第四十二話:娼館
「あら、いらっしゃい、レギちゃん。また来てくれたのねぇ」
――ふうぅぅぅ……。
擦れた色気のある声と共に、濡れた唇から、ゆったりと煙が吐き出された。その独特の、甘くて蠱惑的な魅力のある煙は、この上品かつ淫靡な場に、尚の妖艶さを与える媚薬の様な香りだ。理性を痺れさせ、本能に訴えかける。――中でも、男の中に眠る雄の本能に、である。
「やあ、ママ。また、来ちゃったよ〜」
その香りに、一瞬でとろけさせられた男、レギアスが、甘えるような猫なで声で、香りの主に絡み付いた。
「もう、レギちゃんも好きねぇ。でも、こないだ貴方の相手した女のコ、喜んでたわよぉ。久しぶりの上客だってね。なんてたって、お仕事で、こんないい男相手に出来るんだから」
そう言いながら、赤く塗られた爪先が、男の顎を舐めるように、艶めかしく這う。この、とろけそうな愛撫を思わせる手付きに、今にも齧りつきたい欲情をぐっと抑えて、レギアスは自らの後ろにいる男を、その手の持ち主に紹介した。
「ママ〜。今日はもう一人連れてきたんだ〜。サービスしてやってよ」
その言葉と共に、男の後ろから、一人の青年が現われる。ちょっとそこらにはいないような、美しい金髪に白羽の青年である。
「んまぁ、何て可愛いぼーや。うふふ、また女のコ達が喜びそうねぇ」
「だろ? こいつ娼館初めてだから、色々教えてやってよ、ママ」
そう言われると、ママと呼ばれたこの娼館の主は、その色っぽい唇に、再びキセルをくわえて、またも艶めかしい煙を、ねっとりと吐き出した。
「ようこそ、ぼーや。この世の天国、『ジュネスの館』へ」
この娼館、『ジュネスの館』は、王都ガリレアの中心部から少し離れた地区、最大の歓楽街ハリランの一角に、ひっそりと、その店を構えていた。
王国最大のこの歓楽街は、不夜の街と謳われるだけあって、夜だというのに、明々と妖しい光が灯り、一歩そこに男が足を踏み入れれば、歩くごとにしつこい客引きにあう、という喧噪の色街である。勿論、それは、この二人の男も例外でなく、ここに来るまでに一体何人の女にその腕を取られたか、わからないほどだ。
だが、そのしつこい客引きも、『ジュネスの館』に行く、と一言言えば、あっさりと引き下がっていく。明日の生活に困って、死にものぐるいで路上に立つ娼婦すら、黙らせるその館の存在。それは、この歓楽街の最大の元締めにして、一般人には決して入ることが出来ない、最高級娼館であるが故だ。
この歓楽街の最高の美貌と知性を兼ね備えた娼婦が揃う、といわれるその娼館は、このけばけばしい歓楽街にあって、一見、本当にここが娼館なのか、と思うほど地味に見える。だが、それこそが高級娼館たる所以で、各高位貴族を始めとするお忍び客を主な客としているため、かえって地味な方が都合がよいのだ。
「ねぇ、レギちゃん。今日はどのコにする? 前のコもいいけど、今日は、うちのナンバーワンも空いてるわよん」
ねっとりした口調でそう言いながら、入り口で出迎えてくれたこの館の主であるママが、品の良い一室へと男達を案内する。さすが、高級店だけあって、部屋の中心に置かれたソファーを始めとして、高級な調度品ばかりだ。ただ一点、部屋の隅には、ここが男の夢の園であることを明確に示すかのように、艶めかしい裸婦像が置かれている。この、芸術と卑猥のぎりぎりの位置にあるような像は、この娼館の名前の由来である、愛欲の女神、ジュネスを象ったものだ。
その部屋を一見して、違和感を覚えるのは、ここが愛欲の娼館であるにもかかわらず、少しも娼婦の姿が見えない事である。その点をレギアスに尋ねると、まずは、ここでママを通して、相手の娼婦を選ぶ、というシステムらしい。おいそれと、商品である娼婦を見せびらかさない所は、さすが高級店ゆえか、と金髪の男は妙に納得をしてしまう。
