第六十一話:飛竜
「……これで、ひとまずは、安心、ということだな……」
あの塔の上での、赤毛の女との対峙を終えて、一旦自室に戻ったリュートが、溜息混じりに、そう呟いた。その手にはついさっき、あの女、エリーが調印した紙が握られている。
平たくいえば、お互いの軍で、伝染病が治まるまで、戦争をすることはない、という旨の文書である。正直、ここまで破格の条件で騎士団を退けられるとは、思いもしなかった。精々が、最後の悪あがき程度のつもりでやった、はったりだ。それを――……。
――あの、女。
小さくそう呟いて、リュートは自分の唇に手を当てる。さっき、あの女の花弁の唇が、そして、その中に隠された艶めかしい舌が、触れた場所だ。
そう思い当たった時、リュートの体が、一気に熱を持った。もともと、南部熱で高い体温なのに、それにも増しての、発熱だ。顔が火照って、火照って、仕方がない。
もう、額にあてた濡れタオルくらいでは、冷ませそうにない熱だ。リュートは、こんなの堪らない、とばかりに、タオルを濡らすために用意してあった水桶に、そのまま顔を突っ込んだ。
「……冷静になれ、冷静になれ……。あ、あの女はリンダール人だぞ。しかも、あのガンゼルク城を……。ニルフを、トーヤを、クルシェを、殺した女だ」
そう口にすると、嫌でも、心がすうーっと、冷めていくのが分かった。
……かつての主君を裏切ってまで付いてきてくれたニルフが。少々腹黒だが、それでも自分を慕って付いてきてくれたトーヤが。そして、ようやく、一人の男として、成長を見せ始めたクルシェが。あの、ランドルフから預かっている、大事な弟が。
「……死んでしまった……。死んで……」
ぎゅうっ、と音を立てて、リュートの心が軋む。そして、やるせないように、かつて皇帝の竜を殺した時に付けられた胸の古傷が、ぎしぎしと痛んだ。
「ラン、ディ……。すまない、ランディ……。みんな、すまない……」
かつての主君の名が、口にするだけ、酷く痛々しかった。そして、無念の内に、死んでいったであろう兵士達の顔を思い浮かべるに付けても。
「――必ず、……必ず、僕が仇を……。あの女の首も、この僕が必ず……」
そう憎しみに、心を委ねた時だった。
「隊長! 隊長!! 外!! 外見て下さい!!」
元近衛隊のアーリが、息せききった様子で、リュートの部屋に転がり込んできた。
「外だと? ま、まさか、また竜騎士達が……!!」
アーリの言葉に、即座にリュートは窓に張り付いて、外の様子を窺う。
空には、変化なし。さっきまで、この城の東の上空を占拠していた女騎士達の姿は、一つとして見えない。では……、とその下、眼下の城の広場に目をやると、そこには、意外な三人の人物の姿があった。
いずれも、男と言うには、少々小さめな、だが、女というにも、少々様子の違う者達。
一人は、坊主頭をした茶羽の少年。そして、もう一人はくりくりとした目が可愛らしい水色の羽の少年。そして、最後の一人は、黒髪と、少々垂れた目が印象的な、黒に白が混じった羽の少年。
その姿を城の窓から、確認した瞬間、リュートの顔が、今にも泣きそうに歪んだ。そして、ただ、愛おしげに彼らの名を、呼んでやる。
「――レオン! トーヤ! クルシェ!!」
その呼びかけに、三人は、城の外から、大きな声で答える。
「リュート様! リュート様!!」
皆、かなりその姿は汚れているが、元気そうである。その少年達の無事の帰還に、リュートの中で張りつめていた糸が、ぷつん、と切れた。そのまま、駆け寄るアーリの腕の中で、へなへなと倒れ伏す。
「よ、良かった……。良かった……。あ、あいつら、生きていた……」
……てっきり、死んだものと思っていたのに……。一体どうやって、あの女騎士達の攻撃から逃れたのか……。
それと、ニルフ達の事も聞きたい気がするが、いかんせん、自分はまだ感染中である。感染していないクルシェや、トーヤに、近づけるわけもない。
