第六十二話:内憂
――『そっちこそ、舐めてんじゃねえぞ。こっちは、半島で山と死体積んで来てんだよ。深窓育ちのお嬢様の分際で、この僕に勝てるとでも思ってんのか。喧嘩は、相手見てから売りな、くそばばあ』
脳内に響いた男の声が、心地の良い微睡みを、破壊していた。
飛び起きてみれば、何と言うことはない。いつもの部屋、いつもの午睡。何の、変哲もない、自分の最も安心出来る牙城である。
にもかかわらず、エミリアはその身に、びっしりと汗をかいていた。決してこの夏の暑さのせいではない、嫌な汗を。
――また、あの夢だわ。
誰も居ない後宮の王妃の間、エミリアはその身を午睡用のソファからもたげて、小さくそう漏らす。そして、その碧の瞳を、もう一度、誰かの存在を確認するかのように、部屋中にこらした。
……いない、と確認の言葉が、口をついて出る。それと同時に吐き出されたのは、何処までも深い深い、溜息だった。
あの、冬の舞踏会の夜からだ。
王妃であるエミリアの心を蝕む夢を見るようになったのは。それは、自身の身が保証されたあの御前会議の後でも、些かも変わってはいなかった。
あの日、この部屋を訪れた亡霊が。この部屋で、自分をあざ笑った貴公子が。そして、この部屋で、自分を完膚無きまでに叩きのめしたあの猛獣が。
心を今も、食い荒らして、食い荒らして、自分から睡眠という名の安らぎを奪っているのだ。
「馬鹿なこと……。あの男は、半島で戦争をしているというのに……」
その事実を知っていても、休まらぬのは、少し前に届いたあの男の噂のせいだ。
エミリアは、午睡のせいで乱れた髪を直さんと、鏡台に向かって、一人髪を梳き始める。いつもなら、女官にやらせる所だが、今は、そんな気分ではない。今、彼女らを呼びつけるだけ、不愉快、というものだからだ。きっと、あのお喋り雀共は、たわいない宮廷の会話として、あの忌々しい男の事を話題にして来るに違いないのだから。
――『王妃陛下、お聞きになりました? あのリュート様、たったお一人で、女騎士団を退けてしまったそうですわ。一体どうやったのか、詳細は知らされておりませんけれど、本当に、英雄の名に恥じぬご様子。流石、陛下の甥御様でいらっしゃいますねぇ』
それが、おべっかのつもりで口にしてくるのだから、余計に腑が煮えくりかえる。自分に気に入られたいなら、こう言えば良いのに。
――『あの甥御さん、早く戦死なさるとよろしいのにね』
そんな機知のある女官など、居はしないと分かっていても、エミリアは、自分ではない他の人間の口から、それを聞きたかった。何故なら……。
「――どいつもこいつも、リュート様、リュート様!! あんな男に騙されて、馬鹿じゃないの!!」
自然、溢れた嫉妬の念が口をついて飛び出した。それは、エミリアが初めて抱いた感情ではない。かつて、自分の姉だった女に、常に抱き続けていた感情……。とても、一国の王妃が抱くべきではないような醜い感情だ。
その感情を心に抱けば抱くだけ、鏡の中の顔も醜く歪む。かつては、花のようだ、と謳われた美貌だったのに。それが、どうして、こうなってしまったのか。
エミリアは、内心でそう自問すると、これ以上自分の顔を見たくない、とばかりに、鏡台から目を背けて、立ち上がった。そして、何かに目を馳せるようにして、小さく呟く。
「……あの男が居る限り、私は醜いままよ」
確かに、自分の身は会議であの男の手によって保証された。そして、その後の王子ヨシュアの立太子の儀も、つつがなく執り行われた。それでも、尚、不安で不安でならない。
……あの、獅子の様な男が、いつまた、牙を剥くか、分からない、ということが――……。
「あの男、どうにかして、失脚、いえ……」
と、エミリアが呟いた時だった。
「王妃陛下。甥御様が、お目通り願っております。如何致しましょう」
甥御、という嫌な単語が、一瞬耳に付いて、その身を竦ませたが、すぐにエミリアは、考え直す。あの、忌々しい甥が、今、こんな場所に現れる訳がないのだ。こんな王宮に、へらへらと来るのは、もう一人の甥――あの、馬鹿な寄生虫の事に違いない。
エミリアは、そう判断すると、その顔にいつもの少女の微笑みを湛えて、答えた。
