第四十三話:庶子
「次っ!」
王都ガリレアを囲む、近衛十二塔の中の一つ、第一塔前にある兵舎に、厳しい男の声がこだました。
以前のボロ屋に比べて、幾分か掃除されて綺麗になった、その兵舎の前には、金髪の男を囲むように剣を構える隊士達の姿。その中から、金髪の男の声に急かされて、一人の隊士が、勢いよく、彼に斬りかかっていく。
いかんせん、いつも使っている警備用の細剣とは違い、遙かに重い、実戦用の長剣である。その慣れないずっしりとした重さに、些か戸惑いながらも、隊士は昨日教えられた通りに、剣の切っ先を動かして、金の髪の男に向かっていった。だが、その渾身の一撃も、男の体を刺し貫く事は、叶わない。
一瞬にして、剣がかわされて、隊士の脇腹に、金髪の男の木刀がめり込んでいた。
「脇が甘い! これが訓練じゃなかったら、急所に切り込まれているぞ! だが、昨日に比べて、随分良くなったな。あとは、脇だけだ。次っ!!」
「あーあ、今日のリュート隊長、荒れてんなぁ」
目の前で、同僚の隊士達が、次々と倒されて行く様子を、『黒犬』リザは、あきれ果てたような眼差しで、そう評してみせた。
……いつもとは少々違う、剣捌き。ただ、力に任せて、まるで何か憂さ晴らしでもするような、剣の舞だ。
「まあ、それでも、つえーのは大したモンだけどよ。なんか、きのー嫌なことでもあったんかね、クルシェ。隊長、夜遅く帰ってきてから、ずっと変だしよー」
そう言うと、リザは、自分の隣にいた黒羽の少年、クルシェの方を向き直った。そのリザの問いに、クルシェは昨日見た、リュートの顔をその脳裏に思い出す。
――何だったんだろうか、あれは。
いつも強くて、凛として、尚かつ、不敵な笑みで、全てに卓越したような所がある主人が、昨日、娼館から帰って来るなり、まるで幽鬼の様な表情で、無言のまま自分の部屋に閉じこもってしまったのだ。そのあまりにも、意外な行動と、悲痛な表情に、心配になったクルシェは、激しい叱責を覚悟で、こっそりと、部屋の様子を窺ってみた。そうしたら、ぼそり、と呟かれた悲壮な言葉が、嫌でも耳に付いてきたのだ。
『待っていて……。成すべき事を成したら、僕もすぐにそこに行くから……』
クルシェには、その言葉の真意は分からない。だが、それが持つ、言いしれぬ不吉さ、と言うものは、察してあまりあるものだった。
……とても、英雄たる男には似つかわしくない悲壮な言葉……。それを、クルシェは、余人に言うべきではないと、判断して、リザに答える。
「さ、さ、さあ……。僕は、よく、わ、分かりません」
「クールシェちゃん」
誤魔化すように、小さくそう呟いたクルシェの後ろから、明るい少年の声がかけられた。振り向くと、そこには、クルシェと同じような年頃の、少年隊士が一人。以前、闘技場で、リザの後ろにくっついていた、毒舌少年だ。あの後も、クルシェは、何度かリュートにくっついてきているこの兵舎で彼に会っており、すっかり顔見知りになっている。
「あ、ええと、トーヤ君、だっけ?」
「名前覚えてくれたんだね〜。そうだよ、トーヤ。トーヤ・マルセレネスカだよ」
向けられる人なつこそうな笑顔に、クルシェはいつもの怯えるような警戒心を、少々解いて、微笑んだ。
「え、ええと、僕に、何か用?」
「うん。ねえねえ、いつもこうやって、隊長にくっついて守備隊の仕事見学しているだけじゃ、おもしろくないでしょ? ボクがいいコト教えてあげるからさ〜」
そう言うと、トーヤは有無を言わさず、クルシェの腕を取って、どこかへ連れて行こうとする。普段、こんな不躾な事に、一切慣れていない大公家のお坊ちゃんであるクルシェは、何をどうして対応したらいいか、頭がついていかず、ただただ成されるがまま、彼について行こうとした。その様子を見かねて、広場の真ん中で、隊士達に剣の稽古をつけていたリュートから、激しい叱責が飛ぶ。