「ああ、そうだ。お前なら、いいな。レオン! お前だけ、こっちに来い!!」
かつて感染済みのレオンなら、近くに呼んでも問題はない、と、リュートは坊主頭の少年の名だけ呼んでやる。それに答えて、茶色の羽だけが、空を翔て、リュートの部屋の外までやってきた。
近くで見るその少年の姿に、改めてリュートは驚きを隠せない。
泥や埃の汚れだけではない。そこには、明らかに、血の跡と思われる赤黒い染みの数々があった。それを、部屋に迎え入れた坊主頭の少年に、即座に問うてやる。
「レオン、どうした。お前、確か、エルダーに、例の感染した騎士を送りつけに行っていたんじゃないのか。それが、どうして、ガンゼルク城にいたクルシェ達と一緒に居るんだ?」
それに対して、レオンは、かつて騙してしまった男を前に、何か気まずいのか、いつもとは違う様子でおずおずと答えを紡ぎ出す。
「お、俺は、あ、あんたに言われてエルダーに行った後、その……他の様子も、色々探ってたんだよ。したら、あの女騎士達が出撃するのに気づいて、後を追ったんだけど、その、……竜の速さに追いつけなくって、置いてけぼりくらっちまってさ。気づいたら、もう、ガンゼルク城で戦闘が始まっててよ……。んで、なんとか、俺も戦おうと思って、ガンゼルク城に忍び込もうとしたんだ。したらさ、もう、ガンゼルク城は落ちかけてて、一人でも兵士逃がそうと、厨房に行ったら、あいつらが居たからさ、……一緒に……」
「厨房? そんな所によく忍び込めたな? 外は、竜騎士達に固められていたんだろ?」
未だ、痰の混じるリュートのその声に、さらにレオンは気まずげに俯きながらも、その懐から、一冊の帳面を取りだした。
「これ……。これに、その、南部の地形や、城の抜け道が記してあったんだ。その……兄ちゃんが、……『南部の風』のリーダーが、俺に最後に託したものだ……」
「そうか。あの男は、この辺りの地形に詳しい戦士だったな。それでか……」
「うん……。兄ちゃんが、……俺や、あいつら、救ってくれたんだ。あの城の厨房にある地下倉庫から、山の中腹にある洞窟まで抜け道が続いているってこと、知らなかったら、多分、俺もあいつらも死んでたよ……」
亡き兄の加護によって生きながらえた命を、確かめるかのように、レオンは自分の肩をきつく抱いた。そして、先の話をリュートに向けて続ける。
「それで、抜け道を通った俺は、厨房であいつらと会って、一緒に、女騎士達から、逃げてきたんだ。でも、その抜け道の先にも、一人、女騎士が居て……。それを倒すのに、ちょっと手間取っちまって、この城に駆けつけることが出来なくって……」
その言葉に、リュートは、納得をする。この少年の浴びた血は、その女騎士の血か、と。そして、それは、このレオンだけではない。トーヤや、クルシェも、同じように血を浴びているのだろう、ということを。
その事が、また、きりきりとリュートの心を締め付ける。
……こんな、少年が。こんな、まだ、あどけない顔をした、十四、十五の少年達が……。
その事に思い当たったとき、リュートは目の前の少年の細い肩を、無言で抱きしめてやることしか出来なかった。
もう、こんな少年が、傷つく事がないように。こんな少年が、血を浴びる事がないように。
きつくきつく、思いを込めて、リュートは、トーヤとクルシェにしてやれない分、レオンを抱きしめた。
それに、レオンは、リュートの身を冒している熱の高さを即座に感じ取る。……自分が、感染させた、病気による熱を。
「ご、ごめん……。ごめんなさい……」
小さな謝罪の言葉と共に、レオンの目から、涙がこぼれ落ちる。自分がしてしまった罪の大きさに。そして、そんな自分の罪を被って、尚、こうして抱きしめてくれる男の存在に。
「ごめん、ごめん、ごめんよ。あんたは、……あんたは、少しも悪くないのに、俺のせいで、……俺のせいで、みんなが……」
