第三十九話:銀狐
「まああ、本当に、この首飾り、私にくださるの? エイブリー様」
きらり、と光るエメラルドのネックレスが、貴婦人の眼前に揺れた。その深い碧の輝きを、美しい濡れた瞳に映すや否や、貴婦人の白磁の肌が、うっすらと桃色に上気する。
――この顔が、堪らないんだよな。
うっとりと、その宝石に心奪われた、貴婦人の瞳を見るにつけ、北の大公の第一子、エイブリー・ガーデリシュエンの心は、その思いに占められる。
何故ならば、この宝石に向けられる陶酔の眼差しは、即ち、この宝石を贈ってやったこの自分への眼差しでもあるからだ。若い娘に、この様な眼差しで見つめられて、悪い気がする男が、どこにいるだろうか。
女からの称賛の眼差しは男に自信を与え、征服欲を満たす極上の酒だ。ましてや、それが、今、宮廷でもっとも、ときめいていると言われる歌姫、ベッティーナ・マルセロから向けられるものであるなら、尚更だ。
この、宮廷中の貴公子が、憧れて止まぬ女をうっとりと、酔わせられる。それはつまり、他のどのような貴公子よりも、自分が優れていることを、明確に誇示している、ということなのだ。
……堪らない。
女たちからの羨望の眼差し。そして、男たちからの、歯噛みするような嫉妬の念。
すべて、すべて、この自分の自尊心を満たすためだけにあるものだ。そう、この、北の次期大公エイブリーのためだけに。
「でも、よろしいの? 先日もルビーの指輪、頂いたばかりですわ」
「いいんだよ。宝石は美しい方を彩るためにあるんだ。君はそれをつけて、ただ僕のそばで輝いていてくれればいいんだよ」
キザな貴公子の物言いで、エイブリーは、歌姫を諭す。
だが、その姫に向けた言葉も、結局は自分のためにしかすぎないのだ。……即ち、連れている女の価値こそが、この自分の価値であるのだから。
女が宝石で身を飾り立てるように、男は女で飾り立てる。女とは自分にとって、生きた宝石にすぎない。
それが、優雅かつ、陰湿な宮廷で、地位を確立してきたガーデリシュエン家の嫡男としての、揺るぎない男女観だった。
「ああ、そうだ、ベッティーナ。王妃陛下もいらっしゃっているこの素晴らしい宴に、今日は素敵なゲストをお迎えするつもりなのですよ。どうやら、まだお見えではないようですが」
張りついたような微笑みで、歌姫にそう告げると、そのゲストの姿を探すかのように、一重の瞳が、麗しき宴の会場を見渡す。
王都中心にある北の大公、ガーデリシュエン家の館の大広間。
そこには、すでに着飾った数多の中央貴族諸氏、華やかなる音楽を奏でる楽士達、そして、それを見下ろす事のできる上座には、この国の貴婦人中の貴婦人である王妃の姿。その顔には、数々の貴族たちに傅かれながらも、いつもと変わらぬ少女の微笑みが浮かんでいる。
ただ、一つ違うのは、その傍らに、いつも嫌々ながらにも出席している王子の姿がないことだ。
その事実に気付くなり、『銀狐』と揶揄される男の口が、醜く歪む。
……お勉強がある、だって、あの馬鹿王子。何を今更言っているのやら。あの馬鹿な叔母上同様、お人形さんをやっておけばいいものを。国王陛下は、あの田舎者が王子を変えたなどと言っていたけれど、それが事実なら、まったく余計な真似をしてくれたものだ。
――身の程知らずの田舎者には、少々、痛い目見てもらおうか。
そう内心で、にやり、と嗤うと、エイブリーはまたも目の前の歌姫に、話しかける。
「ベッティーナ。今日のゲストと言うのはね、貴女も噂くらい聞いているでしょう。『白の英雄』と呼ばれる、彼ですよ」
「ええ、聞いておりますわ。何でも、あのルークリヴィル城を落とされた英雄だとか。でも、そんな方、私、不安ですわ。軍人さんって、粗野で、私、苦手ですの」
