第六十話:聖地
「が、ガンゼルク城が落ちただと……」
再び目覚めたリュートの耳に、その悲痛な報告が届けられた。
「はい。送りつけられてきた書簡の差し出し主は、皇妹エリーヤ=ミーシカ・ハーン。書簡によると、ニルフを初めとした全ガンゼルク兵は戦死、もしくは捕虜に……」
悔しさを滲ませた声で、アーリがさらに、絶望的な報告を続けた。その報告に、いつになく英雄と謳われる男の体が揺るぐ。
「に、ニルフが、戦死……。ほ、他の兵も、全滅だって? げ、ゲホッ、で、では、クルシェや、トーヤのような感染を避けるために避難させていた者も……」
「音信不通で、……行方不明です。場合によっちゃあ……」
あまりの悲惨な出来事に、思わずアーリもその先を言うのを躊躇う。そんな彼の前で、ぶるり、と英雄の体が震えた。
「そ、そんな、馬鹿な……。ゴホッ、クルシェが……、トーヤが……、そして、ニルフが、死んだ……?」
まるで、信じられない、と言ったように、金の髪が艶めく頭が振られる。
「――嫌だ!! 僕は信じない!! 信じないぞ、そんなこと!!」
まだ熱が高いのであろうに、リュートはその体を激しく震わせ、がしがしとその胸を掻きむしる。そんな彼を制しながら、さらにアーリが続けて言う。
「隊長! 落ち着いて! 落ち着いて下さい! まだ書簡には続きがあるんです!! 書簡によると、敵将は、このルークリヴィル城の即刻明け渡しと、全有翼軍の無条件降伏を求めています。明日までに、その返事がない場合には、すぐに、この城を落としにかかると!!」
――明日までに、……降伏だと……?
それは、到底受け入れられる条件ではなかった。この城には、今だ南部熱に悩まされている兵士が多数。それを明日までに他城に移動させるなど、出来るはずがない。だが、ここでその病人達が武器を手に、騎士団と戦えるか、と言ったら、それもまた無理なことなのだ。
つまり、どの道、この城の病人達は、殺されるしかない、ということだ。
「そ、そんな……」
絶望に暮れた呟きが、珍しく英雄の口から漏れる。無理もない。自らも病魔に冒され、そして、部下や、可愛がっていた少年達を失い、そして、今、その肩に背負う兵士達の命まで危険に晒されているのであるから。
「隊長! 隊長だけでも逃げましょう! 俺、隊長一人くらいなら、担いで逃げられます! あんたがいれば、残りの兵を集めて、また反撃できるかもしれない! だから、俺と一緒に逃げましょう!!」
悲痛な声音で絞り出されたアーリのその提案は、つまり、この城の病人、そしてこの城全てを見捨てることを意味している。彼なりに、考えた結果としての提案なのだろうが、それは、あまりにも、非情な選択肢だった。
その言葉を受けて、ベッドから、艶めく金髪が、ゆらり、と起きあがる。そして、ベッドの傍らに立てかけてあった剣を、その手に取った。
そして、その金の髪の狭間から覗く形の良い唇から、低い声が紡ぎ出される。
「……アーリ。お前、僕と死ぬ覚悟はあるか」
「隊長……」
突然のその言葉に、思わず絶句するアーリを余所に、金髪の男は、病魔に冒されているなど、些かも感じさせぬような足取りで、すっくと立ち上がる。
「……一つ、試してみたいことがある。お前、僕に付いてくる気はあるか」
それは、とても、絶望に心を潰された病人の言葉ではない。一人の、いや、不世出の英雄の言葉、そのものだった。
その言葉に、アーリの心が激しく揺れる。そして、深く頷かれる、男の首。
「勿論。あんたとなら、何処までも」
アーリの、その堂々たる肯定の言葉を受けて、英雄の瞳に、碧の光が宿る。あの、いつもの不敵で、そして、何者にも勝る、頼もしい瞳。
「では、付いてこい。僕は、今から、この世で最も、罪深い男になる」
「……いいっすよ。あんたとなら、地獄だって、血の河だって、渡れらぁ」
もう、信ずるしかなかった。
アーリには、この目の前の眩しい光をその双眸に宿した悪魔を、信ずるしかなかった。
