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第三十七話:賭場

 ――『お友達を紹介してあげるよ、クルシェ』

 

 今朝、自分が世話になっている家の主人から、その言葉を聞かされた時、クルシェの胸には、ほんのりとした淡い期待が宿っていた。

 いやしくも、国の四地方の一つ、東部を治める大公家の次男として生まれたクルシェである。彼は、哀しいかな、その身分と引っ込み思案な性格が災いをして、今まで『友達』、と呼べるような存在には恵まれた事がなかった。それが、昨日、行儀見習いとしてやってきた、シュトレーゼンヴォルフ家で、同年代の少女、――三つ編みのメイド、ガリーナから、初めて、『仲良うしようなぁ』という友愛に満ちた声をかけられたのである。メイドという自分より低い身分とはいえ、屈託のない笑顔でそう言われれば、悪い気がするわけがない。いや、むしろ……。

 

 ――うれしかったなぁ。

 

 昨日の、そばかすだらけの少女の笑顔を思い出すにつれて、クルシェの頬は自然に緩む。

 彼女と、このままお友達になれたら、何て素敵なことだろう。ましてや、今日もまた、この家の主人が、お友達を紹介してくれると言う。自分より一つ年上の十五歳の少年、ということだ。少し緊張はするけれども、正直、楽しみな気持ちの方が大きい。

 ……昨日のガリーナみたいに、お友達に、なれるかなぁ。どんな人だろう。僕はちょっと世間知らずな所があるから、迷惑かけなければいいのだけれど。

 そう、十四の少年は、控えめながらに、その胸を期待に膨らませていた。……のだが。

 

「なあ、なあ、クルシェ。あそこの家、何であんなにパンがいっぱい並んでいるんだ? あんなにあの家にはパンを食べる奴がいるってことか?」

「あ、あの、あそこは、パン屋さんなんですよ。か、看板がほら、出ていますでしょう? 他の家の人たちが、あの家でパンを買って食べるのですよ」

「……買う? 買うってなんだ? パンは司厨長が焼くものじゃないのか?」

「い、いえ、あの、確かにそうなんですけど、ええと、世間にはお金というものがありましてね……」

「お金! 知っているぞ! 宰相がいっつも管理させてるやつだな。国庫とかなんとかいうのだな、確か。ええと、それで、それをパンにどうするんだ?」

 

 ……僕でも、お金がいかなるものかくらい、知っていると言うのに……。

 クルシェはその『お友達』の言動に、絶句して、そう内心で呟くより他にない。いや、正確には、この『お友達』の名前を聞かされた時に、既に言葉を失ってはいたのだけれど。

 

「ヨシュア! あんまり遠くには行かないで下さいね」

 後ろから、クルシェの世話人であるリュートの声がかけられる。その少しも悪びれることのない、朗々たる声音に、クルシェはようやく、兄、ランドルフの言っていた台詞を理解した。

『クルシェ、お前が世話になる家の主という奴は、それは、それはもう一筋縄ではいかん、手におえん『山猫』なんだ。くれぐれも気をつけろ!』

 そう、青筋を立てて、出発するときに囁いてきた兄の、気苦労というのが、如何ばかりだったか。おそらく、それは自分の想像を絶するに違いない。

 クルシェは、そう、多感な十四の心に、しみじみと感じていた。

 

「クルシェ、パン食べたい。どうしたらいいんだ?」

「王子……。すみません、僕、今、持ち合わせがなくて……」

 そう、すまなさそうに深々と頭を垂れる、クルシェの前に、煌めく銀髪の少年が振り向いた。平民の服を着て、変装はしているものの、その全身から滲み出る気品、というものは隠しようがない。

「こら! ここでは王子って呼ぶなって、言っただろ? ヨシュア。ヨシュアだ。呼んでみろ、ヨ・シュ・ア」

「よ、よ、よ、ヨシュア……様」

「様はいらないっっっ!!」

 

 

