第三十五話:国王
「仕事を、頂きたいのです」
「……仕事?」
突然のその予期しなかった申し出に、国王コーネリアスは滅多に緩ませることのない口元を、ほんのりと歪めて笑った。
「仕事と申すか。これはまた、意外な事を言うものであるな。余に、おねだりがあると言うからには、何かと思えば……」
そう言って、国王は専用の机の上にある書類をとんとんと揃えながら、目の前の男に、微笑ましげな眼差しを送る。そこには、昨日の謁見の時とはうってかわって、可愛らしい子猫の様に微笑む、金髪の男が一人。
「ええ。すみません、急に押しかけて、このような申し出を。宰相様も、近衛隊長様もいらっしゃるのに……。御政務中ではありませんでしたか?」
冬の短い午後の日差しが降り注ぐ、国王専用の執務室で、男はその顔に少々恥ずかしげな色を滲ませながら、おずおずと国王にそう問いかけた。この初々しい若者の様子に、さらに、国王は親しげにその口を緩める。
「何、構わぬよ。丁度休憩をしようと思っていたところだ。宰相、彼にもお茶を」
そう言って、国王は揃えた書類を脇に控えていた鼠に似た初老の小男に渡す。それをそそくさと受け取った男は、代わりにその懐から一つ砂時計を取り出すと、それを逆さまにして、国王の机の上にトン、と置いた。そして、相も変わらぬ早口で王に言う。
「陛下、陛下。休憩は十五分、十五分でございますぞ。後の仕事が詰まっております、ええ、詰まっておりますので」
どうやら、同じ言葉を二回繰り返すのが、この鼠の口癖らしい。その急かすような口調と、目の前のきっちり十五分で落ちきる砂時計に苦笑しながらも、国王は宰相を務めるこの小男の言うことに了承して見せた。
「わかっておるよ。……すまぬな、ゆっくりと話も出来ずに。それで、仕事の話だったか、シュトレーゼンヴォルフ候よ」
「はい。昨日の今日で申し訳ないのですけれど、僕、いても立ってもいられなくて。だって、あの返還された屋敷と申しましたら。大公家のお家にもひけを取らないほどのお屋敷ではありませんか。それに財産として返還された貴金属や家具、さらには別荘地や使用人まで……。正直、平民育ちの僕にとっては気後れして仕方のないくらいのもので。それで、こんなものを貰っておいて、ただのうのうと暮らしておってよいのやらと、あの大きな屋敷で不安に駆られまして……」
もじもじと、恥ずかしそうに手を合わせながら、シュトレーゼンヴォルフ候に復権した青年リュートは、そう国王に心情を吐露してみせる。
「ええ、それで、僕、陛下のお役に立てたら嬉しいなあと思って、僕に出来る仕事を頂こうかと思いまして。そうすれば、高額な俸禄を陛下から頂いても、そうそう気後れすることがないんじゃないかな、と」
「ははは。そんな事に気を回さずとも良いのに。あれは君が受け取るべき財産なのだよ。それに……」
そう言い淀む国王の言葉に重ねて、リュートはさらに上目遣いで国王の青い瞳を見遣った。
「陛下! そんな事おっしゃらないで下さい。宰相様だって、近衛隊長様だって、僕と同じ選定候だというのに、皆様きちんとお国の為に働いていらっしゃるじゃないですか。どうぞ、僕にも微力ながらお手伝いさせてくださいまし。聞けば、もともとシュトレーゼンヴォルフ家は近衛を務めさせて頂いておった家柄だと言うではないですか」
この言葉に、国王の後ろに控えていた、現近衛隊長ラディルの長い睫毛が、ぴくり、と反応した。昨日、リュートと会った時と同じように、その腰には護衛の為の剣をはきながらも、あくまでその装いも、纏っている雰囲気も、どこまでも艶やかな男だ。
「ううん、近衛隊長なあ。確かに、先々代は貴家の、そう貴方の祖父に当たられる方が務めておられたよ。貴家、シュトレーゼンヴォルフ家は、先の統一戦争の時より、獅子王を守り続けてきた王の分家の家柄であったからな。その証拠が、貴家の紋章の獅子紋だ。それは獅子王から直々に与えられた、やんごとなき紋章なのだよ。だが、その……誇るべきシュトレーゼンヴォルフ家は貴家の祖父の代で一旦は断絶してしまったので、今は、このラディルが当主を務めるミルアーウルフ家に近衛を任せてあるが」