そう覚悟を決めたアーリの前に、一振りの剣が差し出される。あの、鍛冶屋がリュートの為に打った極上の剣である。それが、意味の分からぬアーリの手に、しっかりと押しつけられる。
「た、隊長、どうしたんっすか? た、戦うんじゃ……」
「……戦わぬ。その剣では、今は戦わぬ。もっと、別の方法で、奴等を黙らせる。だが、ゲホッ、……正直、賭けだ。勝算は、正直、ないに等しい。もし、僕の企みがうまくいかなかったその時は、だ」
そこで、意味ありげに言葉を句切ると、リュートは何よりも澄んだエメラルドを思わせる眼差しで、しっかりとアーリを見つめて、告げた。
「その時は、お前が、その剣で僕の首を斬れ」
……僕の首一つで、この城の兵の命、全て贖えるかどうかは、分からぬがな。
そう小さく繋がれたその言葉に、アーリの瞳が滲む。
……この人は。……この男は……。
何て、何て、男だよ。本当に、あんたって人は、よ……。
そう涙混じりに呟いた内心で、アーリは同時に一つの誓いをしていた。
……あんたが死ぬときは、俺も死ぬときだぜ、隊長。あんたの首を斬ったその返す刃で、俺もあんたの後を追うよ。
そう覚悟したアーリの眼前で、ようやく顔を出した青空を背に、無数の金の糸がたなびいた。それは、まるで、獅子の鬣に似た、王者の証。
この、男であるアーリの瞳すら、釘付けにしてしまう、圧倒的なカリスマ性。
そんな男に出会えた自分の人生を振り返りながら、アーリは、男を見つめ、呟く。
「俺のちんけな命くらい、くれてやるよ」
目の前には、恐怖を不安を、全て包み込むような、眩しい光。それが、あれば、死の河とて、怖くはなかった。
――それくらい、あんたは魅力的なんだぜ。なぁ、隊長。
「姫様! 間もなくルークリヴィル城に到着致します!」
キリカの報告を得て、尚も、赤毛の女の愛竜シルフィに拍車が入れられる。雌竜ながら、なかなかの駿竜であるシルフィの速度に付いてこれる竜はそうはいない。その単独で先に進まんとするシルフィの騎手に、即座にキリカが声をかける。
「姫様! またそうやって、一人で突っ走って!! いくら、情報によると、ルークリヴィル城の兵士が病人ばかりだからといって、貴女一人で落とせるわけないんですから! それにね、あんまり近づくと感染させられるやもしれませんよ! 相手は、あの閣下を感染させた白羽の男ですからね。お気を付け下さいな!」
そうキリカがぐちぐちと、いつものように諫言をしている間に、眼下に広がる盆地には、南部の最大の要地、ルークリヴィル城が現れていた。二重の城壁に、二棟の大きな居館。そして、東西南北の塔。
その重厚な城を、眼下に眺めるにつけ、赤毛の女の口元が歪む。
「あれが、聖地ね。……あれが、我がリンダールの神のおわします、聖地イヴァル……」
聖典『ディムナの書』に記された、北の豊饒の地。リンダール人がそう認識をしている土地を、初めて目にしたことに、女は感慨深げに溜息をついた。そのいつにない様子に、キリカが少々いたずらっぽく声をかける。
「あら、姫様。いつから、そんなに敬虔な信者になったのです? 姫様の傍若無人ぶりと来たら、神をも恐れぬ程ですのに」
そのしれっと言われた嫌味に、赤毛の女はさらに、その艶めく唇を蠱惑的に歪める。
「あら、私、宗教大好きよ。それが、政治的に有用な道具である限りはね」
それだけ吐き捨てるように言うと、赤毛の姫は、さらに愛竜に拍車を入れて、空を滑るように翔け下っていった。そして、その眼前に巨城、ルークリヴィル城が迫る。いつもなら、その城壁上に、びっしりと兵が配備されているだろうに、今は、見張り兵の姿すらも見えない。
――と、その東塔に、ふと、何か動くものを見つける。
そこにあったのは、一台の投石器と、布が掛けられた何かの山。それに加えて、その背に羽があることから、有翼兵と思われる男達が数名。赤毛の女が、さらにその目をこらすと、その中心には、空に浮かぶ雲より白い、純白の羽の男の姿が見て取れた。
「……白羽の、美形ちゃんだわ……」