「ありゃりゃ、王子様は重傷だねえ、お金も知らないってか。過保護が過ぎるんじゃねえのかね。なあ、リュート」

 その少年二人のやりとりを、後ろで微笑ましく見守っていた、長身巻き毛の男、レギアスが、あきれ果ててそう呟く。

「そうだな。ちょっと、これは見逃せないくらいの無知ぶりだね。僕もここまでとは思わなかったけど」

「それにしてもよう、お前、いいのか? 本当に王子様、こんな所に連れ出しちまってよ」

 隣にいる自らの弟子の脇を小突きながら、レギアスは改めて、目の前の風景を眺めてみる。

 

 ――王都ガリレア城下、天空闘技場前の市場。

 

 物売りの声が飛び交い、荷車や、人足が行き交う雑多な庶民の台所。とてもではないが、王族、貴族が足を踏み入れる場ではない。

 そんな場所に、堂々と王子を連れ出した男、リュートはまたも少しも悪びれる様子もなく、しゃあしゃあとレギアスに言い放つ。

「いいんだよ。王子との約束だったし、ちゃんと許可も取ってある。まあ、二、三人、近衛兵はぶっ飛ばしてきたけど」

「……おっそろし。俺は責任とらねえからな。お前に頼まれた王子の警護くらいは、ちゃんとやってやるけどよ」

「ありがと。……それで、前に頼んだ件は、どうなっている?」

「順調、順調。もうあと一押しって所だな」

「流石、僕の剣の師匠は仕事が速いね。期待しているよ。まあ、それはともかく、レギアス。ちょっとおかしいと思わないか? この王都の様子。平日だというのに、市場に妙に人が少ない。それに、朝だというのに閉店したままの店舗も多い。商売もしないで、王都の民衆はどうやって食っていっているのかね?」

「そう言えば、そうだな」

 

 リュートの言葉に、レギアスも同意のため息を漏らす。

 目の前には幕が張られただけの露店、客のいないパン屋、荒れ放題になっている町並み、そして路地には、頭から布をかぶり、前に小さな器を置いて座り込む薄汚い老人と子供達。その体臭の臭さがこちらまで臭ってくるような、みすぼらしい者達だ。

 

「リュート、彼らは一体道に座り込んで、何をやっているんだ? 座っているのが仕事なのか?」

 パンを買う買わないで、クルシェともめていた王子が、道端のその異様な光景に、無邪気な声で質問する。

「あれは、物乞いですよ、ヨシュア。働けず、お金もないので、ああして、通行人の慈悲に縋って生きているのですよ」

「お金? 彼らにお金をあげればいいのか? なあ、僕はお金をどうしたらもらえるんだ? 宰相に頼めばいいのか?」

 王子のそのあまりにも世間ずれした、的外れな質問に、リュートはにっこりと微笑んで、その懐から二枚銅貨を取り出した。

 

「今日は特別に、僕が、お小遣いをあげましょう。ヨシュアとクルシェに一枚づつ」

 そう言って渡された初めて見る銅貨に、王子はその目を子供のようにキラキラと輝かさせる。

「うわあ、ありがとう、リュート。これでパンが買えるか? いや、それともあの物乞いに、あげてこればいいか?」

「ご冗談を。そんな銅貨一枚じゃ、パン一斤買えませんし、物乞いにあげたところで、鼻で笑われるのがオチです。でもね、一ついい方法があるんですよ」

 リュートは未だその顔に、爽やかな微笑みを浮かべながら、市場の通りの先を、すっ、と指し示してみせた。

 

 そこには、この城下より一段高くなった丘の上にそびえ立つ、巨大な、すり鉢状の建造物。楕円形のステージをぐるりと囲んだ観客席、営業中である事を示す色とりどりの旗。そして、この城下町まで響く歓声。

「知っているぞ、コロシアムだろ? 一度、式典で来たことがある!」

「おや、そうなんですか、ヨシュア。でも普段は来たことないでしょう。何せここは……」

 そう言葉を区切り、建物に改めて向き直ったリュートの微笑みが、にや、と歪められ、不適な色を帯びる。

「ここは国立天空闘技場。唯一の国営の賭場ですから」

 