「何を言いますか。相手は選定候ですよ? そんな、ダンスも踊れないような粗野者であるはずがありません。きっと、今日も素敵な装いで来て下さると思いますよ」
歌姫に、貴公子然とした微笑みを、尚も、見せながら、再び、エイブリーは内心で嫌らしく嗤った。
……聞けば、あの田舎者、返還された宝石類、殆ど売り払ってしまっているそうじゃないか。そんな、お金に困っている様な選定候殿が、一体どんな格好で来てくれることやら。鎧や、野良着でないと、いいけどね。
「ああ、そうだ。ベッティーナ。彼がいらしたら、貴女、是非、彼と踊って貰いなさいな」
内心で、くっく、という嫌な嘲笑を浮かべながら、エイブリーは歌姫に、そう提案する。だが、当の歌姫は、その頬をまた桃色に染めて、不服そうにぷうっ、と膨らませて見せた。
「酷いですわ、エイブリー様。私、歌は得意ですけれど、踊りはとんと駄目だということ、知っていらっしゃるくせに。ええ、いつも貴方のエスコートなしには、踊れませんもの」
「いやいや、ベッティーナ。相手は選定候殿です。きっと僕より素敵なエスコートをして下さるでしょうよ」
言いながら、エイブリーの脳裏には、この踊りがへたくそな歌姫が何度も、あの田舎者の足を踏みつけるという無様な様子が、ありありと浮かんでいる。
……きっと、それで恥をかかされたベッティーナは、泣きながら、僕の胸に飛び込んで来るに違いない。そうしたら、僕が今度は、彼女と颯爽と踊って見せて、この歌姫の心と観衆の目をがっちり掴むのさ。……ああ、何て楽しみなんだろう!!
そう、銀狐、と呼ばれる男が、内心で一人ごちた、その時。
「東大公夫人、並びにその御子息様、シュトレーゼンヴォルフ候様、ご到着にございます」
召使いの声が、会場に響いた。その声に、場内の貴族達の目が、一斉に、入り口へと注がれる。
――ふん、来たか、田舎者め。そうら、早速、この雅やかな中央貴族の皆様方から、嘲笑の声を浴びせられるがいい。
そう、ほくそ笑む銀狐の内心とは裏腹に、聞こえてきたのは、ただ、感嘆の溜息のみ、だった。
そこにいたのは、品の良い黒のドレスを纏った貴婦人を、優雅にエスコートする極上の貴公子だった。
その艶やかな金の髪を、より映えさせるような純白の長衣に、小ぶりながら、精巧な作りの宝石類。そして、その背には、絹で出来た衣装すら凌駕する艶を持つ、純白の羽。それは、どんな宝石や織物ですら敵わない、天然の装飾だった。
そして、その傍らには、この白羽と対を成すような、濡れた艶を持つ、黒羽の貴公子。その切れ長の目に輝く黒は、黒曜石の輝きを思わせるほどに、品があり、深いしっとりとした趣を持っていた。
その貴公子二人に囲まれて、登場する黒羽の貴婦人に、そっと、白羽の男、リュートが耳打ちする。
「すみません、マダム。このように、僕の衣装まで、全て揃えて頂いて」
「いいえ、構わないのよ。どこかの真っ黒々の息子と違って、貴方は飾りがいがありますもの。こうして、東部の威光を知らしめることもできますし、何より、見なさいな。会場の貴婦人達の目。皆、貴方に釘付けですよ。ああ、気持ちがいいっ!!」
そう言って、ロクールシエン夫人は羽扇に隠された口で、ほーっほっほ、と高笑いをしてみせる。これに、呆れたように、その息子、黒羽のランドルフが呟いた。
「悪かったですね。真っ黒なのは、貴女に似たんですよ、母上。ええ、ええ、どうせ私は飾りがいがありませんとも」
「何を言っているの、ランディ。黒はきちんと着こなしたら、派手な色なのですよ。それよりもね、今日こそ、ここでいい姫を見つけてもらいますからね」
「また、その話ですか……」
――何だ、あれは……!!