呟くようにそう言うと、女はさらに、竜を駆って、東塔へと近づく。
そこには、間違いなくあの森で出会って、剣を交えた白羽の男の姿。だが、その様相は、先に会ったときよりも、随分やつれており、顔色も酷く悪い。あの、病気に罹っている、という自分の推測の正しさを、彼の姿に確心しながら、女は白羽の男にさらに近づいて声をかける。
「久しぶりね! あの森では、随分世話になったわ、美形ちゃん!」
勿論、彼にわかるであろうクラース語を用いて、である。それに、少々喘鳴が混じる声で、答えが返された。
「何だ。言葉、話せるんじゃないか。なら、こいつ、通訳に、いらなかったな」
その言葉と共に、一人の帝国人が、塔の上に連れられてきた。あの、糸目に短髪の、地味な騎士、ロンである。その姿を認めるや、女の口からリンダール語と共に、突然笑いが飛び出した。
「なぁに! ロン、お前、生きていたの? てっきり、もう死んじゃったかと思っていたわ! あははははっ。何、通訳としてこき使われているの? なっさけない!!」
「……ひ、姫様ぁ。そう言わないで下さいよぉ。誰のせいでこんな羽目になったと思って居るんですか。だいたいね、……私だって、南部熱で死にそうなんですよ」
そう言うロンの声も酷く嗄れていて、熱のためか、体もかなりふらふらとしている。
「姫様! 一人で行くな、と……! あ、あら、ロン様じゃ、ありません?」
ようやく赤毛の女の後ろに、キリカと紅玉騎士団の面々が追いついてきた。そして、塔の上に引きずり出されている男の姿を見つけるなり、空中で旋回したまま、驚いたように声をかける。
「まあ、ロン様、もしかして、人質になられていらっしゃるの?」
「おお、キリカ殿、おひさしぶりって……。そんな事言っている場合じゃありませんよ! 私はね、人質なんて生ぬるいもんじゃないんです! 本当に、この悪魔みたいな男、酷いんですから……。病人だろうが何だろうが、容赦なしですよぉ」
そう二人のリンダール人の間で交わされる会話を遮るように、白羽の男が、ずいと、ロンの前に割って入った。そして、未だ東塔の上空で、悠々と騎竜したままの赤毛の女に向けて、言葉を発する。
「書簡、確かに受け取ったぞ。ご、ゴホッ……。答えは、否、だ。我らはこの城を明け渡すつもりも、お前達に無条件降伏するつもりもない。即刻、この城から立ち去れ、この雌豚共!!」
「……め、雌豚……!!」
言われた拒絶の言葉より、最後の暴言が、何よりも、赤毛の女の癇に障ったようだ。その血色のよい頬をひくひくとさせて、言われた暴言の倍返しをする。
「お黙り! この鳥共が! こっちがせっかく譲歩してやって、命は助けてやるって言ってるのに、何よ、その態度は!! どうせ、この城の兵達はお前のように、病んで戦えない癖に! お望みなら、その頭、全員かち割ってやるわ!!」
その女の発言を受けて、白羽の男の口元が、にやり、と不気味に歪む。
「――あれ? そっちこそ、僕にそんな口、きいて良いのかな?」
何か、含むところがあるような、一筋縄ではいかぬ嗤いである。その美麗な顔に浮かぶ妖艶な笑みに、即座に女騎士達は嫌なものを感じ取る。その中で、赤毛の騎士だけが、その嫌な予感を振り切るように、言葉を紡ぎ出した。
「な、何よ! まさか、ロンを人質にして、私たちと交渉しようってわけ? 残念ね! あいにく、その男にそんな価値はないわ!!」
「……そ、そぉんなぁ〜、姫様」
明確に語られた自分の無価値宣言に、ロンは半べそでうなだれる。ただでさえ、辛い体を押して、こんな場所に引っ張られてきている、というのに、今度は、好きな女から、堂々と見捨てられたのであるから、無理はない。
そんな今にも床に突っ伏して、泣き出さんばかりのロンの頭を、コン、と小突いて、白羽の男は続ける。
「この糸目が盾の一つにもならん、ということは、重々承知している。これは、あくまで、通訳として連れてきただけだ。……この城には、もっと有益な人質がいるからな」
