎士達と交えてきたと思っておる! よぅく目を見開いて、焼き付けておけよ、この東部男達の反骨魂をなぁ!!」
一方で、リュートの居る右翼では、その最前線に、ふわり、と靡く巻き毛の男が姿を現していた。
「やっほい、竜騎士ちゃん。俺、レギアスってんだぁ。これでも、英雄の師匠なわけ。だから、あんまり舐めてると……。痛い目に遭うよん」
ひゅん、と小気味よい音が響くと同時に、巻き毛の男の前に相対していた騎士の首元が、真っ赤に染まる。
「うーん、親父と毎日喧嘩してた甲斐あって、剣の腕も絶好調! これなら、また女の子のハート、がっしり掴めちゃうね! なあ、リュート」
「……レギアス。また強くなったんじゃないの? うーん、この様子だと、僕、負けるかもなぁ」
散りゆく騎士達を、巻き毛の男の後ろで、眺めながら、白羽の男も、その腰の剣を抜いていた。
「あんまり、指揮官だから、前、出たくはないんだけどねぇ」
そう言いながらも、リュートの剣は留まるところはない。彼の護衛として付いてきたはずのクルシェが、その弓をつがえることすらできぬような瞬く間に、美しい白羽は、騎士の血で、赤く染めあげられていた。
「おいおい、大貴族様の癖に、手加減なしですか。てか、この後、お前、どうする気」
その見事なまでの血まみれの惨状ぶりに、呆れたように、問うレギアスに、リュートは再び、平原全体へとその目を滑らせた。
……状況は、拮抗している、と言っていい。
恐れていた入り乱れての少数戦も、何とか、持ち込まれずに、良い陣形を保てている。それも、この夏で、兵達がよく訓練に励んでくれた賜物であろう。豪傑達の力を借りながらも、多対一の戦いに持ち込んで、よく竜騎士達と戦ってくれている。
「だが、このままでは……」
言う通り、このまま拮抗した接近戦が、いつまでも続くはずがない。どこかで、決定的な手を打たなければ、敵味方共に、相打ち、下手すれば、体力のある竜騎士に軍配が上がっても仕方がないのだ。それを、しないためにも……。
ちら、とリュートの瞳が、意味ありげに平原北の丘に向けられた。
だが、すぐに、その目を逸らす。……今はまだ、その時ではない、と。
その時を迎えるためには、どうしても、足りない役者が居る。そう……この迫り来る竜騎士達の長。騎士の中の騎士と謳われる、『鉄人』の存在が。
「将軍……、どこだ。僕は、逃げも隠れもせんぞ。お前が、どのような策を練ろうとも、全て、叩きつぶしてくれるわ」
そう英雄が、『跳ね返りの山猫』と揶揄される、その本領の言葉を、吐いた時だった。
「久しいな、白羽の戦士よ」
上空から、厳格な男の声音が投げかけられた。その言葉に、リュートは目の前の騎士を斬り殺すと、即座に、上空へと目を走らせる。
そこには、一際大きな武装飛竜に乗った、威厳溢れる壮年の男の姿。
「……将軍!!」
一瞬で、場の空気が変わる。
勿論、周囲での血みどろの戦闘は続けられているが、彼ら二人の間には、奇妙とも言える静寂が横たわっていた。どちらも、その手に持った得物を、ぴくりとも動かさず、ただ、お互いの色の違う瞳を、きつく睨め付けるのみだ。
そんな永遠とも感じられた一瞬の静寂を破ったのは、白の英雄と呼ばれる男の口から吐き出された、意外な言葉だった。
「ニクート・ヴェリーサ(ごきげんよう)、将軍閣下」
それは、紛うことなき、海の向こうの国の言葉。帝国の公用語として、海を越えた大陸で広く使われているリンダール語だった。
その意外な言語が、この有翼の民の口から飛び出したことに、将軍は些か驚きを隠せない。
「……ほう、どうした、その言葉。誰に習うた」
「別に、誰だっていいだろ。そうだな、忠義心のない、糸目タヌキ男から、とでも言っておこう」
言われた特徴から、将軍は、それが一体誰のことなのか、一瞬で悟る。だが、その名をここで言おうとはしない。ただ、その頬を奇妙に歪めて、小さく笑うのみだ。
「そうか。これで、貴殿は、私と対等、というわけだ。よいよい。ここまで挨拶に来た甲斐があったというもの」
「……挨拶?」
「左様。どうしても、貴殿と最後に挨拶をしておきたかったのだ。もう、貴殿には、会いたくとも会えなくなるがゆえ」
まるで親愛の情とも言えるような奇妙な笑みを浮かべながら、将軍はそう若き英雄に語りかけた。それに対して、英雄の方は、その顔いっぱいに嫌悪、そして憎悪の表情を募らせて、不敵に答える。
「お前が、死ぬからか? 将軍」
「……いいや。死ぬのは、貴殿だ。英雄と祭り上げられ、そして、自分の傲慢に兵を付き合わせる、愚かな貴殿が死ぬのだよ」
「傲慢、だって?」
「そうだろう? 貴殿は、何の為に戦うや? かつて私に語った兄の仇ゆえ。つまり、私情であろうが。それに命を預けて死ねと兵士に命ずることが、傲慢でなくて何だと言うのか」
静かだが、明らかに侮蔑の声音で、将軍は若き英雄をそう断じていた。
これには堪らず、即座に英雄は抗いの姿勢を見せる。
「黙れ! 卑しい侵略者にして狂信者! お前達なんぞに、侮辱されたくはないわ!! 二度とその様な言葉吐けぬように、即刻その首、切り落としてくれる!!」
いつにないほどに、英雄は激高していた。あの御前会議の時も、そして、『南部の風』が全滅させられた時も、遙かに及ばぬほどの憤怒の表情。
眉間と鼻筋にめいっぱいしわ寄せた、まるで怒り狂う獅子を思わせるその様相に、近くに控えていたクルシェですら、ぞくり、と寒気を覚えたほどだ。
「……わかっておるのだな、自分の愚かしさが。わかっておるから、そこまで怒るのであろう? 英雄殿。だが……」
ぐい、と鉄人の手綱がきつく引き寄せられた。それに呼応して、将軍の愛竜ベルダが、天に向けて、一つ、大きく嘶く。
「だが、貴殿には、もっと分からせてやらなければならないことがある。それを、今から、私が嫌というほど、教えてやろう。――空を統べる竜騎士の本当の恐ろしさをな!」