国王のその言葉を受けて、後ろの近衛隊長が、リュートにうろんげな眼差しを向けながらも、その口を開いた。
「ええ。確かに、当家が現在は務めさせて頂いております。当家は元々国王軍の第三軍を務める長でありましたが、貴家の断絶の折、近衛隊長職も兼任、という形で承りました」
「まあ、そうだったのでございますか! それは、大変申し訳ないことを……。本来なら当家が務めるべきお役目を、ミルアーウルフ家に押しつけてしまったのですね」
まるで初めて聞いた、と言った様子で、リュートは近衛隊長にそう謝罪する。これに対して、近衛隊長は相も変わらぬ見下すような目をリュートに向けながらも、上品に答えて見せた。
「いいえ、貴公がそのようにお気になさることはありませぬ。陛下とこの王都をお守りするという名誉ある近衛のお役目でございますから。それは、もう喜んで、務めさせて頂いております。近衛隊長職は、この私の誇りでございますとも」
「ああ、それは良かった。いえ、第三軍長との兼任とはさすがにお辛いお役目ではないかと、御心配申し上げておりましたが、僕の杞憂だったようですね」
ぽん、と安心したように手を打って、微笑むリュートのその言葉を受けて、再び、国王が口を開く。
「そうだ。余も兼任は激務であろうと常々思っておったのだ。どうだ、ラディル。彼に、手伝ってもらっては? 彼は先の半島の前線にも行っていたし、軍の事にも詳しかろう。近衛隊の副隊長としてでも、その力を借りたらどうだ?」
「副隊長ですって?」
国王のその勧めに、間髪入れずにラディルは抗弁していた。
「いいえ、そのようなお役目、まだこの若君には荷が重すぎると存じます。いくら、『白の英雄』と祭り上げられている方とて、重要な近衛職など……」
そうあからさまに難色を示してみせる、現近衛隊長に、リュートは内心で嗤いを漏らす。
……必死だな。
まあ、無理もないか。近衛は国王の側にも居られる要職だ。どうにかこうにかして、シュトレーゼンヴォルフ家断絶の折に手に入れたこの名誉職をそうそう手放したくはないだろう。
……しかし、ま、本当にこいつは嘘がつけないね。敵意剥き出しなんですけど。
そう向けられる眼差しに苦笑しながらも、リュートはこの近衛隊長の弁を尤もなことだと、肯定して見せた。
「ええ。仰るとおりです。僕みたいな若造にはとても無理だと思います。でも、ただこうしてのほほんと諸侯の皆様方に全てお任せしていると言うのも、本当に気が引けるのです。聞けば、今度春になったら、ええと、御前会議? と言うのがあるのでしょう? そこでは大公様も、選定候様も皆、いらっしゃるとか。そこで、ただ無職の僕が、どうして同席など出来るものかと考えますと、もう、もう……」
そう目の前で哀れっぽくその碧の瞳を潤ませる男に、国王はいつになくおろおろとその身を慌てふためかせる。
「こ、これ、そんな事で、泣くのではないよ。うん、君の言う事も尤もだ。正職もなく、公式の場に出るというのは、さぞかし恥ずかしかろう。ラディル、この若い貴公子を導いてやると思って、ここは一つ、頼めぬものかな」
この国、最高位にある国王の言葉だ。これに、否やと言える権利など、近衛隊長にはありはしない。その長い睫毛に彩られた瞳に、少々不服げな色を残しながらも、ラディルは国王の言葉に了承して見せた。
「ええ、陛下の頼みとあらば、仕方ございませんね。ただし、私の指導は、厳しいものになりますよ。ええ、なんと言っても、この雅やかなる王宮を守る近衛の仕事ですから。……万事、宮廷風を通して頂きますよ。平民風のしきたりなど、ここでは通用しないと思うておってくださいましね」
……ふざけんなよ。何が宮廷風だ。この陰険睫毛が。