「こら! トーヤ!! クルシェをどこに連れて行く気だ!! 変な事でも教える気じゃないだろうな!!」
そう言うと、あらかたぶちのめした隊士達を後ろに、リュートがクルシェ達の所までやってきて、ぐい、ときつくトーヤの耳をひっつかむ。
「ええ? この腹黒小僧が! クルシェは騙せても、僕は騙せんぞ!!」
「え、ええ〜。イヤだな、隊長ってば〜。腹黒とか言わないでよぉ」
「どうだかな! お前は初めて会った時、『隊長なんて、奴隷に過ぎない』とか言ってくれた生意気な小僧だからな!」
鋭く突っ込まれた自分の本性に、トーヤは、やーん、と言いながらも、可愛らしくシナを作って、甘えるようにリュートにすり寄ってきた。
「まあまあ、今は隊長の言うことちゃんと聞いているでしょ〜? それよりも、今日はクルシェちゃんに、本当に面白いこと教えてあげようと思ったんだよぉ」
そう言うと、トーヤは、リュートの目の前に、後ろに持っていたものを見せつけるように、取りだした。
それは、彼の身長の半分以上はあろうかという大きな弓だった。そして、その弓に、矢をつがえると、第一塔の頂上にはためいている、近衛隊旗に向けて、その狙いをつける。
「ボクねえ、これ、得意なん……だっ!!」
少年の声と共に、ビンッと、矢が放たれた。それと同時に、響く、隊旗が破れる音。よく見ると、風にはためいていた隊旗に、小さい穴が空いていた。その見事な弓のコントロールに、思わず居合わせた隊士達から、拍手が上がる。
「へえ、なかなかのものだな。レギアスといい勝負の腕前なんじゃないか?」
「でっしょ〜? これをクルシェちゃんにも教えてあげようかな〜って、思ってさ。だって、クルシェちゃん、ここ数日見てたけど、全然、剣の才能なかったじゃない」
ぐさり、と貫くような、トーヤの鋭い指摘に、クルシェは思わず恥ずかしそうに俯いてしまう。
何故なら、ここ数日、リュートの勤務に毎日ついてきて、剣を教わっているのにもかかわらず、一向に上達の兆しが見えないからだ。
「いいんだよ、クルシェは。大公家のお坊ちゃんなんだぞ? 大体、お前達フランクに接しすぎだ。もっと、敬ってやれ」
「い、い、いいんです。あ、あ、あの僕が、そう、接して欲しくて、あの……」
「そうだよ、隊長! ボクとクルシェちゃんはもうお友達なんだからね。さ、行こう、クルシェちゃん。弓教えてあげるよ〜」
言うと、トーヤは隊長であるリュートが止めるもの聞かず、クルシェの手を取って、兵舎裏へと消えていった。
「あの、腹黒、クルシェを取り込んで、何か悪巧みしなきゃいいけど」
「大丈夫だって、隊長。ああ見えて、トーヤは仲間思いなんだぜ。それよりも、俺が前にお願いしてた件なんすけど」
溜息混じりに彼らの後ろ姿を見送るリュートに、今度は毛むくじゃらの男、動物好きのアーリが声をかけてきた。相変わらず伸び放題な頭に、髭で、その素顔がどんなものか分からない位だが、最初に会った頃の半端ない体臭の臭さは、その影を潜めている。
「アーリ、ちゃんと言った通り、風呂に入ってるようだな。よしよし、次は、その頭と髭だな」
「ええ? これまで切っちまうの? このままが楽なのに〜」
言うと、アーリはその絡まった髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしった。それと同時に、その髪の毛の後ろに隠れていた、愛らしい白い子猫が、アーリの肩へと姿を現す。
「ああ、確か、その猫の名前と、給金の件、だったな。ええと、そうだな、その猫の件から行こうか。僕に名前を付けて欲しいのだっけ?」
「はい、そうです。隊長のうちに貰われてった奴等は、みんな名前つけてたんすけど、こいつだけは……。ああ、そうだ、奴等、元気にしてますか? ゲルヒルデはちゃんと乳出てますか? オルトリンデと、シュヴェルトライテは? もしかして、ヘルムヴィーゲは食っちまってませんか?」
