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第四十話:劇場

「『我が偉大なる父、冥府の神、ヴォータンよ。妾はそれでも、あのお方のお側に行きとうございます』」

 

 ――歌劇『神々の黄昏』、第二幕『火の女神アリシア』。

 

 この約七十年ほど前に作られた、歌劇の中の最高傑作と謳われるこの作品は、センブリア大陸の創世神話を元にした、壮大なる一大叙事詩である。

 その内容とは、主にこの世界を創ったと言われる太陽神の息子、風の神メルエムと、冥府の神の娘である、火の女神アリシアとの悲恋を中心に、神々の国興しと、その盛衰が、独特の旋律で、荘厳に描き出されている。

 第一幕では、この世界に豊穣と平和をもたらす、風の神メルエムが、死んでしまった恋人、美の女神マリーツィアを追って、死の世界である冥府へ赴くまでの、冒険と苦悩が描かれる。

 死者しか足を踏み入れることしか出来ぬ冥府へ、英雄と謳われる風の神が、偽りと嫉妬の女神プードゥンによって導かれ、冥府の番人である悪魔ブルーナとの死闘の末に、ようやく愛しい恋人との再会を果たす。だが、そこで見た愛しい恋人は、死臭と蛆に塗れた醜き死者と化していた。

 ――『だから、会いにくるべきではなかったのに』

 その言葉を残し、かつて美の女神と謳われた死者は、冥府を照らす火の山の火口へと身を投じる。無残に焼かれる恋人を目の当たりにして、絶望する風の神。その彼が亡き恋人への惜別と、後悔の念を切々と歌い上げて、第一幕は終幕する。

 

 そして、迎えたこの第二幕では、絶望の余り、後を追って火の山に身を投じようとする風の神の前に、火の山に住む、火の女神アリシアが現われる。

 一目で彼に恋をしてしまったアリシアは、死なんとする彼を救い、自らの父である冥府の神、ヴォータンの元へと彼をいざなう。生者である彼を、この冥府より帰さんとするヴォータン。彼に付き従い、生者の世界に行きたいと懇願する火の女神アリシア。だが、この冥府を照らす唯一の光である彼女にそれは許されぬ禁忌である。この冥府から、出ればその身は焼き尽くされて灰になる、と諭す父に抗い、彼女はその恋に生きたいと切に願う。

 

「『妾は、例えこの身が灰燼と化そうとも、あのお方の元に行けるなら本望でございます』」

 その言葉で始まる、ソプラノアリア、――『恋に生き、恋に死す』。

 この、女の激情と、切なさの混じる名曲が、高らかに、王都ガリレア国立劇場に響き渡った。

 

 約百年前、ピリス一世の全国平定を記念して建設された、この壮麗なる劇場は、収容人数千名を数える、貴族や、裕福な平民層の社交と娯楽の場として、長くその歴史を重ねてきた。この当時としては最高の建築技術が注がれた劇場の、特等席とも言える、舞台真正面。そこには、より格式高い王族、高位貴族の為の個室、貴賓席が設けられている。当時としては、ここで貴婦人を引き連れて、芝居を見ることこそが、貴族の嗜みであるともて囃されたものであったが、この貴賓席も、最近は、王宮や北の大公主催の宴が頻繁にとり行われているため、貴族達はそちらに出席するのに忙しく、今では、滅多にその席が埋まる事はなくなっていた。……ただ、一室を除いて、である。

 


「これは、これは。昨今、珍しいことですね。ここ以外の貴賓席に、誰かいらっしゃるなンて」

 

 そのいつも埋まったままの暗い貴賓席から、隣の貴賓席に着席した人物に向けて、声がかけられる。だが、その二人の間は厚い幕で部屋が仕切られており、相手の顔を見ることは叶わない。それにも構わず、着席した男は幕越しに答える。