「そっちのぼーやはどんな娘が好みなの? うちは、処女から熟女までとびきりのコを揃えてるわよん」
またも、ふうぅ、と甘い煙を吐きながら、ママが金髪の男にそう尋ねる。酒で擦れたようなハスキーボイスと、首元から布当てのあるノースリーブの体に沿うようなドレスが色っぽい、妙齢の美人だ。さすがに最高級娼館の主と言うだけあって、その妖しげな美しさといい、男に有無を言わせぬような迫力といい、そこらの娼婦とは一線を画している風格がある。
「リュート、どうすんだ、お前? 俺は決めきれなくってよ〜。前のコもいいし、ナンバーワンも捨てがたい。それに、前に目をつけてたコもいいし、う〜ん、う〜ん、迷う〜」
迷う、と言う台詞を吐きながら、男の表情には些かも苦痛の様子はない。ただただ、ゆるんだ口元と伸ばされた鼻の下があるだけだ。そのだらしなく伸びきったレギアスの顔に苦笑しながらも、金髪の男、リュートは少々楽しげな表情を浮かべて、彼に囁く。
「いいよ、三人とも買いなよ。全部払ってあげるからさ」
「さ、さ、さ、三人?! い、い、いいのか!? ほ、本当にいいのかよ?」
その夢の様な提案に、もうレギアスの目は、もう星でもこぼれ落ちんばかりにきらきらと輝いている。
「いいって。レギアスにはいつもお世話になってるからね。好きにしなよ」
「うおおお、リュート! なんと素晴らしい我が弟子よ! 三人! 女のコが三人も! うおおおお、男の夢じゃあああ!! ハーレムじゃあああ!!」
三人くらいでハーレムと言うのかどうかはさておき、レギアスはもう嬉しさのあまり、リュートにキスでもせんばかりに抱きついている。その浮かれた様子に、少々呆れながらも、ママが再びリュートに尋ねる。
「それで、ぼーやはどうすんの? 好みのタイプを言ってくれれば、適当に二、三人見繕って、ここに連れてくるわよ。その中で気に入ったコがいなければ、他のコに変える事も出来るし」
「そうだなぁ……」
ママの色気たっぷりの目線に、些かもひけを取らぬような、妖しい碧の瞳が、目の前のソファーに座るママの、頭からつま先までを舐めるように見つめる。そして、意を決したように、うん、と頷くと、一つ驚愕の言葉を紡ぎ出した。
「僕、ママがいいなぁ」
「お、お、おい! 何言ってるんだ、リュート! ママが相手してくれるわけないだろう! 確かにママは美人で、俺もいいな、と思ってるけどよ! ママはあくまでママであって、娼婦じゃないの! ママ、ごめん、こいつ、ホント初めてだから!!」
そのレギアスの謝罪を前に、ママは、またゆっくりとその高級なキセルを吸いながら、リュートの目線に対抗するように、彼の眼差しを真っ向から受け止める。そして、その含むような目線に気づくと、それに答えるかのようにして、ふっ、と短く煙を吐き出した。
「いいわよ。アタシで良ければ、相手をしてあげる、ぼーや」
その意外な返答に、レギアスは驚愕しきりであるが、当人同士がいいと言うのだから、これ以上言うこともない。何より、自分の前には、バラ色のハーレムが待っているのだ。リュートやママのことなど気にしている暇はない。
「ママ! 今度は俺も相手してね〜。そいじゃ、行ってきま〜す!!」
うきうきと、浮かれた声でそれだけ言い残すと、幼い娼婦見習いの少女に連れられて、レギアスは暗い館の一室へ向けて、部屋からその姿を消していった。
後に残されたのは、何か含むような目線で微笑みあう、美貌の金髪の男と、これまた美貌の娼館の主だけである。その微妙な沈黙を先に破って、主人の方がリュートに話しかけてきた。
「さて、どうする、ぼーや。ここでする? それとも……」