会場のあまりの賞賛ぶりに、王妃に挨拶に向かう三人を睨み付けながら、ぎりぎりと、エイブリーはその唇を噛みしめる。
……東部の次期大公まで引き連れて、この僕より目だつなんて、許せない。絶対、恥かかせてやるからな。
そうエイブリーが、改めてその内心で対抗心を燃やしていると、王妃と三人がいる上座に、自分の父である北の大公、オリヴィエ・ガーデリシュエンが近づいて行くのが見えた。
「これは、これは、ロクールシエン大公家の奥方様に、おぼっちゃま。それに白の英雄殿まで、我が館へようこそ」
そう恭しく挨拶をする、銀髪の壮年の男、北の大公に、英雄であるリュートが、その膝を折って、さらに頭を垂れて見せる。
「この様な宴に招待して下さって、光栄に存じます、伯父上。この麗しき館や、貴家の御血筋に、気後れ致しまして、今までこちらに顔も見せられず、大変ご無礼を致しました。どうぞ、ひらにご容赦を」
その礼節に則った挨拶に気を良くしたのか、その息子同様『銀狐』と揶揄される男は、そのつん、とした鼻先をもたげ、後ろの王妃に視線を遣りながら、微笑んだ。
「いや、いや。我ら兄妹、甥である貴方がいらっしゃるのを楽しみにしておったのですよ。ねえ、エミリア王妃」
これに対し、先にリュートらが挨拶を済ませていた王妃が、またも少女のようにあどけなく微笑んで言う。
「ええ、そうね。お兄様。リュートさん、ゆっくり楽しんでいらしてね」
「そのお言葉、嬉しく存じます、叔母上。それはそうと、今日は王子はいらっしゃっていないのですか?」
「ええ、お勉強したいのですって。いつも私の実家の持ち物であるこの館への、お宿下がりには付いてくるのにねぇ。まあ、こちらには頻繁に宿下がりさせて頂いているから、どうせ飽きたのでしょうけれど」
「お勉強ですか。……それは大変よろしいことです」
王妃の言葉に、リュートは先日の王子の確固たる台詞を思い出して、その口の端を嬉しそうに緩める。
――『今日、ここに連れてきてくれて、ありがとう!!』
……あの台詞、偽りで、なかったのですね、王子。
そう満足げに、一人頷きながら、リュートは何か思い出した様に、目の前の伯父に話しかける。
「それは、そうと、伯父上。素晴らしい宴ですね。この会場の意匠も豪華な上、振る舞われる食事に楽士達。そうそう、聞けば、伯父上。何でも闘技場では、市民達にも無料でパンを配布しておられるとか。いや、その御権勢ぶり、是非とも見習いたいものです」
リュートのその賞賛に、北大公は、分からぬ程度に、にや、とその口を歪めた。そして、その貫禄たっぷりの腕で、諭すように、ぽんぽん、とその甥の肩を叩いてみせる。
「いやいや、まだお若い君には、そういった事に興味を持つのは早いのではないかね。特に、地方を治めるという重職にある者の気苦労というものは、なかなか余人には分からぬものですよ。ねえ、ロクールシエンの若君」
そう言って、銀狐は同意を求めるように、リュートの横にいたランドルフへと目を滑らせた。
「……そうですね、北の大公殿下。同じ四地方を治める者として、殿下の経営手腕には脱帽致します。出来れば、そのご威光に肖りたいものですな」
「またまたご謙遜を、若君。貴殿の父御とて、なかなかの御仁であられますぞ。こちらとしても……、気が抜けぬ程のね」
二人の男は、そうお互いに笑いあいながらも、その瞳に、決して親愛の情など浮かべることはない。どこまで行っても、相手の腹を伺うような、含んだ眼差しがあるのみである。
その様子を見かねて、王妃が、またあどけなく、彼らに向けて声をかけた。
「もう、皆様、そんな怖い顔なさらないで。そうだ、楽士達に頼んで、楽しい舞踏曲を演奏させましょう。さあ、若君も、リュート様も、どうぞ、姫君方と踊っていらっしゃいな」
王妃のその命によって、場の音楽が一気に変わる。自然、踊りたくなるような、楽しげな三拍子のリズムだ。
その音楽が奏でられる会場に向けて、上座から降り立っていくリュート達の目の前には、以前見知った銀髪の若い男が現れていた。その姿を認めるなり、リュートの顔に張り付いたような笑顔が浮かぶ。
「これは、これは。わが、従兄弟、エイブリー殿。今宵はご招待していただいて、本当にありがとうございます」
「いやいや、来て下さって、嬉しいですよ。リュート殿。早速ですが、貴方に紹介したい姫がおりましてね」
そう言うと、銀髪の後ろから、濃緑の髪を持った若い貴婦人が現れる。おそらく、この娘を見て、十人中十人が、美しいというであろうような、華のある娘だった。その白磁の肌には、さっきエイブリーが贈ったエメラルドが、まるでこの女が、贈り主の所有物である証のように光り輝いている。
