第五十九話:武人
――紅玉騎士団、出陣。
その一報は、ルークリヴィル城の南東に位置するガンゼルク城に、早々と届けられていた。
現在、感染していない国王軍の本体が駐留するこのガンゼルク城は、リヴィル盆地にある要所ルークリヴィル城の東の守りとして、盆地を囲む東のガンゼルク山に、建設された堅城である。周囲の山々の中でも最高峰の山頂に建設されたこの城からは、主城ルークリヴィル城は勿論、その他の方角にある城や砦が一望することが出来、それ故、この城を落とすことは、ルークリヴィル城、果ては、その周囲の城を脅かす事を意味しているに等しい。
そんな要城、ガンゼルク城を現在取り仕切っている元国王軍、第三軍副団長ニルフェルド・ゲッチェルは、その一報を聞くや、即座に兵を城の守備に就かせ、自分も戦いに備え、自室にて、具足の用意に入った。誰もいない自室、……本来ならば、リュートが居るべき城の主室で、手っ甲を付けながら、ニルフは決意するように、一人ごちる。
「何としてでも……、何としてでも、ここは守らねば……」
ここが落とされれば、次は間違いなく、ルークリヴィル城である。あの、今南部熱の患者で溢れかえった、そして、英雄であるリュートが伏せっている、あの城、である。
それだけは、何としても防がなければならない。何としてでも。
「何と、してでも……」
内心の思いが、そう口をついて出る。だが、その声が震えているように聞こえるのは、まんざら聞き間違いではない。
……恐ろしいのだ。
王都で、武人の家柄に産まれ、当然の事として、第三軍の副団長の地位を得たニルフである。だが、そんな誇り高き武人とは言え、現在までに彼が経験してきた戦といえば、せいぜいが王都や村々を襲う夜盗や、反国王派組織の連中ばかり。所詮、皆、素人相手だったのだ。
それが、今回は違う。
相手は、この国を脅かす強敵、竜騎士。それも、精鋭しか入れぬ、と言われる独立騎士団の一つ、紅玉騎士団なのだ。それが、女達によって構成されていることを差し引いたとしても、かなり分が悪い事は確かだ。
なにしろ、この城の最高責任者であるニルフには、正規軍相手の指揮経験がない。そして、兵も、腕の立つ豪傑も、そして、リュートも病に伏せっている。それに加え、この、雨だ。気象士の話によると、じきに止む、との事だが、今、……この紅玉騎士団が来ようとしている今、止まねば、意味がないのだ。何故なら、雨は、有翼の民のシンボルである背の羽に染みこんで、著しくそれを重くする。風の力を借りれば、飛べない事はないのだが、飛行能力は著しく落ちる。それは、飛竜も同じ事なのだが、どちらが体力があるか、と問えば、これは飛竜の方に分がある、としか言えないだろう。
つまり、雨の防衛戦ほど、勝ち目のない戦はないのだ。その難戦を、この経験のないニルフが担わねばならないのだ。
……これが、恐ろしくないことなど、あろうか。
ニルフは、内心でそう呟くと、新しく支給された剣を手に、がっくりとうなだれる。
震えが止まらない。手も、足も、体も、そして、心も、だ。
「こ、こんな戦を、……あの方は……、リュート様は勝ち抜いて来られたのか……」
口に出して言うと、自分が、この人こそ真の主である、と見初めて付いてきた男の事が嫌でも思い出された。
あの王都最強と謳われたリザを、一撃で伸した男がいると聞いたときの期待感。そして、闘技場での手合わせの時に感じた、期待以上の強さと、気高さ。これこそが、真の主が持つべきカリスマ性と、惚れて、かつての主君を見限ってまで付いてきたのだ。
今、その男が、自分の前に居ない。
あの、英雄が、……凛として、兵の前に立ち続けていた男が、居ないのだ。
「リュート様、リュート様……」
