第四十六話:取引
「んまあぁ、ランディ! 何ですか、貴方、こんな所で一人で飲んだくれて」
舞踏会場である王宮の大広間の片隅で、黒髪の男の姿を見つけるなり、東大公夫人は素っ頓狂な声で、彼にそう尋ねた。そこには、華やかに踊る貴族達とは対照的に、ワイン片手に、みっともなくやさぐれている、自分の息子の姿。とてもではないが、押しも押されぬ大公家の次期当主の姿ではない。
「今日、貴方、確か五人もお嬢さん、連れてらっしゃったのではなくって? もう、私、てっきり、その中からお嫁さん見つけるつもりだ、とばかり思って、安心しておりましたのに。それが、何故、こんな所で一人でいるのです!」
「ふられたんですよ、五人共に」
母の説教じみたその心配に、息子であるランドルフは、酒臭い息を吐いて、口を尖らせた。
そう、確かに、自分はこの会場に来たとき、煌びやかな女達に、囲まれていたのだが、その内、遊んでやろうと思っていた四人の娼婦にまで、逃げられて、この、有り様なのである。そして、その酒で充血した目を、恨みがましく会場に向けると、そこには、さっきランドルフをふって、他の男を囲んで、楽しく笑い合っている四人の娼婦達の姿。その男というのが、よりにもよって……。
――王子様かよ……。
そのランドルフの呟き通り、とても娼婦とは思えぬような上品な女四人が囲んでいるのは、誰あろう、この国のやんごとなき王子、ヨシュアだった。女達はとりどりの魅力で、何やら、王子に、こそこそと囁いては、彼の関心を十分に引きつけているようだ。そして、また、何やら、笑いかけては、王子を会場の輪から、人気のない外へと誘っていく。
その様子に、何て身の程知らずな事だ、と呟きながら、また、ランドルフはその手の中の酒をあおる。
……こんな舞踏会に来たので、浮かれて玉の輿でも狙おうってか、あの娼婦共。そうそう上手く、王子様の愛人なんかになれる訳ないだろう、馬鹿女共め。おとなしく、自分の相手をしておけばいいものを……。
と、そこまで、内心で呟いていると、再び、耳元で、自分の母の金切り声が響いた。
「まったく、もう、貴方って人は、いつになったら身を固めてくれるのです? ふられたって、一体原因は何?」
「……原因? 原因ですか? ああ、それはね、今日連れてきた中の一人のせいですよ! あの馬鹿たれのね! あいつ、可愛い顔して、とんでもないカマトトですよ!!」
勿論、母には、この息子が言うカマトト、と言うのが、自分のお気に入りの金髪の貴公子のことである、という事は思いもよらない。ただ、その息子に、あきれ果てたように、忠告するのみである。
「カマトトが何ですか、ランディ。それくらい、広い心で許容出来なくてどうしますか。貴方も男なら、少々、猫を被っている女性の方が可愛いと思いなさいな。貴方を手玉に取るなんて、なかなか骨のある女性じゃないの。いいわ、貴方、その娘をお嫁さんになさい」
……勿論、あの糞生意気な山猫を、嫁になど、出来る訳がない。
内心で、そう頭を抱える息子に構わず、さらに母はその持論を得意げに続けていた。
「いいですか、ランディ。女というのはね、多かれ少なかれ、皆、カマトトなのですよ。みぃんな、その本音を隠して、猫を被っている。それが、女、というものです」
「――『女狐』、とは随分な事を言ってくれるわね。貴方も、随分な猫被りの分際でね、リュートさん」
蝋燭が赤々と灯る、後宮の一室、王妃の間で、この国、最高の貴婦人である王妃が、甥に向かってそう吐き捨てる。
「あ、やっと、僕が、猫被ってたって、お分かり頂けました? カマトトぶって、王妃の位を簒奪した、女狐さん。いや、それだけじゃありませんよね? 馬鹿な占い狂いの王妃の皮を被って、貴族共をいい様に操って、自分のご実家である北の大公家が、私腹を肥やす手助けをしていらっしゃった。いやぁ、本当に、女性と言うのは、恐ろしい」
甥の、その小馬鹿にするような言葉に、叔母である王妃の眉が、ぴく、と反応した。それを受けて、さらに甥であるリュートが問いを重ねる。
