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第三十六話:閑職

「売れ」

 

 雪のちらつく早朝の庭に、ヒュン、ヒュン、という鋭い風切り音と共に、短い命令の声が響く。

「こ、これもでございますか。これはラセリア姫様お気に入りの指輪でございましたのですよ?」

「構わぬ。売れ」

 冷たい命令に対する、老人の抗弁はまたも、にべもなく切って落とされていた。これで、一体何度目になるだろうか。白い息とともに、はあぁ……、という老人の長い溜息が、中庭の雪に溶ける。

 

「ああ、何という若君でございましょう……。私はお仕えしてきた先代様に、どの様に顔向けをして良いのやら……」

 そう言って、その皺だらけの顔に、より一層の落胆の色を滲ませる老人に、またも冷たい言葉が浴びせられた。

「そんなものあったって、何の腹の足しにもならない。ただ身を飾るだけの宝石など僕はいらん」

「はあ、本当に、お顔は姫様そっくりでごさいますのに、この御気性は一体誰に似られたのやら。ヴァレルの若様とて、もっとお上品でございましたぞ、リュート様。その様に、朝からぶんぶんと剣を振り回すなんて、野蛮な真似はとても……」

 

 諦めたように、皺に囲まれた老人の細い目が、中庭にいる命令の主に向いた。

 そこには、風を切り裂いて、剣舞でもするかの様に、長剣を振り回す男の姿が一人。ヒョ、ヒョ、ヒョ、という短い風切り音が、立て続けに中庭に響き渡る。

「野蛮? 鍛練だよ、鍛練。こんな場所にいたら体がなまって仕方がない」

 男はそう言うと、とどめとばかりに、美しく剪定された庭の木の枝を、その剣の一撃で切って落として見せた。その衝撃で、雪に混じって、ちらちらと枯葉が中庭へと舞い落ちる。

「ふう。相手がいないと本当に剣の腕が落ちる。レギアスでも襲ってこようかな」

 そう恐ろしい台詞を吐きながら、雪が薄く積もった中庭に、純白の翼を持った男が、ふわりと着地した。そして、ぱちん、と小気味よい音を響かせながら、その剣を鞘にしまうと、不服げに、その脇にいた白髪頭を睨み付ける。

 

「嫌だったら、いつでもクビにしてやるぞ、爺。この家の主はこの僕なのだからな」

 

 その雪の冷たさにも似た凛とした美貌から吐き出される暴言に、白髪頭の老爺は、またもその頭を抱えて、深い、深いため息を付いた。

「私めは先々代の頃からこのシュトレーゼンヴォルフ家にお仕えしてきましたが、貴方のような御当主様は初めてでございます。破天荒と申しますか、傍若無人とでも申しますか……」

「誰が小言を言えと言った。執事なら執事らしく、はいはいとご主人様の言う事を聞いていればいいんだ。一体誰のおかげで、またこの家に戻って来られたと思っているんだ。嫌ならさっさとまた田舎で隠遁しているんだな、糞爺」

 灰色の雪空に、艶めく金の髪を靡かせて、詰め寄る主人の有り様に、老人は言葉もなく嘆息する。

 

「そうそう。分かればいいんだ。なら、さっさと売ってこい。この家にある宝石類、殆どな。体面を保てるぎりぎりの物があれば、それでいい」

 老人のその無言の溜息を自分への承伏の証と受け取った金髪の主人は、さらに老人の心を痛めつけるような冷血な命令を下す。もうこうなったら、老人に抗う術はない。ただ、その真意を問い正すのみである。

