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第五十一話:父子

「お、叔母上! 一体どういう事ですか! あの田舎者に金を出すなど! そ、それに我が父は、汚職の容疑で、今、司法長官の下で詮議されているのですよ! な、何故、そんな事に!!」

 

 突然の、東大公が倒れる、というアクシデントを迎え、一旦、休会、と言う形で、解散した御前会議の後、北の大公の息子、エイブリーが、納得いかぬといった面持ちで叔母に詰め寄った。だが、その当の本人である王妃エミリアは、そんな甥に一瞥をくれることなく、しずしずと、その歩みを進めて、大会議場を後にせんとする。それを追って、甥が諦めきれぬといった面持ちで、尚も彼女に言いつのった。

「ま、待って下さい、叔母上! ち、父上を助けてやって下さいよ! そうでなければ……」

 

「何故私が、足を引っ張る様な男を助けねばならないの。助けたかったら、自分でしなさいな、この寄生虫」

 

 誰もいない廊下まで来て、ようやく返された叔母の返事に、エイブリーは絶句する。とても、あの占い師や、ドレスにうつつを抜かしていた馬鹿な王妃が発したとは思えぬような言葉。そう、完全なる女策士の言葉だったからだ。

「お、叔母上……?」

「何よ、エイブリー。その顔は? 馬鹿にしていた叔母から、寄生虫と言われたのがそんなにおかしいの? ええ? 私の威光を笠に着るしか能のない馬鹿な甥のくせして。私、本当に貴方のような馬鹿が大嫌い」

 豹変、とも言えるその叔母の態度に、もうエイブリーは言葉もない。そんな惚けたような甥の顔を睨め付けて、さらに王妃が忌々しげに吐き捨てる。

「本当に、これがあの男と同じ甥だなんて、嫌になるわ。お前ときたら、欲しい物を目の前にすると、涎をたらたらと垂らして、本当にみっともないったら。いいこと? 宮廷ではね、欲しい物は笑顔で、素知らぬ顔をして奪い取る物なのよ。丁度、さっきあの男がやったみたいにね」

 そう言うと、嫌でも王妃の脳裏に、つい先までの御前会議でのもう一人の甥、リュートの姿が思い出された。

 

 あまりにも、圧倒的で、そして、あまりにも、見事な笑顔での蹂躙。

 その、華麗さに、腑が煮えくりかえらんほどに、嫉妬の念を抱きながら、それと同時に、果てしない安堵すら覚えた。

 

 ――もし、取引を持ちかけられていなかったら……。

 

 そう考えるだに、王妃はその身に、またびっしりと嫌な汗をかかざるを得ない。何故なら、もし、あのまま御前会議を迎えていたら、自分の身は、きっとあの兄の様にみっともなく詮議されていたのに違いないのだから。

 

 ……悔しい。

 どこまでも純真な笑顔で、宮廷に君臨してきたこの自分すら敵わぬ、あの甥の器量。それが何よりも悔しくて、何よりも恐ろしい。

 

 そんな自分の偽らざる内心を確認しながら、尚も、エミリアはその甥と同じ碧の目を、挑戦的に光らせてみせた。

 

「負けないわ。……負けるものですか」

 

 そう決意すると、王妃はその心の内で、甥であるリュートに宣戦布告する。

 

 ……リュートさん。ここは、私の負けよ。

 でもね、もし、貴方が再びこの王都に帰ってくる時があったら、その時こそ、貴方の息の根を止めてあげる。せいぜい、竜騎士共と、勇ましく戦って、華々しくお散りになることね。そうなったら、私はこの瞳に真珠の涙を浮かべながら、英雄の死を悼んで、素晴らしい墓でも作ってあげましょう。そして、衆人の前で、貴方を想い、おいおいと泣き伏して差し上げるわ。

 

「――それまで、ごきげんよう、リュートさん」

 

 

 

 

 

「ハルト! ギリアム!! ち、父上は? 父上は一体どうされたのだ!!」

 

 会議が中断するや否や、倒れ伏した東大公が運ばれた王宮の一室前の廊下に、父の側近の名を呼びながら、ランドルフが駆け込んできた。もちろん、レギアス、オルフェも一緒である。その言葉に、廊下に控えていた、レギアスの父、ギリアムが答える。