「そうでしょ? いやあ、貴女の実家の御権勢ぶりをあのパーティーで、拝見するだに、そうとしか思えなかったのですよ。だって、いくら大公家と言えども、あんな盛大なパーティーをちょくちょく開けるなんて、おかしいじゃないですか。現に、東大公の奥方は、頻繁すぎるパーティーに、その懐具合を心配しておりましたからね。では、どうして、貴女の実家である北の大公家だけ、その様な莫大なお金があるか、です」
言うと、貴婦人に扮したリュートは、その手の扇をばさり、と一振りして、叔母の前へと詰め寄る。
「貴女、自分が占い師にかぶれているふりをして、ご婦人方に、次々と、この占い師をお薦めなさった。そして、占い、という事を通じて、情報収集するだけでなく、貴族達を思い通りに、操ろうとなさったんじゃありません? ベッティーナから聞きましたよ。『次は、どこどこへ行って仕事をしろ』だとか、この占い師に言わせたんでしょう? そう、例えば、……『北の大公様の所へ行くと良い』だとか、仰ったのではないですか?」
つらつらと語られた甥の、その言葉に、王妃は一つの事柄に思い当たる。
「――貴方、もしかして、その情報を得るために、あの歌姫と踊ったの?」
「それ以外に、僕が彼女と踊る理由がありますか? だって、彼女は何と言っても、マルセロ宮中伯の娘さんですから。前から、目を付けていたのですよ」
しれっとそう言われた答えに、王妃は、……本当に、貴方という男は、と吐き捨てながら、嫌な嗤いを浮かべる。
「それで、貴族共を思いのままに操った貴女は、と、ある方法によって、自分のご実家に、多大なる利益をもたらすことに成功した。その結果があの素晴らしくお金のかかったパーティーに現れているわけです。そこで、また貴族達を取り込むことに成功した貴女のご実家は、また、さらに、この宮廷で権力を伸ばせる、というわけだ。いや、大した物です。……貴女とその兄上、北の大公殿の謀というのは。……まあ、あのエイブリーとかいう、僕の従兄弟は、その事を知らずに、貴女の事を馬鹿にしておったようですが」
続けざまに語られる甥の言葉に、王妃エミリアはその花弁の唇から、一つ、諦めたような溜息を漏らした。
「……ああ、あの馬鹿な甥ね。ええ。あの子は、いつも私のことをただの占い狂いの馬鹿王妃だ、と思って舐めていたわね。自分が、歌姫に贈ってやった宝石を買うお金が、誰のおかげで手に出来ているか、知らない癖してね。本当に、ああいう馬鹿な男が、私、大嫌い。……でもね」
そこで、一つ、言葉を句切って、王妃は、詰め寄ってきていた甥に、改めて、対峙して、さらに忌々しげに吐き捨てる。
「貴方はもっと、大嫌い。小賢しいだけでなく、あのお姉様と同じ顔をした貴方は、もっと大嫌い」
言うと、王妃は、目の前に詰め寄ってきていた、貴婦人の姿をした甥の顔を、改めて、まじまじと見つめて見せた。そして、その年相応に小じわの入った目元を、何か忌々しい物でも見たかの様に、眇めて、言う。
「本当に、嫌な顔。私が、大嫌いなお姉様の顔だわ。あの、馬鹿で、幼稚な、女の顔」
その言葉を受けて、今度は甥の方が、目の前の叔母の目を、きつく睨み付ける番だった。そして、かつて自分に言われた言葉を、叔母の前で反芻してみせる。
「『私、とても嬉しいの。貴方がこんなにお姉様の面影を残して帰ってきてくれて』。貴女が、祝勝会で、僕にかけた言葉です。まあ、よく言えたもんですね。『大好きなラセリアお姉様』だの、何だの、と。本当は、その逆、なのでしょう?」
「ええ、そうよ。私、お姉様、だーいっ嫌いでしたわ。今も、嫌いよ。いつまでも、あの人の心を占めている、あのお馬鹿なお人形さんがね」
その叔母が、わざわざあの人、とぼかして表現した人物を、甥は、容赦なく、当てて見せた。
「……あの人、ね。ふふ、国王陛下の事でしょう? あの方、本当に未だ、未練たらたらのご様子でしたものね」
その指摘に、叔母の目が、一層の怒気を孕む。
「そう。国王陛下とお話なさったのね。なら、話は早いわ。ええ、そうよ。あの方、未だにお姉様のことが好きなのよ。死んだ、それも他人の女をいつまでも、ずるずると思い続けて、本当におぞましいったらないわ」
