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第六十五話:祈祷

 夏の残暑も過ぎ去って、秋を迎えた東部の都、レンダマルは大いに賑わっていた。

 何しろ、もうじき、一年に一度の収穫祭を控えているのだ。今年の作物の出来は上々、さらに加えて、かつて、この都市の市長を務めていた若者が、めでたく大公に即位してから、初めての祭りである。いくら、国が戦時下にあると言っても、その市民達の喜びを止められることは出来ない。

 

 そんなレンダマルを見下ろす事の出来る郊外の丘の上、この東部を治めているロクールシエン家の本邸はあった。

 

「なあ、行こうぜぇ。なあ。なあってば」

 

 豪奢な造りの本邸執務室、巻き毛の男、レギアスのその言葉が、今日もうるさくぼやかれる。これに対し、言われた新大公の方は、聞き飽きた台詞に、溜息をつきながら、彼の方を一瞥すらせずに答えた。

「行きたければ、お前だけで行けばいい。私は仕事がある。そんな所に行っている暇はない」

「ちぇっ。何だよ。いっつもいっつも無理しやがってよ。なあ、親父」

「そうですぞ、若……いえ、大公殿下。何をそんなにいつまでも意地を張ってらっしゃるのですか。この東部のことなら、我らがおりますのに。ほらほら、こんな書類、全てハルトに任せればいいのです」

 言いながら、レギアスの父であるギリアムは、大公の手にある書類をひったくろうとするが、当の本人は、まるで、何かにしがみつくかのように、その手を書類から離そうとしない。だが、相手は、東部一の武官であるギリアムである。いつまでも力ずくの反抗が続くはずもなく、あっさりと、その書類は、ギリアムの手中に収められてしまった。そして、その代わりだ、とでも言うように、大公の眼前に、一通の書簡が突きつけられる。

「殿下。お読みになりましたでしょう、このオルフェからの書簡。あの銀狐めらが動き出しましたというのに、どうして貴方は動かれないのですか! ええ? この東部の長としてお恥ずかしいとお思いになりませんか?」

「そうだぜ、ランドルフ! あの毒蛇共、今度は半島で好き勝手にするつもりに違いないんだ。お前が行かないでどうするよ!? なあ、なあってば!」

 

 そこまで言われて、ようやく新大公は、その黒曜石に似た目を、目の前に詰め寄る武官親子に向けた。そして、にべもなく言い放つ。

「私には、関係のないことだ。何故、私が行かねばならん」

 

 この弁には、堪らず、レギアスが、その巻き毛をがしがしと掻きむしりながら、きいぃぃ、と雄叫びを上げる。

「あー、もう、お前ってヤツはよ! 何処まで素直じゃねえの! ええ? 関係ないどころか、心配で心配で堪らないくせによ! 何で、助けにいってやんねーんだよ、この馬鹿たれ!!」

「主君に向かって、馬鹿たれとは何だ、レギアス。口が過ぎるぞ」

 ふん、と鼻を鳴らして、そう吐き捨てると、再び新大公はその目を親子から逸らして、口を尖らせる。

「大体、あいつは、私に別れを告げたんだ。今更、私の助けなど欲しておらんだろう。それに……」

 そこで、言葉を句切ると、大公の視線が、何か意味ありげに、自分の手元に向いた。丁度、右手の甲に、である。

 

「あれと、約束をしたのでな。……あれは、見事に約束を、破ってくれたが、私は、あれと違って、一度した約束を違える気はない」

 

 ――『その代わり、約束してくれますか? もし、貴方が、大公になったら――……』

 

 その言葉を脳裏に浮かべながら、大公は、その目を恥ずかしげに、手の甲からも背けた。そして、この話は、もう終わりだ、とでも言いたげに、おもむろにその席を立つ。

「おい、何処へ行くんだよ!」

「どこぞの暑苦しい親子が揃いも揃って、仕事を邪魔するのでな。レンダマルの街に行って、収穫祭の準備でも見てくる」

 それだけ言うと、部屋に武官親子だけを残し、大公はその黒羽を翻して、去っていった。

 

「っかーーーー!! 何だよ、あいつ! ほんっとうに素直じゃねえの!!」

「ぐおぉおお。ああいう所も、先代様にそっくりだ。意地を張って、結局はぎりぎりまで、その本心を言わないのだから。たく、あの血筋もいい加減、何とかならんもんなのか……」