「ええ。よろしくってよ。今、行きますから、エイブリーには、待っていて貰いなさい」
その言葉通り、王宮の一室で、待ち受けていたのは、肩までの銀髪が印象的な貴公子だった。つん、と上を向いた鼻に、つり上がった一重の瞳。エミリアの兄である、北の大公と同様、銀狐、と揶揄される、エイブリー・ガーデリシュエンだ。
「お久しぶりです、叔母上。御前会議以来でしょうか。いや、あの時は、素敵な言葉に、思わず驚いてしまって、今までこちらにお伺いも出来ずに、失礼を致しました」
おそらく、素敵な言葉、とは、先だっての『寄生虫』発言を言っているのだろう。あの、驚き、そして、情けのない顔。思い出すだけで、エミリアの口の端に笑みがこぼれる。
「あら。私としては、ちょっと洒落た宮廷風の会話として、言っただけだったのに、そんなに驚いたの、エイブリー。まあ、いやぁね。貴方ほどの貴公子が。うふふ。それで、今日になって、ご機嫌伺いにやってきたのは、一体どうしてかしら」
夏の日差しを遮るために、全ての窓に日よけが掛けられた一室、召使いを全て下がらせて、王妃は甥に、上品な嫌味を交えて問う。それに対して、その嫌味を楽しむかの様な甥の声が返ってきた。
「ははは。いやいや、僕も貴公子としては、まだまだですよ。出来ればね、叔母上の様な品と懐の深さを身につけたい物です。……何と言っても、これから大公になろうという身ですからね」
最後の言葉に、ぴくり、と王妃の眉が反応する。
「……大公? 貴方が、大公ということは、お兄様は一体どうしたの」
「おや、ご存じない? 御自分の兄の事だというのに、叔母上は案外冷たいのですねぇ。父上はね、あの会議の後、司法長官にたっぷり絞られて、暫くの自宅謹慎を仰せつかっておるのですよ。そのみっともない処分に、父上は、いたく意気消沈されてしまいましてね。すっかり気弱になって、早く北の地で隠居でもしていたい、と仰るのですよ」
「なんですって? で、では……」
王妃の問いに、目の前に座る甥の目が、にやり、と嫌らしく笑った。
「はい。必然、長男である僕が、北の大公位を継ぐ事になりますね。いやいや、いずれは、とは思うておりましたが、よもやこんな形で譲位されるとは思いませんでした。それに、あんなみっともない父の姿を見せられる事もね……」
甥は、そこで言葉を句切ると、その薄い唇を笑わせながら、何か意味ありげに叔母に詰め寄った。そして、相も変わらぬ、嫌らしい狐の目で、言葉を繋ぐ。
「これも、全ては、あの男のせい、ということでしょうか」
その言葉に、王妃はしばし沈黙する。そして、甥の顔をまるで値踏みするように、眺めながら、問いを返してやる。
「あの男のせいだから、なんだと言うの?」
それに対して、今度は、甥の口から高笑いが、返ってくる。
「はははっ。叔母上、嫌だなぁ。そんなに僕の腹具合を探らないで下さいよ。同じ穴の狢じゃないですか。ここは、素直にいきましょうよ。ね? 叔母上だって、あの男、忌々しいと思って居るんでしょ? だから、僕が、何とかしてあげましょうかって、言っているんです」
「……何とかですって?」
言いながら、王妃の顔には、あざ笑うような笑みが浮かんでいる。この王妃である自分を屈しさせた男を、馬鹿な寄生虫如きが、どうできると言うのか。どう考えたって、その言葉は子狐が獅子に唾を吐いて見せますよ、と粋がっているようにしか聞こえない。
そんな叔母の嘲笑を、予期していたかのように、甥は、頷いた。
「まあね。僕だって、一人じゃ、こんな事、言い出しません。でも、考えても見て下さい。あの男を面白く思わない者は貴方や僕だけじゃないんですよ? 一人では敵わなくっても、僕らが手を組めば、流石のあの男も、終わりなんじゃないですかね?」
それは、実に魅力的な提案だった。だが、王妃は、即答しない。駆け引きこそが、この宮中で影に君臨してきた女狐の真骨頂とでも言うべき常套手段だったからだ。
「嫌だな、叔母上。そう警戒しないでくださいよぉ。一人はね、貴女もよくご存じの男ですよ。知っているでしょ? 近衛隊長、ラディル殿。あの方も会議でえらい恥をかかされた挙げ句、かつての部下を奪われたんですから。しかも、聞けば、その奪った部下、早々と殺されたそうで。自分への当てつけに、かつての部下を手駒にでもしたか、と、彼、えらくご立腹でねぇ。是非とも、一緒にあの男を潰してやりたい、と息巻いておられるんですよ」