「……みんなは……。他のガンゼルクの兵達は、……ニルフ達は……?」
震える少年を抱きしめながら、そう問うリュートに、小さく、横に振られた首が返ってくる。それは、つまり、……絶望、ということだ。その事実に、リュートはさらにレオンを抱きしめて、きつく唇を噛みしめる。そんな中、レオンが、何か思い出したように口を開いた。
「あ、で、でもな。何か、知らないけど、その……、死んだ兵達、みんな、きちんと埋葬されてたぜ。あ、あの赤毛の女が、多分……」
「……何っ?」
……敵兵を、埋葬だと? あの女、一体、なんのつもりで……。
その知らされた行動の真意を測りかねるリュートの前に、レオンから、一冊の帳面が差し出された。先に言っていた、あのリーダーから託された帳面だ。
「これ、あんたに、使って欲しい。『南部の風』のすべての情報と、死んでしまったみんなの遺志。どうか、あんたに託したい」
それだけ言うと、レオンは、帳面をリュートに押しつけるようにして、彼の腕の中から飛び退いた。まるで、これ以上、リュートの腕の中にいる資格など、ない、とでも言うように。
「……わかった。確かに、預かろう。レオン、お前も休め。クルシェ達と、別の城に移っていろ。僕は、まだ、病気が治っていないから、ここに残る。そして、来るべき日がやってきたら……僕は、必ずリンダール人達を、この地から、駆逐する。必ずや、お前の家族の仇も、取ってやる」
その意志の光に満ちあふれた瞳に、レオンは、また涙を溢れされて、ただただ頷いた。
「うん……。うん……。あんたなら……。あんたなら……」
――そう、来るべき日が来るまでは――……。
今は、ただ、蔓延している病気の治療に、専念するのみ。あの女の、言うことを信じて……。
リュートは、そう決意すると、あの赤毛の女がいる、エルダーの方角へと、その目を馳せた。
一方、あの衝撃の口づけから、一日経ったエルダー近くの古城には、苦労性の女騎士、キリカのあきれ果てた溜息と共に、きつい嫌味が吐き出されていた。
「ばーか、ばーか。姫様って、本当に、馬鹿ですわ」
「ば、馬鹿、とは、……げ、ゲホッ、何よ、キリカ。こ、この私を、だ、誰だと……ゲホッ、ゲホッ」
キリカが、馬鹿だというのも、尤もなことである。何故なら……。
「だって、姫様ったら、あんなチャンス、みすみす逃がした上に、あんな異民族の男にキスして、病気まで貰って来たんですから。馬鹿以外に、どう表現しろと?」
その言葉が示すとおり、この姫としたら、あのキスの後、しっかりと、お土産に病原菌まで頂いて、今日になって、高熱で倒れ伏してしまったのである。しかも、そのキス、というのが……。
「本当に、訳が分かりませんわ。どうして、あの場であの男のはったりに屈したのです? それに、まあ、口づけまで与えて……。馬鹿でしょ? ねえ、馬鹿でしょ、姫様」
「あー、もう、そう馬鹿馬鹿言わないでよ、ゲホッ。それ以上言ったら、あんたも感染させるわよ! ゲホゲホゲホッ!!」
悔しげに反論すると、姫は容赦なく、暴言を吐き続ける臣下に向かって、咳を飛ばし始める。それを、何とか華麗にかわしながら、キリカは、また諦めの溜息をついた。
「もう、手遅れですわ。私も、きっと、明日になったら、高熱で倒れ伏していますわ。いいえ、私だけじゃなくって、紅玉騎士団の他の団員もね。まったく、何をしてくれたのですか、姫様」
「……いいじゃない、別に。これで、元老院に対して、堂々と帰還拒否の理由が出来たってことで」
しれっと言われたその反論に、キリカは胡乱げに、その眉根を寄せる。それに対して、高熱で火照った姫の口から、尚も不敵な台詞が飛び出した。
「『エリーヤ姫は、感染病に罹ってしまって、しばらく動けません。本国に、変な病気を持ち込んだら、悪いので、病気が完全に治るまでは絶対に帰らない所存です。最低、あと半年は』。そうやって、元老院の爺共に書いて、送りつけておきなさい」