ちなみに、ゲルヒルデは牛、オルトリンデは羊、シュヴェルトライテは犬、そして、ヘルムヴィーゲは豚の名前である。いずれもアーリが自信を持って付けた名前であるのだが、リザ曰く。
「だっせ」
この通り、不評なのである。そこで、隊長であるリュートに、この子猫の名付けを委ねようと思ったのだが……。
「うーん……。アーリの名付けはどれもこれも素晴らしいからなぁ。それに見合う名前にしないとな」
これがまた、真剣な面持ちで言っているのである。これには、傍らにいたリザも開いた口がふさがらない。
「おい、隊長。マジで、こいつのネーミングセンス、素晴らしいと思ってんワケ? 言っとくけど、超だせーべ?」
「何を言うか。素晴らしいセンスじゃないか、なあ、アーリ」
「た、隊長! そう言ってくれるのはあんただけっす」
……この美貌と才知と身分を兼ね備えた隊長にも、足りないものがあったんだ。
なんだか、しみじみとした思いで、リザは二人を生ぬるく見つめる事しか出来ない。
「そうだなぁ、ジークルーネか、グリムゲルデ。こんな感じでどうだ?」
「いいっすね? どっちにするかは、今度また決めといて下さいよ! おれ、隊長のセンスには脱帽です!!」
「よしよし、決めておいてやる。……あとは、給金の件だったか」
名前の件が一段落すると、今度はリュートもアーリもさっきまでの笑顔をどこかに追いやって、神妙な面持ちになって、話し始める。
「隊士達の多くから、要望が出ていましてね。『もう少し、給金を上げてもらえないか』と。隊士達も隊長の下で働く事には、何の文句もないみたいなんですが、現実問題として隊士達にも生活、というものがありましてね……」
言うと、アーリと、リュートの目が、広場で休んでいる隊士達の服装に向く。以前より、ずっと好ましい隊服の着こなしなのだが、いかんせん継ぎ接ぎやら、破れやらがどうしても目だってきている。
「前にも言った通り、ここは、やる気もなければ金もない、ないない尽くしの職場だったんです。それが、まあ、隊長に負けた事によって、規律を取り戻したのはいいんですが、金の方だけは何とも……。まだ、幼い兄弟やら、年老いた両親やら、抱えてる奴等もいるんです。貴族って言っても、俺ら下級貴族だから、ここの稼ぎが全てなんですわ。それで、どうにか近衛隊長に給金の事、掛け合ってもらえないか、と思いまして」
アーリのその必死の懇願に、リュートはふん、と短く鼻が鳴らす。
「そうだな。僕も昔、貧乏だったから、お前の言うことも分からんでもないが、あの近衛隊長が、僕の言う事をはいはいと聞いてくれるわけもないだろうし。それに、ここの仕事内容じゃあな。ただ、来もしない敵の為にだらだらと見張りをしているだけの仕事に、高給を望むなんて、見合わないと思わないか」
「そりゃ、まあ、そうなんですがね。でも王宮の隊士達と余りに違いすぎまさぁ」
言われた言葉に、リュートはしばらく一人で何やら逡巡し始める。そして、何か意を決したかのように、鋭い眼差しでアーリを見つめて、問うた。
「それなりの給料が貰えるならば、少々きつい仕事につく気はあるか?」
「えっ……。そ、そりゃ、俺達だって、高給の裏にはそれなりの仕事をしなきゃいけないって事くらい覚悟してます。何より、隊長が来てから、皆に前向きな気持ちが芽生え始めてるんです。このまま退屈で薄給な守備隊で一生終えたくないってね。あの着飾った王宮の近衛隊士に一泡吹かせてやりたいんですよ」
「……そうか。ならば、その覚悟があるものだけ、意志を確認して、お前が責任持って束ねあげておけ。そのうち、いい仕事、回してやるから。ただし、半端な覚悟では許さんぞ」
「は、はいっ!」
