第六十六話:戦友
「――今更、何しに来たのさ」
にべもない台詞が、喧噪と緊張の夜に、吐き出される。
「何って、見てわからんか。この姿を見て、舞踏会にでもやってきたと思うか」
その言葉が示すとおり、仄暗いテントの灯りで照らされる男の体躯は、雅やかな礼服とはほど遠い、無骨な鉄の装いで飾られていた。黒い羽、そして黒髪に合わせた黒光りする銅鎧に手っ甲。とても貴婦人方の歓心を得るには、ほど遠い姿である。
「……はん。それが今更だってんだよ。今までレンダマルに引っ込んでて、この会戦の前夜に来て、ただ戦わせろ、なんて、都合が良すぎるんじゃないの、東の御大公殿は」
またもにべもない台詞が、金の髪の間から、漏れる。さらに忌々しいのが、台詞の主が、その碧の瞳を、少しも手に取っている書類から、上げようともしないところだ。とても……。
「かつての主君に対する態度とは、思えん態度だな。まったく、お前というヤツは……」
ふう、と深いため息を黒い男が吐き出すのと同時に、ようやく、エメラルドに似た瞳が上げられた。そして、いつものように、その瞳に、不敵な色を宿すと、久しぶりに嫌味を込めて、男の嫌う愛称を呼んでやる。
「あんたは相変わらず心配性だね、――ランディ」
ナバラ平原に、竜騎士達が布陣の準備を始めたという情報が届くや否や、ルークリヴィル城及びその周辺に駐留していた有翼軍は、即座に、平原北に、宿営地を設置。居並ぶ何百というテントには、じきに開かれるであろう戦線を待っての緊張が否応なしに流れていた。そんなテントの中の一つ。王族、貴族専用の一際豪奢な作りのテントにおいて、かつての主従――新東大公ランドルフと、選定候にして、有翼軍の指揮者であるリュートは久々の再会を果たしていた。
無論、このランドルフの来訪については、前もって、書簡がリュートの元に、届けられていた事だったが、それでも、リュートにとっては、この男が、この時期になって、ようやくやってきた真意というものを量りかねていた。新大公となって、自領の政治に精を出していたはずのこの男が、何故、今になって、この戦いに赴く気になったのか。その理由を問うてやると、かつての主君は、その頬をいつになく朱に染めて、顔を背けた。
「……そんなこと、お前には関係ないだろう。国の一翼を担う者として、脅威に立ち向かう事は当然の事ではあるのだし」
こちらも、にべもない返事が返ってくる。久しぶりの再会だというのに、実に、ぎこちない、そして、よそよそしい会話である。それを見かねて、ランドルフと共にやってきていたかつての同僚、レギアスが割って入った。
「もっちろん、可愛い弟子に会うためだろうが〜。リュート、会いたかったぞぉ」
ぎゅむ、と長身の体を曲げて、レギアスが犬のようにリュートに抱きつく。
「レギアス。僕も会いたかったよ。あんたはいいね、単純で、素直で。どこかの誰かとは違って」
「……悪かったな。私は、どこかの誰かと違って、責任ある立場なのでな。人の気も知らず、好き勝手はできんのだ」
「責任ある立場、ね。まあいいけど。それよりさ、レギアス、クルシェ。悪いけど、ちょっと、席を外してくれないか。少し、二人きりで話があるから」
リュートのその申し出を受けて、テントの中には、彼とかつての主君だけが残される。
どちらからとも言い難い、暫くの沈黙。そんな気まずい空間に、耐えられないように、指をいじっていたランドルフに、おもむろにリュートの手から、何か布の様なものが手渡された。
「……何だ、これ」
手の中に、渡されたものをしげしげと見てみる。小さな麻布に、糸、そして、針。どこからどうみても……裁縫道具、という主婦の必需品にしか見えない。その戦争を待つ宿営地に、とんと相応しくないアイテムに、怪訝な色を浮かべて、ランドルフは真向かいに座る男を見遣った。すると、男も同様の裁縫道具をその手に持って、さらに、それをちくちくと縫い始めている。