「若様! 今、薬師に頼んで、薬湯を飲ませました。お眠りになっておる状態です」

 その少々安堵するような報告を受け、ランドルフがギリアムに掴みかかった。

「お、愚か者! お前達が付いていながら、何という失態か! 今日、父上の体調がお悪いのなら、無理にでもこの会議の出席を止めるべきだったであろうが!」

「若様、それは……」

 何か、言い淀むギリアムを遮って、場に、もう一人の男の声が響いた。

 

「お待ち下さい、若様」

 

 振り返ると、そこには、グレーの羽を持った口髭の壮年の男の姿。この、会議に証人として出席するはずだった、リュートの義父、クレスタ伯ロベルトがそこにいた。

「若様、それは違いますぞ。お二方も、ここは私にお任せ下さい。私の口からご説明するのが、一番良いでしょう」

 そうハルトとギリアムに一礼すると、クレスタ伯ロベルトは、おもむろに大公が眠っているという部屋のドアを開けて見せた。

 

「さあ、どうぞ、若様。全てを……お話しします」

 

 そのいざないと共に、ランドルフはロベルトの案内で、部屋の中へと通される。部屋には、窓から差し込む午後の光に照らされた大きなベッド、そして、そこに横たわる自らの父、東大公ガンダルフ・ロクールシエンの姿があった。

 その目は固く閉じられており、顔色も酷く悪い。そんな父の惨状に、ランドルフは何か嫌な物を感じ取って、その身をびくり、と竦ませた。そのいつにない様子の彼を横目に、ロベルトが、東大公の枕元まで歩み寄って、ランドルフに告げる。

 

「若様、どうぞ、触って差し上げて下さい」

 

 ロベルトに促されるままに、ランドルフの手が、父の頬に触れる。以前はなかった、髭が蓄えられたその頬に、である。

 

「――っっ!!」

 

 その頬に触れた途端、ランドルフの体に、何か衝撃が駆け抜けた。何故なら、いつも頑健で、そしていつも威厳に満ちあふれていた父の顔、その髭の下に隠された頬が、げっそりと痩せこけていたからだ。

「ずっと、お体、悪くなっておられたのですよ」

 震えるランドルフに、静かにロベルトの言葉が届く。

「この髭もね、わざと蓄えられたのです。少しでも、病人に見えぬように、と」

 言われた言葉に、ランドルフの脳裏に、この王都に来た日の会話が蘇る。

 

 ――『そうか、似合っておらぬか。それは最高の褒め言葉だな』

 

「い、い、いつから……」

 何か、砂でも詰め込まれたように、上手く回らぬ口で、ようやくランドルフが尋ねる。

「ずっと、前からです。そうですね、あの我が家に、息子らが呼び出された手紙を書かれた時より、ずっとです」

「……そ、そんな、前から……」

「はい。仰っていたでしょう? のっぴきならない事情があって、この王都からレンダマルまで帰らなかったと。帰らなかったのではありません。帰れなかったのです、ランドルフ様」

 ……か、帰れなかった、だと? そ、それほどに、悪かった、ということか……?

 告げられた衝撃の事実に、再び、げっそりと痩せた父の頬のやるせなさが、ランドルフに突き刺さる。

「お気づきに、なられませんでしたか? この方、いつだって、お座りになったままでしたでしょう? 貴方をこの王都に迎えた時も、そして、祝勝会の時も、この方、一度もその腰をあげてはおられませんでした。それだけ、お辛かったのでございますよ」

 

 ――『あんた、分からない? 一緒にいて、分からなかった、ランディ?』

 

 リュートの言葉が、脳裏に蘇る。

 ……ああ、あいつは、薄々気づいていたのだ。この、親父の体調に。だから、だから、私に、……後悔しないでね、と。

 

 あまりの事実に、ランドルフの足が、がくがくと震える。そんな彼に構わず、ロベルトは再び、静かな声音で、ランドルフに問いかけた。

「ランドルフ様。この方が、何故、今になって、我が義子リュート様をクレスタから引っ張り出してきたか、お分かりになられますか」

「……え?」

「この方はね、西の大公様の葬儀に出席される為に、この王都に来られた。そこで、自分の体の異変にもお気づきになられたのです。そして、もう、長くない命だ、と医者に宣告されました」

 淡々としたロベルトの言葉一つ一つに、ランドルフの心が激しく揺るぐ。

「そこで、このお方が、お考えになったこと。それは、もう長くないこの命を、全て東部のために、そして、その東部を治めるであろう貴方の為にお使いになろう、と決心なされたのですよ」

 