「彼女は、今、宮廷で歌姫として名高い、ベッティーナ・マルセロ嬢です。農作物の物流管理職にある、宮中伯マルセロ殿の娘さんですよ。ええ、是非とも彼女、貴方と踊ってみたいと言うものですから」
「ええ? エイブリー様、私、そんな……」
「そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃないか、ベッティーナ。ほら、踊って貰いなさい。ね? いいでしょう、英雄殿」
恥じらう貴婦人を前に、エイブリーはその腹に一物も二物も隠したまま、そう言って微笑んだ。これに対して、申し出をされた白羽の男が、彼に増した微笑みで、快諾をする。
「ええ、――喜んで」
それは、まさしく、絵になる、と言ってふさわしい光景だった。
今をときめく歌姫と、選定候に復帰した、英雄と謳われる貴公子が、手をとって、豪華な会場の真ん中に現れる。それに、周りの観衆の目が向かぬはずはない。
「は、恥ずかしいですわ。こんなに、皆に見つめられて……。あ、あの私、実は、あんまり踊りの方は……」
その白い肌に恥じらいの色を滲ませながら、そうおずおずと言いつのるベッティーナの瞳に、自分の胸の首飾りものでない、エメラルドの輝きが飛び込んできた。
「大丈夫。すべて、僕に任せて下さい、お嬢さん」
それは、目の前の男の持つ、瞳の輝きに他ならなかった。そのエメラルドより深い輝きに、一瞬でベッティーナの目が、釘付けになる。それと同時に、胸の奥がじん、と熱くなり、頭の芯がぼうっと、霞んでゆく心地を覚えた。
そう、まるで、夢のようにふわふわとして、空を飛んでいるような感覚。そして、それは心だけではない。音楽が再び始まるとともに、リズムに乗り切れていなかった彼女の体が空を翔るが如く、軽やかに舞いはじめたのだ。
……こんな感覚、初めて。
数々の貴公子に傅かれてきた歌姫をして、そう思わせる程の、圧倒的なリード。けして自分を押しつけるようなものではなく、ただただ、彼女の可能性をどこまでも引き出し、軽やかに舞わせてくれる。
しかし、哀しい哉、ベッティーナには、絶望的に運動能力がない。この完璧なリードを持ってしても、遂にその足がふらついてしまう。
「あっ……!」
小さな叫びとともに、かくり、と彼女の体がよろめいた。
……ああ、駄目! 不様に転んでしまう!!
そうベッティーナが、内心で周りからの嘲笑を覚悟した、その時。
「大丈夫。このままで」
ぐい、と彼女の細腰が、強く抱き締められていた。
そして、抱き締められた事により、二人といない美麗な顔が、彼女の眼前に迫る。こうなれば、もはや、彼女に逃れる術はない。ただ、エメラルドを凌駕する瞳の輝きに、すべてを委ねるのみだ。
「ねえ、お嬢さん。ベッティと呼ばせて貰っていいかな。素敵な首飾りをしているね。とてもよく似合っている」
再び、軽やかに踊りを始めながら、男が妖艶にそう語り掛けてくる。
「え、ええ。エイブリー様が下さったの。私の幸運色を、後宮で王妃様の占い師に占ってもらったら、この色だと言われて、それで……」
「へえ、わざわざ後宮まで行ったのかい?」
「ええ。占い師様は後宮からお出にならないらしいの。でも、本当によく当たる占い師だと思いますわ」
言いながら、ベッティーナは目の前の瞳を改めて見つめなおす。
……ああ、あの占い、本当によく当たっているわ。だって、この瞳こそが幸運色だもの。私に間違いなく、幸運をもたらす、深い深い碧色……。
「それで、あとは何を言われたんだい? ベッティ」
耳元で問われる声に、頭の芯が痺れる。自分が今、何を話していいかも分からない状態だ。ただ、問われた事だけ、答えるしか、できない。
「あ、あとは、そうですね、私の家族、父や、母の事をお話しましたわ。いついつどこへ行ったとか、どんなドレスを新調したとか、そんなたわいもないことですけれど。そうしたら、その事について、次はどこへ行って仕事をすると良い、とか、何色のドレスを新調すると健康でいられるとか、そんな事を言われましたわ」
「へえ、そんな事まで教えてくれるんだ。僕も占ってもらいたいなぁ」
本当に、たわいもない会話である。だが、ベッティーナにとっては、どんな上質の音楽よりも、心地よく自分を酔わせてくれる極上の調べだった。
「……それでは、ベッティ。素敵な時間をありがとう。良ければ、貴女の歌声を、今度、お聞かせ下さいな」
曲の終わりと共に、ベッティーナの手に甘い甘い、キスが落とされた。その匂い立つような唇に触れた瞬間、ベッティーナの下腹が、きゅうん、と音を立てて疼いた。そして、その内心で、痺れるように呟く。
……ああ、とろけてしまいそう。
――あの女!!誰が、その宝石をやったと思っているんだ、この尻軽の売女め!!