 新大公のあまりの態度に、武官ファー家の親子共々、堪らぬ、といった様子で、奇声を上げる。普段なら、こんな仲良く声を揃えることもない二人だが、こと、主君であるランドルフの性格の厄介さには、意見が一致しているらしい。殴り合うしか能のなかった親子の拳をしっかりと合わせて、対主君へのタッグを組み直す。

「親父! こうなったら、もう、俺らがどうにかするしかないぜ。親父にゃ、こっちも言いたいことやらいろいろあるが、ひとまず休戦だ。とりあえず、協力して、あいつ力ずくで引っ張り出そうぜ」

「おう、こっちも、お前をぶん殴ってやりたいことなんぞ、山ほどあるがな、馬鹿息子。そりゃ、ひとまず置いておいてやる。まずは、あっちの坊ちゃんのひねた根性、叩き直してくれるわ。なあに、ファー家の者が二人でかかれば、生きている者なんぞ、いやせんわ。はっはっは」

 

「おいおい、そこの脳筋二人。殿下を殺す気か」

 

 あきれ果てた声音を漏らしながら、一人の男が入室をしてきていた。

 片眼鏡の文官、オルフェの父、ハルトである。声に些か、呆然とした色が滲んでいるものの、その顔一つ歪ませて居ないところは、流石、『蝋人形』と揶揄されるだけのことはある。

「何だ、モヤシ。脳筋とは聞き捨てならんぞ」

「脳まで筋肉じゃなかったら、お前らという生物の説明がつかんだろうが、この野蛮人共め」

「何言ってんだ、オルフェの親父さんよ。こんな毎日修行とかしてるクソ親父と違って、俺の頭は女の子の事でいっぱいなの! 一緒にすんな!」

「……脳まで下半身か……。どっちもどっちだろうが。それよりも、だ」

 

 もうこれ以上、この獣共と議論しても仕方がないと、ハルトは、また声にだけ呆れの色を覗かせて、その懐から何かを取りだした。そして、それを親子の前に差し出すと、滅多に使うことのない口角周りの筋肉を歪めて、にや、と意味ありげに笑ってみせる。

 

「……半島から、素敵なラブレターが届いたぞ」

 

 

 

 

 

 

 ――まただ……。

 

 いつものように朝食を部屋に運んだクルシェが、そう嘆息する。

 ルークリヴィル城の一室、とても、この城を取り仕切っている人物が使っているとは思いがたい質素な部屋に、その溜息の光景はあった。

 

 使われた様子のないベッド、手を付けられていない夜食、床にこぼれ落ちるほどに書類が積まれている机。そして、その机の書類に、顔を突っ伏したまま寝ているこの部屋の主人。

 おそらく、また、書類を見ながらそのまま寝てしまったに違いない。もう秋に入って、大分寒くなってきたというのに、その体に、毛布一枚掛けてはいない。

「……もう。毎日、ちゃんとベッドで寝て下さい、とお願いしているのに……」

 言いながら、クルシェはいつものように、その背に、そっと掛布を掛けてやる。その間近に迫った顔は、安らかな眠り、とはとても言い難い悲痛な寝顔である。本当に、疲れ果てて、ふつっ、と糸が切れるように寝てしまった。そんな感じである。

 

 無理もないか、とクルシェは一人ごちる。

 机一面に置かれた書類。これ全てをこの男が管理して、決済しているのであるから。軍資金の管理運営、気象士からの毎日の天候報告。中央から届く書簡に、配下の兵の訓練報告書……。他にも数え切れないくらいの膨大な情報達……。

 これを全て頭に入れ、そして命令を下し、そして、それに責任を持つ。

 その仕事が、いかに大変で、そして困難なものか、側にいれば、嫌でも分かる。だが、この男は、それを決して、他の者には分けようとはしない。まるで、自分に鞭打つかのように、全ての面倒ごとを一人で抱え込んでいるのだ。

 

「……どうして、……どうして、こんなに御自分を傷つけられるのです……」

 クルシェの呟きが、男の寝息に重なる。

 

「出来るなら……、僕が貴方の背負うものを、代わりに背負ってあげたいのに……」

 だが、どうしたって、クルシェはまだ十四の少年である。その願いに届かぬこの自分の身が、酷く恨めしい。

「どうして……。どうして、僕はこんな子供なんだ……。どうして、僕は、この人の役に……」

 

 何のために、兄の反対を振り切って、この地まで来たのか。クルシェは、その動機を、痛いほどに、自分の胸に戒める。

 かつて、この男に言った、一人前の男になりたい、といった気持ちも嘘ではなかった。だが、それよりも。

 