「……もう、姫様。本当に、貴女って方は……」
言われた台詞に、あきれ果てながらも、キリカは、どこか嬉しそうな笑みをその口の端に浮かべて、頷いた。そして、部屋の隅に、あった机から、書簡用の紙を取り出すと、早速言われた旨をしたためる作業に入る。
「はあ、まったく、これでまた、元老院方との嫌らしい文通が続きますのね……。まったく、将軍閣下に謝罪のお手紙を書くだけでも大変だと言うのに……」
ぶつぶつとそう文句を吐きながら、従ってくれる臣下に、姫は、その伏した床で、少しも悪びれることなく笑ってみせた。
……そう、まるで、来るべき日を、心待ちにする、少女のような表情で。
「いいじゃないの、キリカ。この春を過ぎて、本国に帰ったって、暑いだけだし、この涼しい北の大地で、これから来る夏のバカンスを楽しむとしましょ。寒い、寒い秋が、来るまでは、ね」
その言葉どおり、春はあっという間に過ぎ去った。そして、半島に、短い初夏が訪れた頃――……。
「隊長! 隊長!! リュート隊長!! ロン、お前もだ! 来い!!」
半島中央部の盆地に位置するルークリヴィル城に、アーリの声が響き渡った。
あの、勝ち目のない賭けに勝って以来、この城には、暫くの平穏が訪れていた。竜騎士達も、これと言って、動く気配はなく、南部熱の猛威も、峠を越えたようだ。多少の死者は出したものの、感染の拡大は、一月経って、かなり減少の後、主立った患者達も、回復に向かっている。
ただ、この城の現在の主、とも言うべき男、リュートは、微熱が一月経ってもなかなか下がらず、大事をとって、床からあがれぬ日々が続いていた。医者も、本来ならば、もう治っても良い時期なのに、と首を傾げるほどに、原因不明で、とても南部熱による発熱、とは思えない、との所見を口にしている。
その事に、リュートは些か不安を抱きながらも、この体を動かせぬ時期を、頭を使う事に専念しようと、ひたすら床で、書類を読む日々が続いていた。天候記録、戦闘記録、兵士達の編成記録……。彼が学ばねばならないものは、思ったより多かった。
この目の前の糸目の異国人から、教えられる言葉、……リンダール語もその一つだ。
「ホント、短い間に、大分、うまくなったのネー、リンダール語。驚きヨー」
アーリに呼び出された部屋に行く道すがら、リュートに対して、ロンがそう感嘆の台詞を漏らす。
「ふん。あの女やお前がこっちの言葉が喋れるのに、僕がそっちの言葉を喋れない、というのは不公平だからな」
「良いことヨー。全ての国交は、戦争と話し合いから生まれるのネー。言葉喋れる、国交の第一歩ヨー」
「誰が、お前らなんぞと国交を持つか、蛞蝓め」
「相変わらず、きついお兄サンなのネー。あの時は、あんなに可愛かったのニー」
「死ね、糸目」
ぎらり、とその碧が光った丁度その時、タイミング良く、アーリの部屋に到着をしていた。これで、半殺しにされなくても済む、と、ロンは、そそくさと部屋の中へと逃げ込んだ。あの、リュートが、卵の世話の為に、ロンとアーリに用意してやった部屋である。
中に入ると、既に、この部屋の主であるアーリだけでなく、他の近衛隊士達も集まっていた。病から回復した黒犬リザ、そして、兵士達の感染が治まったことによって、この城に戻ってくることが出来たトーヤとクルシェも一緒である。
皆、入室してきたリュートに気づかぬくらい、何かを囲んで熱中しているようだ。時折、クルシェやトーヤの、頑張れ、もう少しだ、という何かに対する励ましの声が聞こえてくる。
「おい、何だ、アーリ。ロンも呼ぶなんて、まさか……」
リュートのその呼びかけに、室内にいた者が、一斉に振り返る。皆、何か、おもちゃでも与えられた子供の様に、その目をきらきらと輝かせていた。
「リュート様! 見て、見て下さい!!」
クルシェのその呼びかけに、リュートは彼らの中心にあったものに、ようやく目をこらす。
そこには、斑模様の大きな球体が一つ。大人の男がようやく抱えられるような大きさの、卵。