「わ、私の為だと……?」

 ランドルフの問いに、ロベルトは何かに思いを馳せるようにして、その瞼を閉じた。

「はい。この方は、西の大公の死去に伴って、北の大公が勢力を伸ばして来ることを非常に懸念なされた。それ故、レンダマルに帰って療養する、という手段を取らず、この王都で毒蛇共と戦われる決意をなされたのですよ。あの銀狐を牽制し、なるべく東部に不利益をもたらさぬように。東部が、これ以上不遇な境遇に置かれぬように、水面下でずっと戦いになっておられたのですよ」

「そ、そんな、ば、馬鹿な……」

「若様、思い出されませ。我が東部が如何なる立場にあるか。中央には、最後まで臣従しなかった反骨者として嫌われ、そして、その内部には未だ独立気運を持った過激派を有する。貴方だって、その輩に殺されかけた事がお有りでしょう? そんな、不安定な地、東部を、この方は何としてでも治め、そして守ろうとなさったのです。その為の一つの手段が、我が義子であった、リュート様でした」

 言うと、ロベルトはその懐から、一通の手紙を出して見せた。あの、リュート兄弟をレンダマルに呼んだ、運命の手紙である。

「貴方もご存じの通り、我が義子は、その出生の秘密によって、我が元に秘された重要なカードでした。でも、大公様は、そのカードをお使いになることをずっと嫌っていらっしゃったのです。そんなあやふやな王子であるかもしれない、という者を使って、宮廷を牛耳ろうなど、下賤な者の考えだ、として、ずっとリュート様を私の手に委ねて下さっていたのです。ええ、本来ならば、あれは、何事もなく、伯家の養子としてその一生を終えるはずだった。でも、その西の大公様の死亡により、宮廷勢力は著しく北に傾き、そして、それと戦うべき自分の命も短い。そう、悟られた時、この方は今まで忌み嫌い続けていたカードを、切る決断を成されたのですよ。それ故の、この、手紙です」

 そう言って見せられた手紙には、悲痛なる父の願いが書きつづられていた。

 

 ――『我が東部に、予断のならぬ危機が訪れつつある。どうか、貴家の秘された御子の力を、我が東部の為にお貸し頂きたい』

 

「さっき、あの会議で我が義子も言っていたでしょう。王子でもあるかもしれない人物を、自分の為に利用するなど、僭越も甚だしい。突き詰めれば、王家に対しての反逆、とも捕らえられかねない。それは、この殿下もよくお分かりのことだったのです。……それでも、この方はあれを利用するという不敬を働かん、と決意された。全て、東部のために。どうせ死に行く身なら、全て自分が泥を被ろう、と、そう、決められたのですよ」

「ど、泥……だと?」

「はい。もし、リュート様の擁立が失敗したとしても、全て自分が責任を取って死んでいけばいい。すべて、すべて、自分の咎にすればよい、と、そう仰って。それ故に、貴方に何も知らせなかったのですよ。次世代を担う貴方が、綺麗なままでいられるように」

 告げられた言葉に、ランドルフの足が竦む。

 ……綺麗で、いられるように、だって? この、この、私が? ば、馬鹿な……。

「貴方は、そういった権謀術数というものを忌み嫌ってらっしゃるでしょう? 到底、リュート様の事など、利用などできるお方ではない。でも、今、東部が置かれている状況は激しく悪い。それをひっくり返すには、どうしても、リュート様が必要だった。だから、この方は、貴方に代わって、今生の最後の仕事として、泥を被る事を決めたのです」

 

 ……この、この全ての(はかりごと)が、すべて、私の為だった、と。そう、言うのか。

 知らされた父の真意に、ランドルフは、もう、言葉すら、その口から紡ぎ出せない。

 

「……それで、私はこの手紙を受け取りまして、あの息子達を貴方の所へやろうと決意したのです。それと同時に、私には、果たさねばならぬ約束もございましたので」

「約束……?」

「はい。かつての我が主君、ヴァレル様との約束です」

 ランドルフの脳裏に、かつて憧れた英雄の姿が思い起こされる。あの、リュートの父、そして、かつてこのロベルトの主君筋だった、選定候家の若君。

「ヴァレル様は、知ってのとおり、息子の父親が本来自分ではないのではないか、と疑い、余計な面倒ごとを避けるため、わざと書類を改竄しました。でも、あのリュート様がご成長なさるにつけ、彼は、その事を酷く後悔なさるようになったのですよ」