「……承知致しました。それにしてもわざわざ返還された御財産を、この様に換金していかがなさるおつもりです?」

「一部残して、後は全て送金しろ。宛先は南部にいる東部軍駐留隊長、ガルド・ナムワだ」

「……は? どなたです、それは」

 突然出された見知らぬ男の名前に、シュトレーゼンヴォルフ家執事ハインリヒ・マルトは怪訝そうに、主人にそう尋ねた。

「禿げた筋肉ダルマの、気のいいおっさんだ」

「……は? お、おっさん? な、なにゆえ、そのような男に、このシュトレーゼンヴォルフ家の貴重な財産を、貢がねばならんのですか!」

「いいから黙って送れ。僕の部屋に置いてある書簡もつけてな。あ、それから返還された別荘地も南部にあったな。それもさっさと売り払え」 

 この命令には、流石の執事も黙っておれぬと、激しい抵抗の様子を見せる。

「な、何をおっしゃいます! あの南部の別荘はヴァレル若様とラセリア姫様が初めてお会いになった思い出の場所ですぞ! 麗しい南海の孤島の別荘です。あの場所だけは、断固として売りませぬ!」

「思い出がどうした。そんなもの当人たちしか価値はないだろうが。いいから売れ。この屋敷の金目の物はぜーんぶ、売り払え!」

「別荘だけは売りませぬ!」

「売・れ!!」

「売りませぬ!!」

 

「ああ、リュート様もお爺ちゃんも、もうやめてえな。ほら、丁度パイが焼けてんよぉ」

 

 売る、売らぬで必死の攻防を見せていた主人と執事の間に、まだ年若い女の声が、割って入った。その声に二人が振り向くと、そこにはメイド服に身を包んだ、まだあどけない少女が一人。

「ガリーナ! 何度言ったらわかるんだ。お爺ちゃんじゃない。ここでは執事殿と呼びなさい! それからその訛りも早く直しなさいと言っているだろう!」

 その眉間に、より一層皺寄せて、そう叱責する執事に、少女は三つ編みにしたお下げ髪を、不服そうにくるくるといじってみせる。

「せやかてお爺ちゃん。リュート様は、うちのこと、これでええて言うてくれはったんえ。うちかて、そないに早う訛りなんてぬけへんわ」

「あほ言いなや! ここは王都の、しかもやんごとなきシュトレーゼンヴォルフ家のお屋敷なんやで! お前も早う一人前のメイドになりぃな!」

「なんや、お爺ちゃんかて訛りぬけてへんやんか。そら、うちに厳しぃ言うんはお門違い言うもんやで」

 飛びかう方言に、この家の主人がぷっ、という小さな笑いを漏らす。それに、はた、と気付いた様に、執事である老人は、ごほん、と咳払いをして主人の方に向き直った。

「も、申し訳ございません。長年の西部での田舎暮らしが抜けませんで。このうちの娘のご無礼につきましても、ひらにご容赦を」

「いや、いい、いい。ガリーナは、その素朴なままでいてくれ」

 苦笑しながら、執事にそう漏らす主人に、三つ編みのメイドは、勝ち誇ったように、その頬のそばかすをにこっと緩めた。

「ほら、お爺ちゃん。言うたやろ。うちはこれでええねや」

「あほ! お前は一応、リュート様の血縁なんやさかい、もうちょっと、お上品にしいな!」

 そうまたも方言でメイドを叱り付ける執事の言葉に、主人が一つ疑問を投げ掛ける。 

「血縁? ガリーナは君の娘じゃないのかい?」

「この娘は私達夫婦の養女です。先々代様がメイドに生ませた子供の娘で……。母親が早くに死んでしまったので、子供のない私たちが引き取って、養女として育てておりました。いや、この家が一度断絶した時から、ずっと西部で田舎暮らしをしておりますので、不作法で申し訳ありません。元々メイドに産ませた子ですから、先々代様に、認知もされておりませんし、身分も低い腹の出ですので、どうぞお好きにお使いくださいませ」

「せや、せや、リュート様。うちはこないなお屋敷で、おじょーさまなんてガラやないんえ。メイドとして、お料理作ってた方がずっと性に合うわぁ。好きに使うて」

 そう言うと、ガリーナはまだあどけないその顔を、人懐こそうに、主人に向けてきた。その愛敬のある笑顔に、主人の冷たく強ばった表情も思わず緩む。

「ガリーナの方が、どこかのカチカチ頭の爺より、余程役に立ちそうだね。うん、次から君に仕事を頼むよ」

 うわあ、うれしい、とガリーナがそのそばかすのある頬を染める一方で、再び、執事は、そうなっては堪らぬと、先の件を蒸し返して抗議する。

「私めはなんと言われましても、あの別荘は売りませぬぞ。それからこの家の財産だって……」

 