「いえね、彼女が是非に、私の歌声を聞いて欲しいと言うものですから。ほら、今、アリアを歌っている彼女ですよ」

 その言葉に、いつも埋まったままの貴賓席にいた男の目が、舞台に向く。そこには、火の女神アリシア役の、濃緑の髪の美しき乙女の姿。

「ああ。今日だけの特別配役の、ベッティーナ・マルセロ嬢ですか。彼女はなかなか、どうして、大した歌い手だ。マルセロ伯の娘、貴族ということで、私もその歌声など、お嬢様のお遊びとタカをくくっておったンですがね、今日のこのアリアときたら、いや、なかなか聞かせてくれるじゃ、ありませンか。とろけるような恋心、それ以外何も見えぬ盲目ぶり。見事に、恋に死ぬ火の女神の心情を歌い上げている。……きっと、彼女も誰か素敵な人に、恋をしているに違いない」

 そう、舞台の女優を評する声は、この激情混じる歌声とは裏腹に、感情の起伏が一切ないのでは、と思わせるほど、淡々としたものだった。ただ、独特の鼻に抜けるような、癖のある発音が、嫌に癇に障るしゃべり方だ。その声に、後からやってきた隣の貴賓席の男が、これまた冷たい声音で答える。

「……さて、誰でしょうね。僕にはそういう気持ち、わかりませんから」

 その言い放たれた言葉に、幕の向こうで、少々息が漏れる音がする。笑っているのか、それとも溜息をついているのか、こちらからは判断できない。

「いやいや。そンな貴方が、この歌劇を見るなンて、ええ、とても素晴らしいことです。彼女も、歌いがいがあるというもンでしょう」

 

「『あのお方が振り向いてくれなくとも、その心が、未だ、美の女神のものであろうとも。それでも、妾は構わない』」

 ……報われぬ恋に身をやつす愚かしさ、そしてそれが分かっていても、どうしても押さえきれぬこの胸の高鳴り。

 その切ない女心が、圧倒的な声量の高音で、歌い上げられる。

 

「それで、この曲の後は、どうなるのです? 毎日ここにいらっしゃるそうですから、お詳しいでしょう?」

 切ないアリアを聴きながらも、尚も冷たい口調で、後から来た貴賓席の若い男が尋ねる。

「この後、――……火の女神アリシアは、風の神を追って、冥府から旅立とうとします。だが、それを冥府の住民は許しはしない。彼女を、……火の灯りを失いたくはないと、あの手この手で風の神を殺しにかかります。そこに現れるのが、彼をこの世界に誘った嫉妬の女神、プードゥンです。彼女は彼に、助かりたければ、あの火の女神を見捨て、自分と結婚しろと迫る。渋々ながら、それに了承する風の神メルエム。その事を知った火の女神は、その身に纏った焔ごと、風の神を焼き尽くして、共に果てる。そして、その彼女の亡骸から、風と、火に愛された、有翼の神ホルストが誕生する。その彼こそがこの我ら、クラース人の国家を作った始祖だ、というような話です」

 相変わらず、一切の感情も起伏も入れないしゃべり方で、男は答えた。その語られたあらすじに、若い男がふう、と溜息をつく。

「何だ。神だというから、どんな立派な者かと期待して来てみれば、何て事はない。恋人に狂い、嫉妬に狂う。僕らと大して変わらないではないですか」

「その通りです。とても、人間味のある神々たちだ。だからこそ、慕わしく、魅力的なンですよ。美の女神に湧く蛆、英雄と謳われる風の神の軽率さ、報われぬ恋にその身を焦がして死ぬ火の女神の浅はかさ。美しさとは相反するものが、麗しき神々に同居している。それこそが、本当の、美という奴なンです。ただただ、全能で、品行方正な神など、誰が愛しましょうか」

「それが、貴方の、美意識、そして、……人生観ですか」

「ええ、そうです。私の、揺るぎない、矜持です」

 

「だから、あの城の内装も、そうなのですね。無骨な要城に似合わぬ、精巧な大理石の床。相反する物の、同居だ」

 

 若者の口から飛び出した言葉に、一瞬、男は閉口する。そして、しばしの沈黙が流れたあと、アリアの終わりをもって、男の口からまたも言葉が紡ぎ出された。

「いかがでしたか? あの城の落とし心地、そして、住み心地は。少々あの城に駐留しておられたンでしょう?」

「そうですね。落とし心地は、最悪でした。欲しい物が、二つも手に入れられなかった。住み心地の方は、……まあまあです」

「それは、よろしかった。私は、あの城の住み心地は、最悪だと思っておりますンで。……あンな物の上で、眠りたくはないンです」

「……あんな物?」

 小さく呟く様に語られた単語を、若者は聞き逃さなかった。だが、その若者の問いに、厚い幕の向こうの男は答えない。代わって紡ぎ出されたのは、意外な言葉だった。

 