「後悔だって?」

「はい。長ずるにつけ、あれの持つ才覚、というのが、その端々に、見え隠れするようになったのです。あれは、(よわい)十にして、その父よりも風をよく読み、その心根も誰に言われずとも、酷く気高かった。その息子を身近で見るに付け、彼は思ったのです。『もしかして、この子は本当に王の子ではないのか。もし、そうならば、こんな所に埋もれさせておくべきではない』、とね。それで、あの第一次侵攻の出征の折、私に言われたのです。『もし、自分に何かあれば、あれをよろしく頼む。あれに相応しい場へと、どうか導いてやってほしい』、と」

 その言葉と共に、ロベルトの瞳に、憂いの影が色濃く落ちる。かつて慕った主君への、切ないまでの哀悼の念が、そうさせるのだろう、とランドルフは思う。

「その言葉を、私はあれを養子にして、まざまざと思い知らされました。まだ十七にもなっておらぬような歳で、あれは私の書斎の本を全て読み尽くしてしまったのですよ。私が、数十年かけて読んだ本を全て、です。その時に、私はあれの才能に恐れおののくと同時に、酷く、身分不相応な願いまで抱いてしまいました。――『この獅子の子の眠れる才が、花開く様を見てみたい』、とね」

 そう言ったロベルトの表情は、堪えきれぬ憧憬と、そして、それに相反するような自嘲げな色を帯びた、複雑なものだった。

 

「それ故……、父の願い通り、あれを私の元に来させたのだな」

「ええ。あれは、きっと、貴方のお気に召す、と思っておりましたので。大公様にも、そう申し上げました。あれだけの才覚を、貴方は放っておかれるはずがない。きっと、あれは貴方の元で、その才能を開花させ、貴方にとって不可欠な男になる、と」

 まるでお見通しだ、とでも言いたげなロベルトの視線に、ランドルフはその内心で歯噛みする。……結局は、すべて、この父親達の掌の上で転がされていただけなのだ。結局、自分という男は……。

 そんなランドルフの内心とは裏腹に、ロベルトはその顔に、さらなる哀しみの色を滲ませて、顔を伏せた。

 

「……それで、私の思い通り、あれの才能はこの王都に来て、最高に花開いた。さっき、貴方もご覧になったでしょう? あの、獅子が目覚めた瞬間を。ただ、悲しいことに、……あれを覚醒させた一番の要因は、我が息子、レミルの……死、でしたが」

 

 それだけ言うと、ロベルトは無言のまま、顔を手で覆って、その体躯を震わせた。おそらく、あの息子の無惨なる死に様を思い出したのであろう。しばらく、すすり上げるように、嗚咽を漏らすと、また、静かにランドルフに対峙して言う。

 

「ランドルフ様……。かつて、私が貴方に申し上げたこと、覚えておいでですか? あの出征の折に、申し上げた言葉……」

 

 ――『いつだって親は子を思っているのですよ。ただ、悲しいことに、それが子の思いと一致せずに嫌われてしまうこともございますが』

 

 脳裏に蘇ったその言葉が、ランドルフの身を激しく揺らす。

「若様。殿下は、いつだって、貴方の事を気にかけておいででしたよ。出来るだけ、貴方に苦労はさせたくない、と。出来るだけ、息子である貴方には清廉でいて欲しいと。そう願って、この方は……こんな身を押して……」

「そ、そんな……」

「……いいですか、若様。父親、というのは実に悲しい生き物でしてね。その腹に子を宿す母とは違って、産まれた子に対して、すぐに愛情が抱ける、という物ではないんですよ。この子は、貴方の子だ、と言われても、心のどこかで、……本当に、自分の子か?、という思いがある。それ故に、痛いほど分かるのですよ、あのヴァレル様のお苦しみ、と言うのが。息子を疑う、というのは、本当に辛いことです。……でもね、貴方は違います」

 言うと、ロベルトはそのうっすら涙の滲んだ双眸で、目の前のランドルフと、横たわる東大公の顔を見比べるように見つめた。

 

「だって、貴方は、こんなにもお父上にそっくりではないですか。貴方は、疑いようもなく、この方の御子です。その、自分に似た子を、一体誰が愛さないことなどありましょうか」

 

 ――愛して、いるだって……?