「あんた、いつまで言うてんねな。売りよし、売りよし。リュート様の言う通りにしたらよろしいわ」

 

 再び、この家の財産売却の件について、反対する老執事に、今度は別の女の声が投げかけられた。

「ザビーネ、お前もか」

 そう忌々しく向き直る老人の視線の先には、丁度執事と同年代ほどの老婆の姿があった。他でもない、彼の妻にして、この家のメイド長を務めるザビーネ・マルトである。白髪交じりの髪をぴっちりと撫でつけて頭頂部で一纏めにした痩せ形の老女は、その度のきつい眼鏡を掌で、くい、と直すと、自らの夫に向かって再びその口を開いた。

「ほんま、男衆いうんはいつまでも、昔の事にしがみつきますなぁ。みっとものうてあらしまへん。うちとしては、この家に余分なものがのうなって、お掃除しやすうて助かります。リュート様、気にせんとおやりやっしゃ。あとは、うちが何とでも、してさしあげますよってに」

 つい先頃まで籠もっていた西部の田舎の方言で、堂々とそう語られる言葉に、主人であるリュートは再び苦笑しながらも、満足げに頷いてみせる。

「うんうん、うちの女達は肝が据わっていて、結構、結構。婆や、この家は君に任せるよ」

「それは、ほんまに、嬉しいお言葉を。ああ、そうどした、お客様がお見えでございます。客間にお通ししてありますよってに」

「ああ、もう見えたのかい? すぐに行くよ」

 そう言うと、この家の主人は持っていた剣を、ぽい、と目の前の老人に投げ渡す。その渡された剣の、ずっしりとした重みに、改めて驚きながらも、執事は尚も、中庭から去りゆく主人の背中へ向けて抗弁してみせた。

「何と言われても、別荘だけは売りませぬからなー!」

 

 

 

 

 

「本当に頭の固い糞爺だ。孤島にある別荘なんて、使い道なんかないっていうのに……」

 ぶつぶつと使用人に対して文句を吐きながら、リュートは客間へと案内される。すると、そこには、以前ロクールシエン邸で出会った黒羽の少年の姿があった。

 その少年は、リュートの姿を見るなり、びくん、と体を震わせて立ち上がり、深々と礼をしながら挨拶をする。

「あ、あのっ、クルシェ・ロクールシエンと申します! こ、この度はこのお家で、行儀見習いとしてっ……」

「ああ、堅苦しい挨拶は抜きにしましょう、お坊ちゃん。ええと、クルシェ、と呼ばせて頂いて、よろしいのかな? マダムから聞いているよ、よろしくね、クルシェ」

「は、はいっ。よ、よろしくお願いしますっ。あ、あ、あの、じゃ、若輩者ではございますが、ええと……」

 その顔を真っ赤にしながらの、辿々しい挨拶に、リュートは思わずその頬を綻ばせる。

 

 ……これが、本当に、あのランドルフの弟なのか。まったく、似ていないじゃないか。

 その髪や、目の色は確かに同じ黒なれど、その羽の色は、濡れたような漆黒の羽を持つ兄に対して、この少年は白混じりの黒だ。見ようによっては、濃いグレーといった風合い。それに、その目も、兄が鋭い切れ長なものなのに対して、この弟は愛らしい垂れ目だ。しかも、少々頼りなげな、怯えたような目……。


「ええと、君はランドルフのお坊ちゃんの、何番目の弟になるのかな」

「あ、あの、兄弟は僕だけです。僕と、兄上のふ、二人兄弟で……。あ、あの、あ、兄上ほど、貴方のお役に立てませんが、ど、どうぞ……」

 出された兄の名に、より怯えるように少年は、おどおどとした目線でリュートの足下をじっと見つめている。一度も、その黒い目をリュートの碧の瞳に合わせてくれようとはしない。