言うと、白羽の男は、後ろの南部軍の紋章をつけた兵に命じて、投石器を動かさせ始めた。その意味の分からぬ行動に、即座に空中で待機していた女騎士達が隊列を組み直す。
「気を付けて! 投石が来るかもしれない!」
と、部下達に指示を出しながら、キリカは、ふと奇妙な事に気が付く。……石が、見あたらないのだ。この空を舞って、騎士団に襲いかかるであろう石が。この東塔の何処を見渡しても、それがないのだ。
その事を訝しく思うキリカ達の前で、ガコン、という音を響かせ、投石器から、何かが投げつけられた。
「ジェック!!」
即座に、キリカは、近くにいた、紅玉騎士団最強の女騎士、ジェックに命じて、その投げつけられたものを回収に当たらせる。石にしてはえらく小さい、そして、少々固めの白い球体である。
「……一体、何なの……?」
キリカのその疑問の声と共に、ぱし、と小気味よい音を響かせて、ジェックの手に、その白い球体が収まった。重さは、それほどない、乾いた小さな球体。そう、まるで、丁度人の頭くらいの大きさの――……。
「――ひ、人の頭?!」
それは、文字通り、人の頭だった。だが、決して、生々しい生首、という訳ではない。さっき、ぱし、という乾いた小気味よい音を響かせただけあって、それは、固く、そして、無機質なものだった。
「が、骸骨!!」
女騎士たちの間から、小さく悲鳴のようなものが漏れる。
それは、紛う事なき、人の頭。肉が腐り、そげ落ちた後に、残るもの。白く、そして、固い、一つの髑髏だった。
「な、何のつもりよ!! こ、こんな骨、一体誰の……!!」
そう投げつけられた髑髏を横目に、赤毛の女がいきり立つ。それは、勿論、後ろの女騎士達とて、同様である。こんな、古ぼけた誰かも分からぬ髑髏一つが、一体、何だと言うのだろうか。
そんな女騎士達を前に、金の髪を、結わえる事もせずに風に靡かせた男は、それを、艶やかに一撫でして、彼女らを堂々と睨め付ける。
「分からない? それ、誰の骨か。……いいよ、教えてやろうか」
言うと、男は、投石器横に積まれている何かの山の前まで、その歩みを進める。そして、その掛かっていた布に手をかけると、何が起こるのか一切分からぬ騎士達の前で、上品に微笑んで見せた。そう、まるで、極上の貴公子を思わせる、優雅な笑みで。
その悩殺的に魅力のある笑みを受けて、小さく溜息を漏らす女騎士達の前で、一気に布がはぎ取られる。
そこから現れたもの。
その、あまりにも、退廃的な光景に、居合わせた一同が絶句する。
そこには、髑髏、そして、髑髏。
何十、いや、何百という髑髏が、山となって、積み上げられていた。
それは、あたかも、冥府の河原を思い起こさせるような、死の光景――……。
その上に、……髑髏が山と重なったその頂点に、男の足が、勢いよく乗せられた。まるで、踏みつぶすかのように、きつく乗せられたその足に、乾いた髑髏達が、軋みを上げる。
そして、その両足が全て髑髏の上に乗せられた時、その足の持ち主がゆっくりと、その体躯を持ち上げて、起きあがった。雨上がりの風に、さらさらと優雅に靡く金髪。蒼の空に、何よりも映える純白の翼。そして、何よりも、……全ての者を屈服させるが如く、光り輝くエメラルドの双眸。
その死臭漂うような、髑髏の原に、堂々と降り立ったその様は、もう、英雄、と呼ばれる男のものではない。そう、それは、あたかも――……死の世界を統べる冥王そのものの姿だった。
そんな冥王の如き男を前に、居合わせた女騎士、そして、味方の有翼兵すら、一言も声を出せない。ただただ、目の前の死の光景に、唖然とし、その口をぱくぱくと震わせるのみだ。
そんな沈黙の流れる中、ようやく、冥王の如き男が口を開く。
「――これ、一体、どこから持ってきた髑髏だと思う? ヒントは、これ」