 ――『待っていて……。するべき事を成したら、僕もすぐにそこに行くから……。それまでは――……』

 

 いつかの王都の夜に、聞いてしまったあの言葉が。あの、憧れた英雄に、とても相応しくないような、切ない言葉が、どうしても、離れなくて。

 どうしても、この人の側に居てあげなければ、と、そう、思って……。

 

「非力で、自分を否定していた僕が、どうして、そんな思い上がった事を思ったのか、分からないけれど。それでも、僕は……」

 

 その先の言葉を言ってしまえば、涙が溢れそうだった。自分の非力さに悔しいからではない。ただただ、この男の寂しさだけが、哀しくて、仕方がなかった。

 

「……うん……。レミル……」

 

 間近で涙を堪えんとするクルシェの存在に気づいたのか、金の髪を揺らして、男が言葉を発した。だが、一向に、その顔が上げられないこと、そして、また寝息が聞こえてきた事から、おそらく寝言だったのだろう。

 ほっと一息ついたクルシェは、男の顔にかかった金の糸を、そっとよけて、その顔を見つめてやる。かつては、まるで猛る獅子の様だと惚れ惚れしたその(かんばせ)も、秋が深まるにつけて、いつか見た幽鬼の様を思わせるほどに、青白くなっていた。

 

 ……秋。

 それは、ナムワに聞いたら、この男の兄が亡くなった季節だと、いうことらしい。暦の上では秋とは思えぬほどの、そぐわぬ寒波に見舞われた、雪の日……。

 

 その季節が、どうしたって、この男の心を深くえぐっているのだろう。寒さが身に染みるよりも早く、その心を刺し貫いている。そして、もう一つ。

 来るべき決戦と、そして、思いがけない、足下の敵との戦い。

 あの御前会議で、この男が叩きのめした毒蛇共が、今になって、その足にまとわりつこうとしているのだ。

 

 ――昨日だって……。

 

 そう言いながら、クルシェの脳裏には、昨日あった軍議での忌々しい出来事がその脳裏に蘇っている。

 

 

『おやぁ、英雄殿。何ですか、いまさら、その様なお顔をなさって。当然の事でしょう。次の戦で、ヨシュア様の御旗が掲げられる、ということは』

 

 にやにやとした顔でそう言い放った銀狐の目が、あまりにも嫌らしくて、今でさえ吐き気をもよおしそうだった。のみならず、あの近衛隊長までも……。

 

『王太子殿下を差し置いて、御自分の有翼獅子の御旗を、と仰るのでしたら、それは不敬罪、というものではないのですかねぇ。なにしろ、殿下は、皆に認められる、正当な王位継承者なのですから』

 

 自分の旗を掲げることが、許されない。

 それは、この国王軍のみならず、南部、西部軍を擁するこの諸侯連合軍において、正当な指揮権がない、と言うことを意味する。

 勿論、この言葉には、当の本人のみならず、王太子であるヨシュアも黙ってはいなかった。……僕は、指揮権などいらない、指揮はリュートに任せたい、とさんざん言を重ねてくれたのだが、毒蛇は二枚、カードを用意していた。

 

 一枚は、この城で、リュートの用意した娼婦の手によって、蚊帳の外に遠ざけられていた、第二軍の将、ミッテルウルフ候の存在だった。娼婦達にさんざん搾り取られ、他の貴族に借金をしに泣きつくしかなかったあの豚が、よりにもよって、毒蛇二人に買われてしまったのだ。

 昨日の軍議で、その発言に権力を持つのは、選定候以上の五人、王太子ヨシュア、北大公エイブリー、そして、各選定候である、リュート、ラディル、ミッテルウルフ。その五人目、ともいえるミッテルウルフ候が、毒蛇側についたのだ。この多数決に、さすがのヨシュアの言も、退けられるしかなかった。これは、正直、邪魔者として、ミッテルウルフ候を遠ざけたリュートの策が裏目に出た形だろう。もう少し、彼に気を配って、彼の心を掌握しておけば、と後悔しても、遅い。

 

 ……あの豚、丸焼きにされればいいのに。

 

 歯噛みしても仕方がないのだが、クルシェは、内心でそう罵るより他になかった。なぜなら、あの豚と来たら、毒蛇共の意見に賛成するのみならず二枚目、ともいえるカードをリュートに突きつけてきたのだから。

 