そう名を呼んでも、英雄は現れない。
彼は彼で、死の淵を彷徨っているのだ、と分かっていても、それでも、彼という存在を求めてやまない。一人の男として、誇りを持って、今まで生き、そして、一人の武人として、王都でくすぶるよりも、戦いに生きたいと切望して付いてきたはずなのに、今、狂おしいほどに、一人の男の存在に固執している。自分より、年下の、そして、かつては平民として育った男に、である。
……生まれながらの武人であるというのに、小生は、何と情けない男であるか……。
そうニルフが自分の偽らざる恐怖を自嘲した時、突然、主室の扉がノックされた。
もしや……、とあり得ない期待をほんのりと抱きながら、急いでドアを開ける。するとそこには、期待した白羽とは対極にあるような、小さな黒羽。
「――く、クルシェ様……」
ニルフがそう名を呼んで、絶句してしまったのも、無理はない。そこには、大公家の次男とはかけ離れた、そう、まるで一兵士のような装備に、弓を手にした少年が一人。
少年は驚くニルフに向かって、一歩も譲らぬような意志の強い目を向けて、口を開く。
「ニルフさん。僕も、……僕もここで一緒に戦わせて下さい!! 一弓兵として、皆と共に戦わせて下さい!!」
「な、何を……! クルシェ様! 貴方は大公家の御次男なのですよ? そ、そんな貴方に……!!」
「関係ありません! ここにいる者は、皆、一蓮托生! 僕一人だけ、おめおめと逃げる訳にはいきません! トーヤに、少し前からずっと弓を習い続けてきました。まだ、未熟ですが、少しはお役に立てると思います! どうか、僕も兵士達と守備に就かせて下さい! お願いします!!」
そこに居たのは、あの王都でもじもじと、自分の存在を否定し、家族から逃げるようにリュートの元に転がり込んできた弱い少年の姿ではなかった。そして、高位貴族、大公家のお坊ちゃんでも、リュートに守られ続けてきた少年でもない。
纏っている装備は、おそらく下級兵士からでも借りたのであろう。かなりボロだが、そこには、何者にも増した、一人の誇り高い戦士の姿があった。
その凛とした、……今は病に伏しているあの英雄を思わせるような……、力強い眼差しに、ニルフの心が激しく揺れる。
……ああ、小生は、本当に、何を、悩んで……。
こんなに、幼い少年が、もう腹を括っているのに、こんなに身分の高い家柄の少年が、もう、これ以上ない男の覚悟を決めているのに、何を自分は……。この、生まれながらの武人である自分は何を……。
ぱちん、と音を立てて、ニルフの中で、何かが弾けた。
そして、心に広がっていた不安を、全てかき消すほどの、高揚感。……血が、……生まれながらの武人としての血が、どうしようもなく、滾る。
何のために、自分は幼いときから、剣を握り続けてきたのか。何のために、自らを鍛え、そして、この地に赴いたのか。
潰れた手の血豆を眺めながら、そう自問したとき、自ずと答えは、出ていた。
「戦いましょう、クルシェ様。共に、――生きるために」
雨が、視界を酷く悪くしていた。
城の一番高い見張り台からすらも、見通すことが出来なかったのだ。あの、炎のような髪をした、女騎士。そして、彼女に付き従って、風に乗るより速く、城に近づいて来ていた騎士団すらも。
気付けば、もう飛竜の鳴き声が間近に迫っていた。そして、雨空を覆い尽くさんばかりの竜騎士も。
ぎゃあぎゃあと、けたたましく竜が雨空に鳴く。先よりは、些か弱まった感のある雨脚も、やむまでは至っていない。山頂の城壁を、城壁の上の投石器を、そして、その後ろに配備された兵達の鎧を、しとしとと濡らしたままでいる。
そんな雨音と、竜の鳴き声の響くガンゼルク城に、よく通る女の声が、木霊した。
