第六十三話:思惑
「こ、これがブリュンヒルデか……?」
そうリュートが絶句してしまったのも、無理はない。
海に浮かぶ孤島の別荘に、仔竜を預けて、数週間。そのわずかの間に、仔竜は、もう仔竜とは呼べないほどに成長を果たしていた。
背丈は、もうリュートを超えるくらいだろうか。牙も爪も、しっかりと生えそろって、一人前の飛竜の姿と言って、過言ではない姿をしている。
「竜の成長は早いのネー。でも、まだ、人を乗せて飛ぶことは出来ないのヨー。ほーら、ブリュンヒルデ、ご主人様だヨー」
この竜の調教師でもあるロンが、間延びした声でそう告げると、竜は人懐こく、首をリュートの方に寄せてきた。その間近で見るぎっしり生えそろった牙に、少々恐れを抱くものの、どうやら、敵対心はないようだ。リュートは、意を決して、ごつごつとしたその頭をなでてやる。途端に、きゅうぅ、という甘えた声が、牙の間から漏れた。そして、尚の愛撫を要求するかのように、竜は、顔をリュートのものにすり寄せて、牙の間から大きな舌をちらちらと出してみせる。
「……何だ、獰猛だって聞いていたけど、可愛いじゃないか。……あっ、こら」
ぺろり、と竜のざらついた舌がリュートの口元を舐める。まるで、竜というよりも、犬のようだ。
「あったりまえネー。ワタシの愛情溢れる調教の賜物ネー。ネー、アーリさん」
「何言ってやがる、帝国人。朝、ちっとも起きねー癖によ。いっぺんも朝飯やったことないじゃないか」
「アーリさんが早起き過ぎるのヨー。五時起きって一体何の冗談ネー。せめて七時起きヨー」
なんだかんだと言いながら、この男達の同居は上手く行っているらしい。と、言っても、所詮、ロンは憎むべき帝国人。あまり、馴れ合われても困るのだが。
リュートは改めてそうロンの姿を見遣ると、おもむろに、ぐい、と彼の耳を引っ張って、自分の方へと引き寄せた。
「おい、帝国人。ちょっと話がある」
平時は貴族達の別荘地として賑わうニース海岸から、少々離れた孤島に、このシュトレーゼンヴォルフ候家の別荘はあった。その別荘の一室、本来ならば、使用人が使うはずの部屋が、現在、捕虜であるロンにあてがわれている。窓にも、扉にも、最近付けられたと思しき、堅固な鍵。勿論、ロンの逃走防止の為だ。
そのロンの部屋に入るなり、目に付くのは、小さな窓から眺めることの出来る、雄大な海、そして、部屋一面に置かれた植木鉢の数々だった。そのいくつかの植木鉢には、既に、美しい見事な花々が咲いている。
「あ、ワタシ、園芸が趣味なのネー。爺やさんに頼んで、土と苗、運んで貰っているのヨー。綺麗デショ」
リュートにしてみれば、正直、園芸なんて、まったく興味のない事だったのだが、それでも、この部屋に咲く花々には、心を癒される。その様子を感じ取ったのか、ロンがさらに、親しげに言葉を掛けてきた。
「この別荘、外に、小さな温室もあるんだけど、爺やさん、そこは使わせてくれないのヨー。ケチよネー」
「当たり前だ。誰が、お前を庭師として雇った。お前はあくまで捕虜なんだから、その辺り、弁えろ。いいから、座れ。話があるって言っただろう」
咲き誇る花々から、目を逸らすと、リュートは、部屋の小さな椅子に腰を下ろして、ロンに対峙した。そして、おもむろに、一言、核心を突くような鋭い問いを投げかけた。
「――お前、何を企んでいる」
その問いに、ぴくり、とロンの頬が反応する。
「……企むなんて、人聞きが悪いのネ。ワタシは、ただ、アナタの言うとおり、ここで竜の調教をしているだけなのネ」
それでも尚、ロンは、しれっ、とシラを切るような言葉を返してきた。それに、リュートの厳しい指摘が、さらに重なる。
「それがおかしいって言ってるんだ。どうして、そう、あっさり、僕に竜の調教方法を教える? それは、お前の国の最重要機密じゃないのか?!」
「どうして、そう思うのネ?」
「お前、言っていただろう。騎竜技術が、かつて奴隷だったお前達リンダール人を、大帝国の主に押し上げた、と。裏を返せば、それが他の民に漏れたら、それは、お前達の地位の崩壊を意味する、ということだ。他の民族が竜を操り、お前達と同様の軍事力を身につけたら……? 答えは、自ずとわかるな?」