「ぼーやはやめてよ、ママ。リュート。そう呼んでよ。場所はここで構わないからさ」
「あら、こんな色気のない場所でいいの? ベッドもないし、道具もないわよ」
「……うん、まあ、何の道具かは聞かないけどさ、ママ。とりあえずお話ししない? 僕、そういった精神面からの快感が欲しいんだぁ」
これまた、何か企むような、艶っぽい眼差しである。その含まれた意味を察するかのように、ママの指がリュートの顎を、つっ、と撫で上げた。
「いいわよ。それで、アタシとどんなお話がしたいってわけ?」
ママの快い承諾に、リュートはさらに、うふ、と一つ笑うと、その懐から、なにやら包みを取り出す。
「ねぇ、ママ。ここって、高位貴族の人も、お忍びでいっぱい来るんでしょ? ママ、その人たちの事、よく知ってるよね? 色々と」
最後の『色々と』という言葉に、何かしら意味を持たすように、リュートは強調して見せた。そして、取り出した包みの中身を見せ付けるかのようにして、ママの前の机に置く。……そこには、金色に煌めく魅惑的な金貨の山。
「ねぇ、これで、その『色々』売ってもらえないかな?」
「…………」
二人の間に、しばらく沈黙が流れる。
すると、先に動いたママが、またキセルを、すうぅ、と深く吸い込むと、包みの中から一枚だけ金貨を取り出した。そして、残りの金貨が入った包みを突き返すと、その口から、煙と共に、一言、冷たくあしらうように言い放つ。
「帰んな、ぼーや」
ふうぅぅ、とうざったげに、煙を吐ききると、ママは、まるでこれでもう終わり、とでも言いたげに、キセルの灰を、コン、と灰皿にぶちまけた。そして、さっきまでの、にこやかな笑みをどこかに追いやって、今度は視線だけで殺しそうな迫力ある眼差しで、リュートを睨み付けて、ドスの効いた声で吐き捨てる。
「うちは、そんな安い店じゃないんだよ。信用第一が売りの最高級店なんだ。お客の情報は、誰にいくらつまれたって売らないよ。これは授業料として貰っといてあげるから、さっさと帰んな」
それだけ言うと、ママはピン、と、貰った金貨を片手で弾きながら、その腰をソファーから上げて、踵を返す。
「ああ、良かった」
今にもママが、部屋から出ていかんとしたその時、後ろから明るい声で、そう言葉がかけられた。驚いて振り向くと、そこには先の含む様な眼差しに増した、爽やかな微笑みが一つ。
「ここなら、安心して女のコが買えそうだね」
その言葉に、即座にママは、この男がした事を悟る。
「アタシを試したのかい? ……可愛くないぼーやだね」
ちっ、と舌打ちをして、そう言いながらも、ママはどこか嬉しそうな表情を浮かべている。そして、あらためてリュートの元まで戻ると、今度は前のソファーでなく、彼が座っているソファーの横にその臀部を下ろした。
「それで? どんな女のコが買いたいんだい?」
赤く塗られた爪が、リュートの首に甘えるように絡み付く。その事によって間近に迫った濡れた唇を、つっ、と撫でながら、リュートがママに尋ねた。
「そうだなぁ。ママ、ここは出張サービスもある?」
「勿論。パーティー会場から、お宅のベッドまで。払うもの払ってもらえば、どこまでも」
「うーん、さすがだね。じゃあ、今度、うちに出張で四、五人、おネエさんお願いしたいんだけどなぁ。取り敢えず、この金貨、先払いで置いておくからさ」
「お安い御用よん、リューちゃん。うふ、アタシ金払いのいい男、だーいすき」
うっとりした声でそう言うと、ママの腕が更に、リュートの首に回った。もう、今にも唇が触れそうな距離である。
「うふふ、ねえ、リューちゃん。まあ、その事はまた後で話すとしてさ、今からアタシとはどうする? こんだけいい男なんだもの。サービスするわよ」