「うん、あの兄貴のことなんか、気にすることないからさ。君ももっと気楽に構えたらいいよ?」

 リュートは少年の緊張を少しでも解そうと、親しげにそう語りかけた。だが、少年はその言葉に、より一層反応して、その首をぶんぶんと恥ずかしげに横に振って見せる。

「そ、そんな。あ、兄上は僕とは比べ者にならないくらい、ご立派な方です。ぼ、僕なんか、兄上の足下にも及びません。そ、その兄上の片腕でもあった方の元で見習いなんて、そ、その、僕にはもったいないくらいで……」

 

 ……いくら次男とはいえ、この差は何なんだろうか。

 

 リュートは相変わらず、ふるふると小刻みに震える少年の肩に、一つ溜息を漏らす。

 この謙虚さを越えた、卑屈さ。やんごとなき大公家のお坊ちゃんとは到底思えない。……あの兄と、何かあったのか、それとも……。

 

 そのリュートの思考を断ち切るように、おいしそうなアップルパイの香りが部屋に入ってきた。

「リュート様、お茶、お持ちしましたぁ。お客様もどうぞぉ」

 相も変わらぬ西部のアクセントで、そう勧める三つ編みのメイドに、リュートは目の前の少年を紹介する。

「ガリーナ。今日からうちでお世話をすることになった、ロクールシエン家のお坊ちゃまだよ。丁度同じような年頃だろう? 仲良くしてあげておくれ。クルシェ、ガリーナだよ。うちのメイドで、彼女の焼くパイは絶品なんだ。さあ、どうぞ」

「どうも、よろしゅうに〜。ガリーナいいますぅ」

 また、そう人懐こく笑って、間近に近づく少女の顔に、少年はその顔をさらに真っ赤に染めさせた。

「あ、あの……ぼ、僕は……」

「なんや、辛気くさいなあ。男ならどーん、と胸張っていこうやぁ。うちのパイ食べたら元気でるし。仲良うしようなぁ?」

「……は、はい。よ、よろしく……」

 

 その少女に圧倒されたままの少年の姿に、リュートはパイを頬張りながら、またも考え込む。

 

 ……これは大公が僕をロクールシエン家に、つなぎ止めるために寄越した少年だ。

 だが、それにしては頼りなさが過ぎる。おそらく、この様子からいって、当人には、この家に来る事について、ただの行儀見習いだ、としか伝えていないのだろう。一体、大公はどういうつもりで、こんな少年を……。

 

「リュート様、お召し上がりの所、申し訳ありませんのやけど、もうすぐお時間ですわ。ご準備を」

 再び、リュートの考えに覆い被さるかのように、老女の声がかけられていた。

「ああ、もうそんな時間かい? 遅れるとあいつうるさいだろうからなあ。うん、すぐに準備するけど、そうだ!」

 そう言って、リュートは何か思いついたように、その手をぽん、と打って、少年の方へと振り返った。

「ねえ、クルシェもついておいでよ。僕一人じゃ、何かと寂しいしさ」

「え……? つ、ついて行くって……」

 

「仕事だよ、仕事。僕の近衛副隊長としての初仕事さ」

 

 

 

 

 

 

「……とは、言ったもののね。本当に、ここなのかな」

 リュートは改めて、目の前の風景にその碧の目をこらすと、呆れたように、隣の黒羽の少年に溜息をついて見せた。

 無理もない。リュートが昨日、近衛隊長であるラディルに来るように、と指示された場所。それが、この目の前の場所なのであるのだが、とても、王都を守る華々しい近衛隊の副隊長が、いるべき場所とは、思えないような場所だったからだ。

 

 ――近衛十二塔。

 

 王都をぐるりと囲む十二の塔の内の一つ、第一塔。確かに、そこに来るように、指示されていたのだが……。

 