「……おい。いつから、お前手芸が趣味になったんだ」
「趣味でやってる訳じゃないよ。ほら、あんたもいいから縫ってよ。僕が見本見せるとおりにさ。どうせ、まだ結婚相手決まってないんだろ? 花婿修行と思ってやんなよ。もてるよ、裁縫得意な男って」
「馬鹿たれ。押しも押されぬ大公が、裁縫が趣味だなんて知れたら、宮廷で何を言われるかわからんだろうが。大体、何だ、この麻布が恐ろしく不器用に変化した物体は」
そう言って、リュートが見本だ、と言って差し出した麻布をつまんで見てやると、かなり不器用な縫い目ではあるが、ただの麻布が何とか袋としての形態を成すほどには縫われていた。大きさは手より少々大きく、よく見ると、同じような袋が、リュートの椅子の後ろに山と積まれている。
「へたくそで悪かったな。あと少しなんだよ。他の兵士達に手伝って貰って、これだけ出来たから、後は僕がやろうかと思って」
「一体、こんな袋、何に使うつもりだ。もしかして、また何か……」
「いいから、さっさと縫ってよ。もう……あ、痛っ」
ランドルフに気を取られている内に、誤って、針を手に刺してしまったらしい。じわり、とリュートの指の先から赤い血が滲む。
「馬鹿たれ。見せてみろ」
傷の具合を見ようと、咄嗟にランドルフが、リュートの手を取る。だが、その手首を掴んだ途端、びくり、とランドルフの体が震えた。
「……痩せたな、お前」
それは、この男と再会したときから、薄々気づいていた事だった。王都ではあんなに不敵に笑い続けていた頬が、ほっそりとし、顔色もどこか、青白い。その事実に、ランドルフは一つの事柄に、思い当たる。
「もしかして、また、食べていないのか」
一度、レンダマルでも、こんな事があった。兄に捨てられると思いこんで、密偵に拉致されかけたあの事件の後……。
その事件の時よりも遙かに痛々しいこの男の痩せように、やりきれなく、ランドルフの双眸に、憐憫の色が滲む。
「……は、離してよ」
その哀れみに満ちたランドルフの手から、逃げるように細い手首が、振り切られる。そして、これ以上自分の内心に踏み込まれまいと、碧の目が、ふいっと逸らされた。
「リュート、お前……」
「か、関係ないだろ、あんたには。それよりも……。二人きりで話があるって言っただろ」
指に滲む血を、自分の口で舐め取りながら、リュートが再び、裁縫道具を押しつけてくる。それを渋々と受け取って、ランドルフが、ちくちくと裁縫に取りかかると、リュートが逸らした顔をこちらに戻して、ようやく本題とも言える話を始めてきた。
「……見ただろ? 外」
「ああ……、黄金の羽に矢羽根の紋章。『王太子』旗だな。……毒蛇共か」
ランドルフのその推測に、リュートの首が深く頷かれる。
「指揮権で揉めた、とあらかたの経緯は聞いてはいるが、何があった。話せ」
「うん、ちょっとね。あの毒蛇共、手を組んで、僕を追い落としにかかってきたらしい」
「指揮権を、お前から奪う目的で、か?」
その問いに、違う、と金の髪が横に振られる。
「名目上は、王太子を立てる、という弁でそう言っては来たんだけど、多分、そうじゃない。今、本当に指揮権を僕から奪いたいわけじゃないのさ。今、奪ったって、得にならんのは、毒蛇共も、承知しているだろう。兵は僕が育てたんだ。今更、ヨシュアの言うことなんぞ、聞きやしない。そんな状態で会戦を迎えたって、負ける……つまりヨシュアの失態にしかなりえないだろう? そんなこと、ヨシュアを傀儡にしたい毒蛇達が望むわけがない。と、いうことは、だ」
「……他に、目的があって、か」
「そう。あいつらはね、僕が指揮権を手放したくない事をよく知っているのさ。だから、その指揮権と、僕が犯した南部熱の失態にかこつけて、圧力をかけてきた。名目上はヨシュアを立てているが、実はそうじゃない。ヨシュアは、彼らのいい手駒にしか過ぎないのさ。だから、ヨシュアの僕に指揮権を任せる、という意向を無視して、多数決にかこつけて、自分たちの意見をごり押ししてきたってわけ」