艶めかしい香りと共に、つん、とママの鼻先がリュートの鼻先に触れる。それと同時に、先まで首に回されていた右手が、するするとリュートの胸を撫でるように滑り落ちていった。
「うーん、遠慮しておこうかなぁ」
その舐めるような愛撫を受けながらも、やんわりと拒否の言葉を口にするリュートに対して、ママの手はさらに、大胆になる。服の間から、するり、と手を入れて、リュートの素肌に触れると、またもその濡れた唇を彼に近付けて妖艶に言葉を紡ぐ。
「あら、細身かと思ったら、意外と筋肉ついてるのねぇ。こんないい男となかなかデキる機会ないし、今日は特別ただにしておいてもいいのよぉ」
「ママ」
その服に入り込んだ右手をそのままに、リュートはママの腰を引き寄せて、その形のよい顎を撫でながら、一言、耳元で囁く。
「……おヒゲ、剃り残してるよ」
その囁きに、ママは即座にリュートの素肌から手を離すと、自分の顎を確かめるようにして両手で撫で回し始めた。
「あら、いやだ。バレちゃった?」
ママの引きつった笑みに、リュートはこれ以上ない爽やかな笑顔で答える。
「うん、最初からね」
「あら、やーだー。ちょっとレギちゃんには内緒にしておいてねぇ」
バレた途端、ママはそのテンションを一気に変えて、リュートの肩をバンバンと叩いてくる。声も、先の艶めかしいハスキーボイスではなく、もはや、ただの低い男の声だ。
「もー、リューちゃんたらぁ。アタシこれでも初見でバレた事なかったのよおぉ。はぁん、ショック〜」
「いやいや、ママは十分綺麗だよ。さっき、一瞬、くらっ、て来ちゃったし」
「あら、そおお? じゃあ、続きする? これでもスゴいのよん」
……何が、どうスゴいのか。リュートは張りついた笑顔の裏で、それだけは永遠の未知の世界にしておきたい、と切望して、またもやんわりと拒絶の言葉を紡ぐ。
「うん、ママは僕にはもったいないくらいだからさ、今度うちに来てくれるおネエさんのこと相談させてよ。出来れば、かなり上品な感じのコがタイプなんだけどなぁ。……勿論、本当の女のコで」
「いいわよん。とびっきりのコ達、用意してあげるわん」
清々しいまでのママの快諾を得て、リュートはこれ以上、彼女、いや、彼の毒牙にかかりたくない、とそそくさと娼館を後にしていた。勿論、きっと、今頃いい夢を見ているに違いないレギアスは、残したままである。
まだ寒い夜の冬空に、ふう、と白い息を小さく吐くと、リュートはその白い翼をばさり、と広げて、王都の空へと飛び上がった。上空から見る王都は、もう夜だというのに、点々とあちこちに灯りが灯ったままだ。中でも、目だつのが、王宮、リュートがいた歓楽街、そして、丁度その間に位置している大神殿の灯りである。
その祈りの炎が永遠に灯る、と言われる壮麗な建築に向けて、リュートはその翼を大きく羽ばたかせた。近づくと、改めてその大きさというものが、まざまざと感じられる壮大な建築物。太陽神を祭る巨大な主神殿を筆頭に、それを囲むようにして、点在する数々の神の小神殿。
リュートはその翼を、一つ、羽ばたかせると、石組みで作られている主神殿の尖塔部分に降り立って、その神々がおわす所を静かに眺めてみた。
――そう言えば、クレスタにも小さな神殿があったっけ。
懐かしい思い出が、リュートの脳裏に蘇る。
まだ、彼がただの平民だった頃、そこで、レミルと、トゥナと、マリアンの四人でかくれんぼでもして遊んだものだった。当然、信仰心など皆無で、ただただ、珍しい彫像が置かれた、遊び場、くらいの感覚しか持っていなかったのだ。彫像も、特にありがたい物とすら思わず、よくいたずらなんかもして怒られたこともあった。