リュートは内心でそう目の前の男を罵りながらも、しっかりとその子猫の様な微笑みをその顔に絶やすことなく、彼に感謝の言葉を述べてみせる。
「はい。そう言って頂けて、大変光栄です。このような若輩者ですが、どうぞよろしくお願い致しますね、ラディル隊長」
「陛下、陛下。あと十分、十分を切りましたぞ」
さらさらと落ち続ける砂時計を、さっきからじっと見つめたままだった宰相が、おもむろにそう話しかけてきた。
このきっちりとした時間制限は、いつものことなのだろうが、それでも国王はこの言葉に、辟易、と言ったような表情をあからさまに浮かべている。
「宰相よ。そう急かすな。時間はきっちり守るゆえ、二人とも席を外してもらえぬか。余はこの若者と、二人きりで話がしたい」
「二人きりですと? そのような……」
国王の申し出に、近衛隊長はそう抗ってみせるが、国王はその考えを改める気は到底ないらしい。ただ、その手だけをしっし、と動かして、この場から去るように命じて見せた。
「……御意に、陛下。ただし、時間厳守、時間厳守、でお願いしますぞ。行くぞ、近衛隊長。陛下の気分を害するような真似、するでない」
そう言って、宰相は心得たもの、と未だ抗いの表情を見せる近衛隊長の袖をぐいぐいと引っ張って、部屋から出ていった。
「すまなかったな、昨日は」
二人きりになった執務室で、国王は静かにそうリュートに話しかけてきた。二人の間に置かれた砂時計が、休むことなくさらさらと砂を落とし続けている。
「いいえ。正直、驚きましたが。あのような場所で、陛下にお会いするなど、思いもしませんで。こちらも、何も言葉をお返しすることができないままだったので、大変申し訳ないことをしてしまったと、悔やんでおりました」
「いやいや……。余も、その、軽率であったのだよ。急に、その、な」
昨日、おもむろに抱きしめた事を言っているのだろう、とリュートは即座に理解していた。国王にとって、あの抱擁は自分でも気持ちが抑えられなかったものだったのだろう。
「その……。あまりに、似ていたのでな。その、……君の母御に。それで、つい……」
そう言いながら、その頬をほんのりと染めた国王に、リュートは一つ、確信する。
……本当に、惚れていたんだな。
僕の母に、自分の妃として選ばれた女性に、この人は本当に惚れていたのだ。
「聞いては、おったのだよ。東大公から君の容姿が母御そっくりだとは聞かされておったが、いざ、あの謁見の場で君を目の前にして、その、かなり動揺をしてしまったのだよ。許しておくれ」
「許すなど、陛下。僕はこちらこそ許しを請うべき立場だと思うておりましたのに。その、……東大公から聞かされました。僕の両親が、陛下にしたことを……」
王太子妃と、王太子の幼なじみとの駆け落ち。その末に生まれた自分の身など、蔑まれてしかるべし。そう思っていたのに、この国王の好意的な態度ときたら、リュートにはまったく理解ができない。
その内心を察したかの様に、国王が口を開く。
「君は今、いくつになるね?」
「……今は十七です。もうじき、十八ですが」
「そうか。当時の私たちと、丁度同じ歳だな。あの、二十年前の私たちと」
国王はそう言うと、昔を懐かしむかのように、その青い瞳をゆっくりと閉じて見せた。
「当時、君の母御はそれはそれは美しくてな。宮廷一、いや、国一番の美姫と謳われておったよ。その優麗な姿に、男は誰もが夢中になった。勿論、余もその一人だったわけだが。余は、何とかして彼女の心を射止めたいとずっと思うておった。だが、余は当時王太子という身であるゆえ、その様な浮ついた恋愛事など、なかなか口に出せなくてな。親友であった、ヴァレル、君の父御にすら言えなかったのだよ」
――親友……。
リュートは国王から飛び出したその言葉を、もう一度噛みしめてみる。
国王をして、そう言わしめる存在。それは、幼なじみとして小さな頃より時を共にしてきた男に対する、最上級の賛辞とも言える言葉だろう。
……僕の父は、国王にとって、なくてはならない存在だった……?