頼もしいリュートの快諾に、アーリはその前髪に隠された目を、きらきらと輝かさせて、隊士達の元に帰っていった。その後ろ姿を確認すると、リュートは、今度は、隣にいたリザの方に向き直って、彼に声をかける。
「ああ、それからリザ。あいつにも、連絡取ってくれないか? あの、十字傷の第三軍副団長に、だ」
「ニルフに? 別にいいけどよ、何の為に?」
「あっちも仕事が欲しかろう。状況はこの守備隊と同じ様なものだと言っていたじゃないか。ああ、仕事といえば、リザ。お前、また闘技場でアルバイトしてもいいぞ。て言うか、してこい」
「え、ええ? マジでいいの?」
リュートに負けて以来、闘技場での試合が一切禁じられていたリザにとって、この嬉しい提案を蹴る理由はない。だが、リュートはリザのアルバイト許可以上に、何か含むものがあるようだ。その証拠に、いつも、何か企んでいるときの様に、碧の瞳が、ぎらり、と妖しく光っている。
「ああ。観衆達もチャンピオンがいないとつまらんだろう。その代わり、やってほしい事があるんだ」
「やって、欲しいこと?」
リザの言葉に、リュートは深く頷くと、その口元を、にや、と不敵に歪めて、言った。
「ちょっと、噂を流して欲しいんだ。チャンピオンのお前の言葉になら、観衆も耳を傾けるだろう」
「……いいけどさ。一体何を?」
リザの問いに、またも、ふん、という鼻が鳴らされる音が返ってくる。そして、何か嫌な物でも思い出したかのように、碧の瞳を眇めると、リュートは忌々しげに、恐ろしい言葉を吐き出した。
「何、来るべき真実の戦局を教えてやるだけだよ。この平和惚けの王都の民衆共も、少々痛い目を見た方がいい」
「い、痛い目?」
語られた意外な言葉に、リザはその目を白黒させる事しか出来ない。元より足りない頭である。リュートの真意など知る由もない。
「ああ、それからもう一つ」
わけのわからぬままのリザを尻目に、リュートはまたその真意が窺い知れない様な言葉を吐いた。
「番犬の役目は終わりだ。もう、うちの警護はしなくていいぞ」
「な、何言ってんだよ! 言っただろ? 夜怪しいヤツが屋敷の周りうろうろしてたって? 警護なしで大丈夫なのかよ?」
最初は嫌々番犬役をやらされていたリザだったが、今ではすっかりあの家にも、この男にも、情が移ってしまっている。そんなリザの心配をよそに、またも、リュートは堂々と不敵な言葉を吐いてみせた。
「大丈夫だ。今夜、毒蛇の牙は抜いてくる。……今日の、舞踏会でな」
そう決意でもするように、言葉を紡ぐと、リュートはその碧の瞳で、王都の中心にそびえ立つ王宮を睨み付けた。そして、先の剣の稽古の時にかいたじっとりとした汗の感覚に、一つ思う。
……随分、寒さが緩んできたな。
「春は、近い、か」
守備隊での公務をあらかた終えると、リュートは日が暮れる前に、クルシェと共に、屋敷へと戻った。だが、その帰路にも、お供のクルシェは酷く落ち込んだ様子で、目も当てられなく沈み込んでいた。その、いつもに増した、暗い落ち込みぶりに、風呂から上がったばかりのリュートが、彼に問う。
「クルシェ。何をそんなに落ち込んでいるんだ」
さすがに風呂あがりなだけあって、リュートの髪も、自慢の羽も濡れたままだ。素肌に、湯浴み布だけを巻き付けただけのあられもない格好である。だが、それを少しも気にすることはない様子で、リュートは主室の暖炉の前に、どっかりとその腰を下ろした。
「あ、どうせ、トーヤに教えられた弓も、うまくいかなかったとか、そんなところだろ?」
メイドから渡された羽づくろい用のブラシを手に、リュートは、クルシェの痛いところをずばり、と突いてきた。そのあまりの図星ぶりに、クルシェは返事代わりに、その顔を真っ赤に染めてしまう。
「なんだ、そんな事か。一日でうまくなるはずないんだから、そう落ち込むな。ほら、羽づくろい手伝って」