そう言って、男は、懐から、一つの水鉢を取りだした。空中で待機している女騎士達にとって、塔の上で掲げられるそれは、遠目でよく分からないが、その独特の形は酷く見覚えのあるものだった。……そう、確か、自分たちが故郷で使っていたものに、よく似た……。それも、確か、重要な時だけ……。そう、確か、神への礼拝の時に――……。
と、そこまで思い当たった女騎士達の体が、一斉に震えた。そんな中、団長である赤毛の女が、恐る恐るその推測を口にする。
「そ、その水鉢があるってことは、まさか……。まさ、か……、せ、せい……」
「ご名答。お前らの言う聖地の遺跡からだよ。この城の地下に眠っていた、ね」
堂々と告げられたその正解に、しばらくの沈黙の後の、……絶叫。
「きゃあああああっっ!! せ、聖地の遺跡からですってぇっ!! ま、まさか、その骨、あ、あの遺跡にあるという神の証?!」
「な、な、な、何ていう冒涜を! 聖遺物に等しい骨々を踏みつけるなんて、何て言う男!!」
通訳され、知らされた事実に、もう、女騎士達は、半狂乱、と言っていい。それもそのはずで、自分らが神の地、と定めている信仰の対象である死者達が、こうして、目の前で辱められているのだ。それが、許容出来るはずがない。
そんなヒステリックに叫ぶ女騎士達を余所に、さらに冥王を思わせる男は、言葉を続ける。
「今から、この髑髏、一体一体、投石器にかけて、飛ばす。お前らが、この地から消えるまで、この聖遺物、とでもいうべき髑髏達の破壊は止まることがない。いいな」
……つまり、この髑髏達を壊させたくなかったら、ここから、即刻去れ、と言いたいのだ。
そのあまりにも破天荒かつ、冒涜的な取引に、同じ塔の上にいたロンが、堪らず男に食って掛かっていた。
「お、お兄サン! あ、あ、あ、アナタ、何て事ヲ! 神に泥を塗るようなそんな行為、平気でするなんて、悪魔! 悪魔ネ!! アンタ、間違いなく、悪魔ヨ!!」
「悪魔がどうした。そんなもの、何だ。僕は、この城の兵が守れるんだったら、悪魔にだって喜んで、この命差し出すぞ」
髑髏の上で、そう笑い混じりに答えられる返答に、ロンは初めてとも言える激しい眩暈を覚える。とても、理解が出来ぬほどの、傍若無人ぶり。
一方で、男の行動に絶句する周囲とは対照的に、一人、赤毛の女だけが、言われた取引を、口を歪めて聞いていた。そして、返答だ、とばかりに、髑髏の男に向けて、一つ通告を飛ばす。
「甘いわね、美形ちゃん。お前がその投石器で聖遺物を飛ばす前に、この私のサーベルでお前を切り裂いてやるわ。だから、そんな脅し、私にはきかなくってよ」
言われてみれば、その通り、この距離なら、投石器を一度飛ばす時間があれば、即座に竜で、塔の上の兵を一掃できるだろう。その親切に告げたやった絶望的な状況に、女はさらに蠱惑的な笑みを浮かべて、要求を重ねる。
「今、おとなしくその聖遺物から降りて、私に土下座で許しを乞えば、生かしておいてやってもいいのよ、美形ちゃん」
その言葉に、女の笑みにも増した、妖艶な笑みだけが返ってくる。
「あっそう。なら、仕方がないな。――最終手段だ」
言うと、男は、その形のよい唇に手を当てて、意味ありげに、笑ってみせた。
「お前みたいな雌豚の愛玩動物になるくらいなら、死んだ方がましだ。この、聖地におわす、お前らの神と共にな」
言われた最後の台詞に、即座に、側にいたロンが嫌なものを感じ取った。その熱のある体を何とか動かして、白羽の男を止めると、すぐにその真意を問う。
「あ、アンタ、一体、何するつもりネ?! ま、ま、まさか……!!」
にや、と目の前の美麗な顔が、凶悪に歪む。そして、吐き出される、衝撃の言葉。
「なあに、あの神のいる地下の遺跡、ぱあーーーっ、と焼いてやろうと思ってね。うん、もう、動ける南部兵、配置済みなんだ。僕の口笛一つで、油まみれのあの地下、おじゃん、さ」
「――ぎゃあああああああっっ!!!」
傷む喉に、かなり負担をかけるであろうと思われる叫びが、ロンの口から飛び出す。
「な、な、なんちゅう事を!! あ、アンタ、そんなことしたら、本国では、火あぶりの刑どころじゃ済まないネ! 地獄よ、地獄!!」