「聞け! ガンゼルク城の有翼兵よ!! 我こそは、リンダール帝国皇帝が異母妹、エリーヤ=ミーシカ・ハーン!! 聖地奪回の為、はるばる海を越えてこの地に来た! この雨、そして、兵力、双方を鑑みても、貴公らの敗北は火を見るよりも明らかである! 無益な殺生は好まぬ! おとなしく降伏し、即刻この城を明け渡すなら、捕虜として、その命、保証しよう!! さあ、返答や、如何に!!」
つらつらと、城壁外に騎竜した女の口から語られたその言葉は、この城の誰もが理解できるクラース語だった。その事に、有翼兵達は些か動揺しながらも、誰一人、語られた内容に首を縦に振る者はいない。ただ、皆、凛として、城壁外に待ち受ける女騎士達を睨め付けるのみである。
その堂々たる拒否の姿勢を受けて、騎士団の中心に騎竜している赤毛の女の口が、満足げに歪む。
「流石は、あの白羽ちゃんの配下ね。いい面構えばっかり。ホント、殺すのが惜しいくらいの男達。ね、キリカ」
そう、傍らで騎竜している麗人に同意を求めると、赤毛の女は、ばたり、と雨よけの為に纏ったマントをはためかせ、尚もその艶めく唇から、クラース語を紡ぎ出す。
「警告は三度まで! 三度の降伏命令を拒否の後には、我ら、手加減なく、この城を落としにかかる!! 良いな! では、二回目だ! ――降伏しろ! この紅玉騎士団、団長エリーヤ=ミーシカ・ハーンの前に!!」
振られることのない、首、そして首。
それに、女の口元がさらに歪む。
「三度目! これが最後よ! 降伏なさい!!」
その最後の勧告に、返ってきたのは、城の一番高い塔の天辺に、堂々と打ち立てられた旗だけだった。
ばさり、という小気味よい音を響かせて、旗に描かれた図柄が露わになる。
――右を向いた、有翼の獅子。
他でもない。リュートの紋章である。
それを、一人の少年が、堂々と雨の中、見せつけるように、打ち立てている。そして、その黒曜石に似た瞳で、赤毛の女の瞳をにらみ返すと、一言言う。
「リュート様を、……殺させはしない。絶対に、ここは、通さない」
少年のその揺るがぬ言葉を受けて、城に配備された兵が一斉に雄叫びを上げる。
――帰れ、空も飛べぬ雌犬共!
――帰れ、帰れ、帰れ!!
そして、響く、男の声。
「帰れ、侵略者!! ここは一歩も通さん! この白の英雄の一臣下、ニルフェルド・ゲッチェルの名にかけて!!」
それが、三度目の、堂々たる拒否の言葉だった。
「――惜しいわね。本当に、いい男達」
艶めく口を、ほんのりと緩ませて、女の腰のサーベルがすらりと抜かれる。それと共に、赤毛の背後に掲げられる、槍、そして戦斧。
「紅玉騎士団!! ――突撃ーーーっっ!!!」
その声と共に、ガンゼルク城に、赤い花が咲き乱れた。
空を舞う女達の得物から咲かされるその花は、ガンゼルク城を覆い尽くさんばかりに、辺りを真っ赤に染め上げる。雨に流されても、流されても、とどまることのない、鉄の匂い漂う、紅の狂乱。
それは、まさに紅玉騎士団の名に恥じぬ、見事な蹂躙だった。
瞬く間に、城壁上に配備した兵らが、全滅させられる。
その様子を、クルシェは塔から移動した城内の三階、矢を射るための狭間から覗いていた。
「トーヤくん、まずいよ! 城壁にもう殆ど兵士が残っていない! 早く援護を!!」
そう隣にいるトーヤに言いながら、クルシェも用意していた弓矢に手をかける。あの、王都で、剣の才能がない、と言われ、トーヤが教えてくれた弓だ。正直、トーヤの腕にはまだまだ敵うべくもないが、一般の弓兵程度には腕を上げていると自負している。だが、それは、あくまで、動かぬ的相手の話。空を縦横無尽に翔け回る竜騎士に通じるかどうかは未知数である。