『ほっほっほ。私は、ずっとこの城におりましたから、よぅく、知っているんですよ。あの南部熱の責任が、誰にあるのか、という事を。そう、確か、最初の病人をこの城にお連れになったのは、英雄殿でしたなぁ。いやいや、私も熱には大分苦しめられましたよ。素敵な客人を招いて下さって、英雄殿にはお礼をしなければ、と思うておったのですよ。ほっほっほ』

 

 この言である。

 勿論、これには、会議を見守っていた兵士達の間にいたレオン――最初にリュートを騙して患者を押しつけた、元『南部の風』の戦士が、すべての責任は自分にある、自分を処刑しろ、と抗議に出たが、所詮は平民の言である。会議の正当な発言として認められることはなく、結局、南部熱の責任を、全てリュートが取らされる形となってしまった。

 

 ここで、クルシェは、もう黙っていられなかった。

 一緒に成り行きを見守っていた元近衛隊の面々と共に、罰則覚悟で、毒蛇達に掴みかからんとして、彼らを守る兵達との間で、一悶着を起こした。勿論、数の面でも、そして、信頼の面でも、どちらに分があるかは明確だった。あらかた、毒蛇派の兵士達をぶちのめした後、クルシェ達は、戯れ言を言い続ける毒蛇三人に飛びかからんとしたのだが。

 

 ――『やめろ!!』

 

 止めたのは、クルシェらが、崇拝して止まない男、本人だった。そして、その憧れの英雄は、こともあろうにも。

 

『すまない、御三人方。うちの兵士がみっともないことをした。どうか、この通りだ。許してやってほしい』

 

 そう言って、頭を下げたのだ。この、金の髪の獅子が。

 それが、何より、クルシェには許せなかった。この誇り高い男に、その頭を垂れさせてしまった、この自分自身が。

 

 そして、その謝罪を言葉を述べたあと、その頭を上げることもせずに、英雄はさらに、驚愕の台詞を口にしていた。

 

『全ての責任は、僕が取ろう。だが、どうか、お願いがある。僕の処分は、次の戦が終わってからにしてくれないか? その後なら、僕は、如何なる処分でも受け入れる。そして、こんな事をして、図々しいお願いだとは思うが、どうか、今度の戦だけは、僕に指揮をさせてくれないか。旗は、殿下の旗でいい。僕の旗も、そして、僕の手柄も、すべていらない。だから……』

 

 その言葉に、嫌らしく毒蛇達の口元が歪んだのを、クルシェは見逃さなかった。

 要するに、リュートは、言質(げんち)を取らされたのだ。

 自分の、戦後の処分を、この男達に委ねる、と。

 

「……くそっ……」

 

 英雄がしたことに、クルシェは勿論、他の兵士だって、納得が行かなかった。いつもなら、この男は、もっと、堂々と、そして、圧倒的な手段で、毒蛇共を蹴散らしているはずなのだ。どうして、そう捨て鉢な物言いをするのか、居合わせた者全てが、まったくに理解出来なかった。

 

 ……こんなの、リュート様じゃない。こんなの、違う。

 

 そう叫びたかったが、今思えば、その言葉を口にしなくてよかったと思う。

 ……何故なら。

 

 クルシェの目が、嫌でも、英雄と呼ばれた男の頬に向く。やつれて、青白い、病人のような頬に。

 

 この、目の前で疲れ果てたように伏している男を目の前に、どうして、そんな勝手な言葉が投げかけられるだろう。こんなに、傷ついて。そして、こんなに、弱っている男を目の前に、そんな自分の理想だけが、どうして、押しつけられるだろう。

 

 ……この人は、次の戦に、その全てを賭ける気なのだ。その為に、身内の中で、余計ないざこざを起こすまいと、下げたくない頭まで下げたのだ。

 

 今日になって、ようやく気づいたその事実に、クルシェは、その身ごと、消えたいほどに、恥じ入った。そして、自分と同じように、彼に理想を押しつける兵士や、ヨシュアの横っ面をひっぱたいてやりたくて仕方がなかった。

 

「こんなに……、こんなに、貴方は戦ってきたのに……。どうして、どうして……。もう、いいよ。……もう、いいよ、リュート様……」

 

 どうしたって、自分には、この男の心も、体も、救ってやることが出来ない。ただ、暗い闇に向かって、歩き出そうとしているこの男の手を、こちらに引き戻してやることができない。

 それが、何よりも哀しくて、そして、何よりも口惜しくて、ならない。

 

「誰か……。誰か、助けて……。お願いだから、リュート様を助けて……。お願いだ……」

 