「……なるほど。旗云々に拘るのは、本質ではなく、建前、というわけか。で、そのお前を追い落とすってのは……」
あんたは、相変わらず鈍いね、と眇めた目で、リュートが嘆息する。そのかつて王都でよく見ていた表情に、ランドルフは腹が立つと同時に、心の奥底で、一つ、安心感を覚えていた。……この跳ね返りな性格は、ちっとも、変わっていないな、と。
そんなランドルフの前で、針を進めながら、リュートが小馬鹿にしたように、答えを返してくる。
「目先の戦のことだけでなく、大局を見たまえよ、ランドルフ君。この戦は、対帝国戦のみに非ず。国内の政争の種でもあるのだよ。僕を追い落としたいのは、おそらく、この戦の後。僕が負ければ、この戦の責任を公然と僕に押しつけられるが、もし、僕が勝ったら、そうはいかない。僕の名声はますます上がり、僕を煙たく思う毒蛇共は、さらにやりにくくなるだろう。そうならないために、今、布石を打ってきたんだよ、あいつらは。まったく、僕自身がヨシュアに臣従の宣言をしたくらいじゃ、どうにも収まらないらしい。あの毒蛇共の猜疑心、というやつは」
「布石、か。戦争はお前にやらせたい。だが、勝って貰って、さらにお前の名声が上がるのも困る。だから、王太子殿下をわざわざこの時期に王都から担ぎ出してきた、というわけか。指揮官はお前にやらせたいが、あくまで長は王太子だ、ということを皆に、見せしめる……。その為の、王太子旗か」
「そう。あいつらはね、戦後、僕の名声を高めるわけにはいかないから、何とかして、勝った僕を貶めたい。いや、事に寄れば……」
最悪の事態を想定して、リュートの眉根が忌々しげに歪む。だが、その先を決してランドルフに言おうとはしない。ただ、一言、……本当にいつまでもぐじぐじと、いじましい奴等だよ、と吐き捨てるのみである。
「だが、リュート。お前、そこまで分かっていて、どうして奴等の言うとおりにしたんだ。分かってるなら、あいつらに頭下げることもなかっただろうに。クルシェは、お前に頭を下げさせた、と悔やんでいたぞ」
ランドルフのその問いに、リュートは先までの嫌悪の表情から、いささか表情を変える。何か、憂うような、そして、どこかあきれ果てたような表情だ。そして、一つ、大きく溜息をついて、答える。
「……ヨシュアだよ」
「殿下が? 殿下がどうしたって言うんだ」
「一番の問題は、毒蛇が僕を追い落とそうとしている事じゃない。王太子であるヨシュアが、奴等にいいように担がれていて、それを本人が気づいていない、いや、気づいていても、奴等を諫めることができない、という点にある」
……なるほど。
確かに、ヨシュアは正当なる王位継承者。その気になれば、毒蛇達が何と言おうと、王権によって、彼らを封じることが出来てもいいはずだ。それが、できない、ということは――。
「ヨシュアは、まだまだ、甘い王子様な部分が多分にある、ということさ」
短い言葉で、リュートはこの国の王太子をそう断じていた。
ランドルフには、勿論、リュートの言うことがわからぬでもない。確かに、ヨシュアはようやく、王太子としての自覚が出てきたといっても、それはつい最近、この男と知り合ってからのことだ。すぐに、その本質が変われるはずがない。
「……だが、リュート。だったら、お前が助けてやったら良かったじゃないか。お前が、ヨシュアの後見になって……」
そう言いつのるランドルフを遮るかのように、眼前で、金の髪が横に振られる。
「駄目だ。僕が、そんなことをしては、駄目なんだ。もし、僕が、出過ぎた真似をすれば……、多分、ヨシュアはまた僕より自分が劣っている、と思いこむ」
「劣っている?」