そんな不安を打ち消すかのように、クルシェの隣の狭間で、弓が小気味よい音を響かせた。そして、狭間から聞こえる、竜の嘶き。
トーヤの弓が、見事に竜の右目に命中していた。
「クルシェちゃん! 乗っている騎士より、竜を狙って!! 的が大きいし、竜がなければ、奴等は墜落するしかないんだから!」
「わ、わかった! やってみる!!」
迫り来る恐怖の為だろうか。いつになく、弓が固い。クルシェは、不安を打ち消すように、力を込めて、その弓を引き絞る。そして、矢狭間から覗く女竜騎士の一人に狙いを付けて、ごくん、と唾を飲み込んだ。
……こ、この弓で、人を殺すんだ。
改めて、そんな思いが心を過ぎる。だが、今、そんな感慨に浸っている暇はない。目の前で、兵士達が殺され続けている。そして、これから、あの英雄が、殺されるかもしれないのだ。
そんな事が起こるくらいなら、この手を血に染める事など、構いはしない。恐ろしくない、と言ったら、嘘になるが、それでも、心をここに、力強く踏ん張ることが出来る。
……後ろに、貴方がいてくれるなら――……。
「クルシェちゃん! 今だっ!!」
ビシュッ、という風切り音を響かせて、クルシェの矢が、放たれた。
「が、ガンゼルク城に、騎士団が襲撃しているだと?!」
高熱で霞むリュートの頭に、絶望的な報告が届く。
エルダーにいる蒼天騎士団に感染させる為に、あの捕虜だった騎士らを送りつけてから、数日間に渡って、リュートは高熱にうなされ続けていた。それは、ようやく起きあがれた今日になっても、改善されていない。まだ、頭の半分を持って行かれたように、ふらふらと視点が定まっていない状態だ。
そんな体を押して、リュートは報告をしにきたアーリが驚くほどの勢いで、ベッドから、飛び降りて見せた。そして、即座に、部屋に立てかけてあった剣に手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと! た、隊長!! ま、まさか、そんな体で行かれるつもりですか!? や、止めて下さい!! あんたまで殺される!!」
「離せ、アーリ!! あの城には感染を免れた兵、それに、ニルフ、トーヤ、クルシェだっているんだ! 彼らを見捨てることなど、僕には出来ん!!」
「だ、だからって、あんたまで死んだら、どうなるんですか! この城にいる病人は? ここにいる兵は、殆ど戦えないんすよ?! その上、あんたまでいなくなっちゃあ……!!」
「黙れ、アーリ!! あの城が落ちたら、どの道、この城も危ないんだ!! 僕は、行くぞ! 何としてでも行く!!」
本当に、追いつめられた獣のように、リュートは、何処にそんな力が残っているのだろうとでもいうような力でアーリを振り切る。だが、アーリとて、このままリュートを死地にむざむざと送り出すことなど出来ない。
「……悪い、隊長!!」
言うとアーリは熱でふらつくリュートのみぞおちに、一つ拳を入れた。いつもなら、こんなに簡単に急所に入るはずがない拳が、いともあっけなくリュートの意識を失わせた。
「わりぃ……、隊長。ニルフ、トーヤ、……クルシェ……。踏ん張ってくれ……」
アーリがその長く伸びた前髪の下で、涙を滲ませ、そう吐き捨てる。だが、その声も、降り続ける雨の音にかき消され、誰に届く、という事もなかった。
「クルシェ様、トーヤ! ここに居ましたか!!」
城内の狭間から、引き続き弓を撃ち続けていたクルシェ達の前に、十字傷の男、ニルフが現れていた。その剣も、全身も血と雨にまみれ、今まで彼が外で行ってきた戦いが如何に激しいものだったかを無言で語っている。そんな彼が、この城内に慌てて駆けつけてきた事にクルシェは即座に嫌なものを感じ取る。