何か唾棄でもするように言われた、国王への感情に、また、甥はその紅の口元を、にや、と歪めて、さらに叔母に問う。
「でも、貴女も、そんな国王陛下が、ずっとお好きなのでしょう? だから、こんなに今でも、姉上の事が許せないんでしょう? そして、だからこそ、策を弄して、王妃の位を奪ったのでしょう?」
「――ええ、そうよ。だから何? あんな、何も考えていない、ただ美しいだけのお姉様が愛されて、どうして、私が愛されないのよ! あんな馬鹿な女に王妃なんて務まらない! あんな、馬鹿な恋愛にうつつを抜かしていた姉様なんかにはね!! それなのに、あの方はどこまでもお姉様の事を忘れようとはなさらない! ……王子を生んだら、もう私なんてお払い箱だったわ。だから、私、陛下に復讐してやっているのよ。こうして、ドレスでもパーティーでも、どんどんと国庫を使って、ね。それくらいして、何が悪いのよ。誰に何と言われようが、この国の王妃は私なのだから!」
叔母のその半狂乱とも言える、せっぱ詰まった声音に、リュートは一つの言葉を思い出す。
以前、国王と二人きりで話したときに、彼が、リュートに語った言葉……。
――『女はどこまでも現実に生き、そして、男は哀しいかな、いつまでも見果てぬ夢に、生きる生き物なのだよ』
あれは、おそらく、この叔母に宛てた言葉だったのだ。……愛したくても愛せぬ、この自分の正妻に。
そして、国王は分かっているのだ。この叔母の哀しみを。王の心が自分に向いていないと知っていながら、どこまでもその愛を求めて、したたかに現実に生きる、叔母のこの哀しみを。そして、それでも、手の届かぬ女の夢を見てしまう、自分の咎を。
分かっているからこそ、この叔母の散財ぶりを、見て見ぬふりをするしか、出来ないのだ。
……なんと、愚かな、哀しい、夫婦か。
そっと、目を伏せて、何か哀れむかの様に、リュートは、その叔母の生き方に思いを馳せる。
一方で、自分の感情を、これでもか、と言いつのる叔母には、目の前の甥の姿が、冥府から蘇ってやってきた、自分の姉の姿に見えて他ならない。そして、ずっと、抱き続けていた姉への嫉妬心をぶつけるように、尚も、その感情を、激しく表した。
「昔からそうだったわ。何をするにもただ、微笑んでいるだけのお姉様が、いつだって、ちやほやとされてきた。そして、あの、王太子様との結婚話まで、転がり込んできて……。私が、この私が、ずっと、憧れ続けてきた王太子様との結婚までよ? ……許せなかった。あの馬鹿な女が、私の王太子様と結婚するなんて、絶対に許せなかったのよ。だから、あのヴァレル、という男との仲を密告してやったのよ。それで、王太子様も、お姉様に幻滅すると思ってね! でも、それでも、あの方は、お姉様をお求めになった。だから、だから……」
「だから、あのクレスタへ、二人を駆け落ちさせたのですね? 貴女が唆して」
言われた指摘に、叔母の眉が、ぴくり、と反応した。そして、リュートの言葉を肯定して、その先の言葉を続ける。
「ええ。そうよ。あのクレスタ伯、ロベルトの所へね」
それは、紛れもない、リュートの義父の名前だった。その名に、リュートは激しい嫌悪感を抱きながらも、尚も冷静に叔母に問う。
「あの男も、共犯ですか」
「……共犯、というのとは少し違うわね。あのロベルトという男は、私の言う事なんか聞きやしないわ。ただ、ヴァレルの言う事を聞いただけよ。かつて、自分が仕えていた、主君の言うことをね」
「ヴァレル……父様の?」
「ええ。確かに、私が駆け落ちするように唆したのだけれど、でも、あのヴァレルだって、そうしたかったのよ。何が何でも、お姉様を国王陛下に渡したくはなかった。だから、かつて、自分の部下だったロベルトに命じて、自分達を匿わせたのよ。彼に忠実なロベルトは、それに従っただけ。それで、私も、元中央貴族の男の元なら、悪くない、と思って、彼らをクレスタに行かせる事に同意したのよ。もし、何かあれば、ロベルトの中央の実家を通じて、彼に圧力をかけられる、と踏んでね」