「臭い……」

 あまりの異臭に、リュートは思わず鼻をつまんで、そう文句を垂れる。

 目の前には、薄汚れた塔と、荒れ放題の兵舎が一棟。そして、その周辺には、この薄く雪の降る中、何とかかろうじて建っています、とでも言わんばかりのボロ屋が、これでもか、とみっちり並んでいる。

「ああ、この辺はガリレアの最外部に位置する所だから、貧民が多いのか……。王都中心部の貴族の館が並んでいる地区とは雲泥の差だねぇ、クルシェ。どう思う? 本当にここで合っていると思うかい?」

 鼻をつまみながらそう尋ねられても、クルシェに答えようなどない。ただ、その黒い垂れ目を、またふるふると気弱げに振るわせるのみである。

「……だよねぇ。ホントにここであってるのかな、あの陰険睫毛野郎め」

 

「誰が、何ですって?」

 

 貧民窟の中、そうぶつくさと文句を垂れていたリュートの後ろから、雅やかな声が投げかけられていた。

 振り向くと、そこには、このボロ屋の並ぶ風景には、とんとふさわしくない、艶やかな男が、これまたその主人に負けないほど飾り立てたお供を、数人連れて立っていた。

「ああ、これは、これは、ラディル隊長。ああ、いや、今日も変わらぬ素敵な装いで。うん、いつもいけてる睫毛だなって、この子に言ってたんですよ。ねえ、クルシェ。素敵な睫毛だろう?」

 その男の姿を認めるや否や、リュートはその顔に作った笑顔を浮かべ、さっきまでの嫌味を一瞬で取り繕って見せる。

「……そうですか。まあ、そういうことにしておきましょう。では早速本題に入りますが、今日から貴方には近衛副隊長として、重要な役目を担って頂きます。王都を外敵から守る、この近衛十二塔の守備隊長のお役目をね」

「この、塔を守る部隊の隊長職、でございますか?」

「ええ、そのとおり。丁度、守備隊長が先日辞められたばかりでしてな。今、ここの隊士達をまとめ上げられる方をずっとお探ししておったのですよ。『白の英雄』と謳われる貴方に是非に、と思いまして」

 そう言いながら微笑むラディルの目が、心底笑っていないと、リュートは一瞬で見抜いていた。

 

 ……なるほど。つまり閑職という訳ね。王宮から僕を遠ざけるいい口実、という訳だ。

 

 やっぱり、こいつは陰険睫毛だ、と内心で罵りながらも、リュートはそれをおくびにも出さず、また子猫の様に、にっこりと愛らしく笑ってみせた。

「はい。隊長のご期待に沿える様、誠心誠意頑張らせて頂きます」

「……期待しておりますよ、英雄殿。王都を守る要の守備隊長ですからな。くれぐれも、途中で投げ出したりなど致しませぬように。では、私はこれで。王宮の警備がございますので」

 そう言うと、ラディルは、もうこんな場所には一秒たりともいたくない、といった嫌悪の面持ちで、お供とともに、素早く雪交じりの空へと飛び立って行った。その様子に、リュートはふん、と忌々しげに鼻を鳴らす。

「ああ、嫌だ、嫌だ。あのキザ野郎。あのお付き共も揃いも揃って、きんきらと飾り立てやがって。そんなに自分に自信がないのかね。ああ、香水臭かった! ……香水も臭いが、この塔と兵舎も臭い!! ええい、一体なんでこんなにここは臭いんだよ!!」

 嫌みったらしい睫毛に対する怒りを、この臭さに上乗せして、リュートは腹立ち紛れに、思いっきり兵舎のドアを蹴り付けて見せた。さすがにボロの兵舎だけあって、一撃でドアが外れ、中の様子が露わになる。

 

「ンモ〜〜〜〜〜」

 

 その中から出てきた物体が、低い鳴き声と共に、べろり、とリュートの顔を舐めた。

 臭くて、ぬるりとした物体だ。そのあまりの不気味さに、思わず鳥肌総立ちのリュートの口から、悲鳴が漏れる。

「何だ、こりゃあ!!」

 