言うと、リュートは暖かい暖炉前に、力ずくで、クルシェを引っ張り込む。そのぽかぽかと心地よい空気と、目の前の美しい白羽に、クルシェはまたもその頬を赤らめて、黙り込んでしまった。
「あのさ、クルシェ。何をそんなにいつまでも、もじもじとしているんだ? ここだって、隊士達の前だって、もっと堂々と振る舞っていいんだぞ? 大公家の坊ちゃんだろ? 誰も文句は言わないよ?」
白い羽を、手で艶々と撫でつけながら、リュートは恥ずかしげに俯いたままのクルシェにブラシを渡す。手渡されたクルシェは、どうしていいか迷いながらも、おずおずと、目の前の白羽にその手を伸ばした。そして、また、消え入りそうな小さな声で、呟くように言う。
「あ、あの、ぼ、僕は、そんな大層な人間じゃありませんから……。た、大公家といっても、次男ですし、それに……」
さらに言いにくそうに、クルシェは言葉を詰まらせた。その様子に、リュートはまた、ずばり、とした言葉を投げかける。
「何だ。あのお兄ちゃんと、なんかあるのか? いっつもぎこちないけどさ」
その言葉に、リュートの羽を整えていたブラシが、ぴたり、と止まった。どうやら、核心を突いてしまったらしい。
「そんで? 何があったってのさ? あのお兄ちゃんに、いじめられたの?」
「そ、そ、そんな!! あ、あ、兄上はそんな方じゃありません!!」
リュートの言葉に、クルシェはいつにない大きな声で、反論した。そして、すぐに恥じ入るように俯くと、また羽を撫でながら、静かに答える。
「あ、兄上は、僕と違って、素晴らしい方なんです。次期当主、というだけあって、頭もいいし、武芸も達者であられるし、何よりも、本当に気高くて……。それに引き替え、僕は、剣も弓も出来ないし、何の役にも立たなくて……」
クルシェがそこまで言いつのると、突然、リュートがその顔を、ぐい、と近づけてきた。その迫力のある碧の瞳に、睨み付けられて、クルシェは身動き一つできない。
「あのさぁ、何でそこまで自分を卑下するの? 楽しい? そこまで自虐して」
言われた意味が分からず、ただ固まったままのクルシェに、尚もリュートはその顔を近づけて言う。
「自分が役に立たないって、本当にそう思ってるの? だとしたら、僕に対する冒涜だから、今すぐやめてくれないかな」
「……は? ぼ、冒涜?」
「そうだよ。僕はクルシェがいなかったら、ダンス一つ踊れなくて、今頃あの銀狐に馬鹿にされていたんだ。君が役立たずなら、役立たずの君に助けられた僕は、もっと役立たずってことだよね?」
この意外な言葉に、クルシェはその頭が落ちんばかりに、激しく首を横に振った。
「そ、そ、そんな事ありません! あ、貴方が、役立たずなんて……」
「じゃあ、君も役立たずじゃないよね? 君は僕の恩人なんだから、もっと胸を張れ、胸を」
つん、とリュートの指が、クルシェの薄い胸板を突く。その指に、少々戸惑いの色を滲ませながらも、またもクルシェは俯いて彼に告げる。
「で、でも、僕は、それだけしかお役に立てませんから。ぼ、僕は貴方や兄上とは違うんです。貴方みたいに強くて、何でも持っているわけでは……」
「強い? 何でも持っている?」
クルシェの言葉に、かつてなく、碧の瞳が怒りの色を帯びた。睨み付けられるようにして、言葉を繰り返すリュートの姿に、クルシェはただただ圧倒されて、言葉が出てこない。
「お前、本当にそう、思うか? 僕が、何でも強くて、何でも持っていると、本当にそう思うか?」
そう、静かに問う、眼差しは、さっきまでの怒りの感情とはうって変わって、哀しい色に彩られていた。その、憂いのある眼差しに、クルシェは昨日のリュートの姿を思い出す。……あの、魂がどこかへ行ってしまったような、悲壮な姿と、呟かれた哀しい台詞……。
「僕は……大切な物を失ったよ。……僕の兄さんをね」