どこまでも、狡猾な叔母の考えに、リュートは反吐が出そうな心地を覚えながらも、尚も冷静に振る舞って、彼女に尋ねる。
「それで、僕ら家族は、クレスタで、暮らすことになった。……貴女の、監視つき、でね。違いますか?」
それは、先の笛の事をこの叔母が知っていた、と言うことからも、紛れのない事実である。にも係わらず、叔母はその首をなかなか縦に振ろうとはしない。それを見かねて、リュートがその推測を叔母にぶつける。
「僕らの行動は、常に監視されて、中央の貴女に届けられていた。決して僕ら家族が中央に、貴女に、関わってくることがないように。決して、変な真似をせず、ただの平民として暮らすように。貴女はある人物を通じて、ずっと僕らの情報を得ていた。……最初はね、僕の義父が、その報告役をしていたのか、と疑っていたのですがね、それじゃ、どうも、つじつまが合わない。と、いうことは、です。あの、クレスタに、もう一人、貴女の手の者がいた。……あのクレスタで、文字が書けて、僕ら家族の内情を違和感なく探ることが出来て、そしてこのガリレアにかつていた人物……」
かつり、と踵の高い靴を鳴らして、リュートがまたも叔母の元に詰め寄る。
「……医者の、シン先生ですね? 違いますか?」
それは、かつてクレスタで、母の診察をしていた、医者の名前だった。あの、トゥナ、マリアン姉妹の父の事である。
その答えに、ほんのり、と叔母の口が歪む。それを肯定の証、と受け取ったリュートはさらに、自分の推論の正しさを確かめる様に、言葉を繋げた。
「だって、医師免許はこのガリレアでないと、発行できないんですもんね。僕の幼なじみの女がそう言っていました。多分、その時に、貴女と医者のシン先生はつながりを持ったんじゃないですか? それで、そのつながりを利用して、僕らの報告をさせた。だから、僕が笛を吹くのが、得意だ、と言うことも知っていたんです」
「……ふ。本当に、賢しい子ね。嫌に、なるわ。ええ、おおむね、その通り」
これ以上ない叔母の肯定を得て、リュートは詰め寄った叔母から、その身をくるり、と反転させて、今度はカツカツと音を鳴らしながら、部屋を歩き始めた。
「さて、問題は、です。何故、貴女が、そこまで、僕ら家族の、いいや、僕の監視に拘ったか、です」
言うと、リュートは、その胸元から、ちゃらり、と音を響かせて、いつも身につけている首飾りを取りだした。金の、獅子紋が刻まれた、あの、首飾りだ。
「僕はね、あの祝勝会の発言で、貴女が怪しいと、すぐに分かりました。でもね、貴女が僕に拘る動機だけは分からなかった。それで、一つ思い出したのが、この獅子紋の下に刻まれていた、数字、いや、年号です。これ僕が知っている物とおおよそ一年違うのですよね。それで、何かあるな、と思いまして」
リュートはその首飾りに刻まれた数字を、叔母に見せつけるように、蝋燭の明かりの下へと翳す。そこに現れた年号に、叔母である王妃の顔が、かつてないほど、忌々しげに歪んだ。
「……調べさせました。これ、僕の、本当の誕生日でしょう? 今から、十八年前、……いいえ、もうすぐ、十九年前に、なりますか」
その指摘に、叔母は、一旦その顔を伏せて、俯く。そして、しばらく逡巡の後、先にも増した、嫌悪の表情で、その甥を睨め付けた。
「そう……。知ってしまったのね。ええ。そう。それが、私が、貴方を邪魔に思う理由」
カツン、と靴を鳴らして、今度は叔母が、甥に迫る番だった。
「それが、貴方が、この宮廷で生きていてはいけない理由。あのクレスタの田舎で、平民としてだったら、いいえ、せめて、選定候としてだったら、何とか生かしておいてやってもよかったものを。でも……」
「貴女は知ってしまったのですね。東大公が僕を利用せんとしている、企みを」
続けて言われた、その甥の言葉に、叔母は、一瞬たじろいだ表情を見せながらも、深くその首を縦に振った。
「ええ。そうよ。あの忌々しい鷹めが。余計な事を考えて、お前を利用しようとするものだから……。ただの選定候として、お前を利用するくらいならまだしも、あの男……」
その先の言葉を紡ぐことを、嫌悪するような叔母に、甥は、さらに、自分が調べ上げた事柄を、彼女に突きつける。