「……ラディルが……。はん……、あの男も、負け犬の分際で。一体、何が出来ると言うのやら」
告げられた協力者の名に、王妃の鼻が鳴らされる。
この銀狐に、あのナルシストの近衛隊長。確かに、身分は申し分ないが、どう考えたって、器量が足りなさすぎる。あの、男に対抗するには、だ。
そんな王妃の内心を悟ったかのように、甥は、さらに、意味ありげにその顔を寄せてきた。そして、叔母の耳に、さらに魅惑的な台詞を語りかける。
「それからね、もっと素晴らしい協力者がいるんですよ。あの男の、アキレス腱、とでも言うべき物を熟知している人物が、ね」
「……それは、誰?」
思わず、王妃は、先の言葉を催促していた。駆け引きをするなら、本来ならこんな足下を見られるような台詞、口にすべきではないが、それでも、王妃はその先を聞かずにはおれなかった。
「叔母上と、少々因縁がある人物ですよ。まあ、実際に会って頂いた方がよろしいでしょう。おおい、君、入ってきたまえ」
……自分と、因縁のある人物ですって?
王妃がそう自問している間に、一人の人物が入室をしてきた。
「お初にお目に掛かります、王妃陛下」
そう上品に挨拶した声は、酷く愛らしい、……そう、紛う事なき、女の声だった。顔を上げたその姿も、まだ、若く、そして、可愛らしい女だ。
だが、王妃には、どうしても、この女が誰なのか、思い出せない。女官でもなし、どこかの貴婦人でもない。自分と因縁があると言うのが、さっぱり分からないのだ。
そう戸惑う王妃に、甥が補足するように、女を紹介する。
「叔母上、彼女はガリレア大学の学生さんですよ。初めての平民出の女学生として、この春から、勉強しておられるんです。いや、しかし、彼女には、看護婦としての実践経験があるそうで、並の男達より遙かに、医学に詳しいとか」
「……じょ、女学生ですって?」
そこまで言われても、王妃には、思い当たる所がない。一方で、目の前の女は、とても、そんな大学の男が敵わない医学知識があるとは思えぬほどに、まだ、幼い雰囲気を持っている。ただ、この王妃である自分の前で、萎縮せぬその態度は、大したものだと評価するが……。
そう戸惑うような王妃の目線に、女がくすり、と笑って、口を開いた。
「分からぬのも、無理はございませんわ。陛下、シン・カラーズ、という医者をご存じではありません?」
言われた名に、ぞくり、と王妃の背筋が震えた。それは、他ならぬ、彼女が命じて、スパイを続けさせていた男の名だったからだ
「どうして、貴女が、その名を……」
「私、シン・カラーズの娘ですの。医者を志して、この王都にやってきましたのよ」
「む、娘ですって? あ、あの……クレスタに遣った男の、娘?」
「はい、陛下。父から全て聞きました。父はその昔、この王都で、陛下と懇意にさせて頂いておりましたとか。私も、父に倣って、是非とも王妃様とお近づきになりたいと思って、このエイブリー様にお願い致しましたのよ。陛下、どうぞ、よろしくお願い致しますね。私、きっと貴女のお役に立てると思いますわ」
その、女の浮かべた笑みが、ただのおべっかの為の笑みでない、ということは、明確である。何か、含むような、企むような、そんな目線だ。そんな目を、この、王妃である自分に向けてくるなんて――……。
「面白い方ね。で? どのように、私の役に立ちたいと言うの?」
その言葉に、女は、さらなる笑みを浮かべて、王妃に近づいた。そして、一礼の後、王妃の側によって、耳元で、そっと、魅惑的な言葉を投げかけ始める。
「私、医学生ですのよ。王妃様のご健康を取り戻すお手伝いをしたいと思いまして。そうですね、例えば、今、王妃様は、寝不足ではございません? 少々、お顔の色がお悪いようにお見受け致しますの。……その原因を、私が取り除いて差し上げようと思いまして」
「原因を、……取り除く、ですって?」
「はい。エイブリー様から、色々と聞きましたわ。とっても厄介な疫病神と御出会いになられたとか。ええ、私も、同様ですの。あの、疫病神には、痛い目に遭わされましたわ。でも、私、知っているんですのよ。あの、疫病神の弱点」