そう気づいたリュートの内心を慮った様に、国王は軽く頷きながら、その先の話を続けていた。
「それは、彼の方も同様だったようで、私たちは親友でありながら、互いに同じ女性を好きになっていたことに気づいていなかったのだよ。そうこうしている内に、北の大公から彼女の輿入れの話がやってきた。余は勿論、内心で小躍りせんばかりに喜んだよ。好きで堪らなかった美姫が、余の妻として来てくれるというのだ。余は二つ返事で了承したが、当の姫の心は、それよりずっと以前に他の男のものだった。そう、余の、親友に心奪われておったのだよ」
そこで、国王の瞳に、ほんのりと憂いの色が差したのがリュートにも見て取れた。
「余は最初はそれを知らなくて、彼に言ってしまったのだ。彼女が、余に輿入れすると決まったと。そう言った彼の表情ときたら、今でも忘れられないよ。あの、はにかんだような笑顔は」
――『お、おめでとうございます。殿下。殿下なら、……殿下ならきっと、彼女を幸せにできますとも』
「身を、引くつもりであったのだろうな。密やかに続けていた彼女との逢瀬を終わりにして、彼女との仲を全てなかった事にして、余に彼女を託す……。彼はそういうつもりで居たのだ。だが、……余は知ってしまったのだ。彼と、姫の秘められた恋愛があった事を。何者かが、余に当てた書簡で告発してきたのだよ」
「こ、告発ですか?」
リュートのその反問に、国王はゆっくりとその首を縦に振った。
「おそらく、余と姫が結婚して北の大公が外戚になることを厭うた者によるものだろうが……、ともかくも、余はそれで知ってしまったのだ。我が親友の、たった一つの恋を。それを知って、余は……、余は……」
何かを、堪えるように、国王はその眉間に、きつく皺をよせる。そして、その口から絞り出すようにして、静かに言葉を発した。
「余は、知っていて、彼女を迎えたいと思ってしまったのだよ。どうしても、あの、姫を手に入れたいと。余は、親友である彼の気持ちを知っていて、それを踏みにじってまで、彼女を欲してしまったのだ」
そう言い放つ国王の横顔は、すでに王者のものではなかった。昨日、あの中庭で見せた、ただ一人の男の顔……。
その横顔に、再びリュートは何も言うべき言葉が見つからない。
「余は、卑怯だった。王太子という立場を利用して、堂々と彼から姫を奪ったのだ。それから、程なくして輿入れをした姫の様子といったら……。あの国一番の美姫と言われた美女が、ひどくやつれた様相に変わっていた。余が、夫となった夜も、彼女はずっと泣いていたよ。余に抱かれながらも、ずっと彼の事を思い、泣いていた……」
――さらさらさらさら……。
落ち続ける砂時計の砂の向こうで、国王がその顔に自嘲の色を滲ませた。
「そこでまず感じたのは、激しい嫉妬心だった。何故、余では駄目なのだ。余はこの国を統べるべき王太子ぞ、とな。だが、それを味わった次にやってきた感情は、著しい後悔と自責の念だった。余は、何故このように狭量な事をしてしまったのだ? 何故、このいたいけな少女の様な姫を泣かすことしか出来ぬのだ? 余はこの国を統べるべき王太子なのに、とな」
「……陛下」
語られた心情に、リュートはただ、目の前の男の敬称を呼ぶ事しかできない。それは、彼の、国王としての彼の、一番深淵とも言える部分の感情に他ならないと、悟ることが出来たからだ。
「それから三日目に、姫とヴァレルは王宮から忽然と姿を消した。その時に、……正直、ほっとしたのだ。これでもう、あの姫の涙を見なくてもすむ、とな。だが、それと同時に、何か、半身を持って行かれた様な寂寥感にも苛まれたよ。彼が、……いつも余の側に居てくれた、親友の彼の姿がない……。それが、何よりも辛かった。姫を奪われた事よりも、何よりも、彼を余の前から去らせてしまったこの自分に、腹が立って仕方がなかった。余が、彼をそこまで追いつめてしまったのだ、と」
……それで。
それで、昨日中庭ですまないと……。
リュートは語られた心情に、ようやく昨日の謝罪の意味を理解した。
国王は、僕に謝っているのではない。僕を通して、親友だった父に、そして泣かせてしまった母に、謝っているのだ。
――さらさらさらさら……。