「貴女に、その鷹の大公の企みを教えたのは、彼女ですね? ロクールシエン家の侍女、タミーナ。あれ、貴女のスパイでしょ?」
「……ああ、本当に、嫌な子。そこまで、調べてあるの。ええ、彼女は確かに、私の息のかかった者よ。私が、ロクールシエン東大公がお前に関わることがあったら、私に報告するように言い含めてあった侍女よ。よく、わかったわね?」
胡乱げな目線で、甥を睨め付けながらそう問う叔母に、リュートは、その艶やかにドレスを纏った肩を竦めて、何食わぬ様子で、けろり、と答えてみせる。
「だって、早すぎるんですもん」
「……早すぎる?」
「はい。だって、僕がクレスタから、レンダマルまで行くのにかかった日にちが二日。その着いた当日に、早々と、僕はあの『東部解放戦線』の男に睡眠薬を飲まされそうになった。でも、このガリレアから、レンダマルまでの道のりは、早くて、四日から五日。と、すると、です。僕に睡眠薬を仕込むには、僕が大公からの呼び出しの手紙をクレスタで受け取るより前に、その内容を知って、前もって王都から、レンダマルにこの密偵を派遣しておかないと、間に合わない訳です。……つまり、この王都で、貴女は、大公が僕に手紙を出した事を知らなければ、それが出来ないわけです。その、大公の手紙を知るには、どうしたらいいか……」
ぱちん、と、またもリュートの扇が、軽快に鳴らされる。
「答えは簡単。この王都のロクールシエン邸で大公の書いた手紙を見ればいい訳です。それが出来たのは、あの侍女、タミーナだけです。調べさせたら、あの家の当時の手紙を担当していたのは、あの女、……タミーナでした。その後、記録によると、その手紙を出したその足で、彼女はこの王宮に来ている。……貴女に、報告に来るために、です。違いますか?」
その指摘に、叔母は、……ふ、とだけ小さく嗤いを漏らした。おそらく、肯定を意味する嗤いだろう。それを受けて、尚も、甥がその先を続ける。
「……やっぱりね。道理で、あの侍女、後宮に顔が利く訳だ。それで、大公の企みに気づいた貴女は、もうこうなっては僕を野放しにしておけない、と何も知らぬうちに、僕を拉致しようとした。だが、相次ぐ失敗のうえ、殺害すらできずに、僕が南部に出征してしまった。そこであわよくば、僕が戦死でもすれば、と思っていたが、アテが外れて、今こうして焦って、毒を贈って下さっている。……そうじゃ、ありませんか?」
そこまで言われて、尚、叔母はその首を縦に振ろうとはしない。だが、その沈黙こそが、全てを語っていた。それを受けて、リュートがまた、その手の扇を、ばさり、と開いて、彼女をその陰からあざ笑う目で、睨め付ける。
「……殺すべきでしたね、最初から。拉致なんて、生ぬるい事をするから、今、こんな事になっているんです」
「ええ、そうね。殺す、べきだったわ。……ええ、今でも、そう思うわ。リュートさん」
その甥と同じ碧の瞳を、ぎらり、と光らせて、王妃は、何やら、占い師へと意味ありげな目配せをした。その意味を、即座にリュートは過たずに理解する。
「……今からでも、僕を殺そうっていうんですか? 叔母上」
「そうね。だって、貴方がここにいるってことは、誰も知らないんでしょう? なら、今ここで貴方を殺して、死体をどこかに処分させても、誰にも分からないんじゃ、なくって? ねえ、シルヴィア?」
――ふ、ふふっ。
得意げに甥を追いつめていた叔母の前で、耐えきれぬ、と言わんばかりの嗤いが漏れた。
「ふふふふふっ。ああ、貴女って人は、どこまでおめでたいんですかね、叔母上。未だ、自分が優位に立っているおつもりですか。こんな、本丸まで、僕に踏み込まれておいてね」
その美貌の貴婦人から漏れた嘲笑に、びくり、と叔母の体が揺るぐ。何か、逆らえない、そんな嗤いだ、と女狐と揶揄された女の本能が、感じていた。一方で、自分の腹心である隻眼の占い師の方に目をやると、彼女は残った左目を伏せ、未だ、ぴくり、とも動く気配はない。
「貴女、本当にいい占い師をお持ちですね。この男、いや、女は十分にわかっているのですよ、自分が今、動くべきでない、ということを」