ざわり、と王妃の心が波打った。
そして、その言葉と、一つの事実を思い重ねる。
「……貴女、シンの娘だと言ったわね。では、……クレスタに……」
無言で、微笑んだ女の顔が縦に振られた。それに、さらに、王妃の心が沸き立つ。
「ふ、ふふっ。面白い。面白い方ね。いいわ、今日から貴女、私の主治医になりなさい。名は、何というの?」
その問いに、女はしばしの沈黙の後、最高の笑みを持って答えた。
「……そうですね、マリー。マリーとお呼び下さいな」
「そう、よろしくね。ドクター・マリー」
その、『ドクター』という、本来ならば、女には与えられないはずの敬称を付けて、名を呼ばれた事に、女は、満足げに微笑んだ。ふわり、と夏の風に吹かれて、女の見事な栗毛が舞い踊る。それは、背に輝く桃色の羽と相まって、女に、歳には合わぬ、少女の様な雰囲気をもたらしていた。
王宮の一室で、少女の様な微笑みを浮かべた女二人の密談が行われているそのころ、王宮の国王執務室では、宰相シュタインウォルフが、いつにない様子で国王に詰め寄っていた。
「陛下。陛下。如何致します? この、リュート様からの書簡、お読みになりましたでしょう」
この鼠の宰相をこのように、慌てさせる原因は、一つ。半島に行っているリュートからの、意味ありげな書簡だった。一通りの形式張った挨拶と、現状の報告、伝染病で失った兵の補充要請の後に記された、最後の一文……。
――『以下、私事ではございますが、少々、ルークリヴィル城に住み着く亡霊に、悪い夢を見せられました。陛下も、国の長として、些事にて心を御悩ませになられる事、ございましょうが、どうぞ、ご健勝の程……』
この、彼が言う『悪い夢』というのが、如何なる事なのか、薄々国王も、宰相も気づいている。気づいているからこそ、……こうまで慌てているのだ。
「あの死神めが教えましたかな。あの者、いたくリュート様に惚れておるようでしたので。いや、あの男色家は、誠に、誠に、やっかいでございますな」
宰相のその言に、国王は、すぐに返事をしようとはしない。しばらく、一人、窓の外に思いを馳せるように、逡巡する。
――あの、地下、か。
先の戦争終結の折、密かに南大公から知らされた真実。とても、国王としては受け入れられぬような、国家を揺るがす真実。
今まで自分が王として君臨してきた国の、信じてきた歴史の根幹が揺るがせられる遺跡だ。古文書にも、正史にも、一切記述のない、古代のこの大陸の有り様……。
歴史は勝者の為に在るもの、とは分かっていても、それでも、あの遺跡には、心を揺るがせられる。
だからこそ、……この国王である自分が心揺るがせられる事実だからこそ、隠匿せねばならない。あれが、公になり、かつてこの大地が敵国の人間の統べる地だった、と認めれば、今の自分の立場というのが、揺るがせられる。そして、あの侵略に、大義名分を、与えてしまうきっかけにもなりかねない。
「あれは、聡い子だ。考えなしにあれを公にすることはないだろうが……。それでも、頭の痛いことだな。正直、このまま蓋をしておきたい懸案だ」
……それが、出来ぬ、ということは、心のどこかで覚悟している。だが――……。
そんな王の煩悶を慮ったかのように、宰相は一つ、気休めにも似た提案を投げかけた。
「私の配下に、オルフェという者がおります。いつぞや陛下にもお話した口の固い若い文官でございますが、その者、かつてリュート様がレンダマルにおられました時よりに、旧知の仲です。あやつに命じて、リュート様の真意を探らせましょうか。勿論、釘を刺す、という意味でも……」
「……そうか。では、頼む。そのオルフェという者も、……ヨシュアに同行させてやってくれ。王太子ヨシュアの初陣に、な」
「――ああっ! もう、何で私が、また半島に、しかもよりによって、あの暴君の元に行かなきゃならないんだよっ!!」
宰相から告げられた半島行きに、オルフェはそう愚痴を吐きながら、王宮内をかけずり回る。せっかく宰相からの引き抜きを受けて、中央で文官として働き始めたのに、この始末である。ようやく慣れてきた仕事も、結局こうして、あっちこっちに頭を下げて、引き継いで貰わなくてはならないのだ。これが、忌々しくなくって、何だというのだろうか。