 自分に、力がないのなら、もう後はクルシェはただ祈るしかなかった。

 この男の側に、ずっと、あり続けた男に。そして、この男をして、『一番楽しい』と言わしめた存在に。

 

「お願いだ……兄上……」

 

 

 

 

 

 

 

「ご礼拝、ですか、閣下。それも、お一人で、と仰いますか」

 夕暮れを迎えた半島最南端、エルダーの教会。

 突然の礼拝の申し出に、この教会の神父は、驚いたように、その祈りの場の扉を開けた。彼が、驚くのも無理はない。もう今日の最後の礼拝を終えて、礼拝堂に鍵をかけようと思っていた矢先に、突然現れた男。それが、このエルダーを治める将軍、鉄人ヴィーレント・サイニーだったのであるから。しかも、通常は、神父である自分に、懺悔なり、告解なりするのが、正式な祈りの形式であるのに、それを辞して、ただ、一人で神の御前にて祈りたい、というのだ。

 だが、何かある、と思っても、神父に、この男の言を断る権利はない。ただ、かつて有翼の民の為の神殿だった祈りの場の戸を、彼を残して、閉じてやるのみだ。

 

 神父が去って後、鉄人はただ一人、神の印の前に立つ。

 かつての異民族の偶像を破壊し、掲げられた円に十字の神の印。――唯一の神とされる、ディムナの印である。

 

「神よ……」

 

 その印の前に、跪きながら、鉄人は祈りを捧げる。

 来るべき会戦での勝利を。そして、聖地の奪回を。

 

 思えば、戦の前に、こうして一人で祈りを捧げることなど、一度もなかった。それを彼にさせているのは、他でもない。かつて対峙した、白羽の男の存在だった。

 あの、美しい羽を持った、金髪の希少種が。今までの価値観からすれば、ただの商品に過ぎなかったであろう、珍しい有翼人が。

 誰よりも、この鉄人の心を揺さぶって、他ならなかった。

 

 かつて自分を敗走させたあの戦。そして、自軍に蔓延した伝染病を逆手に取って、自分を罹患せしめたあの計略。どれをとっても、一人の武人として、心を揺るがせられる才覚である。

 とてもではないが、ただ、商品として扱われる動物とは思えぬ、いや、思いたくない男だ。

 

 だが、そう思えば、思うほど。あの男を一人の武人として認めたいと思えば、思うほど、鉄人の心は激しい苦悩に襲われる。

 

 ――この、戦とは、一体如何なるものであるか、という問いに、である。

 

 ずっと、その問いを鉄人はその胸に抱き続けてきた。

 聖地奪回という神の名の下に、この地に生きる有翼人を蹂躙し、拉致し、そして、惨殺する。その戦とは、一体何なのであるか。

 

 再び、鉄人の目が、印に向く。

 

 この神の言葉を記したと言われる聖典『ディムナの書』によれば、神の地を踏み、そこにて祈りを捧げることは、神への最大の賛辞と敬愛を示すことになるという。それ故に、神父共は、この聖地奪回事業こそは神の救済を得る第一歩として、民衆達に教えを広め、派兵を推し進めてきた。そして、その地を不当に占拠する異民族共は、神に逆らう反逆の徒。もはや悪魔に等しい人外として、駆逐することが正義であると。

 

 だが、その教えだけでは、実際に、手を汚さねばならぬ立場にあった鉄人にとって、なんら心の支えにもなりはしなかった。

 なぜなら、自らの得物によって、血を流し、そして死んで行く者達は、とても悪魔と断ずるには、あまりある者達だったからだ。自分たちと同じように、家族を愛し、住み慣れた土地を愛し、国を愛し、そして、自らの神を愛する……。ただ違うのは、その神の名だけだ。

 それが、どうして悪魔に等しい人外だと言えよう。ましてや、それが、この自分を凌駕する才を持った一人の人間であるならば。

 

 そんな悪魔でない、人間達……自分たちとは少々姿形は違い、信じるものは違うものの、紛う事なき、誇り高い人間達を殺すことは、……もはや、罪悪でしかなかった。神の救済も、悪魔の駆逐という壮大な欺瞞も、流される『人』の血と涙の前には、無力に過ぎなかった。

 

 ――それでも、尚、その罪悪を成さねばならぬとしたら。


 軍事帝国としてしか、その国を維持出来ぬ我が民族にとって、それは必要な害悪だとしたら。祖国を守るために、誰かが成さぬ罪悪だとしたら。

 

 美しい理想を、他に求めるしか、出来なかった。

 ……騎士道、という美しい欺瞞を。

 