 

「う、嘘だ……。いつだって、この男は、私のことを侮って……、いつも愚息だ、と馬鹿にして……」

 信じられない、といった面持ちで、ランドルフは濡れた黒髪を振り乱して、その(かぶり)を振った。そんな彼に、未だその目に涙を湛えたままのロベルトが言いつのる。

「いいえ、若様。貴方、一体この方の何を分かってらっしゃると言うのです? 貴方は覚えていないでしょうが、貴方がお生まれになったとき、そして、まだ飛べぬような幼いとき、この方がどれほど貴方のことを可愛がっていらっしゃったか。自分を慕い、自分に懐き、そして、自分にそっくりの幼子。それを愛さないことなど、どうしてありましょうか」

 絞り出すようにそれだけ言うと、ロベルトはその眼から、再び大粒の涙をはらはらとこぼれさせ、さらにランドルフに訴えるように、詰め寄った。

「愛おしいものですよ、子供というのは。それが、自分に似ているものなら、尚更です。何となれば、子供というのは、自分の命を継いでくれるもの……自分が生きてきた生というものを、次世代に繋いでくれるものではないですか。その行く末を、どうして、幸多からんと望まないことなどありましょうか」

 

 それは、狂おしいまでに子を愛していた、一人の父親の心からの訴えだった。

 

 その、子を亡くしたる父の、慟哭混じりの声に、ランドルフの心が、何かに、直接握りしめられたように、ぎゅうっ、と音を立てて軋んだ。

「でもね、また父親、というのは悲しい生き物で、子が長ずるにつけ、気恥ずかしさから、その愛というものを直接伝える事が、出来なくなってしまうものなのですよ。特に、この方は素直でない所がお有りでしたから……。しかし、私に言わせれば、それも愚かな事です」

 言うと、ロベルトはおもむろに、その涙をぬぐい去って、真剣な眼差しでランドルフとその父にその眼を馳せた。

 

「いつか分かり合える、と思っていても、そのいつかが永遠に奪われてしまうこともあるのです。丁度、この私の様に……」

 

 ランドルフの脳裏に、あのリュートの兄、空色の羽を持った、男の姿が思い起こされる。あの、ごく平凡で、そして、あのリュートが慕って止まなかったレミル、というこの男の息子……。

「あれは……、私に似て、ごく普通の男でした。リュート様に比べて、何の取り柄もない、平々凡々な一人の息子。でも、私は……あれの、何にも勝る笑顔が好きだった。あの笑顔を見るためなら、息子の為に、何でもしてやりたいと思っていた。でも、……もう、あれの笑顔を見ることは叶わないのです。私が、何よりも愛おしく思い、そして慈しんできた息子、……我が命を継いでくれる息子は、もうこの世にいないのです」

 震える声で、絞り出される父の子を思う惜別の念に、ランドルフの心が震える。だが、どれだけこの男の心に思いを馳せても、この男の本当の哀しみというのは、自分には理解など出来ないのだ。それほどまでに、子を失った親の哀しみというのは、深いものなのだ。

 

「ランドルフ様。今なら、まだ間に合います。どうぞ、……どうぞ、最期にこの方とお話をなされて下さい。この方の思いを、今、貴方が聞かないで、どうするというのですか」

 

 きっぱりと、それだけ告げると、ロベルトはおもむろに、東大公の枕元に近づいて、その耳元で彼にささやきかける。

「殿下。殿下。……ランドルフ様ですよ。貴方の、……愛おしい御子息ですよ。どうぞ、どうぞ、最期にお言葉を」

 

 その言葉に促されるように、うっすらと、鷹の目が開く。

「ち、父上!!」

「ら、ランドルフか……」

 絞り出すように、父はその髭に隠された口から、息子の名を呼んで見せた。そして、もう、起きあがる気力すらないのか、ただ、眼球だけを動かして、その息子の顔を探してみせる。

「ち、父上! ここです、ここにいます!!」

 そう言って、握りしめた父の手が、あまりにも骨張った、肉のないもので、その事が尚もランドルフの心をきつく締め付けた。

「ふ……、すまぬな。この様な、失態を……。情けない、ことだ。もう少し、……踏ん張りたかったものを」

「な、何を言っておいでですか、父上! 弱気になられますな! 貴方はまだ……」

 言いつのる息子の言葉に覆い被さるように、父の筋張った手が、握りかえされた。

「よい。自分の命だ。もう、長くないのはわかっておる。……すまなんだな。お前には、何にも知らせることをせずに……」

「ど、どうしてです! そんなに私は頼りなかったですか? どうして、貴方が背負う物を、こんなになるまで分けてくれなかったのですか、父上!!」

 その問いに、少々沈黙の後、父は静かに息子に答えた。

 

「……罪、ほろぼしだったのだよ。お前の心を傷つけてしまったことへの……。お前の憧れた英雄を、殺してしまった、その罪だ」

 