この問いに、ロンは即答しない。しばらく、目を伏せて、沈黙したあと、何か諦めたように、はあ、と溜息を吐き出した。
「いや、聡いお兄サンなのネ。ちょっと、侮りすぎたかナ。……詳しいことは、今はまだ、言う時期ではないのネ。ワタシの真意は、今のアナタには、到底理解出来ないものなのヨ。ただ、一言、言うならば、『河の流れは、絶対に逆流しない』と、いうコト。それ以上は、例え、拷問にかけられたって言えないヨ」
そう言ったロンの目は、リュートが今まで一度も見たこともないほどに、怜悧な光を宿していた。とても、あの調子のよい異国人の顔からは、かけ離れた、一人の男としての顔……。
それに、リュートの顔も、釣られるようにして、歪む。
「……お前も、大したタヌキのようだな。いいだろう、好きにしろ。お前が何を企んでいようとも、僕はお前をここから出す気はない。今居る全てのリンダール人を血祭りにあげた後、お前を王都に連れ帰って、最後のリンダール人として、衆人の前で処刑してやる。それまでは、園芸でも、調教でも、好きにするがいい」
告げられた自分の無惨な運命に、ロンは小さく嘆息する。そして、また、いつもとは違う含むような目をリュートへと向けて、不敵に告げた。
「出来ないのヨ、そんなコト。例え、今いるサイニー将軍が死んだって、次は、他の騎士団が来るだけ。暗黒騎士率いる第一軍、そして、蟷螂将軍率いる第三軍。帝国の軍事力を舐めちゃいけないのヨ」
「……帝国第一軍、そして、第三軍だって?」
「そうヨ。暗黒騎士ガイナス率いる一軍は、あのサイニー将軍の第二軍より、強いのヨ。それに、今は、帝都の守りを固めている女将軍の三軍だって、馬鹿にできないのヨ」
その最後の女将軍、という単語に、リュートは一人の女の名を思い出す。
「も、もしかして、女将軍、ミーシカ・グラナのことか?」
それは、かつてリュートの父が故意に逃がした将軍の名だった。その問いに、ロンの首が縦に振られる。
「よく知ってるネ。そうヨ。あの紅玉騎士団団長であるエリーヤ姫の母君なのネ。ほら、名前にも入っていたデショ? エリーヤ=ミーシカ・ハーン。彼女は、先帝と女将軍の間に産まれた庶子なのネ。女将軍は、正妃どころか、側室でもないカラ」
「え? しょ、庶子? そ、そう言えば、異母妹だと言っていたっけ。そ、そうか……。あの破廉恥女が、将軍の娘……」
「破廉恥、てネ。いい加減、忘れることヨー。でも、将軍は、あの姫に輪をかけて、凄い女性なのネ。何と言っても、『雌蟷螂』とあだ名されるくらいダシ」
「……蟷螂?」
「そうヨ。知らないの? 雌蟷螂は、交尾の後、雄を食べてしまうのネ。そこから付いたあだ名ヨ」
言われた虫の習性に、リュートはその身をぞっと、竦ませる。まさか、本当に男を食べる、ということはないだろうが……。
「……そんな女に、会いたくないものだな。しかし、お前、よくそんな帝国の情報、ぺらぺらと喋れるな。忠誠心はないのか」
「いやネー。言ったでしょ? ワタシ、生きていたいのヨー。死ぬのは、絶対に、ごめんナノー。忠誠心なんて、腹の一つもふくれないのヨー」
少しも悪びれた様子なく、ロンは、そう言いながら、ぺろりと舌を出した。とても、あの厳格なサイニー将軍の蒼天騎士とは思えぬ態度だ。
……この男、本当に、何かあるな。
動物的、とも言える勘が、リュートに、目の前の男に対する警戒心を強めさせていた。それと同時に、この男の器を試してみたい、との思いも同時に抱く。
「さて、じゃあ、聞こうかな。これから、竜騎士達は、どう出る? ん? 命が惜しいなら答えられるだろ?」
リュートのその試問に、ロンは、しばし沈黙する。
……南部熱の脅威も治まった。疫病で失った兵の補充も、そろそろ本国から届く頃だろう。そして、この疫病での休息を利用して、かなりの量の兵糧も備蓄出来たに違いない。
そろそろ動いても良い頃。だが、何処を攻めるべきか。
現在、リュートの率いる国王軍の主力は、ルークリヴィル城及び、その周辺の城に展開。だが。そこで、このリュートという男と直接ぶつかるのは得策ではない。
何故なら、この男は、あの地が聖地だということを知っている。もし、また、あの城に攻め入れば、紅玉騎士団を退かせたあの手を使って来るに違いない。あの……神を人質にとる、という手段を。……ならば。