……いつも、率先してその彫像にいたずらするのはレミルだったな、と改めてリュートは思い出す。供えられた果物を勝手に食べたり、彫像に落書きをしたり……。そして、その後、決まって、母親にこっぴどく叱られて、ふて腐れてリュートの家にやってきたものだった。
「レミル……」
甘い思い出とともに、その名がリュートの口から漏れる。
ふと、暗い大神殿前に、何か人影が動くのが目に入った。
リュートは、さっきまでの思い出をすぐにしまい込んで、辺りを警戒するように、腰の剣に手をかけた。最近、身の危険に晒されていることは、あの毒の件から、嫌でも分かっている。ぴん、と精神を張りつめて、辺りを警戒しながら、立っていた尖塔の影に身を隠すようにすると、リュートは極力その羽音を立てぬようにして、その高度を落としていく。
すると、さっきの影が、大神殿の入り口にある松明付近まで移動していた。その灯りに照らされて、その人物の羽色が明らかになる。
――リュートが、よく見知った、グレーの羽。
七年間、共に暮らしてきたのだから、間違うはずもない。そのグレーの羽に加えて、合わせたかのような口髭まで露わになる。
……クレスタ伯、ロベルト・ニーズレッチェ。紛う事なき、リュートの義父の姿である。
その事実を認識するや否や、リュートの心臓が、一気に早鐘を打つように、鼓動を早めた。
「何で、こんな所に……。しかも、こんな夜に……何で、あの人が」
あの王都に初めてやってきた日の過去の話以来、顔も見ていなかった義父のその行動を不審に思ったリュートは、さらにその気配を殺して、大神殿の入り口へと近づく。すでに、義父は大神殿に入った模様で、その後を追うようにして、リュートも神殿入口の松明の前へと着地した。
地上から、改めて見直す大神殿は、王宮にひけを取らぬほどの壮麗さと、威圧感を備えていた。その辺りは、さすが、全国の神殿を束ねる大神殿故の風格がなせる技だろう、とリュートは理解して、その歩みを神殿内部へと進める。
入るなり目に付くのは、三階建ての建物に匹敵するような巨大な太陽神の彫像である。その手に太陽が象られた杖を掲げた、堂々たる主神の姿。そして、その主神前には、数々の供物が置かれている祭壇に、その前にひれ伏す神官達。おそらく、今は、夜のお勤めの時間なのだろう。何やらぶつぶつとその口から、経文のような物を唱えている。
その姿を一人、一人、確認しながら、リュートはさらに神殿内部へと足を踏み入れる。だが、どれもこれも陰気くさい神官達ばかりだ。探している義父の姿はない。
「おやおや、お若い方。このような時間にどうされました」
警戒しながら、神殿内をうろついていたリュートに、突然後ろから声がかけられた。随分、嗄れた声だ。
振り向くと、そこには、高い帽子を被った、老人が一人。その風格のある出で立ちと、被った帽子に入った三本線から、リュートは彼が何者であるか、即座に判断していた。この、三本の黄色い線が入った帽子をかぶれるのは、この国でただ一人……。
「だ、大神官様……?」
「いかにも。大神官であるが――、そなたは? その白い羽に金髪、もしや……」
リュートの姿を認めるや否や、老人はその長く伸ばされた白髭を一撫でして、そう呟いた。
「はい、リュート・シュトレーゼンヴォルフと申します。大神官様」
「おお、やはり。白の英雄殿じゃな? お噂はこの大神殿まで届いておりますぞ。儂は大神官を勤めております、マーリン・ハリナウルフでございます。同じ選定侯として、どうぞお見知り置きを」
「こちらこそ。お会い出来て光栄です」
この国で、唯一聖職にありながら、選定候位を有するハリナウルフ家は、他の選定候とは少々違った事情を持った家柄だと、以前にリュートは聞かされていた。本来なら、血筋によって伝えられる家柄が、この家だけは、神託によって選ばれた者がその名を継ぐ、ということになっているらしい。妻帯出来ぬ、聖職者ゆえのシステム、といった所だろう。