 それは、人を殺すという悪魔の所業を仕事としてやり遂げねばならないとき、その心だけは悪魔に落としたくない、と自らに科した欺瞞だった。礼節を求め、自らを研鑽し、常に、毅然としてありたいと。ともすれば、狂乱の渦に巻き込まれ、獣に等しく心を落とさねばならぬ戦場において、その人間としての理性だけは失うまいと。そして、それを体現できる人間こそ、騎士の中の騎士と呼ばれるに相応しいのだ、という理想を。

 その、自らに科した欺瞞が、人をして、いつしか騎士の鑑、『鉄人』と言わしめるようになった。人間の本能と狂気が迸る戦場において、その理想を体現することは、並大抵のことではないと評価され、そして、同じように、美しい理想という名の欺瞞を旨にせねば、戦えぬ男達を惹き付け、そして、この将軍の地位まで上り詰めた。

 そうなったら、もう、引き返すことは出来なかったのだ。

 もう、自分には、その欺瞞を信じて、そして体現し、人の上に立ち、罪悪を成すより他になかった。自分一人の欺瞞でなく、人を巻き込んでの欺瞞となったとき、それは、もう自分の手を離れ、そして、自分を支配するものになったのだ。

 

「……愚かだな。本当に、私は愚かだ。そして、罪深い……。だが、それが、私の人生だった……。私なりに、もがき、苦しんで、そして、このようにしか生きられなかった、私の人生だ」

 

 自嘲げな鉄人の声が、礼拝堂に木霊する。

 自分の人生に、満足もしていない。だが、後悔もできぬ男の声だ。

 

「もう、私には、この道しか残されていないのだ。新たな理想を胸に抱いて、戦うほどに、私は強くない。そして、……若くもない」

 

 ……ああ、そういえば。

 鉄人の心に、一人の男の言葉が浮かぶ。

 

 かつて、自分にこんなことを言い続けていた男がいたな。


 ――『閣下。この世にあるありとあらゆる思想は、全て欺瞞に過ぎません。けれども、人間には、それがどうしても必要なのです。でしたら、私はそれを徹底的に、利用してやろうと思うのです。けっして、私自身が、欺瞞に使われることなど、私は、私に許しません。私は、貴方とは違います。私は、何処までも現実に生きます。それが、私の生きる道です』

 

 そう傲慢に断じたあの男は。……あの、細い目の下に野心を隠した若者は。

 一体、どんな未来を紡ぎ出すのだろうか。


「……ロン。……ロンヴァルド……。私は、……征くぞ」

 先に続く未来を持つ若者の名が、鉄人の口から漏れる。

「もう、私は後戻りは出来ぬのだ。もう、後戻りして、何かを成して、許されるには、私は死体を積み過ぎた。敵も、味方もない、ただ血を流した死体だけが……私の逃げ道などないくらいに、全ての明るい道を塞いでいる……。私は、もう、定めた道を、征くしかないのだ」

 

 ……例え、その先に待っているものが、破滅だと分かっていても。

 

 それでも、恨みを糧にするよりは、美しい理想は、実に、効率的に自分を騙してくれていたのだ。何故なら、憎しみは、理想よりも、遙かに自分の心を蝕む。いや、それだけではない。それは、どうしたって、他人の同情は寄せても、他人の戦う理由には、なってくれないのだ。

 

「あの、若者は……。あの、憎しみに心委ねて戦うあの若者は……。一体、どのように私の前に立ちはだかるのか……」

 

 それだけ呟くと、鉄人は、その鉛色の瞳を、神の印から翻した。そして、その印を背に背負い、一人暗い礼拝堂を後にする。

 

 ……私は、手加減はせぬぞ。私が騙し、死んでいった者達がいる限り、私は、変節をしてはならぬのだ。例え、その欺瞞に、自分自身、納得をしていなくとも。

 それが、私を信じ、私が作り出した美しい理想を信じ、死んでいったものへの贖いであるのだから。

 

 

「さあ……、決着を、つけようか」

 

 

 鉄人の決意が、寒さを増した秋の空に、溶けた。

 


 それから、一週間後の、暗い曇天の深秋。

 ついに、リュートの元に、鉄人率いる蒼天騎士団が平原の南に布陣を開始した、という情報が届けられた。いよいよ、第二次防衛戦争における、最大の戦い、リュートと鉄人の勝敗を決める、最後の戦い――『ナバラ平原の戦い』の幕開けである。

 

 

 


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