 そこには白と黒の斑模様の四本足の巨大な生き物。リュートが毎日おいしく飲んでいる白濁色の分泌液を、その乳から絞り出してくれるありがたい生き物。

 ……牛だ。

「何で、こんな所に牛がいるんだよ!!」

 その驚きの声と共に、今度は何かがリュートの足下を嗅ぎ回る。それも一頭ではない。

 リュートがおそるおそる足下に目をやると、そこには、はふはふと舌を出しながらすり寄る犬と、ぶひぶひと鳴きわめく豚が一頭。さらにはその間から、もこもことした毛の羊まで姿を現していた。

「何だ、ここは!! 動物園か!!」

 あまりの惨状にパニックを起こしそうになるリュートに、動物たちの向こうから、低い男の声が投げかけられた。

 

「ああ!もう、何て事してくれるんだ!! ドア壊しちまって、俺のペットたちが逃げるだろうが!!」

 

 そう言って、羊の向こうから現れたのは、その羊にも負けないくらい、毛むくじゃらの男だった。頭は勿論、髭も伸び放題で、その顔の大半が毛で覆われている。こうなると、この男が若いのか、年寄りなのかすらも判別出来ないほどだ。その背には、薄汚れた茶色の翼、その肩にはこれまた薄汚れた子猫。そして、その体臭は、この動物たちに負けず劣らず、臭い。

「こんなに動物がいたら臭いはずだ! どういうことだ、説明しろ!!」

「どういうことって……。俺はここの隊士の一人で、アーリ・ブレスヴルドってんだ。こいつらは俺のペット。捨てられてたから可哀想になって、ここで飼ってるんだよ。俺、動物好きだから。そういうあんたこそ、誰だよ」

 アーリと名乗った男は、慣れた手つきで、牛たちを兵舎の中へ連れ戻すと、その髭まみれの口元にくわえた煙草の煙を、ふーっとリュートへと吹きかけてきた。……勿論、これも臭くて堪らない。

 リュートはその煙を、ぺっぺと吐き出すと、目の前の毛むくじゃらをその碧の瞳で、射抜くように睨み付ける。

「僕は今日から、ここの責任者になった、リュートという者だ。近衛隊長殿から連絡がいっているはずだが?」

「ああ、そう言えば、新しい隊長さんが来るって言ってたっけね。……あんたが。へええ〜」

 アーリの長い前髪に隠された目が、リュートの頭から足先まで舐めるように、釘付けになる。

「こんな、綺麗なお兄さんが俺らの隊長ねえ。おおい、みんな、新任の隊長さんだってよぉ!!」

 毛むくじゃらのその声に、兵舎の中にいた男達の視線が、一斉にリュートの方を向いた。

 

 そこには、さっきの近衛隊長の脇に控えていた艶やかな隊士とはうって変わった、明らかにやさぐれた、尋常ではない雰囲気の男達。揃いもそろって、汚れた隊服をこれでもか、と勝手に着崩した上、無精髭など伸ばし放題、酒も飲み放題。さらには、兵舎にしつらえられた各テーブルで、おのおのが賭け事に興じている。

「ああん? 何だ、女みてえな兄ちゃんじゃねえか」

「これが隊長様だって? 馬鹿言えよ」

「おおい、綺麗な兄ちゃん、こっち来て酌しろよ。あんたなら大歓迎だぜ、隊長様よ〜」

 

 ……何だ、ここは。

 

 これが、さっきの男達と同じ、近衛隊士なのか。確か、近衛隊は最低でも下級貴族の身分がないと入れないはずだ。それが、どうしてこんなことに。これではまるで、場末の酒場以下ではないか。

 

 リュートのその戸惑いを悟った様に、またさっきの毛むくじゃらが近づいてきて言った。

「兄ちゃんよぉ。ここはあんたみたいなお綺麗な御貴族様が来る場所じゃねえよ。ここはな、近衛の中でも最下級の落ちこぼれの集まる掃きだめだ。王都を守る重要な近衛十二塔守備隊と言っても、それは百年前の話。統一戦争の時ならまだしも、全国が平定された今、誰が一体この王都に攻めてくるってんだよ。竜騎士達も、ここまでは来ねえしよ、俺らの仕事なんて、本当に意味ねえの。一応俺ら貴族身分は持ってるけど、まあ殆ど平民みたいなもんだ」