語られた事実に、クルシェはその目を見開かんばかりにして、リュートを見返した。そこには、濡れた金髪の間に滲む、暗い碧の双眸。
「だから、僕は……君がうらやましいよ、クルシェ。大事な兄さんが、生きている君が」
「リュート様……」
この、いつも堂々とした主人が、滲ませた哀しみと、自分の為に辛いことを語ってくれたのだ、という事実に、クルシェの心がかつてないほど揺るぐ。そして、何かを決意するかのように目を伏せると、ずっと彼の胸にしまいこんだままにしていた事実を、静かにリュートに告げた。
「僕は……庶子なんです」
「庶子? って事は……」
「はい。兄上とは腹違いです。僕の母はロクールシエン家のメイドで、僕を生んで、何年かして亡くなりました。実母の記憶は、僕にはありません」
震える声が、クルシェの感情をすべて語っていた。決して触れたくない、惨めな自分の出自。それこそが、クルシェの劣等感の根源であり、今尚苦しめている癌なのであるから。
「実母が死んで、僕はずっと今の母上……つまり、兄上の母上に育てられてきました。母上はメイドの子である僕にも、分け隔てなく接してくださって、疑問を感じたことも、不自由を受けたことはありませんでしたが、それでも、物心がつくと、分かってくるものです。僕と、兄上との違い、と言うものが。羽の色も違うし、何より、その才気が違います。そんな折、メイド達が僕の出生の秘密を喋っているのを偶然耳にしてしまって……」
「それで、兄との関係もぎこちなくなってしまった、と」
「はい。その……僕みたいな人間が、あの兄上の弟でいてよいのか、と。とても、東部を治める大公家にはふさわしくない人間だと、そう思って。それで、この他家への行儀見習いを申し出たんです。あの家に、どうしても居づらくなってしまって……」
――なんだ……。
語られた真実に、リュートは少々肩透かしを食らった心地を覚える。
大公が自分を繋ぎとめる為にクルシェを寄越した、とばかり思って警戒していたのに、何てことはない。ただの、家族の確執だっただけだ。
その意外な事実に、半裸のままでふう、とため息をつくリュートに、クルシェは慌てて取り繕うように続ける。
「あ、あの、母上や兄上に、いじめられた、とかそんなんじゃないです。皆そんな人じゃなくて、ただ僕が勝手に劣等感抱いて、畏れてしまっているだけで……」
「わかってるよ。ランディもマダムもそんな人じゃないってことは」
メイドが産んだ子を育てる、という母親の気持ちはさぞかし複雑で色々と葛藤があったであろうが、あの夫人は、どう考えても、うじうじとした継子いじめをするタイプではないし、その兄も、尚更に、庶子であることを気にするような男ではない。そう、分かっているだけに、余計にリュートはランドルフの態度が腑に落ちないのだ。クルシェが腹違いの弟なんてずっと昔から分かっているだろうに、あのぎこちない態度だ。
――なんか、あるな、あのバカ兄貴……。
「そ、その、あ、貴方にも申し訳なく思っています。せっかく僕の身柄を預かっていて下さっているのに、こんな、庶子だったなんて、さぞ、がっかりされたでしょうが……」
リュートの思考を遮るかのように、クルシェはその声を一層震わせて、肩をすぼませた。もう消え入りたい、とでも言いたげな態度だ。そんな小さく震える彼の前に、またも鋭い言葉が投げかけられる。
「それが何? 庶子だから何だっていうのさ。僕だって、昔はただの平民で、伯家の養子だったんだぞ?」
「え?」
輝かしい若き選定候としてしか、リュートの事を認識していなかったクルシェは、語られたリュートの過去が信じられない。ただ、絶句して、その碧の瞳を見つめるだけだ。すると、突然、震えていた肩を、ぐい、とリュートに掴まれた。そして、意志の強い碧の瞳が近づいてきて言う。