「賭場……」

 その甘美な響きに、王子の青い瞳が、より一層きらきらと輝きを増した。

「よおし、いくぞ、クルシェ! ついてこい!」

「あ、お、おう……いや、ヨシュア! ま、待ってくださいよぅ!」

 

 その闘技場へ向けて、飛び立っていく少年二人の姿を追いながら、レギアスがうろんげな面持ちで、リュートに尋ねる。

「おい、リュート。一体なんで、お前こんなところに連れてきたんだよ。城下を案内するにしても、他にあったろうが」

「そう? 僕としては、ここが一番彼にふさわしいと思って連れてきたんだけど? それに……」

 

「おい」

 

 そう言いながら、闘技場に辿り着いたリュートらの前に、黒い影を先頭にした男達の集団が現れていた。

 全員近衛の隊服を纏っているものの、いずれもとても堅気の者とは思えないような面構えの男達ばかりである。そして、その先頭にいる髪を逆立てた、浅黒い肌の男が、リュートに向かって口を開いた。昨日、リュートが一撃で伸した、『黒犬』と呼ばれていた男である。

「よく逃げずに来たなぁ、兄ちゃん。きのーは、ちょい、油断? しちまったけどさ、きょーは、ぜって、負けねーから。覚悟しとけや」

 語られる、訳の分からぬ言葉に、思わずリュートはめまいを覚える。

「はあ……。服装もそうだけど、言葉遣いまで下品だね、黒いわんちゃんは。そっちこそ、芸の一つでも磨いてきたかい?」

「誰が、『わんちゃん』だ! 『黒犬』! 『闘技場荒らしの黒犬』ってのは、俺様のこと! なあ、トーヤ」

 その腕の入れ墨を見せつけながら、そう粋がる黒犬の呼びかけに答えて、後ろから、小さな男がひょこり、と顔を出した。

「そうだ、そうだ。黒犬はここの常勤剣闘士より強いんだぞ! お前なんかに負けるモンか!」

 昨日、見なかった顔の男である。背の低い、見たところヨシュアやクルシェと同い年くらいに見える少年。小さいながらも隊服を纏っていることから、この男も隊士の一人と思われる。

「ボクは昨日、勤務中で見てなかったケド、どうせまぐれだろ? 黒犬! こんな生意気な隊長なんか、ボクごめんだからね。隊長なんて、ボクらの奴隷にすぎないのにさ。てってーてきにやっちゃってよ!」

 そう言って、べっ、と舌を出す姿もしゃべり方も、本当に幼い。くりくりとした黒目といい、ふわふわとした髪といい、黙っていれば可愛らしい少年に見えるのだが、その言動からは、どうもかなりの腹黒さが伺える。

 

 

「とりあえず、もうエントリーは済ましてきたかんな。あんたと、俺と、それから、昨日会った毛むくじゃらのアーリ、それから俺のダチのニルフってヤローの四人をな。ルールは簡単。まずはあんたとアーリのガチンコ勝負で、勝ったモンが次にニルフと勝負、最後に勝ったモンが俺と勝負。その全部の試合の勝者が誰かを、ここの観客が賭ける。簡単だろ? オッズはもう既に出てるぜ。まあ、えらいことになってっけどよ」

 その黒犬の説明に、リュートはあきれ果てたような溜息をつきながらも、答える。

「なんだ、結局、僕は三連戦ってわけか。黒犬ちゃんは、お友達と僕と戦わせた後じゃないと、僕とは勝負できないってわけだ。まあ、いいけどさ」

「なんだと! てめえみてーな、ぽっと出の兄ちゃんが、おれみてーな年間チャンピオンと、はじめっから戦えるわきゃねーだろーが! いいか! てめーが負けたら俺らの言うこと、なんでも聞いてもらうかんな! どこに売り飛ばされても、文句言うんじゃねーぞ」

「はいはい。じゃあ、そうだな、僕が勝ったら……」

 ちら、とリュートの妖しげな碧の瞳が、後ろの隊士、そして、目の前の黒犬に向く。

 