「な、なんですって?」
「僕が、無策でここまで来たとお思いですか? 本丸まで切り込むのだったら、伏兵を置いて、敵を牽制するのは戦の常識でしょう? 貴女の敗因は、僕が毒を飲んでいる、という誤情報に胡座をかいて、その警戒を緩めてしまったことにある。敵の死体を確認するまでは、武装は解かない。これ、戦場の常識です。……さて、問題は、貴女という女狐を牽制するには、どこを押さえるのが、最も有益か、です」
紅が妖しく光るその唇に指を当てて、そう問う甥に、叔母は何かに思い当たったように、ぶるり、とその体を震わせた。そして、同じように震える唇から、恐ろしい推測を紡ぎ出す。
「ま、ま、まさか……。あ、あ、貴方、よ、ヨシュアを……」
言われた名に、貴婦人に扮したリュートの顔が、にっこり、と不気味に、嗤う。
「はい。彼の周りに、僕の手の者を置いてきました。全員、凄腕のプロですからね」
ここで、リュートが言う所の、プロ、と言うのが、まさか娼婦の事だとは、王妃にも思いも寄らない。おそらく、彼女の耳には、この占い師と同じ、闇のプロ、という意味で届いているだろう。それを見越して、リュートがさらに叔母に詰め寄る。
「ここから、もし、僕が帰らなかったら、彼女たちには、王子を好きにしていい、と言ってあります。今頃、あのプロ達に、舞踏会場から連れ出されて、人気のない所で、あんな事や、こんな事、されているかもしれませんね」
「――お、お前!! ゆ、許さない! わ、私のヨシュアに、何かあったら、絶対に許さないわ!!」
甥の、その恐ろしい言葉に、王妃は、その顔を、かつてないほど赤に染めて、激高した。そのいつにない様子に、またも、ふん、という嘲笑が浴びせられる。
「そうですね。僕も、ヨシュアの事は、可愛いと思っているのですよ。僕もね、出来れば彼に、酷いことなんかしたくありません。全て、貴女次第です、叔母上」
恐ろしい恫喝とも言える台詞とともに、全てを見通しているかの様な、冷たい視線が、王妃へと突き刺さる。
「わ、私にどうしろ、と……」
「あれ、まだ分からない? 僕はね、ここに答え合わせをしに来たのでも、貴女が犯人だ、と声高に叫びにきたのでもないんです。そうしたかったら、いくらでも僕には手段があったんです。でも、それをせずに、僕がわざわざ、人目につかないように、貴女の元に来てやった理由を、そろそろお考え下さいな」
じり、じり、とリュートはその歩を詰めて、王妃の身をその壁まで追いつめる。その目は、まるで、獲物を追いつめんとする獣の様な目だ。
「――僕はね、貴女と、取引にきたんです」
「と、とり、ひ、き……?」
「はい。そうです。貴女にとっても、そう悪い条件ではない、と思いますよ。どうです? この席について、僕とゆっくり、楽しい密談でもしませんか?」
そこまで言うと、リュートは追いつめていた叔母の前で、その身を、くるり、と反転させて、側にあったソファへとその腰を下ろす。まるで獣のような目をした甥が、目の前から退いた途端、王妃は一気にその全身から、どっと嫌な汗が噴き出してくるのを感じた。それでも、尚、その王妃の意地というものを、心の奥底から引っ張り出して、その甥に、抗いの姿勢を見せる。
「わ、私が、貴方なんかと取引するとでも……」
――がたん。
鈍い音が、部屋に響いた。
「何を言っているのですか、叔母上。貴方に、否、という権利でもあるとお思いか」
その言葉と共に、王妃はその全身の血液が逆流するような恐怖を覚えた。
抗うことなど、決して出来ぬような腕が、自分の首元を掴むと同時に、どんな凶暴な獣にも増した、碧の瞳が、その眼前にまで、迫っていたからだ。
「いいですか、叔母上。貴女は今、僕に情けをかけられている状態なんですよ? 僕はね、いつだって、貴女の喉笛に噛みつくことが出来るんです。それを、こんな母狐でも、殺してしまうのは、子狐が可哀想だ、と、今、僕が、その牙を一旦納めてやっているんです」
目の前で、きつく睨め付けられる、狂気を帯びた碧の瞳に、がくがくと、王妃の足が震える。