「私を、諫めないンですか?」

 

 その短い言葉の意味を、若者は即座に理解していた。そして、また、同じように短く答える。

「僕は言って無駄な者に、言うほど暇じゃない」

 

 吐き捨てられたと言っていいその返事に、またも幕の向こうで息が漏れる。

「いやいや。これは、なかなか聡い方だ。いや、たまにいるンですよ。この私に、諫言とかいう無駄な物をする馬鹿が。ええ、確か、あのジェルド、という男もそうでした」

「……彼も?」

「ええ。この私に対して、大した説教をしてくるもンですからね、言ってやったンですよ。『なら、お前が好きにすればいい。南部はくれてやる』ってね」

「それで、全権を任された南部大公、代理殿でしたか」

「はい。頭の固い男でしたでしょう? ああいうのが、一番嫌いなンです。そこへ行くと、貴方は本当に、賢い。誰に、何を言うべきか、分かってらっしゃる。もし、貴方が、今、ここで、諫言の一つでも口にしていたら、私はこの後、一切口を開くつもりはなかった」

「それは、よかった。まだ、お喋り、してくださいますね? 退屈なんです、この歌劇」

 ふう、と鼻から息を漏らして、若者はその背の白羽を、ゆったりと貴賓席の皮張りの椅子に委ねる。その様子を幕の向こうから悟ったのか、男が先の淡々とした口調に、ほんの少しだけ起伏をつけて、語りかけた。

「そうそう。ゆったりと気楽にご覧なされませ。このあと六時間はかかりますから」

「……六時間!!」

 告げられたその途方もない時間に、くらり、と若者をめまいが襲う。……道理で、この貴賓席も含め、観客が少ないわけだ。こんな、退屈な長丁場じっと耐えられる訳がない。この役者達だって、よくやるよ。

 その若者の、内心を慮ったかのように、隣の貴賓席の男が答える。

「これは、一度見て、面白い、とかいうものではないンですよ。長々と、神々の世界に浸る、夢の世界への逃避、一種の旅行なンです。この神々達の苦悩を共に分かち合い、そして、彼らの有り様に思いを馳せる。中でもね、私が一番興味深いのは、冥府の神ヴォータンです」

 

 その言葉とともに、舞台には、先にアリアを歌い上げた火の女神の前に、威厳ある黒い衣装の男が登場してきた。そして、その地を這うような迫力のある低音で、その娘である火の女神に向けて歌い上げる。

 

「『行け、娘よ。数々の困難がお前を待ち受け、やがて、お前の身は崩れ落ちるであろう。それでも行くと言うなら、堂々と行くがいい』」

 

「――止めないンですよ、ヴォータンは」

 またも貴賓席の男が、静かに、言葉を紡ぐ。

「娘が、冥府の住民の怒りを買う事が分かっていても、その身が焼き付くされるのが分かっていても、彼は娘を止めない。ただ、その意思を問うだけです。そう、美の女神が死して冥府へやってきても、彼女の体が腐るのをただただ見ていたように、彼はただあるがままを見ている。彼は、――究極の傍観者なンですよ」

「それに、……貴方も、共感する、と?」

「はい、そうです。冥府の神は分かっているンです。例え、自分が何をしても娘の恋心は止められないと。ただ、あるがままに、その不幸を傍観している。……私は、そンな傍観者になりたい」

 

 語られた心の内に、若者はまたも静かに問う。

「だから、貴方は動かないのですか。『日和見大公』殿」

 その問いに、少しだけ、隣の幕から、溜息の音が聞こえた。

「いえね、私も最初からこうだった訳ではありませン。それはそれは、意気揚々と未来に向けて、その目を輝かせる若者でしたンですよ。ところが、あの十二年前の侵攻で、竜騎士めらがやってきましてね、私も彼らと戦ったンです。私も、四地方を治めるものとして、それなりの勉強をしてきたンですがね、その戦略が一切役に立ちませンで。いや、と、いうよりも、この戦法はこういった戦局で使えばいい、とか頭では分かっているンですが、いざ、戦争になりますと、これがまったく出来ませン。机上の空論、とはこの事か、と思ったンですよ」