気品ある貴公子のダンスと振る舞いに、完全に魅了された様子の歌姫に、エイブリーは、そのはらわたが煮えくりかえらんばかりに、激高した。だが、この宴の席である。そのぐらぐらと沸騰するような内心を押さえ込んで、貴族達に愛想笑いを振りまくより、仕方ない。
「いやあ、流石は、選定候殿。素敵な、ダンスでしたねえ、皆さん。いやいや、私も従兄弟として鼻が高いですよ」
「まあまあ。エイブリー様の御血筋なら、あの軽やかなダンスも頷けるというものですわね」
「そうでしょう、そうでしょう。はっはっは」
そう余裕の笑みで笑いながらも、エイブリーはその心に一つ、きつく決心をする。
……あの田舎者、いつか覚えていろよ!!
「大した貴公子ぶりだったな」
その一連の出来事を、広間の隅で見守っていたランドルフが、踊りの輪から帰ってきたリュートに、そう声をかける。
「だが、あのダンスどうしたんだ? 私はお前にそんなこと教えていなかったはずだが?」
「あんたの弟に教えて貰ったのさ。何てったって、彼も大公家のお坊ちゃんだからね」
言われたその事実に、ランドルフはその瞳に、驚きと少々の嬉しさを滲ませて、問いかける。
「クルシェが? ……あの、クルシェがか?」
「そうだよ。彼の踊り方は地味だけど、基本が本当にしっかりしていて、わかりやすかったよ。どこぞのお兄ちゃんよりもずっと役に立つんじゃないの」
相も変わらぬ金髪の男の嫌味に、ランドルフは苦笑しながらも、その懐から、ちら、と紙を覗かせて、男に反撃した。
「いいのか? 私にそんな口利いて。レギアスからの報告書。いらんのか?」
「……もう、意地悪だなあ。そんなの隠しておくなんて。わかったよ、もう言わないから、教えて」
そう言うなり、二人の男は人目を憚るように、宴の席から抜けて、誰もいないバルコニーへと移動する。
まだ、冬本番の夜である。かろうじて雪は降っていないが、刺すような寒さが身に染みた。だが、これから魅惑的な密談をする男達にとっては、これくらいの逆境こそが望ましいとすら思える。
「報告、其の一。お前の読み通りだ。確かにあの女だ。あの日、あの女が、確かに担当していた。記録にも残っているそうだ」
ふう、と白い息を吐きながら、ランドルフが勤務帳の写しらしきもの、リュートに手渡した。
「その後、他の仕事で王宮に行っている。どうしてわかったのか知らないが、お前が言った通りだったな、リュート」
その言葉と、手渡された書類に、満足げにリュートの口元だけが無言で緩む。その様子から、どうも、今ここで、何故彼がその事を読むことが出来たのかを語るつもりはないらしい、と判断したランドルフは、さらに続けて次の言葉を紡いだ。
「報告、其の二。これはお前に頼まれた件ではないのだが――、あの糞親父、ずっとここのところ侍女らを遠ざけて、いつもレギアスやオルフェの父親達と書斎に籠もりきりらしい。親父の身の回りの世話さえ、その二人がやっているそうだ。侍女は、私たちが信用されていないのかしら、と嘆いておるそうだが」
「……ふうん」
その事実を聞かされるなり、リュートはその手を顎に当てて、何やら考え込む。そして、しばらく逡巡の後、訳の分からぬ言葉を一人ごちた。
「なるほど、なるほど。来るべき王手の時に向けて、詰めの調整、といった所かな」
「……王手?」
ランドルフのその問いに、リュートは答えない。ただ、意味ありげな、にや、という笑みを浮かべているのみである。
「報告、ありがと。レギアスにも礼を言っておいて。あとは、オルフェだね。彼はまだ帰ってきていないかい?」
「お前、ここからレンダマルまで、どれくらいかかると思っているんだ。片道四、五日はかかるし、向こうで調べる時間もいるだろう。待ってやれよ」
「それが、そうも悠長にしていられないんだよねぇ」
ふう、とリュートのついた溜息が、冬の夜空にじわり、と溶けた。その様子を、碧の瞳でうっすらと眺めながら、断固とした声音で彼は言う。