未だ机の上に置かれた砂時計が、砂を落とし続ける。
「それから十年以上経って、東大公から彼が東部にいて、選定候に復権したがっているという話を聞かされて、酷く驚くと同時に喜びを感じたよ。彼が、戻ってきてくれる、とな。だが、あの、醜聞のこともある。ただでは戻せないので、条件をつけたのだ。ルークリヴィル城の奪回という条件をな」
「それを、父は成し遂げたのですね」
リュートのその言葉に国王はゆっくりとまたその首を縦に振る。
「だが、余としては少し手柄を上げてくれるだけで、もう復権させるつもりでいたよ。早く彼に会って話がしたかったからね。ただ、国王という建前上、冷たく振る舞わざるを得なかったが」
それはそうだろう、とリュートは納得する。国王が何の栄誉もなしに、なし崩しに父を受け入れてしまっていたら、それこそ他の貴族共が黙ってはいなかっただろう。だが、その栄誉を手に入れた後に父は……。
「それでようやく復権できるとなった時に、あの、父の問題行動が起こってしまったのですね。女将軍を逃がすという、疑惑の行為が」
「そう。あとは君の聞いている通りだ。彼は帝国兵に襲われて殺され、そして君の母御も……」
リュートの事を気遣ってか、国王はその口を噤む。そして、昨日見せたよりも、さらに増した親愛の眼差しで彼の碧の瞳を捕らえると、その身に優しく触れた。
「余は、未だ忘れられぬよ。君の母御、そして父御のことが。もう、けして会えぬと分かっていても、それでもいつまでも未練は断ち切れぬ」
そこで、また国王はリュートの肩を、その腕におもむろにかき抱いて、自嘲げに呟いた。
「女はどこまでも現実に生き、そして、男は哀しいかな、いつまでも見果てぬ夢に、生きる生き物なのだよ」
それは、リュートに向けた言葉なのか、それとも誰に向けている言葉なのか……。
今のリュートに、それは到底理解出来るものではなかった。だが、ただ、……触れる温もりだけは、暖かいと、そう感じることは、出来た。
「辛かったであろう? 両親を奪われて、辛かったであろう? 余が、あの姫を欲しさえしなければ、君をこんな風に迎えなくてすんだものを。本当に、すまなかった。許して、おくれ」
「……陛下」
二人の間に置かれた砂時計を越えて、再び抱きすくめられたリュートに、国王はまたも優しく語りかける。
「今まで、君の両親に償えなかった分を、君に償わせてくれ。望みがあるなら、出来うる限り叶えよう。出来る限り、汚い権力闘争などにも君を係わらせたくもない。……余は、ただ君に、幸せになって欲しいだけなのだよ」
――幸せ……?
彼らの横に置かれている、未ださらさらと砂を流し続ける砂時計。
それが、国王の言葉を反問するリュートの目に、ふと、留まった。
幸せ?
……なんだ、それ。
レミルが死んだのに、レミルがいないのに、……なんだ、それ。
……馬鹿じゃないの。
――さらさら……。
暗い感情と共に、砂が、流れ落ちる。
「陛下」
その言葉と共に、暗い内心を、完全に覆い隠すかのようにして、リュートの顔に、子猫の様な笑みが浮かんだ。そして、国王に向き直ると、彼の頬を愛おしげに撫でて、一言言う。
「ええ。では、そのうち、僕の望み、叶えて下さいましね」
――さらり。
小さく音を立てて、砂時計の砂が、落ちきっていた。
「それでは、今日のところはこれにて。失礼致します」
砂が落ちると同時に、きっかりと執務室に戻ってきた宰相に追い立てられるかのようにして、リュートは部屋を辞していた。
たった十分間の間に、国王から吐露された感情。
それは、リュートの心の内を、再び閉ざすものでしかなかった。
父と母の恋愛の話を聞かされても、殆ど、人ごと、そう、まるで劇場の恋愛悲劇のシナリオでも聞かされたような感想しか持てない。その冷たい心の動きに、リュートは一人、王宮の廊下を歩きながら自嘲の笑みを浮かべていた。
――これが、以前の僕が聞いていたなら、また、心持ちも違っていたであろうに……。
今は、もう、そんなことにはまったく興味はないのだ。今、重要なのは、この状況を打破することのみ。
自分の父と母がどうだったのであれ、国王が、今、自分に贖罪の気持ちを抱いているのであれ、どうでもよいことなのだ。