「そうさ。ヨシュアがここに来たとき、そう言われた。僕に、『嫉妬している』と。僕にしてみれば、あの毒蛇らの企みなんぞ、どうにでも蹴散らすことは出来る。だが、これからのこの国の事を考えたとき、それは、僕がしては駄目なんだ。正当な王位継承者であるヨシュアが、彼らを制する事が出来ねば、結局この国は、毒蛇共に牛耳られてしまう。そうならないためにも、ここは、ヨシュア自身が越えなければならない山なんだ」
言うと、リュートは、縫っていた糸を、歯でぷちり、と切って、糸の始末をする。そして、出来た、と見せつけられるそれの、相も変わらぬ汚い縫い目に、ランドルフは思わず苦笑してしまう。
……この男だって、こんなに不器用なのにな、と。
「でも、そうは言うものの、正直、このままヨシュアが一人であいつらを押さえ込めるほどに、成長するとも思えないんだ。だから、折り入って、あんたにお願いがある」
「……私に?」
縫っていた手を止めて、ランドルフは、リュートの顔を改めて見つめ直す。
「うん。あんたにしか、頼めないんだ。ねえ、ランディ。あんた、ヨシュアの後見になって、あの子を導いてやってくれないかな」
言われた突然の申し出に、思わず、ランドルフの針が、指を掠めた。そう彼が動揺を見せるのも、無理はない。
ヨシュアの後ろには、あの女狐の王妃、そして、嫌らしい、北の大公。勿論、ランドルフなんぞが、ヨシュアの教育に身を乗り出したら、ただですまないことは、火を見るよりも明らかである。
「お、お前、無茶苦茶言うな……。私だって、東部大公になったばかりで、そんな政争の種になるようなこと……」
「――馬鹿っ。どっちが政争になるかわかってないな、あんたは! ヨシュアがこのまま王になったら、またあんたのとこの東部は冷遇されるよ? あんたの親父さんの二の舞さ。そうならないためにも、今、戦うべきなんじゃないのか? 約束しただろ? あんたが大公になったら、国を思う大公になるって。約束、守ってくれないつもりかよ!」
言われた言葉に、ランドルフは少々驚きながらも、しばし逡巡し、そして、最後には諦めたような深いため息を、はあ、と吐き出した。
「……ったく、お前は自分が約束を守らん癖に、人にはそれを遵守させるのだな。本当に、お前というヤツは……」
「頼むよ。ランディ。僕じゃ駄目なんだ。僕は、これ以上ヨシュアを助けてやれない。僕は……」
そう言い淀むと、また、リュートはその瞳を、ふいっと逸らして、何かを考え込むように、口を噤んだ。その様子に、ランドルフは、内心で、何か嫌な予感を感じるが、自分の心に引っかかる何かが邪魔をして、その先を問うのを躊躇う。ただ、小さく、頷いて、承諾の言葉だけを口にした。
「……わかった。何とか、してやろう。……たく、本当に、私はつくづくお前には甘いな……」
「ありがと。……それにしても……」
ランドルフにそう笑みを返しながら、リュートは、一人、内心で熟考する。
……それにしても、今回の企み。
前の毒蛇達とは、少々趣が違う。
ヨシュアがここに来て、僕と二人でかわした会話……。あの、『僕に嫉妬している』という会話……。あれが、僕の心理に枷をかけたのは事実だ。あの会話がなかったら、僕はヨシュアの内心に気づかずに、遠慮なく毒蛇共を叩きつぶしていたに違いない。それをさせないために、わざとヨシュアの心理を利用して、僕の元に差し向けたのだとしたら……? ヨシュアが僕に劣等感を抱くように、わざと僕の兵らを前もって、視察させ、兵達の口から僕への賞賛の声を聞かせていたのだとしたら……?
それは、つまり、心理的にヨシュアを操って、僕に圧力をかけてきた、ということだ。僕が、出過ぎた真似を出来ないように、だ。
――そんな僕への心理的な謀略が、あの毒蛇共に、できるか……?
あの馬鹿な従兄弟、エイブリーや、近衛隊長のラディルには、そんな芸当はできない。となると、残りは女狐である王妃だが、あっちも、そこまで僕の内心に通じている、とは思えない。と、いうことは、だ。
……僕の心理に通じている者が、誰か、あちらにいる、ということか?