「それで、お諦めに、なった、と」

「……諦めた、というよりも、ですね。悟ったンですよ。この案件は自分の手に余る、と。私より、優れた者、そして、意欲のある者に任せた方が、遙かに効率的だ、とね。私は何もせず、ただただ、流されるように、強い者に付く、それだけの事しか出来ない人間ですから。それで、諫言してきたジェルドに任せたンですよ。そこまで、私を諫める器量があるなら、彼に政治を任せた方がいいと、ね」

 ……効率的。言われたその言葉に、ほんのり、と若者の口が歪む。

「ならば、何故退位されないのです? 貴方の土地や財産を狙う者など、ごまんといるでしょうに」

 その含んだ問いに、男はさらに声音に、諦めの色を滲ませる。

「それがね、できないンですよ。私には、ある事情で子供が出来ませンし、それに、私が、とある秘密を握っているばっかりにね。その秘密のために、私はこの王都で飼い殺しにされているようなもンですから」

「……飼い殺し?」

「はい。陛下と宰相殿に飼われておるンです。秘密が他の者に、絶対に漏れぬように、と」

 秘密、という甘美な言葉に、またも若者の口の端が歪んだ。そして、不敵な声音で、幕の向こうにいる男に向けて、言い放つ。

「それが、何なのか、僕も知りたいです」

 

 

「……知らぬ方が、よろしい、ですよ」

 しばらくの沈黙の後、幕の向こうから、その返答が返ってきた。

「知ると、私のように、廃人になってしまいます。私のように、器のない者が知るには、大きすぎる秘密です。凡人なら、その恐れ多さにおののいて、こうして芝居という決まりきった美しい世界にしか、生きられなくなる……」

 それは、今までになく、切なげな声音で語られた言葉だった。

 

「それでも、知りたい、と言ったら?」

 沈む幕の向こうの男に構わず、若者は堂々たる声音で、そう言い放っていた。その言葉に、初めて幕の向こうから、明確な、ふ、ふ、という笑いが漏れた。

「いや、流石です。流石、私の城を落としただけのことはあられる。いいでしょう、では、ヒントだけ」

 流れる低音の調べの切れ目を抜けて、魅惑的な言葉が、幕の向こうから届く。

「私の城の、小さな神殿の床。その右端から三つ目のタイルです。……そこに、人間一人では抱えきれない秘密が、眠っています」

 静かに、その秘密の在処を告げると、途切れていた低音の調べが、曲のクライマックスに向けて、大きく響き渡った。その声にかき消されるかのように、ちいさく男は呟く。

「さて、それを貴方が知ったとき、どうなさるか、とても楽しみです。『白の英雄』殿」

 

 冥府の神の、低音が、ぴたり、と止んでいた。

 この第二幕で、先のアリアと対を成す名曲――『娘よ、威風堂々として行け』。

 死に行く娘を鼓舞する、その勇ましくも哀しみに満ちた歌が、この壮麗な国立劇場に、見事に歌い上げられていた。

 

 次の場面へ向けて、一旦、幕が下げられる。役者と観客に与えられた、短い休憩の時間だ。少ないながらもいる観客が、慌ててその時間に、用を足しにと、劇場を抜けていく。だが、この貴賓席の二人は、一向に動かない。

 そのしばらくの沈黙を破って、先に語り出したのは、『白の英雄』と呼ばれる男の方だった。

 

「素敵な情報をありがとう。でも、僕が、その秘密を手に入れるには、少々足りないものがあるのです」

 その含むような言葉に、幕の向こうの男は、彼が何を言わんとしているかを、一瞬で悟る。

「……私を、動かそうというンですか」

 

「動かぬ岩なら、砕くまで」

 

 ――く、く、く、くくく。

 