そう狼狽えるロンとは対照的に、掴みかかられた男の方は眉一つ動かすこともしない。ただ、さらに、驚愕の言葉を紡ぎ出すのみである。
「はっはっは。火あぶりか、それもいいな。ロン、一緒に死ぬか」
「は、はあ? し、死ぬって、何なのネ?!」
汗まみれでそう問うロンの前で、男はまるで友愛、とでもいうような親しげな視線を彼に向けて言う。
「うん。実は、もう、この城全体に油、撒いてあるんだ。いや、昨日で雨が止んでくれて良かった、良かった。安心しろ、ロン。火あぶりってのは、弱火でじっくり焼かれると辛いらしいが、強火で一気に焼かれると、すぐに窒息死出来て、楽らしいぞ。ま、遺体は丸焦げになるがな。うん、大丈夫、大丈夫。僕、一回この城に、火、つけたことあるし、失敗しないから。火付けは得意中の得意だ。任せろ」
……ま、任せろ、じゃねえぇぇぇえええええ!!!
もう、その言葉すらも、ロンの口から飛び出すことはない。ただ、ぐったりと、髑髏の上にうなだれて、小さく呟くより他にない。
「ま、魔王だ。……魔王がいるよ……」
「ま、魔王だわ。……魔王に違いありませんわ、あの男」
あまりの男の冒涜ぶりに、流石のキリカですらも、恐れおののいて、そう呟く。今までに、見たことも、会ったこともないような、激しく、そして、したたかで、不貞不貞しい男。
そんな男に、侮蔑の目線を向けるキリカの横で、突然、高らかな笑いが響き渡った。
「あははははははっ!!! 面白い! 本当に、面白い男っっ!!」
見ると、赤毛の女が、その高慢な香りのする顔を、まるで少女の様に無邪気に歪めて笑っていた。本当に、心底、楽しい。そんな笑いである。
「ここまで、いい男だと思わなかったわ! 美形ちゃん! 名は何というの?!」
けらけらと悪意のない声で言われたその問いに、髑髏の上の男は、その金の髪を一つ掻き上げて、答える。
「……リュート。リュート・シュトレーゼンヴォルフ」
「リュート。素敵。私は、エリーヤ=ミーシカ・ハーン。エリーでいいわ」
嬉しそうに語られた姫君の名に、隣に居たキリカが驚く。何故なら、この姫がエリーという愛称を許す人物なんて、この姫の母以外に居なかったからだ。自分にも、そして、幼なじみのロンにも許されぬ、その幼い愛称。
その教えられた愛称を、眼下にいる男が、堂々と口にする。
「エリーか。エリー。どうだ。ここは引いてくれないか。この、聖地を焼かれたくなければ、だ」
その要求に、ふん、という鼻息と共に、蠱惑的な笑みが返ってきた。
「こんな聖地、焼かれたって良いけど、貴方まで焼かれるのは嫌ね。いいわ、貴方に免じて、引いてあげる」
「――姫様!!」
即座にキリカが制するが、女の口は止まることはない。
「そうね、ただ引くのも何だから、これからのことを約束してやってもいいわ。貴方が、本調子になるまで、我らは一切この城に手出しをしない、という約束もね」
それは、あまりにも破格な申し出だった。当然、居合わせた者全員が、信じられないといった表情で、赤毛の女を見返す。それは、勿論、堂々と髑髏の上に立つ男も例外ではない。
「そ、そんな約束まで……。何か、企んでいるんじゃないだろうな……」
「あら。そんなに、私が信じられない? なら、いいわ。文書にきちんとサインしてあげる。ほら、用意なさいな。私がそちらまで出向いて、サインでも拇印でも何でも押してやるから」
これまた言われた破格の申し出に、今度はキリカが食って掛かる。
「姫様! あ、貴女って方は……!!」
その言葉を聞くか聞かないの内に、赤毛の女はその愛竜に拍車を入れて、東塔に一人近づいていた。そして、風を纏いながら、ゆったりと、そのまま東塔の上に降り立つ。
突然降り立ってきた一体の竜騎士に、塔に居合わせた南部兵達が、色めき立つが、ここで、双方剣を交えようという気はないらしい。ただ、女は悠々と竜から降りると、その夕日の朱にも似た髪を靡かせて、白羽の男に近づく。