「生まれるんっすよ!! ――生まれるんっす、この飛竜の卵!!」
アーリの言葉通り、その卵の表面には大きなひび割れが入っていた。そして、その下には、何かもぞもぞと動くものの存在。
それに、即座に帝国人のロンが食いついた。
「おおーっ、これは、予想以上に早い孵化なのネ。いや、でも、中のコ、元気そうネー。よしよし、じゃあ、まずハ……」
言うと、ロンは、部屋の机にしまってあった、一つの袋を取りだした。彼を捕虜にしたときに、取り上げていたものだったが、飛竜の調教に必要だ、と言われたので、リュートが返してやった物だ。
掌に乗るくらいの小さな麻袋だが、中に、何かの草を干したものが詰まっているようだ。少々、独特の香りがする。
「これ、飛竜草いうネー。飛竜に言うことを聞かせる香りヨー」
何か、特別な草なのか、とリュートがそれをじっと覗き込むと、ロンは意外な台詞を紡ぎ出した。
「これ、この半島にもある雑草の一つヨー。無くなったら、そこらの森から、ちょいちょいと取ってくればいいのネー」
「……ひ、飛竜の調教に使う草が、この大陸にもあるのか?」
リュートのその問いに、ロンは、そっと彼だけに聞こえるように耳打ちをしてくる。
「当たり前ネー。言ったデショー。この地、元々リンダールの地だったト。植物も共通してて、不思議はないのネー」
その答えは、とてもリュートに承伏出来る物ではなかったが、今は、そんな事を議論している場合ではない。他の人間の目もあることだし、ここはおとなしくロンを立ててやる。
「わかった。で、それをどうするんだ」
そう問うと、ロンは、おもむろに、その袋をリュートの首に掛け始めた。丁度、胸元に、麻袋がかかる感じである。
「あとは、この子、生まれるの待つだけヨー。楽しみネー。頑張れー、頑張るのヨー」
ロンの声に促されるかのように、また一つ、大きくひび割れが広がる。そして、その頂点から覗く、小さな鼻先。
「あっ、鼻が……。うわぁ、前足も見えたよ! すごい、すごい!!」
卵の真ん前で、目をきらきらさせて、その孵化を観察するクルシェとトーヤは、もう、子供そのものだ。恐ろしい、とか、そんな感情は一切ないらしい。後ろで、枕を盾に、おっかなびっくり覗いている、どこかの黒犬に見習わせたいくらいである。
「お、俺は、こんな竜、生まれたって、一切、世話、しねーかんな! アーリ、おめー、全部やれよ!」
そう黒犬が尻尾を巻いて、蹲っている間に、さらに卵は割れていた。
そして、ついに、殻の隙間から、竜の頭全てが顔を出す。
――……きゅうぅぅぅ……。
小さな産声が、部屋に木霊した。
そのあまりにも愛らしい声に、居合わせた男達から、一斉に、歓声が上がる。
「うっわー、可愛い! まだ、ぷるぷるしてるよぉ! 見て見て、まだ鱗、やわらかーい」
トーヤの言う通り、そこには、まだ殻を半分被った、小さな飛竜の姿。白銀の鱗をして、金色の大きな目の、仔竜だ。牙も、爪も、殆ど生えていないくらいの大きさで、とても、あの竜騎士が操る巨大で、強靱な化け物とは思えぬほどの愛らしさである。
「おおーっ。白銀の鱗とは、また珍しい色ネ。大体が、黒とか、深緑なんだけどネ。これ、とっても貴重な飛竜ヨー」
そう言いながら、その小さくぷるぷると震える竜を、おもむろに、ロンが、むんずと掴み上げる。そして、それを、そのまま、遠慮なくリュートの手に渡してきた。
案外、ずっしりと重さがあることに驚くが、それでも尚、愛らしい姿である。きゅうきゅう、と小さく鳴く様など、思わず抱きしめたくなるくらいだ。
「はい、これで、とりあえず、お兄サンが、お母さんなのネー。ぎゅっと抱っこしてヤッテー」
「お、お母さん?」
「そうヨー。この草の匂い、母竜の匂いによく似てるのネー。それで、仔竜は、生まれて初めて会った、この匂いのする者、お母さんだと認識するのネー。こうして、しばらくお母さんが抱っこしてやれば、竜はその人、ママだと思って、言うこと聞くようになるのヨー。後は、調教次第で、他の人間でも乗れるようになるのネ」