 耐えきれぬように、初めて幕の向こうの男は、高らかに笑った。そして、観念したように、はあ、と一つ大きく息をついて、言い放つ。

「いや、素晴らしい。素晴らしい方だ。ええ、よろしいでしょう。でも、一つ条件が」

「条件?」

「はい。貴方に、一つ私の願いを叶えてほしいンです」

「……分かりました。叶えましょう」

 その条件を明確に提示される前に、英雄は了承の言葉を吐いて見せた。この思い切りのいい返事に、尚も幕の向こうの男はその機嫌を良くして言い放つ。

 

「このままではなンですから、もう少し近くで話しませンか」

 その言葉と共に、幕の向こうから、カタン、という物音と、衣擦れの音が聞こえた。

「いや、初めてです。私が、こうして幕で隔離された貴賓席から、人前に出たいと思うのは」

 ばさり、という音を響かせて、男二人の間に張られていた重々しい幕が上がる。

 

 そこに現われたのは、先に舞台で見た冥府の神を思わせる、暗い、暗い雰囲気の男だった。歳の頃は三十代前半、といったところだろうか、痩せた体躯に、病み付かれたような青白い肌。元々は端正な顔立ちをしているだろうに、痩せこけた頬と落ち窪んだ眼窩が、彼の印象を酷く悪いものにしている。……一言で言うなら、病人、だ。

 そして、それは彼の背にある翼も例外ではない。ランドルフと同じ黒なのだが、そこには彼が持つ濡れた様な艶はない。その瞳と同じ、光のない、濁った黒――。

 そのべっとりと暗い瞳が、英雄と呼ばれる男の姿を認めるなり、激しく揺らぐ。そして、その口角の下がりきった口元から、溜め息とともに、感嘆の声が漏れた。

「ああ……。これは予想以上だ。これは、何と美しい白羽の君……」

 

 その前には、暗い男とは対照的に、背に光り輝く白羽、そして軽やかになびく金の髪の若者。その煌めく前髪の間からは、彼の意志の強さを体現するかの様に、鋭く光るエメラルドの瞳が覗いている。

 椅子に未だゆったり腰掛けたままの、その圧倒的な美しさを持つ男の前に、暗い男が恭しくその膝を折る。

「お初にお目にかかります、英雄殿。南部大公、トリスタン・リューデュシエンと申します。お見知り置きを」

 その膝を折るという礼に、礼を受けた英雄が、一瞬、戸惑いの色を見せた。

「これは、大公殿下。四大大公であらせられる殿下が、この様な若輩者に、そのような事……。どうぞ、お顔を上げて下さい」

「何を仰る。貴方の美しさの前に、どうしてひれ伏さずにいられましょうか。貴方は屈伏するに、相応しい方だ」

 そこまで言って、ようやく南部大公トリスタンはその顔を上げた。そして、英雄の碧の瞳を見つめるなり、またも、ほう、と、深い、深いため息をつく。

「いや、お話ぶりを聞くだけでも素晴らしい方だと思っていましたが、よもや、こうまでお美しいとは」

 その称賛の言葉に、英雄はその眉根を寄せて、少々不機嫌な様子で反論した。

「そういうのは、僕にはよくわかりません。顔の美醜など、些末なことだと思いませんか? 僕にとっては、生まれた時からずっとここに乗っておる顔ですから」

 この余人が聞けば、嫉妬しそうな台詞に、さらに、暗い男がいつになく、くくく、と愉快げな笑い声を漏らす。

「いえいえ、そうではないンですよ。ええ、貴方の言う通り、ただ見目が良いものならいくらでもおるンです。私が美しいと言っておるンはですね、貴方のその全身から滲み出ているオーラ、とでも申しましょうかね。とにかく、その佇まいが素晴らしいンです。溢れる気高さと寛大さ、そして、それに相対するような凶暴さと残酷さ。貴方の中でそれが矛盾する事無く同居している。そう、あたかも神話の中の神々の様に」

「……そういうのも、よくわかりません」

「わからぬ方がよろしいンですよ。作為はあくまで作為でしかない。作られた美など、愛でる事はあっても、ひれ伏す事などないンです」

 病みつかれたような頬を、いつになく上気させて、南部大公トリスタンはようやく、その腰を英雄の隣の席へと下ろした。と、同時に、貴賓席の出入り口の方から、何やら声がかけられる。

 

「大公殿下。パーシバルです。お邪魔しても?」

 