「貴女は今、僕に、その足、食らいつかれて居るんですよ。貴女に出来る選択は、このまま喉笛まで一気に食らいつかれるか、それとも足を犠牲にして、命からがら生き延びて、子狐を守るか、その二択だけです」
「あ、あ、足、ですって?」
「はい。貴女の足である、北の銀狐、僕に食らわせて下さいな」
眉一つ動かさず言われた、その言葉の意味するところを、王妃は即座に理解していた。
「あ、あ、貴方、私に、実家を……う、売れ、と……」
「はい。貴女の命が助かるための、微少な犠牲です。貴女、また今度、あの実家にお宿下がりに行くんでしょう? 頻繁に行く、と仰っていましたものね。その時に、ちょっと、ある物を持ってきて下さるだけで。そう、あの、莫大な財産をあの家にもたらしている、証拠、という奴をね。ああ、僕は別に、いいんですよ? 否と言うなら、貴女が僕にしたことを皆様に、大声で言うだけです。……困るでしょう? 今、そんな事実が暴露されたら。大事なヨシュアの立太子の礼を控えた、この時期にね」
ここまで来ると、もはや取引ではない。ただの恐喝である。
……く、狂っている。
狂っているわ、この男。
もはや蒼白になった顔で、その顎をがくがくと振るわせながら、王妃は、今までにない恐怖に飲み込まれていた。その、もはや抵抗すら出来ぬ淑女の前で、尚も、獣じみた表情で、その甥が吼える。
「ここに来て、それでも否と言うのなら、その足へし折ってでも、このテーブルに着かせ、その顎たたき割ってでも、うん、と言わせますよ」
「……わ、わ、分かったわ。は、話し合いに、お、応じますから……」
震える顎で、ようやくその言葉を絞り出した王妃が、あまりの恐怖のために、がっくりと、その足を床に折る。その屈服した様子に、甥は先の獣じみた表情から一変して、爽やか、とも言えるすがすがしい笑みを浮かべて言う。
「そうそう。それで、よろしいのです。賢しい女狐さんには、どうしたら、自分が最低限生き残れるか、よぅくお分かりになるでしょう?」
言われた嘲りの台詞に、その足を床から何とか上げて、王妃は、悔しげにその甥の姿を睨め付ける。そして、その腰を、言われた席に下ろしながら、最後の抗弁とばかりに、一つ吐き捨ててみせた。
「ええ、いいわ。貴方の言う取引に、この場は応じます。でも、その前に、これだけは言わせてね」
「……何ですか?」
「私が、このままで貴方を許す、と思わないでね。私は、この国の王妃です。あまり、舐めないことよ」
その最後の王妃としてのプライドを示す言葉を受けて、一瞬、甥の表情が曇った。だが、すぐに、その口元をいつものように歪めて、ようやく席に着いた叔母の耳元に、それを近づける。
「では、僕も、取引前に、一言」
すう、と一つ深呼吸の後、金髪の男が、静かだが、酷くドスの利いた声で、言い捨てる。
「――そっちこそ、舐めてんじゃねえぞ。こっちは、半島で山と死体、積んで来てんだよ。深窓育ちのお嬢様の分際で、この僕に勝てるとでも思ってんのか。喧嘩は、相手見てから売りな、くそばばあ」
言われた、産まれて初めてとも言えるその暴言に、王妃エミリアは一言すら返す事が出来ない。ただ、呆然として、その体を震わせるのみである。
その叔母の様子を、また甥は楽しげな目線で見下して、さらに恐ろしい言葉を紡ぐ。
「そんなおイタを言う叔母上には、もう少しお仕置きが必要な様ですね。じゃあ、貴女の『腕』も下さいな」
「……『腕』ですって?」
今度は甥の言う意味が分からず、そう問い返す叔母を尻目に、リュートは王妃からその体を離して、カツカツと、部屋の反対側まで歩くと、壁に掛かっていたカーテンに手をかけて、それを勢いよく開けて見せた。
そこには、色とりどりの、ドレスの数々。王妃が、宴の度に作らせた特注品ばかりだ。そのずらりと並ぶ、豪華なドレスを、一撫ですると、爽やかな笑みで、リュートが、王妃の方へ振り返る。
「はい。これが、僕の言う『腕』です。これ、僕に、下さいな、叔母上。僕、お腹が空いているんです」
「そ、それは、ど、どういう意味で……」