「あ、あのヴァレル殿の事を言っておるのですか!」

「そうだ。……あれにも、お前にも、辛い思いをさせた。弁解はせぬが、それでも……」

 その言葉に、ランドルフは激しくその首を横に振って、反論する。

「な、何を、仰っているのです! 父上は、ただ御自分の使命を全うされただけではありませんか!! それを、私は、いつまでもぐちぐちと恨んで……。だから、ですか? だから、こんな、こんな……」

「よい……。そう分かってくれているなら、十分だ。私はな、お前のそう言う所が好きだよ、ランドルフ。まっすぐで、純真で、そして、清廉だ。決して、汚い真似をしようとはしない。だがな、ランドルフ。それだけでは、生き抜いて行けぬのだ。特に、……このやっかいな東部を治めるのであれば、汚い道を歩く事を、余儀なくされることがある。その時に、だ」

 そう、言葉を句切ると、父は、鷹の眼差しと謳われる鋭い目に、強い意志の光を宿して、その息子に諭した。

 

「汚い道を歩かざるを得なくなった時、決してその道から目を逸らすな、ランドルフ。覚悟を決めて、泥の道を這ってでも進め。それでも尚、泥の道が嫌だ、と言うのなら、その道を綺麗にする器量を身につけろ。お前なら、それが出来る」

 

「ち、父上……」

 命を賭けたその父の言葉に、ランドルフの双眸が滲む。そして、こぼれ落ちる涙をそのままに、痩せた父の手を、きつく握りかえした。

「ランドルフ。お前の行く道はきつく、険しい。それでも、その心は決して折るな。どこまでも、勇敢に飛んでいけ。お前の肩には、東部幾万の民の命と生活がかかっておるのだから」

 握ったランドルフの手が、今度はそれにも増した力で握りかえされる。

 

「行け、ランドルフ。この父を越えていけ。民を愛し、臣下を愛し、そして、なにより、自分が生まれた東部を愛してくれ。……今日から、お前が東部の父だ。よいな、我が、息子よ」

 

「――……はい。父上」

 

 春を迎え始めた午後の日差しが、父と子の最期の時間を、どこまでも暖かく包み込む。その日差しの中、父は、その息子の頭を、何年かぶりに、愛おしげに撫でた。

 その手の暖かさに、ランドルフは自分の心に凝り固まっていたわだかまりが、少しずつ氷解していくような、そんな心地を覚えた。

 

「後の事は、頼んだぞ、ランドルフ。我が東部と、母と、……そして、クルシェの事をよろしく頼む。……苦労をかけた、後は自分の思う通りに生きてくれ、と二人に……伝えてくれ」

 

 それだけ言うと、父は、初春の日差しの暖かさに、その身を委ねるように、静かに目を閉じた。そして、小さく呟く。

 

「――愛しき東部、遙かなる、我が大地よ……」

 

 それが、東部の鷹、と謳われたる傑人の、最期の言葉だった。

 

 

 

 

 

「あ、兄上っ!! ち、父上は、父上はっ?!」

 

 父の瞼を、そっと閉じさせ、部屋を後にするなり、ランドルフに、その弟クルシェが抱きついてきた。その後ろには、この弟を連れてきたのであろうリュートの姿も見える。

 心配げな眼差しで彼を見つめる二人を前に、ランドルフは、その首をゆっくりと、横に振った。それと同時に、一斉に上がる悲鳴。中でも、駆けつけてきた母は、もう失神せんばかりにその身をよろよろとふらつかせた。そして、響く、慟哭の声。

 そんな、哀惜の啜り泣きの響く中、二人の男が、ランドルフの前に進み出て、恭しくその膝を床に折った。父の腹心、ハルトとギリアムである。二人はそのままランドルフに向けて、その頭を垂れると、彼に向けて、決然とした声音で告げる。

 

「新東大公、ランドルフ・ロクールシエン様の御即位、誠に、御祝着に存じます。我ら二人、本日より、貴方様に、永久の忠誠を」

 

 深々と下げられるその頭に、この二人の並々ならぬ決意と言うのを感じ取ったランドルフは、ただ、それを受けて、深く、深く頷いた。

 ……この二人は、全て分かっていたのだ。分かった上で、全てを父上と東部と、そして、この私の為に……。

 