「結局、あの男とは腐れ縁というヤツか!!」
諦めた様な台詞を吐きながら、ようやくオルフェが関係者に書類を配り終えたところだった。
ふと、彼の眼鏡の端に、二人の男女の姿が映った。丁度、王宮にある王妃の謁見室から出てきたところなのだろう。雑談をしながら、廊下を歩いてくる。
「あれは……」
一人は、あの銀狐、と揶揄されるリュートの従兄弟エイブリー。この男に関しては、特に王宮にいても、不思議はないのだ。どうせまた、あの叔母におべっかでも使いに行ったに違いないのだから。それよりも、問題は、その隣にいる女だった。
一度、オルフェが目にしたことのある、女。あの、レンダマルにいた頃、リュートにまた会いたい、とオルフェに、告げた看護婦だ。
「た、確か、あの女、リュートの幼なじみの……。なんで、あの平民の女がこんな所に……」
その存在に不審を抱いたオルフェは、極力音を立てないように、物陰に隠れながら、彼らが近づいてくるのを待つ。すると、上手い具合に、二人の会話が耳に聞こえてきた。
「……リアン。いや、ドクター・マリー。これから空いてる? どこか、一緒に遊びに行かないかい?」
「ごめんなさい、エイブリー様。これから大学の講義に出ないと。私、女ですから、一度でも休むと、周りに何を言われるか……」
女のその断りを受けて、にや、と嫌らしく、銀狐の目が歪んだ。そして、女のふわふわとした栗毛に、指を絡ませながら、尚も、ねっとりと言葉を紡ぐ。
「そう。じゃあ、仕方がないね。でも、わかってるね? 一体誰のおかげで、平民の女である君が、大学に入れたのか」
「……分かっておりますわ。全ては、エイブリー様、貴方のおかげ……」
言うと、女は、さっきまで浮かべていた少女のような笑みから一変、誘うような艶めかしい眼差しを、男に向けた。それに、答えるかのように、男の指が、今度は、女の顎を這う。そして、男はそのまま顎を上げさせると、おもむろに女の口を、自分のもので塞いだ。
「んっ……。もう、嫌ですわ、こんな所で。誰に見られるともわかりませんのに」
「いいじゃないか。じゃ、続きはまた今度、ね。ま、僕は、王子様について半島に行かなきゃならないから、しばらく、お預けになるけれど。君は、王妃様と上手くやっておいてくれ」
「はい。承知しましたわ、エイブリー様」
それだけ言葉を交わすと、銀狐は、女から離れて、王宮の廊下をそのまま去っていった。幸い、オルフェの存在には気づかれなかったらしい。ほっと一息をつくオルフェの耳に、今度は、残された女の口から、嘲笑の声が聞こえてきた。
「……はん。馬鹿な男」
それと同時に、女は汚物を払うように、その口元を手の甲で、ぐい、と拭った。そして、一言一人ごちながら、廊下を去っていく。
「お前なんか、あの男を陥れるための手駒に過ぎないのに」
……な、何だ、あの、女……。
女が去った後も、オルフェは物陰から出ることも出来ずに、ただただ、その身から、どっと、嫌な汗を噴き出させていた。
「あ、あの女、あんな女だったか? い、いや、もっと、何というか、可憐な感じのする女だったはずだ。そ、それが、あの銀狐と……? し、しかも、あの銀狐まで遠征に行って、お、陥れるだって……?」
おそらく、あの男、というのはリュートのことだろう。自分の幼なじみを、一体どうして、あの女……。
――嫌な、予感がする。
オルフェはそう小さく呟くと、すぐに、王宮の一室にある自分の仕事机へと戻った。そして、すぐに、引き出しから書簡用の紙を取り出すと、ある人物に向けて、手紙をしたため始めた。
「ランドルフ様……、レギアス……。頼む」
「ふふふ、今日のお茶はうまく煎れられたぞ。リュート様、よろこんでくれるかなぁ」
湯の温度や量、それから、蒸らす時間も教えられた通り、完璧だ。色、香り、共に、申し分ない。その出来に、自然にクルシェの頬が緩む。
「爺やさんに教えられた通り煎れたら、こんなにおいしそうに出来るんだなぁ。僕も、リュート様のお世話を任されたんだから、もっと勉強しなきゃ」