その女を前に、男は、近くにいたひげ面の男、アーリに命じて紙とペンを用意させると、つらつらとその紙に先に言われた条件を書き付けた。そして、それを対峙する赤毛の女に渡してやる。
「――サインしろ。お前の信ずる、神の名において」
「いいわよ」
受け取ったペンで、さらり、と女の名が記される。
それは、このルークリヴィル城の、一時の安息が約束された瞬間だった。
……リュートという、一人の男によって、勝ち得た、勝利の証、である。
それを女から受け取ると、一気にリュートの体から力が抜ける。まだ、熱が続いているのだから、無理はない。それを、抱き起こしたのは、意外なことに、今まで対峙していた女だった。ふわり、と女の艶めかしい香りが、男の鼻をくすぐる。
「姫様! その男に近づいてはなりません! 何をされるか……」
そう叱責を飛ばすキリカを後ろに、赤毛の女は、さらに男の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? かなり、体、辛かったのね」
「げ、ゲホッ……。は、離せ……。敵の女からの、ほ、施しは受けん……」
その強がりとも言える台詞を受けて、さらに女の蠱惑的な顔が近づいた。まるで、そのエメラルドの双眸を、ルビーの瞳に写し取らんが如く……。
「いい男ね。本当に、綺麗な瞳」
眼前に迫った美麗な顔から紡がれるその言葉に、どきり、と男の心臓が、音を立てた。そして、さらに、その耳に、魅惑的な言葉が届く。
「一つ、サイン、し忘れていたわ」
「えっ……」
言われた台詞に、思わず男は、その顔を上げた。そして、先に調印された紙を、再び取り出さんと、手を伸ばした、その時。
突然、その手が、女の手によって絡め取られた。
「ここに、ね」
ぐい、とその手を引かれたことによって、女の美麗な顔が近づく。勿論、その蠱惑的な唇も。
「――――っっ」
声が、出せない。
驚きの声が、全て、絡め取られていた。
女の唇に、そして、舌に。
「――姫様っ!! 何て事をっ!!」
あまりの出来事に、静まる周囲の中で、ようやく女騎士キリカの声だけが響く。
それと共に、離される、唇と、唇。
「素敵。絶対に、貰いに来るわ。貴方という男をね」
……無数の髑髏の上での、口づけ。
それが、女の、何よりも魅惑的な、挑戦状だった。
呆然として、声も出せない金髪の男の前で、花の様な赤毛が翻る。そして、嘶く、見事な駿竜。瞬きをする間に、竜は大輪の花を思わせる女を背に乗せて、空に舞い上がった。ばさり、ばさり、という優雅な竜の羽ばたきが辺りに響き渡る。
「それじゃあね。また、会いましょう、リュート」
それだけ残して、去りゆく竜を、残された有翼兵、そして、アーリが見つめる。そして、誰からともなく、あがる歓喜の声。
「やった! やったぜ、リュート様!!」
「……リュート様! リュート様ぁ!!」
「城が、……ルークリヴィル城が救われた!! 白の英雄が、この城を救ってくれた!!」
揺るがぬその事実が、アーリの心に激しく突き刺さる。
……本当に、本当に、勝ってしまったのだ。この男は、たった一人で、竜騎士団に、勝ってしまったのだ。
そう、自分の心に確かめるように、呟くと、自ずとアーリの目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「隊長っ……。隊長っ! あ、あんたは、ホントにすっげえよ、隊長! ……隊長?」
感激が心を溢れて、思わず英雄である男に、アーリが抱きつかんとした時だった。女が去ってから、英雄の顔が、俯いたままで一度も上げられていないことに気づく。そう言えば、さっきから、体の震えが止まらないようだ。変わらずに、髑髏の山の上で、一人、蹲っている。
……無理もない。熱の体を押して、あれだけのはったりかませて見せたんだ。もう、体の方も、限界だろう。こんなに辛かったのに、この人は、俺ら全てのために、命張ってくれたんだ。死なせるもんか、死なせるもんか!!