「ニルフさん! どうしたんですか? ぼ、僕なら大丈夫です! まだ、弓、撃てます! さっきだって……」
先に撃ったクルシェの最初の一撃は見事に、女騎士に命中。それからトーヤと協力して、彼ら少年弓兵二人は、既に三体の竜騎士を仕留めていた。その事が、微かな自信となって、口をついて出たのだったが、そのクルシェの言葉を否定するかのように、ニルフはその首を横に振った。
「……もう、もう、……駄目なのです。この城は、……もう、駄目です」
静かに、伏せた目で、ニルフはそう語った。
その衝撃の言葉に、即座にトーヤが食って掛かる。
「そ、そんな、駄目って! ま、まだ戦おうよ! ボクら、ボクら……、ま、負けちゃうってこと?」
その問いに、ニルフは首を縦にも横にも振らない。ただ静かに、少年達の肩を抱くと、今の状況を彼らに伝えてやる。
「もう、外の守備兵は殆ど残っていません。後は、城内に立てこもっての籠城戦になるでしょうが、中に残っているのは、弓兵や、未熟な兵達のみ。とても、勝ち目はありません。何としてでも、この城だけは、と思うておりましたが、いかんせん、小生の力不足のせいで……」
「……そ、そんな! そんな……」
震える声で、クルシェまでニルフの首元に詰め寄る。そんな興奮する少年二人の小さな肩を、ニルフは愛おしげに抱いて、小さく告げる。
「逃げなさい。小生が時間を稼ぎますから、二人で逃げなさい」
「に、ニルフさん! そんな、そんなこと……!!」
絶句するクルシェに、諭すような声が届く。
「良いのです。小生は、武人。覚悟は、出来ております」
「な、何言ってるんだよ! ぼ、ボクらだって、同じ兵士なんだぞ! 一緒に戦えるよ!」
「いいえ、トーヤ。これから城内戦になります。そうなったら、君ら弓兵がどれほど戦えますか? かえって足手まといの君たちなんか、ここにいたら迷惑なんです!」
これが、ニルフの本心からの言葉でないと、クルシェもトーヤも分かっている。ただ、彼の献身的な優しさに、身を震わせ、涙ながらにその体に抱きつくしかできない。
そんな少年達を愛おしげにかき抱いて、ニルフは言う。
「小生は、武人です。武人とは、一体何のためにあるのか。ようやくここに来て、分かりました」
「ぶ、武人……?」
「はい。武人とは、武勇を誇るためにあるのでも、武を持って人を屈服させるためにあるのでもない。武人とは……守るために、あるのです。……大切な者を、無辜の民を、そして、未来を紡ぎ出す、若い命を」
それは、どこまでも澄み切った、一人の男の覚悟だった。
そんな誇り高い男に、これ以上、未熟な自分たちが言える事など、有りはしないのだ。
クルシェとトーヤの心に、その思いが突き刺さる。
「に、ニルフさん……。はい、……はい」
涙と鼻水を拭いながら、ようやく少年達の首が、縦に振られる。それをさらに、愛おしげに抱きながら、ニルフは若い命達に告げる。
「小生に、心残りがある、とすれば、それは一つです。ただ、……あの方と、あの、誇り高き我が主人と共に、戦えなかった事だけ。あの方の采配を、この目で見届けられなかった事だけです。それを、……君たちの目で、どうか見届けて欲しい。それだけが、小生の願いです」
「はい……。はい。必ず、必ず僕たちは生き伸びます。そして、貴方の、……ニルフさんのその願いを、必ずや……」
かわされた約束に、一人の武人と、二人の少年達の間で、笑みが交わされる。覚悟を決めた男達の、意志を宿した、悲しい笑みが。
そして、翻る少年達の羽。
……目指すは、城の最下層。そこの厨房にある勝手口から、外に脱出し、敵軍の中をかいくぐる。
――大丈夫、僕たちなら、それが出来る! 必ず、生き延びる事が出来る!!