語られた飛竜の調教方法に、一同が意外そうに頷く。
と、同時に、リュートはその内心に、一人、何か飲み込めないような疑問を抱いたのだが、それを敢えて口にはしなかった。ただ、胡乱げな目線で、糸目をさらに細めて笑うロンの顔を凝視するのみだ。それに、ロンも気づいているだろうに、何も答えようとはしない。
「皆様ー、お茶が入りましたよー」
一通りのお母さん役としての抱擁が済んだ後、次々と飛竜の回し抱きをし始めた男達の部屋に、リュートの家の老執事がお茶を持って、現れた。
彼も、先日まで、南部熱に悩まされ、その高齢さ故に、命が危ぶまれていたが、どうやら、今回は、冥府の神に嫌われたらしい。なんとか命拾いをしたその老体で、今も、主人であるリュートの世話を、甲斐甲斐しくしてくれている。
そんな彼の入れてくれたおいしい茶を飲みながら、ロンがおもむろに、一つの問いを口にした。
「ねえ、お兄サン。無事に生まれたは、いいけど、調教、一体どこでやるつもりネ? まさか、この城でやるつもりじゃないのネー?」
「駄目なのか?」
「駄目じゃないケドー……。いいの? 完全に調教が済むまでは、結構飛竜、獰猛なのヨー。今は、仔竜だからいいけど、もう少し大きくなったら、慣れていない人間、喰い殺すかもしれないヨー? お兄サンや、動物好きのアーリさんなんかは大丈夫かもしれないけど、よく知らない兵士や、そこの今にもちびりそうになってる黒犬さんは、食われちゃうかもしれないのヨー」
言われた恐怖の発言に、部屋の隅で成り行きを見守っていたリザが、さらに枕を抱えて蹲る。
「やーめーろー!! 反対、はんたーい!! 飛竜、この城で飼うのはんたーい!!」
本当に、王都最強の肩書きは何処へ行ったのか、黒犬リザの尻尾の巻きっぷりときたら、清々しいほどである。そんな彼を哀れに思う訳ではないが、流石に兵士達を殺されては適わない、とリュートは、一人、良い方法がないものか、と思案する。
と、ふと、目の前に茶を出す、老執事の姿が目に留まった。
「どうされました、リュート様。私の顔に、何か付いていますか?」
不思議そうにそう尋ねる老執事の前で、きらり、と碧の瞳が光った。そして、意外な問いを口にする。
「爺や! いつぞや言っていた財産売却の件! 覚えているか!!」
「――ざ、財産売却?」
老執事は、最近忘れっぽくなったその頭を、何とか回転させて、王都での出来事を思い出す。
「ああ、そう言えば、雪の日に、ラセリア姫様の宝石を売る売らないで、揉めた事がございましたっけな。それで、結局貴方様に押し切られる形で、宝石類は売りに出しましたが……」
「そう! その時だ! その時、もう一つ揉めていた事があったろう! 南部にある、別荘を売る売らないで、だ。あれ、もう売ってしまったか?」
嬉しげにそう問う主人に、執事は、少々苦々しげな色を顔に滲ませて、こほん、と咳払いの後答える。
「言いましたでしょう? あれは、貴方様のご両親の思い出の地。絶対に、売りませぬ、と。今でも、れっきとしたシュトレーゼンヴォルフ候家の財産ですよ」
「――でかした、爺!! 褒めてつかわす!!」
言うと、リュートはその目をいつになくきらきらと輝かせて、目の前の老骨を抱きしめた。
「それ、南部の何処にあるのだ? 確か、南海の孤島にあるとか言っていたな?」
「ええ。この城から、少々北に行きましたニース海岸の近くにある小さな孤島です。本当に、小さな島で、その別荘以外は何もない所ですが……」
「ますます良いじゃないか! よし、決めた!」
いつになく嬉しげに、執事の言葉に頷くと、リュートはとびきりの笑顔で、二人の男の前に向き直った。到底、逆らうことなど出来ぬような、貴公子の笑みで、である。