「おめでとう、とは、……言わないよ」

 二人の忠誠を受けて、静かに佇むランドルフの前に、白い羽が現れた。そして、その碧の眼差しに、少々の哀惜を込めて、静かに彼に告げる。

「貴方が、ずっと欲していた大公位だ。これで、貴方は押しも押されぬ大公殿だよ、ランディ」

 言うと、リュートは傍らで泣き伏していたクルシェの肩を抱いて、彼の顔を上げさせた。そして、いつにない優しい声音で彼に諭す。

「クルシェ。君は大公家に帰りなさい。僕は、遠征に行かなくちゃ行けないから、ここで君とはお別れだ。東部に帰っても、君らしく生きるんだよ。いいね、クルシェ」

「リュート様っ……」

「ほら、顔を上げて。ランディ、クルシェの事、頼むよ。それから……」

 クルシェの肩からその手を離して、再びリュートがランドルフの前に現れる。その目は、先の哀惜に満ちた眼差しではなく、何か、愛おしむような、そんな眼差しだった。

 

「約束、守ってくださいね」

 

 静かだが、確固たる声音で、リュートはそう告げた。

「……やく、そく?」

「したでしょう? 約束。貴方が、大公様になったら……」

 

 リュートの声と共に、ランドルフの手に、あの初陣の前の夜が蘇る。あの、カルツェ城の戦いを前にした、夜の忠誠……。

 

「貴方なら、それができますよ、『我が君』。僕は、貴方のお側には、もう居られないけれど……」

 

 かつて呼んだ呼称で、そうランドルフの事を呼んでみせると、ばさり、と音を立てて、白い羽が翻った。

「――僕は、赴きます。半島へ……、竜騎士達との戦いに」

 そう言うと、白の英雄は場に居合わせた自らの義父、自らを今まで養ってくれた父、ロベルトに、今までしたことがないような深い、深い一礼をした。そして、最後に、静かに自分の心に寄り添ってくれた男に対して、言い残す。

 

「今度こそ、『さようなら』、だ。ランドルフ」

 

 

 

「……リュート!!」

 去りゆく白羽に、その剣の師匠であるレギアスが声をかける。だが、その白羽は、一度も振り向くことなく、場を後にしていた。そんな奇妙な静寂の中、一人の男が、ランドルフの前に進み出た。眼鏡の小男、――オルフェである。

 

「ランドルフ様、私も、今日、貴方にお別れを告げに参りました」

 

 突然、告げられた臣下からの別れの言葉に、居合わせた者が絶句する。それに構わず、オルフェが先の言葉を続けて言った。

「私、宰相様から、お声をかけられました。……自分の元で、働かないか。君の様な後進を育てたいのだ、と。その話を、謹んでお受けする所存でございます」

「……ど、どういうことだよ、オルフェ!!」

 今まで共にこの主君を支えていた男の、突然の申し出に、納得がいかぬ、とレギアスが掴みかかる。だが、意外にも、彼を止めたのは、別れを告げられた、当の本人、主君、ランドルフだった。

「よいのだ、レギアス。最初から、覚悟は出来ていたよ。なあ、オルフェ」

「……はい。覚えておいでですか。私が、貴方の元でお仕えする事が決まったときに、言いました言葉」

「ああ。『自分には、夢があるのです。その夢を叶えるまでは、貴方様の元で、しっかりと働き、勉強させてもらう所存ですが、その時が来たら、私は貴方の元から離れます。それだけは、覚えおき下さい』だったか」

 一言一句違わぬ過去の台詞に、オルフェは満足げにその首を縦に振った。そして、今まで、共に時を過ごしてきたレギアスに向けて、その真意を話す。

「私はな、レギアス。東部の地方文官で一生を終えたくないのだ。……私は、この国をもっと良くしたい。その為に、私はこの中央で官僚になろうと、ずっと前から決めていたのだ」

「……ちゅ、中央官僚に、だって?」

「ああ。だから、金を貯めていたんだ。中央官僚は、今の私の身分ではなれないから、中央貴族の身分を、貧乏な家柄からでも買おうかと思ってな。でも、今回、宰相様からの直々の引き抜きを受けて、それも必要なくなった」

 それだけ言うと、オルフェは居合わせた自らの父、ハルトに、意志の強い眼差しで対峙して、言った。

「父上。貴方が『そんなこと、出来るはずがない』、と馬鹿にした夢ですよ。それが、今、叶おうとしています。どうぞ、お喜びを」

 その無機質な息子の言葉に、父親は答えない。相も変わらぬ蝋人形のような無表情で、頷くのみである。それを受けて、きらり、と眼鏡を光らせながら、オルフェが皆に告げる。

 

「……それでは、皆様。今までお世話になりました。私も、自分の道を参ります。どうぞ、お元気で」

 