思い当たったその事実に、ふるり、とリュートの体が震える。
それは、要するに、自分と兄との一件を知らねば、出来ない人物。つまり、あのレンダマルに当時一緒にいた人物、ということになる。
「……まさか。マリ……」
言いかけた名を飲み込んで、リュートはその金の頭を振る。……あり得ない、あり得ない。そんな事が、あるはずがない、と自分の辿り着いた嫌な予感を、振り払わんかのように。
「リュート? どうした?」
見かねたランドルフが、リュートの肩に手を置いて、顔を覗き込んでやる。
「あっ……、うん、何でもない。何でもないよ。ね、それよりも、袋、出来た?」
「ん? ああ。どうだ、この出来。お前とは雲泥の差だな」
そう言って、見せつけられるその麻袋の出来に、リュートの目がこぼれ落ちんばかりに見開かれる。
とても、裁縫初心者とは思えぬほどの出来。縫い目はきっちりと揃っており、糸の解れも一つとしてない。さしずめ、熟練の老婆の妙技、といった風情だ。
「……う、上手すぎ……。ら、ランディ。あ、あんた、意外な特技だね……」
「はっはっは。ま、大公ともなれば、こんなもの、朝飯前だ。どこかの不器用な山猫とは違うのでな」
「うん、いいお婿さんになるよ。いいから、早く嫁さん貰いな」
どうも、痛い所を突かれたらしい。ランドルフはその口をひん曲げて、憮然として言い放つ。
「放っておけ。たく、お前まで、結婚、結婚とうるさいな。今回の遠征だって、私を見合いに連れて行きたい母上を振り切って来てやったというのに、お前というヤツは……」
「結婚、すればいいじゃないか。どうせ、政略結婚だろ? 何? それとも、あんた、もしかして、別に想う人でもいるの? あ、そう言えば、あんた、いつぞや王都で初恋の女がどうだとか言ってたよね? あ、まさか、あんた、まだその女の事を……」
「――う、うるさいっっ!!」
どうやら図星だろう。ランドルフは、あの舞踏会の前よろしく、少年のような初々しい表情で、その頬を朱に染めている。
「ふうん……。何だ、あんた、惚れた女に操を立てて、政略結婚を断り続けてるのか。可愛いな」
「馬鹿たれ! そ、そんなんじゃない!! だいたい、その女は……」
「女は、……何?」
興味津々に、碧の瞳を近づけて、リュートが顔を覗き込んでくる。これには堪らない、とランドルフは残っていた麻布と裁縫道具をひったくると、これ以上ここにはいられぬとばかりに、席を立った。
「と、とりあえず、お前の頼みは聞いてやるから! そ、それから、これ、明日までに私が全部縫ってやる。どこかの不器用大王の手にかかったら、この布もボロ切れ同然にされてしまうからな!」
「なーんだ、逃げるの? ランディの初恋の話、聞きたいのに」
「うるさいわ! 作戦は、明日の朝の最終軍議で聞く! 今夜、これ以上、お前と話すことはない! じゃあな、山猫!!」
言うと、ランドルフは、その染め上がった頬を隠すように、ばさり、と黒羽を翻して、テントを後にしていった。
ランドルフが去った後、テントの中にはリュート一人と、縫われた麻袋だけが残される。その一つ、さっきランドルフが縫っていた麻袋をリュートの指が、そっと取り上げて、改めて、その縫い目を見つめ直す。そして、しばらく何か逡巡したのち、その麻袋をきつく握りしめて、金の髪の間から、切なげな声音で、ぼそり、と小さな独り言を漏らした。
「……馬鹿。何で、今更、来たんだよ……。本当に、馬鹿なんだから……」
「ばーか、ばーか。またリュートにあしらわれたんだろ。お前、本当に馬鹿だな」
東大公家のテントに戻るなり、手に持った裁縫道具を見とがめたレギアスの暴言と失笑が、ランドルフに降りかかった。いや、それだけではない。
「本当に、うちの元主君は、あの山猫にいいように使われていて、情けないと申しますか、何と言いますか……」
「……兄上、かっこわるい……」