「決戦までには、手を打たなければ」
「……決戦、だと?」
尚も問うランドルフの目の前で、真剣な眼差しのリュートが振り返る。それは、ランドルフがあの半島で目にしていた、凛とした、戦士の顔だった。
「そう、決戦。王都での毒蛇との決戦だ。……おそらく、仕掛けてくるのは、春だ。春の……御前会議」
……春。
その単語に、ランドルフは嫌な事実をその脳裏に思い出す。
――将軍が、動く。
雪が溶けて、春になれば、エルダーに駐留したままの竜騎士達が、動く。そう、あの、鉄人が、だ。そして、その事実は、おそらく、この白羽の男が一番分かっているだろう。
……リュート、お前、一体どうするつもりで……。
「楽しみだね」
ランドルフの内心の心配をあざ笑うかのような、明朗な声が、冬の夜空に響いた。
「だって、そうだろ? 毒蛇共がこつこつと築いてきたチェスの布陣を、その駒である僕がめちゃくちゃにしてやろうってんだからさ。そのただの駒に、盤上を踏みにじられた時の、打ち手達の顔が、どんなものか。今から楽しみだよ」
そう堂々と言い放った顔は、ランドルフが常々その胃を痛めている、あの凶悪な微笑みだった。
「まったく、お前という奴は……」
あきれ果てるように、またいつもの溜息を吐きながらも、ランドルフはその内心で思う。
……結局、私はこの男から、目が離せないのだ。私が、これの主君であろうが、なかろうが。……そして、私がこれの父親の死に、関与してしようが、いまいが、だ。
本当に、この男は……。
その黒曜石の瞳に、諦めと、それにも増した情の色を滲ませながら、再びランドルフは、豪奢に金の髪を輝かせる男に問う。
「お前、手を打つ、と言うが、一体どうする気だ」
「……どうって。同じさ。半島でやった戦も、この王都での権力闘争も、その本質は同じ。いかに相手の状況を把握し、その一手、二手を先読みし、それを打たせないように、先に布石を打っておく。それは、相手が予想だにしないほど、突飛であると、なお効果的だ。要するに、はったりをかませる、と言うこと。あとは、怯んだところを、チェックメイト、さ」
しれっと、その恐ろしい台詞を、優雅かつ端麗な貴公子が言い放つ。それは、まさに、英雄と謳われる男にふさわしい、大胆不敵な台詞だった。
「ところでさ、ランディ。その決戦までに、会っておきたい男がいるんだ」
その大胆な台詞を解き放ったその口で、リュートは、今度は、神妙な色を滲ませて、その言葉を口にした。
「男? 誰だ?」
「彼だよ。ここに、この王都にいるんだろう? 僕らが落とした城の主、……リューデュシエン南大公は」
語られた言葉に、一瞬ランドルフの目が揺るぐ。
何故なら、彼の脳裏には、あの裏切り者の、狂人、エルメの顔が浮かんでいたからだ。そう、あの、こいつの兄を死に至らしめた、裏切り行為の張本人。そして、その狂気の元になった、『日和見大公』と揶揄される彼の主、リューデュシエン南大公。
祝勝会にも、この貴族が集まる宴にも、一切顔を出さぬ、謎の男だ。
「ランディ。あんた知ってるんだろ? その男の事」
「知っている、というか、顔を見たことがあるだけだ。親父曰く、どんな事でも動かない、変人、らしいが」
「……変人、ね」
言われたその単語を、噛みしめるように、リュートは反芻した。そして、次に、断固たる声音で、その決意を表明する。
「変人だろうが、何だろうが、関係ない。僕は何としてでも、その男に会って、彼を動かして見せる。どんな手を使っても、だ」
……どんな手を、使っても。
強調して言われたその言葉に、ランドルフはいつもの嫌な予感を覚える。
「お前、ほどほどにしておけよ。そうでないと、私の胃に、穴が空く」
「ふふ、今度胃薬買ってあげるからさ。とりあえず、彼が居そうな場所、教えてよ」
「居そうな、場所、なあ……」
ランドルフの脳裏に、祝勝会での父親の言葉が浮かぶ。……そういえば、お気に入りの役者がどうの、こうの、と……。
「多分、――劇場だ」