「いいか、クルシェ。君は庶子だから、劣っているんじゃない。庶子だからと、下らない劣等感に苛まれて、うじうじと自分を否定している所が劣ってるんだ」
その言葉に、クルシェの心が、激しく揺るぐ。
「庶子が何だ。大公家が何だ。そんな物、自分の身にくっついてくる付属物だろう。そんな物に振り回されて、自分を殺してどうする」
「……ふ、付属物って……」
今まで真剣に悩んできた物を、簡単に言ってくれる。なんて、この人は傲慢なんだろう、と思うと同時に、クルシェは押さえきれない憧れにも似た心地を覚えた。そんな彼の内心の葛藤に、一分も構うことがないように、またも、リュートが堂々と言い放つ。
「僕にとっては、クルシェはダンスを教えてくれた恩人。それ以上でも、それ以下でもない。何か、文句でも?」
あまりに、堂々たる、肯定の台詞である。もう、ここまで言われたら、クルシェの頬は、嫌でも緩むしかない。ふ、ふふっと、短い笑いをその口から漏らすと、潤んだ目つきで、リュートの方に向き直る。
「そうそう、そうやって、顔を上げていろ。君は、君らしく生きればいいんだ、クルシェ」
泣いているのか、笑っているのか判断出来ぬほどの表情で、彼を見つめるクルシェの頭を、ポンポン、とリュートの手が撫でる。
「大体な、クルシェ。お前、あの兄貴が素晴らしい人間とか言い過ぎだ。買いかぶりすぎだよ、買いかぶりすぎ。ほら、さっさと羽づくろい手伝って」
「そ、そんな事ありません、兄上はいつも冷静で、落ち着かれていて、す、素晴らしい方なんです。ぼ、僕の憧れなんですっ」
言われたとおり、羽にブラシをかけながら、クルシェはその顔を赤らめて、リュートに反論した。その様子に面白くなって、さらに、リュートが意地悪げに言葉を返した。
「あいつが冷静で動じないだって? そうまで言うんだったら、いいもの見せてあげるよ。もうすぐ、彼、この家に来るはずだからね。きっと、すぐに君の買いかぶりも解けるよ」
リュートがそう言い終わるか言い終わらないかの内に、部屋の戸が叩かれ、老執事が中に入ってきた。そして、すぐに、その後ろから、よく見知った黒羽、黒髪の男が現れる。
「ほーら、話をすれば何とやら」
そう言って、出迎えるリュートの姿に、入ってきた黒羽の男、ランドルフはまるで吹き出さんばかりに、動揺を見せる。
「お、お前! な、な、何で半裸なんだ! それが人を出迎える格好か!!」
「お風呂に入ってただけだよ。ほら、何てったって、今日は待ちに待った王宮での舞踏会だからね。汗くさかったら、困るだろ?」
「そ、それにしても、お前な! せめて下着を着ろ、下着を!!」
「そうですとも。ランドルフ様、もっと言ってやってくださいまし。当家のご主人と申しましたら、万事、こういった調子で困ってしまいます」
主人の破天荒ぶりに、シュトレーゼンヴォルフ家の老執事が、もう耐えられぬ、とばかりに苦言を呈する。だが、当の主人と言えば、どこ吹く風といった態度で、執事にしゃあしゃあと言い放つ。
「僕に仕えるのが嫌なら、出て行け、爺や。もちろん、婆やとガリーナは置いてな。それよりも、頼んで置いた物、持ってきたかい?」
「はい。持って参りました。しかし、こんなもの、何にお使いになるのですか? 私の個人的な日記など、一体何のお役に……」
そう言って、執事が差し出したのは、年季の入った革張りの本だった。長年にわたって、この老執事が書きためてきたことが、よく分かる日記だ。
「うん、最終確認さ、日付のね」
そう短く主人は答えると、おもむろに、ぱらぱらとそのページをめくり始める。そして、半裸のまま、主室のソファに腰掛けると、その前の机の上に置いてあった書類と、爺やの日記とを見比べ始めた。
「一体、何を確認しているんだ?」
ランドルフが近づいて、覗いて見ると、それは以前オルフェがレンダマルから持ってきた奉納記録の写しで、以下の様な文章が書かれていた。