「お前ら、全員、僕の言うこと聞いてね。それから、黒犬ちゃんの本名でも教えて貰おうかな」

 

 

 

「リュート、お前、あれどうする気」

 何やら、まだリュートを罵倒する言葉を吐きつつ去っていく隊士達の後ろ姿を眺めながら、レギアスがあきれ果てて、リュートにそう尋ねる。その問いに返ってきたのは、案の定、恐ろしいまでの凶悪な微笑みだった。

「ん? 躾だよ、躾。あの犬っころ共に、先ずは主人が誰なのか教えてあげないとね。その為にはあの頭の黒犬ちゃんの鼻っ柱折ってやるのが一番手っ取り早いと思ってさ。あの犬はここのチャンピオンだって鼻にかけている様子だったから、わざわざここを選んだんだよ。ここで恥かかせりゃ、あの犬っころもその尻尾を巻かざるをえないだろ?」

「……おお、怖。お前、その為に、わざわざ仕事もらいに行ったのかよ」

「いや。最初は近衛に入って王宮の情報収集するつもりだったんだけど、あの陰険睫毛にこんな仕事回されちゃってね。でも、いいんだ。情報は彼から聞けばいいんだからさ」

 そう恐ろしく微笑みながら指さした先には、クルシェと何やら楽しそうにお喋りしながら近づいてくる、この国のやんごとなき王子の姿。その息せき切って、入り口から戻ってきた彼の手には、さっきまで握られていなかったものがあった。

 

「リュート! これ、入り口でただで貰ったんだ! パンとワイン! お金、使わずにパン貰えるんだな」

 きらきらと目を輝かせながら、王子はリュート達の分のパンを分けて寄越す。そのただで貰ったというパンに、不審さを感じるリュート達に、クルシェが補足するように説明をした。

「ええと……、北の大公様からの、さ、差し入れらしいです。あ、あの、いつも、こうして、見物客に北大公様がただでパンとワインを配って下さるそうなんです」

 

「……北の大公だって?」

 

 リュートは目の前に差し出されたパンとワインに、即座に嫌な物を感じ取る。

 ……そうか、だから、この平日だというのに、市場やパン屋に人がいなくて、ここに人が集まっていたわけだ。だが、一体、北の大公はどうしてこんな事を……。

 ……パン……、闘技場、……そして、北の大公……。なるほど、なるほど、何かが、繋がるな……。

 

「へえ、市民達へパンの差し入れなんて、北大公は素晴らしい事をしているなぁ」

 

 リュートの思考を遮るかのようにして、のんきな声が響いた。その声の主の言った台詞に、ぴくり、とリュートの眉が即座に反応する。

「ヨシュア、貴方、本当にそう思っておいでですか? この無料の配布が、素晴らしいことだと、本当にそう思うのですか?」

 そのリュートの怒気をはらめた詰問にも、王子はただきょとん、とした表情を浮かべている。何故彼が、そんなに厳しい表情をしているのか、まったく分からない、といった表情だ。その態度に、リュートはあきれ果てたように溜息をついて、一つ内心で呟く。

 ……まったく、これにも少しきつめな躾が必要だな。この、平和惚け王子め。

 

「ヨシュア、クルシェ。さっきあげたお金、全部賭けなさい」

 そう言うと、リュートはその艶めく金の髪を、戦闘用にきつく結い直した。そのさっきまでとうって変わった、リュートの凛とした横顔に、少年達二人の目が、吸い込まれるように釘付けになる。

「……勿論、全て僕に、ですよ」

 

 

 

 

 

「れいでぃーす、ええんど、じぇんとるめえええん!! 今日のメインイベント!! 年間チャンピオン、黒犬の登場だぁあああ!! みんな、さあ、賭けた、賭けたぁあああ!!」

 

 闘技場の中心に、試合を取り仕切る審判の声が、これでもかと響き渡る。

 その声に答えるかのようにして、闘技場の賭け札売り場には、観客達が山、と詰めかけて、押すな押すなの大にぎわいになっていた。与えられたパンとワインを食い散らかして、賭け事に興じる市民達によって、既に、闘技場は狂乱の坩堝と化している。その群衆の中から、何とか銅貨一枚の賭け札を買った少年二人が、ほぼ満員の闘技場の観客席に転がりだしてきた。