「ところで、英雄殿。儂は丁度、夜のお勤めを終えた所でしたが、何故、貴方様がこのような場所に?」
「いえ、あの、少々知り合いが、こちらに入っていくのが見えましたので、声をかけようかと……。でも、どうやら、ここにはいないようです」
「ふむ、もしかしたら、他の神の神殿の方へ行かれたのかもしれませんな。あちらの回廊は、多くの神々の小神殿と繋がって降りますので。よろしかったら、ご案内しますよ?」
この国の神官の長たる男に、その様な案内をさせてしまうのは、大変に気が引けたが、勝手が分からぬ神殿内を自分だけで探すのは無理、と判断したリュートは、その言葉に甘える事にした。
「本当に、多くの神々がいるのですね」
暗い回廊を歩きながら、そこから見える祈りの蝋燭の光を、数多く見るなり、リュートはあまりの多さに溜息をついてしまう。
「そうですな。太陽の神、月の神、水の神、風の神、火の神……。まったく、この世界におわします神々は数え切れませんわい。中でも、儂が好きなのは、ジュネス神ですがな」
……先に行った娼館の名前、つまり、愛欲の女神の名だ。
この、見かけによらぬ生臭坊主め、と内心で呟くと、リュートはさらに、大神官に向けて、問いを重ねた。
「先に、劇場で歌劇を観ました。『神々の黄昏』、という恐ろしく冗長な芝居でしたが。実際の神々も、あのようなものなのでしょうか?」
……恋に狂い、恋に死ぬ、人間と変わらぬ神々……。
リュートの脳裏に、陰気な死神と観た、あの芝居が蘇る。
「そうですな。あのまま、とは行きませんが、おおむねの神話はあの様なものです」
「そうですか。では、冥府の神も? 僕と一緒に芝居を観た男は、冥府の神は、究極の傍観者、だと言っていました。本当に、そうなのでしょうか?」
リュートのその問いに、大神官はまたも、その白髭を一撫でして、ふむ、と小さく呟く。
「どうして、その様なことを? 何故、冥府の神、ヴォータンにそれほどまでこだわられるのです?」
「……僕は……、兄を亡くしました。だから、それで、彼がいる所は、どんなものかと、思いまして……」
切なげに紡ぎ出されるその言葉に、大神官はその皺に囲まれた目に、少々の憐憫の情を覗かせて、そうですか、と静かに答えた。
「それはお辛い事を経験なされましたね。ええ、そうですね、確かに、冥府とはこの世の死者が、全て行き着く、と言われている場所です。ヴォータンはそこを統べる偉大なる神……。神話では、死に行く娘を止めもせず、ただただ送り出したもの、と書かれていますね」
そう、それで、あの死神は、彼を『究極の傍観者』、と評して見せたのだ。
「……そんな男が、冥府の神であってよいのでしょうか。ただ、あるがままの不幸を傍観しているだけの男が統べる国などに……」
それでは、あまりに死者が不憫である。ようやくたどり着いた終着地なのに、そんな不幸を野放しにされては、とてもではないが、耐えられない。
そのリュートの内心を慮ったかの様に、静かに老人は告げる。
「愛しておるのですよ、ヴォータンは」
「……愛している?」
リュートには、言われた意味が分からない。
「そうです。ヴォータンは、全てを愛しておるだけですよ。人の愚かさも、それ故の不幸も、哀しみも、苦しみも、全てひっくるめて。何故ならば、それこそが人間だからです」
その言葉に、揺るぐリュートの瞳を、尚もその皺だらけの瞳で見つめて大神官は続ける。
「貴方が言う通り、冥府は誰もが行き着く終着地です。その終着地の主はわかっておるのですよ。人の営みが、如何なるものであるか。そして、分かった上で、それらすべてを愛するのです。必死でもがき、苦しみ、生き抜いていた人間の有様を、それがどれだけ愚かであろうとも、それでよいのだ、と肯定しておるのです」