そう内心で叫んで、アーリは一目散に英雄の元に駆け寄って、即座に、その体を抱き起こした。そこには、ふるふると震えた、青白い顔。
「可哀想に、隊長。余程、体、お辛かったのに……」
寄り添うように、肩に手をかけてそう言うアーリの前で、ぼそり、と英雄の口から言葉が漏れた。
「……陵辱、された」
「――はっ?」
「陵辱された、陵辱された!! 女に、辱められた!! どうしよう、アーリ!!」
顔を真っ赤に、英雄は、そう台詞を吐き出した。いや、英雄ではない。何か、少年の様な、いや、どちらかというと、恥じらう少女の様な、頬をバラ色に染めた、顔。今にも、火が出んばかりの、真っ赤な、……幼い顔である。もう、今にも半べそをかきそうなその顔は、とてもさっきまで、髑髏をぶん投げていた男のものとは思えぬほどに、初々しかった。
「ちょ……、陵辱て、隊長。たかが、キスでしょ? そんなこと、今時処女だって言いませんよ」
呆れたようにアーリが言った言葉に、さらに、英雄の顔が真っ赤になる。
「ば、馬鹿!! 処女とか、そんな恥ずかしいこと、言うんじゃない! 破廉恥だろう!!」
「は、破廉恥、てね、あーた……」
「だって、あ、あんな許可も取らずにするなんて、破廉恥以外、何者でもないだろう! 娼婦だって、していいかどうかくらい聞くぞ? ……娼婦以下じゃないか、あの異民族の女! ……そんな女に、……されるなんて、どうしたら……」
「あの、もしかして、隊長。あ、あんた、初めてって事は……」
――バキッ!!
アーリの顎が、小気味よい音を響かせていた。
「う、うるさい、うるさい、うるさいっ!! 馬鹿っ!! 死ね、アーリ!!」
……ああ、何だろうな、この生き物。
アーリは、先まで魔王と言われていた男が持つ、少年の顔に、感慨深げにそう呟くよりない。
騎士団を敗走させ、並み居る貴族共を蹴散らすことの出来る男が、……この、体たらくである。少なくとも、こんな生き物、アーリが今まで生きてきた中で、一度も出会ったことがなかった。
「……いや、隊長。あんた、すげえよ……。うん、色んな、意味で」
そう呟きながら、アーリは、覚悟していた。……この男の生き様を見届けるまでは、死ねないな、と。
一方で、去りゆく騎士団と、そして、髑髏の上で、真っ赤に半べそをかく魔王の姿を見比べながら、ロンは、ある種の感慨を胸に、一人溜息をついていた。そして、この場にいる誰も理解出来ぬリンダール語で、また一人、小さく呟く。
「いやぁ、面白い。面白くなってきた。姫様も、このお兄さんも、実に面白い。こりゃ、絶対、ここで死ねないな」
それだけ言うと、またその体温が上がって来るのを感じながら、くるり、と踵を返した。そして、南、……遙か遠くの故郷まで思い馳せるような遠い瞳で、一つ、零して、塔の上を去っていく。
「――将軍閣下。あなたのお望み、叶うやもしれませんよ」