そう決意し、城の階段を下りたって行く少年達の後ろ姿を見送るニルフの耳に、城内に轟く破壊音が届く。
おそらく、飛竜の体当たりで、城内に通じる扉が破られたのだろう。一気に城内に木霊する、女騎士達の声。
その声を間近に感じながら、ニルフは一呼吸置いて、その腰の剣に手をかけた。そして、一人、小さく呟く。
「武人としての我が人生、ここに……極まれり」
それと同時に、すら、という音を響かせて、剣が抜かれた。
足音が、近づく。
有翼の民のものとは明らかに違う、拍車を付けた、軍靴の足音。
それを聞きながら、ニルフは自分の顔に痛々しく残る、十字傷に手を伸ばした。
かつて、主君と仰いだラディルを守るために夜盗によって付けられた傷。自らの手で、大切な主君を守ることを誇りに思い、些かの迷いもなかった、あの幼き日。あの、今はその心も、遠く離れてしまった、あの男。裏切られ、そして裏切ったあの男も、今はただ、懐かしい。
「さようなら、ラディル様。そして、……今生の主、リュート様」
ニルフの剣が、柄を鳴らして、構えられる。
そして、最後に、轟く、武人の咆哮。
「ここは、通さん! 我が主人、白の英雄の御為に!!」
――はあっ、はあっ……。
息を切らしながら、クルシェとトーヤは一気に城の階下に駆け下りる。後ろには、女騎士の怒号が迫ってきてる。その事が意味することは、つまり……。
後ろで起こったであろう推察される悲劇を、全て飲み込んで少年達は駆け続ける。
生きるために。男の遺志を継ぐために。
「クルシェちゃん! こっちだ! 椅子でバリケード作って、扉塞いで!!」
城の厨房に駆け込むなり、トーヤがそう指示を飛ばす。それと同時に彼は、厨房の裏口に手をかけて、即座に外の様子を窺った。
そこには、一際大きな武装飛竜に乗った、戦斧を構える女騎士の姿。男でも敵わぬような見事な体躯をした、亜麻色の肌の女だ。どうやら、有翼兵の討ち漏らしのないように、城の下層部分を旋回しているらしい。幸いにして、今は、この覗いているトーヤ達の存在には気づいていないようで、ただただ、雨の中をゆったりと飛び回ってる。
「まずいよ〜! なんかしんないけど、化け物みたいな女がいるよぉ! あ、あれを突破しなきゃなんないわけ? むりむりむり!!」
ぎらりと光る女の巨大な戦斧に、恐れを抱いたトーヤが、勝手口を再びきつく閉じる。
「無理って……! じゃあ、どうするんだよ! もう、後ろにも……」
そうクルシェが言うか言わないかの内に、バリケードを張った厨房の扉が激しく叩かれた。女の声がすることから、おそらくここまで騎士が迫ってきたのだろう。その恐怖に、少年達は抱き合って、部屋の隅に震える。
「ど、どうしよう。……どうしよう、トーヤ君」
「わ、わ、わかんない、わかんないよ、クルシェちゃん。ぼ、ボクら、まさか、ここで……」
口にすると、より一層恐怖が増した。……外には強靱そうな、あり得ない大きさの斧を構える亜麻色の肌の女。城内には、おそらくニルフを斬り殺したのであろう女騎士達。
とてもではないが、逃げ場は、ない。
「と、トーヤ君。ぼ、僕が敵、惹き付けるから、君、その間に逃げなよ」
亜麻色の女が外に待ち受ける勝手口の扉を、薄く開けながら、クルシェがそう提案する。酷く怖いのであろう、声が震えている。だが、どこか一本芯が通ったような、紛う事なき男の声音だった。
ここに来て、痛いほど感じさせられるそのクルシェの成長ぶりに、自ずとトーヤの目から、涙がこぼれ落ちる。
「な、何言ってんだよ! ぼ、ボクは腹黒とか言われてるけどさ! 確かに自分でも性格悪いの自覚してるけどさ!! でも、……でも、ボクは、友達見捨てるほど、性格悪くないよ!!」