「ロン! アーリ! お前ら、その孤島の別荘で、この竜、調教しろ! いいな?!」
……いいえ、お断りです。
そう、言えたら、どれだけいいか。
ロンとアーリは、あまりにも眩しい笑顔を前に、遠い目で小さく呟く。
「あ、ロン! それから、お前、僕のリンダール語習得の為に、きっちり、テキスト作って寄こせよ。週一で呼びつけるからな。それから、アーリ。お前、このロンに油断して、飛竜乗っ取られて、逃げられたら承知しないからな。その時は、お前も飛竜の餌になること、覚悟しておけよ」
もう、ここまで来ると、逆らう気力すらなくす、暴君の台詞である。ただ一点、ロンは堪らない事があると、おずおずと一言、疑問を口にしてみせる。
「わかったのネ。別に調教はいいけど、その孤島に、この不潔男と二人っきりって、事なのネー? 一体どうやって、食っていけばいいのヨー? この人、きっとワタシにも、腐った食べ物食べさせて、殺すに違いないのネー」
言われてみれば、一理ある。
リュート自身も、この不潔の塊の、まるでゴキブリのような生物学的異端児と二人きりで暮らしたら、生き残れる自信がない。なにせ、あの南部熱の病原すらも恐れおののいて近づいてこなかった男である。確かに、その男と暮らして、ロンの命の保証はできないだろう。
「……そうだな。今、お前に死なれると、何かと不便だし、……そうだ、爺や! お前、行ってやれ! お前なら、この二人、甲斐甲斐しく世話できるだろう。な!」
……この老骨に、死ね、と仰るか。
老執事、ハインリヒ・マルトは、長い長い自分の人生を、振り返りながら、小さく呟く。
「さあて、調教問題は解決したことだし、残る問題は――……」
地味な騎士と、不潔な元隊士、そして、寄る年波が身に染みる老執事の男三人での同居を強いたその口で、リュートがうきうきした調子で言葉を紡ぐ。そして、トーヤの腕から、仔竜をひったくると、何か意味ありげに、竜を抱き上げて、その顔を覗き込んでやる。
「ロン、こいつ、雄か? それとも雌か?」
「……雌ヨ」
問いに、何か嫌な予感を感じながらも、ロンは素直に答える。それに、さらに増した満足げな笑みが返ってきた。
「そうか、そうか。白銀の鱗に、金の瞳。うん、美人だな、お前。じゃあ、それに見合うのを、付けてやらないとな」
その言葉に、居合わせた近衛隊の面々が、即座に反応する。一人、動じていないのは、この男と同類であるアーリくらいである。
「た、隊長。ま、まさか……。あ、あの、そうだ! み、みんなで決めましょうよ! ね? ほら、いっぱい候補出し合って、多数決でさ! なあ、みんな!」
黒犬リザのその提案に、トーヤ、クルシェの首が、コクコクと縦に振られた。皆の顔に浮かんでいるのは、何か恐れるような、そんな表情だ。
そんな三人を尻目に、リュートは一人、その顎に手を当てて、何やら、ぶつぶつと考え込んでいる。そして、暫くの逡巡の後、何か、思いついたように、その手を打った。
「よし、決めた!!」
即座に、リザ、トーヤが動く。その続きの言葉を、何としてでも阻止するために。
……そう。この、男から考え出されるそれが、決して、素晴らしくセンスのないものだと、重々承知しているからだ。
そんな二人の思いとは裏腹に、リュートはその手に抱えた竜を、高く持ち上げて、宣言する。
「よおし! お前の名は、ブリュンヒルデだ!!」
……ああ、やっぱり。
「だ、だせぇ……」
小さく呟かれたリザのその言葉も、当の本人には、一ミリも届いていないらしい。ただ、同類であるアーリの絶賛だけが、上手い具合に耳に入るようだ。
「うわあ! 超かっこいいじゃないっすか、隊長!! よおし、俺、こいつの世話、頑張っちゃいますよー!」
そんな男達の溜息を後ろに、生まれた新しい命、ブリュンヒルデは、青く澄んだ半島の初夏の空に向けて、高らかに、鳴いて見せた。それは、これから起こる大戦を、まったく予感させぬような、朗らかな生命の息吹そのものだった。