「……平原ネ」
もし、自分が将軍だったら、と仮定して行ったロンの思考は、その一言に集約されていた。
「城攻めは得策ではないとすると、取るべき手段は一つ。平原での総力戦。丁度、エルダーの北にある平原が、それに相応しい場だと思うネ」
ロンの導き出したその答えに、ゆっくりとリュートが首肯する。
「そう。僕も、そう思っていた。ちまちまと城取合戦するのは、僕も将軍も性に合わないだろう。全ての兵力を結集させた、何もない平原での総力戦。それこそが、この半島の覇権を決める、最後の戦いだ」
「……最後、ネ」
リュートが発したその言葉に、ロンの嘲笑めいた台詞が被せられる。
……確かに、最後は、最後だろう。リュートと鉄人。二人の英雄が雌雄を決する戦い。おそらく、そのどちらかが破れ、そして、死ぬ、と言う形で会戦は終わるに違いない。
だが、どちらが勝っても負けても、まだ、戦争は終わりはしない。
この地を聖地と定め、そして、奴隷貿易のうまみを知っている帝国人がいる限り、この地には平和はやってこない。その永遠とも言える闘争を、勝ち続ける覚悟はあるのか……?
そう値踏みするようなロンの視線に、リュートは答えない。
おそらく、ロンの考えていることなど、この男もとうの昔に考えているだろうに、その答えを言おうとしないのだ。ただ、静かに、窓から見える海を遠く見つめて居るのみである。
「そう言えば、お兄サンは、ここに、休養を取りにきたのだったのネ。ワタシとこんな重い話、しているよりも、のーんびりと自然でも眺めていたらいいのヨー。ほら、この花も、綺麗でショー?」
先までの真剣な面持ちから一変、ロンはまるでリュートを励ますかの様な明るい笑顔で、そう提案をしてきた。抱えて見せる彼の腕の中には、植えられた花々達。赤、白、黄色。様々な色と、かぐわしい香りで、人の心を癒してくれる。その部屋一面の花の中の一つ、窓辺に置かれた鉢植えに、ふと、リュートの目が留まった。
赤い大輪の花。
花には詳しくないので、何という種類かは分からないが、その花の持つ、独特の艶やかさが、心を捕らえて離さない。
「それ、気に入ったノ? なら、あげても良いけど、それ、ちょっと特殊なのネ」
「特殊?」
「それ、徒花ヨー。花は咲かせるけど、実は付けないのネー。だから、その美しさは、それ一代限り」
……一代限り、か。
その花の運命に、何かを感じながら、リュートはそれを窓辺へと戻した。これから、また戦争が始まろうと言うのに、花を愛でている暇などない、とそう思ったからだ。
「いいノ? じゃあ、ワタシから、一つお願いあるんだケド。また来るときに、新しい植物、持ってきてほしいのネ。ワタシ、基本、この部屋に監禁状態だから、この部屋の花々も可哀想なのネ。こんな狭い中で交配が進むと、弱ってしまうシ」
「弱る? どういうことだ?」
「病気に弱くなってしまうのネ。例えば、体の弱い両親から生まれた子供二人は、体が弱い可能性が高いデショ? その子供二人が交配して出来た子は、もっと弱いのネ。植物も同様ヨー。だから、常に、新しい風を入れてやらなければならないのネ」
「……狭い部屋に、入れていたら、弱る……。新しい、風を……」
ロンの部屋から去っても、リュートの耳には嫌にその言葉が付いて離れなかった。
そのままの足で、別荘の外に出て、地平線の見える海沿いをとぼとぼ歩く。と、言っても小さな小島だ。少し歩けば、一周してしまう。
「……新しい風、か」
立ち止まって、腰を下ろした砂浜の上で、ぼそり、とリュートが一人ごちる。
――関係、ないか。
ロンの言わんとしていることは、分からなくもなかった。
だが、今の自分に、そんな事、考えている暇はない。目下、敵軍が迫ってくるだろう事は明らかだし、それに、この自分の身だ。
本当に、食べられないのだ。
そして、それが何から来ているものなのか、痛いほど分かっている。
「……レミル」
小さく、名を呼んでみる。
兄の名を。かつて、自分の生きる意味だった男の名を。
本来ならば、自分の身は、あの雪の戦場で、彼と共に果てるべきだったのだ。生きる意味をなくして、それでも生きてきたのは、ひとえに復讐の為でしかない。では、その先は……?