「な、何だと? そ、それじゃあ……」

「ここはな、近衛隊長からも見放された、下級貴族のゴミ溜めさ。やる気もなけりゃ、金もねえ。ないないづくしの最低の職場だよ」

「ほおう……」

 語られた言葉に、リュートの碧の瞳が、一気にその妖しさを増した。そして、内心で煮えたぎらんばかりに呟く。

 

 ……いい度胸じゃねえか、あの睫毛野郎。大した仕事回してくれやがって。舐めてんじゃねえぞ、くそったれが!!

 

 

「ちょ、どうした? 何だ、新しい隊長さんってか? おい、通せよ」

 

 怒りのあまり、その両手をべきべきと鳴らしていたリュートの目の前に、今度はひどく軽薄な声をした男が現れていた。

 浅黒い肌に、斑の入った黒い羽。趣味悪く派手に着崩された隊服に加え、その耳にはこれでもか、と開けられたいくつものピアス。そして、何よりも印象的なのは、その逆立てた金髪の髪。

 その男の登場に、辺りの男達が、一斉にざわめく。

「おい、『黒犬』がこっちに来てるぜ。久しぶりじゃねえか」

「『黒犬』! また勝たせてくれよな!!」

 

「おう! 任しとけって。それよりも、ああ〜、こりゃきれえなお兄さんじゃんかよ。な、今度俺とデートしねぇ? なんつって」

 『黒犬』という声援に応える様にして、男はその入れ墨の入った腕を突き出すようにして、男達に見せつけた。そして、男のあまりに下品な出で立ちに、もはや相手にする気すら失せたリュートに、絡むようにしてねちっこく言葉を紡ぐ。

「ああ、やっぱ、男なんてきめえから、やめとくわ。俺は、通称『黒犬』って呼ばれてるもんだ。言っとくけど、ここ、しきってんの俺様だから。勝手な事、すんじゃねーぞ、可愛子ちゃんよ。下手なことすっと、こええおにーさんに売り飛ばしちゃうよっと」

 

「……下手な事?」

 ぎらり、とリュートの碧の目が光る。

「あ? なんだ、やろうってのかよ? いっとくけど、俺様はガチでつええよ? 何てったって、国立天空闘技場の年間チャンピオンだかんな。おめーみたいな、可愛いにーちゃんなんて……」

 

 ――ガコン。

 

 鈍い音が、一瞬響いた。

 それと同時に、『黒犬』と呼ばれた男の目玉が、ぐるり、と裏返る。

 

「顎が、がら空きだ。犬っころが」

 

 ――どさり……。


 一瞬にして、男の入れ墨の入った体が、床に転がった。

 見ると、無惨に泡を吹いて失神している。その顎に刻まれた拳の跡から、もろにリュートの拳をそこに食らって、脳をしこたま揺らされたのだと推測出来る。

 

 そのあまりの衝撃的な惨状に、兵舎の男達の目は、もう、こぼれ落ちんばかりに見開かれたたままだ。

 

「おい、そこの毛むくじゃら」

 王都最強と謳われる『黒犬』を一撃で倒して見せた男の目が、今度は動物たちに囲まれた毛だらけの男に向く。その恐ろしく光る碧の目に、思わず毛むくじゃらの男、アーリは、ひぃ、と短く悲鳴をあげた。

「この黒い犬っころが目覚めたら伝えておけ。明日、国立天空闘技場で改めて勝負してやると。それまでに、芸の一つでも磨いて来いとな。それから、お前ら!!」

 

 ぎら、と碧の目が、兵舎の男達全員を睨め付ける。

 

 

「お前ら、全員その首、洗って待っていろ。纏めてきっちり、調教してやる」 




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