明かされた『腕』の意味を、叔母は尚も理解出来ない。だが、その事には一切構わず、甥はその美麗な顔に、ただ、にっこりと、優雅な微笑みを浮かべているのみである。その恐ろしいまでの微笑みに、王妃は最後に何かに縋り付くように、自分の腹心である占い師の名を呟いた。
「し、シルヴィア……」
だが、その最後の王妃の嘆願も、占い師を動かすことは叶わない。ただ、諦めたような台詞が返ってくるのみである。
「無駄だぜ、ご主人」
……あんたとは、格が違わあ。
占い師の、その敢えて語られなかった内心を知ってか知らずか、リュートはその金の髪を一撫でして、この部屋の主人が座るべき、上等の椅子に、その腰を、どっかり、と下ろした。そして、何者をも屈服させる様な鋭い眼差しを、王妃に向けて、堂々とそのドレスの下に隠された足を組んで言い放つ。
「さて、――楽しい取引の時間ですよ、叔母上」
「……ディ。……ンディ」
朦朧とした意識の中で、ランドルフは誰かが、自分を揺さぶる感覚で、その目を覚ました。
「ラ……ンディ。ランディってば。もう、起きてよう」
聞き覚えのある声。この声で、自分を『ランディ』などという巫山戯た愛称で呼ぶのは、ただ一人、である。その事実に思い当たるや、ランドルフは、その身を、勢いよく、がばっ、と起こしあげた。
そこには、先までの華やかな舞踏会場とは一変して、人影もまばらな寂しい、王宮の大広間。おそらく、眠っている内に、舞踏会はお開きになってしまったのだろう。召使い達が、片付けの邪魔だ、とばかりにランドルフの事をじっと見ている。
そんな中、自分の背後から、ひょこり、と、美麗なる貴婦人がその顔を出す。……忌々しい、貴婦人、に扮した山猫の顔だ。
「ランディ。何でこんなところで寝ているのさ」
その何食わぬ様子で言われる言葉に、ランドルフは酒に酔って、未だくらくらとする頭をもたげて、不満げに唾を飛ばした。
「誰の、一体誰のせいで、こ……こんな事になっていると思ってるんだ。この……ふぁ、馬鹿たれの、糞生意気な……にゃ、山猫め」
もう呂律すら満足に回らぬほどの泥酔ぶりである。そのあまりの様子に、貴婦人はあきれ果てた様な溜息を吐きながらも、彼が起きあがるのを手伝う。
「もう、馬鹿だなぁ。僕の事なんか放っておいて、自分だけでも、楽しめば良かったのに。あんたは心配しすぎなんだよ」
「う、……うるさいっ。いつもいつもお前は、そうやって。ひ、人の気も知らずに、か、勝手なことばかりして……」
ぐだぐだとくだを巻きながら、何とか貴婦人の手を借りて、ようやくランドルフは立ち上がる。そして、貴婦人の肩に半身担がれる、というような、非常に、奇妙な格好で、広間を後にする。少々、召使い共が、……何て力強い貴婦人だろう、と奇異の目線を向けてくることは、この際、構うまい。
その未だ、ドロドロに溶けている様な酔いぶりのランドルフを、ずるずると引きずりながら、貴婦人は、もう呆れた、とでも言うように、深く溜息をつく。
「もう。そんなに言うんだったら、心配なんかしなきゃいいのに。馬鹿だなぁ」
「し、心配するな、だと? よ、よくも、お前、そんなことが言えるな。本当に、お前という奴は、い、一体何様のつもりだ」
はあぁ、と酒臭い息を吐きながら、ランドルフは、肩を貸してくれている貴婦人に対して、そう毒づいた。それに対して、貴婦人の方は、誰もいない王宮の廊下を歩きながら、けろり、と一言、衝撃の言葉を返してくる。
「ん? 王子様だよ」
「……はいはい、王子様、王子様ね。結構、結構、王子様ですか……って!!! え、えええええええ?!」
その酔いを一気に覚まさせたランドルフの、驚愕の叫びが、静かな王宮に響き渡る。それを受けて、耳元で大声を出された貴婦人の方は、もうやってられない、とばかりに、ランドルフの体をその肩から、投げ下ろした。
「もう。酔っぱらいの相手はお断りだよ。一人で帰りな」
そう言い捨てて、くるり、とその羽を翻す、貴婦人を、しばし呆然と見送った後、ようやくランドルフは、はっ、と我に返る。そして、もう堪らぬ、とばかりに、慌てて貴婦人の後を追いかけた。
「ちょ、ちょ、せ、せ、説明しろーーーっ!!!」