 若い男の声だ。涼やかで、よく通る、少々芝居がかった声である。

「殿下、今日の僕の出来はいかがでしたか?」

 大公から入室の許可の声を聞く前に、その声の主が入ってきた。案の定、まだ若い、そして、かなり、見目のよい美青年だ。

 彼のその不躾な入室ぶりに、英雄の隣にいた大公が、まるで死に神でも取り憑いたかのような、不機嫌で陰湿な顔を浮かべた。一方で、美青年の方は、いつもはこの大公しかいないはずの貴賓席にいる、金髪の男の存在に、酷く動揺をしている。

「いつから、そんな不作法になったンだい? パーシバル」

「す、すみません、殿下。ま、まさか、殿下以外に、誰かいらっしゃるとは思わなくて……」

 美青年は口を尖らせた拗ねた様子で、そう答えると、その視線を大公の横にいる金髪の男へ向けた。そして、何か、言いたげな目線で、じろり、と彼を睨み付けてくる。その美青年の視線に気づいたのか、大公がその腰を上げて、金髪の男の前に立ちふさがると、美青年に向けて、冷たく言い放った。

「言い訳はいいンだよ。下がりたまえ。見て、わからンのか?」

 本当に、今にも目線だけで殺されそうな勢いの暗さである。その視線に、酷く怯えるようにして、美青年はそそくさと出ていこうとする。だが、一つ何かを言い忘れたかの様に、ちらと、甘えた目線で大公を見遣った。

「分かっているよ。きちんと払うとも」

 美青年の視線に答えて、大公はさらに暗い、暗い、眼窩が落ち窪んだ骸骨のような顔で、そう吐き捨てた。これには、堪らない、と美青年は、その身をぞくり、と竦ませて、貴賓席から退散していく。その後ろ姿に、金髪の男が不審げに問い掛けた。

「誰です、今の?」

「ああ、お気になさらないで下さい。彼はここの役者ですよ。一幕で風の神を演じていたンです。この幕の内に、私の御機嫌伺いに来たンでしょう。まったく、貴方がいらっしゃる前で、不躾で恥ずかしい」

「……御機嫌伺い?」

「ええ。私、パトロンなンです」

 その言葉に、ようやく英雄と呼ばれる男は理解をする。

 ……道理で、こんな赤字覚悟の演目が出来るはずだ。すべては、この男の為に用意された芝居、ということか。

 

「それで、さっきの目付きは一体なんだったんでしょうか。少々睨まれたような気がしますが」

 その英雄の問い掛けに、大公は先の骸骨のような顔に、ほんのりと生気を蘇らせて微笑んだ。

「嫉妬、しておるンでしょう」

「嫉妬?」

 英雄にはその意味がわからない。自分もこの大公と同じ、観客だというのに、何故嫉妬などされなければならないのか。

 その内心を悟ったかのように、大公は言う。

「彼もね、貴方同様、私を動かす為に、私の願いを聞いておるンですよ」

 それが、何故自分に対する嫉妬に繋がるのか、英雄には益々分からない。

「それで――……一体何なんですか。貴方の、叶えてほしい望みとは。僕で、叶えられる願いでしょうか」

 問われたその言葉に、大公は更に、その青白い顔を上気させて、満足げに笑った。

 

「はい。貴方でなければ、駄目なンです」

 

 言うと、大公はその痩せた足で、コツコツと床を鳴らして、未だ椅子にもたれたままの英雄の元に戻った。そして、何やら含んだ目線で英雄の瞳を見やると、静かに言う。

「先程、申し上げたでしょう? 私には、ある事情で子供が出来ない、と」

 英雄と呼ばれる、煌めく金の髪を持つ男の横に、冥府の神に似た暗い黒の男が着席する。

 それと同時に、舞台の幕が再び上がった。まばらな観客の拍手を受けて、再び恋に身をやつす火の女神と、それに相対する嫉妬の女神が現れる。そして、その二人の女神が歌う、激しい恋心――『恋の炎は、我が心に燃え』。

 

 そのソプラノとアルトが競い合う様なハーモニーの中で、静かに、南部大公、トリスタンが、白の英雄、リュートに語りかける。



「私、――男色家なンです」


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