「……肯定?」
再び、リュートには大神官の言葉を繰り返す事しかできない。何か、口に綿でも詰められたように、喉が、詰まりそうな心地だった。
「そうです。だって、そうでなければ哀しいではありませんか。最後に行き着く地の父にまで、自らがもがいてきた生、というものを否定されては」
「ただ、傍観しておるだけではないのですか」
弱々しく、リュートの問いが、闇に溶ける。
「そう思う方もおられるようですが、儂は少なくとも、そうは思いたくはない。冥府は、偉大なる父に全てを委ねて死者が眠る場所……。その苦しみも愛も、美しさも、全てが受け入れられる場所。……儂は、そうあって欲しいのです」
語られた、大神官の死生観に、リュートは言葉が出てこない。
ただ、漠然と、そうであればいい、と思う。
愛しい母が眠り、愛しい父が眠り、そして愛しい兄が眠る場所。
そこが、その様に、穏やかに、全てを受け入れられる場所であればよい、と思う。
そして――……。
――そうであれば、尚更に、僕はその場を追い求めて止まなくなる。
それは、あまりにも甘美な、冥府への憧憬だった。
「ああ、着きましたよ。あそこが冥府の神を祭る神殿です」
リュートがそう物思いに耽っている内に、どうやら足の方は勝手に動いて、この場へと連れてきてくれていたらしい。回廊を抜けた、芝生の生えた広場の向こうには、石造りの小さな神殿が一棟。暗くても、灯された蝋燭の明かりが、その荘厳な姿を照らし出している。
すると、その神殿の前で、また影が動くのが見えた。その影に、リュートは呆然とした声で、小さく呟く。
「……旦那様」
その影は、この後ろからでもはっきりと分かるほど、その身を激しく折って、顔を地に突っ伏していた。丁度、神殿の前に、ひれ伏すような格好だ。そして、その影から、はっきりと聞こえる、啜り泣きの声。
――泣いている。
あの、義父が、誰に構うことなく、その頭を地に擦りつけて、泣いていた。その事実に、リュートの足が、がくがくと震える。
「おや、もしかして、貴方のお知り合いの方と言うのは、彼のことでしたか? いつも、ああして、夜のお勤めの時間に来ては、祈りを捧げているのですよ。お亡くなりになった、息子さんの鎮魂の為に」
大神官の嗄れた声が、まるで心に直接突き刺さったように、彼を揺さぶる。そのいい知れない胸の焦燥感に、リュートは無意識に、その胸をがしがし、と掻きむしった。
……丁度、あの兄が、死んだ、雪の戦場で、した様に、だ。
「……いいえ、違います。……知らない、人です」
それだけ、ようやく言葉を絞り出すと、リュートは大神官が止めるのも聞かず、踵を返して、脱兎の如く駆けだした。そして、神殿を出るなり、その翼を羽ばたかせて、冷たい夜空へと、一気に飛び上がる。
――レミル、レミル、レミル……!!
兄の名が、ただただ、頭の中をぐるぐると回っている。自分が、何をどうして、館へ帰ったのかすら、覚えていない。
館に入るなり、起きていたクルシェが驚いた様に声をかけてきたことだけ、ぼんやりと覚えている。だが、それに返す言葉など、今のリュートにはなかった。
全ての事を無視して、ようやく自分の部屋へ戻ると、リュートはベッドに倒れ込むようにして、その身を預ける。体が心地よく沈み込む、そのベッドも手伝って、リュートはその精神が、どこまでも沈み込んで行くような錯覚を覚えた。
そして、小さく、誰に向けるでもなく、呟く。
「待っていて……。するべき事を成したら、僕もすぐにそこに行くから……。それまでは――……」
僕は、誰にも負けない。
怒りとも、哀しみともつかぬ呟きが、静かに、冬の寒い夜に、溶けた。