ただ、闇があるだけだ。
暗くて、静かで、そして、穏やかな闇があるだけだ。
光なんて、見えない。ましてや、新しい風なんて。
――『復讐を糧にしていては、やがて破綻するぞ』
誰かに言われたその言葉が、嫌に、頭に残っている。
「……破綻、か。もう、……とっくに、しているっていうのに……」
自嘲げに呟いた自分の言葉が、やけに、突き刺さる。そして、いや、という程、思い知らされる。
自分という人間のいやらしさ、そして、弱さが。
おそらく、もう、この体は生きることを欲していないのだ。だから、糧を取ることすら、拒絶している。
だが、まだ、頭は動く。
……復讐の為に。あの、自分から生きる意味を奪っていった敵軍を倒す為に。
「絶対に、勝つ。勝って、竜騎士達が、この国に手出しなど出来ないように、全て首を刎ねて、送り返してやる」
それが、済んだら。
「それが、終わったら、きっと、会いに行くよ。父様、母様。……そして、レミル」
久しぶりに取りだした、お守りが、酷く重い。
そして、自分の両肩にのし掛かった全ての運命も。
――すべて、すべて、もう、捨ててしまおう。もう、僕は……。
「疲れた……」
ごろり、と四肢のすべてを投げ出した砂浜が、酷く熱くて。そして、寄せては返す波の音が、嫌にうるさくて。
焼かれて死んでいった『南部の風』の戦士達の顔が。そして、雨の中死んでいったニルフ達の顔が。
痛いほどに、その脳裏に蘇る。
もう、こんなの、沢山だ、と。
本当に、そう、思った。
「――んん……」
それから、どれくらい経ったのだろうか。分からないほど、熟睡をしていたらしい。気が付けば、辺りは、すっかり夕暮れだった。
この炎天下、砂浜で昼寝をするなんて、自殺行為にも等しい。一体どれだけ自分は、日焼けしてしまったのか。よく、まあ、脱水症状をおこさなかったものだ。
そう、思いながら、リュートが、体を起こしてみると。
「あ、おはようございます、リュート様。もう、こんばんは、ですかね」
そこにはそう言って微笑む、黒羽の少年の姿があった。その手には、リュートに向けてゆっくりと振られる扇。そして、頭上には、日よけの為の簡易天幕がかけられていた。
「クルシェ……。これ、お前が……?」
「天幕は、爺やさんとアーリさんが作ってくれたんですよ。リュート様、起こすと可哀想だ、と思って。どうです? 少しはゆっくりお休みになりましたか?」
その言葉もそうだが、リュートは何よりも、ずっと側に寄り添ってこの扇で仰いでくれていたのであろうこの少年こそが驚きだった。昼から、ずっと、何時間もこうして、側にいて、夏の暑さから自分を守ってくれていたのだ。
「クルシェ。どうして、お前、そこまで……」
「だって、僕がお役に立てることと言ったら、これくらいしかありませんから」
そう言った少年の顔が、酷く切なげで。そして、その気持ちが、あまりにも純粋で。
何故だか、……どこかに忘れてきたと思っていた感情と、涙が、今にも溢れそうで、堪らなかった。
「あ、リュート様。爺やさんから、おいしいお茶菓子教わったんですよ。ほら、約束通り、食べて下さいよ。あ、もう、夕食の時間かな」
砂を払う間もなく、クルシェはリュートの手を取って、ぐいぐいと、別荘の方へその体を引っ張っていく。
暖かい灯りの付いた小さな食堂。そしてそこから流れてくる、おいしそうなスープの匂い。
「リュート様、今日のスープは絶品ですぞ。魚介類をふんだんに使ってダシを取った、私の自慢の一品です」
「隊長。いっちばんおいしいとこ、あんたによそってあげますからねー」
「僕も手伝ったんですよ。絶対においしいに決まってます。ね、リュート様」
暖かい食事に、暖かい言葉。
それが、何よりも嬉しくて、そして、何よりも、哀しい。
――頼む。頼むから。
三人の愛情がたっぷりと詰まったスープに口を付けながら、リュートはずっと、懇願し続けていた。
……頼むから、これ以上、僕に優しくしないでくれ、と。