「ふうう、平日だってのに、すごい人混みだ。何とか間に合ったけど、リュート、人気ないんだな。みんな、あの黒犬ってのに賭けてたぞ」

 汗を拭き拭き、王子が隣の席に掛けたレギアスに、そう不安を口にする。だが、その隣の伊達男は、眉一つ動かすことはない。余裕綽々、といった笑みで、闘技場の隅で出番を待つ自分の弟子の姿を見つめているのみである。

 

 その自信に満ちあふれた視線を辿るようにして、少年達の目が、闘技場に向く。

 そこには、しなやかに鍛え上げられたすらりとした体躯で、堂々と闘技場に立ち、闘技用に刃を潰した剣の調子を確かめるように振り回す、白羽の男が一人。そして、その目線の先には、対戦相手である三人の男が、白羽を睨み付けるようにして控えている。

 さっき会った黒犬、動物好きの毛むくじゃら、そして、見たことのない、若い男が一人。これがさっき黒犬が言っていたニルフという男だろう。遠目にもわかる印象的な紫の羽と、その精悍な顔に付けられた痛々しい十字傷。いずれも強そうな面構えの男達ばかりである。

 

 その強敵達に、再び恐れを感じた王子が、またも隣の伊達男に尋ねる。

「そう言えば、レギアス。お前、賭け札買ってないな。どうして、買わなかったんだ?」

 王子のその問いに、レギアスはその口元をにや、と歪めて、一言だけ答えた。

 

「俺は、結果の分かってるつまらねえ試合になんかは、賭けない主義なの」

 

 

 

 

 

 

 

 王子は、すぐにその言葉の意味を、まざまざと感じることになる。

 

 目の前には、紙吹雪のように、舞い散る賭け札。その周りには、驚愕のあまり、目を見開いたまま、声も出せない観衆達。そして、その無数の視線の先、即ち闘技場の中心には、三人の男をなぎ倒してその体躯を踏みつける、優雅な金の髪の男の姿。

 

 それはもう、一幅の絵画の如く、華麗で、圧巻な、光景だった。

 

「遅い。遅すぎる。切っ先のスピードも、風の読み方も、何もかも遅すぎる。チャンピオンが聞いて呆れるな、黒犬」

 ぐり、と踏みつける靴の音と共に、いい汗でもかいた、と言わんばかりの爽やかな声が闘技場に吐き出される。

「それから、毛むくじゃらと、見たことのない十字傷の男。お前らはこいつ以下だ。相手にもならん」

 そう言って、その豪奢な金の髪をかき上げる仕草は、この倒された男達が見惚れて止まぬほど、圧倒的で、尚かつ魅惑的だった。

 

 

 ……そりゃあ、そうだよな。

 

 この場で、レギアスただ一人だけが、当たり前の光景を見ていた。そして、ふあああと、あくびをしながら、内心で呟く。

 ……あれに、敵うはずがないんだよ、あれに。あれは、あのルークリヴィル城で、騎士の死体の山を築いた男だぞ。こんな平和惚けした王都の兵士風情、あれにとっちゃ、尻尾にたかる蠅程度だろ。……はああ、つまらん試合だった。

 

 

 

「さて、黒犬ちゃん。約束どおり、本名、教えて貰おうかな」

 相も変わらずその足で、逆立てた黒犬の頭を踏みつけながら、闘技場の中心で、にっこりと、白羽の男が嗤う。もはや、こうなっては、黒犬に抗う術など残されていない。ただ、悔しげにその口から、声を漏らすのみである。