『1535年、4月9日、我が息子、リュートの健やかなる成長を願って、風の神メルエムに供物を捧ぐ』
そして、リュートが持っている、爺やの日記には、『1534年、7月、17日、若が、姫様と姿を消された……。執事として、なんたる不覚であろうか。我が人生において、最も暗澹たる日……』という記述。
「ふーん。やっぱりね。これで、確実だな」
未だ、この書類の関連性が分からないランドルフを尻目に、リュートは満足げに笑って、その二つを傍らの包みにしまい込んだ。そして、クルシェを近くに呼ぶなり、こそこそと彼に耳打ちをした。
「何だ、二人して。あ、そうだ、リュート。お前に頼まれた予約、母上が取っておいてくれたぞ。それにしても、さっさと服を着ろ。一緒に舞踏会に行こうと言い出したのはお前じゃないか。そんな格好で、一体お前、何をする気だ」
そう言うランドルフの格好は、既に、舞踏会仕様の煌びやかな正装だった。どこから見ても恥ずかしくない、端正な大公家の次期当主、である。この家の執事に出されたお茶を飲むその姿も、実に、優雅で見惚れるほどだ。
そんな彼の横に、半裸の美貌の男が腰掛けて、そっと耳元で、囁きかける。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「……お願い?」
その単語に、嫌な予感を覚えて、警戒するランドルフの耳に、尚も、リュートはその唇を近づけて、甘い声音で、驚愕の言葉を紡いだ。
「僕を、愛人にして」
――ぶうっっっっっっ!!
言われた衝撃の言葉に、ランドルフの口から、大量のお茶が噴射する。
「ばばば、馬鹿たれ!! おおおおおお、お前、何を血迷っておるか、この、この、馬鹿たれが」
あまりの衝撃の大きさに、もはやランドルフの口は壊れてしまったかのように、あわあわと震えたままだ。目ももちろん白黒と、その焦点が定まっていない。その様子を、じっと、眺めるなり、横にいたリュートが、堪えきれぬように、ぷっ、と吹き出した。
「あははははははは!! 今の顔! 見た? クルシェ!! あー、傑作!! な? 冷静で動じないわけないって言っただろ?」
リュートのその言葉に、ランドルフはようやく自分がからかわれた事を悟る。
「おおお、お前、クルシェの前で何て事を! 冗談でも言っていいことと、悪いことがあるぞ!」
唾を飛ばして、ランドルフがリュートの息の根を止めんばかりに、その首に掴み掛かった。
その見たことがない兄の動揺っぷりに、クルシェはただただ驚いて、言葉もない。一方で、リュートの方は、反省の色など全くなしで、その瞳に笑いの涙を浮かべながら、ああ、やっぱりあんたをからかうのが一番楽しい、と言ってのけている。そして、あらかた、ひーひーと笑い倒したあと、今度は真剣な面持ちになって、ランドルフに言う。
「まあ、でも、完全に冗談って訳じゃないんだ」
言われた言葉に、当のランドルフはさっぱり理解が出来ない。そんな彼を嘲笑うかのように、リュートはうふふ、と小さく笑うと、ランドルフがさっき言っていた言葉について尋ねる。
「ねえ、予約取れたんだよね。あの占い師のさ」
「あ、ああ。お前が、占って欲しいという姫がいるんだ、と言うものだから、母上が侍女のタミーナに頼んで、取ってくれた。舞踏会がある今日に取るのは、結構大変だったらしいぞ。今日来る貴婦人達はみんな占って貰いたがっているんだから。それにしても、占いを受けたいというのは、どこの姫だ。まだ、ここに来ていないのか?」
そう問うランドルフの横で、にっこり、とリュートが、爽やかに微笑んだ。そのあまりにもすがすがしい笑顔に、ランドルフはいつも以上の、嫌な予感を覚える。
そして、案の定、恐ろしい、台詞。
「ん? 姫なら、目の前にいるでしょ?」