「お願いがある、というから、何かと思って来てみれば……。何よ、その話は!!」
一方、半島最南端に位置するエルダーでは、女の甲高い声が、夕暮れの城に響き渡っていた。
夏を迎えたこの城も、ようやく、南部熱の猛威から解放され、かつて厳重になされていた城への入城制限も、すでに解かれていた。その城に、赤毛の騎士、エリーヤと、紅玉騎士団が呼び出されたのは、実に数ヶ月ぶりのことだった。
もちろん、彼女と紅玉騎士団も、リュートからお土産に貰った病気は、既に癒え、こうして、将軍相手に、怒鳴り散らす程に、見事に回復を見せている。
「サイニー! もう一度聞くわ!! 次の会戦に、私たち紅玉騎士団は、一切の手出し無用、とは一体何のつもりよ!!」
きゃんきゃんと吼えるような女の声が、尚も、エルダー城の主室に木霊する。それに、同意するように、赤毛の女の後ろに控えている女騎士達の首も、次々と縦に振られた。
これに対し、主室の主人が座るべき椅子に、悠々と腰掛けた鉄人サイニーは、その眉を揺るがせることすらせずに、言葉を返す。
「何のつもりも何も……。それは、こちらの台詞です。我らが、動けぬ間に、好き勝手してくれましたのは、何処のどなたでしたか」
「はん! 何よ、あんたが、敵の計略に簡単に引っかかるなんて馬鹿な真似しているからじゃないの! 動けなかったのは誰の責任よ、誰の!!」
実際、これはかなり痛いところをつかれているのだが、将軍はその内心を些かも、顔には出さない。ただ、粛々と、諭すように、対峙する赤毛の女に告げるのみだ。
「貴女とて、素敵なお土産をあの男から貰ったとか。お互い様でしょう。とにかく、此度の会戦は、私と、そして、その指揮下にある蒼天騎士団、並びに、第二軍の戦い。貴女の紅玉騎士団の出る幕ではない、ということです。お分かりになったら、お早く、本国に戻られる事です。もう、ご病気は治ったのでしょうに」
「……本国へ帰れ、ですって? まさか! 元老院ね?! 元老院から、お前の所に圧力がかかったのでしょう?! そうなのね、サイニー!!」
姫のその指摘に、将軍は、答えない。代わりに、将軍の脇に控えていた男騎士が、姫とその後ろの女騎士達に向かって、通告をする。
「これ以上勝手な真似をすれば、いくら、貴女方とは言え、軍法会議にかけますよ。まったく、この地に来たこと自体、迷惑な事なのに、いつまでそのでかい尻をここに埋めておくつもりやら」
その暴言にも近い台詞に、一気に女騎士達がいきり立つ。それを察して、サイニーが、騎士を窘めるが、彼の配下の騎士達は、その口を閉じようとしない。今までの鬱憤を晴らすかのように、女達に向けて、侮辱ともいえる言葉を吐き出し始めた。
「まったく、女の分際で武器を取って戦おうなど、本当に身の程知らずとしか……。確かに、あの女将軍自身の腕は認めますが、やることなすこと、我ら男には、到底理解出来ぬことばかり」
「仕方ないことでしょう。女は頭ではなく、子宮で物を考える、と申しますからな。言ってしまえば、動物的、とでも言いましょうか」
「その子宮も使わぬ、となると、一体女の価値は何なのですかなぁ。子も産まぬ、家事の一つもせぬ、そして、何か変なプライドでも抱いて男の相手すらせぬ女など、一体何の価値があるのやら」
この暴言の数々には居合わせた女騎士達も堪らなかったらしい。その顔に、次々と青筋を立てて、その腰にかかった得物へとその手を伸ばす。
「――お止め!!」
そんな女騎士達を一喝したのは、意外なことに、一番罵られている、と思しき、赤毛の姫だった。
「ひ、姫様! ああまで言われて、どうしてですか! 我ら女が……」
「お黙り!! お前達は下がっておいで!!」
姫のその命を受けて、流石の女達も引きさがらずを得なかったらしい。ただ、一人、副団長のキリカだけが、不思議な笑みを浮かべている。そんな中、姫がもう一度、将軍に対峙して問う。
「会戦はいつ? それを見届けたら、喜んで帰るわ。お前の言う事でも、元老院の言う事でも、何でも素直に聞いてあげる」