「……ザ」

「聞こえんな。もっと大きな声で。観客の皆さんにも聞こえるような、大きな声で」

 この行為を楽しむかの様にして、ぐり、と再び足が頭に食い込む。これには堪らぬと、観念したように、黒犬は大きくその名を口から吐き出した。

「リザ!! リザだよ!! リザ・クリュグローザ!!」

 語られた名前に、一瞬、碧の瞳がきょとん、と驚きのあまり丸くなる。

「……リザ? お前、リザって言うのか? 何だ、女みたいな名前だな」

 言われた言葉に、リザという名の黒犬は今にも泣きべそをかかんばかりにして、その声を闘技場いっぱいに轟かせる。

「だから言いたくなかったんだよ!! 悪かったな、どうせ似合ってねー名前だよ!! どちくしょーーーーーっっっ!!!」

 

 

 

 

 

 

「すごい!! 銅貨が、銀貨になった!! しかもこんなに沢山だ!!」

 換金所から出てくるなり、王子はその銀貨の入った袋をじゃらじゃらと鳴らした。そして、闘技場から返ってきた金髪の男に、即座に駆け寄って、抱きつく。

「すごい、すごいぞ、リュート!! ええと、僕にはよく見えなかったけど、すごい剣さばきだったな!! あんなにお前が強いなんて、知らなかったぞ!! 『白の英雄』ってのは本当だったんだな!!」

「内緒にしておいてくださいよ。御貴族の皆様方の前では上品でいたいのでね」

 闘技場の脇の人影もまばらな所まで、王子を引っ張っていくと、リュートはこそこそとそう耳打ちした。そして、その手の袋を隠すように指示すると、またもその耳元で囁く。

「あまり、お金は人前で見せびらかすものではありませんよ。……それで、ヨシュア。貴方、どうするつもりですか、このお金」

 問われた言葉に、王子は色々と思い巡らしながらも、なんとか答える。

 

「ええと、パンはさっき、貰ったからいらないし、そうだな。あの物乞いにあげようか」

 その、無邪気に言い放たれた言葉に、目の前の碧の瞳が、突然暗い色を帯びた。そして、氷のような冷たい声音が響く。

 

「では、そうしてみてください。ただし、貴方の身の安全は保証しませんけどね」

 

 言われた意味が、そしてその冷たい視線が、王子には理解出来ない。ただ、戸惑いの目線だけを、リュートに向けるのみだ。

「いいですか、王子。確かに貴方はその金を一人の物乞いにあげたら、それはそれで感謝されるでしょう。でもね、物乞いはあそこにいた者達ばかりではないのですよ。貴方、その全てを救う覚悟がおありですか」

 ヨシュア、ではなく、敢えて『王子』という敬称を用いて、リュートは静かに少年に問いかけた。

「貴方が思うより、庶民と言うのはしたたかなものです。一度こいつからは巻き上げられるな、と舐められてしまえば、次から次へ物乞いがやってきますよ。その時、貴方、どうするのですか。その身ぐるみ剥がれるまで、彼らに恵んでやる覚悟がおありですか」

「……そ、そんな、大げさな……」

 たらり、と王子の額に、嫌な汗が流れる。それでも、目の前の男は、その問いを辞めることはない。

「よもや、国庫を開いてお金をばらまく、などどいう馬鹿なことは言い出しますまいね? いいえ、さっき、北の大公のパンのばらまきに好意的だった貴方のことです。そう言い出しそうで、僕は大変に恐ろしい」

「ど、どうして、駄目なのだ? 市民達は喜んでいるではないか。皆、口々に北の大公は素晴らしい人だと褒めていたぞ。そうだ、あの物乞いだって、パンをもらいにきたら良かったんだ。そうしたら……」

 

 その言葉に、王子の前の碧の瞳はより一層の冷たさを増す。

「パンをばらまくのが、良いことですって? 何を馬鹿なことを。何故わからぬのです。あの、平日でも人気のない市場、そしてこの狂乱の賭場を見て。この賭け事に興じ、酒に溺れ、仕事もしない市民達を見て。王子たる貴方が、どうして分からぬのです。人は、パンと見せ物だけで生きているのではないのですよ」

 さっきまで、男達を華麗になぎ倒していたその手が、きつく王子の肩を掴む。

「どうして、この王都が腐りかけていると、わからぬのです。どうして、御自分の、そして、ひいては国民の首を絞めているのだと分からぬのです」

 