テントの中で、共に待っていたかつての部下、オルフェ、そして、弟のクルシェまでも、この言い様である。
「や、やっかましいっ!! だから、嫌だったんだ、あいつの所に来るのは! それを、オルフェや、そして、く、クルシェまであんな手紙を寄越すから……。だ、だいたい何だ、クルシェ! あ、あの手紙は!」
そう抗議の声をあげながらも、やはり弟のクルシェを前にすると、どこかランドルフの態度はぎこちない。そんな情けない兄の様子とは裏腹に、クルシェは今まで彼に見せたことがないような、毅然とした表情で答える。
「何って、書いてあったとおりですよ。『兄上がもし、この戦に来ないのだったら、僕が兄上に代わって、東大公の位を頂きます』。僕だって、れっきとした大公家の人間ですからね。僕が位を頂いたって、よろしいでしょう?」
その、あまりにも傍若無人な……どこか、あの金髪の山猫を思わせるような、生意気な言葉に、ランドルフはもう、言葉もない。何故なら、今までのクルシェときたら、何かに付け、自分を恐れるような、そして、わざと避けているような、そんな雰囲気をいつだって醸し出していたからだ。だが、この目の前の弟ときたら、どうだ。
「いくら、兄上がご長男、とは言っても、その資質がないものに、大公家を任せるなんて、許せませんからね。僕が、力ずくでも兄上を追い出しますよ」
この、……悪魔の様な変貌ぶりである。さらに、恐ろしいことに……。
「そうそう。俺も、いい加減、お前の情けなさにはうんざりしてんだよねー。クルシェなら、まだ、伸び盛りだし、鞍替えしてもいいかなーって」
「そうですとも。私も、中央の政治を担う者として、クルシェ様の大公へのご即位を、謹んで推挙したいと……」
「レギアス! オルフェ! お前達までもか!! く、クルシェ! だいたい何だ、……お、お前、変わりすぎだろ! あの山猫に、どれだけ感化されてるんだ!」
そう狼狽えるような兄の言に、弟の瞳が、きつい光を帯びた。そして、さらに、兄の胸元にまで詰め寄ると、何か居たたまれないように、言いつのる。
「何言ってるんですか、兄上。貴方がしっかりしていないから、リュート様だって、あんな風になってしまわれたんじゃないですか!」
「――わ、私が?! な、何で、私のせいなんだ……!?」
「わからないんですか、兄上!?」
訳の分からぬ言いがかりに、疑問の色を隠せないランドルフの前で、クルシェの瞳に、じわ、と小さく涙が浮かんだ。そして、思ってもみなかった事実を、彼に告げる。
「本当に、兄上って人は……。いいですか!? リュート様はね、……リュート様は、兄上を誰よりも必要としてるんですよ?!」
「……ひ、必要? あ、あれが、私を……? だ、誰よりも必要だって……? そ、そんな、馬鹿な……」
あの、いつだって、反抗的だった男が。いつだって、兄、兄、とこうるさく言い続けていた男が。そして、いつだって、自分をいいようにからかって、利用していた男が。
「そんな訳あるはずが……」
「――馬鹿っ!! 兄上の馬鹿っ!! 覚えてないんですか? 王都で、舞踏会の前に、あの人が言った言葉! 思い出して下さい! あの人はね、兄上をからかうのが、一番楽しいって言ったんですよ? いいですか? 『兄上が、一番楽しい』なんですよ?!」
それは、いつぞやの舞踏会の前に、半裸のリュートが、ランドルフをからかった後に言った言葉だった。あの、クルシェに、ランドルフの慌てようを見せつけるために言った冗談。
「そう……、あ、あれは、冗談。そうだ、冗談だったんだろ?」
「兄上の馬鹿っ!! 冗談じゃないんですよ! あの人の、本音なんですよ! あの人は、兄上の側が一番楽しいんですよ! だから、……現にこうして、兄上と離れた今までの戦いの中で、あの人はあんなにも弱ってしまったんじゃないですか! 兄上が、あの人を支えてやらないから!!」
……支えていた?