その何か含んだような紅い瞳に、将軍の鉛色の鋭い視線が返される。そして、一息ついた後、おもむろに将軍は答えた。
「……秋。こちらもまだ、南部熱の後処理や、兵の補充が済んでおりません。帝国に要請したところ、ガイナス殿の平定遠征の終わるであろう秋には、兵の補充ができる、との話でしたので」
「そこまで待てば、相手もそれなりの力を蓄えるのでなくって?」
姫のその鋭い指摘に、またも将軍は沈黙する。そして、意味ありげにただ、滅多に緩めることのない頬を緩めて見せた。
その仕草に、姫は、敏感に彼の内心を悟る。
……待っているのだ。あの、男を。
あの、獅子のような男が、全ての準備を整え、自分の前に現れるのを待っているのだ。将軍として、ではなく、一人の武人として。
「馬鹿な男。……いいわ、秋ね。それを見届けたら、私は本国へ帰るわ。元老院にも、そう告げなさい。丁度、帝国も涼しくなりますので、喜んで帰ります、とね」
それだけ言うと、姫は、その自慢の赤毛をふわり、と翻して、主室を後にしていった。勿論、何か、まだ言いたげな女騎士達も引き連れて、だ。
「秋までおるつもりですか。まったく、あの蟷螂の娘は、何を考えておるのやら」
吐き捨てるような騎士のその言葉も、将軍には届いていないらしい。これ以上、彼女や紅玉騎士団にかかずらっている暇はない、とばかりに腰を浮かせると、鉄人は、来るべき会戦が開かれるであろう北の平原にその目を馳せた。
「待っているぞ、白羽の戦士。……一人の男として、お前を」
そして、その腰のサーベルを勢いよく引き抜くと、何かしがらみでも断ち切るかのように、それを勢いよく斬り上げた。そして、一言、呟く。
「……来い! 全力でな」
「姫様! 姫様!! 悔しくないんですか! あそこまで言われて! 何よ、男ってだけで威張りくさってさ! 一体誰の股から生まれたか、分かってないのね!!」
サイニーとの会談を終え、駐留地であるエルダー近くの古城に戻った紅玉騎士団の面々が、堪らない、とばかりに、団長であるエリーヤに詰め寄った。勿論、この騎士達の怒りが分からぬエリーヤではないが、その表情はどこか楽しげな色までも帯びている。その様子に、さらに、居たたまれぬのか、騎士達は次々と彼女に思うところを訴えかけた。
「以前の大森林の平定遠征の時だって、そうでしたわ。あの暗黒騎士に全ておいしいところは持って行かれて! 私たち、どうして女というだけで、こんなに不遇を受けなければならないのでしょう?」
「そうです! 私たちだって、男同様に戦っておりますのに。一体、我々が何の為に……」
「おー止めっ。そんな事、ここで愚痴ったって、仕方がないでしょう。男というのは、基本、馬鹿なのだから、目に見える形で見せてあげないと」
返されたあまりにも不敵な台詞に、女騎士達は一瞬言われた意味が分からず、硬直する。そんな中、一人の女の高らかな笑い声が場に響き渡った。
「えーえ、そうですわ。殿方には、明確な形で女の素晴らしさを教えて差し上げるのが、一番。うっふふ、楽しみですわねぇ」
そこには、いつもの上品さに、さらに増した品の良さで微笑むキリカの姿。その姿に、すぐに他の女騎士達が、ぞくり、とその身を竦ませた。何故なら……。
「ええ。私、ああいう殿方だーい好きですの。ああいう、女に聖母か娼婦の役割しか与えられない馬鹿な殿方の鼻を、ぽーっきりと折ってやるのがね」
そう、この女が上品に微笑む事。それはつまり、この女の逆鱗に触れた事を意味していることだったからだ。
「あははははっ。流石、『男殺しのキリカ』ね。楽しみだこと」
「おーほほほほほ、姫様。この私を娼婦扱いしたい男など、そのプライドもナニも、ベーッキベキのボーッキボキに粉砕してあげましてよ。えーえ、案外殿方なんて、一度その鼻っ柱折ってやれば、脆いものですわ。それが、男は、女の上に立って当然、と思っていれば、いるほど、ね。おーほほほほ」