 ぎり、と食い込むその指に、王子は返す言葉もない。

「貴方はあの物乞いをお金を恵んで、助けようとなさった。それは素晴らしい精神でございましょう。でもね、貴方にすべき事はそんな事じゃない。そんな一時的な救済など、他の者がやればよいのです。貴方には、他になすべき事があるはずだ。貴方には、もっと他の手段で、彼らを含む全ての国民を救済できる。そんな可能性がお有りになるのですよ、王子。なぜ、貴方はその術を学ぼうとすらせぬのですか。お金の使い方一つ分からず、政治の事を勉強すらしようとしない貴方が、人を救いたいなど、思い上がりも甚だしい」

 そこまで言われて、ようやく王子は彼が何を言わんとしているのかを悟った。そして、その目線をまっすぐ見つめてくる碧の瞳から、ぷい、と反らすと、唇を噛みしめて悔しげに言い放つ。

「そんなの……。僕は好きで王家に生まれた訳じゃない。好きで王子になった訳じゃない。僕だって、自由が欲しいんだ。僕だって色んな事が知りたいんだ。僕は、王になんか……」

 

「では、王家を去られませ」

 

 悔しげに言いつのった王子の言葉は、その一言で切って落とされていた。あまりにその鋭利な言葉に、またも王子の青い瞳が揺るぐ。

「では、さっさと王宮を出られ、この市井にてお暮らしになるがよろしいでしょう。王になる気も、政治に関与する気もない穀潰しが、いつまで国庫を食いつぶしているのですか。さあ、どうぞ、今すぐ、身一つで、この王都の路上から、一人で生きて行かれませ。勉強も、その身の世話一つ出来ぬ貴方の事です。あの物乞いと同じになるか、その体でも売るが精々です。どうぞ、お好きに」

「りゅ、リュート……」

 吐き捨てられた、と言っていいその言葉に、がくがくと王子の体が震える。それでも、目の前の冷徹な表情は、少しも緩められることなく、王子に詰め寄る。

「いいですか、王子。貴方のこの体、何を食べてここまで大きくなったとお思いですか。その身を飾り立てる衣装も、宝石も、与えられる心地よい環境も、元を正せば一体何なのか、貴方、考えた事がお有りですか」

 ふるふると、小刻みに、王子の首が震える。

「そういった身の上が嫌なら、今すぐ捨てなさい。捨てるのが嫌だったら、今すぐに考えなさい。貴方には、見るための目も、聞くための耳も、そして考える為の頭もあるでしょう、王子」

 

「リュート、言い過ぎ」

 

 あまりの詰め寄りぶりを見かねて、レギアスが後ろから助け船を出していた。その彼に、呆れたように目を眇めながら、リュートが言い放つ。

「僕は言って無駄だと思う者に、わざわざ言いはしないよ」

 

「リュート……」

 静かに、だが、明朗に語られた自分への言葉に、今までおびえの色しかなかった王子の瞳が、別の色を帯びる。

 

「王子。貴方はまだ若い。いくらでも取り返しはつく。そして、貴方の近くには、一番この国の事を知っている方がいらっしゃるではないですか。一体、何をいつまで、足りない、足りない、と我が儘を言い続けているのですか」

「……リュート」

 まっすぐ見据えられる碧の瞳に、王子はもはやその瞳の持ち主の名を呼ぶ事しかできない。


 その目の前で、ひらり、と白い羽が翻った。

「それでは、隊士達が待っていますから、僕はこれで。レギアス、王子を王宮までお送りしておいて。まだ、市井でお暮らしになる覚悟はないご様子だから」

 そう言って、振り向きもせず去っていく白羽の後ろ姿に、王子は震える声で、だが、しかし、確固たる決意に溢れた眼差しで、一つ声をかける。

 

 

「……ありがとう。今日、ここに、連れてきてくれて、ありがとう、リュート!」

 

 

 それは、長々と眠り続けていた王者の血が、初めて少年の中で目覚めだした、萌芽の瞬間だった。

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