言われた言葉に、ランドルフは些か疑問の念を覚える。
支えていた、と言われるが、自分は、あの男に、特に何もしてやっていなかったはずだ。とくに、助言をするわけでもなく、慰めるでもなく、ただ、共に居ただけだ。それが――……。
そんなランドルフの内心を慮ったかのように、レギアスが言う。
「お前、あいつの主君だろ。それだけで、多分、あいつは大分救われていたんだよ」
「その通り。多分、貴方という主君を、あのレミルとかいう兄が死んだ戦の前に持っていなかったら、あの男はとっくに自殺でもしていたでしょうよ。あの戦の前に、貴方という生きる意味を、与えられたから、あの男は、多分……。それでも、尚、兄の仇を取ることを諦めきれずに、貴方の元を去って、この戦に赴いたのでしょうが……。本当に、主君も素直でなければ、臣下も素直でない。困った主従ですよ、貴方達は」
オルフェまで、この弁である。その詰め寄る三人に、耐えきれないと、ランドルフは反論の姿勢を見せる。
「お、お前達まで、揃って何だ……。そ、そう言うが、私だって、新大公としての仕事があったし、あの男のことなんぞ……。それに、私はあの男の父親を奪ってしまったという負い目がある。そんな私に主君の資格なんぞ……」
それこそが、ランドルフが、リュートの心の深淵にまで踏み込んでやれぬ枷となっていた事柄だった。かつて、自分の不注意で、あの男の父を殺させてしまったという罪悪感が、どうしたって、ランドルフの心に重しとなってのし掛かっているのだ。
そんな兄の内心の煩悶とは裏腹に、クルシェは、悲痛な面持ちで、さらに兄に向けて言いつのる。
「大局を見つめて下さい、兄上。大公の代理業務なんぞ、今までオルフェの父親であるハルトが難なくこなしていたでしょう? それよりも、今、この国を憂うなら、あの方を救わなければならないと思いませんか? あの方は、この国に絶対に必要な方なんです! でも、あの方は、もう、この世界よりも、先の冥府の世界を見つめ始めている。そんなあの人を、この世で救ってやれるのは、多分貴方しかいないんですよ? ねえ、兄上! 貴方だけなんですよ?! あの人の手を取って、こちらに引き戻してやれるのは!!」
悔しげに、クルシェの瞳に、涙が滲む。どれだけ思っても、あの男を救ってやれない、この自分の無力さに。
「ぼ、僕は……僕は、許せないんですよ……。この僕の力のなさが。最初に、僕を認めてくれたあの人に、何にもしてやれないどころか、僕が起こした悶着のせいで、あの人に毒蛇達に頭を下げさせてしまったことが、本当に許せないんです」
それは、あの先の指揮権で揉めた折に、クルシェと近衛隊達とで起こした事件のことだった。ランドルフにしてみれば、先にリュートから、その真意を聞かされていたため、あの男が頭を下げたことは、決してクルシェ達のせいではないとわかっている。だが、クルシェにとっては、憧れの英雄が自分のために、頭を下げるという屈辱を冒したことが、どうしたって許せないのだろう。さらに、そのまだ小さな少年の体躯を震わせて、言葉を紡ぎ出す。
「兄上。兄上が、あの人を守ってくれないなら、僕があの人を守ります! それから、大公位だって、僕が貰いますからね! 兄上!!」
その吐き出された挑戦的な言葉に、後ろにいたレギアス、そして、オルフェまで乗っかってくる。
「そうだ、そうだ。クルシェ。兄貴だからって、遠慮することはねえ」
「その通りです。丁度いい機会だから、言っておやりなさい」
「――兄上の……ヘタレ野郎!!!」
それだけ吐き出すと、ばさり、とクルシェはその白混じりの黒羽を翻して、テントから去っていった。勿論、彼が残した言葉に、兄であるランドルフは、何が言われたか分からぬように、呆然と立ちつくして、後を追うことすら出来ない。
「……へ、ヘタレって……。く、クルシェが……。あの……気弱なクルシェが……」
かつては、自分の前に姿を現すことすら、嫌がっていたあの弟が。そして、いつもぎこちなげに言葉を返してくるしか出来なかったあの弟が。ここまで、兄である自分を、罵倒するようになったとは。
その目を見張らんばかりのクルシェの変貌ぶりに、唖然とするランドルフに、さらに追い打ちを掛けるかのように、レギアスの言葉が痛烈に飛んだ。
「ばーか。あいつも男なんだぜ。あれくらい、成長もするさ。いつまでも、……お前の初恋の女に似た可愛子ちゃんじゃねえって事」