「――オルフェ!!」

「レギアス、止めるな! 行かせてやれ!! あいつが、……男が決めた道だ!!」

 追いかけんとするレギアスを遮って、ランドルフの叱責が飛ぶ。その断固たる言葉に、レギアスはこれ以上オルフェを追う事も出来ず、ただ悔しげに言葉を絞り出した。

「……んだよ。何なんだよ。リュートもオルフェも……。人の気なんて、知りもしないでよ」

 そう俯いて、吐き捨てるレギアスの肩に、そっとランドルフの手が添えられる。

「レギアス……。お前も自分の好きな道を生きていったらいい。お前にも、……お前の生きる道があるだろう」

 その問いに、レギアスの肩がふるり、と震えた。そして、その巻き毛を振って、やるせないように紡ぎ出す。

 

「そんなの、俺、馬鹿だからわかんねえよ……。ただ、俺はお前も、オルフェも、リュートも好きなんだ。俺はただ……、ただ、四人でいつか酒でも酌み交わせたらなって……。俺の望みは、ただそれだけだよ、ランドルフ!!」

 

 吐き捨てられた小さな願いに、ランドルフは返す言葉がない。ただ、その幼なじみの肩を静かに抱いて、その思いを告げてやるのみだ。

「……お前は、本当にいい男だな、レギアス」

 

 

 

 そんな二人の息子達を後ろで見つめ、静かに、レギアスの父、ギリアムが、オルフェの父に問うた。

「お前、あの息子に、そんなこと言ったのか?」

 その問いに、問われた当の本人は、右目の片眼鏡をくい、と直して、尚も、無表情で答える。

「ああ、言った。その方が、あれが奮起するだろうと思ってな。私があれに『頑張ってね』などというタマだと思うか」

「……いいやぁ。そんな気持ち悪いこと言われたら、病気にでもかかってるのかと逆に心配するな。ま、結局は、似たもの親子、ということか。お前も昔、あんな事言ってたもんなぁ。いやぁ、青臭かった、青臭かった」

 長い付き合いの、この腐れ縁の武官から言われるその言葉を受けて、珍しく文官ハルトの頬の色が変わる。勿論、羞恥を現す、桃色に、である。そして、二人して、いつもの下らぬ嫌味を言い合って、その頬を綻ばせた。

「放っておけ、この筋肉馬鹿」

「いい年してんだから、素直になんな、このモヤシ」

 

 

「……さあ、みんな、帰ろうか、我が懐かしき東部へ。我が麗しのレンダマルへ」

 先代の死に、哀惜の念に包まれる一同を、全て包み込むように、新大公ランドルフが、皆にそう告げる。

 

 ……もう、私もこの王都に用はない。ただ、我が愛おしい民達のもとへ、帰るのみだ。

 

 そう一人思いを馳せ、閉じた瞼の奥に、ランドルフは一つだけ、後悔の念を覚えていた。

 この王都で、どうしても告げられなかった言葉。

 

 あの、舞踏会の夜に、かつての臣下が見せたあの、眼差し。あの眼差しに向けて、どうしても言ってやりたかった言葉だけが。

 

 ――『リュート。私は、お前を利用したりなど、しない。私はお前を……』

 

 ……クレスタに、帰してやりたい。

 

 それが、ランドルフの、ただ一つの、偽らざる、リュートに対する想いだった。


これにて、第二部王都編、終幕です。この最終回の為に、王都編があったようなものです。ずっと書きたかったので、ここまで来られて本当に嬉しいです。

次回から、また半島での戦争編になりますが、その前に、私自身の休養も兼ねて、読者の方から要望のありましたキャラクター名鑑を作りたいと思います。本当に、大所帯で申し訳ない。……あんた、誰だっけ? ってキャラもいますよね。キャラクター名鑑は別サイトでも立ち上げて、そこで、とも考えましたが、今の状況から、別サイトまで手が回らないので、ここで書かせて頂きます。申し訳ない。

この話も、もう900分越えです。本当に、長い話で、よく、皆様、読んでくださっているな、と、感謝きしりで、頭が上がりません。特に、ここの所、評価が上がったせいか、読者数も鰻登りで、自分自身が一番驚いております。

さて、次の展開ですが、サービスカット(?)の多かった王都編とはうって変わって、また戦争になりますので、かなり、シリアス、かつヘヴィーになると思います。それでもよい、という方は、どうぞ引き続きお付き合い下さると幸いです。

それでは、ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

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