……今は――……、前に進む。
それ、のみだ。
「リュート、リュート」
そう、自らの心持ちを心得ていた彼に、後ろからその名が呼びかけられた。
リュートが後ろを向くと、そこには昨日出会った、銀髪の少年が、柱の影に隠れるようにして、ちょこんとその顔をこちらに向けて笑っていた。
「これは、これは、王子。またお会いしましたね」
ふわり、とした笑みを作って、リュートはいたずらな表情を浮かべたままの少年へと歩み寄った。
「へへへ。来てくれたんだね。嬉しいよ」
そう言いながら、王子は昨日の様に、また辺りをきょろきょろとせわしなく見渡している。その様子に、リュートは困ったように笑いながらも、その意図を当てて見せた。
「ああ、どうせまた、女官達から逃げておられるのでしょう? 今日は何ですか?」
「勉強だよ、勉強。いっつも訳わかんない勉強ばっかり、机に齧り付いてやらされてさ。厭になっちゃうよ」
「おや、王子は勉強お嫌いですか?」
リュートのその問いに、王子はこれ以上ないくらい、その口をいいーっ、と歪めて吐き捨ててみせる。
「大っ嫌いだ! なんで、いっつもあんな役に立ちもしない勉強ばっかりやらされなくちゃならないんだ? 歴史やら、それから文法、それに、経済に、あとは……なんだっけ? ああ、覚えてもいないや! やるだけ無駄だっていうのにさあ。僕はそんなのよりも城下に出て、庶民の暮らしぶりを見た方が、よっぽど勉強になると思うんだけどね。あの頭の固い近衛隊長は絶対に許してくれないのさ」
……それで、昨日の脱走劇か。
昨日王宮に着くなり遭遇した事件に、リュートはようやく納得する。
「ああ、王子。近衛隊長と言えば、僕、先ほど近衛副隊長としてお勤めすることが決まりましたので、どうぞよろしくお願いしますね。と、言ってもまあ、しばらくはあの隊長にしごかれるらしいですが」
「ええ? 本当かい? うれしいなあ、僕の従兄弟が近衛を務めてくれるなんて。ああ、そうだ、リュート」
告げられた新しい任官に、王子は心躍らせながら、その従兄弟にそっと耳打ちをしてきた。
「ねえ、そうしたらさ、今度僕をこっそりと城下に連れ出してくれないかなあ。近衛の状況が分かるなら、簡単に抜け出せるだろ?」
「ええ? 王子、それはちょっと……」
さすがにこの申し出は、リュートにも承諾しがたい。無断で王子を連れ出すなど、あの嫌味な睫毛の近衛隊長が知ったら、また、やれ宮廷風だのなんだの口うるさいに違いないからだ。
そう渋るリュートに、なおも王子はひそひそと話しかけてきた。
「もし、連れ出してくれるなら、いいこと教えてあげるんだけどな。僕だけしか知らない、秘密」
秘密、という甘美な言葉に、ぴくり、とリュートの眉が反応した。それを敏感に感じ取った王子はさらに、小声で彼に囁く。
「あの、今、宮廷で話題の占い師に関する秘密だよ。君も、噂くらいは聞いていない?」
……占い師。
それは非常に興味のある単語だった。今朝、ロクールシエン夫人から聞かされたばかりの、王妃のお気に入りの占い師。その秘密となれば聞かないわけにはいかない。
「僕は王子だからね。後宮にも出入り自由なのさ。そこで見たんだ。あの、女の秘密をね」
「……なんです?」
「連れ出してくれるって、約束するなら、教えて上げる」
そう目の前で、またいたずらっぽく笑う王子に、リュートは仕方なくも頷いてみせる。
「ええ。でもしょうもない秘密だったら、連れていきませんからね」
そのリュートの疑うような台詞に、王子は少々勝ち誇ったような笑みを浮かべて食いついてきた。
「しょうもなくもあるもんか。あの、女の素顔に関してだよ。いっつもローブで隠された、あの占い師の素顔、僕見ちゃったんだ。あの女、絶対怪しいよ。だって……」
そう言うと、王子はリュートの耳に両手を当てて、こしょこしょと、衝撃の事実を彼に教えた。
それを聞くなり、リュートの顔が、見たこともないほどの満面の笑みに変わった。そして、その目をきらきらと輝かせながら、教えてくれた王子の肩を親しげに抱いて、彼に言う。
「それはとても面白い事を聞かせてくれましたね。ええ、王子には、是非とも、素晴らしい城下へのご案内を約束致します」