言われた最後の言葉に、一瞬で、ランドルフの動きが止まる。
「れ、レギアス……。お、おおおおおお前、い、今、何て……。ど、どどどどどうして、それを……」
激しい動揺に、その言葉すら定まっていない、ランドルフの前で、にやり、と幼なじみが笑う。
「聞いたぜ、親父から。お前の初恋の相手、クルシェの本当の母親だってな」
一瞬で、ランドルフの顔が、色を変える。勿論、羞恥を現す、朱色に、である。
「お、おおおおおお前……」
「いやぁ、びっくりだねぇ。クルシェを産んだメイドが、お前の初恋の女だったとはねぇ。だから、その女に似ているクルシェを前にすると、いっつもぎこちなかったわけだ。腹違いの弟の母親に惚れるとは、お前もなかなかどうして、複雑じゃねぇの」
「なるほど。だから、あんなにお父上を嫌悪してらっしゃったのですか。道理で、……あのリュートの父親の事だけが、原因ではなかったのですねぇ。いや、そりゃあ、初恋の女を愛人として囲っている父上は、お好きになれないはずですよ。それで、その女に似たクルシェ様を見るにつけ、どうしてもぎこちない態度を取ってしまっていた、と。いやはや、貴方って人は、何とも可愛い人ですよ」
「それにしても、お前、そんな年上の女が好みだったとは知らなかったなぁ。だから、見合い相手の若いお嬢様共を断り続けていたのか?」
「奥様も、さぞかし複雑でしょうねぇ。息子が、未だに、死んだ夫の愛人を想い続けていると知ったら。さぞかし、プライドを傷つけられることでしょうからね。決して、おくびにも出してはいけませんよ」
次々と臣下達の口から吐き出される言葉に、ランドルフはもはや、ぐうの音も出ない。ただただ、恥ずかしくて、このテント、引きずり倒して、その中に埋もれてしまいたい、いや、むしろ、こいつら纏めて埋めてしまいたいとすら思った。
そんな主君の態度に、さらに臣下達は意地悪くつけ込む。
「でもよ。そろそろ、そういうの、お別れしたらどうだ? クルシェだって、もう一人前の男なんだぜ。お前の初恋の女の面影も、もっと成長すれば嫌でもなくなるさ」
「そうそう。いい加減、お父上、そして、ご兄弟との因縁から、ご卒業なさったら如何です? もちろん、あの男の父親との因縁も、です。いつまで、そんな昔の罪悪感に捕らわれておるのですか。いい加減、払拭なさらないと、貴方は、もっと後悔するに違いないのですから。それにね、貴方ももう、大公様なんですから。いつまでもそんな青いこと言っていると、あの男にだって、本当にそっぽ向かれますよ。貴方が、一番心配してならない、あの男にも、ね」
……本当に、嫌味な臣下達である。正確に言うと、この眼鏡は、元臣下、なのであるが、どうしても、このお節介な性格は治っていないらしい。眼鏡をきらり、と光らせて、最後通告だとばかりに、言い放つ。
「助けておやりなさい、リュートを。私たちだって、あれをこのまま失いたくは、ないのですよ」
そゆこと、とレギアスまでも、巻き毛を揺らして、オルフェに同意の姿勢を見せていた。
その犬猿の仲である二人のいつにない意見の一致に、嫌でもランドルフの口元が緩む。
「本当に、お前らは……いい奴等だな。……私も、あれも、周りには、実に恵まれていると思うよ」
「今頃気づいたのですか。私たちの素晴らしさに」
「ちょっと、遅いんじゃないのかねぇ。あんなに、この半島で一緒に死線を越えてきた仲だっていうのに」
言われるとおりだった。
丁度、一年前の秋、この半島に救援としてやってきて、そして、いくつかの戦を共に勝ち抜き、そして、同じ釜の飯を食っていたのだ。……この二人、そして、あのはねっ返りの山猫と共に。
「……そうだな。戦友だったな、私たちは」
「その通り。また、一緒に戦おうぜ。あいつと共に。そして、あいつを守るために」
「私も、文官としてですが、微力ながら、お手伝いさせて頂きますよ。政争の種になる毒蛇共の勝手を許しておけぬのは勿論ですが、まあ、戦場に出ますと、少々楽しい気分になれますし」
ランドルフの前で、仄暗いテントの中の灯りを受けて、巻き毛と眼鏡が不敵に光る。
そして、それとともに、差し出される拳。そして、拳。
「行くぞ、戦友。明日の、そして、この国の行く末を決める戦に」
「――おうっ!」
「参りましょうか、それぞれの、戦場へ」
がつり、と音を立てて、男達の拳が合わされた。
それは、『反骨』を旨とする生粋の東部男達の、これから続く長い戦への、誓いの合図だった。