彼のその言葉が示すとおり、今まで主人に茶を煎れてきた老執事は、無惨にも異国人と不潔男の世話をするために、別荘地に派遣されてしまった為、現在、リュートの身の回りの世話は、このクルシェが務めることになっていた。無論、大公家の次男である彼が、こんな執事めいた役目をすることなど、当のリュートが反対したが、クルシェ自身の、是非に、という強い押しに遭って、彼も渋々、この代役に同意せざるを得なかった。
勿論、クルシェにとっては、リュートの仕事を間近で見られる良い機会である。将来、兄の役に立ちたい、と願う彼にとっては、こんないい役目を他の者に任せるわけにはいかなかった。
「ふふ。お茶を煎れる、なんて、東部に居たら絶対に教えられなかったもんなぁ。うん、僕がこんなにおいしいお茶が煎れられるなんて知ったら、きっと兄上も母上もびっくりするぞ」
と、故郷での家族の団欒を想像しながら、クルシェは、お茶をお盆に乗せて、廊下を進んで行く。そして、リュートの部屋の前で、もう一度、お茶の様子を確認して、その扉を叩こうとしたときだった。
「……リュート様。つかぬ事をお聞きしますが、貴方、その……きちんと食べておられますか」
男の声が、部屋の中から聞こえてきた。リュートのものではない。……確か、軍医の声だ。
それに、クルシェは嫌なものを感じ取って、良くない事とは思いながらも、耳を扉にくっつけて、そばだててみる。
「……食べて、いるよ」
「嘘を付かれますな。私は医者です。それくらい、見抜けますとも」
……た、食べていない?
クルシェは聞こえてきた意外な言葉に、さらに、その耳をきつく、扉に押しつける。
……食べていない、なんて、そんなはずはない。だって、毎日、僕がこの部屋に届けて居るんだから。そして、いつも、食器は空になって帰ってきて居るんだから。
そんなクルシェの思いとは裏腹に、厳しい声音で軍医は続ける。
「いつからです。……いつから、食べられないようになられたのです。もしかして、あの、南部熱の時からですか」
「……ああ」
「高熱が下がっても、ですか」
「少々なら、食べられる。だが、……あとは、体が受け付けん」
はあ、と深刻そうな軍医の溜息が漏れ聞こえてくる。
「お熱も、まだ、完全には下がっておられませんか」
「……ああ。微熱、だがな」
熱が、下がっていない。
もう夏も、真っ盛りだというのに、まだ、あの南部熱から体調が、戻っていないと、そう言うのか。
クルシェには、とてもではないが、届いたその台詞が信じられない。ふるふると、手に持ったお茶が、震えて、波打つ。
「リュート様。お体、診せて頂きましたが、正直、南部熱の症状ではありませんし、これと言って、他に原因になるような悪い所は見あたりません。その……、正直、原因不明で……。あの、言いにくい事ですが、お心からくるものではないか、と」
「心……?」
「はい。今のリュート様に必要なのは、ご休養です。南部熱の時ですら、あんなに無理をされたのですから、体調に異変を来すのも尤もなことです。しばらく、どこか別の場所で、ご療養でもされては……」
医師のその提案に、今度はリュートの深いため息が返ってくる。
「いや、いい。南部熱の驚異もこの夏が終われば、完全に治まるだろうし、そうなったら、また竜騎士達が動くに違いない。今の内に、兵士らの訓練や、武器鋳造を推し進めておかなければ……」
「それは、分かりますが、一週間くらいでもお休みになられませんか。訓練なら、ナムワ殿がいるし、鋳造も鍛冶屋に任せておけばいいでしょう。こうして、軍医である私をお頼りになるように、他の者も頼れば良いではないですか」
……そのとおりだ、とクルシェは思う。
自分たちがいるのに、どうしてこの人は何もかも、自分で背負おうとするのか。その結果、自分の身を蝕んでしまっては、何の意味もないことなのに。
そう悔しげに唇を噛みしめるクルシェの耳に、また、部屋の中から不吉な声が届く。
「いや、いい。軍医殿。……あと少し。……あと少しもてばいいんだ、この体」
「リュート様……」
「頼む、軍医殿。何とか、何とか、そこまで、もつくらいの治療をしてくれ。そのあとは、僕はこの体がどうなったって構わない。頼む」
ぶるり、とクルシェの体全体が震えた。
告げられた英雄の、破滅的な言葉が、彼の芯を揺るがせる。
……いやだ。……いやだ、そんなの。
――リュート様が、居なくなってしまうなんて、嫌だ!!