この女の言う男の鼻っ柱を折る、というのが、肉体的に、ではなく、精神的に、というのが、尚更に怖いのだ。そんな彼女の前で、ばさり、と輝く赤毛が掻き上げられた。そして、にや、と口元を歪めて、姫は不敵に告げる。
「……秋の会戦。それまで、この夏のバカンスを楽しんでおくことね。……サイニーも。……そして、白羽の美形ちゃん、リュート君もね」
――あれは……。
すっかり食事を終えて、片付けを爺やに任せたクルシェは、一人、もう暗くなった砂浜を歩きながら、考えに更けっていた。
昼間に、この砂浜で見た、あのリュートの姿。そして、あの城で、軍医と話していた時の台詞。
どれをとっても、不安でならない。
「リュート様は、もしかして……」
呟かれた台詞から導き出される答えが、あまりにも虚無的で、口にすれば恐ろしいことが起きそうだった。だから、敢えて口にはしない。いや、……するべきでない、英雄の望んでいるであろう行く末。
それは、どうしてもクルシェには受け入れられるものではなかった。
自分に、最初に自信を与えてくれたあの男が。そして、自分を弟のように慈しんでくれているあの男が。
この世から、消えてしまうことを望んでいるなんて――……。
「させない。……させるものか」
決意するように、クルシェは小さく呟く。
そして、満天の星空を仰ぎ見て、さらに、きつくその唇を噛みしめる。
「例え、誰がリュート様を冥府へと引きずりこもうとも、僕が、それを阻止してみせる。僕は、非力な子供だけれども、それでも、僕は守りたい。リュート様を、全ての災厄から、守りたい」
――それが、僕なりの、あの人への恩返しだ。
一人の男として、ようやくクルシェは生きる場所を見つけていた。実の兄の側ではなく、リュートという一人の、寂しい男の側に。
「ごめんなさい、兄上。僕は、貴方の側には、きっと帰れません。僕は……」
……あの人の側で生きていきます。
そう決意するように、クルシェは、暗い地平線の彼方を見つめた。
ふと、その海の端に、何か小さなものが動いた。丁度、方角からすると、半島の方からだ。その影は、見る間に大きくなると、ばさばさという羽音を立てて、こちらへと近づいてくる。暗くて、よく分からないが、その羽音から、有翼の民であることは間違いない。
しばらくすると、その影の方から、クルシェの存在に気づいて、声をかけてきた。
「おお! クルシェじゃねーか。俺だよ、俺。リザ!」
「リザ! どうしたの? こんな夜に。もしかして……」
現れた黒犬リザの慌てぶりに、クルシェは即座に、何か嫌な予感を感じ取る。だが、よもや、竜騎士達の侵攻か、と疑った彼の心配とは裏腹に、リザは意外な緊急事態を告げていた。
「――来るんだよ! 王子様……いや、王太子様が第一軍と一緒にルークリヴィル城に来るんだってよ!! そんで、あの豚が、すぐに隊長に帰ってこいって……」
「な、何だって? よ、ヨシュア様が……」
クルシェの脳裏に、かつて一緒に闘技場に連れて行かれた銀髪の少年の姿が思い起こされる。あの、高貴だが、少々世間知らずで、そして、ようやく自分の成すべき事を自覚しだした、あの、王子が……。
「それがよ! あの嫌味な俺の元上司のラディルと、北の大公になったエイブリーってヤツも一緒だってよ! なーんか、嫌な予感がするぜぇ!」
リザの言う通りだった。
この時期になってのヨシュアの初陣。そしてその後ろには、かつて、リュートにこてんぱんに打ちのめされた二人の大貴族。これが、凶兆でなくて、何だというのだろうか。
……どうしてだ。
クルシェは、再び、地平線をきつく睨め付ける。そして、哀しげに、一言、紡ぎ出した。
「どうして、運命は、あの人を一日たりとも休ませてくれないのか……」
満天の星空の下、その呟きをかき消すように、砂浜に大きく波が打ち付けた。そして、また、寄せては返す、大きな波。
それは、まるで、これから起きる会戦を、暗示するかのような、うねった、暗い、暗い波だった。