「――と、友達?」
言われた言葉に、クルシェの瞳が激しく揺れる。
「違うのかよ!! ボクら友達じゃないのかよ! ボクはそう思ってるよ! クルシェちゃんが大公家の坊ちゃんであろうが、ボクがしがない下級貴族の落ちこぼれだろうが! ずっと、ずっと、友達だ!!」
「……トーヤ君……」
……今、死が目前に迫って来ていると言うのに、どうして、こんなにも勇気づけられるのか。この死の淵に来て、その言葉を聞けただけで、どうして、こんなにも奮い立つことが出来るのか。
「行こう、トーヤ君。共に、戦おう」
少年二人は互いに頷き合うと、今まで使う事がなかった腰の剣に手をかけた。そして、亜麻色の肌の女騎士が外に待ち受ける扉を開かんと、手を伸ばす。
……これが、僕らの戦いだ。共に、最後まで生きるための。
そう決意し、少年達が扉を押し開かんとした――その時。
後ろの厨房で、何か、聞き慣れない音と、そして、聞き覚えのある男の声が響いた。
「姫様!! ガンゼルク城、城内全て、兵舎、厨房に至るまで、制圧完了致しました!!」
そう赤毛の女が騎士の一人から報告を受け取ったとき、既に雨が上がり始めていた。見れば、西の空に、うっすらと青空まで覗いている。
……久しぶりの、空だわ。
そう一人ごちると、赤毛の女は、血と雨で濡れた城壁にようやく降り立つ。そこには、女騎士の槍や戦斧によって、無惨に斬り殺された有翼兵の死体の山々。その恨みがましく見開かれた目を、一つ一つ、赤毛の女はそのルビーの如き双眸で見つめる。
どんな無惨な死体でも、その目が逸らされることは、決してない。
……これが、私のしたことだもの。
その小さな呟きが、紅き城に小さく溶ける。
そんな赤毛の女の元に、一体の死体が運ばれてきた。見ると、それはなかなか端正な顔立ちをした、まだ若い男だった。紫の羽に、そして、その端正さに惜しいような、痛々しい顔の十字傷。その胸には、おそらく槍で一突きにされたのであろう、血にまみれた穴が空いていた。
「姫様! どうやら、この男がこの城の最高責任者のようです。如何致します? 首を切って、ルークリヴィル城に送りつけますか?」
その残酷とも言える女騎士の言葉に、ゆっくりと赤毛が横に振られた。
「いいえ。丁重に葬りなさい。ここの兵士、皆ね」
言うと、ばさり、という音を立てて、赤毛の女のマントが外された。そして、それをそのまま、死した十字傷の男の体に掛けてやる。
「この男達は、逃げずによく戦ったわ。本当に、いい男達。そんな男を辱めるなんて、女の名折れよ」
それだけ言うと、赤毛の女は、その美しい顔や髪が汚れることなど気にせぬ風に、そっと布を掛けられた男の体を撫でてやった。
「私は、サイニーとは違うわ。自分のしでかした惨劇を、騎士道などという理想で誤魔化したりはしない。殺人は殺人。侵略は侵略。そして、戦争は、どこまでいっても戦争でしかない。汚く、残酷で、むなしいものよ。それから、私は、目を逸らさない。自分がしたことの責任を、この目に焼き付けるために。そして、その責任を取るために。それが、私の、……あの、黄昏の帝国の女帝になろうとするこの私の信念よ」
その言葉の意味を、側に控えていた女騎士、キリカだけが、痛いほどに理解していた。この、泥も、血も、全て被って生きていく事を、とうに覚悟した、赤毛の女の信念を。
「……姫様、我ら、貴女様と、どこまでも、共に……」
そう膝を折って、頭を垂れるキリカの前で、ばさり、と赤毛が翻った。そして、北西に広がる盆地、ルークリヴィル城の方角を見つめながら、女は告げる。
「――さあ、次は、いよいよ聖地よ」