そう内心で叫ぶと同時に、クルシェは部屋の扉を勢いよく開け放っていた。
「リュート様!! 僕、ブリュンヒルデに会いたいです!!」
突然現れたクルシェの、その意外な台詞に、部屋にいたリュートと軍医が思わず動きを止めていた。それに構わず、クルシェは無邪気な顔を装って、先の言葉を続ける。
「もう大分大きくなってるんじゃないですかね? ねえ、僕と一緒に見に行きましょうよ、孤島の別荘へ。ね? お願いします。あ、そうだ。僕、爺やさんから、今度おいしい茶菓子の作り方教えて貰うように約束してるんです! ほら、味見役として付いてきて下さいよ!!」
勿論、そんな約束などしていないのだが、クルシェは、どうしても、リュートをこの場から引き離したかった。一週間、いや、数日でいい。小さな島の別荘で、何も考えずに、休養の時を取って貰いたかった。
「クルシェ、お前、もしかして、今の話……」
「何のことですか? 僕は、何も聞いていません。ね、それよりも、行きましょうよ! きっと、ブリュンヒルデもリュート様に会いたがっていますよ! 可哀想じゃないですか、会ってあげないと!」
そう明るい笑顔で紡ぎ出される言葉に、自然とリュートの頬が緩む。
嬉しかったのだ。この、クルシェという少年の優しさが。そして、自分の予想を遙かに超えた、彼の成長ぶりが。きっと、以前の彼だったら、こんな気の利いた台詞、出てこなかっただろうに。
そのクルシェにこうまで言われては、流石のリュートも嫌、とは言えない。ただ、仕方なさげに、首を縦に振ってやる。
「ああ、そうだな。ブリュンヒルデの調教も見ないといけないし、しばらくなら、いいか。ミッテルウルフ候に僕の代理を頼んでみる。まあ、あの怠け豚なら、功を焦って、下手な進撃をすることもないし、守備には、ナムワ達を付ければいいか」
「そうですよ、リュート様! 僕、すぐに準備しますね! あ、それまで、軍医殿と一緒にお茶でも飲んでいてください! じゃあ!!」
言うと、クルシェはリュートが止めるのも聞かずに、その白混じりの黒羽を勢いよく翻して、部屋を去っていった。
「いや、素晴らしい坊ちゃんじゃないですか。ああいう若者の為にも、貴方は御身安泰でなければならぬのですよ、リュート様。貴方は、貴方が思う以上に、皆の心の支えになっているのですから」
クルシェの後ろ姿を眺めながら、軍医がそう忠告めいた言葉を、かける。それに対して、リュートはその碧の目を細めながら、深く深く頷いた。
「ああ。なんとか、踏ん張ってみる。うん、大丈夫だ。しばらく海の見える孤島で、白銀の鱗に、金の瞳の美人と暮らせば、すぐに良くなるさ」
「そうですとも、リュート様。きっと、良くなられますとも。……きっと」
そう言いながら、軍医はその胸に、どこか拭いきれない不安を感じていた。
この、目の前の英雄がその双眸に宿す光。その奥に、どうしても、何か暗いものが宿っている、と。
そう……それはまるで、どこか、死者の目を思わせる、虚無に似た闇だった。